平安時代初期には、唐風化と合わせて、宮廷儀式の様式化が進行した。嵯峨天皇は藤原冬嗣らに儀式のマニュアルをまとめさせ、820年(or821年)に「内裏式(だいりしき)」として上奏させたが、その後も改訂が続けられると同時に、宮廷の作法の書物は次第に「儀式(ぎしき)」と呼ばれるようになっていく。儀式に生き甲斐を見いだしているような平安時代のイメージが形成され、かつての豪族達の土着じみた名残は薄れ、都市貴族化の波が押し寄せた。それに合わせて、815年には「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」が編纂され、氏族の系譜と祖先を明らかにするという、お家柄のカタログ化も行われたのである。
そんな時代の芸術は、一般に弘仁貞観文化と呼ばれる。とは言っても、嵯峨天皇の在位した弘仁(810-823)年間と、清和天皇、陽成天皇にまたがる貞観(859-876)年間を合わせて、9世紀全体の平安時代初期文化を命名しているに過ぎず、前半と後半ではいろいろ違いもあるはずなのだが、そこはそこ、さわりで眺める通説日本史ですから、知らぬ振りして失礼します。
特に嵯峨天皇の時代には、文芸に深い理解を持った天皇が「文章経国(もんじょうけいこく)」をスローガンに、文芸により国を栄えさせようと文芸を擁護したこともあり、一つの文化のピークを築くに到った。
仏教においては、桓武天皇が政治と仏教の癒着を絶つために(本当か?)、南都六宗とも呼ばれる奈良仏教の寺院を平安京に移転させず、さらに最澄、空海を擁護し、彼らが擁護に答える形で、天台宗、真言宗の礎(いしずえ)を築いたのは前に見たとおりである。これは結果として、平安時代を代表する二大仏教を誕生させることになった。即身成仏を掲げる密教の「現世での御利益」という概念が、貴族たちに受け入れられたのがブームの理由であるとも考えられる。
さて中国で鳩摩羅什(くまらじゅう)が5世紀に翻訳した「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」。これを教典とする天台宗は、唐で学び取った最澄が、自身の考えを加えて生み出した、日本固有の天台宗である。彼は唐で密教を学び、これを体系化のうちに取り込もうとしたが、本流を唐で学んだ空海との関係が途絶えると棚上げにされることになった。弟子の円仁(えんにん)(794-864)は838年の遣唐使で唐に渡り、数多くの困難の後に密教を会得した。学んで帰国しようとしたが認められず、留まっていると今度は時の皇帝武宗が儒教保護と仏教弾圧を開始した。名高い「会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)」である。円仁は外国僧の国外追放によって、847年ようやく日本に辿り着いた。彼はこの旅行を「入唐求法巡礼行記」に記し、日本人による旅行記の第一歩をも示しているのが日本史的には重要である。
帰国後は天台宗に密教を取り込み、加持祈祷(かじきとう)なども盛んに行うようになっていったため、やがて天台密教(台密)と呼ばれるようになっていった。しかしこの密教化には円珍(えんちん)(814-891)という、853年に唐に渡った僧も大きな影響を持っている。帰国後は延暦寺第5代座主となり園城寺(おんじょうじ)(一般的には三井寺)を賜り再興したのだが、この頃天台宗は円仁を中心とする一派と、円珍を中心とする一派に勢力が争っていた。その後、円仁一派が延暦寺を占領し山門派と呼ばれるようになっていくと、追い出された円珍一派は園城寺を拠点とし活動を行い、寺門派と呼ばれるようになっていく。
また南都六宗の旧勢力が握る戒壇(かいだん)を離れ、天台宗自身で公認の僧を任命する事が出来る大乗戒壇の設置も、最澄が「顕戒論(けんかいろん)」で論争を行った時には認められなかったが、死後822年には認められ、天台宗は日本仏教の中心を担うようになっていった。
一方、讃岐生まれの空海が四国巡りをして唐で密教をマスターし、嵯峨天皇に信頼され、高野山の真言宗を開いたことは前に見た。最澄も書の達人であったが、弘法大師と命名される空海の書は、当代の三筆(さんぴつ)と賛えられた能書家(のうしょか)、嵯峨天皇・空海・橘逸勢の中でも一際勇名である。代表例として、空海が最澄に送った書簡である「風信帖(ふうしんじょう)」が上げられるだろう。彼はまた漢詩にも造詣が深く、漢詩集である「性霊集(しょうりょうしゅう)」や唐の漢詩論を紹介した「文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)」などを記し、一連の仏教の書とともに知られている。
平安時代初期には、神社の内に寺を設ける神宮寺(じんぐうじ)や、神の前での読経(どきょう)などがさらに盛んになり、神仏習合(しんぶつしゅうごう)が推し進められた。また天台宗、真言宗が山に寺院を築き、山岳での修行を行ったことから、山岳信仰や仏教や道鏡や陰陽道が結びついた修験道(しゅげんどう)が活発になっていく。山伏となって修行に励む実戦的な修行は、さらにこの時期流行した密教を取り込んで、平安時代を通じてさらに栄えることになった。今日の奈良県吉野にある大峰山(おおみねさん)、北陸の白山(はくさん)が以前より修行の場として知られていたが、こうした山岳信仰は、平安時代中期後期に盛んになる熊野三山詣で(本宮・新宮・那智の3社)の流行にも繋がっている。
仏教建築としては、室生山(むろうさん)の山麓に作られた室生寺(7世紀後半に開かれたらしい)のように、山岳に合わせて自由に配置された伽藍配置が、比叡山延暦寺でも高野山金剛峰寺でも見られる。この室生寺は真言宗の寺だが、女人禁制の高野山に対し、女性も参詣できるため「女人高野」とも呼ばれることがある。とくに金堂と五重塔は、この時代の建築の代表的なものに上げられることが多い。
仏教芸術においては、平安初期には、神秘的な様相を持った密教芸術が生み出された。曼荼羅(まんだら)の絵画が盛んに描かれ、園城寺(おんじょうじ・三井寺)の不動明王像のような密教的な仏画も描かれた。仏像においては、密教で重要な不動明王や如意輪観音(にょいりんかんのん)などが多く作られ、木彫りのものが多い。如意輪観音は、真言宗の寺院である観心寺(かんしんじ)にある、手が六本の如意輪観音像が人々の感心事(かんしんじ)である、なんちてな。(……あう。物を投げないで下さい。)
仏像の作り方は、とくに仏像の主要部分を一つの木から取り出す「一木造り(いちぼくづくり)」が好まれた。ただし一木といっても、細部に到るまですべてを一木で押し通すのは希である。先に上げた室生寺の例では、弥勒堂の釈迦如来の座像や、金堂の釈迦如来像が勇名だ。神仏習合に合わせて、神像の彫刻も生み出された。
平安時代も初期には漢詩が隆盛を極めた。嵯峨天皇は、和歌の勅撰(天皇や上皇の命により選ばれたアンソロジー)が行われるよりも前、この時代に勅撰漢詩集を編纂させた。(以前に出た「懐風藻」は勅撰ではない。)和歌の勅撰は醍醐天皇(在位897-930)の「古今和歌集(こきんわかしゅう)」(905年)であるから、1世紀近く早く出されたことになる。ただし「万葉集」(759年以降成立)に勅撰的要素が無かったとは言いきれないのだが、これは今日証拠が見つかっていない。
この時期相次いで出された勅撰三集は、
814年の「凌雲集(りょううんしゅう)(凌雲新集)」
818年の「文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)」
827年の「経国集(けいこくしゅう)」
である。
「文華秀麗集」の序文に「君唱(とな)え臣和(わ)す」と書かれているとおり、天皇が先導役となって漢詩が盛んに読まれたのである。
「凌雲集」(全一巻)は、天皇に学問を教える侍読(じどく・じとう)として、漢詩の才能豊かであった小野岑守(おののみねもり)(778-830)、804年の遣唐使で最澄や空海を引き連れて遣唐使判官として大陸に渡った菅原清公(すがわらのきよきみ)(770-842)らによって編纂された。菅原清公は菅原道真(すがわらのみちざね)の祖父にあたり、この時の遣唐使の帰国によって、清公の提言で貴族の名前の付け方が、
「男なら漢字で二文字、
女も二文字で(~子)と子を付ける」
などと唐風化が促進されるなど、大陸への憧れはいやが上にも高まっていた。そんな中で嵯峨天皇の命により、漢詩集が編纂されたのである。平城天皇、嵯峨天皇、大伴親王(後の淳和天皇)を始め、全部で23人の漢詩が掲載されているが、もちろん編者の漢詩が含まれることは言うまでもない。
その序文には、
「魏の文帝のかつて述べるところ、文章は経国(けいこく)、すなわち国を治める大事業であり、朽ちることのない栄えの源である。」
と記され、嵯峨天皇の進める文化政策の意図が込められている。
「文華秀麗集」(全三巻)は、菅原清公と共に、「凌雲集」にも漢詩を残す文化人、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らが編者となって、天皇たちを筆頭に、女性や渤海使節の作品までも収めている。嵯峨天皇の七言絶句一首を取り上げてみよう。
三春二月河陽県
河陽従来富於花
花落能紅復能白
山嵐頻下万条斜
[いつもながら、勝手な意訳]
三ヶ月に渡る三春(孟春・仲春・季春)の
二月(仲春)の河陽県
河陽は従来(もとより)
花に富むところである。
花は落ちる、
これほどまでに紅く、
またこれほどまでに白く、
山嵐がしきりに吹き下ろして
木々の枝を斜めにしならせるたびに。
河陽県とは中国の黄河北岸にあるから、島国を出たことのない嵯峨天皇が故郷みたいに歌うのは、おそらく中国人の詩人が眺めたら、失笑しかねないところだ。もちろんすべての漢詩を中国人に化けて歌っている分けではないが、漢文の故郷(こきょう)を自らの故郷(ふるさと)みたいに歌っているところに、唐への憧れの強さがにじみ出ていると言えるかもしれない。
これは河陽県を皆で歌った「河陽十詠」の中の一首であるが、この中には藤原冬嗣の漢詩も収められている。ついでに書き下し文でどうぞ。
[書き下し文]
河陽の風土は春色に饒(ゆた)けく、
一県千家、花のあらざるは無し。
江中(こうちゅう)に吹き入れられては
錦(にしき)を濯(あら)うがごとく、
機上(きじょう)に乱れ飛びては文紗(ぶんさ)を奪う
[勝手な意訳]
河陽の土地は今まさに
春色饒(ゆた)かに染まる、
一県(ひとけん)千の家、
花のないところはない。
風に舞う花びらが
河の中に吹き入れては、
蜀(しょく)の名産の錦を
水面(みなも)で濯(すす)ぐようだ、
また機織(はたおり)りの上に
吹き入れては、
その紗(しゃ・うすぎぬ)の織物の文様を
奪うほどに美しい。
「経国集」(全二十巻、現存六巻)は、嵯峨天皇ではなく淳和天皇が編纂させたことになっているが、まさに嵯峨天皇の詩集を引き継いだものだ。ここでも菅原清公(キヨちゃんとは呼ばない)が編纂に関わっているが、他にも桓武天皇の息子の一人、良岑安世(よしみねのやすよ)(ヤスとは呼ばない)(785-830)なども編集に関わっている。ここには空海の漢詩も含まれるほか、漢詩ではなく漢文の散文も収められている。
この時期は、書(しょ)の三筆(さんぴつ)の漢文も芸術として残され、その書は唐風の書体(唐様・からよう)でしたためられた。空海が最澄に送った「風信帖(ふうしんじょう)」はもっとも勇名である。あまりにも漢文ばかりで、平安時代初期を「国風文学の暗黒時代」と呼ぶ人もある位だが、同時に、漢文を「懐風藻」の頃よりも一層柔軟に我が物としたこの漢文学の隆盛があって、次の仮名文化が導き出されたのだと言われている。894年に遣唐使が停止されるのは、決して国風文化の開始ではなく、国風意識の盛り上がりの中で起こった出来事なのである。
さて
「にほんこくげんほうぜんあくりょうい(の)き」
という呪文みたいな説話集が生まれたものこの時代だ。漢字で書けば、「日本国現報善悪霊異記」、ポケットモンスターが一般的に「ポケモン」と呼ばれるが如く?、一般的に「日本霊異記(にほんりょういき)」と呼ばれている。作者は薬師寺の僧であった景戒(きょうかい・けいかい)、僧といっても長らく私度僧として、妻子も持ち、晩年に至って得度(とくど)して、国家公認の僧となった人物らしい。物語の中にも非常に沢山の私度僧が、良くも悪くも活躍しまくっていることから、律令で禁じられた私度僧が実際は黙認され、かつ場合によっては得度することも可能だったことが見て取れる。説話集の内容は題名から明らかになる。すなわち、
日本国
→にほんにおける
現報
→ある原因(因・いん)が元で結果(果・か)としての報(むく)いが現れる(因果応報)。正確にはこの世ですぐに受ける報を「現報(げんぽう)」といい、来世の報を「生報(しょうほう)」、遙か先の報を「後報(ごほう)」と呼ぶ。これを三報(さんほう)という。ただし日本霊異記はこの意味での現報のみを扱ったものではなく、来世の報なども含まれる。
善悪
→よい・わるいの
霊異
→仏教の力による超自然的現象(奇跡とか仏罰とか)。当時の中国仏教は超常現象や民族的不思議物語が霊異(りょうい)として仏教に結びつき、また僧の中にも「神異(しんい)」と呼ばれる呪術師的な能力が仏教の教えの結果だと考えられていた。漢語訳の仏典によってではなく、その教えと実践によって中国仏教の礎を築いたとされる僧、西域渡来の仏図澄(ぶっとちょう)(231?-348)は、千里眼を持ち、自ら光を発し雨をも降らす、神異の僧の代表でもあったのだ。
つまり中国の霊異物語りに倣って、我が国日本における仏教の力によって引き起こされる善悪の因果がもたらす不思議物語を、幾つも収めた小話の集積がこの「日本霊異記」なのである。
完成は恐らく822年から823年頃。上中下の三巻に、合計116の話が収められている。文章はすべて漢文であり、平仮名文学の幕開けを告げる紀貫之(きのつらゆき)の「土佐日記(とさにっき)」(935年)まで、あと1世紀ぐらいであることも、頭に入れて置いても損はない。それでは、本を知るには内容を読むに限るので、ここでは私が内容を大幅に翻案して、意味だけはまあ何とか繋がるぐらいに、短縮改造(捏造?)して提出してみることにしよう。日本史らしからぬ進行であるが、私は所詮はアマチュアである。専門書でも無いのだから、気にすることはなかろう。上巻の序文と、一番はじめの話である。
我が国への外来教学は、百済を経て二度の波となって押し寄せた。応神天皇の御代には儒教などが伝わり、欽明天皇の御代に仏教が伝わったのである。互いの教理を信じる者は他方を罵るが、すぐれた仏教信者は仏教以外の書にも親しみ、因果応報のことわりを知るのである。
仁徳天皇は、高山に国を見下ろし、炊き煙の昇らぬ民の生活を嘆き、聖徳太子は大乗教典の講義をなされ、彼の仏典注釈書は後世の頼みとなった。聖武天皇は仏像を作り、一方で高僧たちは得で世界を照らした。仏教の偉大な力は今日なお計りきれないのである。
ここに奈良の薬師寺の沙門(しゃもん)景戒、つらつら世の人を見るに、才能を持ちながら卑しい行いの者がいる。彼らの強欲は留まるところを知らず、結果として仏の罰を受けている。一方仏教を求め、現世で好い報いを受ける者もいる。まことに善悪の報いは、影が我に慕うがどとく、我の動き一つで、必ず応じて動いてくるのである。
唐の時代の大陸ではそのような因果応報の教えが記され、我が国にも伝えられたが、他国の教えを恐れ敬うよりも、我が国の不思議を信じ恐れるべきではないか。我は立ち上がり、周囲を見わたせば、何もない、このまま放置してはおけぬ。座って考え抜くが、そのまま黙っては居られぬ。そこで私が耳にしたことを記し、後世に伝えることとした。
しかし私は愚か者であるから、この物語りも、とてもすぐれた彫刻のようにはいかない。だがもしかしたら、名玉を生み出す崑崙山(こんろんさん)の珠玉の中の一個の石ころぐらいには、訳に立つこともあるかも知れないではないか。どうか出来ることなら、後の世の読者たちよ、笑わないで欲しい。私の願いは、この珍しい話を読んだ人が、曲がった行いをせず、正しい行いに目覚めることである。どんなささいな悪も行わず、善行を行って欲しいから記すのである。
栖軽(すがる)は雄略天皇の護衛の武官として知られた腹心である。天皇が磐余(いわれ)の宮に居た時、后と太極殿(だいごくでん)でいちゃつきなさっておいでになると、栖軽がのこのこ入って来てしまった。后と天皇はそのままの形で思わず硬直してしまった・・・かどうだか私は知らないが、丁度そこに雷が鳴り響いたので、天皇は腹いせまぎれに、
「この栖軽(すがる)めが、あの雷を連れてまいれ!」
と怒鳴りつけたのである。始めて気が付いた栖軽(すがる)は大いに慌てた。「しまった、天皇のご機嫌を損ねてしまった。」ただごとでは済まない。ただちに、
「すぐに迎えて参ります」
と返答して逃げるように出て行った。宮を離れ、雷を求め、馬に飛び乗り駆け巡り、ついに雷の潜んでいそうな暗雲の雲に向かって叫ぶには、
「天の雷よ、天皇がお呼びである!」
すると雲の中からゴロゴロと小さな音がする。
「雷であっても、天皇の呼びかけに答えないことなど許されぬ!」
ともう一度叫び宮に向かって走り出すと、あまりの怒声に驚いたか、彼の戻る途中に、雷が激しい稲光をして轟き落ちて来たのである。栖軽は驚きもせず、神官を呼ぶと、雷を御輿(みこし)に乗せて共に宮に入り、
「ただ今、雷神をお連れしました」
と頭を下げた。しかし雷があまりにも稲光させてお辞儀をしたので、驚いた天皇は、雷に供え物を持たせて、落ちたところに帰させたのである。ここを今でも雷(いかずち)の岡と呼ぶ。
後に栖軽が亡くなると、天皇はその墓に「雷を捕らえし栖軽の墓」と記したので、雷は怒り狂ってその墓を荒らしに来た。ところが死んだはずの栖軽の魂が雷を捕らえて、墓に括り付けてしまったのである。雷は墓から逃れられずに、激しく喚き散らしながら、地上の至る所に稲光を打ち付けて、周囲の畑は滅茶苦茶になってしまった。これを聞きつけた天皇が、
「こ奴め、二度と嵐を呼べない体にしてくれよう!」
と剣を抜いて叫べば、その恐ろしいこと、あの栖軽が恐れるだけのことはある。大地が轟き、落雷の轟音を聞き慣れた雷神でさえも、度肝を抜かれてもはや泣き寝入り、「もう悪戯はしないから」と叫ぶのだった。雷がなければ大地の恵みの雨もまた立ち去りぬ。それを知っていた天皇は雷を許し、
「栖軽よ、もう許してやるがいい」
と墓をひとつ叩くと、雷は墓の呪縛から放たれ、放心したように地上にへたり込んでしまった。天皇が帰ってからも、彼は七日七夜ほうけていたが、ようやく想い出したように天空に戻っていったのである。
天皇は詔を出してもう一度碑文を立てさせ、
「生前ばかりか、死後も雷を捕らえた栖軽の墓」
と記した。世間で云う古京、つまり飛鳥の京の時代、この場所が雷の岡と呼ばれた起こりは、このような次第であった。
ここでは、幾分か話を捏造してしまったが、あくまでもおおざっぱな紹介がてらなので、それは置いておくことにして、このように日本霊異記は雄略天皇の時代から始まって、このような説話が、年代の新しくなる順に並べられている。この第1話はまだ仏教とは関係のない、日本神話の不思議譚であるが、三話目には元興寺(がんこうじ)の怪力の道場法師の話が登場し、四話目には聖徳太子の話が登場してくる。こうした物語は、取って付けたように「このように仏教の因果応報はまっこと恐ろしいものである」で済ませただけの物もあるが、そのストーリーのアウトラインは平安時代末期の「今昔物語」など、後の物語集に取り込まれ、大きな影響を与えることとなった。また僧が記述していることを差し引いても、当時の民衆社会に仏教がかなり浸透している姿を見ることが出来、さらに民衆的説話集であるために、当時の民衆の姿を垣間見ることも出来、非常に面白い小話集である。お暇な方は、珈琲片手に一読してみるとよいかもしれない。
当時大学寮で学ぶ学生達は、直曹(じきそう)と呼ばれる寄宿舎に身を寄せていたが、821年、時の右大臣藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が、直曹(じきそう)に代わり寄宿して大学寮に通える施設を作った。これを勧学院(かんがくいん)という。一方文章院(もんじょういん)というものがあった。これは文章博士(もんじょうはかせ)のもとで紀伝道(きでんどう)(中国の歴史、後に加えて漢文)を学ぶ人のための直曹の一つとして、菅原清公によって834年頃作られたとされるが、文章博士を務めた菅原氏や大江氏などが学生に自分の勢力を植え付ける温床ともなったようだ。こうした公私の寄宿舎は、決して私立の学校でも何でもないが、有力者の一門を抱え込み教育をサポートし、政界への勢力拡大を図るために利用された。やがて勧学院のように直曹の代理となりうる施設は、大学別曹(べっそう)と呼ばれ、朝廷から公認されるようになっていく。例えば、和気氏(わけし)の別曹である弘文院(こうぶんいん)、橘氏(たちばなし)の学館院(がっかんいん)、在原氏(ありわら)氏の奨学院(しょうがくいん)などがそれにあたる。
一方で空海の創立した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)は、中国で三教とされる道教・儒教・仏教などすべての学芸を、俗人も僧侶も身分を問わず総合教育するための機関であり、すべての学生に給食が支給される学校の必要性を説く彼が、その実現を目指した私立学校であるから、院が付いているからといって混同してはいけない。空海の学校は思想はあまりにもご立派、先見の明だったが、現実は厳しく、この学校を中心とする教育改革運動に呼応する声は多くは無かったようだ。何年続いたかは不明だが、空海の死後には弟子達が「あばよ」とばかりに売り払ってしまった。そのお金で東寺付きの寺田(じでん)を買って、田んぼに化けてしまったそうだ。その田んぼでは毎晩空海が教壇に立つ姿がおぼろげに浮かんだ……という伝説は残念ながら残されていない。
2009/1/7