「大和物語95段99段」古文と朗読

「大和物語95段99段」古文と朗読

 90番台もこれで終わり、含みのある和歌と、ある種の演技性のある和歌を、一首ずつ。どちらも外しがたい和歌になっています。

大和物語九十五段

 同じく、三条の右大臣[藤原敦忠]の娘、三条の御息所の話。醍醐天皇が亡くなられ後、式部卿の宮[敦慶親王(あつよししんのう)。宇多天皇皇子]が通って来ていたのが、どうしたことか、来なくなってしまった頃。斎宮(さいぐう)[伊勢神宮の祭神に仕える未婚の皇女、または女王のこと。ここでは、宇多天皇の皇女である柔子内親王(じゅうし・やすこないしんのう)]の所から手紙が来たので、三条の御息所は、式部卿の宮が来られないことなどを返事に書いて、その最後に、

白山に
  降りにし雪の あと絶えて
 今はこし路の 人も通はず
          三条の御息所 (後撰集)

[白山に
   降り積もった雪で 道跡も絶えて
  今は越路には 人も通いません]

と記した。斎宮からの返歌もあったが、和歌集には返歌は無しとされている。

古文

 おなじ右のおほいどのゝ御息所(みやすどころ)、帝(みかど)おはしまさずなりてのち、式部卿(しきぶきやう)の宮なむ住みたてまつり給うけるを、いかがありけむ、おはしまさゞりけるころ、斎宮(さいぐう)の御もとより、御文(ふみ)たてまつり給へりけるに、御息所、宮のおはしまさぬことなど聞こえ給ひて、奥に、

白山に
  降りにし雪の あと絶えて
 今はこし路の 人も通はず

となむありける。御返(かへ)りあれど、本に「無し」とあり。

和歌の意味

 白山は石川県から、岐阜県にまたがる標高2,702mの山。富士山、立山(たてやま)と合せて日本三霊山のひとつ。「越路(こしじ)」は北陸道のことだが、ようするに北陸地方の道で、「雪のあと絶えて」だと、雪が溶けたように感じられるが、「雪の(ため人)跡絶えて」「雪が跡を絶えさせて」くらいで捉えると、分りやすい。

 表の意味は、雪が降り積もって道が消えたので、今は越路にも人は通らないというものだが、「降りにし」に「古りにし」、「雪」に「行き」、「越路」に「来し道」を掛け合わせて、裏には、「古くなった行き来の道跡も途絶えて、今ではわたしのもとに来る路には、人も通いません」という意味を宿す。つまりは、式部卿の宮が近頃は、来られなくなったことを、詠み込んでいる。

 式部卿の宮と、斎宮が共に宇多天皇の子であり、本文から、付き合っていた御息所への手紙には、宮がどうしているか尋ねる内容があり、その返事として「宮のおはしまさぬことなど聞こえたまひて」最後に和歌を詠んだことが推察される。

 逆に和歌の内容から、斎宮の手紙の内容は推察できるものとして、分りきったことは故意に省略したものと考えられる。省略したのは、「白山に」の和歌が、斎宮の何らかの和歌に対する返歌ではなく、散文による問いかけに対して、御息所側から和歌によって「いまは通ってきません」と、贈答歌であれば問いにあたる和歌が詠まれたことを示唆するものかと思われる。

 そして、このような切実な失恋、あるいはそれに近い内容の和歌を発せられたら、知人としては何らかの返歌をするのが普通である、という和歌のマナーのようなものがあったからこそ、本文の最後にわざわざ、「御返りあれど本に無しとあり」と説明されているのであって、決して蛇足のように付け加えた落書きではない。

 つまり、「当然なされたであろう返歌はあったはずなのだが、和歌集などでは無しとされてしまっている」と、斎宮のためにひと筆加えているのが最後の一文であり、それが唐突に響くのは、私たちが和歌の生きていた社会に存在しない、部外者だからには過ぎないのではないだろうか。

大和物語九十九段

 亭子の帝[宇多法皇。「前の帝」や「院」としなくても分るので帝と書かれている]のお供に、太政大臣[藤原忠平(ただひら)]が大井川[静岡のではなく京都の川]に行った時、紅葉が小倉の山に色づいて美しいので、心から感動して、

「行幸(みゆき)[天皇が旅先にお見えになること]があればなあ。本当に興味深いところだ。必ずお伝えして、来ていただきたいものだ」

[つまり、現在の天皇である醍醐天皇に来るように勧めようと言っている]

と言って、さらに続けて、

小倉山
  峰のもみぢ葉 こゝろあらば
    いまひとたびの みゆき待たなむ
          藤原忠平 (拾遺集)

[小倉山の
   峰のもみじ葉よ もしお前に心があるならば
     この後もう一度おとずれる
   天皇の行幸(みゆき)を散らずに待って欲しい]

と詠まれた。そして、帰ってから醍醐天皇に行幸をお勧めしたら、天皇も「それは興味深いことだ」と言って、大井川に出向いたので、「大井の行幸」ということが始まったそうである。

古文

 亭子(ていじ)の帝(みかど)の御ともに、おほきおとゞ[太政大臣]、大井(おほゐ)につかうまつり給へるに、紅葉(もみぢ)、小倉(をぐら)の山にいろ/\いと面白しろかりけるを、かぎりなくめで給ひて、「行幸(みゆき)もあらむに、いと興(きよう)ある所になむありける。かならず奏(そう)して、せさせたてまつらむ」など申し給ひて、ついでに、

小倉山
  峰のもみぢ葉 こゝろあらば
    いまひとたびの みゆき待たなむ

となむありける。かくて帰り給うて、奏し給ひければ、「いと興あることなり」とてなむ、大井の行幸といふこと始め給ひける。

和歌の意味

 行幸(みゆき・ぎょうこう)は、天皇が旅をしてお見えになる、くらいの意味で、ちょうど今一番の見頃であるから、帰ってから天皇に告げて、来ていただく頃には、紅葉も散ってしまうかも知れない。

 そんな現実があってこそ、「紅葉よ、お前に心があるならば、天皇が来るまで散るのを待って欲しい」と歌ったもの。単純に、散りゆく紅葉を留めたい思いを、天皇の行幸に掛け合わせたものと、軽く読み解いても構わないが、紅葉に対して、お前に心が分るなら、偉大な天皇のためには、待つのが礼儀である、というような、配下の者が、天皇を称えるようなニュアンスを、同時に含んで詠まれた和歌である。

 ただそれは、部下が上司を称えるようなおべっかとは、また異質なものではあるし、何よりも、もみじにジェスチャーを交えて、語りかけるような、ある種の演技性が感じられ、この和歌を魅力的なものにしている。

 そうして歌物語においては、天皇が「いと興あることなり」と言って行幸なされたのは、太政大臣が「いと興ある所になむありける」と説明したからでなく、このように詠まれた和歌の内容に、興がそそられてこそ、行幸が始まったというのが、この段の趣旨である。