平安時代7、承平天慶の乱

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兵(つわもの)

 律令制の開始とともに組織された軍団は「軍(いくさ)」と呼ばれた。これは国家組織に組み込まれた上下関係を持つ公的な軍隊である。これは戸籍登録者から選別された軍隊であった。律令制では正丁(せいてい、21~60歳の健康男子)の3人に1人とされたが、実際はそれほど多くはなかった。1戸につき1人とか2人ではないかともされる。(不明瞭)地方豪族たる郡司から軍隊経験者や志願者が選抜されたのか、いやいやながらの百姓が徴収されたのか、詳細は不明である。

 「軍(いくさ)」において特に重要なのは騎兵と弓馬(きゅうば)の技術であり、この時期の軍隊において戦争の中心を担っていたと考えられる。792年に桓武天皇によって軍団が(陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除いて)ほぼ廃止され、変わりに「健児制(こんでいせい)」が敷かれたが、やはり騎兵による弓が中心的役割を果たしていた。この「健児」というものも734年の詔などから、すでに軍団兵士の一部分をなしていた事が分かるが、738年に一度解散させられ、762年になると復活するなどの変遷を持つ組織だった。

「近江・伊勢・美濃・越前の4国で20歳から40歳までの弓馬の技術を持つものを郡司の子弟および百姓から選抜して健児となす。」

というもので、東国に対する軍隊補強の意味あいがあったとも考えられる。


 いずれ律令制開始時期から、地方豪族たる郡司の家や百姓(農民だけを指す言葉ではない)の中に弓馬の訓練を受けたものが、組織可能な程度存在していたことが分かる。彼らは徴用されればすなわち公的な兵であるが、そうでなければ私的な兵であったといえる。しかし、地方の豪族や、そうした豪族の任命されることの多かった郡司などが、どの程度の兵を抱えていたのか、また軍団の形成には、無頓着に選抜した百姓ではなく実際は彼らの中から選ばれることが多くあったかどうかなど、そのあたりの詳細は、私の調査の範疇を越えているのでここでは不明としておく他はない。ただ、792年に桓武天皇が軍団の大部分を解散し、変わりに健児制を敷いた時、やはり郡司の子弟と百姓のうち弓馬の訓練を受けたものが選別されていることから、このような者たちが軍に置いて重要な役割を担っていたことは間違いないだろう。


 やがて9世紀後半、それまでの国司制から国司に地方統治の大権を委任する受領国司制(ずりょうこくしせい)に移行すると、かつての地方豪族であることの多かった郡司は地位低下のため受領層と争い、また富裕百姓、在地化した貴族などを巻き込んで、争いが頻発するようになった。(あるいは逆にそうした地方勢力の活気こそが新しい制度を作らざるを得なかった原動力だったのかも知れないが)

 一方で、商業活動やら荘園からの税の移動などで運送業が栄えると、運送を請け負いつつ盗賊的略奪行為を働くような群盗(ぐんとう)も登場してくる。特に9世紀後半から坂東(ばんどう)(足柄・碓氷両峠よりも東の地域)では、恵まれた御牧(みまき)が馬を多く育て、それを利用した運送者が「しゅう馬(しゅうば)」などとと呼ばれるようにもなったが、彼らは地域に独立不遜たるならず者集団として「しゅう馬(しゅうば)の党」と呼ばれることがあった。もともと帰順した蝦夷(俘囚・ふしゅう)たちも群盗を形成するなど、特に東国では度々の強盗騒ぎや武装蜂起が行われていたのであるが、このような動きは、全国各地に見られたものだった。

 そうした地方の群盗蜂起などに対して、政府は国単位で任命される押領使(おうりょうし)を任命し鎮圧の任に当たらせ、また追捕官符(ついぶかんぷ)というものを直接国司や、その国にあって武芸に優れかつ政府に従う者に与え、彼らに兵士と食料の調達を許し、追捕を命じることが行われた。地方の軍事的有力者は、あるは国司と繋がったり、中央から派遣されて在地化した貴族であったり、さまざまなパイプで中央貴族達とも繋がっていたのであるが、そのような者達へ追捕を命じ、成功すれば恩賞や肩書きが与えられるというような政策が取られた。さらに追捕に置いても鎮圧のならない場合は、検非違使(けびいし)などから抜擢した「追捕使(ついぶし)」後に「追討使(ついとうし)」を派遣することになるのである。

 こうした武力集団同士の抗争や武装蜂起などを通じて、国家から弾圧される側と国家に公認され鎮圧にあたる者が入り乱れて活気を呈している間に、やがて国家に認められ雇われるべき武力集団としての兵(つわもの)(後の武士団)が登場してくることになる。(よく分からないので、逃げの記述に徹しておく)

 彼らは職業としての弓馬(きゅうば)を中心とする武芸を認められた集団であったが、彼らがクローズアップされるのは、ちょうど10世紀前半に起こった二つの事件、平将門の乱と、藤原純友の乱を通じてであった。この両事件が中央政界へ激しい動揺を沸き起こした時、兵集団は返せない橋を渡ったのだと言えるのかもしれない。

 なお「兵(つわもの)」という名称は10世紀頃には登場し、他にも「豪の者」とか「武者」とか記されることはあったが、武士という名称が彼らに与えられるのはずっと時代が下ってからである。今日ではひっくるめて初めから「武士団(ぶしだん)」の名称を使用する場合もある。

承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)

 平将門の乱は、下総(しもうさ)の猿島(さしま)に構える平将門(たいらのまさかど)が、内紛を乗り切って各国に領土を広め、関東八カ国を従えて独立国(939)の宣言をしてしまった事件である。藤原純友の乱は、伊与の日振島(ひぶりじま)の藤原純友(ふじわらのすみとも)が、瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こした動乱で、海上交通を押さえて太宰府をさえ襲ったのだが、最後には追捕使の小野好古(おのよしふる)や源経基(みなもとのつねもと)によって鎮圧された事件である。この一連の事件によって、軍事貴族に注目が集まるようになっていく。つまり彼らは、この時期ますます都で天皇や摂関家に近づき勢力を拡大し、地方に土着して国衙(こくが)(国司すなわち受領を不在のトップに置く官庁)に雇われたりしながら活躍を高めるのである。その象徴的な二つの乱を見ていくことにしよう。

平将門の乱(935-940)

 桓武天皇の息子に葛原親王(かずらはらしんのう)(786-853)があった。彼の子供らのうち、高見王(たかみおう)の息子である(あるいは直接葛原親王の息子である)高望王(たかもちおう)(839?-911?)が、宇多天皇により平(たいら)の姓を賜り、臣籍降下(つまり臣下の一人と)して平高望(たいらのたかもち)となると、上総介(かずさのすけ)に任じられた。上野国(こうずけのくに)などもそうだが、この国は親王が国司を務める国、すなわち親王任国であったから、その下で仕える上総介が、在地のトップであった。そしてこの平高望、高貴の貴族が京に留まって在地管理を委任するという例の遙任(ようにん)を行わず、自ら任地に出向いたのである。そこで地方の有力者と結びつきを強めつつ在地化。その子らは関東方面にそれぞれ勢力を競い合うようになった。これが桓武平氏(かんむへいし)の発祥である。

 その中に平良将(たいらのよしまさ)が居たが、彼の息子こそ平将門(たいらのまさかど)(903-940)である。在地有力者の多くがそうするように交通をつかさどる河川近くに腰を下ろし、その本拠地は茨城県坂東市付近にあったとされる。一時京へ上り時の権力者である藤原忠平に仕えていたことがあり、彼を後ろ盾にして勢力を誇っていたと考えられている。

 一説によると、遺産相続を巡る伯父達との争いなどがあって、935年から大きな地域紛争を引き起こし、中央政府から召喚命令を出されて罪ありとされたり、許されて関東に勢力を拡大したりするうちに、坂東に名を轟かせるに到ったとされている。詳細は父を将門に討たれた平貞盛をこころに留めながら眺めてみると面白いかも知れないが、今は打ち切りとしておくことにしよう。

 ところがある時、武蔵国に権守(ごんのかみ)の興世王(おきよおう)と、武蔵介の源経基(みなもとのつねもと)(897-961)が赴任してきた。源経基は清和天皇の息子の一人、貞純親王(さだずみしんのう)の子であるとされ、(陽成天皇の息子の子という説もある)、源氏の姓を賜って、938年に武蔵国に赴任してきたのであるが、彼こそ後の清和源氏の祖であるとされる人物だ。(他にも大勢居たが、後々彼の子孫がメインストリートを形成するに到った)

 彼らは赴任後、税の取り立てを巡って足達の郡司であった武蔵武芝(むさしたけしば)と争いとなり、仲裁に入った平将門に対して、源経基が「謀反あり」と都に報告するといった流れがあって、敵対関係になってしまう。ところが平将門は、太政大臣として君臨する藤原忠平(ふじわらのただひら)を後ろ盾に持っていたためもあるのだろう、この時は事実関係の報告の結果、かえって源経基が咎を受けることとなったのである。

 同年939年、国司への税を支払わず地域利益を横領しているとして、藤原玄明(ふじわらのはるあき)が、常陸介の藤原維幾(ふじわらのこれちか)によって追捕(ついぶ)されようという時に、藤原玄明が平将門を頼って来たのである。将門はこれを擁護する。ここでさらに国府に居た敵対勢力の平貞盛(たいらのさだもり)(やはり高望王の孫)と戦闘状態にいたり、事件拡大の結果、常陸(ひたち)国府を占領して藤原維幾を拘束することになってしまった。これをもって反政府軍の腹をくくったものかもしれない。939年の12月には下野国府、上野国府を落とし、関東一円を納めたのであった。

 彼は坂東八カ国と伊豆国(いずのくに)を占有し、配下のものを受領として国に派遣し、自ら勝手に官人を任命し、ついに新しい天皇の意味で「新皇(しんのう)」を名乗るに到った。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)のお告げがあったそうである。12月22日、反乱の噂が朝廷にもたらされ、ほどなくして西国で藤原純友(ふじわらのすみとも)の反乱も伝えられると、朝廷は大きな衝撃に包まれた。左衛門府に拘禁されていた源経基は、これによって赦免され、その上従五位下を賜った。

 中央政府の方針は、藤原純友はとりあえず懐柔。将門討伐のために藤原忠文(ふじわらのただぶみ)(873-947)[花咲くような、と覚える?]が征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)に任命された。これは征夷大将軍を貰った坂上田村麻呂以来の大役である。さらに彼の下には、副将として参加する源経基の姿もあった。

 天皇の代理たる「軍事大権」を節刀(せっとう)によって与えられ、東国で大戦が行われるかと思われたが、そうはならなかった。彼らが到着する前に、戦は終わってしまったのである。下野掾(じょう)であり押領使の役を得ていた藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と、常陸掾であり押領使の役を得ていた平貞盛が、940年の2月14日、バレンタインの贈り物ではないが、平将門に素敵な弓矢を送り付けて、将門は戦に敗れてあっさり死んでしまったのであった。この平貞盛もやはり桓武平氏であったが、彼こそ後に、桓武平氏の祖と仰がれた人物である。

 将門の首は京都でさらし首にされ、東の市は首見客で賑わったという。ただし首見の宴が催されたかどうかは歴史には残されていない。もちろん彼を討ち取ったものには恩賞が与えられた。藤原秀郷は従四位下を賜り、下野守の役職を得、さらに武蔵守、鎮守府将軍を務めることになった。一方平貞盛は従五位上を授かり、鎮守府将軍、陸奥守、丹波守などを任命されることになる。このような朝廷のために働く代わりに、朝廷から公認され役職を得て勢力を拡大する有力者たちの存在が、来たる武士社会への扉を開いたのだそうだ。彼らは当地で勢力を築き、後の多くの武家を派生させている。

 そのような武力を生業として地域を治める兵(つわもの)の存在は、一方では妖力、怪力を持つ荒くれ者としてのイメージを付随した。例えば藤原秀郷は、俵藤太(たわらとうた)として人々に知られ、近江国瀬田の百足退治の伝説とか、宇都宮に伝わる百目鬼(とどめき)退治の伝説なども残されているのは、彼らが人々からどのように見られていたかの、道しるべの一つにはなるのだろう。

藤原純友の乱(939-941)

 同時期、瀬戸内海を中心に反乱を起こした藤原純友(ふじわらのすみとも)(893?-941)。最近では藤原北家の系譜に連なり、伊与掾(いよのじょう)に任命され当地の海賊を平定するなどの功績の後に伊予国に土着した人物だと考えられている。そして現地において、「海賊」という言葉が正しいのかどうだか分からないが、とにかく水軍的、あるいは海民(うみのたみ)的な存在と結びついたらしい。在地での勢力争いに対して、朝廷が一方を追捕する側とし、一方を追捕される側と定めれば、それがもととなって朝廷に対する反逆にもなってしまうというのは、平将門の乱に見られた現象だが、それと同じような構図で反乱に到ったかどうだか、939年の12月21日に伊与守(いよのかみ)紀淑人(きのよしと)(最後の遣唐使副使である紀長谷雄の息子)に逆らって出航し、政府に対して反乱を決行した。数日後、すでに当地の海賊追捕の任に当たって活動していた藤原子高(ふじわらのさねたか)という男に対して、耳を切り、鼻を割り、妻を奪って子供らを殺す、という暴挙に出ていることから、藤原子高への怒りが重要な反乱の引き金だったとも考えられる。

 これに対して朝廷は、藤原純友に位階を授けたり、配下の造反を画策して時間を稼ぐ一方、平将門討伐にあたっていたが、殊の外あっけなく将門が翌年2月には死んでしまったので、将門討伐で名を上げた平貞盛や源経基らを純友討伐に当たらせる動きも見せつつ、当地に詳しい橘遠保(たちばなのとうやす)の活躍や、追捕使の小野好古(おののよしふる)などの活躍によって、最終的には藤原純友を討ち果たすことになった。一時は大宰府まで占領した純友は、1941年6月に伊与に逃れてガクブル震えているところを、橘遠保に捕らえられ都で晒し首となった。(平将門の首は東国に飛んでいったとされるが、果たして純友の首は西に飛んで行ったのであろうか……)直前5月には将門討伐の時に征東大将軍に任命された藤原忠文が、今度は征西大将軍に任命されてもいる。また小野好古とともに向かった源経基は、それほど大きな功績はないものの、後々出世して武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予などの国司を歴任、さらに鎮守府将軍として東北を任されるに到った。


 この「平将門の乱」と「藤原純友の乱」を合わせて「承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)」(935-941)と呼ぶが、この時の大反乱の記憶と、活躍して鎮圧した英雄の印象は、当時の人々にとって非常に大きなものだった。後に栄華を誇る桓武平氏(平家)は平貞盛を祖と仰いでいるし、源氏も初めのうちは源経基に起源をもとめていたという。そしてこれ以後次第に、様々な局面で政府に動員される武官、職業軍人としての武家の家系がクローズアップされ始めるのだそうだ。それは紆余曲折を経て、藤原道長の時代頃から「職業軍人としての兵(つわもの)の家」が安定固着するようになっていく。またこの時政府が与えた、位階と功田(こうでん)などの恩賞が、貴族社会的な中央と、兵集団との結びつきを、新しい立場にまで押し上げたとも言えるのかもしれない。えっ、年号暗記ですか、それは難しいなあ。「臭くない」だと「93971」で分かりづらくなるしなあ。

「平将門は草いつも(935)、
藤原純友は草急苦しそうに(939)食べました。苦しい(941)よう。」

「そりゃなんの意味だ?」
「さあ」

 ……失礼した。こうして教科書的には、公領や荘園の開発地自営、農民の武装化が武士を生んだという意見は否定されつつあり、年中行事絵巻の中の武装した貴族の絵にある、近衛府など当時の五衛府(ごえふ)(後に六衛府)の武官達、令に含まれない令外官(りょうげのかん)として設置された検非違使(けびいし)の治安維持武官達、地方に派遣された官職を通じての武士団の形成が行われ、一方では藤原道長が弓の名手だったような伝統は、この後次第に後退して、お優しい宮廷貴族層が形成されて行くことになった。

 特に東北や関東の蝦夷の討伐や監視、東国に横行する「しゅう馬の党」などの山賊達、瀬戸内海の海賊追捕(ついぶ)などに派遣される軍事貴族達は、中央で高い官職を望めない中小貴族層であり、そのまま定着して、京にいる国司の下で実際に統治を行う在庁官人として任命されたり、令外官であった暴徒鎮圧のための押領使(おうりょうし)や、やはり暴徒逮捕のための追捕使(ついぶし)に任命されながら、兵(つはもの)(武士団)として国家に仕えるようになったと考えられる。しかし彼らすべてが、国家権力から生まれたものかは分からない。分からないが、清和源氏(せいわげんじ)も桓武平氏(かんむへいし)も天王の血を引くことをこそ誇りに思っていたのは事実である。清和源氏は清和天皇、桓武平氏は桓武天皇を祖としているからである。上級貴族に芸能を持って仕える「芸能人」としての「武士」を記した書物もあるが、これ以上その発祥に関わっていても、私にとっては何ら益するところがないので、そろそろさようならのシーズンである。

 おまけ、参考資料には「豪族は同族的結合を基盤にして軍事的集団としての武士団を形成した。その家門の本家の惣領(そうりょう)を棟梁(とうりょう)とし、それぞれの分家を持っていた。本家と分家の当主の下には、家子(いえのこ)・郎等(ろうとう)といった下級武士が仕え、その下に下人・所従などが仕えた。武士以下は、雑用や田畑の耕作を行った。」と書いてあった。

延喜・天暦の治

 さて面白いことに、この時期政界で活躍していた藤原北家の藤原忠平(ふじわらのただひら)(880-949)は、かつて平将門が京で仕えて主従関係を結んだ男でもあり、また藤原純友の家系も逆上ると藤原長良(ふじわらのながら)に辿り着くのだが、その長良は忠平の祖父でもあった。それがちょうど朱雀天皇(923-在位930-946-952)の時代に承平天慶の乱が起きてしまい、結局は関白であった藤原忠平の才覚が一層認められる結果となってしまったのであった。ただし反乱は集結したが、災害やら騒乱が多いためか、あるいは他に理由があったのか、朱雀天皇は成人した皇太子に天皇を譲位することにした。946年、醍醐天皇と藤原基経の娘藤原穏子の息子、成明親王が村上天皇(926-在位946-967)として即位。忠平は何度か辞退を願い出つつも、949年に亡くなるまで、天皇の関白として留め置かれたのであった。その後、村上天皇は関白を置かなかったのだが、忠平の息子達の政治への影響力は実際はかなり大きく、続く藤原家の摂関政治への礎は、忠平によって築かれたともいわれている。

 さて、実際は宇多天皇に治世の根本を発するものの、醍醐天皇(在位897-930)、30歳で亡くなった朱雀天皇を挟んで、続く村上天皇(在位946-967)の治世は、「延喜・天暦の治(えんぎてんりゃくのち)」と讃えられるようになった。天皇の区切りで言えば、

「焼くな(897)らば苦労無(967)きよう延喜天暦の治」
とでも言ったところである。

 これは後の時代、摂関政治が固着化してから、摂関家(藤原氏)よりも天皇のちからがみなぎっていた優れた時代として、摂関家の専横に反感を持つ貴族達の間で広まったものらしい。実際はこの時代にも藤原家の政治権力は大きく、むしろ摂関時代への階段を登っているに過ぎなかったのだが、理念としての天皇親政の時代として、11世紀頃には広く貴族社会に浸透していたようだ。この考えは、鎌倉幕府が亡んだ後、後醍醐天皇が自ら政治を執り行う「親政(しんせい)」を開始した、あの「建武の新政(けんむのしんせい)」を行う時の理想にもなったという。またこの時代は、朝廷儀式の様式化が進み、朝廷儀式は後々村上天皇頃を規範にすべきと考えられるようにもなっていった。藤原忠平が沢山の有職故実(儀式の仕来りなど)を息子達に引き継がせ、その息子達の中から、
藤原実頼(さねより)から小野宮流(おののみやりゅう)
藤原師輔(もろすけ)から九条流(くじょうりゅう)
仕来りの流派として誕生したことは、よく知られた話である。

2009/8/23

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