ひとりぼっちの座敷わらし

(朗読) 

ひとりぼっちの座敷わらし

 座敷わらしは元来がひとりぼっちである。

 それを改めて、ひとりぼっちと書くからには、また例の妄想家どもが、

「近頃誰も遊んでくれないのです」

などと記し始めて、人々の心配をよそに、

「なぜなら、みんな一緒に遊ぼうとしません。ある人は端末で遊んでいました。それから、アニメを見ていました。そうして座敷わらしは、一緒に仲間に入れて貰えなくなりました」

と続けて、諸君の好奇心を煽っておいて、それから、

「座敷わらしは思いました。ああ、誰か友達が欲しいなあ」

などと転じてみせるにせよ、あるいは、

「座敷わらしはとうとう病気にかかってしまいました」

などと、まるで、よだれを垂れ流しながら、人々の情動をもてあそぼうと、お涙頂戴の黄金律を踏襲して、マンネリズムの堆積平野を、のこのこ歩き回るという、あの物語製造の流れ作業がまた、今こそ始まってしまうのかと、諸君は心配なされるかも知れない。

 けれども、そんな心配は必要なかったのである。

 わたしは、例の「ごんぎつね」にすら、最後に討たれるところのみは、見るべき価値もあるかとも思われるけれども、あまりにも子供に何か、真実のひと欠けらよりも、もっと偽善に満ちた快楽を与えようという、作家の嫌らしさが伝わってきて、幼い頃、すでにかの本を投げだすくらいの、ひたむきなはぐれ者であったから、皆さまは、わたしがそのような愚行を邁進するなどとは、考えなくたってよかったのである。

 「星の王子さま」や「銀河鉄道」のすばらしさは、ある種の出来レースの果てに籠もるのではなく、異質なものを、異質なまま内包して、偽善では解釈しきれないユニークさにこそあること、そのようなユニークさこそが、子供のたましいには必要なのであって、「ごんぎつね」の玉砕にお涙するような、単純な感情家ばかりを、盛んに養成するまでに落ちぶれたら、国家もまた、終末を迎えるのではないかと、高校時代には、ずいぶん憤慨したことすらあった。今となってはすべてが懐かしい思い出である。

 さて、それでは、

これは、偉大なる異質性を標榜する物語なのだろうか。

否、さにあらず。

わたしは、残念ながら、

そう告げなければならない。



 座敷わらしが、誰かのために、何かをしているなんて、とんでもない解釈である。彼は、ただ面白いから、愉快の赴くままに、やりたいことをやっているだけであって、価値観ひとつをあげるとするならば、

「おのが愉快にしたがって生きること」

くらいしか、意見など持ち合わせていないのである。

 そうであるならば、どうしてそのような勝手気ままの輩が、例えばわらべひとりにしたところで、こころの通い合った物語を作れるというのだろうか。この科学主義の世の中に。

 なるほど、たしかに座敷わらしは、楽しそうに遊んでいたかも知れない。そこを、かの「ごんぎつね」正統論者どもは、これ見よがしに擁護するわけだ。

 しかし、それは、非科学的な蒙昧(もうまい)に過ぎない。

 いや、よりしっかり述べ立てるならば、それは諸君らの、情動をかっさらおうとして生み出された、浅ましい虚偽弁論に過ぎないのである。

 わたしは、かの座敷わらしども、お忙しいところを百にもおいでいただいて、合理的なアンケート調査を実施したことがある。その秀抜のアンケートについては、すでにアメリカの幾つかの大学にも絶賛され、あなたがた執筆者の偽りを暴くのに、成果大であったことを今でも確信している。近頃、海外諸大学にあって、もっとも軽蔑されているのは、あなたがた大和風執筆者の作風なのであるから、少しは注意をされたほうが、よいのではないだろうか。つまりは、あまりにも情をむさぼろうと、叙述を極めすぎなのである。

 もちろん、諸君は、わたしが諸君のことを、少しでも悪くいっているなどと、誤解してもらっては困る。諸君はただ、あの者どもの、被害者にならないことをさえ、最低限度にわきまえてさえいるならば、それで十分ではないだろうか。



 さて、アンケートの結果であるが、

ここは、学会ではないので、学究的な発言は慎ませて貰おう。

ただ、ひとつの事をのみ、わたしは諸君に提示すればすむことなのである。

 すなわち、このグラフにもあるように、

かの座敷わらしどもは、夕べ遊んだゲームの内容は、

これほど、常人を逸したレベルにまで、記憶し、かつ再現できるにも関わらず……

 こちらの、数値を見ていただきたい……

かの座敷わらしどもは、夕べ遊んだ子供たちの顔については、

何一つ、記憶するところではなかったのである。

 さらに、わたしは、いくつかの記述調査を行った。

これが、代表的と思われる彼らの意見である。

「だって、他の生き物の顔は、区別なんかつかないよ」

「きっと、あっちだって、僕らの顔は同じに見えるんだよ」

「いいじゃない、どっちも、楽しんだんだから」

 これは、代表的な三つの意見を示したものに過ぎないが、彼らの異質性と、人でなしのこころは、十分に伝わることと思う。

 もちろん、だからといって、ただちに新美南吉氏を、きつねの魂を屈辱し、安易に人間化させ、子供の情動を弄んだもの、として弾劾に処するつもりは、わたしには毛頭ない。

 このわたしのレポートが、そもそも戦後にしか適用し得ないことは、わたし自身が、この学会の中で再三説明してきた通りである。つまり、その点に関するかぎり、わたしは新美南吉氏の親しき友であり、権利擁護者であり、あるいは「ごんぎつね」のために、共同戦線をさえ、張っても構わないくらいなのであるが……まあ、それは肌に合わない行為であるから、止すことにして……



 わたしは、諸君にこのように問いかけたいのである。

「はたして、かように遊ぶ座敷わらしにとって、あなた方とか、諸君というものは、いったい何を意味するものであるかと」

 これは、なかなか難しい命題だ。

 あるいは、切れのある青年なら、

「ははあ、お前は、お前が究極的には、座敷わらしのように、言葉とたわむれているだけに過ぎなくって、その社会的結果や、読者に対する義務は、存在し得ないことを、こっそり託しているには過ぎないのだな」

そう断罪を加えるかも知れない。

 なるほど。恐らくはそのような意図もこもることだろう。

 けれども、諸君、ここにもう一つ言えることがある。それは、

「わたしは、決して、座敷わらしのごとく、人でなしの世界に生きるものではない」

という事実である。切れのある青年よ、君はこれに対して、どのような答えを、わたしに返すつもりなのだろうか。

 そこで、別の青年が手を挙げる、もちろん、

「初めっから、韜晦(とうかい)主義が目的なんだ」

と追求するためにである。

 待ちたまえ、わたしが韜晦するためにこそ、このような説明を加えたとして、それではいったい何を韜晦し、何を目的として、そのような行為に及ばなければならないというのだろうか。つまりはわたしは、この小説を、たとえ君たちが小説と呼ばなくても、なおかつ小説と命名し、しかも、まさに諸君にこそ、そう呼んで貰いたいと願っているというのに、そのわたしが、

「わざと、読んで貰いたくないように」

「ページを閉ざしてしまいたくなるように」

虚偽を加えることが、果たしてあり得るだろうか。それとも、現実は隠された正反対のところにあって、

「わざと、意味ありげに記して」

「関心の引き延ばしを図った」

いわば、良心的な南吉氏を弾劾するどころではなく、わたしこそが、あらゆる人々から、断罪され、糾弾されべき執筆者であるに過ぎないのだろうか。

それはけれども……

難しい問題だ。



 何しろ諸君、

 あまり、主観的にならないことだ。

 感情で把握なさるなだ。

 わたしはなにも、「ごんぎつね」に反旗を翻すためために、ここに立っているわけではない。けれども、あのようなストーリーに、あまりにも無頓着に感動する人ばかりが、画一的に増えることについては、

「すばらしい育て方というマニュアルが大統領を育てました」

「それじゃあ、わたしも、すばらしい育て方で育ててみます」

「うちも、そうした方が、いいかな」

「じゃあ、いっそ、街中でその育て方を採用しましょう」

 まことにご立派。たいした心がけである。けれども社会は、AとBとCとDが、同一であることによって成り立っているものではなく、実は、AとBとCとDが異質であることによって、健全に成り立っているという当然のことを、見落としてはいないだろうか。

 たしかに、素材が異なる以上、一緒の水槽に入れ、マニュアル通りに餌を与えつつ育てたところで、立派に違いは果たされると主張する人々もあるかもしれない。

 けれども、やはり両親が、それぞれの家庭の信念やら、ポリシーを、個別勝手に主張しながら、公的なものが、その主張が際どく解体されない程度において、統一的圧力を行使して、押さえつけをするような拮抗作用がなければ、健全な社会は生み出されないのではないか。つまりわたしは、その事を主張したかったのである。

 ああ、それにしても、

それにはまた、資料を集めなければ、

戦後の「座敷わらし」感動物語模倣者たちと、

何も変わらないことになってしまうのだ……

 ここへ来て、わたしひとりを、

「座敷わらしのごとく、勝手気ままにたわむれている」

と糾弾した人々の、意見は危機にさらされる。

 わたしは斯様なまでに、世の中を憂いていることが発覚せられ、その主張を撤回せざるを得なくなってしまったからである。

 だが、まあそのことはいいんだ……



 わたしはただ、ひとつの事だけを、今は伝えておこうと思う。

それはすなわち、

「座敷わらしの捏造物語に感動する一方で、せめてもその感動に懐疑の念を抱き、また座敷わらしの本性について、多少なりとも思いを致すことがなかったとしたら、情動まかせの恐ろしい社会が生み出される恐れがある」

ということである。そうしてその時には、

マニュアルによって画一化されたあなたたちが、

最大幸福を享受できるような情動をもてあそんだ、

真実よりも、陳腐な作劇法を極めつくした、

局所的にしか通用しない、極めて安価な、

物語しか生み出されなくなってしまうには違いない。



 ああ、そうならないためにも、

せめて諸君は、たやすく、あの偉大な、

新美南吉氏の、ごんぎつねの、有終の美についても

安易に、感動ばかりしないように、

注意し、かつ、さかんに、議論すべきである。

真の作品の価値は、お涙の数によってではなく、

究極的には、論理的帰結の中にしか、

こもらないと言うことを、そろそろ、悟るべきなのである。



 そうして、わたしは最後に、青年の看破したように、

「わたしはただ、座敷わらしのこころでもって」

執筆を楽しんだに過ぎないのであるから、

それに対して、作者に怒りの抗議などは、

どうか、殺到させないで欲しいと、

付け加えて、果てるのであった。



P.S.

 では、おやすみ。みなさん。

もうカーテンの外が明るいので、

わたしは、そろそろ、眠ります。

座敷わらしも、消えるお時間です。

こんな、怠惰のいち時間くらいが、

それでもねえ、わたしには、やはり、

今日一日の、楽しかった、

思い出には、違いないのだ。

          (おわり)

作成

[2010/4/18]
(原稿用紙換算14枚)

2010/4/18

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