さて、藤原良房(804-872)が清和天皇の幼き即位に対して摂政の地位(といってもまだ完全な地位としては確立はしていないが)に付いて以来、養子に貰った藤原基経(836-891)(兄の藤原長良の三男)が摂政だけでなく、宇多天皇時代に関白の名称をいだき、摂関政治の到来を築いたのは前に見た。その後、基経の長男である藤原時平(871-909)が菅原道真の怨霊に殺される(と人々に信じられた)後、醍醐天皇時代後半からしばらく摂政関白が置かれず、名目的ではあるが天皇親政の一時を迎えることになった。
もちろん実際にはこの間も藤原氏の政治的影響力は逞しく、摂関政治の確立をどこで区分するかは非常に微妙な問題ではある。しかし今日(こんにち)の日本史の主流としては、もちろん今日(きょう)の主流は明日の亜流である危険を常にはらんでいるものであるが、一応930年、朱雀天皇(923-在位930-946-952)が幼少で即位した時、藤原忠平(880-949)(基経の四男)が摂政に任命された時をもって平安時代は摂関政治を開始するとされる。
それは忠平が朱雀天皇の成人後に、改めて関白の名称をいただいた、初めての人だからである。これによって幼少の摂政から成人後の関白を通じて、天皇の後見人たる摂政関白が政権を握る体制が確立したと見るわけだ。ただし、天暦の治(てんりゃくのち)と讃えられ、摂政関白が不在となる村上天皇の親政は、朱雀天皇の次の天皇である。したがって、続く藤原実頼(さねより)が、冷泉天皇(れいぜいてんのう)(950-在位967-969-1011)時代に関白に任命され、その後摂政関白の地位が確立する時こそ、摂政関白政治の真の開始と言えるかもしれない。ちょうどこの頃、摂政・関白が完全なひとつの地位と見なされるようになり、幼少の摂政、成人後の関白という流れが出来上がったからである。こうして長すぎる平安時代の、次の時代が訪れることになるのだが、その摂関政治の確立を改めて眺めてみよう。
村上天皇時代後半、摂政関白は置かれず、左大臣藤原実頼(さねより)(900-970)(忠平の長男)、右大臣藤原師輔(もろすけ)(908-960)(忠平の次男)、それから醍醐天皇の子であり師輔の娘を妻とする源高明(みなもとのたかあきら)らによって、ある種の連合政治が行われた。この間、恐らく藤原兄弟の力もあって、藤原師輔の娘である藤原安子(ふじわらのあんし・やすいこ)(中宮安子)と村上天皇の子供が皇太子とされ、村上天皇が亡くなると、967年18歳で冷泉天皇(れいぜいてんのう)として即位した。
どこまで真実かは不明であるが、この天皇、夜通し蹴鞠に明け暮れたとか、火事の中にあっても歌いまくり状態だったとか、奇行が目立つ天皇として知られ、藤原実頼が関白に任命される運びとなった。(あるいは藤原兄弟の策略により奇行がデフォルメされているなんて事もあったりするのだろうか、日本史というより、物語的創作を感じさせる気もする)この時すでに藤原師輔は、村上天皇に嫁いだ娘安子も亡く、政権の足がかりを模索する源高明と、さらに源高明を廃除して権力強化を狙う藤原実頼と、三人のあいだにどのような動きがあったのか、細かいことは私には調べ尽くせない。とにかく天皇決定に続いて定められる皇太子が、村上天皇の子供(冷泉天皇の同母弟)の中から選ばれる時、高明に有利に働く年長の為平親王(ためひらしんのう)ではなく、守平親王(もりひらしんのう)(後の円融天皇)が選ばれたのである。そして969年、はっきりした理由は不明であるが、(一説では為平親王を担ぎ出そうとして)、源高明が謀反に荷担しているとされ、大宰権帥(だざいごんのそち)として九州へ流される事件が起きた。藤原組による政敵廃除という、いつものパターンにも見えるが、これは摂関政治に到るための排斥事件の最後のものとして重要であるそうだ。この事件を「安和の変(あんなのへん)」という。覚え方は、そうさねえ、
藤原実頼が腹黒く(969)排斥したら、源高明が泣きながら「あんなの変だよ」と叫んでしまった。
というのはどうだろうか。この高明殿は、しかし1年あまりで都に帰ることは許され、されど政権に戻ることは叶わず、983年に没している。一方奇行名高き冷泉天皇も、969年のうちに恐らく無理矢理譲位させられたのだろう、守平親王が円融天皇(えんゆうてんのう)(959-在位969-984-991)として即位した。こうして藤原氏の摂関政治は、967年に藤原実頼が摂政に付いたことにより始まり、安和の変を経て安定したという。
これによって、例えばかつて太政大臣の仕事のうち、天皇の決定に対して自らの意見を「あずかり申す」ことを関白と呼んでいたものが、この頃には左大臣でありながら関白の職をいただいたり、摂政となると大臣を辞任する例など、完全にひとつの役職と見なされるようにもなっていたのである。
奇行天皇として知られる冷泉天皇が譲位した。969年に即位した円融天皇は、有職故実(ゆうそくこじつ・古来の仕来りなどの知識を有するもの)の学者として知られた藤原師輔の娘、藤原安子の息子であった。したがって、初めこそ藤原実頼が摂政に付いたものの、970年に彼が亡くなると、その地位は藤原師輔の長男である藤原伊尹(これただ)(924-972)に引き継がれたのである。さらに彼が972年に亡くなると、藤原師輔の次男兼通(かねみち)(925-977)と三男兼家(かねいえ)(929-990)の仲悪(なかわる)兄弟の確執が、次期摂政を巡って激しくなる。
しかし次男兼通、かなりの性悪(しょうわる)だったものか(非歴史的記述)、円融天皇には好かれず、おまけに弟の兼家の方が位が上になっていたから、非常な危機感を持っていた。意地でも三男に摂政を奪われまいとして、亡き藤原安子の手紙を持ち出してきて、天皇に次の摂政は自分であることを強引に売り込んだのである。これによって摂政に就任したのであるが、その後、三男兼家の出世をあらゆる手段で阻(はば)んで見せたというから怖ろしい。
しかし、そんな兼通にもついに臨終の時が訪れた。977年である。これを聞いた三男兼家は、すでに兄が死んだと喜んで、見舞いを待つ兄の館を通り越して、天皇の元に摂政の地位を嘆願に出かけてしまった。(と文献には残されている)これを聞いた兄は激怒した。死期迫る病魔を押しのけて参上すると、最後の力を振り絞って、藤原実頼の次男であった藤原頼忠(よりただ)(924-989)を次の関白に指名して、それから亡くなった。おまけに弟の位を、降格にまでしてみせたのである。
まつたけ浅ましきは兄弟げんかであるが、984年には円融天皇が譲位して、花山天皇(かざんてんのう)(968-在位984-986-1008)が即位した。この天皇は冷泉天皇と藤原伊尹の娘の子であり、藤原頼忠との外戚関係もなく、また自ら政治に意欲を見せたため、頼忠の勢力はふるわなかったようだ。
倹約令や、延喜の荘園整理以後に作られた荘園の停止など、親政に意欲を見せた天皇だが、降格された藤原兼家が勢力を盛り返してくるに及んで、986年に一悶着あった。女性など取っ替えのプレイボーイだった花山天皇が、珍しく一途に愛する女性の死に、心を痛めてしまったのである。本当かどうだか分からないが、藤原兼家がこれを利用したことが「大鏡」に記されている。すなわち、藤原兼家はまんまと花山天皇を誘い出して、出家させてしまったのだという。
さっそく皇太子が天皇として即位した。円融天皇の第一皇子であり、兼家の娘である藤原詮子(せんし・あきこ)(962-1002)を母に持つ、一条天皇(いちじょうてんのう)(980-在位986-1011)の誕生である。頼忠は関白を辞任、さっそく外戚の兼家が摂政となる。それだけではない、冷泉天皇と兼家の娘の間に生まれた息子が、皇太子として立てられたのである。居貞(おきさだ)親王。後の三条天皇である。兄の元での不遇の時代から、ついに兼家の春がやってきた。
頼忠は実権を奪われたものの、太政大臣のポストだけは守っていた。これにより兼家は太政大臣の地位が手に入れられないために、新しい戦略を練り上げた。すなわち摂政に就任すると、右大臣の職をを辞し、律令制の肩書きとは異なる立場に、摂政を置こうとしたのである。これは成功した。兼家は一条天皇が成人した後、引き続き関白の地位を得るが、彼の策によって、実際に摂政関白が太政大臣を越える存在として認められるきっかけが生まれたのである。ここにいたって、兼家は自分の子や孫を矢継ぎ早に出世させた。すなわち長男の道隆(みちたか)、三男の道兼(みちかね)、四男の藤原道長(みちなが)(966-1028)、それから道隆の子である伊周(これちか)らである。
990年に兼家が亡くなると、関白の位は長男道隆に移った。同年、道隆の長女である藤原定子(ていし・さだこ)(977-1001)が一条天皇に入内(じゅだい)、つまり内裏入りして天皇の妻となった。この藤原定子こそ中宮定子(ちゅうぐうていし)と呼ばれ、清少納言(せいしょうなごん)(966-1025)がお仕えしながら「枕草子」など執筆したという、あの定子である。
ところが今度は疫病が貴族社会を直撃した。実は、平安時代から鎌倉時代くらいまでは、ヨーロッパの膨張をも支えた、地球規模の温暖な時期であって(世界規模の温暖であったかどうかは疑問とされている一方、日本史上における温暖には一定の資料があるらしい。詳細はわたしには不明である)、疫病などが起きやすくなっていた可能性がある。とにかく、994年に赤斑瘡(あかもがさ)と呼ばれた麻疹(はしか)の一首が流行して、公卿の半数が亡くなったのである。ここには関白の道隆(一説では酒の飲み過ぎだが)も、三男の道兼も含まれていた。道兼は10日だけ関白になれた男として「七日関白」と呼ばれている。まあ一日駅長さんよりはましだ。
残された道長と伊周が、関白の地位を巡り露骨な敵対関係に入る。従者同士が都内で乱闘を起こす不始末だった。しかし伊周は策に置いて道長に及ばなかったのか、禁止されている仏事を密かに修している罪が発覚し、いつものパターンとして、伊周は大宰権帥(ごんのそち)として九州に飛ばされてしまった。これを「長徳の変(ちょうとくのへん)」という。(おまけ、道隆と伊周親子の家系を「なかの関白家」と呼ぶことがある)
これを、
「食う食う豪華な(995)、
超お得の変(長徳の変)なやつ。
道長勝利の宴(うたげ)かな」
とは暗記しないから気を付けよう。
道長はそれでも関白にはなれなかった。あるいはならなかったのかも知れない。内覧(ないらん)という、天皇へ送られる文書の閲覧を先に行うことの許される令外官のままで、太政官の立場から政権をリードしたとも考えらる。この頃には摂政や関白になると、太政官の官職にあっても、直接太政官職で采配を振るうことが出来ない仕来りになっていたからである。
彼は、自分の娘を一条天皇の妻とする作戦を実行した。999年には長女の藤原彰子(あきこ・しょうし)(988-1074)が入内(じゅだい)。翌年には西暦1000年を記念して、千年女王と呼ばれるように……なるわけがないが、西暦にすればちょうど1000年、彼女は中宮(ちゅうぐう)となり、やがて敦成(あつひら)親王(後の後一条天皇)、敦良(あつなが)親王(後の後朱雀天皇)を生むことになった。はて、かの中宮定子はどうなったかといえば、「皇后宮」という位に変更となったのである。
皇后を指すこともある中宮の定義ははなはだ流動的であるが、これによって、皇后宮定子(ていし)と中宮彰子(しょうし)が、共に一条天皇の皇后的な立場で君臨することになった。ややこしいことである。結局お産にからんで定子は1001年、若くして亡くなってしまったのであるが、「長徳の変」により後ろ盾を失い皇子を生むことも適わなかったこの定子。仕えていた清少納言も、彼女の死によって宮仕えを離れることとなったのである。一方で絶頂の中宮彰子の元には、後に紫式部(むらさきしきぶ)(お仕えは1005or06-1012)や和泉式部(いずみしきぶ)(お仕え1008-1011頃)、女流歌人として知られる赤染衛門(あかぞめえもん)などが仕え、文芸集積センターの役割も果たすことになった。
ここで安和の変の後の、摂関政治と呼ばれる平安時代中期の摂政関白についてまとめておこう。まず内裏(だいり)での彼らの政務の場所が、次第に天皇の私的空間で執り行われるようになっていく。藤原兼家の頃には、天皇の后の住まうような後宮で政務が行われ、藤原道長もやはり「飛香舎(ひぎょうしゃ)」という後宮の殿舎を使用している。概して天皇の外戚の立場で摂政関白を行うため、天皇と摂関家との関係が私的に深まっていったのである。
ところで摂関家(せっかんけ)とは何か。摂関政治の時代、藤原忠平(ただひら)の子孫が摂政関白の地位を継いでいくうちに、後に摂政関白を送り出す家系のように見なされたため生まれた言葉である。摂政関白の地位は、藤原兼家(かねいえ)が一条天皇の元で無冠の摂政となるに及んで、絶大なものとなった。さらに藤原道長に到っては摂政はわずか1年のみ、「御堂関白」と呼ばれるくせに、実際は関白などなっていないのであるが、これは摂関家としての安定した地位に基づき、天皇との外戚関係が強固であれば、摂関の名称が無くても、事実上の摂関であるというような状況を作り出したからだとされている。
一方で道長は、「陣の定(じんのさだめ)」や太政官の職務に積極参加することによって政権をリードしたかったため、摂政関白の位を取らなかったとも言われている。摂政は位を授ける叙位(じょい)など人事の任命、さらに太政官から届けられた書類を内覧(ないらん)といって、天皇の前に目を通すことが出来るのだが、一方でその書類を作る段階、いわば閣僚会議の部分は、この時期「陣の定」が大きな役割を持つようになっていたからである。
[注意。以下は特に間違いを含む可能性を有する]
もともと太政官に上る案件は、天皇に決定を仰ぐために官奏(かんそう)、といって上奏(じょうそう)されるべきものと、自分達で解決すべきものに分けられ、この官奏の部分を摂政や関白が内覧によって先に見ることが出来た。しかしこの時期これに変わって、特に重要な案件を、公卿会議である「陣の定」によって執り行う事が多くなっていった。これは公卿が下位のものから順に意見を述べ、これを異なる意見は異なる意見のまま天皇に報告し、天皇の判断に仰ぐというものだ。さらに重要な決定には、直接天皇が出席した会議も開かれた。純友・将門の乱の時などがそうである。また天皇の御前定(ごぜんさだめ)は、人事の決定の儀式としても開かれていた。藤原道長は、このような政治体制の中で、太政官職と「陣の定」において中心的な役割を果たそうとしていたとも、考えられている。
藤原道長に話しを戻そう。1011年に一条天皇が32歳で亡くなると、藤原兼家の長女、道長のお姉さんに当たる藤原超子(ちょうし・とうこ)を母に、冷泉天皇を父に持つ、三条天皇(976-在位1011-1016-1017)が即位した。皇太子は道長の長女彰子と一条天皇の息子である。そして道長は、たちまち円満な関係とは言えなかった三条天皇を、強引に譲位させ、1016年、その子は後一条天皇(1008-在位1016-1036)として即位した。道長は一年ばかり摂政を務めると、その位を息子の藤原頼道(よりみち)(992-1074)に譲った。長期に藤原摂関時代の全盛を築き、平等院鳳凰堂建立でも知られる、あの頼道である。(道長が寄り道をしてはらませた子であるから頼道と命名されたという逸話は、私のでっち上げである……だったら書くな)
道長はさらに1018年には太政大臣の職も辞して、ご隠居様の立場で皆の衆を操っていたと考えられる。またこの年には、まだ11歳の後一条天皇に、自分の三女を嫁がせることにも成功する。さらに後一条天皇の皇太子も、自分の娘である彰子の息子で、後一条天皇の弟にあたる敦良親王(あつよし)が決定した。まさに我が世の春である。
そんな絶頂の「寛仁二年十月十六日」(1018/11/26)、平安時代を通じてもっとも有名な? エピソードが残されることとなった。藤原実資(さねすけ)の記す「小右記(しょうゆうき)」に描かれたエピソードである。
この日、後一条天皇に入内(じゅだい)していた三女の藤原威子(いし)が立后(りっこう)して皇后(こうごう)となった。前の三条天皇の妻だった藤原妍子も皇太后となった。その前の一条天皇の妻であった藤原彰子は、太皇太后(たいこうたいごう)である。そこで「小右記」には「一家立三后、未曾有なり」と記してあるのだが、そんな威子立后の宴の席で、道長が実資に向かって返歌を読んでくれと頼みつつ、
「この世をばわが世とぞ思ふ望月の
欠けたることも無しと思へば」
と武道館ライブ状態にノリノリになって歌ってしまったのである。あんまり破廉恥な歌なので、実資は
「へへっ、すばらしすぎて歌なんか返せませんぜ旦那。皆さんでその歌をノリノリに歌いまくりましょう」
とはまさか言わないが、そんな趣旨で返歌はせず、皆で道長の歌を繰り返しつつ、逃げてしまったという。しかし、これをもって、
「実資ただ一礼、言わず(1018)の宴」
と暗記する人は、あまりいないかと思われる。(ああそうかい)
道長はさらに、1021年には敦良親王にも自分の娘を娶らせ、盤石の体制を固めていったが、栄華老衰を逃れ得ず1027年(なぜかネット上に1028となっているものが結構ある)、阿弥陀如来と仲良しに繋がった糸を握りしめながら、極楽往生を願いつつお亡くなりてしまったのである。
続く頼道は1067年まで摂政関白を行い、同母弟の教通(のりみち)(996-1075)に譲るようにして辞している。その間、1028年には関東で平忠常の乱(たいらのただつねのらん)が勃発し、3年もの間のいくさで房総三国が大いに荒廃を極めたし、1051年には東北で前九年の役が勃発している。一方で天皇に送り込んだ娘達は皇太子を生むことが出来ず、摂関家の将来に不安の影も忍び寄ってきた。そして血縁関係の薄い天皇が誕生すると、外戚関係に保たれた摂関政治の大きな転換点を迎えることになる。すなわち1068年に後三条天皇(1034-在位1068-1073)が誕生した時である。時代は平安時代後期へと移りつつあった。これはまた後の話としよう。
2010/1/21