短歌の修辞法、序詞(じょことば)

(朗読1)

短歌の修辞法、序詞(じょことば)

 さて、今日は第二章の序詞(じょことば)に移ってみます。これはある言葉に掛かって修飾する、歌の本意とは必ずしも関わらない詞(ことば)ですが、いくつかの特徴的なやり口があるそうなので、ここでは、書籍例題の和歌を現代調に置き換えながら、説明を加えてみましょう。

[一]
ほととぎす鳴きます五月(さつき)のあやめ草
文目(あやめ)さえない恋をしました

 文目とはもとは編み目といったような意味で、ここでは、分別くらいを表します。この場合、上の句が、単なる「あやめ」という発音に対する比喩となっていて、
「~あやめ草。それと同じ発音の、文目という言葉がありますが」
といった意味でつながります。つまりくどくどしく解体すると、

「ほととぎすが鳴きます五月に咲くのはあやめ草。それと同じ発音の、文目という言葉がありますが、その文目さえないような恋をしてしまいました」

注意すべき点は、文目だけは、上の句にも後半にも関わりを持っているという点です。

「あやめ草と発音されるような文目」

「文目さえない恋をしました」

という訳です。それでいて、上三句はこの言葉のシャレ以外に、心を訴えた歌全体の趣旨、つまり下二句とは比較的関係していません。より正確には、上三句は、恋の時期を定めているようにも思えるのですが、決して「その五月の恋が」などと定めてはいない、代替可能な比較的中立した文に過ぎないのです。この独立的な傾向が序詞の必然性であって、例えば、

あの日きみと出会う花屋のあやめ草
文目(あやめ)さえない恋をしました

と関連性を持たせてしまえば、序詞の傾向はだいぶ弱まってきます。しかしまだ上の句、あるいは「あやめ草」の必然性が、必ずしも下の句の文脈と渾然一体という訳ではありませんから、これは序詞と見ることが可能です。

 しかし、

あやめ草さきます五月のなかば過ぎ
文目(あやめ)さえない恋をしました

となってしまうと、もうそれは普通の文章になってしまうわけです。なぜなら上の句は、もはや文目だけに掛かって修飾するという意味を受け持ってはいませんから。

[二]
夏の野の茂みに咲けば百合花の
知られぬ恋は苦しいものです

 「知られぬ」くらいの古語調は気にならないと思いますので、この和歌で説明します。先ほどのように、言葉のシャレの表現ではありませんが、ここでは上三句が「~百合花のような知られぬ」、つまりひっそりと咲いていて知られない百合の花、という意味で「知られぬ」に掛かります。それと同時に、「知られぬ」が下の句を開始している訳です。

 つまり鍵となる言葉に、二つの文脈の意味が、互いに掛かってくる訳ですね。ただし、「知られぬ」の意味はどちらの文脈に対しても「知られない」という意味なので、掛詞にはなっていません。

 これもやはり、上三句が中立的傾向の強い比喩であって、もちろん恋の清楚さや、あるいは恋の生まれた時期を暗示しているようでもありながら、決して確定的に下の句には介在していかない、つまり「あなたに出会った夏の野の」ではないのです。それで「知られぬ」に掛かって修飾する言葉、序詞なのです。

[三]
海のそこ起こして白波たつた山
いつか越えれば妻にも会えよう

 この場合、二句目までが三句の「立つ」に掛かって、「海のそこ起こして白波立つ」という意味を加えながら、三句目は「竜田山」という「立つ」とは関係のない意味を掛け合わせて、続く部分を導きます。くどくどと説明すれば、

「まるで白波立つような『立つ』という言葉がありますが、
その『立つ』という言葉のついた竜田山(たつたやま)」
となります。

 [二]の「知られぬ」は同じ意味を二度使用して、上下に関係していましたが、この場合「たつた山」は、前の部分には「立つ」の意味で、後半へは「竜田山」の意味で掛かり、つまり我々になじみの言葉を使用すれば「駄洒落」のような技法を用いて、二重の意味を持っているのです。

 実はこの、意味が二重になるということが重要で、これを「掛詞(かけことば)」(二つの意味を掛け合わせている)と呼ぶわけですが、この[三]の例では掛詞を利用して、下の句へと移行していく訳です。もし[一]において「あやめ」という発音が、二度繰り返さなかったとしたら、それは掛詞の例となるでしょう。

ほととぎす鳴きます五月(さつき)を咲きほこる
あやめさえない恋をしました

 つまりこれは、和歌という字数の制約の中で編み出された、比喩の切り詰め法にも関わってくると思われますが、掛詞については、次の章で考察することになるでしょう。いずれにしても、この例もまた、下の句の部分と直接関係を持たない序詞であることが分かると思います。



 以上の三つように、

[一]同じ、あるいは類似の発音の繰り返しによる

[二]直接「~のような」という比喩にもとづく

[三]掛詞に基づく

と書籍では分類がなされています。そうして、その特徴を、

「自然物や風景を描写するひとまとまりの語句であること」

「一首で作者が訴えかけたい内容とは、直接に関わらない物であること」

と記しています。そうして序詞をつなぐ言葉を、「つなぎ言葉」と呼び、つながれて思いを述べる部分を「主想部」と呼ぶのだそうです。

 それから序詞は、必ず、

[序詞→つなぎ言葉→主想部]

の関係になると記されていますが、このような序詞はもともと、歌う人々に共通されるイメージ、景観、共有可能な情景をまず提示して、それを心情に結びつけるというような発想。物と心を対応させるような表現方法、「心物対応構造」というような、社会概念があってこそ生み出されたものではないかという説明がなされています。もっとも、これはいい加減な要約ですので、興味があったらぜひ本文で確認してください。



 このように、[一]から[三]まで、おおざっぱに言えば、比喩として「~のように、~のような」で括ることは可能かと思います。つまり[二]の場合は、「百合花のような、知られぬ」に掛かって、単純な比喩になっています。それに対して、[一]の場合は、

「ほととぎす鳴きます五月(さつき)のあやめ草」

「そのあやめという発音と同じような、文目という言葉」

という発音の比喩になっているわけです。また[三]の場合も、

「海のそこ起こして白波たつた山」

やはり[一]と同様に、発音の比喩になっているのです。つまり、

「海のそこ起こして白波立つ」

「その立つという発音と同じような、『立つ』の付いたたつた山」

という訳です。したがって、掛詞で偶然に一致した「立つ」の二文字を平然と結びつけてしまうのは、かなり強引な手法であって、ちょっと短歌を破壊しかねないくらいの様相ですが、それが気にならないのは、二つの意味を掛け合わせたと知るときに、

「海のそこ起こして白波たつた山」

という言葉全体が、「たつた山」だけを修飾した、ある種の慣用句、全体が一つの独立した、つねに「たつた山」に付き添っている修飾文に過ぎないような錯覚を引き起こすからに他なりません。

 このようにして、ある特定の言葉を比喩するものとして、掛かるべき言葉の前に置かれて、必ずしも文脈に対して必然性のない事柄を説明するのが、序詞だと言えるでしょう。

 その際、フォーカスが情景から心情へと移り変わるような効果がありますから、中立的な情景などを歌っておいて、その景観を持って聞き手を引き込んでおいて、すっと登場人物が物語を定めるような演出をすることが出来るのです。あるいは逆の手段で、まるで意表を突くやり方で、心情へと移すということも出来ます。先ほどの「たつた山」などがその例になるかもしれません。

 もちろんここには、品位というものが重要になってきます。ゴミ山の情景を歌っておいて、いきなり愛の主想部を奏でたら、たちまち興ざめを起こすくらい、危険な技法でもあるのです。序詞として独立しているのか、いないのかくらいの表現が、かえって自然な表現になることは言うまでもありません。

 例えば、

泣いてばかりの恋をしました

という主想部を考えた時に、それをどのような情景演出で導こうかというような技術が、私たちのもっとも初めに覚えるべき、序詞の使用方法になるでしょう。これが、

雌鳥のコッコと騒ぐ鶏小屋の
泣いてばかりの恋をしました

とやれば、聞き手が三日三晩ショックで寝込んでしまうような、けれども明確な序詞として把握できますし、

雨の日のしずくもわたしのこころかも
泣いてばかりの恋をしました

同じく「泣いて」を導こうとしながら、「泣いて」を修飾しているようにも、すべてが主想を表現しているようにも思えるような、序詞ならざる歌にも出来るわけです。

 こうしてみていくと、序詞には、心情などを表現した、歌の本来の時間の流れを、しばしフォーカスを移して、情景などを提示しつつ、再び本来の流れへと返す作用を持っていると言えそうです。

 例えば、問題が解けないという思いを、

「私はまだ難問一つが解けずにいるのです」

と表現したいときに、もちろんこれでは、ただの叙述の様相が濃いですが、

私はまだ切り立つ崖の苦しみの
難問一つが解けずにいるのです

 ここで、二句と三句は、本来伝えたいことを保留にして、フォーカスをいったん別の情景へと移しつつも、結局は「難問」を説明する比喩として、かえって全体としてはその難問への思いを、かなり大げさではありますが、効果的に高めているということになります。すると、初めの単なる叙述的な説明文が、序詞によって著しく主観的な思いを伝えた文脈に変更されるのを見て取ることが出来るでしょう。これは比喩の部分が聞き手に情景を提出することによって、かえって歌い手の主観を増幅する効果を持っているからに他なりません。

 前にも説明しましたが、比喩というのは、着想に己惚(おのぼ)れるためにあるのではなく、その登場によって、かえってその歌の主観性を高めるために存在しているのです。

 ですから、ただ単に、

私はまだ先生さえも悩ませた
難問一つが解けずにいるのです

などとすると、浮かぶべき情景が、ただのニュースになってしまうので、歌全体もまた、叙述の説明の傾向が濃くなってしまうといった具合です。



 さて、今は練習のための書籍読破ですから、わたしはこの[一]から[三]の例を三つずつ記してみることにしようと思います。

[一]
夕焼けを染めるといいますひがん花
彼岸のたびごとあの人の影

雪の夜は化けた狐の尾も白く
面白く聞く母の童話を

古き世の代よりつづく山寺の
山寺さんちのみやげぼた餅

[二]
色鳥のたわむれながらの恋いほどの
淋しさこらえてひとり砂浜

金だらい屋根から落とした庭石の
怒鳴り声してせまるヤクザよ

風船の膨らます程に危うさの
張り裂けそうな恋のゆくえよ

[三]
つけ忘れ慌ててともしたケットルの
若すぎる二人いつも空まわり

二一が二、二二が四で、二三が六
駈け抜ける風、今日は遠足

止んでまた降り出したのかな軒先の
あまだれみたいな日はすき焼き

 なんだか、[三]は竜田山からしてそうですが、よほどうまくやらないと、下手な駄洒落みたいになってしまいますね。自分でも笑ってしまいました。つまり掛詞というのは、「ながめせしまに」の「ながめ」に「眺める」と「長雨」が掛かっているというような場合、けっして単なる駄洒落なのではなく、つまりわたしの「あまだれ」の駄洒落のようにではなく、もっと悟られぬくらいに、両方の意味がこころに重なるように、二つの意味を掛け合わせなければならないということが分かってきます。つまりは「長雨」を「眺める」のは一続きの自然な行為ですから、どちらか一方にしか気づかなくても、またどちらか一方だけをとっても、両方が同時に感じられても、和歌の不自然が決して起こらないのです。ところが、先ほどの「あまだれ」では「雨だれ」と「甘だれ」になんの関係もありませんから、ひと読みしただけでも、違和感が湧いてきて、和歌としては破綻してしまいます。つまりは、二つの発音が合っているというのは、掛詞のほんの出発点にしか過ぎないわけですね。けれども破綻から学ぶべきこともあるでしょう。ここでは残しておくことにしましょう。

 [三]で多少なりとも歌になっているのは、「駈け抜ける」くらいでしょうか。大変失礼をいたしました。次回は掛詞ですから、この反省を生かして、さらなる邁進を続けたいと思います。

 それでは、失礼します。暑い日が続きますが、夏ばてなどなさらないようにお気を付け下さい。わたしのように、偏った食生活はなさらないでください。もっとも、あなたは実家ですし、名前の覚えられないような料理まで作るくらいですから、その心配はないかと思いますが。アイスは一日一個にした方が、お腹のためにはよろしいかと存じます。

 お休みなさい。
  あなたに、すてきな夢を。
    ……いまはもう夜明けです。



P.S.
 ネットで調べましたら、序詞には
有心の序(うしんのじょ)
無心の序(むしんのじょ)
があって、直接比喩をもって繋がっていく[二]のようなものが、有心の序で、発音でもって繋がる[一][三]のようなものを、無心の序というのだそうです。そうして、上三句が序詞として、下二句を導くものが圧倒的多いそうですので、そういうものだと思って作ってみてもいいかもしれませんね。



   (二〇〇九年九月九日)

2010/2/23
2010/3/4改訂

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