みさきの公園

(朗読 下手すぎて不掲載)

みさきの公園

  あれは三年前の秋でした。
 高校二年生の気楽さと戯れながら、わたしと朋子(ともこ)は浜辺を歩いていました。今日は学校は休みです。創立者の何たらさんを讃えて、生徒への御祝儀のサービスといったところでしょう。それは大いに結構なのですが、前日、学校の歴史を小一時間も聞かされたのは、大いなる代償だったように思います。

 少しも有名でないこの砂浜のあたりも、夏休みの頃は、海水浴を楽しむ家族連れでちょっとした賑わいでした。今はもうひと気はありません。ただ地元の海人(うみんちゅ)たちが、侘びしげな波音を聞きながら、作業をしたり怠けたりしているくらいのものです。

 ここは田舎と都会のはざまに位置する、半端な町のそのまた外れなのですから、見知った顔も多いくらいです。けれども所在地を記すのはすこし気が引けます。皆さまにはただ、架空の海沿いの小さな町外れを想像していただければ、それで十分なのではないでしょうか。

  曇りと青空とを繰り返す中途半端なお昼過ぎです。
 わたしと朋子は、町へ向かい最中(さなか)にある気楽な喫茶店を目ざして、連れ添って歩いているのでした。

「今どき、塾も行かないなんて、めずらしいよねえ」
なんて、朋子がわたしをうらやみます。彼女は親に強制されて、学校と塾とを往復させられる青春を、ちょっと嘆いているのです。
「でも、週に三日なんでしょ。わたしには部活があるの」
と言い返しますと、
「塾止めて部活に入りたい」
と拗ねてしまいました。朋子は帰宅部。わたしは運動が苦手なくせに、バトミントン部に入っていたのです。とはいえうちの学校では、熱血の運動部なんか水泳部と野球部くらいのもので、バトミントン部なんかまるで遊んでいるみたいな、楽しい部活には過ぎませんでした。先生が指導しないので、わたしたちは手前勝手な亜流プレーに陥(おちい)っているようにさえ、ちょっと思えるくらいです。だから大会で二三回勝ち進むと、奇跡のように騒ぎ立てられたりするのでした。

 今日は部活もすべて休みです。大いに遊ばなくてはなりません。それで朋子の彼氏の待っている喫茶店へ向かって、二人して砂を踏んづけていたのです。

 ちょっと風が強く砂を運んだとき、
「あ痛」
と朋子が目をぱちぱちさせました。コンタクトだから、砂ぼこりでも入ると大変なことになるのでしょう。
「大丈夫?」
彼女はしばらく涙目に留まっていましたが、運良く復活を遂げたようで、
「あら、直った」
なんてへっちゃらを回復するので、
「眼鏡の方が良くないの」
と尋ねると、
「このくらいの風なら大丈夫よ」
と歩き出そうとしましたが、そのとき不意に、何かを発見したみたいに遠くを見つめて、ポカンと突っ立ってしまったのです。
「ちょっと、どうしたの」
「だって、あれ」と指さすので、
思わず同じ方向を眺めてしまいました。
それから……どきりとしました。

 だって、波の合間にぷかぷかと、不自然なものが浮かんでたからです。瞳を凝らすまでもありません。それはどうしたって、ちょっと服装のだらしなくなりかけた、そうして黒い髪の毛を上に、うつぶせになって浮かんでいる、女性の遺体に違いなかったのです。
「大変。死体が浮かんでる」
思わず即物的な表現になってしまいました。

 波は荒々しいくらいに、寄せたり返したりする白い泡立ちにまみれて、海水浴の可能区域ぎりぎりくらいの遠くに、ゆらゆら揺られているその死体は、ちょうど差し込んだ日光に照らされて、不思議なくらいに静かでした。わたしは警察に連絡しなくてはと考えましたが、すでに向こうにいた地元のおじさんが、気づいて騒ぎを始めたようです。同じ所から眺めている間に、仲間が集められ、それから遺体が浜へと引き上げられ、すぐ近くの派出所から、冴えない中年の警官が駆けつけました。

 引き上げられた女の髪は、わたしと同じくらいの中途半端な長さでした。近所の野次馬と一緒に、数名の警察が増援に駆けつけましたから、近寄って顔を見ることなんか出来ません。もっとも夢に出てきたら嫌ですから、近づきたくはありませんでした。服装は茶色のシャツか何かを着ているらしいのですが、酷くぼろぼろになって、スカートが大きく裂けて、むくんだ足が不自然な白さににょきり出ているので、ひなびたお化けみたいに思われるのです。

 つい凝視していましたが、朋子の方がかえって、
「もう行こう。祟られるの嫌だし」
なんて弱気な発言をするので、わたしも賛成しました。
 それからの道程は、遺体の話で持ちきりです。
「こんなことって、本当にあるんだ」
わたしがひとり言みたいに呟いたら、朋子も、
「信じらんない。ドラマでしかあり得ない」
と合わせてきます。
「事故かな」
「そんなの、分かるわけないでしょ。でも明日になったら新聞に載るから、何か分かるかもしれない」
「けっこう若そうじゃなかった」
「嘘でしょ。水ぶくれして、ただの中年じゃないの」
 確証のないことを語っているので、取り留めもありません。ところが急に朋子が、前につんのめって、
「きゃっ」
と砂に肘をつきました。起伏につま先でも取られたのでしょう。犬みたいな姿勢がおかしくって、思わず笑ってしまいました。

「ちょっと、笑ってないで、砂払ってよ」
「どうしたの。いつもは機敏なくせに」
「分かんない。足首を引っぱられたような」
「ちょっとやめてよ。あの遺体の呪いじゃないの」
「こんどはあんたの足に来るかもよ」
「やだ、よしてよ」
へんな盛り上がりを見せて、さっきの話が再開されてしまいました。
「もしかして、殺されちゃたのかな。恋のもつれとか」
とわたしが尋ねると、
「またあんた、ドラマの見過ぎでしょ」
「それじゃあ、やっぱり、自殺かな」
「ただ、溺れただけじゃないの」
「そんなの味気なさすぎだよ」
「現実なんて味気ないものよ」
朋子はいつも殺風景なものの把握方法です。
 わたしよりよっぽど、
  近代的精神の持ち主なのかも知れません。

 そうやってだらだら話すうちに、浜沿いの国道に赤屋根を構える、小さな喫茶店に到着しました。ここは隠れた地元の名店として、ケーキが美味しいことで有名です。だからといって、女性専用という店構えでもないので、朋子の彼氏である翔也(しょうや)とは、ここで待ち合わせることになっていたのです。入ってみると、
「遅いじゃねえか」
なんてわざと時計を見ながら膨れています。
「ごめんごめん。ちょっとイレギュラーな事件が発生して」
なんて朋子が説明を始めるので、さっそく三人で遺体の話で持ちきりになってしまいました。翔也はもちろん、わたしたちのクラスメイトなのです。

 頼んだコーヒーが到着すると、
「お前ら、今日あたりその女が夢に化けて出てくるぜ」
なんて翔也が脅し始めました。
 彼は肌が黒くって、背が高くって、傍から見てもけっこう格好がいいので、憧れている女子も多かったのです。部活も水泳なんかやっていて、夏にふさわしいようなタイプです。朋子もそんなに白くない上に、髪が短くて快活な性格ですから、二人合わせると、実に良く夏向きのカップルに仕上がるのでした。わたしはそれが羨ましい。だって、いつまでも夏のままでもないのだし、今はもう秋。わたしくらい色が白くたって、ちょっと髪が長くたって、翔也の隣に並んだって構わないような気もするのだけれど……

 思わず馬鹿なことを考えて、翔也と目があってしまいました。
「どうした」
なんて不意に聞いてくるので、どきりとしてしまいます。慌てて何でもない風に、
「本当に呪われたらどうしてくれるの」
なんて、さっきの彼の言葉に怯えているような振りをして、ひそかな憧れを誤魔化してしまいました。三人一緒になると、たまにこのような気分に陥(おちい)ることがあります。もちろんわたしだけの秘密。朋子も翔也も知るよしはありませんでした。

「じゃあ、一緒に寝てやるよ」
 翔也は気さくだから、よくわたしをからかいます。

それで朋子を怒らせて楽しんでいるらしいのですが、わたしはその度に、胸を弾ませたり切ないどきどきに見舞われたりするのでした。その時もやはり朋子が、彼の太もものあたりを捻ったらしく、
「いてえなあ。冗談だよ。冗談」
なんて屈託もなく笑っています。
「あんたのは、冗談に聞こえないの」
二人はあちら側にいて、自分ひとりがこちら側にいる。大きな分け隔てが、わたしと翔也の間には広がっているのでした。

 もっとも、せつな苦しく思い詰めている訳でもないのですから、女の特権、甘いケーキが運ばれてきたとき、わたしのセンチメンタリズムはすっと遠のいて、いつもと違(たが)わぬ幸せに浸れるのでした。もちろん翔也は甘い物なんか食べません。女とは違った硬派の嗜好に、わたしはちょっとだけ憧れたりするのでしたが、この店は、コーヒーだけにしたって、よその店よりは断然美味しいのです。香り立ちが違うのは、手で入れているからに違いありません。ストックして酸化させるなんて、劣悪なコーヒーは出さないのでした。

「それにしても、その死体。やっぱり事件の匂いがするぜ」
翔也は自分も見たかったと嘆いています。
「それでね。水死体の後で、朋子がふいに躓(つまず)いてさあ」
「さっそく祟られやがった」
「馬鹿言わないでよ。祟りなんてある訳ないじゃない」
なんて盛り上がっているうちに、今度は担任の悪口やら、試験の事やらに話が移り変わって、わたしたちは、半日、たわいもないおしゃべりに過ごすのでした。

「ただいま」
宵の玄関から上がる頃には、父さんも帰っていました。
まな板のトマトをもてあそぶみたいに、母さんが食事の支度をしています。わたしは我慢できずに、さっそく今日の水死体のことを語り始めました。

「浜で死体見つけちゃった」
なんて言い出したので、
「やだ、事件の現場にいたの」
と包丁を軽やかに母さんが尋ねます。なんでもさっき、近所の中田さんの奥さんから、事件の話を聞いて、ちょうど今、父さんと話していたところだったそうです。さすが近所づきあいの連絡網は、恐ろしいものだと、妙なところに感心してしまいました。

「死体なんか面白くもない」
父さんは取り合いません。
「なによ、実際見たらとびっきりの衝撃なんだから」
と言い返すと、
「命が吹き込まれなかったら、遺体なんて、マグロの陸揚げされたのと同じだ」 なんて無茶苦茶な感想を加えてきます。翔也といい父さんといい、男の無頓着な即物主義には、呆れかえるばかりです。
「もういい」
と拗ねてから、夕飯のおかずを尋ねる頃には、さっきケーキを食べたにもかかわらず、そこはかとなくお腹が減ってくるのは不思議です。
「天ぷらよ」
と母さんが答えてくれるので、気持ちを天ぷらに切り替えておきました。

 それから、いただきますを済ませて、天ぷらを堪能(たんのう)していると、母さんは同じ女だから、いろいろ死体について尋ねてきます。あるいは近所の井戸端会議のネタを集めているだけかもしれません。父さんが冷やかしを入れるにも関わらず、またしても盛り上がってしまいました。
「遺体なんか見て、祟られたりなんかしないかな」
なんてつぶやいたら、さすがに父さんだけでなく、母さんからも笑われてしまいましたので、ちょっとぶすくれモードに片付けを手伝って、とっととお風呂に入ります。今日はいろいろあって疲れたので、早く眠ってしまうためでした。湯船に浸かっていると、頭のなかをいろいろな光景が駆け巡って、スポンジみたいにのぼせてしまいそう。不意に翔也の顔が浮かんできたので、慌てて顔をじゃぶじゃぶやって、鼻歌で誤魔化しまいました。

 パジャマに着替えてから、部屋の机に腰を下ろすと、さみしげな虫の鳴き声が遠くから響いてきます。
「今はもう秋」
なんてつぶやきながら、内緒で記している日記帳に、今日の水死体のことを記しておきました。わたしの青春の一大事は、すべてこの中に収められているのです。筆まめ少女。それはわたしの代名詞。ついでに、

寄り合いの
  ひそかに慕う 友彼(ともかれ)を
   あきらめきれない わたし貝殻

なんて落書きをしてお休みなさい。ふとした淋しさに、お気にのぬいぐるみを、ふとんに押し込んでから横たわると、わたしはもう水死体の夢すら見ることなく、活動を放棄した冬眠の熊さんのように、ぐっすりと眠りに陥(おちい)るのでした。

 あまり早く、十時頃に寝てしまったものだから、目覚ましを待たないで、六時頃に目が覚めてしまいました。人のこころはよく出来たもので、前日のことが、寝ている間に消化されて、思い出に変えられてしまうのは不思議です。なんだか、例の遺体のことすら、遠い出来事のような気がしてきました。リアルな実感が薄らいで、スナップでも眺めるような記憶の一ページ。わたしはカーテンを開ききって、早起きしすぎた時間を生かしきるでもなく、ぼうっとして朝食を待っているのでした。

 ようやく居間へ向かったとき、気づいて新聞を開いて見ました。やっぱり腐乱死体のことがちょっとだけ、地方欄に載っています。どうやら警察の調査の結果、遺体の靴の片方らしきものが、岬の崖のあたりで発見せられ、自殺と他殺の両面から捜査が進められているという記述でした。それから鑑定の結果、推定年齢が、わたしと同じくらいだったので、ちょっとはっとなりました。途端に同情が深まってくる気配です。

「母さん、同い年くらいだよ。夕べの水死体」
「あんまり水死体、水死体言わないの」
「じゃあ、なんて呼んだらいいの」
「そうねえ」
母さんは、時々奇妙なことを言う癖がありますから、
「亡きがらって呼んだ方がいいわね」
なんて不思議な結論に達しました。父さんはもう居間にいて、おかしそうに笑っています。
「いっそ、身罷人(みまかりびと)とでも呼んだらいい」
と無茶な注文をするので、わたしは遺体と呼ぶ方がまだしもマシだと確信しました。けれども、やっぱり気に掛かります。つい母親に向かって、
「遺体なんかみて、呪いに掛かったらどうしよう」
と、夕べ話したことを、ぶり返して笑われました。父さんは、
「そのくらいで呪われてたら、警察官やら医者は、みんな呪われて世の中から消えてしまうじゃないか」
また即物的な判断を下します。

 それはまあ、そうかもしれませんが、
  恐いという感情は、また別物なのではないでしょうか……
 そんなことを思いながら、
「ごちそうさま」といって慌てて準備を済ませます。
それから、靴音よろしく学校へと向かうのでした。

  クラスは夕べの遺体で持ちきりです。
 わたしが登校したときには、朋子が事件の顛末を吹聴していたものですから、わたしは第二の当事者となって、さっそく質問攻めにあいました。
「なんか気づいた点とかないの。ほら、首筋に赤い線があったとか」
「実は他殺死体だったり」
「ちょっと、それなら、新聞に殺人って載るでしょ」
「分かんないじゃない。自殺と他殺の両面で調査中なんだから」
「でもさあ。地元の警察、こないだだって、万引き少年を追い掛けて、躓(つまず)いて骨折したなんて、新聞に出てたじゃない」
「なにしろ人数も少ないしねえ」
「大きな事件だから、それなりの応援が来るんじゃないの」
「そうかなあ」
「だって、鑑定家とかちゃんと呼ばれんでしょ」
「それも、あやしいんじゃない」
「中村医院のよれよれが鑑定するのかも」
「それじゃあ、駄目じゃん」
「死体に症状尋ねちゃったりして」
「コントみたいに?」
「こんなにむくんで、いかがなされました?」
「いや、ちょっと海水を飲み過ぎまして」
「それは困りましたな」
なんて馬鹿なコントを、恭子たちが始めちゃって、大笑いしていたら、ようやくチャイムが鳴って先生が到着。みんな慌てて、席に向かいます。

 わたしは廊下の横の席で、列の真ん中あたりですが、反対の窓辺側には、翔也が顔をうつ伏せにして眠っています。朝からすでにお休みモードに突入です。もちろん朋子は一番前なものですから、振り向かなければわたしたちは見えないのです。わたしはそれをいいことに、しばらく翔也を眺めてしまいました。すると、おはようの挨拶を済ませた先生が、
「なんだ、山口はまた来てないのか」
なんてキョトンとした調子で尋ねてきます。
尋ねたというよりは、独り言だったのかもしれません。

 一番前の男子用の席が、ひとつぽつんと空になったままです。この間、先生が家を訪ねたときには、これから出席しますなんて返事を貰ったものですから、なおさら心配であるに違いありません。それにしても、担任のスーツはちょっとだらしがないのです。銀鼠(ぎんねず)とかいう色らしいのですが、ネクタイの赤い縞模様が、趣味の退廃(たいはい)を嘆いています。ようやく連絡事項が始まりました。

「夕べの事件はすでに知っている人もあると思うが」
もちろんみんな知っています。帰り道は十分注意するようになんて心配してくれるのかと思ったら、なにか情報を持っているものがいたら速やかに名乗り出るように、なんて尋問を加えるのでびっくりしてしまいました。けれども事件のおかげで、朝の黙祷(もくとう)とかいう不可解な行事が中止になったことは、ちょっとした嬉しい余波でした。わたしたち、一人では幾らでもぼうっとしていられるのに、それを他人から強制されると、たちまち不愉快なひと時へと変じてしまうのは何故でしょう。

 それから、ほどなくして、一限目のチャイムが鳴りました。
  学校の日々の営みくらい、退屈なものはありません。
 次から次へと、教科書を捲って、ノートを整えているうちに、その日が終わってしまいます。なんだか味気ない。休み時間と、授業時間をチェンジできたらいいと思います。そうして休み時間といえば、今日は一日、あの水死体の話で盛り上がる一方でした。これでは母さんたちが、近所で井戸端会議をするのを、とてもではないけれど、咎めることなど出来そうにありません。わたしたちの間では、どうやらあの遺体の女性は、他殺ということに定まったようでした。

「すると、三角関係のトラブルじゃない」
「女同士の葛藤」
「恋人を取られて突き落としたとか」
「それは、刑事物の見過ぎだよ」
「じゃあ、やっぱり足を踏み外しただけじゃん」
朋子は味気ないコメントを貫きます。わたしは、
「うちの父さんと同じこと言ってるし」
と味気なさをプチ糾弾。するとゆっくりしゃべる鈴ちゃんが、
「たしかほら、崖のところに、片方だけの靴が落ちていたような話ではなかったっけ。それって不自然すぎるような気がしなくもないなあ」
と会話のペースを穏やかにしつつ転換させてみせました。この子のゆっくりマイペースは、テンポを上げすぎた会話をほどよく宥める働きと、せっかくの白熱した議論を消沈させる副作用とを、兼ね揃えているようです。
 この時はうまい具合に作用しましたので、
「そう言えば、靴跡とか残ってなかったのかなあ」
「まあ、引きずられた跡とかあったら、新聞に載るでしょ」
「そりゃそう」
「いったい、どこにあったんだろう。片方脱げっぱなしなのに、知らんぷりして飛び降りちゃったのかなあ」
鈴ちゃんは興味津々です。でも朋子がまた、
「つまりは、すべって靴が脱げた瞬間に、落っこっちゃっただけよ」
なんてまとめてしまいましたから、他殺派が巻き返しを図ろうと試みます。けれどもまたチャイムが鳴ってしまいました。

「せっかくいいところなのに」
「チャイム邪魔すぎ」
なんてぼやきながら席に着きますと、ほどなくして、古文の大間信義(おおまのぶよし)が入ってきました。四十代くらいの独身教師で、容姿もそれほど悪くもないし、生徒のひんしゅくを買うようなところもないのですが、運悪くズボンのチャックが半開きになっていたことがあったために、それ以来彼は「大間抜けでよし」なんて変なあだ名を、陰でわたしたちから囁かれる不始末となりました。もっとも本人は知らないものですから、今日も意気揚々と授業を開始してみせるのです。

「さて、今日も百人一首を見ていこう」
なんて、楽しそうにページを捲る姿を見ていると、わたしたちは、ほかの先生に感じられない、ある種の感慨に囚われるのでした。つまり彼は、生徒が自分の授業に付いて来る意思があろうがなかろうが、
「どうぞご勝手に、私はただ説明するのが楽しいのですから」
といった自在な態度で教えるものですから、かえってその授業は人気があるのでした。けれども今日は、二三の和歌の後で、
「次に右近(うこん)という人の歌を見ていこう」
なんて、解説を始めるのでした。

「さて、関白を務めた藤原基経(ふじわらのもとつね)の娘に藤原穏子(ふじわらのおんし)がいた。まあ『やすこ』と呼んでもいいんだが、彼女は醍醐天皇の妻のひとりとして入内して、最後には中宮(ちゅうぐう)といって、実際上の皇后(こうごう)になった女性だ。その女性に仕えていたのが、この右近という女性になるわけだ」
なんて訳の分からない系譜を黒板に記した後に、

忘らるる 身をば思はず
   誓ひてし 人のいのちの
 惜しくもあるかな

とその和歌を記していきました。始めは何気なく聞き流していたのですが、その内容の説明を始めると、
「解釈にはいろいろあるが、現代的な精神で読み解くならば、こんな風になる」
と言いながら黒板に、

忘れ去られる自分の身を悲しくは思いません。
  ただ、愛を誓ったあなたの命が、
    私を捨てた咎(とが)によって、
  滅ぼされてしまうことを、
惜しいと思うばかりです

なんて記すので、ちょっと驚いてしまいました。
「まあ、実際は、神前に誓った言葉が原因で、神罰を受けるくらいの意味なのだが」
と説明を続けますが、わたしは何だかこの歌に込められるモダンなセンスが、さっきまで話していた水死体とマッチするものですから、女性の情念の深さに驚いて、つい意味も無く最前列の朋子と、それから相変わらず居眠りを続ける翔也とを見比べてしまいました。なぜ見比べたのか、それはわたしにも分かりません。ただ不思議な燻るような火がちろちろと、心の奥底に蛇の舌を覗かせるような錯覚が、一瞬だけ兆したように、今となっては思われるくらいです。
 もちろん昼食の休み時間には、

忘らるる 身をば思はず
   誓ひてし 人のいのちの
 惜しくもあるかな

の歌をわたしが持ち出して、
「もしかして、こんな恨みの果てに飛び降りたのかも」
なんて新たな情報を提供したものですから、また水死体の話がぶり返して、とうとう掃除の時間にまで盛り上がって、帰宅時間を迎えてしまいました。今日は部活も休みだったので、朋子と一緒に帰ろうと思ったのですが、
「悪い。塾の臨時の試験なんか入っちゃって。これからいかなきゃ」
塾があるときには、二人の帰り道は一緒にはならないのです。
「そうなんだ」
と朋子を送り出して、のんびり屋の鈴ちゃんとしゃべっていると、五分や十分はすぐに過ぎてしまうのでした。

 ようやく教室を逃れ出て、
「しょうがないなあ、ひとりで帰ろうか」
と思って上履きから履き替えると、
出口のところで、翔也が待ち伏せていました。
「よお」
「あら、どうしたの。部活は」
と尋ねると、今日は彼も部活が休みのようです。

 遠くのグランドからは、野球部のお決まりの掛け声が響いてきます。キーンという球に当たった音も聞こえてきます。秋に入ったとはいえ、穏やかな日暮れ前ですから、傾いた陽ざしが、向こう側のいちょうに当たって、きらきらするように思われるくらいでした。

 わたしは何となくそわそわ気分。
  わたしを待っていてくれたのでしょうか。
 きょとんとして眺め返すと、
「朋子と一緒に、事件のあった崖まで遠征するつもりだったのに、あいつ塾だって言って、帰っちまうからさ。暇なら行ってみないか」

 ほんのちょっぴり後ろめたい気もしました。でも翔也と一緒にいるのは楽しいのですし、彼女の友だちくらいの立場で、一緒にいることもめずらしくはないのですから、「うん、いいけど」と、たやすく承知してしまいました。帰り道をちょっと逸れるくらいの、大したことのない観光地なのですから、付き合っている朋子を裏切ったなんてことには、ならないに決まっています。
「よし、じゃあさっそく出発だ」
 翔也はこころから楽しそうにしています。
  きっと事件現場を視察する、
 刑事か何かの心持ちだったに違いありません。またしても、
「俺も水死体見たかったなあ」
なんてぶり返しています。

「でも、本当に恐かったんだから」
なんて言っても、まるで理解しないのです。父さんといい翔也といい、男というものは、女性とは恐怖に対する概念がちょっと違っているように思われるのでした。

 いつしか水死体と恋愛とを結びつけてしまっていたわたしは、なんだかいつもよりドキドキ感がアップしているのが分かりました。翔也と一緒に歩いているということが、特別なことのような感覚が高まって、わざと元気よく話をしながら、心を誤魔化すみたいに浜辺を並び歩くのでした。

「ほら、あの辺りに浮かんでいたんだよ」
白波の生まれるあたりを指さすと、そこにはいつもと変わらぬ海ばかり、引き上げられた砂浜さえも、なんの跡形もありませんでした。
「なんだ、何にも残ってないじゃんか」
「そんなの当たり前でしょう」
「そうかな、花くらい飾ってあったっていいだろう」
「花はあっち」
と教えると、波にさらわれたり砂に埋もれたりしないように、道路の近くに、沢山の花束が置かれています。地元の漁師たちが同情して供えてくれたのでしょう。おまんじゅうなんかも置かれているのが、ちょっと滑稽感をあおります。でも、なんだか首筋のあたりに、水死体の霊魂が触れたような錯覚がしたものですから、
「もう、いこうよ」
なんて、そそくさと立ち去ろうとしてしまいました。

「なんだお前。本当は恐いんだろ」
痛いところを突いてきます。
「うん、ちょっとだけね」
と本音を伝えてしまいました。
「朋子だったら夜中でも歩いてこれるぜ」
「わたしには無理。そんなの」
なんて笑い合っていると、ちょうどあの朋子が転んだあたりを何気なく過ぎようとしたとき、わたしは、服の袖の辺りを引っぱられたような気がして、思わず翔也の方へ倒れ込んでしまいました。彼の腕につかまって、ようやく転ばずに済んだのです。
「ごめん。ちょっと躓(つまず)いちゃった」
「おいおい、しっかりしてくれよ」
わたしは思わずはっとしました。
「あれ、ここって」
「何だよ」
「きのう、朋子が倒れたところと同じ場所」
「おいおい。俺を脅かそうとしたって無駄だぜ」
彼はちっとも動じません。わたしは何だか不思議な因縁を感じましたが、
「そうだよね、残念」
なんて誤魔化してしまいました。これ以上軟弱な女と見られてはたまりません。それに、翔也へもたれ掛かったときの腕の温もりが、こころに暖かく残されたような、やわらかな余韻に浸っていると、偶然の一致のことなど、どうでもいいように思われてくるのでした。

  しばらく歩いていくと、崖への分かれ道です。
 ここを左に折れ曲がると、さみしい雑木林がしばらく広がっています。ちょうど砂浜のあたりから見ると、湾を生みなすみたいに突き出た岬を形成するのですが、その一帯を樹木が茂っていて、その岬の先端から浜の反対側へ向かって、崖が続いているような格好です。灯台なんかは無いのでしたが、細道の砂利を踏んづけて行くうちに、ようやく右側に、開けた公園が見えてきました。

 そこは砂場だのブランコだの、最低限度の子供むけの遊び場が確保された、小さな公園です。樹木に覆われていますが、隅にある見晴台に登ると、広大な海が広がっているのでした。役場の管理が行き届いているものですから、来る人の少ない割にはきれいに整備されているのです。もっとも近所の子供たちは、ここには大人と一緒に来なければならないと教育されていますから、わたしも幼い頃は、よく父さんや母さんに連れられて、ここに遊びに来たものでした。

 この先にある天然の細道は、岩場から崖へと続いているのです。しかし「立ち入り禁止」と書かれたプレートがあるばかりで、柵などは設けられていませんでした。子供が好奇心に任せて、そっちへ遊びに行かないとも限らなかったので、大人と一緒に来るようにと注意がなされていたのです。もちろん遊び盛りの子供たちには、勝手に断崖まで冒険に出かける者もいました。ただ落ちるほどの愚か者がいなかったおかげで、今まで封鎖されないでいたのです。ですから、今回の事件が問題となって、通路が封鎖されて、崖から水平線を眺められなくなるようなことも、あるいは、あるのかもしれません。

「ここも、事件のせいで封鎖かなあ」
なんてぼやきますと、
「そうかもな。最近は馬鹿みたいに安全第一だからな」
 いのちで買えるものはないなんて言いますが、いのちを危険にさらすくらいでなければ得られないものも、沢山あった筈なのに……父さんが昔、嘆いていたことがありました。あれはいったい、どんな意味だったのでしょうか。わたしはついそんなことを思い出して、
「危ないところを全部ふさいじゃったら、籠の鳥になっちゃうね」
と翔也に尋ねて笑われました。

「そのうち、飛び降りたくても、飛び降りられる場所なんか無くなっちまうかもな。三階以上の窓は、開閉禁止とかいって」
「マンションのベランダとかは」
「駄目駄目。布団を干そうとして、落ちる奴がいるから、檻のように鉄格子を付けるのさ」
「まるで、動物園じゃないの」
思わず笑ってしまいますと、
「実際、動物園になり掛かっているのかもな」
なんてめずらしく真面目な口調で答えます。

 わたしはなんだかドキリとさせられて、細道なので彼の後ろから付いていくと、ちょっとした「彼氏彼女(かれかの)」の心持ちがしてきます。不意に黒ずんだ岩場へと抜けたとき、海が果てしなく広がっているのでした。
「わあ。ここに来たの久しぶりだなあ」
つい嬉しくなってしまいます。
「あれ、こんな家の近くなのに全然来ないのか」
「うん。来ても公園まで。だって崖の下なんか覗くの恐いでしょ」
「とろとろして落っこちるかもしれねえからな」
「やだ、そんなことないって。落ちるとしたら鈴ちゃんくらい」
「ああ、あれは落ちるな。それで、大分落ちてからようやく、はてな、私って、どうして落ちてるんだろう。なんて悩みそうだ」
「やだ、おかしい。そんな人いないって」
なんて下らない話とともに、岩場の外れに近づくと、潮と岩盤との格闘するとどろきが、吹き上げの風と一体に伝わってきます。崖の尽きる瀬戸際には、飛ばされないように石で下敷きにした、赤い花束が横たわっていました。きっとあの遺体を弔って、誰かが供えてくれたものでしょう。

「うひゃあ。こんなところから、飛び降りるか普通」
なんて翔也が乗り出すので、
「危ないよ。そんなに乗り出しちゃ」
「大丈夫、大丈夫」
なんてはしゃいでいます。勇気を出して、自分も乗り出してみたら、めまいを起こすくらいに奈落が深くって、しぶきが白々と打ちつけているので、思わず後ずさりしてしまいました。
「もういいよ。あっちへ行こうよ」
「やっぱり、恐いんだろ」
「そんなことないけど」
「嘘つくなって」
なんて振り向いた表情が凛々しく思えて、束の間、二人っきりの幸せに浸ってしまうのでした。朋子に悪いような気持ちは、海の藻屑と消え去っていました。

 ようやく公園へと戻ってきます。
  だんだん夕暮れが近づいてくるようです。
 また雲が多くなってきましたから、崖から空を眺めることは叶いませんでしたが、公園のあちらこちらから、さみしげな虫の鳴き声が響いてきます。ここまで来ると、樹木が四方を邪魔をしますから、波の音はぐんと遠ざかります。風だって宥められて、岬の先端であることを忘れてしまうくらい。

 始めは、三方の木を刈り尽くして、見晴らしの良い公園にするつもりだったのを、地元の反対にあって、今ではただ小さな見晴台が、隅に設置されるだけになってしまったといいます。ぽつねんとした外灯がありますが、これはもう点灯しません。あるいは夕暮れには帰れという意味で、燈火の交換がなされないのかも知れません。わたしと翔也は、鞄を転がして、ブランコなんか揺らしているのでした。

「それで、実地検証はどうだった」
とからかうと、
「いや、実に雄大だった」
「やだ。そうじゃなくって」
「俺の見るところだ」
「うん」
「あんなところからは、思い詰めても飛び降りられないぜ」
「たしかに。わたしには無理そう」
「俺だって無理だ」
「それなら、やっぱり翔也も他殺派?」
と聞いてみたら、
「いや。やっぱりただの事故じゃねえの」
「鈴ちゃんがすべっちゃうみたいに?」
「そう。あれ、私落ちてるよ、って思ってるうちに水死体」
「そんな馬鹿な」
なんて、変なコントみたいになって、大笑いしてしまいました。けれども、これはうぬぼれでもなく、女というものには、予感を察知する不思議な能力が備わっているものですから、わたしはどことなくそわそわとして、
「ねえ、本当に現場を見るのが目的だったの」
思わず聞いてしまいました。何か別の目的があるような気がしたからです。
 すると翔也は、ブランコを揺らすのをやめて、
「実は話があってさ」
なんて返してきたのです。

 わたしはどきりとしました。その声が、日頃の翔也らしくありません。そんな、翔也らしくない声を、今日は何度も聞かされているような気がしたので、まるで不思議な予感が、わたしのこころを支配してしまったに違いないのでした。

 彼がブランコから降りたので、わたしも揺らすのをやめました。
  それから彼はわたしの前に立ったのです。
 わたしはブランコの椅子に腰掛けて、
きょとんと彼の瞳を見返しているのでした。

「なに」と言い返すのが、恐いような気がして、
けれども尋ねなければならないような気がして、
躊躇していますと、
「もやもやした気分で過ごすのって、俺苦手なんだ」
「うん、知ってる」
わたしは冷静を装います。
「だから、やっぱり伝えようと思うんだ」
なんて大きな声を出すので、思わず、
「なに」と聞き返しました。
「俺さあ」
翔也はちょっとだけ、留まる風でしたが、
性格上、そんなことは出来なくって、
いきなり核心に迫ってきたのです。

「俺、つい成り行きで、朋子なんかと付き合ってるけど、本当は、お前のことが前から好きだったんだ」
あまり前置きのないことだったので、心臓が破裂しそうに高鳴っています。こんな大胆かつ率直な切り込みは、わたしには考えられません。でもそんな切り込み方を、女はされたいと願っているものなのでしょうか……わたしは、あたまが真っ白になってしまい、
「だって」
と言ったまま、しばらくぼうっとなってしまいました。気が動転して、動悸が高鳴って、理性と心情が葛藤しているのですが、肝心な理性の方が取り留めもなくなって、論理的なまとめが出来ない様子でした。だって、本当はわたしも心のうちで、翔也のことが好きでたまらなかったからです。

 わたしの胸に、朋子の影がよぎりました。
「だって、朋子が」
そう言おうとしましたが、なんだか嘘くさくって止めました。

 時として大胆な翔也は、自分の思いを確かめたくって怺(こら)えきれなくなったのでしょう。いきなりわたしの手を引っぱると、ブランコから立ちあがらせて、顔を近づけて来たのでした。
「だって、朋子が」
こころのなかで、離れなきゃという声がしました。
でもわたしは、それに従いませんでした。
ただまぶたを閉じて、もうこの瞬間だけは、誰にも邪魔させない。
そう思って、静かに二人は唇を重ね合わせたのでした。

 のぼせるような、不思議な幸福感が、
胸に浮かび上がってきて、わたしは、
ああ今がいつまでも続いたらいい。
そう思って、彼の感触を確かめていたのです。
 風に運ばれて、波の音(おと)が不自然なくらい響きました。
  それからまた、遠のいて、虫の音(ね)が盛りました。
   夕暮れが色彩を奪おうとしています。
    静かな静かな岬の公園です。
   それなのにわたしの肉体は、
  駆け出したいほどの激情が高まって、
 理性を蔑ろにしたままで、
押さえきれない翔也への思いに、身を委ねているのでした。
けれども……これからどうしたらいいのだろう。

 だって、わたしと朋子は親友で、翔也と朋子は付き合っていて、それなのに、翔也とわたしは、付き合うことが可能な関係であるということが、ぐるぐる頭を駆け巡って、思案をさ迷ううちに、押さえきれないほどの情熱が、不意に翔也を求めて飛翔しました。わたしは思わず、引き離した唇を奪い戻すみたいに、翔也のことを引っぱって口づけを交わし返してみせました。

 わたしに、こんな大胆なところがあるとは、
今まで知りませんでした。
明日からいったいどうしたらよいのでしょう。
「こんなことになって、朋子とうまくやっていけない」
思わず涙がこぼれてしまったので、翔也はびっくりして、
「心配するな。折を見て俺が全部説明するから」
なんて言いますが、
「だって、わたしたち親友なんだよ」
とますます泣きじゃくってしまいました。

 わたしには分からない。本当ならば、友情を犠牲にせずに、わたしが身を引かなければならないのかもしれません。でも、どうして互いに好き合っている者同士が、誰かの犠牲にならなければならないのだろう。花盛りのシーズンは短くて、ちょっと気を許した途端に、あの水死体のように死神に首を刈られるような命なら、せめて生きている間だけでも、愛を道しるべとして突き進んで、なにがいけないのだろう。

あなたさえ
   いてくれたなら 友垣(ともがき)の
  消えさり宵を 恐れなんかしない

 わたしのこころの中に、朋子との友情を捨ててでも、翔也と結ばれたいという、激しい本能のようなものが疼(うず)いています。理性が押しとどめようと葛藤しているのですが、とても情念には打ち勝つことなど出来ないような気配です。

 翔也とわたしは、とにかく今日のことは秘密にしておいて、彼があらためて、本心を伝えるという手はずを定めました。いいえ、定めたのは彼で、わたしは頷いているばかりだったのですが、その後で、どう転ぶにせよ、俺はお前と一緒にいたいという翔也の言葉を、わたしは信任するしかありませんでした。いいえ、今にして思えば、信任するというずるい手段によって、正当化しようとしていただけなのかもしれません……

 ようやく家に戻ると、父さんと母さんが、親戚の河田さんの話をしていました。もう水死体のことは忘れてしまったようです。わたしも今は、水死体どころではありません。さっきの情景があれこれと浮かんでは、取り留めもなくさ迷うばかり。御飯を食べていても、お風呂に逃れても、うわの空にぼうっとしているので、とうとう母さんから、
「どうしたの。具合でも悪いの」
なんて注意されてしまいました。

「うん。なんか風邪っぽいかも。もう寝るね」
なんて、仮病を使って、とっとと寝てしまうことにします。どうせ起きていればいるほど、今日は考えをさ迷うばかり。早く明日にでもなってくれた方が、どれほど気が紛れるか分かりません。

「熱はかってみたら」
母さんが心配しますから、
「大丈夫。そんなに非道くはないから。じゃあ、お休みなさい」
といって、ベットに潜って果てました。

 翌日の学校が始まります。
  不思議なくらいなにもありませんでした。
   翔也は相変わらず朋子といっしょに笑っています。
  わたしはなにも知らないふりをしています。
 不自然なくらい、依然と何も変わりませんでした。
それでいてふたりの間には、小さな秘め事があって、互いにそれを意識しているのが分かります。授業中にすら、時々目を合わせて、互いに驚いてあらぬ方を向くことがありました。誰かに気づかれるのではないか、まして朋子に悟られるのではないかという不安がよぎります。けれども、いずれ決別を迎えるのであれば、わたしはそれに対座しなければならないと考えたり、朋子に済まないという気持ちが込み上げてきたり、もう大変な動揺でした。あまりうわの空なものですから、一度などは、
「こら。ぽかんとしていないで、ここを訳してみろ」
と英語の先生に見つけられてしまい、慌てて立ちあがると、
「夏子の考えはこれっぽちも遠のいて、カッフェ、ほのかなかおりは立ちのぼる」
なんて見当違いの翻訳を敢行したら、あまりにも内容がちぐはぐで、みんなから大笑いされてしまいました。朋子まで振り向いて笑うので、舌を出して誤魔化してしまいます。

「ちょっと、どうしちゃったの」
なんて、休み時間になると、朋子が聞いてくるので、
「なによ」
と答えると、
「さっきの翻訳」
きっとからかうつもりなのでしょう、わたしは、
「だって、全然聞いてなかったのに、いきなり質問されたんだもん」
そう答えながらも、今までだったら、屈託もなかったはずの朋子のからかいが、どこかで憎らしげに疼(うず)くのをかすかに感じました。この女は恋路を妨げる敵対者だ。そんな厭悪(えんお)が、閻魔大王の暇つぶしに焚いた炭火の、後始末の埋火(うずみび)のようにかすかにかすかに、わたしのこころに燻っているようです。そんな自分が恐ろしくて、慌てて下らないことを言うのですが、どうしても気持ちが入りません。幸いにして、すぐにみんな集まってきたので、わたしの不自然は掻き消されてしまいました。

「これっぽちも遠のいてっていう表現は、けっこうすごいかも」
なんて、魅実香(みみか)が注意を与えます。
「いいじゃない、絶妙な表現でしょ」
「どこが」
と否定するから、わたしは、
「ほら、大嫌いなのに愛してるって言葉もあるでしょ。女ごころは、言語の慣習にチャレンジする領域に潜んでいるの」
なんて説明してやりましたら、また会話の導火線に火が点ってしまいました。

「ああ、それ分かるかも」
「食べれないのに食べてみると一緒だ」
「あんた、全然一緒じゃないよ」
「じゃあ、ほほ笑みながらも憎んでるとか」
「それは、ちょっと近いかも」
「めかた増えてももう一個とか」
「全然違ってるじゃない」
「でも、それ分かる、夕飯前でも一袋とか」
それから急転して、お菓子のやめられないベストテンなどが始まってしまい、会話は壮大なスケールで脱線を極めるのでした。けれども、いつも調子を狂わせる鈴ちゃんが、今日はあっちの方で、一人でぽつねんとしています。どうしたのでしょう。あの子はマイペースだから、そんなに気にすることもないのでしょうけど……

  そんなこんなで、穏やかな数日を過ごしました。
 けれどもわたしの内心は、見てくれほどに穏やかではありませんでした。数日前のことが気になって、どうしても朋子との会話がぎこちなくなりそうで、それを誤魔化そうとするものですから、無理な労力が掛かって、なんだかしんどい心持ちです。それに朋子は最近、目の下に隈なんか作ってやつれ加減です。どうしたのと尋ねたら、塾の勉強に追われているという答えでした。

「わたしも少し勉強した方がいいのかな」
なんて言い返すと、また恭子やら伸恵(のぶえ)が「まだまだへっちゃら」なんて加わってきて、屈託のあるわたしの台詞を誤魔化してくれるのでした。鈴ちゃんは時々会話に加わるけれども、なんだかやっぱり元気がありません。いつもの二倍はうわの空なものですから、恋わずらいじゃないかと噂が立つくらいでした。そんなこともあって、わたしの小さな異変はみんなには気づかれずに済んだのです。

  今日も部活は休みです。
 なんて書くと、幽霊部活のような心持ちですが、昨日はちゃんとありました。放課後、伸恵と話しているうちに、朋子は塾へと帰ってしまったので、大分遅れてから教室を逃れると、そこには鈴ちゃんが立っているのでした。思い詰めたような表情をしているのが、いつものことなのか、今日だけなのか、わたしには見分けがつきません。つい気楽に、
「あれ、鈴ちゃんどうしたの」
なんて尋ねてしまいます。鈴ちゃんの答えは、いつもよりなおいっそう鈍重です。
「じつはさあ」
と覗き込んでくるので、不思議な子だなあと思いました。
「あの、私さあ」
なんてどもっているから、
「うん」と会話を繋いでみると、
やっぱり中々言い出せないでいるのです。

 そのうち、クラスに残っていた伸恵が、
「どうした、帰ろうよ」
なんて帰宅を促しがてらに、
「そういえば、夕べのあのドラマ見た」
なんて話し掛けてきたものですから、すべてがうやむやになって、鈴ちゃん自身もそっちの会話に逃れてしまったので、わたしはついに彼女の真意を確かめることが叶いませんでした。あるいは鈴ちゃんとしっかり話せていたなら、違った結末を迎えることだってあったのでしょうか。

 校門を逃れると、わたしは二人と帰る方角が違うものですから、
「じゃあね」
と別れて、冴えないこころを気分転換に宥めようと、町まで買い物に出かける決意をしました。夕べお小遣いがゲットされたので、久しぶりにおしゃれ着でも買おうかと思ったのです。

 ぶらぶら歩きに「オカリナ商店街」を眺めていると、「ほんわか食堂」やら「ぶっきら蕎麦の弥七(やしち)」やらを過ぎたあたりに、若者むけのはやり店舗が並んでいます。そこを物色してから、とりわけ大きなデパートに入って、お気にを探していると、ふいとおすすめ台の上に、マネキン人形にまで着せてあるブラウンのポロシャツが、手頃なお値段で控えているのを発見しました。

  お宝発見の予感。
 わたしはわざと始め、となりのシャツなどを眺めたりしながら、ようやく獲物に手を伸ばしてみました。もちろん店員さんが見逃すはずもありません。
「そちらは、秋のおすすめなんですよ」
なんて営業スマイルで迫ってくるので、わたしは彼女の言葉に釣り込まれて、ますますそれが優れもののシャツであるように思えてくるのでした。けれどもわたしは決して、新聞屋が来たらすぐに取らされる女ではありません。ちゃんと鏡の前で十分に確かめて、疑いなしと悟るまでは購入を決意しませんでした。
「お値段が手頃なので、来週には在庫が危ういくらいなんですよ」
などと脅すので、購入モードが高まってきます。ついには、
「ください」
と白状しなければなりませんでした。

  購買意欲の女。
 ついでにお似合いのスカートでもあればと思って、店員さんに勧められるままに探していましたが、いまいちピンと来ないのでこれは割愛。シャツだけの購入に甘んじて、
「ありがとうございます」
なんて丁寧な挨拶をされながら、売り場を逃れたのでした。デパートなんかに来ると、つい靴を眺めたり、フロアーを移動して、雑貨を覗き込んだり、無駄な時間ばかりが過ぎていきます。商品に触れながら、何だかそれを買ったような気分になったり、使用している姿を浮かべたりするうちに、朋子と翔也のこともすっかり遠のいて、自己満足に浸れるひとときを、束の間、楽しむことが出来ました。
 ああ、お買い物はこれだからやめられません。

痩せるより むずかしいもの
  ころ合いの お気にの服を
    買わずごころよ

 なんて変な和歌を思い浮かべて、
一人で噴き出しそうになってしまいました。慌ててあたりを見回して、危ない危ない、気をつけなくっちゃ。それからまた「オカリナ商店街」を抜けて、薄暗くなりかけた宵へと靴音も軽く、買い物女の帰宅道。いい物を買った喜びが、数日のうっぷんを晴らしてくれます。わたしは羽ばたくみたいに、家路へと急いだのでした。たまには一人きりの買い物もよいものです。

 家に帰ったら、「ただいま」と階段を駆け上がって、すぐに着替えです。あらためて試し着をしてみると、二重丸のフィット感で、わたしの容姿に合っているようです。ジーンズやらスカートと合わせていたら、お気にの組み合わせを発見したので、嬉しくてまた階段を駆け下りて、母さんに見せびらかしてやりました。
「またすぐに買い物なんかして、ちゃんと一月分の計画立ててるの」
なんて、せっかくのフィット感を認めてくれないので、ちょっといじけてしまいます。その拍子に、ふっと、あの遺体の服装に似ているなと思いついたので、買い物女の情熱も、すっかり消沈してしまいました。

「関係ない、関係ない」
頭をふって、階段を登りゆくと、また鏡の前で自分を睨めながら、いろんな表情を作ってみます。それから、今日はこころまで軽くなっているものですから、最近の屈託なんかすっかり忘れてしまい、何気なく朋子にメールを入れてみました。もう塾だって終わっている時刻です。

「新しいポロシャツ買っちゃった。すごい似合うの」
そう記したら、ほどなく返信が鳴りました。
けれどもシャツのことについては言及せずに、
「今、翔也と崖の公園。遊びにおいでよ」
なんて書いてあります。まるで業務連絡。ちょっとがっかり。

 けれどもわたしは、どことなく落ち着かない気分になりました。
  なんであんなところに二人で居るのでしょう。
 今度は朋子がせがんで、翔也を崖にでも連れ出したのでしょうか。あの公園は、わたしの秘め事の現場ですから、翔也と瞳が合って、平気でいられるか心配です。それにもしかしたら、翔也が事の次第を白状して、わたしが呼び出されたような気もして、落ち着きません。

 いずれにしても、朋子に不自然なところを見せないためにも、わたしは出かけなければならなくなりました。せっかくのお買い物の気分転換は、あえなく破綻です。
 でも、もしもの場合には、
  わたしは二人のうちのどっちを、
   裏切るべきだというのでしょうか。
    そんな踏ん切りはまるで付かないで、
   けれども本来なら朋子との友情を、
  大切にすべき道理でありながら、
 愛を成就させたいという圧倒的な、
すべてを破壊する欲求のようなもの。
 それがこころの埋火(うずみび)となって燻っている以上、わたしは最終的には、朋子を捨て去って、翔也のもとへ走るしか、道は残されていないような気もします。  女は恐い生き物だと、自分ながらに思うくらい、
  押さえきれない何かが、うごめいている。
   わたしのこころの奥底に……

「ちょっと、出かけてくるね」
「あら、もうすぐ夕飯なのに」
「すぐ戻るから」
 靴をゆるく履いて、暗くなりかけた玄関を逃れると、まだ宵の色彩は残されていました。もちろん公園までは、さほどの距離はありません。わたしの家は、波音さえ聞こえるくらいの郊外にありましたから、ほんの十分もあれば、崖のところまで辿り着けるのです。

  雑木林のあたりから、虫の合唱が響きます。
 覆い被さるような黒塗りの樹林が恐ろしくて、こんな時間に公園にいるなんてと、気味の悪さが高まってきました。とにかく、公園に辿り着きさえすれば、二人とも居るわけですから、おどろおどろしい一人の暗がりは、帰りは逃れることが出来るでしょう。そうでもなければ、こんなところは、歩くのは嫌でたまりませんでした。まだ色彩は残されているとはいえ、あの水死体の亡霊でもうろついて、わたしを脅しに掛からないとも限りません。そんな不気味な砂利道小道……

 ようやくぱっと開けると、樹林を逃れて、
公園の分だけ明るさが戻ってきます。
ブランコには人影が、
ぽつねんと座っているのが見えました。
「お待たせ」
なんて公園へ踏み込みますと、
朋子がブランコから手を振っています。
けれども翔也の姿が見あたりません。
「あれ、翔也はどうしたの」
と聞いてみると、
「ちょっと野暮用」
なんて答える口調が、
いつもよりぶっきらぼうなので、
思わずはっとしました。

「どうしたの」と尋ねながらも、
公園の空気が穏やかでないような不安が、朋子を見ているうちに高まってきたからです。すでに何かを悟られている……わたしはちょっと恐ろしくなりました。あまり灰化した夕暮れなものですから、人が人らしく見えないような、そんな錯覚を起こす時間帯です。それに朋子は、最近不思議なくらいのやつれ気味で、じっと見つめていると、目の下にくぼみでも出来ているような気がしてくるのでした。

「ほら、このポロシャツ」
わたしはわざと話を反らそうと試みました。
けれども無駄でした。
朋子の性格は、わたしが一番よく知っています。
一度指向性が与えられたら、
もうそれをとどめることは叶いません。
恐らくは翔也がここにいても、
とどめることなど出来なかったことでしょう。
「あんた、この間、翔也と一緒にここへ来たんだって」
心臓がどきりとしました。
「うん、だって朋子、塾だったんで……」
声がうわずってしまったのが、自分でも分かりました。落ち着け、いつも通り、いつも通り、そう念じるのでしたが、どうしてもいつもの口調が出てきませんでした。

「ここで何をしていたの」
いきなり聞いてきます。
「何をって」
 やっぱり何かを知っている。けれども何を?

 わたしは頭が真っ白になって、相手の答えを窺(うかが)おうとしました。けれども彼女には、そんなたぶらかしは通用しません。なにしろ短気なものですから、いきなり核心に迫ってくるのです。
「鈴ちゃんが二人のこと見たっていうの」
朋子の口調は乱暴でした。

 わたしは誤魔化しようのない現場を発覚せられた動揺から、なんと答えたらいいのか分からなくなってしまいました。心拍数が高まっています。慌てて朋子に弁解をしようとしましたが、彼女はひたすらに追い立てるように、わたしを糾弾し始めるのでした。

「ずっと親友だと思っていたのに」
「隠れてこそこそとするなんて卑怯」
などといろいろな言葉を投げかけてくるので、
わたしは追い詰められていきました。
ですから、とうとう怺(こら)えきれなくなって、
「だって、わたしも翔也のことが好きなの」
と本当のことを叫び返してしまったのです。

 その時の、朋子の表情は忘れることが出来ません。
憎しみが抽象化して、鬼と化したような能面を、
まとっているようなその表情を……

 人というものは、どんなに理知的に活動しているつもりになっても、いざとなったら動物よりももっとおぞましい情動に、身を委ねて生きているに違いありません。そうでもなければ、相手がどれほど憎らしくても、これほど恐ろしい表情は出来ないだろうと思うのです。

 それでもまだ、わたしは彼女の決意を見抜けませんでした。
  悟りきることが出来ませんでした。
   それなのに彼女は、不意に自分の鞄のなかに、
  しゃがみがてらに手を突っ込んだのです。
 それが何を意味するものなのか、
さっぱり分かりませんでした。

「翔也は誰にも渡さない」
 彼女の声に驚いて、はっと我に返ると、朋子の立ちあがった手には、キラリと閃光が煌めきました。あっと思って一歩後ずさりすると同時に、それが包丁であることがはっきりと分かりました。まさかと思いました。朋子が、わたしを殺そうと考えるなんて、いくらなんでも飛躍しすぎていて、そんな刑事ドラマみたいな虚構物語が、現実になるとはとても考えられなかったからです。

  わたしは駄目になりました。
 急に全身の力が脱力して、どうしても機敏に動けません。包丁の切っ先に囚われてしまったように、全身がくがくと震えてしまって、どうしても走り出せませんでした。はやく逃げなきゃ、はやく逃げなきゃ殺される。気持ちばかりは焦るのですが、そのくせ足が言うことを利かないのでした。

「裏切りもの」
彼女はゆっくり迫ってきます。
 砂利の音がリアルに伝わってきます。
  それは日常世界ではあり得ないような、
 修羅の入り口のように思われるのでした。

「や、やめて」
 そういって、また二三歩下がったのですが、彼女の瞳孔に潜んだ殺意に縛り付けられて、どうしても身動きが取れません。それでも死にたくないと念じて、全霊の力を込めて大地を踏み出したら、ようやく足へと命令が伝わったので、わたしはつんのめるみたいに後ろに走り出しました。体が冷たく怯えて、あやつり人形のような気がします。

  彼女は黙ったままで、足音となって追い掛けてきます。
 今にも背中に包丁が突き刺さるようなおぞましさで、理性をさえ失っていたわたしは、あまりにも気が動転していたために、致命的なミスを冒しました。あるいはそれは、あの水死体の呪いだったのでしょうか。だって、左に逃れるべき公園の出口を、まるで、あの供えられた赤花に吸い寄せられるみたいに、思わず右に逸れてしまったからです。

 逸れてしまってから、「しまった」と思いました。
  もう戻れません。後ろから足音が迫ってきます。
   わたしはひたすら逃げました。
  逃げる先には、崖が待っているだけなのに。
 ただ後ろが恐ろしくて、懸命に崖を目ざして走っているのです。

「あっ」としてつまずいた拍子に、緩めに履いた靴が片方脱げました。そんなわずかな時間にも、追いつかれて背中を刺される気がしましたが、どうやら彼女は、獲物を捕らえたときの、猫が小動物をからかうみたいな、原始的な欲求に支配されて、わざとわたしの振り向くのを待っていたらしいのです。

 わたしは、背中が恐くってようやく振り向きました。
彼女は包丁を前に突き出したまま、黙ってわたしを眺めています。
まるで弱った昆虫にとどめを刺す瞬間みたいに、
冷徹な表情で眺めているのした。

「と、朋子」
 わたしは何とか彼女を宥めようと、もう数歩に迫った崖を背にして、その先に広がる、雄大な、わたしたちの些細な事件には関わりを持たない海を背にして、震えながらに言葉を継ぎました。
「やめてよ。話せば分かることだよ」
どうにかこうにか、口にするのでしたが、朋子はもう何も聞いてはくれません。
「裏切り者」
そう言って迫ってくるのに合わせて、わたしは一歩ごとに追い詰められてゆきました。後ずさりするとき、岩に残されていた砂粒が、じゃりじゃりと鳴りました。踵(かかと)に触れた小石が、カラカラと落ちる音に驚いて、思わず背中を振り返ったら、真っ逆さまに落ち尽くした岩肌目がけて、奈落が広がっているばかり、わたしの踏み出すべき大地は、もはやどこにも無くなっていたのです。

「や、やめて」
あまり高いので、めまいを起こしながら、わたしは最後の懇願を試みました。けれども彼女は、まるで不気味なお化けが、人間を掴まえた勝利みたいに、にやりと笑ってみせるのでした。恐らくその瞬間、朋子は人であることを止めていたに違いありません。
「た、たすけて」
そう叫びたかったのですが、もう、かすれ声にすらなりませんでした。また蹴りつけにした小石が、崖に落ちていく音がします。びゅっと激した風が吹き上げて、はるか下界から、打ちつける波音がとどろいています。

 わたしは精一杯に首を振りました。
  朋子は声を発しませんでした。
   わたしは声が出せませんでした。
    ただ懸命に首を振りました。
   朋子は、不意にえいっと刃物を差し出しました。
  わたしには、もう考える時間はありませんでした。
 つまりは落ちるか刺されるかの選択を、
するしか道は無くなっていたのです。
「あっ」
そう思ったときには、わたしは足をすべらせていました。

 その時、押さえつけてあった石と、捧げ物のあの赤花が、わたしといっしょに跳ね上がりました。わたしはその赤い花びらの一枚一枚まではっきり見たような気がしました。そうしてその向こうから、不気味な表情で笑っている、あの女の恐ろしい正体が、わたしを見下した勝利者のほほ笑みが、わたしを殺した憎らしい朋子の情念が、しっかりとこころに焼き付けられたのでした。

 恐ろしい、人というものは本当に恐ろしいものだ。
  わたしはそう思いながら、崖の下へと落ちていくのでした。
 それがわたしの生前の、最後の感想だったような気がします。わたしの命は、まだこんなに若いままに、赤い花束と一緒になって、落ちているうちにもう気を失って、ついには潮の中に飲まれてしまい、海の藻屑となって果てました。

 この世に未練を残したわたしの遺体は、
波にさらわれ、無残に膨れてゆきました。
 翔也との恋すらなし遂げられないまま、
  誰かに抱かれる喜びすらないままに、
   この世に別れを告げゆく哀しみと、
  動物的ななぶり者にされて殺された、
 あの朋子への怒りが深く混じり合って、
潮のながれに攪拌されながら成分を変え、
 怨念だけが化学変化を引き起こした後、
  結晶となって再び肉体へと固着して、
   精神の異なるある種の思念として、
  いまだ離れられない現世へ留まって、
 わたしは自分の体が次第に見窄らしく、
腐敗しはじめるのを眺めているのでした。
 いつまでも、肉体に留まっていました。
  水ぶくれが、ひどくなり始めました。
   服がぼろぼろにされてゆきました。
  ただ自分をこんなにまでも卑しめた、
 朋子に対する憎しみばかりが膨らんで、
人で無しにさせられたわたしのこころが、
 歪んだ真珠みたいに再生するのでした。

 魚たちはわたしの服をついばみました。
けれども食べられないので、今度は足の指やら、
耳たぶのあたりを突っつき始めます。
「お願い、わたしの体に触れないで」
「若くて瑞々しい体を滅ぼさないで」
必死に懇願するのでしたが、魚たちはそんな願いを嘲笑するばかりなのです。今度は潮があざ笑って、わたしの大切な腕やら足やらを岩に打ちつけたり、ポロシャツをだらしなく捲りあげたり、やりたい放題にもてあそぶのでした。わたしはもはや、ぼろぼろにされた女の、惨めな憎しみに身を委ねるほかなくなりました。スカートさえも、無残にも引き裂かれてしまったからです。

「せめて復讐をさせて」
わたしは何度も何度もそう念じました。
 それから翔也の笑顔を思い出して、
「もう一度だけ、翔也に逢いたい」
こころの底からそう願いました。

あらざらん
  この世のほかの 思い出に
    いまひとたびの 逢うこともがな

 自分の生きていないであろう
  別の世界への思い出に
   せめてもう一度だけ
  あの人に会えたならば……

 古文の授業で教えて貰った、和泉式部(いづみしきぶ)の知られた和歌が、身につまされるように沁(し)みてきて、わたしは最後には、ただその和歌ばかりを、まるで呪文みたいにして唱えているのでした。

 あるいはそんな思念を汲み取った、無情にして戯れがちな海神なり波の精霊が、その願いを叶えようとでもしたのでしょうか。わたしの精神は依然として肉体に留まったまま、消滅せずに燻(くすぶ)り続けるのでした。わたしはそれからしばらく経ったのち、近くの浜辺のあたりに、ぷかぷかとうつ伏せになって浮かんでいるところを、ようやく翌日の昼頃になって、誰かに見つけ出された様子だったのです。

 そうです。皆さまご存じの通りです。
  それは、例の砂浜に違いありませんでした。
   砂浜の向こうには、私たちの姿がありました。
    あの、水死体を発見した日の、私たちの姿が……
   わたしは時をさかのぼったのでしょうか。
  あるいはそうかもしれません。
 何しろ殺された後ですから、もう人間世界の常道は、通用しなくなっていたのでしょう。それにしても、向こうに佇んでいるのは、まだ生前の、瑞々しい私の驚いたような表情と、わたしをこんな目に合わせて、しかも今また、わたしを指さしてあざ笑っている、憎き朋子の姿には違いなかったのです。

 わたしは、地元の漁師たちからぞんざいに扱われました。まるでマグロでも引き揚げるみたいに、ずるずると陸揚げにされて、それから人々が集まってきて、見せ物みたいにたかって眺めているのです。

 ああ恥ずかしい。
  お願い見ないで。
 わたしは羞恥の燃えさかる思いで嘆いているのですが、誰も気づいてなどくれません。そうして離れからは、わたしをこんな目に合わせた朋子がにやにやして、わたしをあざ笑っていたのです。

  やがて、警察が来ました。
 まるで肉のお化けをでも玩(もてあそ)ぶみたいに、ごろごろとぞんざいに扱われました。すでに服は破れて、恥ずかしい肌は露出し、けれどもそれは膨れてしまって、見るものを心地よくはさせないような、不気味なお化けには過ぎないのでした。誇るべき柔らかさなど微塵もなく、ただ警官やら野次馬の、嘲弄(ちょうろう)の対照とされるばかりだったのです。

 朋子と、それから生前の私が、向こうへ立ち去ろうとしています。もう肉体に留まっていることは、わたしには堪えられそうにありません。惨めばかりが膨張して、今まで躊躇していた最後の踏ん切りを、ようやく付けることが出来ました。ただ朋子への恨みひとつを友として……

 わたしは自分の肉体に別れを告げました。
  こんな肉のお化けは、もうわたしじゃない。
   もういらない。もういらない。
  さようなら、美しかった、赤い花びら。
 誰にも抱かれないままに、あなたはこんな醜態に終わってしまった。だからわたしは自分の肉体に掛けて誓うのだ、何としてもこの復讐だけは、付けなければならない。そんな決意を胸に秘めながら、わたしはそこを後にして、二人の背中を追うことにしたのでした。

 二人は幸せそうに話しています。
  わたしにはそれが許せません。
 幸せそうな会話を聞きながら、二人には悟られることもなく、
ただふわふわと漂っているのでした。

「こんなことって、本当にあるんだ」
「信じらんない。ドラマでしかあり得ない」
二人は楽しそうに会話を続けています。

「事故かな」
「そんなの、分かるわけないじゃない。でも明日の新聞に載るから、そうしたら何か分かるかもしれない」
お前が殺したのよ、わたしは耳元で囁きたくなってきます。

「けっこう若そうだったかも」
「嘘でしょ。水ぶくれして、ただの中年じゃないの」
 あまり失礼なことを言うので、急に腹が立ちました。わたしはまだ、自分に何が出来るかよく分かりません。確かめるにはいい機会です。そう思って、朋子の片足のくるぶしを、力一杯、握りしめてやりました。朋子は途端にバランスを崩して、前につんのめって、
「きゃっ」
と砂に肘をついています。わたしはしっかりとした感触を確かめました。そうしてその力が、生前とは比べものにならないくらい、自在に腕力を行使することが出来ることを知りました。わたしは満足して、二人の傍を離れたのです。

「ちょっと、笑ってないで、砂払ってよ」
「どうしたの。いつもは機敏なくせに」
「分かんない。足首を引っぱられたような」
「ちょっとやめてよ。あの遺体の呪いじゃないの」
「こんどはあんたの足に来るかもよ」
「やだ、よしてよ」
へんな盛り上がりを見せて、二人は屈託もなく笑い合っています。

 わたしは今から復讐を遂げるべき朋子の顔を、じっと凝視してやりました。生前の友情はもう無くなっています。怨憎会苦(おんぞうえく)、憎らしい奴に出会ったときの、逃れられない苦しみに身を委ねて、これから行うべき事柄を、あれこれと思い描いているのでした。恐らく朋子はお風呂に入ったとき気づくことでしょう。自分の足首が、誰かに恐ろしい力で握られた時のように、手のかたちを保って腫れ上がっているのを……

 物事には時節というものがあります。わたしはその日は、たましいがふわふわ漂える喜びに身を委ね、透明なままの姿で、何が出来るかを確かめようと、ただむやみに家やら学校やらをさ迷っていました。

 どんな壁でもすり抜けられることを知りました。
  どんな高いところにも昇れることを知りました。
   鳥よりも早く飛べるのが愉快でした。
  こころに描くだけで、瞬間に移動することが出来るのでした。
 我が家を覗いてみたら、生前の私と愛すべき家族が、天ぷらを食べながらしきりに水死体の話をしています。万一身元が明らかになったら、それは生前の私と同一人物なのですから、世間様に済まないようなことになってしまいます。けれども、もしもの時には、わたしが証拠隠滅を図りますから、心配などありません。

 なんて考えていると、わたしの決め手になるようなものが、死体に残されていなかったか心配になってくるので、本当は見たくなかったのですが、我が家を後にして遺体の確認へと向かいました。もちろん抜かりはありません。それから、どうしても怺(こら)え切れなくって、ちょっと後ろめたい気もしましたが、翔也の家にもすべり込んでみました。

あらざらん
  この世のほかの 思い出に
    いまひとたびの 逢うこともがな

あの和歌が思い起こされます。
 始めて見る彼の部屋は、思ったよりも清潔で、まるでちゃらちゃらしていないので、ますます好きだという感情が湧いてきました。そうしてこんなに落ちぶれても、愛情の残っているわたしの精神に、わずかな救いを見出すような安堵を覚えたのでした。彼はけれども宿題なんかしてはいませんでした。

 ベットに転がって、雑誌を捲(めく)っているから、ちょっと覗いてみたら、なんだつまらない、水泳の雑誌なんか読んでいるのです。かといって、いかがわしい雑誌なんか読んでいるよりはマシですが、そろそろメンズスタイルのオシャレ雑誌でも読んで欲しいと、ついそんなことを考えてしまいました。だって彼は、オシャレに気づいたら、もっといい男になれるはずなのに……

 見つめていると、もう叶えられない恋の侘びしさが、累積されてくるものですから、また朋子への怨憎(えんぞう)が、魂を支配していくように思われるのでした。

 だから朋子の家へと忍び込むのです。
  壁も軽やかにすり抜けてみせるのです。
 もう夜更けですから、彼女は布団のなかで幸せそうな寝息を立てています。その表情を眺めていると、崖から落とされた瞬間の、彼女のにやりとした顔が浮かんできて、復讐心を煽り立てました。
「朋子」
耳元で囁いてみます。
何の反応もありません。

 わたしは布団の上から朋子へ、全身をのしかかってやりました。わたしは見えませんから、軽やかなことは軽やかですが、自由自在なものですから、重くなろうと思えば、どこまでだって重くなれるのです。
「ううぅ」
なんて彼女が唸り出しました。
 額からは汗が噴き出しています。
  どうやらうまく金縛りに掛かったようです。
 わたしは面白がって、
「ねえ朋子。聞こえる」
と尋ねてみました。彼女はやっぱり、
「ううぅ」
なんて唸っています。

「いい、この夢のことを誰かに話したら、お前は死ぬわよ。注意しなさい。気をつけなさい。何が起こるか分からないわよ」
何度も耳元にささやいてやりました。それから、
「足首の恐ろしいただれを見たでしょう。あなたは死神に取り憑かれたのよ」
といろいろ脅してやったのです。確かに足首に、恐ろしい指の後が付いていたことは間違いありません。そうして彼女がそれを見たときの恐怖も、わたしには手に取るように分かるのです。その日、彼女は朝までうなされ続けたのでした。

 起きたとき、鏡の向こうの朋子の表情が、やつれ気味なのがいい気味でした。それから、家でも学校でも、夢のことを隠し通そうとする彼女の懸命な対処を眺めているうちに、ざまあみやがれというような、胸のすく思いが広がるのが分かりました。わたしは確かに、生前の私では無くなっていたのでしょう。これから毎日、毎晩、同じことを繰り返して上げるからね。楽しみにしていてね。ねえ朋子。そう思って、ひとりでほほ笑んでいるのでした。

 それから数日間。
  わたしは彼女に悪夢を見せ続けて、
   熟睡出来ないようにしてやりました。
  そうして、ふっと気づきました。
 ようするにわたしに包丁を向けた頃には、彼女はすでに精神をぼろぼろにされて、病人のようになっていたのかもしれません。そうして原因を作ったのは、このわたしに他ならないということになります……

 あるいはそうかもしれません。
  皆さまの判断に委ねるほかありません。
   でも、わたしが朋子に殺された事実は変わりません。
  わたしが醜くされた事実は変わりません。
 わたしが、恋の出来ないうちに殺されたことは許せない。
わたしも翔也に耳元で好きだとささやかれてみたかった。
愛を語り合ってみたかった。
 素肌を抱かれて見たかった。
  だからどうしても許せないのです。

 目のまわりに隈(くま)がはっきり見えるくらい、悪夢に会えたらのおもむきで朋子を苦しめてやりました。わたしの受けた仕打ちを味わわせるために、さまざまな高所から突き落としたり、足をすべらせたりして、恐怖症の心得を授けてやりました。時々は大地に打ちつけにして、ぐちゃぐちゃになった自身の姿を、第三者の立場から覗かせてやりました。最後には翔也に突き飛ばされて、ビルの屋上からコンクリートにぶち当たるまでを、フィードバックがてらにリプレイしてやりました。

 可哀想な朋子。
  でも憎らしい朋子。
   だって、わたしを殺したんだもん。
  わたしには彼女をいたぶるだけの、
 資格があるに決まっているのだ。

 起きている時でさえ、彼女はわたしからは逃れられませんでした。
 一度などは、学校の登り階段の途中から、思いきり突き飛ばしてやりました。
 恭子らと一緒に教室へと戻る途中、魅実香が
「もし彼氏取られちゃったらどうする」
なんて朋子に尋ねたときに、
「さあ、激情の女だから、殺しに掛かるかもよ」
なんて冗談を言うので、ついかっとなって、いきなり後ろ襟をつかんで、おもいきり引いてやったのです。「あっ」という驚きの声があって、彼女は転がり落ちました。残念ながら、高さが足りなかったのと、朋子の運動神経がむやみに良すぎるので、受け身を取ってかすり傷程度で済んでしまいました。

 念のために保健室で見て貰いながら、一緒に来た魅実香に、
「どうも、あの水死体見てから、悪いことが続くのよねえ」
なんて迷信めいた弱音を吐いています。さすがに累積された悪夢やら怪奇現象が、彼女の負担になっているに違いありません。いい気味です。

 夜中に眠れないものですから、翌日は授業中、最前列にも関わらずぐっすり眠りこけていました。社会の授業中でしたが、わたしはその首筋のあたりを、思いきりぎゅっと掴んでやりました。
「きゃっ」
と声を立てて、がばりと起き上がったので、みんなびっくりです。先生が、
「どうした。俺の話をちゃんと聞いておかないと、祟りにあうぞ」
なんてからかうので、クラス中大笑いになりました。

 わたしは次第に、朋子が憐れな奴隷のような、飼育されたペットのような自在な心持ちがしてきました。何しろ、人でなくなってから時が経つにつれ、魂の名残というものは、抽象化された恨み以外、どんどん薄れていってしまうものらしいのです。ですからわたしは、自然の営みに身を委ねるしかありません。道徳的な反省なんて、死人には与えられていないのですから……

 もちろんわたしは、
  そんな中にあっても、
   あの大切な日だけは、
  私と翔也が公園で口づけを交わすところを、
 まるでドラマでも楽しむみたいにして、
遠くから眺めていたのです。

 わたしの唯一の愛の喜びを、もう一度、確かめたくて仕方なかったからです。けれども、鈴ちゃんを排除しようとは思いませんでした。わたしは、何を求めて彼女がうっかりこんな時間に、公園へと足を伸ばしたのかは知りません。ぼんやりしているようで、実は好奇心旺盛で、現場検証にでも訪れただけなのかも知れません。ちょうどブランコのところにいる二人を見つけて、慌てたみたいに木陰に隠れてしまいました。それでようやく、わたしはどこから見られていたかを、悟ることが出来たのです。もし彼女を帰らせることが出来れば、あるいは朋子は私を殺す動機を失って、私は突き落とされずに済むのかも知れません。でも今のわたしはもはや、朋子への復讐を果たすためにのみ現世に留められた、いわば海との契約書にサインした悪霊みたいなものなのですから、そのようなことをする気持ちは、ほんのわずかも起こりませんでした。

 隠された鈴ちゃんを放置して、わたしは二人の傍に漂っているのです。
「俺、つい成り行きで、朋子なんかと付き合ってるけど、本当は、お前のことが一番好きだったんだ」
と、生前の私の前に立った翔也が、ひっしに伝えるシーンをぼんやりと眺めておりました。まるであの日みたいに、わたしの心臓が、どこにもないはずの心臓の幻影が、どきどきと高鳴っているような気がします。

 だらしないブランコの私は、
「だって」
なんて言葉を詰まらせてぼうっとしています。きっと激しい動揺にあって、葛藤が収まらないのでしょう。あの時の記憶が、情緒と一緒に戻ってくると、わたしは束の間、人のこころを取り戻したような気がしました。するとわたしの胸に、一瞬、朋子の影がよぎりました。

「だって、朋子が」
そう言おうと思って、こころに隠してしまったことを覚えていたからです。私はきっと、離れろというこころの叫びを拒絶して、翔也に体を預けたに違いありませんでした。二人の体がぐっと近くなります。

 それから、唇が触れ合いました。
  わたしはまるで、あの日の自分とひとつになったような、
   そんな錯覚を束の間、感じているのでした。
  ただまぶたを閉じて、もうこの瞬間だけは、
 誰にも邪魔させない。
そんな想いで胸を一杯にしながら……
 風に運ばれて、波の音が不自然なくらい響きました。
  それからまた、遠のいて、虫の音(ね)が盛りました。
   夕暮れが色彩を奪おうとしています。
    静かな静かな岬の公園です。
   それからいったん離れた二人は、
  今度は女の方から唇を求めてしまい、
 その後で後悔の念にさいなまれて、
泣き出したのには違いありませんでした。

 木陰のあたりで、驚いた鈴ちゃんが、小心者ですから膝をがくがくとさせて、命を取られるわけでもないのに、小道の方を走っていくのが見えました。
  ブランコの私は泣きながら何を思うのでしょう。

 わたしは今、それを眺めながら、割り切れない気分で一杯です。いくら復讐の鬼と化したからといって、生前の記憶はやはり残されています。すると、例えあそこに泣いている私が、これから幸せを掴み取ったとしても、ここにいる自分には、もう関係無いのだという侘びしさが、不意に広がってわたしを悲しくさせるのでした。そうして悟りました。たとえ誰かを完全に複製出来たとしても、それは同一の思考をするそれぞれ個別の誰かには過ぎなくって、分離した瞬間から、ふたつのそれぞれの個体の関係に別れてしまうに違いないということを……

 それでいて、親が子を思うように、わたしは生前の私を愛おしく思うのでした。ただ、近寄らない方が彼女のためであるような気がして、あまり悪戯をしかけたりはしないのでした。ドッペルゲンガーの不思議な逸話だってあります。何かの拍子に生前の私が、今のわたしを認めてしまったら、大変なことになるかもしれませんから……

 わたしは人でなしのこころになっても、自分大事だけはついに無くしませんでした。それから、翔也への思いも、決して無くしたりなんかしなかったのです。

 二人は並んで帰っていきました。
  わたしは取り残されたまま、暗くなりかけの公園に佇んでいます。
 誰も来ないので、さっきのブランコに座ったまま、さみしく揺らしたりしていました。おそらく傍(はた)から見たら、空っぽのブランコが片方だけ、フラココフラココと揺れているように思われたことでしょう。そのうち、自分で暗記していた、「すなのいろ」という「ひらがな」の詩のことが思い出されて、フラココがてらに口ずさんでみました。

すなおとが わびしいわ
 ふみあしも さみしくて
  なみだいろ くちびるも
 うそくさく おもえるの

いつまでも ゆめみてた
 しあわせの なみおとを
  さよならの おひさまも
 きえかけの ゆうまぐれ

わたしはね よろこびの
 ねがってた あたたかみ
  つまさきの みらいには
 つつみこむ ものだって

いまはもう たそがれの
 なぎさには かいがらの
  しきさいも くすみゆく
 ときをまつ やるせなさ

 ひとつぶの なきべそを
  なだめても くれないの
   くつなかに なみのおと
 たちつくす つめたさを

あいなんて いつわりの
 かみさまを しんじてた
  みじめさを なきつくす
 さよならの けはいです

  あの人への愛が高まって、あの日の唇の感触が甦ってくる。
 わたしは夜遅くまで、その場に呆けていました。虫たちはいよいよしきりに涙を流して鳴きました。風の伝える潮騒が、鼓動のように聞こえます。とうとうわたしはふわりと舞い上がって、翔也の家へと飛び立ちました。くるくると雑木林の上を漂うときに、闇のような樹林の陰が不気味でした。わたしが何かを不気味がるなんておかしい。そう思って、風に運ばれてゆくのでした。

 翔也の部屋もやっぱり二階です。
  わたしは窓ガラスをすり抜けました。
   部屋のランプはもう消されていて、
    時計の音だけがチコチコしています。
   彼は上を向いて眠っていました。
  いびきなんか掻いていません。
 静かな、静かな寝息でした。
それを見ていると、わたしはなぜだか安心するのです。
生きていた頃の、清らかなわたしが帰ってくるのでした。
 わたしはあなたを愛していた。
  それでとうとうこんな風になってしまいました。
   けれどもいいのです。
  わたしはあなたを愛していた。
 そう思ってあなたのくちびるに、
そっと、わたしのくちびるを重ね合わせます。
 すっと、透明な涙の感触が、
  確かに頬に伝わって来ました。
   わたしはこんなにも穢れた亡霊にさえも、
  愛情の欠けらが残っていることを、
 嬉しく悟って、あなたの髪をひと撫でして、
翔也に別れを告げるのでした。

 いよいよ事件の当日になりました。
  わたしは、私を助けようと改めて決意を固めました。
 その結果が、どうなるのかは分かりません。生前の私を助けたからといって、今のわたしが報われないことは確かです。いずれにせよ、復讐には決着(けり)を付けなければなりません。わたしはそのためにこそ、この世に留まっているには違いないのですから。朋子に対する友情めいた感情や、いくらなんでも可哀想だという思いは、遠の昔に、海の藻屑となって消え去っているのでした。

 いいえ、本当は欠けらくらいはきっと、残されていたに違いありません。わたしはこれまでも何度となく、別の解決を模索すべきではないかという、わずかな理性の声を聞くこともあるのでした。けれどもその度に、あの日の朋子の、憎らしい笑顔が浮かんでくるのです。獲物を追い詰めて、殺すときの愉快そうな仕草が、どうしてもぬぐい去れないのです。とにかく女は恐ろしい生き物です。朋子もわたしも、その点ではなにも変わません。あるいは鈴ちゃんだって、なにかもっと別の感情を持って、公園での出来事を朋子に告げ口したのかも知れないのです。信じられるものはなにも無くなりました。そうしてわたしは、またあの公園に来ているのです。

 公園はもう、薄暗くなり始めています。
  ブランコに腰掛けて、朋子が携帯を玩(もてあそ)んでいます。
 恐らく、私を呼び出しているのでしょう。毎晩毎晩、金縛りに祟られて、耳元でおぞましい事ばかり囁かれるので、顔が青ざめて、精神に異常をきたしているように見えます。恐らく皆さまは、いくら亡霊のすることとはいえ、そこまでいじめ抜くなんて残酷すぎると思うかも知れません。ですが皆さまは、未来の希望を無残に散らされた十代の少女の哀しみを、もうすこし理解すべきではないでしょうか。恋をなし得なかった乙女の恨みを、数学の問題なんか解くよりも前に、しっかり捉えて欲しいと願うばかりです。わたしは憎くてなりません。目のあたりに隈(くま)なんかつくって、のうのうとして生きている、朋子のことが憎くてたまらなかったのです。朋子のくせに、目に隈をつくるなんて生意気だ。そんな怨念に身を委ねているのでした。

 彼女が携帯を閉ざしました。
  鞄の中に潜ませた、刃物を確かめています。
   それで私を刺すつもりなの?
  不意に後ろから、ブランコの鎖を押してやりました。
 すると、まるで寝ていた犬に触れた時みたいに、びくっとなって振り向くので、ペットでもいじめているような愉快が湧いてきました。風の仕草ではあり得ない、不自然な揺らしかた。それでいて、背中には誰もいないのです。
「誰、誰なの」
なんて言って、怯えたようにきょろきょろしています。
それから、頭を振って、ちょっとぶつぶつ言いながら、
またもの思いに耽っています。
すっかり取り留めもなくなっているようでした。
「私だけの翔也」
なんて思い詰めているのが滑稽です。

 わたしだって翔也が好きだったのだ。それをこらえて二人とも大切にしてきたのだ。それをちょっと唇が触れ合ったからといって、崖から突き落とすなんて許せない。わたしはそんな憎悪に身を委ねました。
「人殺し」
ちょっと風のなかに含ませて囁いてみます。
彼女はびくっとなって、ますます怯えています。
「私は人殺し」
なんて震えているのです。

 朋子が気を紛らわせようとして、ブランコを揺すり始めたので、わたしは急にむっと腹が立ってきました。理由なんて分かりません。それが亡霊ゆえに起こった心情なのか、生前からこころに宿る恐ろしい情動なのか、そんなことはもはやどうでもいいことのように思います。わたしはただブランコの揺れる最中(さなか)から、朋子の背中を思いっきり突き飛ばしてやりました。
「ぎゃう」
なんて女らしくない悲鳴で、惨めに砂利に投げ出されています。
怯えきったように後ろを振り向くときの、この瞳がたまりません。
あやうくブランコの椅子が当たりそうになって、また、
「嫌っ」
なんて避(よ)けています。
 当たらなくって、残念です。

 だけど、そろそろメールをされた元気な私が、公園へと折れ曲がった頃に違いありません。彼女が到着する前に、片を付けなければなりませんでした。もちろんわたしは、姿を見せることは出来ません。人に乗り移ることも出来ません。けれども皆さまにさんざんお見せいたしたように、物に触れることはちゃんと出来るのです。
 どうするか、見せてあげましょう。
  復讐という言葉の意味を教えてあげましょう。

 確かに、今この瞬間の朋子には、私を殺したという既成事実はないけれど、鞄の中には明確な証拠物件が残されています。そうしてことの顛末を、わたしはしっかり胸に刻み込んでいるのです。包丁まで用意して「未必の故意」だなんて通用しません。圧倒的殺意には違いないのです。わたしのこれからすることは、復讐には違いないけれど、私に降りかかる災難を取り除くための、正当防衛も兼ねているのです。皆さまにはどうか、その辺りのことを酌量していただきたいと思います。

 まだ転がって、膝をさすっている朋子に向かって、わたしは地面の砂をいきなり投げつけてやりました。なにしろ何も無いところから、砂が浮き上がって、自分の方へ飛んでくるものですから、ただでさえノイローゼ気味の彼女のこころには、いい薬だったには違いありません。

 薄暗くなり出して、逢魔が時が近づくと、わたしたち人でなしの魂は、生前の理性を完全に奪われて、魔物的な快楽に身を委ねてしまうように思われます。
「やっ、やぅ」
朋子は意味不明の言葉をつぶやきながら、怯えた瞳孔を頑なにして、公園を逃げだそうとしました。「やうやう」と変な声を発しているのが生意気です。立ちあがったところをまた、踝(くるぶし)のあたりをぎゅっと掴まえて引っぱってやりました。
「きゃああ」
朋子の足首に、握った手の感触が伝わっていることは間違いありません。怯える動物みたいな姿が、わたしの憎しみを煽り立てました。

 わたしはそのまま、朋子の足を引っぱって、ずるずるずるずるずる、砂場のあたりまで引きずっていきました。生前の肉体ではありませんから、力の出し方が自在なのです。朋子はまるで、
「あわあわあわ」といった表現がふさわしいような、
情けないじたばたを見せています。
 そのまま砂場へ投げ込んでやりました。
  全身砂まみれ。いい気味です。
   また公園の外へ、逃げだしそうになりました。
  もう一度、足を引っぱってやりました。
 また砂場に投げ込みます。
すこし弱ってきたようで、
 怯えた表情が愉快です。
  とうとう彼女の靴は、
   片方だけ脱げてしまいました。
  今度は這って逃げようとします。
 わたしは復讐にけりを付けなければなりません。

  朋子の鞄から、例の包丁を取り出しました。
 朋子の瞳には、包丁が勝手に漂ってくるように思えたに違いありません。また「あわあわ」と逃げようとしますから、彼女が公園の出口へ向かうまで、首筋に刺さらんばかりに包丁を近づけてからかいながら、逃れようとする刹那に左側へと回り込んでやりました。

 小道に逃れようとした左側に、包丁が泳いでくるものですから、狂ったみたいな彼女は、
「きゃあああ」
と叫んで、わたしがあの日、右へ走り出してしまったのと同じように、崖へ向かって駆け出したのです。もう帰れる道はありません。わたしはついに追い詰めました。子猫が鼠を追い詰めるときのような、押さえがたい愉快が湧いてきます。それは一種の快楽であるように思われました。どんな生前の行為でも得難いほどの、圧倒的な快楽……わたしはわたしで無くなっているのでしょう。なにしろ肉体がないものですから、お恥ずかしい限りと思います。

 ですが、早く決着を付けないと、
  生前の自分がここに来てしまいます。
   だから、そろそろ終わりにしましょう。
  ねえ、朋子。

「ともこ」
わたしは耳元で囁いてやりました。
まるで迫りくる包丁が、語りかけたように思えたことでしょう。
とうとう崖がうしろ側に控えて、ぱらぱらと小石が落ちる奈落に、
潮騒が打ちつけるとどろきばかりとなりました。

 夕暮れは雲に覆われて、少しさみしい海鳥が、遠くの方で鳴いています。何気ない日常風景。そこに潜む、恐ろしい狂気。逢魔が時と人は呼びます。わたしはその言葉の意味を、亡霊ながらに悟ったような気がしました。

 怯えた顔が崖を背に振り向いて、黒い瞳がお魚のように開ききっています。体を半開きにされる時の、鰺(あじ)の絶望を思わせるので、わたしはなおさら愉快でした。朋子は中空を漂う包丁を凝視しています。凝視しているつもりなのに、その視線がうろついて、まるで負け犬の見せるような独特の表情が、わたしの復讐心を駆り立てました。彼女には懺悔(ざんげ)も改悛(かいしゅん)もふさわしくない。わたしは自分がされたように、いきなり朋子の目の前に、包丁を突き立ててやったのです。

「嫌ああぁ」
 ずるりと踵(かかと)が岩盤を踏み外したとき、彼女の全身が斜めに傾きました。その刹那の表情は、おそらくわたしが突き落とされた、あの日の表情そのものだったに違いありません。すべらせた足が、すぐそばにあった、あの水死体のための赤花を、置き石と一緒にもぎ取って、朋子を追うように落ちました。それを見つめる彼女の、精神の崩壊したようなうつろな瞳が、最後に、わたしのこころを満足させたのです。

 ばいばい、朋子。
  わたしをこんな目に遭わせた報いだよ。
 そう思って、覗いてみると、
彼女はもう気を失っているのでしょうか。落下に任せて身動きひとつせず、置物の人形のように落ちてゆくばかりです。ついには渦のように掻き立てる、波打ち際へと消えてしまいました。もちろん音など聞こえません。こうしてわたしの復讐には決着(けり)が付けられたのです。

  それにしても不思議なことです。
 わたしは波にさらわれる彼女を眺めながら、おかしいな、もし落とされた人に捧げられた花ならば、さっきの赤花はわたしのために置かれていたのだろうか、それとも朋子のために置かれていたのだろうか。などと、取り留めもないことを考えているのでした。なにしろ目的を果たしたものですから、急速にアイデンティティが失われつつあるようです。

  でも、残された理性の欠けらが囁きました。
 もうすぐ、生前の私が来てしまいます。その前に、最後の仕事をしなければなりません。わたしは慌てて公園へ戻ると、風で吹き飛ばすみたいに、荒れた大地の惨状を元通りにしておきました。けれども靴だけは、朋子の形見に残してやることにしました。

 やがて朋子の靴と鞄とが発見せられ、すぐに家に連絡が入るに違いありません。それから警察が来て、大騒ぎになることでしょう。事件なんてまず起こらない、のどかな地域なのですから、騒ぎが大きくなることは目に見えています。

  ですがそれは、もうわたしには関係のないことです。
 わたしはただ、もう一人の自分のために、朋子の肉体がやがて砂浜に打ちつけられて、同じような憎しみの亡霊となり、なにかを悟って、生前の私を殺めることなどないように、手を打っておこうと思うばかりでした。

 崖の方へ戻りながら振り向くと、元気な私の姿がちょっと見えました。さようなら、もう一人の私。せっかく見つけた恋なんだから、もう離れたりしちゃ駄目だよ。わたしのこころの中に、わずかな優しい気持ちが帰ってきました。それから断崖の奈落に向かって、軽やかに身を投げ出すと、もちろん重力なんかは掛からないものですから、自在に降ってやがては海の中へと、波に揉まれることもなく潜っていくことが出来たのでした。

 潮と岩盤とのせめぎ合うような泡沫に、朋子の肉体はもみくちゃにされていました。かつてのわたしのように、意識の欠けらが残されているのか、憎しみが結晶化しようとしているのか。それは分かりません。もし残されていたとしても、まだ肉体を離れないうちなら、わたしのすることに、手など出せないに決まっています。

 彼女への復讐が遂げられましたから、わたしの精神には憐憫(れんびん)の情が帰ってきました。なにしろ憎しみが達成されて、弾けて消えてしまいましたから、わたしの精神の名残は、生前の朋子への友情や、翔也への愛情のわずかな名残となって、次第に薄れていくようにも思われるのでした。
「朋子ごめんね」
海の中で囁いてみました。もちろん朋子はもう答えません。この子もわたしと同じように、ただ猛烈に翔也を愛していた。だから私に恋人を奪われたと思ったとき、どうしても許せないという憎悪に身を委ねて、あんな行為に走っただけなんだ。わたしはただ最後にひとつだけ、愛とは恐ろしいものだ。それだけを悟ったような気がするのでした。

 けれども意識が無くならないうちに、最後の仕事をしなければなりません。わたしは彼女の襟首を掴まえたまま、どこまでもどこまでも、海を潜っていきました。沖の方へと遺体を引っぱっていきました。崖を離れると海は穏やかで、復讐の済んだわたしの心を、小魚たちがそっと慰めてくれるのでした。

 とうとう、鮫の群れに出会えたとき、
  わたしは朋子の遺体を彼らに与えました。
   朋子の遺体は、ちょうどお腹のすいた鮫たちの、
  格好のごちそうとなったに違いありません。
 わたしはそれを、悪意に満ちた外道の行いとは考えませんでした。死んだ後の遺体なんて、穢れた残骸に過ぎなくって、それを放置するばかりに、わたしのような復讐の鬼さえ生まれてしまうのであれば、速やかに天上へとたましいを至らしめるべく、肉体は処理された方が良いには違いないのです。

 わたしは意識が薄れてゆくのを感じました。
  鮫の群がる遺体がいったい誰であるか、
   分からなくなるような気がしました。
  それから、翔也の面影が消されて、
 生前の私の記憶すら抜け落ちたとき、
わたしは気分がぱっと明るくなったと思ったとたんに、
 もう地上からは消え失せてしまっていたのでした。

 まだき光が、わずかに差し込んでいます。
  チチチチ、と朝鳥の鳴く声がします。
 むくりと起き直ると、目覚ましが響くよりずっと早く、
わたしはうなされた夢から、ぱっと目覚めたらしいのです。

 しばらくは何が起こったか分かりませんでした。膨大な夢と現実が、ごちゃまぜにされて呆けているような気分です。思わず振り向いたときに、翔也はとなりで静かに眠っているのでした。

 あまり真実味の籠もった夢のような気がして、わたしはあの頃を回想して、しばしもの思いに耽っていました。すべての感覚が、生々しく記憶に残されています。思わずカーテンをちょっと開いたときに、翔也がつい目を覚ましてしまいました。
「どうしたんだ」
眠そうに尋ねます。

「うん、変な夢を見て」
わたしは思わず、翔也の顔を覗き込んでしまいました。けれども夢の内容を話すことは、やめた方がいいような思いが、どこかに潜んでいましたので、
「ちょっと誰かに、追い掛けられる夢なんか見ちゃった」
なんて誤魔化してしまいました。それから、
「まあいいかあ」
なんて戯れて、ベットにもぐり込んで翔也の背中を突いてみます。彼は単純だから、
「まっ、いいかあ」
なんて寝ぼけまなこで同じことをつぶやいて、二度寝に帰ってしまいました。
 だけどわたしは、布団のなかで、
  三年前のあの日のことを思い返します。
   朋子の消えた高校二年の秋のシーズンを……

 あの日、朋子の鞄だけが残されて、携帯も朋子もどこかへ消えてしまって、わたしはしばらく公園のあたりをさ迷っていたのです。すると彼女の靴が、片方だけ脱げているのに気づきました。それは朋子のお気に入りでしたから、わたしにはすぐに分かりました。公園は静かで、変わったところなどありません。ただ彼女の鞄と、靴が一足だけ、安らかに横たわっているばかりです。

 不安になって、彼女の家に連絡を入れました。
  それから翔也にも連絡を入れました。
 例の水死体の靴が、ここに残されていたことを思い出しました。すると彼女があの遺体に祟られて、崖から飛び降りたのではないかという錯覚が浮かんでぞっとなりました。

 すぐに家族が駆けつけて、ついには警察沙汰になって、行方不明ということで大規模な捜索が行われました。もちろん崖の下にも舟が繰り出して、水死体でも浮かんいないだろうかと、幾日も調査が続いたのですが、どうしてもそれっきり、朋子の姿はこの世から消えてしまったのでした。

 殺人らしい跡も見つからず、靴の一足くらいでは、犯罪性も薄いという判断が下されて、ついには、事故で崖から落ちたという結論が出されたとき、新聞の地元欄は、
「二人目の靴も崖の上から」
などとセンセーショナルな題名をつけて、二人目の飛び降りを示唆しました。しかし、全国的なニュースに広がるほどのことでも無いらしく、また、本当に朋子が飛び降りたかどうかも分からないものですから、それっきり、人々の関心からは遠ざかりゆくばかりだったのです。

 もちろんクラスの間では、彼女のことが語り継がれました。わたしはしばらくの日数(ひかず)、行方知れずの親友を痛んで、悲しみに沈んでいたことを覚えています。現場の第一通報者として、いろいろ取り調べも受けましたし、わたしが突き落としたという仮定も成り立つものですから、いろいろと物思いに囚われたものでした。まさか、あの日の口づけが発覚して、彼女を自殺させたのではないかと、そんな心配まで湧いてくる始末で、情けないくらいに、あの頃はナーバスになっていたようです。けれどもよくよく考えれば、彼女はそんなことで、死んだりするような性格ではありませんでした。

 わたしと翔也は、互いを慰め合ううちに、もともとが好き合っていたものですから、急速に近づいて、ほどなく結ばれました。もちろん、ちょっとした罪悪感はありました。何しろ彼女に告白をする機会を失ってしまいましたから、騙したまま終わってしまったようなものです。けれども歳月のうちには、そんなことすら思い出に変わっていくようです。ですから二人は、ときどき朋子のお墓参りに出かけながら、結婚の約束までして、今でもこうして一緒に過ごしているのでした。ただ朋子の死因、あるいは本当に死んだのであればの話ですが、それだけは、今に至るまでどうしても分からなかったのです。

 それが今朝、どこまでが現実で、どこまでが夢なのか、まるで分からないような、奇妙な悪夢にうなされたものですから、そうしてその情感が、あまりにもリアルにこころに焼き付けられたものですから、まるで夢と現実がミキシングされて、ひとつの映像となってしまったような、つまりは、わたしが朋子を殺したような錯覚に囚われて、しばらくは心臓をどきどき震わせているほどだったのです。

 ですが、いくらわたしでも、
  お化けやら幽霊なんかは、
   とうてい、信じ切れません。
    せっかくの翔也との幸せが、
   朋子の犠牲になり立っているのは事実だとしても、
  そのために朋子を生け贄になんかする訳がありません。
 そう信じながらも、あまり不思議な夢と現実の混淆(こんこう)でしたから、わたしはこっそりその夢物語を、ノートに落書きし始めたのです。すると不思議なくらいすらすらと筆が進みました。自分には返ってそれが、因縁めいたことのように思われて、近頃ようやく翔也に読んでもらいますと、彼はからっきし迷信には疎い性格ですから、
「これなら小説として認められるぜ」
なんて、わたしの後ろめたさなんてお構いなし。市場への売り込みを提唱するのでした。それでも、
「本当にこんな夢見ちゃったんだよ。大丈夫かなあ」
と尋ねますと、
「それはきっと、俺たちが朋子に内緒で、口づけをしたときの後ろめたさが、今でも残されているんだと思うぜ」
なんて、優しく諭してくれるのでした。

 彼から少し勇気をもらって、ある時、出版業に関わっている友人の奈美恵に会ったときに、
「こんな物語が出来たんだけど」
と読ませたら、ぜひ雑誌に掲載したいという話でしたので、断るべき理由もないのでOKしました。もちろん雑誌の掲載にあたって、朋子と翔也という別名に、そっとすり替えておきましたから、誰かに迷惑を掛ける心配なんかありません。

 そのようないきさつで、この一連の物語を、皆さまにお聞かせすることになったのですが、けれども、わたしは今でもほんの少しだけ、例えこの物語が真相ではないにせよ、わたしが朋子を殺した本人ではないか、つまり翔也を得たいという願望が高まって、まるでもう一人のわたしを生み出して、わたしの知らない間に朋子を殺めたのではないか……
 今でも、そんな心配が時々湧いてくるのです。
  だから、朋子への墓参りは欠かしません。

 お墓は、しばらくのあいだ、頑なに行方不明を貫いていた両親が、ようやく名前を刻み込んだ御影石で出来ていて、ぴかぴかときれいに光っています。お線香を焚いてあげると、ラベンダーの煙が豊かに立ちのぼって、ここは波音さえ聞こえる見晴らしですから、彼女に不満はないことと思うのです。

 そうしてわたしはこうして両手を合わせて、
  今日はちょうど、崖に捧げられた赤花とそっくりの、
   何とかの花をこうして供えにやってきたのです。
    今日は翔也はいません。
   わたしはただ出版物が出来上がったので、
  その報告をしに彼女のもとを訪れたのです。
 そうしてこんな物語を記してしまったことを、
ちょっとだけ、お詫びがてらに拝んでいるのです。
 あるいは鈴ちゃんを呼び出して糾弾したら、
  今まで黙秘されていた新事実が提示されるのではないか、
   なぜだか不意に、そんな想いが胸をよぎりました。
    けれどもわたしは、もう取り合いませんでした。
   そんなことをしたからといって、何になるだろう。
  あれはもう、三年も昔のことなのです。
 風がふわっとわたしの体を吹き抜けたとき、
赤い花びらが一枚、はらりと墓の上に落ちました。
 わたしはなんだか、ちょっと後味の悪い心持ちがしました。
  そうして、それだけの話です。

          (おわり)

作成

[2010/5月前半]
   (原稿用紙換算128枚)

2016/11/30 朗読以外掲載

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