さて、804年の遣唐使の少し前のことである。794年に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が征夷大将軍に、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷副使となって蝦夷討伐が行われたことは前に見た。これを平安遷都と合わせて語呂合わせるならば、
「鳴くよ(794)うぐいす平安京。
大伴弟麻呂と坂上田村麻呂に攻められて
蝦夷も泣くよ(794)。」
とでも覚えたくなるところであるが、煎じ詰めると、
「泣くよ(794)蝦夷も平安京」
に落ち入ってしまうのであった。
・・・。この時の遠征は、紀古佐美(きのこさみ)が切ない大敗を喫した788年の征討を第1次として、第二次征討(791-794)と呼ぶこともある。そしてこの第二次でおそらく実戦的功績多大であった坂上田村麻呂が、797年に桓武天皇より征夷大将軍に任命され、第三次征討(797-801)の戦いが繰り広げられた。そして9世紀を告げる801年、蝦夷に決定的な勝利を収めたのである。翌年802年、かつて蝦夷の拠点として攻め倦(あぐ)んだ胆沢の地に、新しい城柵(じょうさく)である胆沢城(いさわじょう)が建設された。翌年803年にはさらに北方に志波城(しわじょう)を建設し、これを北方最前の拠点にしようとしたらしいが、水害がひどく811年徳丹城(とくたんじょう)が建設され、志波城は破棄された。そんなわけで国府のある多賀城に置かれていた鎮守府(ちんじゅふ)は、胆沢城に移され、ここが北方最前線の拠点となったのである。
その間802年には、反乱する蝦夷軍を指揮していた(首長の一人といった所か?)アテルイ(阿弖流爲)とモレ(母礼)が胆沢城に投降している。かつて紀古佐美を「慰めの言葉も無いほどに」叩きのめしたあのアテルイである。おそらく第二次征討、第三次征討の際にも重要な役割を果たしたであろう敵方に対して、坂上田村麻呂は朝廷への助命を嘆願した。しかしこの願いは叶えられず、二人は「超いけてない」危険人物として、都へ護送されきっぱりと処刑されてしまったのである。アテルイと坂上田村麻呂の間に、カエサルとウェルキンゲトリクスのような宿命のライバル関係があったかどうだか、歴史書は記していない。(一方カエサルは自分でガリア戦記を書き残している。民族的性格の差もあるが、記録に対する意識の違いとして考えてみるのも面白いかも知れない。)その代わり坂上田村麻呂は軍神として、東北地方を中心に数多くの伝承、伝説を生むことになり、これが征夷大将軍という役職に箔を付けることにもなった。彼は死後、都を護るべく、甲冑を身に着け東方蝦夷の方角を向いて立ったまま埋葬されたと言われている。
遣唐使の派遣された804年、再び征夷大将軍となった田村麻呂は再度の遠征に備えたが、805年有名な徳政論争(とくせいろんそう)によって蝦夷討伐の中止が決定され、都にあって参議(さんぎ)となった田村麻呂は、805年のうちに清水寺の地に寺院建設のための土地を賜っている。この地は以前から寺院らしきものがあったようで、関係の深かった田村麻呂の寺院として、嵯峨天皇によって810年に清水寺が公認された。
805年、桓武天皇は病に苦しみ、唐から戻った最澄が祈祷を行う一幕もあった。冬になると桓武は参議であった
藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)(774-843)
(藤原百川の息子)と
菅野真道(すがののまみち)(741-814)
(「続日本紀(しょくにほんぎ)」の編者の一人)
を呼び出し、国勢運営について討論させたのである。桓武天皇の行う蝦夷討伐と都造営を良しとする菅野真道に対して、藤原緒嗣が恐らく人々が心に抱いていることをすっぱり言ってのけた。
「今天下の苦しむ所は、軍事と平安造作です。
この両事を停めれば百姓安らかなり!」
桓武天皇は続く討論の結果を待って、最終的に藤原緒嗣の言葉を採用した。これを徳政論争(とくせいろんそう)というのだが、これによって大規模な蝦夷征討が停止され、平安造営のための役所の縮小、停止がなされた。「日本後紀」ではこの逸話の次に、有識者の中で感嘆しないものはなかったとしみじみ記している。この「日本後記」は「続日本紀」の後に来る六国史(りっこくし)の三番目であり、この論争の当事者、藤原緒嗣が中心になって編集したものであるから、このように記すのは、まあ当然ではあった。しかしこの歴史書は桓武天皇の功績を、
「宸極(しんきょく)に登りしより、
心を政治に励まし、
内は興作(こうさく)を事とし、
外は夷狄(いてき)を攘(はら)う。
当年の費(ついえ)たりといえども、
後世の頼みなり。」
「天皇になって政治にのめり込んで、平安京作りに蝦夷討伐に奔走して、随分な人手と費用がかさんで大変だったが、まあなんだ、後世の頼みとなったのさ。」(翻訳じゃない、イメージです、イメージ。)
と評価している。この徳政論争の翌年、806年に桓武天皇は崩御されたとき、すでに70歳を向かえていた。亡くなる前には、かつての種継暗殺事件の関係者を許し、元の位に戻すなどの処置をとり、これによって故大伴家持が従三位に復されたたりもしている。続けて桓武天皇と皇后、藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の長男である平城天皇(へいぜいてんのう、へいじょうてんのう)(774-在位806-809-824)が即位した。
良くも悪くも強権を誇った、日本のカール大帝(742-814)とも賛えられる?桓武天皇が亡くなると、平城天皇(へいぜいてんのう)(774-824)の時代となった。彼は早良親王(さわらしんのう)が死して怨霊となった785年に、わずか11歳で安殿親王(あてしんのう)となっていたが、桓武天皇が70歳まで長寿を全うしたために、30歳を過ぎての即位となった。
桓武天皇の生前は、快気(かいき)見舞いに参内(さんだい・内裏に参上すること)しなかったり、藤原縄主(ふじわらのただぬし)の妻、藤原薬子(ふじわらのくすこ)との愛に溺れまくって、桓武天皇が薬子の女官の職を解いたりと、父親との間はしっくりいっていなかったようである。この薬子というのは、何も薬剤師の娘ではない。藤原式家の藤原種継の娘であり、結婚後、夫との間に出来た娘が、桓武天皇の妻の一人となったため、母である薬子も女官として東宮(とうぐう)、つまり皇太子のもとで働くようになっていたのである。それが安殿親王と知り合った途端に、愛の炎が燃え上がった・・・かどうだか知らないが、桓武天皇が亡くなった今、その薬子が宮廷に呼び戻され、後の火種となったのである。
ともかく平城天皇が即位すると、さっそく次の皇太子が定められた。天皇の同母の弟、つまり桓武天皇と藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の息子である神野(786-842)が神野親王(かみのしんのう)となった。後の嵯峨天皇である。即位当初の平城天皇は、官僚制や年中行事を改めるなど、精力的に政治を行っていたようだ。桓武天皇が亡くなって一周忌を向かえた頃、公卿たちが「長年の仕来りに従って都を移しましょうか」と提案した時などは、桓武天皇が「遷都をしてはならない」と勅令を出していたこともあり、「桓武天皇の時点で長期の都が目論まれ、交通の便宜も図れるこの平安京を、棄てて新たな都造りは、民意にも道理にも反するではないか」と、これを退けている。
ところが809年、平城天皇は病に伏した。この時意を決して皇太子に譲位して、神野親王が嵯峨天皇(在位809-823)として即位。病気の回復した元平城天皇は、平城太上(だじょう)天皇として政治権力を保持し、平城京に移って政治を行った。だから平城天皇なのである。何だか不思議な気がするが、実は不思議でも何でもない。生前の天皇はみなただ天皇であって、死後に名称が確定するからである。
この死後に送られる名称を諡号(しごう)というが、この時代の天皇は和風諡号と、漢風諡号の二つを持ち、さらに諡号の他に追号(ついごう)を持つ場合もあり、例えば平城天皇の場合、
諡号「平城天皇」
追号「奈良天皇」
国風諡号「日本根子天推国高彦尊」
(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと)
とあるが、いずれの名称も生前の正式名称ではなかったというわけだ。だから今日の天皇も、正式には「平成天皇」とは呼ばない。また別の名称に基づいて、後に「後奈良天皇」が登場したり、桓武天皇の別の号である「柏原天皇」に基づいて、「後柏原天皇」が登場したりもする。非常にややこしい。
次の皇太子は、平城太上天皇の息子が高岳親王(たかおかしんのう)(799-865)となり、万事平城天皇の思惑通りかと思われたが、平城天皇が平城京に移ったことは、政治権力が二カ所で拮抗する二所朝廷(にしょちょうてい)の状態を生みだしてしまった。さらに平城天皇の元で権力を欲しいままにしていた藤原薬子とその兄、藤原仲成(ふじわらのなかなり)(774-810)がこの平城京の朝廷に従い、引き続き権力を握り、ついに平城京への遷都を模索し始めたのである。そしてまた、政変のシーズンを迎えることとなったのだ。
810年、平城太上天皇は平安京の貴族に向かって遷都の詔を発した。驚いた嵯峨天皇側は、すぐに薬子の官位を剥奪。藤原仲成も捕らえた。太上天皇は挙兵し東国へ向かい兵力を整える算段だったらしい。しかし嵯峨天皇の迅速な行動によって、進軍を坂上田村麻呂に遮断され、平城京に戻ることになる。この時藤原仲成は律令に基づいて処刑されているが、実は日本のユニークというか、不可解なことに、律令に則った罰則はこれまで必ずしも正確に実行されなかったのである。ところがこの処刑は罰則の厳格に実行された、数少ない事例なのだそうだ。こうしたことは罰則だけに限らない。律令全体を通じて、律令が実体と必ずしも一致していない(つまり法治国家とは言い得ない)状況が所々に見られ、はたして律令整備の時代から、律令体制が崩壊していく時代などという言い方が適切なのだかどうだか、はなはだ怪しいものである。これは何時か考えてみる必要があるようだ。
この平成太上天皇を阻止したことによって、蝦夷戦争で活躍した田村麻呂は、またしても朝廷のためによき仕事をしてしまった。彼はその翌年54歳で亡くなり、嵯峨天皇は彼のために漢詩を読んだが、悪役の仲成にはもちろん読んでやらなかった。
それはともかく、平城太上天皇はすっかり慌てふためいて、すぐに剃髪して出家してしまった。この頭の丸めっぷりに免じて、許して貰おうという算段である。一方の藤原薬子は、周囲から無理に進められたのだろうか、毒を飲んで自殺と相成った。この一連の事件を「薬子の変」と呼ぶ。(最近では主体的行動は太上天皇にあるとして「平城太上天皇の変」と呼ぶこともある。)
「日本後紀」には、薬子らが平城太上天皇のあずかり知らぬ言葉によって、政権を玩んだと記されている。また太上天皇の罪は問われず、その後もなかなかの待遇を受けて、平城京に留まっているのだ。太上天皇の名称さえ元のままだ。はたしてこれは、桓武天皇時代の怨霊騒ぎを回避したい思いから、生まれた恩赦なのだろうか。
高岳親王はこれに伴って廃位された。そしてダイナミックな人生を歩んだ。すなわち出家し真如(しんにょ)の名を得ると、空海の元で修行に励み、重要な弟子の一人となった。855年に東大寺の大仏の首が落ちた時には修理を命じられ、その後唐での修行を願い出て、864年には長安に到着した。ところが運悪く唐の皇帝武宗(ぶそう)は、儒教を推進して仏教を弾圧する政策を取っていた。これを会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)というのだが、そのため三蔵法師が行ったように、天竺(インド)に出かけて仏教を極めようと旅だった。旅だったまま帰ってこなかった。一説にはマレー半島で死んだとされているが、その消息は不明である。インドへ向かった日本僧の最初期の例ともされる。
高岳親王が外されると、嵯峨天皇は自分の息子ではなく、異母弟の大伴親王(786-840)を立てた。後の淳和天皇(じゅんなてんのう)である。彼の母親は、藤原百川(ももかわ)の娘、藤原旅子(たびこ)であるから、つまり平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇は共に桓武天皇の息子だということになる。この後、嵯峨天皇が842年に没するまでの間、奈良時代からの伝統であった後継者を巡る騒乱が影を潜め、パックスサガーナ(嵯峨による平和)とはまさか呼ばないが、政治的に安定した一時代を向かえることになった。また書道においても有名なくらい芸術にも造形のあった嵯峨天皇の時代は、弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがんぶんか)が華開いた時代でもあった。正しくは810-823年が弘仁の元号であり、貞観は859-876年だから、まんず弘仁文化が華開いたと言うべきか。
さて、嵯峨天皇(786-在位809-823-842)は823年に大伴親王に譲位して、自らは太上天皇となった。これによって淳和天皇(786-在位823-833-840)が誕生、嵯峨太上天皇は始め冷然院(れいぜんいん)、さらに嵯峨院を築いて今日の大覚寺付近に、橘嘉智子(たちばなのかちこ)(786-850)と共に移り住んだ。桓武天皇の娘だった高津内親王(たかつないしんのう)が亡くなって以後、絶世の美女だった橘嘉智子が皇后になっていたからである。彼女は唐の禅僧を呼び入れ日本で初めての禅寺、檀林寺(だんりんじ)を造らせたため、檀林皇后とも呼ばれる。もっともこの檀林寺は10世紀前半に消失、現在では天竜寺付近に旧跡があったことが記されているのだが。昭和になってから再建された檀林寺が別のところにあるが、歴史的な価値ははなはだ疑わしい。この淳和天皇の即位に合わせて皇太子に選ばれたのは、嵯峨天皇と橘嘉智子の息子である正良親王(まさらしんのう)(810-850)、後の仁明天皇(にんみょうてんのう)である。
・後に冷然院は、度々火事にあい名称を冷泉院と改めることとなる。源氏物語の中に登場する帝、冷泉帝(れいぜいてい)は、譲位の後、ここに住んでいることになっている。
嵯峨天皇の時代、令外の官の整備が一層進んだ。「薬子の変」の時に天皇の手足となって働く秘書官のような役割を持たせた蔵人(くろうど・くらんど)が儲けられた。この時は藤原内麻呂(北家)の息子にして歌人としても有名な藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)(775-826)を蔵人頭に、蝦夷討伐で活躍した巨勢野足(こせののたり)も蔵人頭にするなどして始まった臨時機関だったが、後には天皇家の家政・秘書機関として重要な役割を担うようになっていく。
さらに816年頃設置されたと考えられる検非違使(けびいし)は、都の治安維持のための警察機関として設置され、都の運営に重要な影響力を持つようになっていった。後に武士が登場してくると、この役職を持って出世を成し遂げる場合も生まれてくる。時代は降ってあの源義経も後白河法皇から「判官」に任命されているが、これは検非違使少尉のことである。
平安時代に出された三代格式(さんだいきゃくしき)の筆頭を飾る弘仁格式(こうにんきゃくしき)も整備された。これは大宝律令から819年までに出された格式を藤原冬嗣を中心とする「造格式所」(いわば格式製作委員会)がまとめたものである。藤原冬嗣は左大臣にまで昇り政治を動かす一方、この「弘仁格式」や、後に「日本後記」(840年)の編纂に中心的役割を果たし、多数の漢詩を残す当代の才人であった。
さて、完成した弘仁格式のうち、格は律令を補うための法であり、式はいわば実際に律令を執り行うためのマニュアルのようなものである。日本の律令は当初から社会の実情とずれがあったが、そのようなずれを修正した新しい律令を出すかわりに、随時臨時の詔を出し、また臨時の役職を設けて政治を行ってきた。決して新しく律令自体を作り直そうとは考えない。また833年に出された「令義解(りょうのぎげ)」は「令」だけを解釈した注釈書であり、「律」がそれほど重く用いられていないのが日本の律令だった。中国では「律」が重要な意味を持っていたのとくらべると、「大和のほほん?」としている。ただし処罰がルーズと簡単に割り切って好い訳でもなく、いわば律とは別に慣習的な罰則で対処することが多かったらしい。したがって平安時代に政府による公的な死刑になったものがほとんど居なかったらしいことが「保元物語(ほうげんものがたり)」の中に記されている。代わってよく行われたのは遠流(おんる)罪だった。
こうしてこの時期の政治は、律令政治と云うよりは「格式政治」と呼んだ方が相応しいものになっていた。格式はこの後さらに貞観格式(じょうがんかくしき)(869年・871年)、延喜格式(えんぎかくしき)(908年、式は遅れて967年施行)と作成され、合わせて三代格式となるわけだ。
政治は、大極殿(だいごくでん)の天皇前で官人達が物事を審議する朝政(ちょうせい)というものが伝統的な姿だった。しかし9世紀にはいると、公卿達が天皇の生活する内裏で政治を執り行うようになっていく。それに合わせて、次第に位階とは別に、内裏に登ることが出来るかどうかを定めた身分制度、昇殿制(しょうでんせい)が生まれることになった。後には五位以上の者で、内裏の天皇の生活する清涼殿(せいりょうでん)へ昇ることを許されたものを殿上人(てんじょうびと・うえびと)と呼び、昇れない官人たちを地下人(じげにん・しもびと)と呼ぶようになっていく。また三位以上の公卿たちは、昇殿が認められるのが慣わしだった。やがて役所の職務の場も内裏の内側に設けられ、内裏出勤が役人達の出勤ともなっていくと、律令制開始頃の政治とは、大分異なる政治体制に移り変わってくる。
桓武天皇時代から唐風化が促進され、また宮廷儀礼の整備が一層進んだのもこの時代だ。儀式のうちには漢詩を作る必要のあるものもあり、また818年には平安宮の門や建築の名称が唐風に改められた。唐の影響を被(こうむ)って儒教的教えによる「徳治政治」が求められ、これは嵯峨天皇が譲位して淳和天皇になっても継承された。どうもこの淳和天皇は、我を立てるよりも皆と調和型の人物だったらしく、兄との関係も(見かけは)良好で、嵯峨天皇を中心とする家父長的な関係がうまく機能して、お正月のご挨拶に参りましたというような儒教ドラマが繰り広げられて、皇位継承を巡る争いを旨い具合に回避していたという。
2008/12/12/26