たけを集『拾遺』

たけを集『拾遺』

孫記す

 父方の祖父は、私の生まれるより前に亡くなっていたから、祖父と言えば、母親の父親を指す言葉だった。もっとも祖父なんて書いても実感はなくて、私にとっては常に「おじいちゃん」と呼ぶべき存在だった。この「拾遺」は、そんな彼の後年の、(少なくともわたしが生まれたより後の、)メモ的な手帳に時折残された、俳句を抜き出して、便宜上四季に分類したものに過ぎない。

 彼は盆栽について、かなりの達人だったが、孫である私に、盆栽の話をしたことはまったくない。それと同じように、『雪月銃』の句集や、手帳の句が残されてはいるが、彼から俳句について、聞かされたことはほとんどなかった。

 ただ小学生の頃、五七五の字数について、あるいは季語について、基礎的な事柄を、教えて貰ったことはある。一度、なんで季語なんて必要なのか尋ねたら、逆に「入れたくなければ入れなくてもいい」と、しれっと言い返されたのを覚えている。

 それ以外の記憶といえば、そういえば、私たちが花火ではしゃいでいた時、「もし句にすれば、うれしい気持ちをずっと留めておくことが出来る」というようなことを言っていた事があった。「そんなのしなくても、いつでも花火すればいいじゃん」と言い返したら、そんなにお小遣いあるのか、とわざと驚いてみせた。せいぜい、それくらいの事で、一般的な知識を乗り越えて、孫に句を詠ませようなどとは、あまり考えていなかったようだ。

 だから、俳句などというものは、盆栽と同様、幼少時から大学に入って、実家を離れるまでの間、わたしにはまったく関わりの無いことだった。詩にすら、ほとんど興味はなくて、ノートに下手な詩を試みることさえ、高校を卒業するまでは、まったく遣ったことがなかった。詩なんて、言葉をもてあそぶ、いかがわしいものだと捉えていて、中でも俳句と短歌は、その最高峰のように思われた。

 けれども、こうして今、あらためて彼の手帳から抜き出してみると、あるいは記憶にないだけで、私の素養の根本には、何らかの祖父の影響が、作用しているのかもしれない。いずれにせよ、自分が句に興味を持ったのは、詩を詠むようになってから大分後、芭蕉の句が詩であるということを知って、さらに正岡子規に引かれた為である。だから居士だけが、唯一の師であるように、今でも考えているのだった。

 ところで残された祖父の句は、子規居士のものとはまた異なる様子だが、祖父が子規や芭蕉などについて、どのような考えを持っていたのか、今生きていたら、尋ねてみたい気持ちはする。

 わたしの感慨へと逸れた。
  この句集へ話を戻そう。
 何度か聞かされた、うろおぼえの話をまとめると、わたしの知っている家に、祖父が引っ越す課程で、沢山在ったはずのアルバムや、思い出の品々が、すっかり損なわれてしまったらしく、その中には、彼の蔵書だの、書き溜めた俳句も大分含まれていたらしい。あるいは句集として、まとめられたものがあったかどうだか。祖父が亡くなった今となっては、確認しようもない。祖父の娘である、私の母親に尋ねても、わたしと同じくらいの知識しか、持ち合わせてはいないようだった。

 だから、ここに拾い集めた句は、私が生まれた頃から、それより後のもの。あるいは還暦頃からのものばかりで、しかも句数もきわめて少ないが、それでも『雪月銃』の補遺として、何らかの価値を持つのではないかと考え、なによりも身内のものであるから、ここに掲載を試みることにした。あるいは、祖父の実家に行けば、彼のノートなり手帳が、まだ転がってはいないだろうか。などと夢みながら。

雪書きの句は春方《はるべ》へと消にけり

[祖父の戦後の句は、引っ越しの際、行方知れずとなったと聞いたが、本人がそれを気にしているようには、おさない私には見えなかった。ただこの句を詠むと、無くなった句のことを詠んでいるように、今は感じられるというだけである。]

あし細りわすれな草にしゃがみけり

[観賞用に植たものだろうか。足の衰えを感じて、しゃがんだところに花を見たという趣向。旧仮名遣なら「しやがみ」と大文字にしそうだが、ここでは小文字。もっとも旧仮名遣いでも小文字は使用されたか。原則的に捉えようとする私の方が、現代病かも知れない。]

遊戯玉ころばす春はわらべ唄

[彼は工業団地の、かなり大きな企業に所属していたが、私が子供の頃には、すでに退職すべき年齢を過ぎていた。ただ、工場には付属のテニスコートがあって、そこの管理人を任されて、ずっと仕事を続けていたから、わたしは幼い頃、彼をテニスコートのおじいちゃんと認識していた。この句の、遊戯玉という響きは、不思議とテニスボールを思い起こさせるのは、あるいは私の、安っぽいセンチメンタリズムのせいだろうか。
 ただし、下五に「わらべ唄」とあるから、あるいは孫である私や妹が、ボールでたわむれているのを、面白がって詠んだものかも知れない。とにかく、昔の人の日記や手帳などというものは、時事的なことしか記入せず、句を載せるのにも、何の説明もなく、ただ句だけを載せるので、判断には困るものである。]

今生とまた繰りかへす櫻哉

[「今生の別れ」などという表現があるが、そのように今年で見納めだという感慨を、またしても繰り返してしまったという趣旨。残された手帳を見る限りでは、この翌年には、句は作られなくなっているようだ。ただし、亡くなるのはずっと後であるから、未知の句を詠んでいた可能性はある。]

いつとなく春遊びせし雀の子

小雀に余りやりたし暇つぶし

逆月《さかさづき》ほろ酔ひざくら舞にけり

[上五は他に読み方もないので、「さかさづき」で良いかと思われる。なかなか凝った趣向で、逆さに映った月と「ほろ酔い」から、さかずきに映された月というシチュエーションが導き出され、「桜舞う」から、映し出されたのが月だけでなく、桜が舞い散る情景であったようにも、さらには、さかずきに桜の花びらが落ちたようにも、思われてくる。おのずから、桜の枝の隙間から月が見える所から、花びらが舞うような光景が浮かんでくる。
 いずれ、間接的で複合的な描写から、聞き手のイメージが、空想のうちに膨らんでくるという趣向で、現実をありのままに描いた写実とは異なる精神だ。むしろ、凝った言葉の表現方法によって、なされている点、写実の句など知ったことかというような、ある種の幻想性を宿している。といったら、身内に甘いと罵られそうだが。
 もっとも、これを記した時期、彼は酒など飲んでいなかった。戦争から帰って、すぐだかしばらく後だかは知らないが、ある時を境に、彼は酒も煙草も一切やらなくなった。恋愛についても想像が付かないが、ただ残された句に、女性に対する趣向の見られるものは無いようだから、後年私が知る印象と変わりなく、初めから淡泊だったように思われる。
 この句は、社員同士の花見でもあった時に詠まれたものか。それとも、勤務先のテニスコートには夜の九時頃まで居ることもあったから、あるいはナイトを楽しむ社員たちのラケット音を聞きながら、月を眺めて、空想に詠まれたような句だろうか。不思議と、まわりに人が居そうな句ではある。]

幾とせの花のさつきを弄《いぢ》りけり

[盆栽は彼の趣味で、しかもちょっとした趣味ではなく、もし売りに出せば、万単位で売れるような盆栽を、丹念に育てていたらしい。もっとも、不肖の孫は、盆栽についてはなにも語れない。ただ、その種の雑誌が、転がっていたのを覚えているのと、せっかく咲いている花を、どしどし切ってしまう印象だけが残されている。
 ただ、不思議なことに、さつきの雑誌は並べられていたが、俳句の雑誌が並んでいるのは、一度も見たことがなかった。昔は買っていたのか、初めから関心が無かったのか、それは知らない。句作を行うなら、芭蕉やら子規居士の書籍があっても良さそうだが、あるいはそれは……
 あるいはそれは、あったのかも知れない。古そうな書籍が並べられていた記憶はあるが、それが何かは、私はなにも覚えていないのだから。ただ、さつきの雑誌はよく見たが、俳句の雑誌は見なかった。それだけが事実である。母に尋ねてみても、私も見なかったけど、くらいで会話は終わってしまうのだった。]

五分咲きを鋏であやすさつき哉

[先ほどの話の続き。
 盆栽などは、年寄りの趣味。という話はよく聞くが、盆栽だろうと、花瓶に生けようと、植物を優雅に楽しむという精神に、変わりは無いのだから、今にして思えば、決して口に出さなかっただけで、彼の精神は非常に lyricism に満ちていたのかも知れない。なんて考えると、なんだか不思議な気持ちがする。私の彼への印象は、事務的な人であるということが、常に先に立つものだから。
 脱線がてらに述べると、私の父親は、けっこう何でも出来る、ある種の趣味人だと、幼い頃、私は思い込んでいたが、結果として趣味的に大成したものは、何一つない。それより価値のある、何ものかを、祖父は淡々と嗜んでいたというのなら。
 本当のロマンチックとか、本当のリリシズムとは何だろう。本当の趣味人とはどんな定義なのだろう。芭蕉は今逢ったら、つまらない男に見えるかも知れないけれど、けれども誰が、彼の詩的精神に勝てるのだろう。などと、くだらない脱線もしてしまうのだった。]

新じゃがに醤油はさじの揚げ加減

[遊び心のある句だが、言わんとすることを突き詰めようとすると、狐につままれたような気になる。ただ、彼は古い人にありがちな、何の料理にでも、驚くほどの醤油をかける人だった。ソースにしたら美味しそうなフライでさえも、醤油のプールを、泳いでるような不始末である。
 そこから推察するに、これは「新じゃがのちょうど良い揚げ加減」にさじで醤油を差しただけのことを、わざとはぐらかして詠んだのではないだろうか。もっとも匙といっても、大さじどころか、その何倍も掛けていたような気がするが。]

松手入丁丁発止と蝉の声

[彼の句の印象から逸れるが、談林派の物真似でもしたか。軽い冗談の様子。]

浴衣着てこの頃はやる馬鹿踊

[馬鹿踊が何かは分らないが、一度「夏祭りの伝統的な踊りが廃れてきた」というような話を、私の母、つまり娘と話しているのを聞いたことがある。それを馬鹿踊と罵ったものか。もっとも馬鹿踊が流行るくらいなら良い時代で、誰も踊らない時代が来るとは、彼も思っていなかったかも知れない。
 そういえば『雪月銃』の中にある、
    時に酔ふ隊長殿の裸舞
という句も思い起こされる。]

まばゆさに気まずくわびぬ胡蝶蘭

[読み過ごしかけたが、この表現も結構こだわりのある内容だ。あまりまばゆいので、かえって気まずくなって、わびたいような思いになった。展開すると、自然に起こりそうな感慨には過ぎないものの、なかなかどうして、結句の「胡蝶蘭」に対して、言われてみればその通りだが、詠もうとしたら、なかなか読み切れないような表現になっているようだ。というのは、解説にすらなっていないか。
 ただ、「気まずくわびぬ」という調子が、あまりにも対人的なので、擬人法として胡蝶蘭に対して述べたというよりも、句の外に、例えば胡蝶蘭をくれた者がいるにしろ、胡蝶蘭を栽培する者がいるにしろ、胡蝶蘭を通じて、何かしら人に対して「気まずくわびぬ」と詠んだような気配がこもる。それでいて、胡蝶蘭に対するようにも捉えられる。そんな解釈しきれない幅が、そのまま魅力になっているようだ。]

もぎたての満天枇杷の薫りかな

[この「満天」というのは、なかなかアクロバットな表現な気がする。あるいは枇杷狩の印象だろうか。満天というと、私はつい星を浮かべて、夜にしたくなってしまうが、「もぎたて」の表現から、夜ではやや唐突に過ぎるから、あるいはこれは、昼の空に満ちるイメージかも知れない。]

唐黍《とうきび》につく虫さへも哀れなり

[私の子供の頃は、彼は家のすぐ前にある空き地を借りて、あそびとも思われないような家庭菜園を営んでいた。もともとが農家の息子だから、自ずから本格的にならざるを得なかったのだろう。そのくせ、別に売るためでもないから、やっぱりあそびなのである。玉蜀黍(とうもろこし)の栽培が難しいのか、簡単なのかは知らないが、毎年夏になると必ず、とうもろこしが実っていたのを思い出す。
 もっとも実っていた割には、それほど食べた印象もないから、あるいは大部分は、どこかに配ってしまっていたのかも知れない。
 この句は、私には戦時中のことを思い起こして詠んだように感じるが、もしかしたらそれは、「雪月銃」を掲載するためにキーボードで打ち込んだ直後だからに過ぎないのだろうか。]

盆咲きの友の遺影を偲びけり

[盆咲きというのは、盆の頃に生まれたの意味だろうか。ただ、盆咲きの花で、遺影を忍んだという意味だろうか。ちょっと分らない。子規居士なら糾弾しそうな表現だが、全体が真摯なので、嫌みにはなっていない。ちょっとした雅の傾向が、祖父には時折顔を覗かせるらしい。]

秋の墓所古きいくさの後始末

[こちらは事実のみを述べきったもの。
 戦後、亡くなった知人の実家に、戦死を伝えに行った時のことを、聞いたことがあるが、あるいはそれと関係するか。「古きいくさ」と書いたのは、むしろこの句が、ずっと後年に記されたことを意味するようにも思われる。一方で、結句に「後始末」とあるのは、それほど時が経てないような感じもする。]

野分去つて茫然と立つ畑かな

枝豆を夕んべの鳥に遣らんかな

[「夕んべ」の「ん」は正しくはカタカナ小文字。
 こんな戯れは、例のお歴々の基準からすれば、句にすらなっていないと罵りそうだが、当たり前の感慨でも、子供の思いつきでも、心情が嫌みなく伝わってきて楽しめれば、それは最低限詩にはなっている。それに対して、言葉の修飾や着想や意図が先に立って興ざめを引き起こしたら、その落書きは、凝っていれば、凝っているほど、言葉をこねまわした嫌みに満ちあふれたもの。少なくとも詩とはまるで別のものには違いない。]

蜻蛉の皺には来ずて棹の先

[これは老年にありがちの句ではある。もっとも老いの感慨も、恋の感慨も、結局は人間というパッケージの感慨には違いないから、私たちの句作も、享受もまた、その枠の内でなされているには過ぎないものか。そこから派生させると、軽蔑していた茶の湯や、形式張った例の狭い部屋のことなども、多少は捉え直して、価値を認めることも可能かも知れないが……
 などと、祖父とは何の関係もなく、酔いどれの妄想に走ってしまう。とにかく酒の入った人間の言葉は、まとまりの付かないものではある。]

鶏頭花夜来の雨の細やかさ

[ふと思うに、「ささら雨」だの「雪月銃」だの、戦時中、つまり若い頃の句に見られたような表現(もっとも推敲したのは後年だが)が、すっかり影を潜めているのは、年齢的なものか。はたしてこれを、寂(さび)の境地と取るべきか、みずみずしい生命力の枯渇と見るべきか。全体的に、句集『雪月銃』ほど深い詩興が感じられないのも、隠せない事実ではある。]

引蔦に立てなき明日情けなし

[冒頭は「ひきつた」「ひきづた」か、あるいは動詞として「ひくつた」か? 心情が真であるのは事実だが、ありがちな描写で、誰の句でも構わないようなものである。もっとも、句集の方はあらためて編纂されたもので、補遺の句は、手帳の落書きに過ぎないものを、私が勝手に掘り起こしているのだから、推敲もされていない日常的な句作を、公表している孫にこそ責任はあるか。]

天井に菊様々を浮かべつつ

[後年の彼は、よく掘りごたつに脚を突っ込んで、上向きに睡っているか、ぼんやりしているような姿が、私には残されている。ただ、盆栽はよくいじっていたが、あまり菊を育てた印象はない。あるいは私が覚えていないだけで、秋には菊の出来映えを、天井を見ながら思い描いたりしていたのだろうか。それとも、天井に菊の模様でもあったものか。
 この句は「つつ」で止めてあるが、どこにでもありそうで、実際は「つつ」止めはあまり使用されないから、ちょっとユニークな風である。ただ述べていることは簡単に過ぎて、例の着想品評会のお歴々には、軽蔑されそうな句ではある。もっともそれはかえって、名誉なことではないだろうか。]

源平に文挟《ふばさみ》挿して冬の入

[居士よりも内藤鳴雪を感じさせるような句で、凝った物ではないが、平家物語が日本の古典文学として認知されているうちは、貶めらることもなさそうなもの。]

雪もよい溶け散りたりと戯(たは)れけり

[私の知る限りでは、この「溶け散りたり」は「後拾遺和歌集」の、
   笛の音(ね)の 春おもしろく 聞こゆるは
      花ちりたりと 吹けばなりけり
の和歌と「戯れた」ように思われる。『雪月銃』の序文からも、祖父にはそれなりの古典の素養があったようであるが、そんな素振りはまったく見せたことはなかった。私の知る祖父は、どこまでも散文的であり、現実的であり、つまりは戦争の思い出話を語るおじいちゃん、それ以外の印象は、記憶に残されてはいないのだった。]

霜つきや畑掘返へし二三本

鍬に憑く蟲さへ冬の細りかな

かび苔た柚子懐かしき木風呂かな

[「かび苔た」というのは変な表現だが、あるいは造語か。これも、孫としては中立的に解釈しづらい句。なぜなら、ごく幼い頃の祖父の家には、実際にかびだか、くすみのある木風呂があって、裸電灯に照らされながら、祖父と一緒に風呂に入ったのを、私はまだ覚えていて、この句を詠むと、たちまちその思い出が浮かんでしまう。
 そして苔ではないが、風呂を出た洗い場の、汚れたコンクリートの洗い場も、(実際の状況は不明だがそのような印象、)黒くくすんでいて、まさに「かびこけた」という表現がふさわしく、素直に受け止めてしまう。
 そんなさびれた風呂場に、柚子を浮かべている場面だが、「懐かしき」とあるのは、祖父の家も改築後は、立派なバスに代えられてしまい、昔を懐かしんだものかと推察される。それとも、祖父にとってさらに昔の、別の木風呂を思い浮かべたものか。]

いくさ事孫は炬燵の猫ならん

[祖父はよく戦争の話をした。それが、ただの世間話なのか、取るに足らない孫ではあっても、後世に伝えようとした、ある種の使命感なのかは分らない。むしろ戦争の話以外は、ほとんど聞いたことがなかったから、あるいは意図的に、話そうとしていたようにも、今となっては捉えられなくもない。ただ、話している様子を回想すると、どうしてもそのようには感じられないのだった。
 けれども、このような句がある以上、祖父はある種の使命や期待を、わずかでも込めて、戦争の話をしていたということだろうか。
 ただ言い訳をさせて貰うなら、私は自分が経験もしていない、話だけを聞いているような立場で、何かを口にするのは良くないことだと思って、黙って聞いていただけのことで、決して上の空で聞いていたわけではなかった。それだけは、自分のためというより、彼のために弁明しておこうと思う。]

用も無く孫の顔見に炬燵犬

[彼の勤務先であるテニスコートから、帰宅道の直線上に(思えば勤務先が、5kmくらい離れていながら、道路上の直線でたどり着けるというのも、ユニークではあるが、)私の家があったので、祖父はしばしば我が家に立ち寄った。当時はそれさえも、何か事務的に訪れているのか、妻の顔を見てもおもしろくないものだから、寄り道をしているように思い込んでいたが、案外自分の娘や孫に本当に逢いたくて、立ち寄っていたのではないか。こんな句を発見すると、そんな気持ちにさせられる。]

小春日に落ちては句さえままならず

寝ぬ孫に長きこと云ふ湯婆《たんぽ》哉

[これも個人的な思い出に関わるが、作品として中立的に詠んでも、何度も咀嚼(そしゃく)するうちには、中句の「長きこと」の意図はつかみ取れるのではないだろうか。意図はつかみ取れるから、それで句の意義は果たせるが、それが実際に「長きこと」を言っていたとは、普通は考えないには違いない。
 私の両親の家、つまり実家と、祖父の家は、1.5kmほどの距離にあって、両親が共働きだったこともあり、わたしは毎朝、祖父祖母の家まで車で送られて、その後、祖父の家から、集団登校で小学校に通っていた。学校が終われば、祖父の家に戻ってきて、夕暮に両親が迎えに来て、そうして実家に帰っていった。幼稚園の時もそうだし、それ以前にも預けられていたようだ。
 それくらい、もう一つの我が家だったから、しばしば祖父の家には寝泊まりもした。そんな時、祖父は必ず、「長い話」というのを聞かせるのが、私を寝かしつけるときの習わしになっていて、また私も、どうしてだか知らないが、その「長い話」を聞くのが、決まりのようにも、楽しみのようにもなっているのだった。このあたりの心理状態は、今となってはなんだかよく分らない。
 けれどもその「長い話」というのには、実はなんの実体もなくて、祖父は私が寝るまでのあいだ、ただひたすらに、「ながーい、ながーいお話がありました」のように、「長い」を長い間、繰り返し続けるだけで、その先になにがあるのか、初めからなにも無かったのか、わたしはその「長い」に付き合わされる間に、いつしか眠りにつくのが決まりになっていた。
 そうして、冬になると、祖父と祖母は、並べられた蒲団にそれぞれ、湯たんぽ、後には「電気あんか」を入れておくのが決まりだったから、この句はわたしには、きわめて単純に、こころに落ちてくるのである。
 第三者には、これくらいの説明を、あるいは要するのかも知れないが、同時に繰り返し詠むうちにには、何らかの物語をしていたくらいには、捉えられるのではないだろうか。いずれにせよ、わたしには主観が先に立ってしまい、この句の判断は出来ないようだ。]

孫は雪の遊(いう)さへ知らずあはれなり

雪玉を投げ合ふ子らに当てにけり

[そんなこともあったかしら。そういえば、小学生の頃、一度大雪が降って、車など通れなさそうなくらい、積もったことがあった。私と妹は、ふたりで The kamakura を作っていたが、その時祖父がいた印象はない。やはり事務的に、無理にでも職場である、テニスコートに出かけていたのだろうか。まるで覚えていない。
 そのくらいの祖父だから、子供のあそびに付き合った印象はまるでない。こんな遊び心も、私には不思議なくらい。ただ一度、電話を掛けたときに、テレビのしられたバラエティ番組の台詞を言ったことがあるから、もしかしたら、口に出さないだけで、なかなかに面白みのあった人なのかも知れない。そういえば、きわめて幼い頃、肩車やお馬さんのようなことを、せがんだ記憶は幽かによみがえってきた。]

去年今年

弘法もうとくなりけり年の果

[悪筆な私と違って、祖父は達筆な人だった。本来句作などは、筆記と分かち難く結びついているもので、キーボード至上主義の私などが、邪道なのかも知れない。(もっともわたしはその考えは採らないが。)そんな達筆も、すっかり疎くなったというもの。
 これが、年末に出す年賀状も、おっくうになってきたという意味なのか、年のためにすぐれた文や文字が書けなくなってきたのか。あるいは、そのバランスをどの程度込めたものなのかは分らない。]

夕べかと雑魚寝がうちに年新《としあらた》

移ろひにまたあらたまる街となり

[これはさりげなく佳句ではないだろうか。新年にあらたまる街の装いが、繰り返されるうちに、いつしか町並みさえも移り変わっていく。「移ろひ」の印象が、若者の主観とは異なる、年配者の実感を込めながら、ある種の叙情性を宿していて、その移り変わる様を、主観で白黒付けずに、現実に委ねるような突き放した所もある。それでいて、謹賀新年の挨拶もちゃんと込められている。手帳から七十代後半の作であることが知れるが、年老いても、彼の詩情は枯渇しなかったということか。]

口きかず妻共々に寝正月

[このくらいの句は、拾遺にはいくつも見られたが、句としての考察を行うような作品ではなく、ようするに日常感慨を、句にしたという、あるいは句のもっとも基本的な、趣味としての意義をもったものではある。つまりは、どこにでもありそうなという事になるが、孫の私にはまた違って聞こえてくる。
 祖父と祖母は、いにしへの夫婦にはありがちだったのだろうか。あまりどころか、ほとんど口を利かないような夫婦で、愛情というものが存在するのだかどうだか。ただ、慣習的に結びついたから、慣習的に一緒にいるのが当たり前で、しかもそれを疑問にすら思ったことはない。けれども慣習からは一歩も先には進まず、仲良くなる気すら、初めから存在しない。そんな夫婦だった。
 もっともそれは、孫が勝手に抱いた感慨で、夫婦それぞれの感情は、もっと複雑なものがあったのかも知れない。いずれ表面上は、二人は相互に冷淡でありながら、しかも無頓着に夫婦であることを信じ切って、離れるなど思いも寄らない、けれども心が寄り添うことも、また思いも寄らない。そんな様子だった。
 もっとも、そんな傾向が、漫才の小ネタにでも豊富にあふれているなら、いにしえから夫婦の実態というものは、そのくらいのものには過ぎなかったと、夏休みの自由課題に、まとめることも出来るかも知れない。]

果の賀に発句弊えて仕舞也《なり》

[七十七才の喜寿(きじゅ)に詠まれたもの。実際はその後も句作が残されている。ちょっと気取ったところがあるが、このような、最果ての気障(きざ)といった印象は、残された句を見る限り、このあたりが最後のようだ。
 もっと若い頃の、つまり終戦直後から、私が生まれるより前の祖父の句を、詠んでみたかったような気にさせる。あるいは彼の実家を訪ねたら、行方不明の手帳なり句集が、見つけ出せたりはしないだろうか。]

無季

今生《こんじやう》は虚(うつせ)の貝の如くかな

[うつせ貝とは、空の貝殻のことで、むなしいものの喩え。一生を回顧すると、魂はつかみ所がなくおぼろげで、ただ肉体としての外側だけが、変遷していたようである。と孫のわたしは解釈する。]

吾は竹の傀儡《くぐつ》の舞の如き者

[祖父の名を「竹雄」と言う。これは晩年の何冊かの手帳の、冒頭にそれぞれ、同じように置かれていたもの。あるいは座右の銘で、ずっと若い頃に詠まれたものかも知れない。
 ところで、手帳が何冊もあると、さぞかし句が散りばめられているように考える人もあるかも知れない。しかし、それは現代病で、むしろ業務連絡の合間に、忘れた頃にふと、俳句がなされるようなものには過ぎない。
 もちろん以前には、俳句手帳やノートが残されていたものと思われるが、残念ながら私の知ることの出来たものは、以上の掲載ですべてである。もし後日、新たな発見があれば幸いである。以上。]

          (をはり)