平安時代、平家政権と後白河法皇

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平氏の進出

 さて院政の成立と前後して勢力を拡大してきたのは、もとを伊勢・加賀に地盤を置く桓武平氏だった。特に平正盛(たいらのまさもり)(?-1112?)の時に白河院に伊賀などを寄進し、検非違使・追捕使として活躍。その子、平忠盛(たいらのただもり)は1127年に従四位下をいただき、のちに鳥羽上皇に活躍が認められて殿上に上ることを許され殿上人となった。これは兵の出身では異例のことである。

 諸国の受領も歴任し、経済的才能にも恵まれていた彼は、日宋貿易で巨額の富を貯えて、平氏の基盤を確かなものとした。さらに、文芸にも秀で、歌人として『平忠盛集』が残されているから、大した才人だったようだ。そして彼の息子が、平清盛(たいらのきよもり)(1118-1181)である。彼もまた若くして異例の立身出世を遂げていった。そのため白河天皇の実の子ではないかという説まであるくらいだが、平氏の権力は、続く保元・平治の乱の勝利によって、絶対的なものになっていくのである。



 これに対して元々の氏は平氏よりも名高い源氏(げんじ)であるが、河内源氏の源為義の息子である源義朝(みなもとのよしとも)(1123-1160)がまだ幼いうちに東国に渡り、結果、東国での勢力を拡大することになった。後に都へ昇って鳥羽院に近付き、1153年には下野守となっている。彼こそ、源頼朝や源義経の父上である。

後白河天皇

 鳥羽上皇と中宮藤原璋子の子として生まれたが、皇位継承の立場から遠かった雅仁親王(まさひとしんのう)。「遊び人マサ」として今様(いまよう)(民謡的はやり歌)に熱を上げ、「愚管抄」にその遊び人っぷりが書かれるだけでなく、自らも「今様の稽古を怠けることは決してないのだ」と宣言しているほどの遊び人だ。そんなわけで鳥羽上皇も「あいつは即位の対象には入らない」とみなしていたのだが、その頃、後の火種は別のところで燻り始めていた。

 すなわち、鳥羽上皇は自らの寵愛する藤原得子(ふじわらのなりこ)(1117-1160)との間に生まれた子を天皇にすべく、崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位を迫って、わずか2歳の息子を近衛天皇(このえてんのう)として即位させたからである。しかもこの近衛天皇は、崇徳天皇の中宮である藤原聖子(ふじわらのきよこ)の養子となっていたはずなのに、崇徳天皇の皇太子との肩書きを与えず、皇太弟という肩書きを与えた。つまーり、どういうことかというと、近衛天皇が即位した後も、崇徳天皇は親として後見人にはなれないのである。より露骨に言うと、鳥羽上皇が引き続き院政を行うという宣言である。崇徳天皇は、内心憎しみのほのうを燃え上がらせたかもしれないが、しかし鳥羽上皇はそんなことには構っちゃいられない。さっそく天皇の母親となった藤原得子に、美福門院(びふくもんいん)の院号をくだされた。



「そんなこと関係ねえぜ」
やはり遊びまくりのマサであったが、マサには守仁親王(もりひとしんのう)という息子があって、さらにこの息子が、例の鳥羽上皇寵愛の藤原得子(美福門院)の養子となっていたのである。そのため1155年、近衛天皇がわずか17歳で崩御されると、守仁親王が即位するまでの繋ぎとして、なんと遊び人に天皇の位が回ってきたのであった。こうして1155年、

「いいぜゴーゴー(1155)、後白河天皇」
(1127-在位1155-1158-1192、
1158からは後白河院として院政)

が誕生した。鳥羽上皇のもとで学問に秀で仕えていた信西(しんぜい)(1106-1160)(出家前は藤原通憲・みちのり)が、彼をサポートする。なぜなら、信西の出家前の妻は、なんと遊び人マサ、つまり後白河天皇の乳母を務めていたからである。この信西、大した学者であり、「日本三代実録」に続く歴史書である「本朝世紀(ほんちょうせいき)」を鳥羽上皇の命で編纂したが、これは後に大部分が散佚してしまった。

保元の乱(ほげんのらん)

 翌年1156年、強引に事を進めた鳥羽上皇がお亡くなりになってしまうと、途端に事件が起きた。これは一説では死を悟った鳥羽上皇が露骨に崇徳上皇(上皇が二人いるが崇徳さんは名目的な存在)を退け、崇徳を政治の中心から引き離そうとする動きが、崇徳上皇の危機感を煽ったため、反動を引き起こしたともされている。

 結果として、鳥羽上皇の死後、後白河天皇と崇徳上皇の対立が、藤原摂関家内の対立が絡み、また天皇や上皇が京の警備などで雇い入れた「つわものども」との私的な関係を武力基板として、摂関家内部、武家内部の争いをも巻き込んだ、都の内乱へと発展したのである。つまり皇室、藤原氏、源氏、平家が、それぞれに分裂して争ったということになる。

 もっとも後白河天皇に付いた者の方がずっと多かった。源義朝(みなもとのよしとも)(1123-1160)、源頼政(みなもとのよりまさ)(1104-1180)、平清盛(1118-1181)なども、みな後白河天皇に付いて闘った。これによって崇徳上皇は破れて讃岐に流され、後白河天皇の側近である信西が、薬子の変以来346年ぶりに復活させたという死刑によって、多くの者が処断されたのである。(この復活とは貴族の死刑をのみ示すのだろうか?)かつての一門の者が同門の者を処罰するような例もあり、源義朝の父である源為義を義朝が処罰するような例もあったので、京での動乱と合わせて、慈円(じえん)「愚管抄(ぐかんしょう)」のなかで

「この乱以来、身も心も武士の世になってしまったのであります。」(ちょっと違うか)

と叫んでしまったほどである。この争乱のことを1156年「保元の乱(ほげんのらん)」という。この年号を、

「言い殺(ごろ)せ方言の乱」

とだけは間違っても暗記しないように注意したいものである。

……これは武士が政治に直接関係するきっかけともなった。勝利した後白河天皇は政治を信西に任せ、保元新制を発し、記録荘園券契所を再興して荘園整理に着手、大寺社の統制を強め、また内裏再建などを行った。その際、武士の中では源義朝(みなもとのよしとも)、平清盛(たいらのきよもり)が朝廷内に重要な地位を獲得し、源氏平氏の中央政界での台頭を招くことにもなったのである。特に後白河天皇は平清盛を重用。信西は平清盛を後ろ盾として院政の強化を図っていった。

平治の乱(へいじのらん)

 さて1158年、後白河天皇は守仁親王に譲位して、二条天皇(にじょうてんのう)(1143-在位1158-1165)が誕生。後白河は上皇として政治を行うこととなった。しかし院政の重臣である藤原信頼(のぶより)と藤原通憲(みちのり)の対立が起き、さらに天皇派と上皇派の対立、これに関連して信西に反発する動きも強まる。このような流れのなかで、ついに信頼と源義朝が結び挙兵し、1159年に平治の乱(へいじのらん)が勃発した。もちろんこれを、

「いい号泣、銭形平次の乱」

とは間違っても覚えては……ゴン……あ痛。

 藤原信頼と源義朝は、平清盛に対抗するため、清盛が京を離れた隙に信西を自害に追い込み、後白河上皇と二条天皇を幽閉し政権を握ろうとした。しかし清盛が身を翻して京へと立ち戻ると、天皇と上皇は幽閉場所を逃れ、二条天皇は清盛の館へと入ってしまった。あらぬべき失態。形勢逆転し、官軍的立場となった平清盛軍は大勝利を収めたのであった。藤原信頼は処刑され、源義朝は敗戦して逃れる途中を、配下の裏切りで命を絶った。息子の源頼朝も発見され、処罰されるところを、清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)の懇願で伊豆に流罪となったという。

 これによって、後白河上皇を支える信西といった重要な家臣が亡くなったが、二条天皇派もダメージを受け、結果として曖昧な小康状態が保たれることとなった。その小康状態は、中立的立場を貫いた平清盛と、平家一門の武力によって保たれていたと言える。清盛は1860年には参議(さんぎ)となり、武士で始めて公卿(くぎょう)に加わり、さらに一門の者を政界に進出させ、各地の知行国を一門で抱え込み、圧倒的な権力と経済力を有するようになっていったのである。平家は六波羅(ろくはら)(鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名)に拠点を置いていたので、後には六波羅というだけで平家を表現できるほどだった。これをもって六波羅政権とか平家政権と名称することがあるが、清盛が地位の確立を乗り越えて、政権を動かすことが出来るようになるのはもう少し先のことである。



 さて、美福門院が1160年に亡くなるが、かえって二条天皇の勢力が増し、天皇すげ替えの陰謀者として院政派の臣下が解雇された。清盛の異母弟である平教盛(たいらののりもり)(1128-1185)なども二条天皇から解任された口である。こうして後白河上皇の勢力は大きく後退し、院政は事実上停止に追い込まれた。仏教にのめり込んだ後白河上皇は、1164年には千体もの観音様を奉るという途方もない寺、蓮華王院(れんげおういん)の造営を開始。これは平清盛が造営資本を捻出した寺院である。政治状況が変わるのは1165年、二条天皇が息子の六条天皇(ろくじょうてんのう)(1164-在位1165-11681176)に譲位して、その直後に亡くなったためである。六条天皇の生まれ年を見れば分かるが、生後まだ1年未満で天皇となり、実権などありようはずがなかった。さらに母親方のバックボーンが幾分乏しかったから、後白河の巻き返しが始まったのである。



 ここで後白河上皇は摂関家と平清盛を味方につけることによって、勢力の回復を計った。自分の息子である憲仁(のりひと)(後の高倉天皇)を次期皇太子とし、この時の平清盛の功績に対して、彼に内大臣の位を、さらに1167年には太政大臣の位を与えているが、これは破格の待遇であった。自らの権勢を永続させるためか、平清盛はすぐにこれを辞任し、政界からの引退を決意。表舞台で平氏を率いるのは長男の平重盛(たいらのしげもり)(1138-1179)(小松内大臣or灯篭大臣とも)となった。これによって権力基盤を確立した平清盛と平家一門(これは清盛門下平家という意味で、日本すべての平家一族という意味ではない)は、京都の六波羅を拠点に政治を行い、このため六波羅政権などと呼ばれることもある。

 そんななか「寸白(すびゃく)」という寄生虫の病に倒れた清盛を、後白河上皇自ら見舞うなどという、政治的な駆け引きに満ちたパフォーマンスもあったという。一方で後白河はわずか三歳の六条天皇を譲位に追い込み、憲仁親王を高倉天皇(たかくらてんのう)(1161-在位1168-1180-1181)とした。やはり実権のありようのない若さであったうえ、自らの息子であったから、大いに嬉しかったに違いない。

 1169年、出家して法皇となった後白河だが、平清盛もこれにあわせて出家。腹黒どうし仲睦まじき蜜月っぷりをアピールしたのだろうか。平家の進める日宋貿易も、後白河法皇の協力があった上でのことだった。この時期清盛は、今日神戸のある福原(ふくはら)の地の整備を進め、大輪田泊(おおわだのとまり)という港を大いに発展させている最中だったのだが、これにより平家は全国の知行国と荘園の多くを掌握し、大輪田泊、広島県にある音戸瀬戸(おんどのせと)などを築き、中国は宋との貿易(日宋貿易)を独占し、莫大な富を築いたのである。

 土地に根ざす後の源氏鎌倉幕府に対して、商業・貿易による国家建設を目差した平家政権(六波羅政権)といえるかもしれない。彼に従う地方の豪族達も、もっぱら西日本に基盤を置いていた。後の1180年、清盛は福原に都を移し大失敗して、京に都を戻しているが、これもやはり海洋貿易の中心たろうとした意志と考えられる。またこの政権は鎌倉の政権に先立つ、初めての武家政権でもあった。



 そしてついに清盛は、自分の娘であった徳子(とくこ)(後に建礼門院)を憲仁親王(後の高倉天皇)のもとへ入内させることに成功した。清盛一門は、
「平氏にあらざれば人にあらず」(by平時忠)
と自らを讃えるほどの勢力を拡大したのである。それはあるいは束の間の夏の盛りには過ぎなかったのかも知れない。

2010/6/9

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