即興的短歌、宵の喫茶店にて

(朗読1) (朗読2)

「宵の喫茶店にて」

 あなたを失った秋は、ぽつんと暮れゆくらしいのです。私は喫茶店のお気に入りの窓際から、宵の街角を眺めています。語りかけるべきものはもう誰もいない。そうして、これから冬へと下ろうとする喧噪を、遠くから、遠くから見つめているばかりなのです。あんなに沢山の和歌への思いさえも、みんな遠いことのような気がします。そうして、良い歌の定義さえも、考察さえも、みんな馬鹿馬鹿しいことのようにさえ、思われてならないのです。

 ようするに私は、何かを背負って和歌を志していたのではなかったのでしょう。それは私の取るに足らない錯覚に過ぎなくって、本当はただ、あなたが嬉しそうに答えてくれるものだから、つい子供が何かを認めて貰いたくって、熱中するときの仕草をして、私はあんなにも沢山な、手紙を送りつけてしまったのだと思うのです。

 自分はあるいは、世の中に類い希なる愚か人なのかもしれません。そうしてあなたの羽ばたいた空には、もう名残の声さえ見つけられなくって、私はただ呆けてしまう。こうしてコーヒーを飲みながら、宵の人並みを眺めているばかりなのです。

 ヘッドライトの光が眩しくって、向こう並びに遠ざかっていく。信号がそれぞれ互い違いの、赤から青へと変わるとき、くるくる回すカップのかおりが、ひとしきり高まってくる夕暮れなのです。

 それでいてもう何もない。空っぽの自分には、和歌のことなんかどうでもよくなって、あんなに沢山の落書さえも、どれもこれもが味気なく、意味のないもののようにさえ思われてくるのです。

 そうして私はルーズリーフを取り出して、ペンで落書きを始めるのです。もう定義された立派な和歌などどうでもよく、ただ怠惰に自らの思いのたゆたいを、ほのぼのと、そう、まるであかりを求めるみたいにほのぼのと、こころを落ち着けるみたいに書き記すばかりです。けれども本当は、悲しみが胸を突くような気もするのだし、さりとて、溢れたからといって、どこへ向かう当てさえないのだし、おもむくに任せて即興短歌を、記していくのが今の精一杯。今日一日の、せめてもの、私の存在価値なのです。

即興的短歌「宵の喫茶店にて」

窓辺より眺めを宵の街あかり
誰の心に赤き信号

ほほえみさえ遠く窓辺のあの頃を
浮かべてもなお夜は更けゆく

空っぽの名残とかおるコーヒーの
淋しさくらいを何の歌かも

求めてはひとりぼっちの細道を
どこ行くあてもさ迷い子猫よ

暮鐘(くれがね)の時代と僕らを押し流す
新たな服着たあの人この人

夕凪の誰(たれ)待ちごろを渚鳥
波音ばかりか染みる三日月

誰(た)が道の赤と青とを絶え間なく
繰り返しつつ冬の足なみ

触れてまた冷たさくらいを人心
春日眺めのどんな闇かも

もういまはあなたに逢っても嘘わらい
精一杯の僕のやさしさ

青空の風の間に間に粉雪を
降らせ色して春はまだかな

幸せを知らずのはての恋をして
震え逃れのきびす返すよ

朝鳥のこんがり焼いたトーストを
庭に眺めも今日の始まり

せわしなくとぼとぼ人(びと)を追い越して
途絶えもせずのヘッドライトよ

握ろうとしかけて止めた君の手を
憧れ色して宵のためいき

ああ皆さんわたくし最後の晴舞台
老いのピエロの笑いなみだよ

腕枕おもおもしていた君だけど
消えてしまいそうで眺めているのです

枯れ残る枝打つものは四十雀(しじゅうから)
遠くどこかに春を隠して

畦焼のこげ間の間にもほとけのざ
誰をか誘うなんの鼻歌

夕れさば散歩の犬を引かれ人
どこか遠くに鵙(もず)のなき声

灰化したちまちま土手のせせらぎは
春待草のそっときき耳

枯れ草を雨うちゆだねの人形に
ほほ笑み返して立ち尽くす僕

深雪(みゆき)さえほのおの影を囲炉裏人(いろりびと)
どこか遠くのまちに我が子よ

思うように生きられなくって侘びしさの
つのるに任せて泣いていました
今はそれでいい、朝はまた来る

トロイヤのいにしえ人の栄華さえ
ひと夜のかぎり夢やまぼろし

太占(ふとまに)もやってみたいなあなたへの
想いあふれて今日の占い

道ならぬ道ゆくひとを手にかけて
千万人もの石のつぶてよ

ぽつんぽつん灯し連ねは遙かまで
ひと筋道を帰る吾が子よ

朝焼けを過ごしてはまた焼酎の
かざすグラスに何の悲しみ

もう足を踏めずにしゃがんだ痛みさえ
路傍の石を知る人もなし

ぬばたまの闇負う鳥を八咫烏
静かに眠れよ遠き漁り火



   (二〇〇九年十一月十九日)

2010/3/5

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