平安時代、平安末期の文化

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平安末期の文化

 大江維時(おおえのこれとき)(888-963)の漢詩集「日観集(にっかんしゅう)」には、

「優れた景色や音に接して歌を読むのは中国も日本も同じであるのに、中国のものばかり尊び、日本のものをさげすむのはこれいかが?」

という主旨が書かれている。遣唐使以後の流れから院政にいたる文化は、
「摂関政治で育まれた国風文化の爛熟」
などと言われるが、これは鎖国的な意味での国風ではなく、中国文化と肩を並べるべき、大和文化といったとらえ方でもある。唐物(からもの)は遣唐使以後の貿易による輸入の方が活溌なくらい唐物ブームは続いていた。

 紫式部や清少納言の持っていた漢文的才能は、平安末期にいたっても棄てられることなく、相変わらず重んじられた。その一方で、日本的なものもまた、爛熟していったといった。すでに930年代に記された
我が国最古の辞典「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」
は、中国の辞典を模倣しながらも、我が国の文化に関する言葉を並べているのである。



 実際は庶民の文化などは古くから存在するはずであるが、それがクローズアップされ、貴族どもの視線にに武士や庶民の文化が登場するのも、少し前に見たところだが、庶民文化の高まりは、以後より大きな流れとなっていく。

 庶民を素材とした文学作品としては「今は昔」で始まることでお馴染みの、中国・インド・日本の仏教説話集である「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」(1120年代頃成立?)がある。また唄いまくりの後白河法皇が催馬楽(さいばら)・今様(いまよう)の歌詞を選集した「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」は、純粋な民衆のものはないかもしれないが、民衆的なポピュラーソングの様相をおびている。この平安末期には、田楽(でんがく)・催馬楽(さいばら)・今様(いまよう)などといった新しい音楽が誕生し、特に今様では烏帽子を付けた男装華麗の美女が、唄い踊るという白拍子(しらびょうし)が活躍していた。義経の恋人だったとされる静御前(しずかごぜん)が有名だが、これは歴史上の意義から有名なのではなく、民間伝承として有名なだけではある。



 一方で、武士の活躍と、それに合わせたかのような歴史への感心が高まるのもこの時代の特徴だ。歴史書として、摂関家や貴族の視点で書かれた「大鏡(おおかがみ)」(白河院政期成立)、女性の記したとされる「栄花(栄華・えいが)物語」、1150年代に藤原信西が編纂した「本朝世紀(ほんちょうせいき)」などがあり、また軍記物のはしりである「将門記(しょうもんき)」「陸奥話記(むつわき)」などが記された。



 絵画においては、大和絵(やまとえ)による絵巻物や写経がつくられた。ヒットソングコレクターだった後白河上皇は絵巻物コレクターでもあったらしく、平清盛が寄進した蓮華王院(三十三間堂)には、年中行事絵巻が収められ、宮廷行事と共に庶民の姿も見ることが出来る。庶民への感心は他の絵巻物でも多く見いだせる。他の有名な絵巻物としては、
伴大納言絵詞(ばんだいなごんえこととば)
信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)
鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)

などがあり、鳥獣戯画では蛙と兔がすまいを取るという姿が、漫画のように描かれている。



 写経においては、扇形の紙に大和絵の風俗画を描いて、その上に墨で写経が記された、「扇面古写経(せんめんこしゃきょう)」。平清盛を筆頭に平家一門が、1巻ずつ写経を行い、1164年に厳島神社に奉納した「平家納経(へいけのうきょう)」などがある。特に平家納経は豪華絢爛の装飾と大和絵が描かれて、芸術的価値も極めて高いものだ。



 このような文化は、頻繁な人と物資の往来に乗せて、幅広く地方に伝播し、各地に都に次ぐ文化の集積地を生みだしていくことにもなったのである。

仏教と仏教芸術

 仏教においては平安時代の国家仏教が、南都仏教に真言、天台が加わり密教が栄えたが、平安後期になると浄土教、浄土信仰が貴族、庶民共に広まっていった。

 国家的仏教体制としては、引き続き鎮護国家が重んじられた。国家儀式もますます盛んで、正月の八日から十四日まで開かれた、御斎会(ごさいえ)などは、太極殿で国家安寧と豊饒を祈祷する宮中の代表的な仏教行事として、金光明最勝王経が唱えられたのである。これは国家的法会として催されていた。奈良時代から行われた行事として、この御斎会に、薬師寺の最勝会(さいしょうえ)、興福寺の維摩会(ゆいまえ)を加えたものを、南京三会(なんきょうさんえ)と呼んだりした。

 これに対して、後三条天皇から白河院の時代にかけて、円宗寺(えんそうじ)の法華会(ほっけえ)と最勝会(さいしょうえ)、法勝寺(ほうしょうじ)の大乗会(だいじょうえ)が開かれたが、これは言わば天台宗の法会であり、北京三会(ほっきょうさんえ)と呼ばれることとなった。

 このような法会を束ねる僧が、僧綱(そうごう・僧の国家的官職制度)のトップに立ちうると考えられた。国家的仏教行事と僧綱が貴族と僧侶の関係を深めることはもちろんだが、それ以外にも個人的な信仰、密教や浄土教などを通じて仏教界と世俗の貴族社会の結びつきが、さらに強くなっていくのがこの時代の特徴だ。もちろん天皇が譲位ののち出家をしてかつ院政を敷いて国家のトップに立つということが、法皇を宗教界のトップたらしめると同時に、僧侶も貴族も院を中心としてもつれ合うといった構図が、この流れに拍車をかけたのである。

 この時期有力寺院などでも国家からの経済保証が途絶え、そのため自らの荘園を整備獲得を目ざし、地方寺院を配下に置き、僧兵(そうへい)を組織して、独立的な勢力を築いていったのであるが、次第に事と次第によっては国司とも争い、強訴(ごうそ)といって神木や御輿を掲げて朝廷に楯突いて、自らの要求を押し通すことも行われるようになった。このような宗教的武力集団の側面は、南都の特に興福寺(こうふくじ)と、比叡山延暦寺がもっとも恐れられた勢力であるが、これらを南都北嶺(なんとほくれい)と呼ぶこともある。



 さて、密教や浄土信仰は、貴族らにとって現世、来世への期待、希望であり、個人的仏教の様相を呈してきたが、貴族達はまた自らが率先して浄土教美術を作らせていったことは、前に見た通りである。12世紀になると、この浄土信仰が地方にも広まり、各地方で阿弥陀堂が作られるようにもなっていった。

 例えば、大分県の富貴寺(ふきでら)大堂は、近畿地方以外では数少ない平安時代の木造建築として知られ、今日では国宝にも指定されている阿弥陀如来像がすっぽりと収められている。その壁には極楽浄土の姿を見ることが出来るだろう。また奥州藤原氏三代の結晶と讃えられる、岩手県平泉の中尊寺(ちゅうそんじ)金色堂や、福島県の白水阿弥陀堂、鳥取県の三仏寺投入堂(さんぶつじなげいれどう)などが地方の阿弥陀堂の代表的存在である。

2010/6/9

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