平安時代6、醍醐天皇と古今和歌集

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醍醐天皇の時代(897-930)

 「もう世話を焼くな(897)」と皇太子に言われたためではなかったが、宇多天皇は譲位して醍醐天皇が即位した。宇多は上皇となったが、政治の世界から完全引退したわけではもちろん無い。それでも翌年898年、宇多上皇は羽目を外して、1ヶ月もの鷹狩り行幸に出発。この時の様子は紀長谷雄(きのはせお)の「競狩記(きそいがりき)」によって、菅原道真の「宮滝御幸記(みやたきごこうき)」として記され、後には「扶桑略記(ふそうりゃっき)」(私撰の歴史書)にも記されることとなった。宇多は天皇時代からしばしば和歌の歌会を催しているが、この時も鷹狩りと合わせて歌いまくりライブを敢行した。(・・・なんかずれとるな。)さらに狩りを大いに楽しんだ翌899年には、上皇は東寺で灌頂(かんじょう)という密教的儀式を行い、仁和寺(にんなじ)で髪を剃って法皇(ほうおう)となった。それだけでなく密教の奥義を授けられることによって僧としての位を上げ、やがて法皇が仏教界のトップであるという立場を確立したのであった。後の王権と仏教との相互扶助関係はここに始まるのだそうだ。彼は仁和寺を改築して自らの御所(ごしょ)としても利用し、仁和寺は中世にも重要な寺院となっていく。

菅原道真の左遷

 しかし宇多上皇をどん底に叩き落とす事件が起きた。右大臣菅原道真を、左大臣藤原時平が醍醐天皇に訴えたのである。斉世親王を取って代わって天皇にする策略があるという訴えである。宇多上皇が自分の側近を政治中枢に固めようとしていたのに不満を持つ分子が、少なからず存在したため、政権抗争に巻き込まれたというところらしい。菅原道真は突如として大宰権帥(だざいごんのそち)の役職に左遷(させん)させられ、泣きながら都を去ったのである。これは都人の役職となっていた大宰帥(だざいのそち)の代理として、つまり長官代理として現地に赴任する役職である。おまけに彼の4人の子供まで流刑にされてしまった。時に901年、

「苦を一(901)身にあびて菅原道真の大宰府左遷」

と人の言うところの事件であった。元号を取って昌泰の変(しょうたいのへん)(道真の正体が変なわけではない)と呼ばれる事件である。そういえば左遷というと、右の位が上官である中国(唐よりもっと以前の)で生まれた言葉であり、唐時代には中国も左の方が位が上であったために、律令を輸入した日本でも右大臣より左大臣が上であるそうだが、私は若い頃てっきり地図上で見て皆さん大宰府のある左側に流されるためだと思いこんでいたことがあった。もちろん道真にとって頼みの綱であるところの宇多上皇が黙ちゃいなかった。平安宮に駆けつけて天皇に会おうと迫ったのである。ところが反道真派の方がはるかに用意周到だったためだろうか、その門は固く閉ざされたまま、うんともすんとも開かない。醍醐天皇の耳は貝殻の耳になってしまった。宇多上皇は呆然としてその場で夜を明かしたのだという。

和歌の隆盛

 翌年902年、醍醐天皇のもとで記録に残る最初の公的な和歌の催し物が開かれた。この「藤花宴(とうかえん)」は藤原時平を初め多くの者が参加したが、もちろん左遷された菅原道真の姿は無かった。ところで和歌は、宇多天皇が強力なリーダーシップを発揮して、役人貴族たちの公的な嗜みとして確立させていったものだ。彼の頃から、歌の旨さによっては出世の可能性もあるという、下級役人どもの歌いまくりブームが始まったらしい。鸚鵡が和歌を詠むこともあるいはあったのだろうか・・・。905年には醍醐天皇の命で初めての勅撰和歌集である「古今和歌集(こきんわかしゅう)」が完成し、和歌の宮廷行事としての重要性を確立させた。


 この「古今和歌集」には小野小町(おののこまち)(809-901)在原業平(ありわらのなりひら)(825-880)などと共に、藤原良房、藤原基経、藤原時平らの和歌も収められ、漢文学の隆盛していたとされる9世紀半ば頃にも、大和歌の擁護者たちは万葉集以来の歌の伝統を閉ざすことは無かったようである。特に代々藤原組の皆さんは、和歌に感心の高い家柄だったようだ。この古今和歌集には紀貫之(きのつらゆき)(866-945)「仮名序(かなじょ)」と呼ばれる序文を記しているが、ここに公的な仮名文字の使用を見ることが出来るだろう。もちろん紀貫之と言えば、
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」
と女に化けて平仮名日記を書きまくった「土佐日記(とさにっき・とさのにき)」が有名である。

怨霊来たりて神となる

 和歌と言えば、学者であり、むしろ漢詩が得だった菅原道真も大宰府に流されるに際して

東風(こち)吹かば匂い起こせよ梅の花
主(あるじ)なしとて春を忘るな(拾遺集より)
/主(あるじ)なしとて春な忘れそ(大鏡より)

という有名な歌を残している。
「春告げの東風の吹くおりには良き香りを立ち昇らせよ梅の花、主(あるじ)が消えたからといってどうか春を忘れないでおくれ。」
といった意味の歌だ。その梅は主を慕って九州にまで飛んでいったというミステリー(飛び梅伝説)(関係ないが平将門には飛び首伝説が残されているが、学者と武士の差が表れていて面白いか?)も残されている。また同じ頃宇多上皇に対しても、

流れゆくわれは水屑(みくず)となりはてぬ
君しがらみとなりてとどめよ

と歌を残している。
「私はもはや流されゆく水屑(みくず)となりはてた。ああどうかあなた、私のしがらみとなって私をとどめてほしい。」
といった内容の歌だ。大宰府で都への帰郷を夢にながらに道真は903年帰らぬ人となったのであった。このことを歌にして

「溜息の句を見つめ(903)ては道真の
遠き大宰に露と消えゆく」

と歌った歌は無いから注意が必要である。(・・・石を投げるべからず。)さて、左遷させた方が悪人か左遷された方が善人か、左遷させた方が正しい政治を行おうとしていたのか、はたまたその逆なのか、それを冷静に見極めることは難しい。その難しいところを掘り下げるのを歴史と言うのだが、このメールは不届きものであるから、その辺は素通りすることにしよう。ただ藤原時平は醍醐天皇のもとで902年、延喜の荘園整理令を出し、これは後に続く荘園整理令のはしりとなった。藤原時平らが醍醐天皇の元で政治改革を行っていった時代を、延喜の治(えんぎのち)と賛えることもある。もっともこれは、実際は宇多天皇の方針を蹈襲したものであった。他にも藤原時平は、道真も編者であった「日本三代実録(にほんさいだいじつろく)」(六国史の最後を飾る)を901年に完成させ、延喜式(えんぎしき)の編纂を続けるなど、精力的に政務に従事していたが、909年、僅か39歳で亡くなってしまった。古今和歌集には彼の歌として

をみなへし秋の野風にうちなびき
心ひとつをたれによすらむ

女郎花は秋の野の風に吹かれてなびいている
その心ひとつを誰に想い寄せてなびくのだろうか

宮廷は女郎花どろこの騒ぎではない。この政治のリーダーの若き死の他にも、公卿の死や天変地異などがあり、時平の急死は菅原道真の無念に呪い殺されたとの噂が立った。醍醐天皇は慌てふためいて、923年になると道真の左遷を破棄して、右大臣に服すると詔(みことのり)した。しかしやがて、天皇の皇太子の保明親王、続く皇太子の慶頼王が亡くなるなど不幸は止まなかった。挙げ句の果てに930年には内裏に雷が落ちて、大納言の藤原清貫(ふじわらのきよつら)(867-930)らが雷殺される事件まで起きた。(「雷殺大納言清貫絵言葉」は残念ながら無いが。)

「内裏の落雷なんてあってたまるか、雷に殺される公卿(くぎょう)なんてあってたまるか。怨霊だ。怨霊の怒りに違いない。藤原清貫は道真の左遷に手を貸して、それがために怨霊に殺されたのだ。」

そんな噂が広まるなかで、醍醐天皇までも病に倒れて、930年のうちにお亡くなってしまったのである。それがため、菅原道真は後に北野天満宮(京都)に祭られ、もともと奉られていた火雷天神(ひらいてんじん)と重ね合わされ、雷神とみなされるようになる。菅原道真を雷神として天神(てんじん)と呼び、後になると高位の学者であったことから学問の神とも賛えるようになっていく。怨霊信仰の最たるものだが、すでに大宰府では919年、彼の無念を鎮めようとして墓所に太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)が建築され、ここは今日でも沢山の人々が観光に、あるいは受験のためノリノリで詣でまくっているのである。

朱雀天皇の即位

 さて醍醐天皇が亡くなると、皇太子に立てられていた醍醐天皇の息子、寛明(ゆたあきら)親王が天皇となった。朱雀天皇(すざくてんのう)(823-在位830-946-952)である。母は藤原基経の娘、藤原穏子(ふじわらの おんし・やすこ)(885-954)で、前の亡くなった皇太子も皆彼女の息子であった。彼女は怨霊を惧れるあまり、自分の息子を几帳のなかに封じ込めて育てたという。そんな朱雀天皇が即位すると、彼の弟にあたる成明親王(なりあきらしんのう)(後の村上天皇)が皇太子となった。つまりこれも藤原穏子の息子である。


 一方藤原時平の後、彼の息子たちは若すぎたり速く死んだりで、政権は時平の弟である藤原忠平(ふじわらのただひら)(880-949)に移った。忠平は時平時代の「延喜格式」を完成させるなど、延喜の治とよばれる政策を継承し、朱雀天皇の即位後は摂政、続いて関白の職を手に入れ、936年には太政大臣に昇る。しかし彼の時代、貴族社会を大きく揺さぶる「承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)」が勃発することになるのであった。これは改めて述べることにしよう。

和歌の隆盛

 この時代大きくクローズアップされたものに和歌がある。9世紀前半の唐風化の高まりが漢詩集を生みだした頃、「万葉集」に見られる「やまとうた(大和歌)」(「和歌」は後に漢詩に対して生まれた言葉)への感心は、少なくとも宮廷の公的行事として歌うことに関しては後退したようだった。しかし歌い手が途絶えるような衰退はなく、後の「古今和歌集(こきんわかしゅう)」にも、唐風化の化身ともされる桓武天皇に続く天皇、すなわち平城天皇の歌なども収められている。また、この「古今和歌集」の序文に書かれた、我々の前に活躍した6人の歌い手(六歌仙・ろっかせん)、彼らが活躍したのも9世紀半ばのことであった。さらに藤原家は代々和歌を重んじる家柄であったらしく、勅撰和歌集へ向かう道のりはすでに以前から始まっていたようだ。そして宇多天皇(在位887-897)が登場する。

 彼は律令制の公的意識を後退させ、天皇居住空間である「殿上の間(でんじょうのま)」へ登ることが出来る者を、天皇意志によって殿上人(でんじょうびと)として選抜する方法、後に「昇殿制(しょうでんせい)」と呼ばれる制度を開始させた。また、直接天皇と結びつき行動する私的秘書の臨時職であった蔵人(くろうど)の自立化、自らの近臣を配備する遣り方を推し進めた。こうして公的システムの中に私的関係が大きく割り込むという、この時代の風潮を推し進めた天皇だった。そしてこの天皇の近臣の資格として、和歌が巧みであることが次第に重要な意味を持つようになったのである。「万葉集」と「古今和歌集」をつなぐ唯一の現存和歌撰集である「新撰万葉集(しんせんまんようしゅう)」は、上巻は菅原道真が編纂したとされ893年の序を持つが、その序にも宇多天皇が近臣の才能ある者に和歌を作らせたことが記されている。

 宇多天皇が譲位して醍醐天皇時代にはいると、902年、内裏内で初めての公的な和歌行事が開催される運びとなった。「藤花宴(とうかえん)」と呼ばれる歌会には、菅原道真を追放したばかりの立役者、藤原時平も参加していた。「あの五月蠅い奴が居なくなって清々しましたね」なんていう取り巻きもひょっとしたら座にあったかもしれない。

古今和歌集

 さらに905年には「古今和歌集」が編纂される。これは「やまとうた」で初めての勅撰集であり、以後続く勅撰集を合わせて「二十一代集(にじゅういちだいしゅう)」と呼ぶが、その開始を告げる勅撰集となっている。さらにこの和歌集では真名序(まなじょ)を紀淑望(きのよしもち)が、仮名序(かなじょ)を紀貫之が記したとされ、この仮名序は、和歌のあるべき姿について後世大きな影響を与えることにもなった。こうして宮廷の公的行事に組み込まれ、勅撰集が出され始めた和歌は、例えば960年、村上天皇時代に開かれた「天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)」のような、盛大な歌合(うたわわせ)にまで発展することになった。その歌の優劣は、左大臣藤原実頼(さねより)、大納言源高明(たかあきら)らによってなされたという。

 さて、上に登場した真名序とは漢文による序文の事である。当時は漢文を真名(まな)と呼び、今日の平仮名(ひらがな)のルーツになる仮名文字は、それに対応する形で「かりな・仮名」(後に「かな」)と呼ばれるようになっていた。マナカナ(三倉茉奈・三倉佳奈)の名前がここに由来することは今更云うまでもあるまい???

 ・・・またずっこけたようである。その仮名のルーツは万葉仮名において当て字となっていた漢字の草書体が簡略化したものと考えられている。これが次第に独立した文字と見なされるようになっていたのだが、和歌同様に、この「古今和歌集」の仮名序において、華々しく公的な言葉としてデビューしたといっても、まあ初心者向けの日本史なら目くじらを立てるほどの逸脱は無いだろう。もちろん和歌自体も平仮名と漢字を合わせた文体であり、今日の日本語表記の基本が、すでに安定した状態として登場しているのを見ることが出来る。

 これは「古今和歌集」を編纂した一人である紀貫之が、後年935年頃完成させたとされる「土佐日記(とさにっき)」において、文学作品を生み出す言語表記として積極的に採用されることとなった。彼は当時の貴族達が記す日記、宮廷行事などを記入し備忘を兼ねる日記になぞらえて、主人公の女性が自らも日記を記してみるとして記す、という設定で紀行文と日記を兼ねたようなスタイルで記述を行っている。しかし、これは松尾芭蕉の「おくのほそ道」が純粋の道中記ではさらさら無いのと同じくらい、創作的な文学作品として、最初から意図されたものである。これは後世に大きな影響を及ぼすことにもなった。

地方社会の変化

 9世紀、戸籍虚偽や逃亡などで租庸調などの税を逃れるといった脱税対策が民衆に広く浸透する中で、良吏(りょうり)と呼ばれる優れもの国司への声が高まった。しかし税収の不足は次第に大きな問題となっていった。一方で中央貴族の地方派遣や在地定住化、在地有力者との結びつきが強化されていく。特に前任国司の子弟であり中級以下の貴族達の中には、都に帰らずその地に土着し、郡司や裕福層と婚姻を通じて結びつくものも多く、当地での農業や商業の実権を握ることにより経済的幸福を目差すことが、都人(みやこびと)であるよりも優先されることがままあった。また地方の有力者は、自分達の荘園を、強力な後ろ盾である院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)(五位以上の貴族、特に上皇や親王など)の下に置き、その特権を盾にして税金対策を行うことも増えていった。

 902年の延喜(えんぎ)の荘園整理令では、その結びつきを断ち切ろうとしているが、結局地方有力者が政府ではなく個人的に中央有力貴族と結びつき、貴族達もまた個別に地方と結びつこうとする傾向を留めることは出来なかった。ちょうど菅原道真の目差した律令制の立て直しが葬られ、彼自身も901年に大宰府に飛ばされてしまうがごとく、口分田と租庸調などに基づく人頭税の制度は破綻を迎えることになった。なぜなら902年を最後に班田収受は停止されてしまったからである。

 現実に即した地方政治体制の見直しは、9世紀後半には始まっていた。もともと国々の国衙(こくが・地方政治中枢)における国司というものは、律令制によれば守・介・掾・目(かみ・すけ・じょう・さかん)という役職に分かれ、その全体が国司であったはずである。しかし方針を転換し、(ほとんどの場合)守(かみ)に税徴収や政治に対する権限を一任し、内政への干渉も控える代わりに、納税などの義務と責任を全面的に負わせることにしたのである。

 こうして権限を受領(じゅりょう)した国司のことを、受領(ずりょう)とか受領国司(ずりょうこくし)と呼ぶ。これによって受領による地方掌握という方針が取られたのだが、同時に受領に地方の富と権力が集中することになった。都では中級以下の貴族たちが、「我こそ」「いやわたくしめに」「いやいや我こそは」と受領任命に命を懸ける一方で、地方では受領以下の国司たち(介・掾・目ら)と、受領国司の対立を巻き起こしたのである。また在地の有力者(在地首長)であった郡司の任命についても、郡司により間接的に統治されていた地域社会そのものについても、圧倒的に受領の影響力が大きくなってった。

新しい税制

 逃亡者たちを取り込んで(逃亡と言っても積極的逃亡、あるいは出稼ぎ逃亡もあったと思われるが)、奈良時代より発達した荘園も、資料が少ないが発展していったと考えられる。天皇の勅旨(ちょくし)によって各地に置かれた天皇家荘園は勅旨田(ちょくしでん)と呼ばれ、天皇近親が経営を行っていた。延喜(えんぎ)の荘園整理令が断ち切ろうとして失敗したであろう院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)の荘園は、この整理令によってその隆盛が推測される。寺院の荘園ももとより顕在で、美味しい田処がぞくぞく荘園化するに及んで、戸籍に基づく班田は完全に崩壊してしまったのである。

 そこで例えば以前より耕作や特産物製作に中心的役割を担って裕福となっていた地域有力者を、税を納める者として国衙に登録し、国衙からの検田使(けんでんし)収納使(しゅうのうし)によって税を定めることとした。これは人単位ではなく、田の面積に応じて直接課税するという土地税である。人頭税からの転換が確定され、税収を受領の直接支配下に置くという措置が取られた。これを負名体制(ふみょうたいせい)と呼び、登録された経営者を田堵(たと)と呼ぶ。小さい単位の田堵は小名田堵、特に大きなものを大名田堵(だいみょうたと)と呼んだりした。(田んぼ以外の場合、特産品集落とか漁村、塩田の村なども同様だったのだろうか?)また税も、租庸調の代わりに官物(かんもつ)、雑徭などの代わりに臨時雑物(りんじぞうもつ)が当てられ、公出挙などは無くなった。ただし、私出挙は長らく存続し、鎌倉時代には銭の出挙にシフトしたと考えられているようだ。

 中央の税収不足に対処する政策も出された。都の米の需要はかつては国々からの脱穀米で賄われていたが、これは10世紀前半に畿内近国に請け負わせることとし、同じ頃、中国(畿内から中くらいの距離の国)と遠国(畿内から遠い国)には、それぞれの都官人の給与を代理支給させる政策が取られ、不足する中央財政に対処している。また特に宮中儀式や仏事の運用資金を正蔵率分(しょうぞうりつぶん)とし、国からの税金の一部をこれに当てたり、仏事のための物品を宣旨(せんじ)によって調達することが行われるようになる。これはやがて継続的に行われ永宣旨料物(えいせんじりょうもつ)と呼ばれるようになった。

受領と朝廷の関係

 やがて、受領と朝廷の公的中立的でない関係が華やいだ。受領はそれぞれに内裏の修理や寺院造営などを個別に行い、その代わりに任期延長(延任・えんにん)や重復(重任・ちょうにん)、さらに他の官位を得る(成功・じょうごう)などを行い、受領を推薦する権利(受領挙・ずりょうきょ)を持つ公卿達に、私的な結びつきを求めることもあった。さらに都人のまま受領たらんとして、任地には留守処(るすどころ)という施設を設け、国司に雇われた目代(もくだい)、判官代(ほうがんだい)などの在庁官人によって国衙経営がなされる事が多くなっていく。こうして目代にお任せして都にたたずむ遣り口を、遙任(ようにん)と呼ぶ。

 そんなに美味しい受領だったが、あまり阿漕(あこぎ)に取り立てすぎて、郡司や百姓(農民とは限らない)から訴えられる例もあった。988年に尾張守である藤原元命(ふじわらのもとなが)が、31箇条にわたって訴えられたものが有名である。これは「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ)」と呼ばれている。この時期、政治文書の作成に必用として学ばれていた漢文の四六駢儷体(しろくべんれんたい)で書かれているそうだが、それは何だと問われても何の答えも返せないので、各自興味がおありなら、調べてくださいませませ。

2009/2/9

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