ラーメン屋の五十三秒

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ラーメン屋の五十三秒

「いらっしゃいませ」

アルバイトの声は高らかに、疲れて転がり込んだ客をひとり、カウンターへと導いた。仕事帰りのスーツ姿。時々見かけるその表情。注文は八割方、とんこつの醤油に決まっている。残りの二割は、味噌ラーメンと、それから、気まぐれに選び取る、チャーハンやら餃子セットだ。もっとも先走って麺を入れるほど慌てない。テーブル客の麺が今こそ完成したところだ。さっと引き上げるとき、湯気がひときわ立ちあがる。夏ばてなんかしていられない。ラーメン屋に臨時休業は不要である。ビールのジョッキが回るから、一日休んだだけだって、去年に追っつかないくらいだ。かき入れ時には、かき入れるだけかき入れる。だが守銭奴の如く立ち回っても、本質は客への料理提供。ラーメンの味こそ、味わって貰いたい。お金もついでに落として貰いたい。それが本音である。第一金が無くなったら、もう味わって貰うことすら出来なくなってしまう。儲けることと、奉仕したい欲求は、どちらが上に来るわけでもない。いわば、二つでひとつのもの。一心同体。それを分割して考えるとき、教師も畢竟(ひっきょう)給料のために教えているとか、医者も金のためにこそ働いているなどといった、とち狂った、片面眺めのいかさまの悟りさえ、生まれてしまうには決まっていやがるんだ。自分はそう信じている。だから金銭を欲する。お客のよろこぶ顔も欲する。分け隔て無く、両方を欲するのである。

 ほんの数十秒の違いが、麺を固くも柔らかくもする。タイマー通りに引き抜くのは原則。素人にも出来る。だが現実は、素材から季節の状況までを加味した、僅かなタイムラグが生じる。引き上げる麺の色つやで、早くも察しが付くものだ。もちろん、こんな馬鹿なプロフェッショナル論を考えていたって、自分は引き抜くタイミングを誤らない。

 ニンニクトンコツにしたって、ニンニクは闇雲に多ければいいってものじゃない。また塩分は、万人を納得させることは叶わない。せいぜい、偏差値の中庸と悟るしかない。もし常連が来たら、それに合わせて、塩加減さえ整える。それでこそ、本当のラーメン屋。自分はそう信じている。

 もっともラーメンだけじゃない。僅かな秒数の狂いが、人生にも作用する。料理提供におけるほんの数十秒が、人の命を失わせることもある。救うことだってある。大げさな話だが、もっともこれは、ラーメンのせいでもなければ、ラーメン屋のせいでもない。せいでもないが、事実としては起こりうる。それは、単なる、偶然の産物には他ならないんだが、翻ってサイコロの出た目を並べてみると、ある種の必然のように、憐れな人間には錯覚せられる瞬間のようなもの。自分はそれを不思議に思うばかりであった。



 その仕事帰りのサラリーマンは、正直なところ、ちょっとよれたスーツを着ていた。表情に疲れが目立っていた。もう三四年は、ここに通って来る。もちろん毎日じゃない。月に数度くらい。歳月は長いものの、半常連といった扱いである。それにしても、彼の顔立ちは、近頃よほど疲れている。恐らく数年後には、髪毛がやられるに違いない。そんなへとへとの三十代。自分はそう踏んでいた。せめてラーメンでも食って、元気を出すがいいさ。

「いらっしゃいませ」

 アルバイトは、コップに注いだ水を差しだして、もう一度元気よく挨拶をした。彼は自分が面接で選んだ男だ。もちろん学生である。自分は、「近頃の若者は」なんて台詞は信じない。近頃だろうと、いつ頃だろうと、若者はよく働く。ただし、働く若者と、働かない若者がいるには違いない。違いないが、それは子供だって同じ、中年だって同じ、ようするに、世代に関わりなく、人間の本質には違いない。自分はラーメン屋だから、この店の中から世界を見渡している。だから「近頃の若者は」なんて言葉は信任しない。それだけのことである。

 若者という奴は、ちゃんと有能な人材を選び取りさえすれば、純真で活気にあふれた分だけ、中年なんかより、よっぽどタチが良い。それだけは間違いない。近頃の若者はなんて台詞は、ろくでもない口先だけのくたびれ中年どもが、仕事もろくにせずに持ち出す常套句だ。いわばクズの定石。「近頃の若者は」に続く言葉があるとすれば、せいぜい「近頃の中年よりは、まだしもマシである」くらいのものだ。真面目な奴さえ見つければ、若い分だけ、吸収力だって良い。率直に言われたことに邁進する。悪いことなどどこにもない。ただ応用が利かないから、新しいことにぶつかると、右往左往し始める。それは、十年前も、二十年前だって同じだった。現代性とは関わりのない、普遍的事象には違いない。そんな時こそ、年配者が導いてやればいい。それだけのことだ。

 それにしても、一度、脱サラ組とかいう中年を雇ったときには、ほとほと迷惑した。こんな屑が、よく社会でノウノウと生きてこられたものかと、不思議に思ったほどだ。おまけに、ちょっと強く注意したら、いじけてすぐに辞めちまった。忙しいさなかに、「いくら注意するにしたって、言い方というものがあるでしょう」なんて言い返すんで、馬鹿野郎と怒鳴ったのが運の尽きだった。やっこさん真っ青になりやがって、わなわなしていやがった。目が中空を泳いでいやがった。まったく、嫌な思い出だ。本当の屑がどの辺に存在しているのか、よく考えてみた方がいいだろう。

 けれども、脱サラが悪の巣窟というつもりはない。まして、このよれよれの三十路は、毎日懸命に働いて、最後の気力を振り絞って、うちのラーメン屋まで辿り着いたような準常連だ。頑張って食べに来る心意気だ。いや、しまった、食べに来るだなんて、これは悪い表現だ。お召し上がるくらいが、ふさわしいんだろうが、しかし、自分はラーメン屋だから、そこまで丁寧には出られない。まあ、食べ歩きって言葉もあるくらいだから、許して貰うことにしようか。

 もちろん、彼が職場で優秀なのか、それとも落ちこぼれなのか、そんなことは分からない。分かりたくもないし、ラーメン屋には関わらないことだ。はた目の印象と、現実の能力が、一致しない食材だってざらにある。人間だって、面接を極めたとしても、間違ってこんな奴を雇ってしまった、なんてことはよくあるが、それは仕方のないことだ。ただ、この男をカウンター越しに眺めてみて、直感的に真面目そうだと思ったばかりである。



 世の中には、不思議な事件が、いろいろとある。些細なことが、時々自分には、必然のように思われる。宿命じみて感じられる。

 その日、彼は、いつもと違った注文をした。つまりそれは、残りの二割に相当する注文だ。

「ネギとニンニクの味噌ラーメン、それから餃子と中生」

確認を取ったアルバイトが、男子にしては高めの声で、メニューの確認をしてからオーダーを告げた。うちはチェーンじゃないから、ハンディターミナルなんか使わない。集計には便利だろうが、あんなもの、お客様には失礼だ。いくら世間で一般的になったからといって、自分は気にくわない。無くて困ったことさえない。

「はいよ」

と答えると、アルバイトはジョッキにビールを注ぎ入れる。もちろんサーバーは毎日清掃する、週に二度はスポンジも通す。完璧ではないにしろ、悪くない状況。ビールサーバのメンテ一つで、ビールの味はおぞましいくらいの怠惰に落ちぶれる。よく発泡酒を入れてるんじゃないかなんて、思いたくなるような店があるが、それはメンテをサボっているせいである。そんな酒は客には出せない。妥協は許されない。もっとも時間の都合もあるから、ビールサーバのメンテだけに、命をかけるわけにはいかない。結局のところ、週の清掃配分が決まってくる。それは仕方のないことである。

 テーブル客の提供が済んだから、さっそくサラリーマンの麺を作り出した。夜も十一時過ぎだから、客もまばらである。初夏の蒸し風呂日和だったから、湿気を逃れるたましいが集まって、今日はビールが大分出た。すでに空樽が数本、バックルームに控えている。上々の売り上げ。お客様も満足。大いに結構。浅ましいくらいが、ラーメン屋のノリの良さ。ゆで麺の釜にも蒸気が昇る。

 もちろん餃子はすでに投入してある。手際の良さは、記述が追いつかないくらいだ。もっとも威張るほどのことじゃない。どこのラーメン屋だって同じである。ビールがあるから、餃子は早めに出したい。取り上げはアルバイトに任せて、自分はラーメンに専念。単独のオーダーだから、気楽なものである。

 客が少ないからって、一息休めて麺を投入したりはしない。ペースを崩さず、最短距離を突っ走る。それが客のためになると、無意味に信じているというのは、けれどもちょっと嘘になる。深夜でも時々は、立て続けにお客が二三組、一度に舞い込むことがある。いかなる場合も、最短距離を目ざしておけば、最悪の場合の回避率が、少しでも向上する。ただそれだけのこと。料理人の鉄則。それはラーメンでも変わらない。否。むしろラーメン屋ならばこそ、そうでなければならない。あれよという間に、オーダーが横並びすることだってあるのだから。

 早くも餃子が提供された。アルバイトの動きにも淀みはない。もっとも夕方入りの十代だから、自分と違って大いに余力がある。そこがちょっと羨ましい。学生に戻れたら、そんな馬鹿なことまでは考えないが、幸せ者めと思うことが、全くないとは言えないくらいである。

 すでに食事半ばのテーブル席では、三人組がのんきに駄弁っている。箸を振り回しながらも、ビールがまだ残っているから、ペースが落ちて居座る気配だ。ついでに、もう一頑張り、注文をしてくれたら言うことなし。だからといって、こちらから勧めたりはしない。そんなことは嫌みなことだ。近頃、丁寧な振りをして、こちらはいかが、あちらはいかがと、テーブルにまで出しゃばってくるような店がやたらと増えた。あんなことは、不要なことだ。会話まで妨げられたら、大いに迷惑である。その代わり、卓上のサイドメニューには、おすすめを乗せている。それで十分じゃないか。

 アルバイトは、空いたテーブルを片づける。もう一人、女性のアルバイトはすでに上がった。上がってから、控え室で麺をすすっている。今日は順調だった。ミスもなく、遅延もなく、それでいて、売り上げも上々である。

 疲れた三十路にラーメンを提供する時、ふとした感慨に打たれた。常連というものは、ある日突然、常連として認識される。けれども、どんな常連も、いつしかふっと消えてしまう。それは転勤であったり、帰省であったりするよりも、もっと多くの場合、しばらくの好奇心が失せて、店に寄りつかなくなるような、純粋の飽きの瞬間であるらしい。けれども、それを掴み取ることは困難である。それさえ把握できたなら、飽きそうなところで、何らかのアクションを起こせるのだろうか。第一、人生は長い。伸びきった麺のように長い。麺のように長い人生において、ひとつの店に留まり続けて、ひとつの味に従事するには、あまりにもマラソンの距離が長すぎる。だからどんなに味覚を誇る高級料亭でさえも、常に新鮮な顧客を求めるほか、活路は見いだせないのだ。それは、千円にも満たないラーメン屋にとっては、なおさらそうなのであった。

「おまたせしました。ネギとニンニクの味噌ラーメンになります」

 アルバイトが提供したとき、サラリーマンの携帯が鳴って、彼はこくりと頷きながらも、ポケットから携帯を開き見た。耳に当てないから、メールには違いない。アルバイトは、だまって伝票を差し込んだ。ビールはまだ残っている。それによって、彼が麺に箸を付ける時間が、五十三秒遅れた。なに、いくら自分が暇だって、しょっちゅうこんな悪戯をして、時計をカウントしたりはしない。なぜだか、携帯が鳴った瞬間に時計を見たら、秒針が十二を差しているのに気がついて、不意に悪戯心で、彼が食べ始めるまでをカウントしてしまっただけの冗談である。そうして、ただ、それだけのことだった。

 彼はそんな冗談も知らず、ようやく麺をすすり始める。

「うまい、うまい」

なんて言ったりはしないが、顔がぱっと明るくなる。自分は表情で、客の感情が少しくらいなら分かるようになっている。しかめっ面をしたら、まず駄目である。大勢でしゃべっているときは、ラーメンの味には注意がいっていない。そうして、ぱっと明るくなるときは、二種類ある。自分の味が信任されているときと、相手がよほど食に飢えている時である。残念ながら、今の表情は、疲れ切った体が、熱物(あつもの)を求めて揺らいだ表情で、必ずしも自分の信任ではないけれど、かといって、「うまい」という感情自体は、偽りのないものには違いなかった。

 やれやれ。今日はずいぶんくどくどしすぎるようだ。いずれにせよ、あんな幸せそうに平らげている間は大丈夫。きっとまた訪れる。今日はビールも注文した。彼は二回に一回は中生を注文する。餃子もしょっちゅう注文してくれるから、毎週訪れる常連ではないが、カウンター席の準常連くらいの称号は、与えても差し支えなかった。ここだけの話、ラーメン屋において、中生と餃子は、圧倒的な利益率を誇る注文である。瓶ビールばかり頼まれたのでは、どこの店だって立ち行かない。

 秒針を争うように、最速を極めた提供を、彼がいつもならずの最速のペースで、懸命に平らげていく。餃子はすでに消え去った。ビールもついに飲みきった。肝心のラーメンは胡椒を掛けて、そのまま啜っている。時々、ラー油を掛けて食べることもあるが、ニンニクが利いているから、今日はそのまま進めている。とうとう汁まで飲みきって、ようやく一息ついた。なんだか見ている自分まで腹が減ってきた。

 ところが、満足した彼が、もう一度水をグラスに注いで、飲み干して立ちあがったとき、思わぬ事態に巻き込まれた。いや、正確には巻き込まれたんじゃない。自分で引き起こしたのだ。すなわち、いつもは完璧である彼の財布が、今日に限って、現金を卸し忘れたらしいのであった。レジの前に立って、ようやく気づいた彼は、

「ああ、ごめんなさい。お金を卸し忘れてしまった。今すぐコンビニに行ってきます。少々待って貰えないでしょうか」

 融通の利かないアルバイトが、

「ああ、少々お待ちください。どうしましょうか、店長」

さすがに、こんな時は身動きが取れないらしい。もっとも、勝手に動いて貰っても、間違いを起こさないとも限らないから、分からないときはすぐに聞いてくれる奴の方がありがたい。大いに結構。それにこいつらは、一度実例を示せば、必ず吸収してくれるから、中年のリストラ野郎なんかとは比べものにならない効率を誇っている。自分はまた、そんな馬鹿なことを考えながら、慌ててレジまで駈け寄って、

「構いませんよ。お待ちしております」

と気さくに伝票を保留した。

「それでは、この鞄を残して置きます」

なんて丁寧なことを言うので、

「気にしなくていいですよ。いつもご来店なんですから」

と答えてみたが、どうしても鞄を置き去りにする決意を変えないものだから、しかたがない、一歩身を引いてお受けすることにした。あまり拒否しても嫌みになる。どこのサラリーマンなのだろうか。さすがに金銭に関しては、妥協を許さないらしい。常連の爺さんなどが、財布を忘れると平気でツケにするのと比べて、大いに改まった気分である。彼は慌てて、店を飛び出していった。

 世の中には、財布を忘れて裸足で駆け出して、踏んづけた釘にぎゃっとなるような悲劇が、時々は起こるものらしい。間の悪い失態が、慌てふためくうちに累積を重ねて、大いなる惨事を呼び起こすという不始末だ。数分後。三十路が一目散に駆け戻ってきた。

「ごめんなさい。カードが鞄の中でした」

 アルバイトが慌てて鞄をお返しすると、さっそく中から取りだして、

「お客様。鞄はお持ちください」

と声を掛ける間もなく、もう入口から消え去ってしまった。なんだか、店の外で、全力疾走をしているような息切れなんで、自分はちょっと心配した。ラーメンくらいで、ムキになりすぎであるところの彼の人生、年中疲れているような彼の表情、ゆとりのない生き方。その行動パターンそのものが、なんだか、危ういもののように思われたからである。

「日本人。そんなに慌てて何を得る」

そう注意を喚起したくなるような有様で、彼は日本と書かれたタスキを精一杯に、たなびかせて走りゆくようにさえ感じられたのであった。



 それから、しばらくして……

  なぜか、彼は、戻ってこなかった。

 シンとした、閉店間際のラーメン屋。

「まさか、食い逃げじゃないでしょうね」

アルバイトが、皮肉を言い始めた。

「馬鹿野郎。お客様を疑ってどうする」

と一応加えてから、

「よく考えろ。しょっちゅう金を払っている奴が、その日だけ、食い逃げをする道理があるか。食い逃げをする奴は、大抵、その場限りの、顔の知らないような奴さ。それに、そこに残した鞄の方が、ラーメン代よりかさむくらいじゃないか」

と指さすと、

「確かに、ちょっと古いけれど、高そうな鞄すね」

とようやく納得した様子だった。若い奴は、理屈が通じやすいから助かる。けれども、どうしたろうと心配していると、やがて遠くの方から、救急車の響きがしたんで、自分とアルバイトははっとなって、思わず顔を見合わせた。

「まさか」

とアルバイトが、思わず告げるので、

「そんなドラマみたいなことがあってたまるか」

と答えた自分も、なんだか冴えない口調になってしまった。

 そのうち、食事を終えたバイトの女の子が、

「お疲れ様でした」

と挨拶をして帰って行く。しかし、肝心の三十路は戻らなかった。

「とにかく、鞄は与っておこう。明日になって、連絡がなかったら、鞄を調べて、連絡先を見つけてみよう」

そういうことになって、その日は営業を終えたのである。



 翌日。やはり三十路からの連絡は無かった。自分はついに鞄を広げて、連絡先を調べると、職場のものらしい手帳に、彼の携帯番号が記されていた。掛けてみると、昨日アルバイトと目を見合わせた予感が、見事に的中していたのであった。

 呼出音が途切れたとき、当人は出なかった。女性の声がする。いろいろ話しているうちに、それがサラリーマンの妻であることが、ようやく分かってきた。なんでもかの男は、単身赴任のもっか一人暮らしで、昨日、金を卸そうとして、慌てふためいて十字路を駈け渡ったところ、日頃人気のない信号なんで、軽やかに無視してきた乗用車に跳ねられて、重症とまではいかないが、もっか入院中という有様だったのだ。

 詳細は必要ない。ただそれだけのことである。顛末をぐだぐだ記すのは、俗物の小説家どもの仕事である。ラーメン屋の仕事じゃない。もちろん自分は、彼の見舞いに訪れた。こっちに非がある訳でもないが、うちの店が原因で起こったことには違いない。是非の問題よりも、道徳的な思いから、自分はちょっとした手土産を持って、彼の入院先を訪れたのであった。彼はいたって元気そうで、やはりぺこぺこしているその様子は、なんだか職場での彼の状況を垣間見るようで、自分としては遣り切れない思いがした。もっとも、当人の築き上げた人格だ。端から同情するなんて、大きなお世話なんだろう。自分は「おだいじに」と告げると、ようやくその病室を後にしたのである。

 そうして、空を見あげた。

 自分にはなぜだか、あの時、彼が携帯を眺めた空白の五十三秒が、不思議にデフォルメされてならなかった。ほんのわずかの加熱の違いが、麺を極上にも、腑抜けにもするように、ほんの数秒、数十秒の違いが、あるいは信号を、無難に通過させたかもしれないし、逆に頭を打って死ぬようなことにすら、なりかねなかったことを考えれば、なぜだかあの瞬間、無意味に眺めた時計の針ばかりが、数日間、目の前にちらついてならなかった。自分は案外、迷信めいた観念家であるらしい。

                (おわり)

作成

[2010/6/26、7/24-26]
(原稿用紙換算22枚)

2010/07/26

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