平安時代5、宇多天皇と菅原道真

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承和の変(842年)へ

 さて嵯峨天皇(786-在位809-823-842)の生前、淳和天皇(786-在位823-833-840)から仁明天皇(810-在位833-850-850)へと天皇が移り変わったが、長きに渡って目立った政変のない平和の時代を迎えたことは前に見た。その間に政治的に力を付けてきたのが、嵯峨天皇のもとで活躍した藤原北家の藤原冬嗣(775-826)の次男、藤原良房(ふじわらのよしふさ)(804-872)である。彼もまた父同様、嵯峨とその皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)の信任を得て、(824-834)年には蔵人(くろうど)を務めるほどだった。父冬嗣が薬子の変に際して、嵯峨天皇から臨時職として任されたあの蔵人である。


 良房は息子だが、冬嗣には娘もあった。恐らく勢力安定のための布石だったのだろう、冬嗣の亡くなる前後頃、娘である藤原順子(ふじわらののぶこ・じゅんし)(809-871)は嵯峨天皇の息子と結婚することになったのである。夫の名を正良親王(まさらしんのう)というが、このまっさら親王こそ、後の仁明天皇(にんみょうてんのう)(810-在位833-850)なのである。こうして冬嗣の息子(もちろん息子は他にも沢山居たが)は政界に、そしてその妹は皇太子の妻として、藤原北家の安定を目差したのである。(にも関わらず藤原北家を「北の家族」と書くとテストでは×である。)

 827年、すでに亡くなった冬嗣は見ることが出来なかったが、順子は目出度く男の子を産んだ。道康親王(みちやすしんのう)である。そしてこの道康親王こそ、後の文徳天皇(もんとくてんのう)になるのである。そして、この藤原北家の血を引く天皇誕生に関連して、事件が勃発することになる。


 833年には淳和天皇も譲位をして、晴れて正良親王が仁明天皇となった。ただし皇太子は、淳和天皇の息子である恒貞親王(つねさだしんのう)(825-884)である。また藤原順子は沢山の妻の一人であるから、この時は女御(にょうご)として従四位(じゅしい)を賜り、彼女の息子が天皇になる予定はなかった。道康親王(みちやすしんのう)は多くの親王の一人にすぎなかったのである。

 しかし842年、あの嵯峨天皇が亡くなるのと前後して、さっそく事件が勃発した。承和の変(じょうわのへん)である。こうして書くと、さも藤原良房が仕組んだ事件の予告編のように思えてくるが、実際は事件の結果として良房の勢力が拡大したに過ぎなかったのかも知れない。

 すでに嵯峨天皇の生前、恒貞親王を引きずり降ろす策略でもあったためだろうか、淳和天皇と恒貞親王は皇太子の辞退を申し出て、嵯峨天皇に保留される一幕もあった。その淳和天皇もすでに亡く、嵯峨天皇の死期も近いというので、恒貞親王を押す伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)らが中心になって、恒貞親王の安全のため親王を東国に移す計画を密かに立てたのだという。そしてこれが発覚し、首謀者は捕らえられ、恒貞親王は廃されたのである。今日書道の「三筆」と賛えられる橘逸勢も、伴健岑も、杖で「おらおら」と打たれまくる悲惨な拷問で虐め抜かれ、伴健岑は隠岐(おき)へ流され、橘逸勢は伊豆へ流される途中、60歳でお亡くなりた。当然その怨みは、平安時代を賑わす怨霊となって甦る。なぜなら怨霊とは、それを恐れるもののこころの中に浮かび出された、生けるものの幻想に他ならないのだから。

脱線、御霊(ごりょう)

 早良親王(さわらしんのう)など、不遇のうちに亡くなり、後に怨霊(おんりょう)と恐れられた御霊(みたま)は、平安初期から鎮魂の儀式が整備されていったが、橘逸勢も早良親王と共に、六所御霊(ろくしょごりょう)と呼ばれるようになったという。863年には、初めて記録に残る御霊会(ごりょうえ)が、神泉苑(しんせんえん)で開かれた。すでに橘逸勢は御霊扱いになっている。この六所御霊は、さらに菅原道真や吉備真備などが加わって、八所御霊(はっしょごりょう)と呼ばれるようになって、これは天変地異や不幸を呼ぶ悪霊であると共に、奉(たてまつ)り崇(あが)めるべき神でもあるという、平安時代の御霊信仰(ごりょうしんこう)が誕生することになったのである。ただの学者であるはずの菅原道真が学問の神などとして、受験生の頼みの綱になっているのは、まさにこの御霊信仰が、彼を神に仕立て上げたからなのであった。だから受験生諸君、彼に向かって祈る時、君はもはや御霊信仰を前近代的愚かな迷信であると笑うことは出来ないのである。

・・・閑話休題

 この事件によって、藤原良房は結果としてライバルを押しのけて大納言の地位を獲得。そして順子の息子である道康親王を皇太子に建てることに成功している。結果から見るとすべてが良房の陰謀のように見えてくるが、はたしてクーデターの陰謀はどの程度真実だったのであろうか。皇太子を外された恒貞親王は、嵯峨天皇の離宮を寺院とした大覚寺(だいかくじ)(真言宗)の開祖(初代)として、僧侶たる第二の生を逞しく生き抜いたそうだ。

 また、この事件を象徴的に扱って、旧来の貴族勢力である橘(たちばな)氏、大伴(おおとも)氏の没落と結びつけて語ることもあるようだ。なに大伴?、伴健岑だったら伴氏(ともし)じゃないのか、とお悩みのあなた、実は淳和天皇の名称だった大伴親王(おおともしんのう)と同じ名では恐れ多いと、名を伴氏に改めた後だったからである。このような風習は、やはり唐を倣(なら)ったものであった。

ワンポイントジョス缶

 やあ、今日は承和の変の年号さ。
「承和の変の勃発だ、
早よう逃げ(842)出すやつらを引っ捕らえろ。」

もちろん嵯峨天皇のお亡くなった年でもあるわけだ。
あしたのジョーに掛けて、
「ジョーは変だ、早よう逃げろ。」
と覚えた人も居たけど、万人受けじゃないね。
それじゃ、また。

藤原良房の時代

 さて、848年、藤原良房は左大臣にまで昇り詰めた。そして850年に仁明天皇が亡くなると、承和の変で皇太子になっていたあの藤原順子の息子、道康親王が晴れて天皇となった。文徳天皇(もんとくてんのう)(827-在位850-858)である。すでに藤原良房は自分の娘、藤原明子(ふじわらのあきらけいこ・めいし)(829-900)を、道康親王の妻の一人とさせることに成功していたが、この850年、二人の間に惟仁親王(これひとしんのう)が誕生した。

 勢力拡大した藤原良房は、文徳天皇に対して惟仁親王を皇太子に立てることを要求し、親王はわずか8ヶ月で立太子する運びとなった。良房は855年に始められた「続日本後紀(しょくにほんこうき)」の編纂にも関わり、857年にはついに左大臣・右大臣の上に立つ太政大臣(だじょうだいじん)にまで任命されたのだった。だが文徳天皇との仲は決してよくなかったらしい。しかし858年、文徳天皇は脳卒中で突然亡くなってしまったのである。

 藤原良房の時代がやってきた。わずか9歳の惟仁親王が即位して、清和天皇(せいわてんのう)(850-在位858-876-881)となったからである。政治を執り行うことの出来ない幼帝の実質的な摂政(せっしょう)として、彼は外戚(がいせき)の立場から天皇の政治の代行を行うことになったのだ。ちなみに外戚とは、もっぱら帝の母、妻の家族を指す言葉である。この9歳の天皇の誕生は、天皇がたとえ「クマの縫いぐるみさん」であっても、政治が差し障りなく行われる体制が確立したという意味で、熊の子ウーフの・・・・じゃない、天皇制の確立と賛えられることもある。

応天門の変

 次の事件は866年に起きた。
「応天門の変(おうてんもんのへん)」
である。事件の背景には、嵯峨天皇の子であり源氏の名前を賜った、左大臣の源信(みなもとのまこと)(810-869)と、大納言の伴善男(とものよしお)(811-868)の対立があった。(おまけ。嵯峨天皇は子供らに源氏名を与えて、その子供らは嵯峨源氏と呼ばれ、源氏の発祥の一つとなった。)そこに朝堂院の正門である応天門で火事が起こる。伴善男は源信が犯人だと言うが、ここに藤原良房が顔を突っ込んでくる。そして伴善男とその息子こそが犯人であるとされて、流罪にされてしまったのである。伴氏の衰退はここで決定したとする考えもある。この時の様子は、後に「伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば・とものだいなごんえことば)(または伴大納言絵巻とも)」として、12世紀頃書かれた絵巻物に残されている。四大絵巻物の一つだそうだ。
年号暗記術?そうさね、
「応天門でやろう、ろく(866)でなしの火事騒ぎ」
「伴善男のやろう、ろく(866)でなしの応天門の変」

とか・・・。


 同年、すでに元服していた清和天皇は、この良房の功績を持って、
「天下の政(まつりごと)を摂行せしむ」
つまり、改めて摂政(せっしょう)の役を良房に与え、政治を執り行わせたのである。この時、良房が調子に乗って、
「摂政やろう、禄(ろく)(866)もっとよこせ」
といったという記録は残されていない。この摂政というものは、律令制には規定がないものの、以前より天皇のマツリゴトを代行・補佐する立場として臨時的に置かれることがあった。しかし、藤原良房は天皇の血族ではなく、あくまでも外戚の立場から摂政を賜り、その役職をいわば「令外の官」の一つとして確立させたことによって、制度的な摂政の開始を告げている。ただしこれは実際には、応天門の事件に対処して出された詔(みことのり)に過ぎず、この時に「令外の官」として確立した訳ではないのだが、まあ素人知識として象徴的に866年としておいても悪くはないだろう。ただしこの時の摂政は、実質的には成人後の天皇の政治を執り行う「関白(かんぱく)」の役職に他ならなかった。関白という役職はもう少し後、宇多天皇(867-931)の時代に登場することになる。


 この応天門の866年、良房にとってもう一つうれしいことがあった。この年、兄の藤原長良(ふじわらのながら)の娘である藤原高子(ふじわらのたかいこ)(842-910)が清和天皇の妻となったからである。彼女は天皇に嫁ぐ前には、「伊勢物語」の主人公ともされるプレイボーイ貴族、六歌仙(ろっかせん)と賛えられるほどの歌の巧み、在原業平(ありわらのなりひら)(825-880)と恋愛関係にあったともされ、後にも密通の疑いを掛けられるなど、恋多き女だったらしい。彼女は結婚した3年後、869年に貞明親王(さだあきらしんのう)を生んだのである。そしてどうも驚く、わずか2ヶ月で赤子は立太子されたのである。これを見届けた藤原良房は、「思い残すことなく、私は花に(872)なる」とはまさか言わないが、872年に亡くなっている。これをもって「鼻血(872)で亡くなる藤原良房」とは覚えないから気を付けよう。変わって政界の中心に付いたのは、藤原良房が藤原長良から貰い受けた養子、その年右大臣となった藤原基経(ふじわらのもとつね)(836-891)であった。

藤原基経の時代

 876年、清和天皇の後ろで何か陰謀でもあったものだろうか。清和天皇は突然「仏教に生きる!」と言い出して、天皇を譲位してしまったのである。こうして貞明親王が陽成天皇(ようぜいてんのう)(869-在位876-884-949)として、わずか9歳で天皇となった。これによって基経は、幼帝の外戚として、良房の例に倣って幼帝の摂政に任じられたのである。


 しかしほどなくして東北で事件が勃発する。878年に蝦夷が反乱を起こしたのである。それは朝廷に帰属した俘囚(ふしゅう)らが秋田城を襲うことによって開始され、藤原保則(ふじわらのやすのり)(825-895)、小野春風(おののはるかぜ)などが、兵糧を民衆に放出したり、寛大の政策を掲げて懐柔することによって、北方独立を目差した俘囚らの反乱もようやく下火になったという。これを元慶の乱(がんぎょうのらん)(878-879年)と呼ぶが、桓武天皇の頃に対して、侵略制服的軍事活動が後退している姿を見ることが出来るかも知れない。


 ちょうど乱の終わった879年には、六国史(りっこくし)の5番目、「日本文徳天皇実録」が完成しているが、もちろん藤原基経もこれに関わっている。そのような活躍の末、880年に彼は太政大臣(だいじょうだいじん)となった。しかし、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)憂いあらずかと思えば、実はそうでもない。次第に成長する陽成天皇との仲が悪化しだしたからである。これに対して藤原基経は (首には出来ないことを見越してか)、地位を辞退したり出社をボイコットする素振りを見せている。

 この陽成天皇は実は、日本のネロ帝とはまさか呼ばないが、悪業に身をゆだねた天皇として歴史書に記入されている人物だ。そしてとうとう883年には宮中で殺人事件が起こった。これが天皇の仕業だとはまさか明記されていないのだが、他のご乱心と取り合わせて、ついに藤原基経は彼を事実上の廃位として、仁明天皇の息子のひとり時康(ときやす)親王を担ぎ出して、光孝天皇(こうこうてんのう)(830-在位884-887)が即位することになったのである。譲位させられた陽成元天皇は、驚くほど長い上皇生活を全うすることになるだろう。最近では、彼の悪業とされるものは、彼を譲位させた藤原基経らが意識的に作り出したイメージではないかという意見も出されている。しかし歴史書に記されているような、動物を掴まえたり、誰かを木に登らせて転落死させるなど、人為的にイメージを作り出すにしては、どこか間の抜けた、切れの悪い悪業のような気もするので、かえって事実であるような気がしないでもない。はたして実際はどうだったのだろうか・・・。

 (これに関して、清和源氏の発祥は清和天皇に帰されているが、実際は陽成天皇とするほうが相応しいのに、悪業の天皇が始祖では困るので、清和源氏となっているという説まで、メジャーではないがあるという。)

宇多天皇の即位へ

 さて光孝天皇は、政治を藤原基経に任せ、彼を事実上の関白として政治を行わせる一方、藤原基経に配慮したためか、後継者争いに巻き込まれたくなかったか、自らの息子たちに臣籍降下(しんせきこうか)を行っている。これは子供達に姓(かばね)を与えて、臣下に降ろすというもので、これによって光孝天皇の第7王子も「源」の姓を貰って源定省(みなもとのさだみ)となっていた。ところが887年、病気に伏した光孝天皇が、どうしても息子を皇太子にしたくて藤原基経にお願いしたものか、この源定省が急ぎ皇太子に立てられて、光孝天皇が亡くなるとすぐに宇多天皇(うだてんのう)(867-在位887-897-931)として即位したのである。この即位を、

「パパ泣(887)かないで、
うだうだいわずに宇多天皇の即位」

あるいはもっと奮発して、
「宇多天皇の母な(887)ら焼くな(897)、
臭い(931)もの」

・・・とは暗記しないから気を付けよう。宇多天皇はさっそく先帝と同様、藤原基経に政治を任せることにした。ここに至って、初めて歴史書に、

「万機はすべて太政大臣に関白(あずかり申すこと)し、
しかるのにち奏下すべし」
(ウィキペディアより引用+付け足し)

と記されているので、この時をもって関白の開始とすることになっている。

阿衡事件(あこうじけん)

 ところがこの任命、中国の慣わしに合わせて、委任と辞退を繰り返した後に委任を受けるという煩わしい手続きが必要で、藤原基経が一度辞退して、もう一度天皇が委任を出す時に、一悶着起こった。これが「はははと笑えぬ」でお馴染みの?888年の「阿衡事件(あこうじけん)」または「阿衡の紛議(ふんぎ)」である。

 すなわち、2度目の委任状を学者の橘広相(たちばなのひろみ)(837-890)に作らせたところ、橘広相は「関白」という言葉を使用せず中国の別の言葉を引用して「阿衡に任ず」と記した。基経が親しい学者である藤原佐世(ふじわらのすけよ)(847-897)に相談すると、「そんな役職は名誉職だ名誉職」と諭されたので、基経は大いに激怒して政治を放棄、宇多天皇が最終的に詔を撤回するという、天皇(すめらみこと)大屈辱の結末を迎えたのである。これには藤原佐世と橘広相の学者同士の対立や、橘広相の娘が宇多天皇の妻のひとりとして、すでに二人の子を生んでいるのを牽制するためだったとも考えられている。この時、執拗に橘広相を流罪にしようとする基経に対して、「その辺にしときなさい」と宥(たしな)めたのが、ちょうど讃岐守に任ぜられていた菅原道真(すがわらのみちざね)(845-903)であった。彼は890年に京に戻り、宇多天皇の信任を得て政界へ進出していくことになるだろう。


 その前に、この阿衡事件の888年に、基経は娘の藤原温子(ふじわらのよしこ・おんし)(872-907)を宇多天皇の妻にすることに成功している。まさに基経にとっては、

「はっはは(888)と笑い止まらぬ阿衡事件」

であった。(・・・今回こんなのばっかりだな。)残念ながらこの温子は男子を産むことは無かったので、基経の計算通りにはならなかったのだが、彼はそんなことを知るよしもなく、891年、天上に昇っていったのである。これをもって「白衣(891)の天使」とは言わない。

道真の出世

891年、吐く息(891)も荒く藤原基経が亡くなると、基経の息子である藤原時平(ふじわらのときひら)(871-909)はまだ21歳で、天皇を押さえ込むほどの政界での勢力を持ち得なかった。そのうえ宇多天皇は控えめな天皇にはあらせられず、それは気品ある帝であらせられるから、「うだうだぬかしてんじゃねえ!」と叫んだりはしないが、自らがリーダーシップを発揮して政権の再編を目ざしたのである。

 まずは阿衡事件で屈辱を与えてくれた藤原佐世(ふじわらのすけよ)を陸奥守(むつのかみ)として左遷させ、菅原道真(すがわらのみちざね)(845-903)が蔵人頭(くろうどのとう)に任命された。関白は置かずに自らが親政を執り行い、藤原時平を参事の立場から廃除は出来なかったものの、天皇との血縁関係の濃い源氏(臣籍降下によって天皇血族から派生した)から源興基(みなもとのおきもと)(仁明天皇の孫)を参事とし、続けて893年には菅原道真も参議入りを果たすこととなった。また皇子は宇多天皇と藤原胤子(ふじわらのいんし・たねこ)(?-896)の子、敦仁(あつぎみ・あつひと)親王とされ、藤原時平が外戚となり摂政関白を欲しいままにすることを牽制した。(ただし敦仁親王の養母は藤原基経の娘である。)

遣唐使の停止

 唐帝国は特に安史の乱(あんしのらん)(755-763)の後、強力な中央集権に陰りが見え始め、一方日本では9世紀を通じて格式が編纂されるなど、唐の制度の吸収も大分こなれてきた。大陸の文化と物品は、唐や新羅などとの商人貿易が盛えたので、莫大な資金を使い難破の危険を侵してまで、無理な巨大遣唐使船でもって遣唐使をする価値は薄らいだようである。9世紀の遣唐使は804年に空海や最澄らが渡った後、30年経ってからようやく派遣された。834年の遣唐使である。(これを「馬刺し(834)の遣唐使」とは言わない。)この遣唐使で最澄の弟子である円仁(えんにん)が、マルコ・ポーロもビックリの旅行記を記すことになったのは前に見た。この遣唐使では、円仁などの仏教関係者による仏教の取り込みや、琴・琵琶などの音楽ブームを日本に持ち込むことになり、文化的な意味あいの大きな遣唐使となった。そしてこの遣唐使を最後にして、遣唐使船は二度と大陸に渡ることは無かったのである。

 しかし宇多天皇は黙っちゃいなかった。彼は桓武天皇・嵯峨天皇の推し進めた唐風化政策の推進者でもあったから、中国風年中行事を取り入れ、さらにここで休止していた遣唐使を派遣しようと考えたらしい。894年、遣唐大使に菅原道真が、副使に紀長谷雄(きのはせお)が任命されたのである。しかし菅原道真は理論家タイプの難い奴であったから、唐の実情と遣唐使の効果についてなど吟味し、最終的にこの遣唐使派遣は894年のうちに停止されることになった。まさに、

「白紙(894)に戻す遣唐使」

としか言いようが無いではないか。(はいはい。)ちなみにこの停止、907年に唐が黄巣の乱(こうそうのらん)によって朱全忠(しゅぜんちゅう)(852-912)によって亡ぼされたために、二度と再開されることはなかったのである。つまり一時停止はしたものの、決して遣唐使を廃止するという決定が出されたわけではなかったのである。

醍醐天皇の即位

 これに限らず宇多天皇は冷静に物事を見極めることを旨とする菅原道真を重く登用した。政界有力者の間では格下の家柄と軽蔑され孤立気味であった道真は、ほとんど宇多天皇一人をバックボーンとして、どちらかといえば情で動く「お優しジャパニーズタイプ」の政治家であった藤原時平とは対立気味であった。これが後の劇的な左遷事件に繋がっていくことにもなる。

 宇多天皇の真意は不明であるが、彼は前々から天皇を譲位して上皇になることを望み、897年ついに13歳になった敦仁親王に天皇を譲位。こうして醍醐天皇(だいごてんのう)(885-在位897-930)が誕生した。そして899年、父の勢力を取り戻すべく藤原時平はついに左大臣となり、一方ライバルの菅原道真も右大臣に上り詰めることになる。宇多上皇は、醍醐天皇に対して、

「左大臣の藤原時平は政治の巧みであるから、第一の臣下として顧問を受けるのだ。また左大臣の菅原道真はすぐれた学者であり、政治をよく知るために、順序を飛び越えて登用したのだ。お前の皇太子選別も、譲位も道真に計るほど、私は道真を信頼しているのだから、お前も道真を重んじなさい。」
(いつもながらの心持ちによる文章)

というような言葉を含めて、訓戒文を与えているのだが、これを「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」と呼び、ほとんどが損なわれている天皇日記「宇多天皇御記(うだてんのうぎょき)」と共に、彼の重要な執筆物とされている。


 この宇多天皇、公的な官僚制度として始まった律令制の方向性を大きく変える制度を事実上生みだしている。まず元来私的秘書の役割を担っていた蔵人(くろうど)が拡大された。もともと六位の官人が付く慣わしだったのが、五位の官人も置かれるようになり、897年には藤原時平が蔵人所別当(くろうどどころのべっとう)に任命されると、実際に蔵人を束ねていた蔵人頭(くろうどのとう)の上に、長官として置かれる役職が登場した。

 さらに天皇の居住空間は清涼殿(せいりょうでん)と呼ばれる部分があてられるようになっていたが、この私的空間である「殿上の間(でんじょうのま)」に立ち入ることが出来るものが選抜されるようになった。元々は官職と階位を満たすものは誰でも昇ることが出来たはずなのだが、天皇の許しを得た限られた人間だけが昇ることを許されるようになったのである。これを「昇殿制(しょうでんせい)」という。この頃すでに以前のように紫宸殿(ししんでん)(その前には大極殿だったから、どんどん天皇が引きこもっていく姿を見ることが出来るかもしれない?)で政治を執り行うことは減り、天皇が清涼殿に籠もったままで、殿上人を呼び寄せて政治を行うという「律令国家にあるまじき体制」に移行しつつあったが、さらに役人の昇殿も勤務日数にカウントされるようになって、私的空間と公的空間の融合が計られてしまった。そんな中で行われた彼の治世を、寛平の治(かんぴょうのち)と呼んで讃えることもある。

2009/1/22

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