平安時代、貴族の生活

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貴族の生活

 当時の大貴族の典型的な邸宅は、「寝殿造り(しんでんづくり)」と呼ばれるものだ。藤原良房(よしふさ)の邸宅として登場し、後々まで藤原氏の重要儀式が行われていた「東三条殿(ひがしさんじょうどの)」は、絵巻物や日記から寝殿造りの模型が復元されている。寝殿(しんでん)と呼ばれる檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を持った高床式の建築が中心となるが、この寝殿は北側に位置し、南に広がる庭園と池に向けて開けた作りになっている。

 この寝殿に対して、庭以外の方向に幾つも控える対屋(たいのや)があり、それぞれが雨に濡れずの廊(ろう)、すなわち渡殿(わたどの)で結ばれる。また寝殿に対して池や庭を囲み込むように伸びた渡殿は、池に掛かる釣殿(つりどの)、泉殿(いずみどの)めで続いていく。池は中島(なかじま)を築き、そこへ向かって橋を渡すなど、人工的な自然空間の美を楽しむための絶好の装置となる。池に対して入り口の門は東や西に置かれるが、寝殿を起点とする全体の構図は必ずしもシンメトリーに配置されてはいない。ただし豪華な池を持った壮大な邸宅は、貴族の館にあっても典型と云うよりは、最上級貴族のための例外なのかも知れない。広大な儀式的居住空間を維持するための使用人達は、厨や詰め所などの周辺の雑舎で活動した。渡殿は貴族達の儀式の上でも重要な役割を担っていた。

 また寝殿内部は、今日の小部屋のようにしっかり分割されず、広大なスペースを衝立障子(ついたてしょうじ)・几帳(きちょう)・屏風(びょうぶ)などを使用して分けたものだ。特に南側の風景は絶景だが、夏は涼しい代わりに、秋から冬にかけては相当の冷え込みを覚悟しなければならなかった。

 斎王(さいおう)邸は発掘が行われた寝殿造りの邸宅だ。当時、未婚の皇女から伊勢神宮に仕える者が占いで決められ、やがて伊勢入りを果たすという仕来りがあったが、斎王とは彼女のことを指す。その斎王が、伊勢に発つまでを過ごした館が、斎王邸である。邸宅の北西に池を持ち、床下に水の流れを感ずることの出来る「泉殿(いずみどの)」などが整備されていた。花粉調査によると池に配置された草花の植生は極めて人工的であり、人の手による自然の美しさが指向されていたそうである。

 そんな豪邸に生活する、およそ三位以上の限られた貴族は、もはや中国風の礼服(らいふく)ではなく、束帯(そくたい)と呼ばれる正装で内裏に出勤した。冠を付け、靴を履き、笏(しゃく)を持ち、服装の色は位階に応じて定められていた。女性の場合の正装は一般的に十二単(じゅうにひとえ)として知られる「女房装束(にょうぼうしょうぞく)」である。しかし年中この恰好ではさすがに辛い。普段着としてはもっと簡略化した服装が好まれた。男なら直衣(のうし)とか狩衣(かりぎぬ)、女性では小袿(こうちぎ)などがそれにあたる。色に定めはないが、天皇の色とされる黄櫨染(こうろぜん)とか、火事の色である深紅(しんく)などは禁色(きんじき)といって、使ってはならないとされていた。

 彼らの出勤時間は、かつての早出早上がりの伝統は遠退き、すっかり夜型になってしまったらしい。これは都型のライフスタイルが進行したためかも知れないが、出勤日数に定めなく、個人の裁量や役職で大きく出勤日が異なったらしい。

日記

 さて当時の貴族達は藤原道長の「御堂関白記(みどうかんぱくき)」、藤原実資(さねすけ)の「小右記(しょうゆうき)」などが有名であるが、これは何も「思いの丈をこっそり記しちゃうの・・・」的な今日風日記が当時から存在したわけではない。前日の活動行動の記録を暦の余白に記し続けたものであるが、そのヒントは藤原師輔(もろすけ)が子孫に記した「九条殿遺誡(くじょうどのゆいかい)」にある。

「九条殿遺誡(くじょうどのゆいかい)」より
先ず起きて属星(ぞくしょう)の名字を称すること七偏
(まず起きたら、陰陽道の属星の名前を七回唱えなさい)

とあって、さらに

<微音(ちいさな声で)、その七星は、貪狼(どんろう・とんろう)は子の年、巨門(きょもん)は丑亥の年、禄存(ろくぞん・ろくそん)は寅戌の年、文曲(ぶんきょく・もんこく)は卯酉の年、廉貞(れんてい・れんじょう)は辰申の年、武曲(ぶきょく・むこく)は巳未の年、破軍(はぐん)は午の年なり>

と、北斗七星のそれぞれ唱えるべき名称と、干支との関係を記している。星の名称は、ちょうどひしゃくの水を汲むほうの先端の星から順番に記しているから、破軍が取っ手側の端になる訳だ。すると武曲はミザールという星になり、じつはこれは視力が良ければアルコルという星が二重星として付いている。中国では輔星(ほせい)、日本では場所によって「寿命星」(見えなくなったら死ぬとか)などと呼ばれ、「北斗の拳」で死兆星と呼ばれた星である。(なぜかまた、脱線している)続けて、

次に鏡を取りて面(おもて)を見、暦を見て日の吉凶を知る。
(鏡を取って顔の様子を確認して、暦を見て、その日の吉凶などを確認する)
次に楊枝を取りて西に向かひ手を洗へ。
(次ぎに楊枝で歯を磨いて、西側を向いて手を洗え)
次に仏名を誦して尋常に尊重するするところの神社を念ずべし。
次に昨日のことを記せ<事多きときは日々の中に記すべし>。

さて、仏神社への祈りに続いて、日記のことが出てくる。昨日のことを忘れないように記しておけ、しかしいろいろある時は、その時々に記したほうがよいといった意味だろう。以後続々と行うべきことが記されていく。

 さて、これを眺めると、貴族の生活がすっかり誇大儀式化し、陰陽道などから来る禁忌(きんき)などに満ちあふれてしまった姿を見ることが出来る。

 まず朝起きたらどうするか。属星(ぞくしょう・己の生まれの星)を七回唱えてから、また具注暦(ぐちゅうれき・当時の暦)に記入されている吉凶などを読み、その日の行動の指針とするのである。この時に具注暦の余白に昨日の公事などを記すのであるが、それは朝廷の公事を記すことにより自らの、また子孫らが、儀式を行う時の参考にするために書かれるものである。宮廷行事は年中行事と呼ばれる定められた儀式だけでも200近くあったようで、特に正月などには連日の行事続きだった。他にも臨時の儀式も多々あり、当時の貴族におけるエリート的存在とは、このような行事に対応すべく豊富な過去の実例を持ち合わせ、それを滞りなく執り行える人物であった。

 つまりは「有職故実(ゆうそくこじつ)」がキーワードである。これは儀式などにおける過去の手本、つまり故実(こじつ)の知識を有するという意味で、もとは「有識故実」と書かれていたようである。したがって日記は次第に貴族の家々の財産にもなり、火事など起これば車に乗せて運び出すほどだった。

 やがて行事ごとに日記の儀式書きを分類した「部類記(ぶるいき)」と呼ばれるものも登場し、また藤原実頼(さねより)(小野宮殿)のまとめ記した「小野宮故実旧例」より小野宮流が起こり、彼の異母弟であり先ほど引用した藤原師輔の「九条年中行事」より九条流が起こるなど、行事における流派が誕生。先例の定型化と徹底的に重んじる伝統が生まれたのである。

 したがって、日記に私事が記入される量は一般的に少ない。ただし宇多天皇日記や、少し後の藤原頼長(ふじわらのよりなが)(1120-1156)のような異色を放つ個性的日記も存在し、文学的な好奇心を駆り立てると同時に、他の日記から分からない過去の断片を覗かせてもいる。また貴族層の日記伝統は一方で、紀貫之の「土佐日記」のように「日記」の体裁を借りた独立した読み物(文学的作品)を生み出すことになった。



 他にも平安時代初期から記されることが多くなったものとして、ある事柄を事実ありのまま事細かに描写する「~記」(上にまとめた日記もそのひとつと言えるが)というものが沢山書かれるようになった。前に見た、紀長谷雄(きのはせお)の「競狩記(きそいがりき)」や、菅原道真の「宮滝御幸記(みやたきごこうき)」とか「書斎記(しょさいき)」などがそれに当たるが、平安京の様子を描写した慶滋保胤(よししげのやすたね)(931?-1002)の「池亭記(ちていき)」(982年)なども知られている。

池亭記(ちていき)

[翻訳ではなく、意を汲んだ参考文章]
 私は二十余年の長きにわたって、朱雀大路の東西に別れた二つの京を見てきましたが、西京は人家もまばらであって、まるで荒れ野のような趣なのです。人は去ることはあっても、移り住むことはなく、家屋は壊れることはあっても、再び造られることもありません。すなわち移動することも出来なくて、貧困から抜け出すことの出来ないようなものがここには住んでいます。そうでなければ、まるで隠者のような生活を生きがいにしたり、山に入りまた農作業を行うような人々だけが、ここには残っているのです。財産を蓄えて、営利による豊かさを多少なりとも求めるものは、一日たりとも、こんなところには住むことは出来ません。
 一方東京(ひがしのきょう)の四条通りより北では、富める者も貧しき者も、多くが集住するところで、公家などの皆さんの館は門を並べて棟を連ねるほどですが、もっと貧しい人たちの小さな家々は、壁を隔てるように軒を連ねているのです。その有様は、東隣で火災があれば、西隣にも火災が移り、南の家に盗賊が入れば、打ち払う弓矢が北の家にまで飛んでくるといった始末です。  東京は南側が貧しく、北側は裕福な館を連ねています。

などと京の説明や、人々の暮らしを説明しているかと思えば、後半の部分では、

 この頃、人の世を恋しいと思いたくなるようなことは、なにもありません。人の師にあたるような人は、公家や豊かなものを優先して、あるべき優先順位を蔑ろにするものですから、師など存在しないような有様であり、友人は勢いのあるもの、利益のあるものを優先し、こころを交わしあって人と交わろうとしないので、友などないようなものに思われるのです。だから私は、門を閉ざして、戸さえも閉じてしまい、こうして一人で書いたり歌ったりしているのです。

といった、厭世文学にもなっているので、鴨長明の「方丈記」に影響を及ぼした、隠棲文学の走りとも言われている。彼は986年に出家したときに、歌を詠んでいて、それが「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」(1006頃?)の中に残されている。ついでにどうぞ。

 うき世をは そむかはけふ(今日)も そむきなん
   あす(明日)もありとは たのむ(頼む)へき身か

平安貴族の生活

 つまり、池亭記から見る平安時代の京の都は、いつわりの復元図とは比ぶべくもない、栄枯盛衰新築あばら屋入り乱れた都だったのである。遣唐使もなく外国使節のために見栄を張る必要も無くなったためか、980年に再度羅城門(朱雀大路の出口にあたる南門)が崩壊したときには、再建もされず放置されっぱなしだったくらいである。つまり芥川龍之介の「羅生門」の逸話は、京の都のうち、スラム街の部分を描いたものに過ぎなかったというわけだ。

 だから、源氏物語などから復元される貴族生活というものも、きわめて特殊な上級貴族の社会を描いた、いわば「内裏文学」なのであって、そこに物語の誇張もあるものだから、あまり安易に男女が和歌でたわむれ遊ばすような姿を、実生活をみなすことは、非常に危険である。それを注意しておいて、当時の貴族の生活を眺めてみることにしよう。本当は辛うじて貴族に連なるような人たちと、公家たちとは生活習慣も異なるのかもしれないが、それは私の調べる領域をはるかに越えてしまっているので、ここでは触れられない。



 貴族の場合、ご結婚はもちろん政略結婚の様相が濃いが、男は正妻以外にも妻を取ることがよくあった。愛しい女性発見の道筋を駆け上る男性の本性(さが)は当時も変わることなく、(もちろん女性側にも言えるが)、しかしそこは貴族?、男性から和歌を女性に届けて、返歌を待つというような風習も生まれてきた。ただ、このような風習がどの程度一般的な事柄だったかは、私にはちょっと不明瞭である。

 女性が正妻となるべき結婚ではない場合、つまり妾(めかけ・しょう)や二番目以下の妻の場合、しばしば男性は女性の元に通いつつ結婚生活を、あるいは妾生活を行うことがあった。ただし正妻との婚礼では、初めから二人で家を持つこともあり、妻の家にしばらく住んでから自立した家を持つこともあり、つまり一緒に住むことが基本にあったようだ。女性側の家に入る例がクローズアップされるとはいえ、そうでない場合ももちろんあった。また家の相続は男性の場合もあり、女性の場合もあり、後年男性相続に向かう倫理観とは随分異なっている。

 出産は、母子共に今日考えようもないくらいの危険を伴うものであった。(これは現代の少し前までは、ずっとそうだったのである。)どちらかの死をもって幕を閉じることもままあった。特に高位貴族の場合、母親のかわりに乳母(めのと)が、生まれた子供の面倒を見ることが、10世紀頃には定着し始めたそうである。妻の両親の家に同居している場合には、妻の両親が子供を育てることも多かったが、やがて子供は十代半ばで成人となった。この際、男性の場合は元服(げんぷく)、女性の場合は裳着(もぎ)と呼ばれる儀式を行い、その頃にはすでに結婚の話しが持ち上がるといった様子だ。

 貴族というと和歌を歌いまくって、蹴鞠などしまくって、美味しいもの食いまくって、運動不足のイメージがあるが、藤原道長が弓に秀でていたように、武芸の鍛錬なども怠らなかった……というより、怠らなかった貴族もいたし、怠りまくった貴族もいた、というのが正解かも知れない。

 食事は原則一日二回で、仏教の影響がありすでに獣肉を忌避するようになっていたが、魚や鳥の肉はOKだった。稲作は農村の自給自足のためでなく、国家財政として生産されていたので、生産者はあまり口にせず、高位の貴族は美味しく頬張っている。米を甑(こしき)で蒸したものを強飯(こわいい)、柔らかく炊いたものを姫飯(ひめいい)といい、肉野菜と米をベースに料理が作られた。なに酒だと? もちろん酒だってある。「延喜式」の中にも宮廷の酒の造り方が乗っていて、種類も十種類ぐらいあるが、どのような行事でどの程度飲んだのかまではちょっと分からない。

 儀式が行動を故実ずくめに規定するがごとく、桓武天皇の頃にはすでにすっかり怨霊も定着した感のある? 貴族生活においては、陰陽道(おんみょうどう)なるものもクローズアップされだした。ウィキペディアの「陰陽道」の説明の中に分かり易い部分があったので部分引用しよう。

 「日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた。8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。」

 こうして「~するとよからぬ事が」的な迷信に迷わされる伝統もまた、この時期に定着してしまったのである。たとえば、
方違え(かたたがえ)あるいは
方忌み(かたいみ)というものは、
方位神といういくつかの神が、一定方向に留まっていなさったり、移動なさったりすると考えられていたので、その神の現在いらっしゃる方角に向かわないように、別の方角の館や寺院などに宿泊して、こちらが所在地であると認めさせてから、該当方向へ向かったりするものであった。あるいは、
物忌み(ものいみ)
といって、穢れに触れたり、凶日などに当たった場合、館へ謹慎してなおかつ来客もおことわりの、引きこもり貴族を定められた期間(忌明けするまで)おこなわなければならないというもので、藤原道長の「御堂関白記」などを読むと、しばしば登場し、いかに当時の社会でそれが重視されていたかがよく分かる。

摂関時代の文化

 ちょうど摂関政治の全盛期の10世紀から11世紀頃の文化は、教科書などでは国風文化(こくふうぶんか)とか、藤原文化(ふじわらぶんか)と説明される。大陸との貿易活動は一層発達したが、一方で朝廷の公的外交は途切れ、民族的感性を自認し、かつ誇るべきものと考え、和心(わごころ)に根ざした文化が華開いたという説明である。(前とかぶるところが幾分出てきます。)

平仮名の誕生

 万葉仮名は漢字をもって仮名を表現したが、これを草書体(そうしょたい・速記用の崩し文字)に崩して記す行為のうちから、これを簡略化して用いる方法が取られるようになった。これを草仮名(そうがな)というが、やがて漢字から離れた独自の記号として平仮名(ひらがな)が誕生することになった。草仮名はすでに9世紀半ばの書類に見られ、平仮名は9世紀後半頃から私的に使用されるようになっていったが、905年の「古今和歌集」の仮名序(かなじょ)と和歌が、うるわしくも平仮名によって記される頃には、和心を持った文字として和歌などに使用され、また私的に使用することが広まっていった。「女手(おんなで)」と呼ばれるように、女性の用いる文字という考えがあったが、和歌などはもちろん男性の方が遙かに歌いまくり状態であったし、初めの使用が女性から起こったわけでは全然ない。(女性が平仮名ブームの火付け役だったという面はあるかもしれない。)そして女に化けた紀貫之が、「土佐日記」を記して見せたのはよく知られた通りである。



 一方の片仮名(かたかな)はやはり漢字を部分的に取り出し簡略化した文字であるが、こちらは仏僧が教典などにふりがなを付けたりするために使用され、この平仮名との性格の違いは、後々まで維持されることとなった。わたし自身、本に注意書きを細かく記入することがあるが、自然とカタカナになってしまう。細かく書いても記入しやすい、判別しやすい、というメリットがあるからである。あるいはそんなところにも、誕生と使用例の変遷があったりするのだろうか、それは不明である。

 一方、政治的書類は漢文で記され、意味表現が大切な公式文章は漢文により、心的表現が大切な歌いまくりライブの時には平仮名といった、表現方法の違いが見いだされた。



 さて「古今和歌集」(905)が華々しく勅撰和歌集の第1号を飾り、紀貫之が仮名序で9世紀に活躍した、六歌仙(ろっかせん)の名前を記していることは有名だが、その中にはプレイボーイこと在原業平(ありわらのなりひら)(825-880)や、絶世の美女こと小野小町(おののこまち)(生年不詳)らも含まれている。そして以後勅撰和歌集が繰り返し出されることになるのは、以前にも話した通りであるが、一方で物語文学もいよいよ本格的に生み出されるようになってきた。

 その仮名序を記した紀貫之が貴族の日記形式を借りて、土佐より帰京する旅の情景と和歌を織り交ぜた独立した作品「土佐日記」を完成させたのは935年頃とされている。これが火付け役となったかどうだか、975年頃、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)によって書かれた「蜻蛉日記」、歌人として名を馳せた和泉式部(いずみしきぶ)が記した「和泉式部日記」(1008年頃)、「源氏物語」の作者である(とされる)紫式部が記した「紫式部日記」(1010年頃)、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の「更級日記(さらしなにっき)」(1059年)、と作品が続いていくことになる。

 初めの「土佐日記」が女に化けて書いたのに対して、後のものは女性の作品にあふれているのは、洗練された宮廷社会で英才教育を受けさせ、例えば皇后などにお仕えさせて、それによって自らの立場を優位に置きたいという高位貴族達の思惑が、皇后などの周りに群がる女流文芸サロンを形成するに到ったせいである。

 この日記文学の系譜の影響も受けて、一条天皇の皇后であった藤原定子(ふじわらのていし)にお仕えした清少納言(せいしょうなごん)の随筆集「枕草子(まくらのそうし)」が記されたのは、初稿と考えられる部分が996年頃だとされている。一方の物語文学の代表選手とされる(そうか?)紫式部(むらさきしきぶ)は、やはり一条天皇の后である藤原彰子(ふじわらのしょうし)に仕えていた。



 さて、今日残された作品の中から物語文学と今日の規準で見なしうるルーツは、やはり奈良時代の「古事記」に逆上ることになる。これは、古事記の内容が今日から見れば多大に物語的であり、歴史書的で無いという意味であるが、ただしこれが後世の物語文学の発祥に影響を及ぼしたかは、極めて不明瞭である。一方明確に後世の物語作品に影響を及ぼした初期の作品としては、景戒(きょうかい)の記した「日本霊異記」(822年頃)が上げられる。

 これらが変体漢文で記されているのは前に見た通りであるが、10世紀に入ると平仮名による文学的作品が登場することになる。「土佐日記」は和歌と日記という形式の創作文学と見なしうるが、この系譜に連なるものとして、和歌と物語のセットである「伊勢物語(いせものがたり)」(成立年不明)が誕生した。「むかし男ありけり」という始まりは有名である。これは歌いまくりのプレーボーイであった、在原業平(ありわらのなりひら)を主人公とみたてて、若き日から死までを扱った一代記風の作品となっている。

 一方で純粋の創作的物語の初期の例は、10世紀中頃までには成立したと考えられている「竹取物語(たけとりものがたり)」(作者不詳)がある。これは後の物語文学に大きな影響を及ぼすこととなった。虚構の物語作品、ファンタジー的文学作品の系譜は、やはり中国に由来するが、それを大和言葉によって見事に記したこの作品は、全体の完成度の高さもあり、その魅力は今日でも薄れていない。この物語文学のインパクトは大きく、かなりの数の物語作品が出回ったらしい。しかし今日では大部分が損なわれ、長大な「源氏物語」が登場するまでに、20巻に渡る長編作品「うつほ物語」(10世紀末頃)、4巻ほどの「落窪物語(おちくぼものがたり)」(10世紀末頃)が上げられるくらいである。そしてそのような多くの作品を踏まえた上で、紫式部の「源氏物語」(文献初出1001年だそうだ)が登場することになった。

浄土教と仏教美術

 中国の神仏習合(しんぶつしゅうごう)の考えたかが仏教情報と共に流入するにつれて、次第に
「罪業を侵して神になってしもうたから、仏教に帰依しますのん」
と神様が仏教を信奉してしまうような例が増加することは前に見た。この時期、都だけでなく、地方の神社などでもこのタイプの神仏習合が盛んに行われ、神社の中に、神宮寺(じんぐうじ)が建設されることも多くなった。もともと神を祭っただろう御神木(ごしんぼく)から仏像が掘り出されることもあったり、神前読経(しんぜんどっきょう)といって、神の前でお経が読まれたりしている。

 またある僧を、「垂迹(すいじゃく)」(別の姿となって現れたるもの)として捉えて、かつての偉大な僧の生まれ変わりに見立てるようなことも、中国の影響で9世紀頃からみられるようになる。やがて11世紀を過ぎる頃には、とある神をある仏の生まれ変わりと考えるような思想、「本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」が誕生してくることになった。

 8世紀半ばに始まる国分寺・国分尼寺は、地方ごとの公的寺院として機能していたが、国府の機能が変化し、受領が登場し、郡司も大きく姿を変えていく平安時代初期には、国分寺の管理経営が十分なされずに放置される例も増えてきた。中央は、もはやこれを絶対に維持しようとは考えず、かわりに氏寺(うじでら)など地域民と結びついて認知度の高い寺を、定額寺制(じょうがくじせい)といって、公的な官寺的待遇を与えることが行われるようになる。浅草の浅草寺(せんそうじ)なども、もとは氏寺だったらしい。

 さてインドに源泉を逆上る浄土教(じょうどきょう)の信仰は、様々な宗派でも受け入れられている仏、阿弥陀如来(あみだにょらい)を信仰対象とし、彼の治める浄土(じょうど)(それぞれの仏が治める浄土がそれぞれにあるそうだ)である「極楽(ごくらく)」へ往生(おうじょう)し成仏(じょうぶつ)するために、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)(仏様の名前を唱える)を行うものであるとして、隋唐時代の庶民の間に広まった宗教であった。

 これは教理や密教儀式といった、僧と国家に連なる宗派仏教に対して、民間仏教あるいは民間宗教的な側面を持って広まったのである。一宗派というよりは、一宗教とでも呼べるこの浄土教は、天台宗の円仁(えんにん)(794-864)が唐から持ち帰り、阿弥陀如来を浮かべつつ称名念仏を行ったのが始まりだとされている。この頃すでに民衆にも仏教は浸透していたが、それは官僧たちが教理をこね回すややこしい宗教ではなく、ずっと素朴でダイレクトなものだったから、庶民に布教する空也(くうや)(903-792)らが登場して、念仏路上ライブを繰り広げると、皆さん引きつけられて聞き入ったものであった。

 前に見た、行基(ぎょうき)の例を見ても分かるように、民衆のため民衆の中にあって仏教を広めるという考えは、なにも鎌倉仏教に本格化するものではない。市聖(いちのひじり)と呼ばれる空也は、尾張(?)国分寺で得度して僧となったのだが、諸国を修行に巡りて南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱えまくり、浄土教(というか阿弥陀仏信仰)を広めて回ったのである。その後、京でもこれを勧め、貴族とも交わって浄土教ブームの火付け役となった。(としておこう。)さらに疫病や飢饉などで亡くなった死体を火葬供養して周り、963年には藤原実頼(ふじわらのさねより)らの協力により鴨川(かもがわ)で大々的な無縁仏供養(むえんぼとけくよう)が行われた。無縁仏とは供養者の居ないものを指す。

 なお空也は、後に運慶(うんけい)の息子である康勝(こうしょう)が造った、口から六体の阿弥陀さまを吐きだした立像があって非常に有名だ。きっと見たことがあるはずだ。



 その後、恵心僧都(えしんそうず)とも尊称される源信(げんしん)(942-1017)が登場し、985年に「往生要集(おうじょうようしゅう)」を執筆。極楽に到るための念仏の教えとその方法を書き記し、日本における浄土教の教えを形作った。

 「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」とは、すなわち
「穢れたるこの土を厭い離れ、
浄土へ往生することを求めよ」
といった意味であるが、この言葉は宮中の流行語大賞にさえなったのである。(……嘘を書くな。)

 空也が口で唱える称名念仏を説いたのに対して、源信は「観想念仏(かんそうねんぶつ)」つまり心にイメージするという、イメージトレーニングの先駆け(?)によって阿弥陀仏を念じることを説いたのであるが、このイメージで表現する方法は、すなわち芸術的表現や建築物としての表現として貴族たちに支持されて、浄土教美術を生み出す原動力ともなった。



 貴族たちの浄土教熱には、もう一つ、末法思想(まっぽうしそう)というものが関係している。怨霊におののき、物忌み(ものいみ)、方違え(かたたがえ)など、迷信や人ならざる物の怪に怯える貴族たちは、仏法の廃れて禍(わざわい)押し寄せるという時代、末法(まっぽう)の時代がやってくることを、非常に怖ろしく感じたからである。

 これはどういうものか。釈迦がお亡くなりてからの千年は正法(しょうほう)でまあ安心だが、続く千年の像法(ぞうほう)を経て、1052年から教えのすっかり廃れた末法(まっぽう)が始まるという説である。

 高密度都市空間で疫病や衛生問題による大量死が起こる京の都、そして周辺では日照りや災害による農作物不振やいくさなどが、人々の危機感をあおり立てた。藤原道長が出家後に法成寺(ほうじょうじ)(鎌倉時代にずたぼろになって廃絶)を建立し、安置された阿弥陀如来と自分の手を糸で結ばせながら、極楽往生を願って、ガクブル震えながら(かどうかは知らないが)亡くなったのは有名な話だ。こんな辞世の句を捏造しても面白いかも知れない。

「この世をばわが世とぞ思ふ望月も
欠けたるのちは無しと思へば」

 そして末法が始まった1053年。浄土教美術の極み、極楽浄土を視覚化した壮大な建造物が生み出された。藤原頼道(ふじわらのよりみち)の作らせた平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)である。宇治川を前に、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂は、中国の幻の鳥「鳳凰(ほうおう)」の姿に見立てられ、鳳凰堂と呼ばれるのである。

 さて平等院の阿弥陀如来像は、寄木造り(よせぎづくり)で作られている。それまでの一木造り(いちぼくづくり)と異なり、仏像のそれぞれの部分を異なる木で製作し、これを組み合わせて使用するために、柔軟に巨像を製作することが出来た。さらにパーツを同時に製作するため、仏師たちが工房を組織して、短期間で仏像を完成させることが出来るようになっていく。この阿弥陀如来は、当時名を馳せた定朝(じょうちょう)という仏師の、唯一の現存作品としても知られている。定朝様(じょうちょうよう)といった様式名が与えられることがある。

 ほかの浄土教美術としては、阿弥陀仏が人々をお迎えにいらっしゃる絵図がしばしば描かれ、これは来迎図(らいごうず)と呼ばれている。現存するものとしては、高野山の聖衆来迎図(しょうじゅらいごうず)が有名だそうだ。

その他の美術

 仏教以外の美術品は、大和風の風情をかもしだした美術品に特徴がある。といっても外国文化排斥の意味あいはなく、大陸文化を吸収しつつ独自の大和味(やまとあじ)が生まれ出たようなものだ。寝殿造りの調度品としてお馴染みの屏風や襖(ふすま)には、「大和絵(やまとえ)」と呼ばれる和心(わごころ)を持った絵が描かれ、ここには、名声を誇る歌人たちが和歌を記すこともあった。

 漆と金粉・銀粉などで調度品を修飾する「蒔絵(まきえ)」と呼ばれる漆器が作られた。仁和寺にある三十帖冊子(空海が持ち帰った写経30帳)を入れるための箱が知られているそうだ。もちろん私はまるで知らないが。

 書道も和様(わよう)と呼ばれる様式が、9世紀の唐様(からよう)に取って代わったのだそうだ。「三蹟(さんせき)」と呼ばれる人がいて、小野道風(おののとうふう)、藤原行成(ふじわらのこうぜい)、藤原佐理(ふじわらのさり)となっているが、書を解せず名前だけ覚えるのも虚しいものだ。

2009/3/9

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