さて桓武天皇は長らく右大臣を置かず、自らが中心となって政治を行ったが、彼の治世は延暦の治(えんりゃくのち)と呼ばれる。792年の健児(こんでい)の制は前に見たが、遷都のなった794年には、国史の編纂を命じた。これは3年後に「続日本紀」(しょくにほんぎ)として成立。また律令規定に含まれない官職である令外官(りょうげのかん)として、795年には、後に地方の軍事指揮官的役職ともなる押領使(おうりょうし)の名称が登場し、また797年頃には勘解由使(かげゆし)が設置された。これは、国司の交代に際して前任の提出した解由状(けゆじょう)を調査し、不正や紛争を抑えるものである。令外官といえば、もちろん今まで様々な名称で出されていた蝦夷討伐のための将軍名も令外官に含まれるが、794年に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)に与えた征夷大将軍という名称も同様である。
次に班田収授の変化について見てみよう。莫大な資金と労働力を要する遷都や、大規模な蝦夷討伐に明け暮れる桓武天皇自身の責任でもあるが、この時期、民の逃亡や戸籍の偽り、税収入の悪化などが問題になっていた。実際は、班田収授の戸籍登録から逃れる農民や、一方で墾田永年私財法以後の初期荘園拡大と口分田の不足など、班田収授法の形骸化が、彼の就任以前から進行していたのである。寺院や貴族層、さらに裕福となった一部の百姓が、労働力確保のために労働者の獲得に奔走すると、賃金労働者的な低所得の(お金ではないが)百姓たちが雇われ、同時に班田収授のシステムから逃れようとする傾向は、班田収授の開始時期から見られるのだが、これに一層の拍車が掛かった。
テコ入れのためか、負担軽減のためか、桓武天皇は801年、6年ごとの班田収授を12年に延ばしている。一方農民の負担を軽くするために公出挙(くすいこ)の利息を5割りから3割に、雑徭(ぞうよう)の期間を年間60日から30日に減らすなどの対策を取った。もちろん、健児(こんでい)の制も人民の負担を減らそうとしたものであった。
さて平安京に移ってからも桓武天皇のまわりは怨霊に満ちていた。797年にも怨霊騒ぎが勃発し、早良親王のための御霊を鎮める儀式が行われたが、このような怨霊鎮魂を祈願する行事は、後に863年には御霊会(ごりょうえ)という名称を歴史書に登場させることになった。もともと御霊信仰とは、無念の死を迎えたものたちの霊が、災害や祟りや疫病となって、生ける人々に降り注ぐので、これに祈りを捧げてなだめようという信仰であり、この時期貴族にも民衆に広く知られた信仰であった。この信仰の中から御霊を沈めるための京型の祭りが登場してくることにもなったのだが、御霊をながめ祭るための行事が、神泉苑(しんせんえん)で朝廷によって開催されたのである。京都で有名な祇園祭も、もともとは祇園御霊会と呼ばれ、御霊会のお祭りだったのである。
話しが先に進みすぎた。797年に儀式を行ったにも関わらず、800年3月には富士山が大噴火を起こし(800-802年の延暦噴火)、ついには亡き早良親王を崇道天皇(すどうてんのう)と称し、亡き井上内親王(いのえないしんのう)を皇后と称すべしとの詔が出されるほど、怨霊を鎮めることが重大に捉えられていたのである。ちなみにこの富士山、御霊会の記録の残る翌年864年にもあざ笑うように噴火を起こし、これは貞観噴火と呼ばれている。
804年に出航した遣唐使には政治上重要な橘逸勢(たちばなのはやなり)(792?-842)と共に、平安仏教上重要な二人が乗り込んでいた。すでに国家公認のエリート僧であった最澄(さいちょう)(767-822)と、一介の私度僧に過ぎず、なぜ選抜されたか不明瞭な空海(くうかい)(774-835)である。空海の船は流された先で海賊と間違われるなどいろいろあったが、二人共に入唐を果たした。最澄は天台山に登り天台教を学び、また天台密教の継承者として知られていた順暁(じゅんぎょう)という僧侶の弟子となり、短期留学生のため翌年の帰国の船に乗船して帰国。806年には南都六宗に準じる宗派としての、天台宗が誕生することになった。比叡山に延暦寺(えんりゃくじ)を開くことになる。
・ただし、この時の遣唐使を
「遣唐使。歯をよ(804)く磨け、最澄、空海。」
と暗記する人はあまり居ない。
またこの時の僧侶としては、霊仙(りょうせん)という人も遣唐使に加わっていて、もし日本へ帰国していたら、最澄、空海と並ぶ、あるいはそれを越えるべき偉大な人物となっていたかも知れないが、彼は811年には三蔵法師(三蔵を収めた僧侶に与えられる称号で、日本人では後にも先にも彼ただひとり)を授けられ、仏教の秘伝などを授けられ、その代わりに、その知識の日本への流出を恐れられ、帰国を許されなかったのである。
この最澄は、近江国(おうみのくに)、今の滋賀県大津氏付近に渡来系の家系に生まれ、近江国分寺において僧侶への道を歩み、15歳で得度し、20歳で授戒。その年、比叡山に修行に出かけている。おりしも天台教学(てんだいきょうがく)が日本に紹介され、桓武天皇などもこれに注目し始めた頃、最澄もやはり天台教学を知ったのだが、彼の高い能力が認められて、桓武天皇から直々に唐より天台教学を学び来るように命じられたのである。そのため後に怨霊に悩む桓武天皇が、南都諸宗派と同様、毎年ごとの得度者(とくどしゃ)を認めることとして、国家公認の宗派となった。
帰国後、最澄は空海の学んだ密教(恵果という唐の高僧より伝えられた)の重要性を知ると、彼の持ち帰った密教を学ぶため、密教については弟子の礼を取って教えを請うた。しかしある時、教典の借用を申し出た最澄に対して、空海が、
「真の密教は修行に置いて体得するものなり」
と言ってお断りすると、これ以降立場を分かつことになった。恐らく他にも理由があったのだろう。最澄の最愛の弟子の泰範(たいはん)が、空海の弟子になってしまったことが引き金になって、最澄が「帰ってこいよ」(とは書いてないが)と手紙を送れば、新しい師匠である空海が、
「天台宗は仮の教え、真言宗は真の教えなり」
みたような事を最澄に書き送り、二者断絶が確定したらしい。
その後最澄は、817年より東国への布教を開始。天台宗と関係の深かった下野国大慈寺(だいじじ)(栃木県下都賀郡岩舟町)などを拠点に活動していると、やはり東国布教を進める法相宗(ほうそうしゅう)の得一(とくいつ)という僧侶と、成仏論争が勃発した。(・・・何のこっちゃ。)
すなわち、法相宗が衆生(しゅじょう・すべての命)が成仏できるので無いと説き、天台宗はすべての衆生が成仏できるとして、三一権実論争(さんいつごんじつろんそう)と呼ばれる激論が交わされたのである。その後最澄は、京に戻ると今度は南都六宗の僧侶と対立。国家の僧侶(官度僧)となるための受戒を、下野薬師寺(東国)、東大寺(畿内)、観世音寺(西国)のみとするのは、それを管理する南都仏教の影響の下に天台宗を置くことになるので、「全然いけてない!」とお考えになり、またしても論戦を繰り広げたのである。この中で生まれた批判が今日「顕戒論(けいかいろん)」として残されている。彼はこの論戦で消耗したか、822年に亡くなってしまった。しかし彼の目差した「東大寺戒壇ではない大乗戒壇の設置」は、彼の死後認められ、天台宗は以後重要な国家的宗教となっていく。後に弟子の円仁(えんにん)・円珍(えんちん)らが密教を取り込んだため、天台宗は後になって天台密教(台密)と呼ばれもした。
一方空海は、その俗名を佐伯真魚(さえきのまお)といい、まるで魚屋さんみたいな?名前だったが、郡司の子弟として生まれ、大学に入学するも、学校での儒教の教えが「学問のための学問」のようになってしまっているのに幻滅を感じていた。そんなある時、ある高僧から仏教の教えを聞かされ、793年頃、仏教を体得するために私度僧となり山林で厳しい修行を開始したのである。
彼の修行は、「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」というもので、虚空蔵菩薩を崇めつつ真言をひたすらに百万回唱えるというものであった。すなわち四国巡りの修行(現在の四国巡礼も空海に由来する)を開始したのであるが、ある時、室戸岬の岩屋で真言を唱えまくっていると、明星が口に飛び込んできて「はっ」思った途端に開眼(かいげん・かいがん)、目の前にはただ空と海のみだったので、「空海」と名乗ったといわれている。797年には24歳で「三教指帰(さんごうしき)」(正しくは後に改変してこの名称になる)を著述した。これは儒教・道教・仏教のうち仏教が最高であることを、5人の対話によって論理的に比較した対話編であり、あるいはこうした著述が認められて入唐を果たしたのかも知れないが、詳細は分からない。
唐へ渡った彼は、まず長安の西明寺(さいみょうじ)で梵語(サンスクリット語)などを学び、長安の青龍寺で恵果阿舎利(けいかあじゃり)という僧に教えを請うた。彼は、インドから漢訳した僧侶によって大日経系(だいにちきょうけい)と金剛頂経系(こんごうちょうきょうけい)のあった中国密教の両方をマスターしていた人物で、空海を見ると「我が密教を継ぐべき人物を得たり」と歓んで、わずか3ヶ月の間に、真言密教の奥義を空海に伝授したという。直後に恵果はお亡くなり、空海は806年に弟子の代表として碑文を作成している。多くの弟子のうち全てを伝授されたのは空海と義円(ぎえん)という仏僧だけだったが、義円が若くして亡くなったので、インドからの直伝ルートの密教は中国では途絶え、日本に到ることになったそうだ。仏に縁のない私には皆目見当も付かんことである。
こうして僅か3年ほどで密教のすべてを学んだ空海は、本来時期遣唐使節を待つ長期留学生だったはずだのに、
「虚しく往きて実ちて帰る」
と叫んで、ちょうど遣唐使船の帰国に合わせて、早くも806年のうちに帰国してしまった。これは規律違反である。そのためかどうだか知らないが、大宰府に数年留まっている。そして一説によると最澄のおかげで、あるいは体得し持ち帰った仏教の知識と教典が認められて、平安京内の寺院に入ることが叶ったらしい。
平安京入りを許され、例の和気清麻呂の私寺であった今日の神護寺(じんごじ)に入ったが、修禅の場所として716年、高野山での開山(寺院の創始)を認められ、真言宗(しんごんしゅう)を開き、これが金剛峯寺(こんごうぶじ)となる。ただし空海は823年には真言宗ために東寺(後に教王護国寺とも)を賜っており、ここが都での活動の中心地となった。(これは、もともとは桓武天皇が鎮護のために建設した寺だった。)東寺を拠点にしたことから真言宗は後になって東密と呼ばれ、天台密教(台密)と区別されることがあった。
830年頃には人間の境地を10段階に表し、その最高の境地に真言密教を置いた「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」(正しくは秘密曼荼羅十住心論)を著述している。9番目は華厳宗で、最澄ごときの天台宗は8番目で十分(とは書いてない)、そして秘密荘厳心とされる10番目こそ真言密教なのだそうだ。釈迦が聞いたら、失神しそうな話しではある。そんなしょうもないもののために、彼はニルヴァーナ(涅槃)の境地に達したはずでは無かったからである。ちなみに東寺の講堂では、空海が曼荼羅を実体化した仏像配置、「立体曼荼羅」を拝見することが出来る。(これに対して四次元曼荼羅を三次元空間に具現化した僧はまだ居ない。)
一方で空海は、821年に巨大な農業用ため池の整備に関わるなど、行基に遡る民衆のための仏教活動も行っている。828年には「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」という貴族でなくても学べる仏教・儒教などの学校を開いた。残念ながら学校の寿命は短かったが、現在の種智院大学(しゅちいんだいがく)は真言宗系の大学として、その名称と精神を空海から受け継いでいるという。834年には朝廷内に宮中真言院(きゅうちゅうしんごんいん)の設立まで認められ、翌年亡くなっている。
なお彼は、死後1世紀経ってから「弘法大師(こうぼうだいし)」の称号を与えられたように、非常に書に秀でていた。そのため、嵯峨天皇・橘逸勢と合わせて平安の三筆と賛えられるほどだが、実は最澄も大した書家であったのに、この差別化はどこから生まれたものか、書芸に秀でない私にはよく分からない。
(リサーチ不十分につき、間違い警報発令中。)
キリスト教もそうだが、釈迦も当人は教義を成文化して定めることはしていない。人々に教え諭すために生きたからである。教えを受けた人々は生前の釈迦の言葉を集め話し合い、次第に教義が形成されることとなった。これが後に言う仏教である。しかし、人々はすでに火葬された釈迦の遺骨の受け取りでさえも争いを起こし、仏舎利(釈迦の骨)は八分されたという。ましてや教えをや。釈迦の死後100年あまり経った頃、根本分裂(こんぽんぶんれつ)と呼ばれる決定的な宗派分裂を起こした。教えを厳格に守ろうとする上座部と、現実に即して変革すべきとする大衆部の二つにである。その後、枝末分裂(しまつぶんれつ)と呼ばれる分裂を経て、部派仏教の時代に到る。これは20あまりの部派に分かれ、釈迦の教えとは何であるか、その教理を極めようと、それぞれが解釈を展開していった。
これに対して、僧として探求を極めし者の悟りではなく、もっと多くの人に悟りをという運動が、紀元前後頃に起こり始める。一種の宗教改革運動であるが、改革者達は「大乗 (マハーヤーナ)」をスローガンに掲げて立ち上がった。これはより多くの人を涅槃へと、魂の救済へと誘うための入れ物、あるいは乗り物のようなものである。彼らがそれまでの部派仏教者達を、
「お前達のは、小さな器に過ぎない」
といって非難したために、部派仏教は「小乗仏教」と罵られた。そのため、前に上げた上座部仏教が後に東南アジアなどへ広まっていくが、その上座部仏教のことも、(しごく当然ではあるが)大乗仏教側から見て、「小乗仏教」と呼ばれ続けたのである。だから最近では「上座仏教、テーラワーダ仏教」などと呼ぶことになっているようだ。
大乗仏教は、150年から250年頃に活躍したとされるナーガールジュナ(龍樹・りゅうじゅ)が現れることによって、大きく理論的に大成され、3世紀頃からユーラシア大陸の各地へ伝播していった。ところが、大乗仏教自体が、時期、また広まった先での文化混淆により、様々な宗派(と呼べるべきもの)が生まれてくることになる。
このようなインドでの仏教運動の変化に由来する。大乗仏教をもう一度定義してみよう。釈迦の語ったこととされる弟子の記した教典を元に、僧達が修行や教典研究を極め悟りの境地に到るという上座部(もふくめた)仏教(小乗仏教)。これは釈迦の煩悩からの解脱過程を、自らも辿ることにより、もっぱら自らの解脱をはかるものだった。当然対象の中心を出家者に置き、教典探求などに埋没する傾向が高まった。もちろん自らの悟りを求めるものに宗教的解決を与えるという方針は、根元において正統ではある。
正統ではあるが、もはや一般人の救済としての宗教が、要求される世の中になったということかもしれない。出家者でない仏教信者を巻き込んだ、ある種の宗教改革運動が起こり、釈迦が行った生きるものすべて(一切衆生・いっさいしゅじょう)の苦しみを救おうとする難行(つまり会得しようとする修行)を元にして、
「他者の救済を願い、かつ実践する利他行(たりぎょう)によって、成仏(じょうぶつ・仏に到る)することが可能なのだ」
という考えが生まれた。この考えに基づく仏教を大乗仏教という。物語性のある分かり易い教典なども生み出され、しだいに大乗仏教の教義が定まっていった。インドの大乗仏教は7世紀に入ると密教化の波に呑まれてしまうが、そうなる前に、多くの教典が生み出された。そして上座部仏教が東南アジアなど南方に広まったのに対して、これらの大乗仏教は中国から朝鮮、日本に伝播したのである。従って中国や日本での宗派教典の違いは、このインドの教典の違いに由来する。
インドでは4世紀にグプタ朝がヒンドゥー教を国教とし、また仏教を信奉した商人層の没落などがあり、次第に仏教がヒンドゥー教の呪術的神秘的傾向を取り込む現象が起き始めた。これは7世紀に顕著になり、曼荼羅や仏の階層化・体系化をはかり、独自の宇宙観体系に近い仏神体系を作り上げた密教(みっきょう)が誕生した。これに対して釈迦の教えを教典から学ぼうとする仏教を顕教(けんきょう)と呼ぶ。その教義は神秘主義団体が行うように、身内的な弟子師匠関係で伝達され、修行の結果として、輪廻転生などによらず、我が現在の肉体において、仏となることが出来る(即身成仏)と考えられた。このような考えが、現世の御利益に繋がるところから、平安貴族達が大いに引きつけられたのだと考えられる。
これが仏教の最新トレンドとして、中国に渡り「大日教(だいにちきょう)」などの教典を生みだし、ついで日本に伝わってきたのが、ちょうど最澄や空海の時代だったというわけだ。密教では、宇宙そのものとされる大日如来(だいにちにょらい)。彼の言葉から引き継がれた言葉を真言(しんごん)(マントラ)と言い、雑念を払うための呪文を陀羅尼(だらに)(ダラーニー)と呼ぶ。
2008/12/22