ベルリオーズ 幻想交響曲 1楽章

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ベルリオーズ自身のプログラムを元に

 偉大な作家が「情熱のうねり」と命名した心の病がある。これに悩まされるある若い音楽家が、ある時、自ら夢想する理想そのままの女性にはたと出会って、狂わんばかりの恋に落ちたとき、恋人のイメージは彼の中で、1つの楽想となって沸き上がる。生まれた楽想を恋人に重ね合わせると、情熱的でありながら、気高く控えめな性格を持ち、見事に恋人を表現していると彼は考える。(解析者注.しかしそれは彼が勝手に当てはめたものであった。)この楽想はあたかも彼女のイメージが絶えず彼を支配するように、彼女自身とその反映像である旋律が、2重のイデー・フィクス(固定観念)となって付きまとう。だからこの交響曲のすべての楽章に、第1楽章のアレグロに登場する旋律が現われるのだ。彼女にまつわるメランコリックな夢の精神が、沸き上がる歓喜が何度か爆発することによって中断され、錯乱した情熱に揺り動かされ、怒りや嫉妬の衝動が込み上げ、また優しい心に戻り、そして涙と宗教的な慰めで満たされると言うのが、この第1楽章なのである。

序奏(1-63)c moll

序奏主題提示部分(1-27)

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・オペラの幕が開くように冒頭に管楽器で開始の合図を告げる柔らかい上行型の序奏が2小節で序奏主題を導くと、弦楽器だけで序奏主題(3-16)が導入される。序奏主題は(3-16)までの非常に息の長い旋律で、間に4回もフェルマータを挟みフレーズを溜め息のように途切れさせる。これが恋人に出会う前の芸術家の状態「情熱のうねり」の1つの側面、夢想的な状態を表わしていると考えられる。まず主題旋律自体を細かく見てみよう。初めの2小節が階名で「ソラソファミレ」によって形成され、付点が使用されているが、3拍目だけ付点を含まないただの8分音符である所は、普通の旋律の安定度から考えると、わざと不安定な芸術家の精神を暗示したものかも知れない。不思議に思ってこの部分のスラーによるフレージングを見てみると、すでに冒頭からしてオーソドックスなフレージングでないことが分かってくる。初めの(G)を歌うやいなや改めてフレージングを直す譜面を見れば、まるで1音歌い出して、改めて思い直して「ソラーソ」と歌い直しているではないか。それでも通常なら直前の8分音符に任せて3拍目を「ソーファ」と続けていけば良いところを、ふと「ソファ」と付点無しで歌い直して、次でやっぱり付点かしらと思い直して「ファーミ」と歌ってみたものの、どうして良いか分からなくなって(Es)音を引き延ばして、最後に「レ」に溜め息のように落ちてフェルマータで途絶えてしまう。スラーのフレージングのうち、同じパターンは使用されていないのだ。続く5,6小節も見てみよう。この部分は楽曲上は前の2小節を踏まえ出だしの「ソラソファ」を元に形成されているが、フェルマータを越えて3音順次滑らかに上行したと思ったら、いきなり「ソミ」と3度跳躍下行して、メロディーラインを不自然にして、困って休符を挟んで「ド、ラーソ」と打ち直し、続けて「ファ#」に半音下行してから、主題開始の「ソラソファ」の進行を思い出したように「そ」から打ち直してただの「ファ」に下降する。とまあこんな具合で、3小節目の「ソラソファ」部分のフレーズのしどろもどろさが、(5,6)小節目でさらに強調されているのがよく分かる。このように作曲された序奏主題の冒頭に、明確な意図が暗示されていることが分かって貰えるだろう。こんなことを延々遣っていたら身が持たない。次の(7,8)小節は前の2小節の続きで、つまり3,4小節の「ソラソファミレ」の線が、小節を拡大して「ソラソファミレドシ」まで下行してくるのが、(5-8)小節になっている。しかし一方ではフェルマータによる区切りは(3,4)小節と、(5,6)小節がペアになるように置かれていて、(5-8)小節の最後を締め括る「シ」の後にはフェルマータが置かれず、代わりに落ち着かない衝動に浮かされたように、3音順次上行を開始したと思ったら、「ミファソド」と4分音符による大きな上行を行なってしまうのは、急に劇的なものが込み上げてしまう病気気味の精神を提示しているようでもある。それに続くオクターブ跳躍を持った下行型の(11,12)小節ではエネルギーの高いオクターヴ跳躍の後にいきなり消沈する順次下降と、その後のフェルマータによる停止が行なわれ、直前のフレーズに対してすでに応答的立場にある。つまりここではすでに主題の取りまとめの部分に移行しているわけだ。こうして主題全体を見ると、主題の前半にくくられる部分(起)が(3-8)まで続いた後で、僅か2小節だけの性急な中間部分(転)をおこない、(11-16)はすでに主題の後半(結)に入ってしまっているのである。しかも本来フェルマータが最も必要そうな中間部分への繋ぎが性急にされて、全体の旋律プロポーションを非常にユニークなものにしている。
 11小節からの「ドードドドドシラ」のフレーズはフェルマータの後にもう一度繰り返され、また直ちにフェルマータで中断されると、最後にためらいがちな休符を挟んだ下行型で旋律を終止する。こうして序奏主題は恐ろしく周到に考えられた作曲家の状態をそれ自身明確に暗示している訳だが、同時に初めの「ソラソファミレ」の順次下行型を全体の骨格に使用し、したがって音楽上の構成は保たれている。具体的には楽句のフレージングの途切れが2分音符から半音下行して休符に至るという方針で統一され、フェルマータが付く場合はその休符の部分ので時間がストップする。そして中間部の反行進行以外では、基本的に冒頭の順次下降型のアウトラインが元になって旋律が形成されているわけだ。主題全体のバランスを意識しながらどれほど見事に旋律をユニークなものに織り込んだかが分かってくると、この部分からして非常に面白く聞けるはずだ。そして続く部分は、このような夢想する音楽家の精神状態から考える時、非常に理に適っているといえる。
・つまり17小節からしばらく続く楽句、いきなり速度を増すテンポと走句的パッセージ、打ち鳴らす同音連打、分散和音と云ったものが表わしているのは、夢想家のもう一つの傾向、つまり唐突に激情に支配され、精神不安定に躁状態に沸騰してしまう性質を表現している。これによって私達は、この夢想家が「情熱のうねり」に侵されていることを理解するのであった。こうして見ていくと23小節目の激情が上り詰めた挙げ句に、24小節からの期待に満ちた拍動のようなものが表現され、再び28小節から序奏主題が回帰して来るまでが、またよく考えて作曲されていることを知るわけである。つまり冒頭から[憧れ→激高→期待]のようなパターンが非常にコンパクトに表現されている。。
・和声的には12小節でドッペルドミナントからⅢへの解決が行なわれているが、ベルリオーズの曲ではⅢの使用やⅢ調の属和音の使用がベートーヴェンなどよりも多く登場してくる。Ⅲ調の属和音はⅢに解決するほか、偶成和音的にⅠの一転などに解決したり、そのまま別の属和音系に流れたり用法は様々だ。


序奏主題の再現部分(28-63)Es dur→

・(28-48)までは序奏主題の再現になるが、先ほどの激情を越えて、冒頭のまるきり靄がかった夢想が、木管32分音符の修飾を加え、ひじょうに彩度を高めて来たことが分かるだろう。夢想家の心には期待する高揚ようなものが生まれつつあるのだった。主題提示と重ね合わせて、フェルマータが消え、フレージングに変化を行ない、付点の使用など旋律だけを比べてもいろいろ面白いかも知れない。
・何かを予期し期待するような高鳴る夢想家の心が、続く(49-71)までで表現されている。すなわちここではトリルで始まるヴァイオリンの分散和音型と、木管の3連符の同音連打が安定した周期を、明るさのある夢見心地といった精神で送り出す中にあって、2つのホルンだけが、初めは冒頭旋律から導き出した旋律順次下行型の旋律をためらいがちに、次にそれで上行しつつ、細かなトリルを演奏したり、彷徨いつつ何かを見つけ出そうとするように立ち振る舞い、56小節から58小節に掛けては、どきどきと期待する鼓動のようなリズムを加えつつ、芸術家の精神状態を表わしながら、恋人の登場へと繋がっていく。
・こうしてみると、楽曲上は芸術家の憂鬱的状態(メランコリー)を表わす主題提示(1-16)の後ろに、これと対置される芸術家の躁状態(マニア)を表わした23小節までがひとまとまりになって、主人公の人格を表現し(24-27)小節でその2つの状態が追い求める憧れと期待が置かれている。その期待にはあるいは恋人の幻影が暗示されているなんていう、こじ付けも出来るかも知れない。この綺麗な3部分によって序奏主題提示部分が形成されているのに対して、(28-63)までの序奏主題再現と胸の高鳴りの部分は、提示部分のパターンを踏襲しつつ、激しい躁状態は消え、全体が恋人を予感して心の高揚が高まっている、つまり続く主題側の精神に強く引きずられていると考えられる。しかし主人公の精神の病んだ側面は49小節からの憧れ部分にも投影され、ホルンの旋律は断続的で一貫性が無く、初めは旋律を奏でているが、高揚が高まってくるとフレーズを継続できなくなって、ふるえるトリルや跳躍の繰り返しになってしまうが、これは非常に策略的なことだ。なぜならこの主人公の性行は後々何度も登場するからである。
・純粋に楽曲的に見れば序奏主題の再現以下には、主題に対置するものが提示され、主題提示部分を発展させながら踏襲した、非常に強固な楽曲構成になっている。また、別の見方としては、序奏主題が再現された48小節までを序奏主題提示部分として、その後を恋人主題提示への推移部分とすることも出来るだろう。

主題提示部(64-198)

主題提示部分(64-165)C dur

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・フルートと第1ヴァイオリンで登場する恋人の鏡像旋律は、ベルリオーズの述べるところ固定観念(固定着想、イデー・フィクス)として楽曲全体を支配することになるが、(72-111)までの非常に長いメロディーラインを形成している。ただし恋人を象徴的に登場させる役割を担い、同時に楽曲構成の要となる最重要主題は冒頭の2小節(あるいは4小節)なので、これを恋人動機Xとでも命名しておこうか。もしかしたら使うことは無いかも知れないが・・・。
・全体の派生元である開始の8小節は、長く引き延ばされた(g)音が跳躍分散和音上行をした後に「ミファミレドシ」の線を描くが、これが冒頭序奏の「ソラソファミレ」のラインを踏襲したものであることは簡単に分かるだろう。より正確に言えば、イデー・フィクスの旋律も冒頭の旋律も既存作品を元にしているらしいので、この旋律をイデー・フィクスとして使用する事を思い付いたので、冒頭の類似旋律の使用が思い起こされたのかも知れない。(ただし原曲の由来など細かいことは私は知らないので、この楽曲内部で完結する楽曲解析を行なうことにする。)冒頭Largoの旋律が主人公側の精神状態に基づくことは先ほど見たが、このイデー・フィクスもまた冒頭の彼女を現わす特徴的な音型の後は、主人公側の旋律に基づいている、つまり客観的に彼女を表現した旋律ではなく、主人公の内面の垣間見た彼女の姿であることがここに暗示されているのである。
・この主題冒頭は単旋律で提示され、最後の7,8小節目で、弦楽器による旋律にそぐわないような和音の刻み伴奏が入る。これはいわば夢想家のこころの鼓動のような響きを持っている。主題全体は、冒頭がリズムと跳躍を持って始まるかと思えば優雅な下行を演じ、これが属調(G dur)で直ちに模倣されると跳躍が成長し活力を増し、次の87小節からは滑らかな付点による「ソラソファミ」型のフレーズを繰り返し、最後に100小節目のリテヌートを越えて、98小節から106小節に掛けて「シドシラソファミレド」まで下降する。この方針は序奏主題に見られた「ソラソファミ、ソラソファミレドシ」に類似しているので、恋人に出会う前の芸術家の夢想概念を表わしたような冒頭主題が、恋人という外的な影響を受けてイデー・フィクスに変化したという事なのかも知れない。イデーフィックスの特徴的な冒頭の後に、序奏主題を元にしたフレーズが続くことは先ほど見たが、拡大して主題全体を見ても、冒頭の特徴音型以外は 序奏主題が元になって形成されているのである。つまり後々まで重要な意味を持つ主題の開始部分(恋人動機X)だけが、本当の意味で彼女の姿を表わしていて、主題後半ではもう主人公の妄想で彼女が発展させられて、こんな主題が生まれたと見ることも出来るだろう。まさに主人公の内面の垣間見た彼女の姿である。
・その証拠に、この恋人主題は開始の分散跳躍上行でリズム的動きを見せるかと思わせて、すぐ滑らかなフレーズに移り途切れたり、102小節からの「ファミレド」の部分が、(a tempo)移行の新しいフレーズを形成していて、通常のフレージングのテンポ呼吸とずれたテンポの弛緩が故意に行なわれたり序奏主題と同様の手法が取られているる。続く部分でも大きな跳躍下行を伴った音型が重ね合わされているが、(a tempo)から繰り返す3回の下行の幅を見ても、「ファミ」が「ドレ」の7度になってから、「ラド」の6度に至るという通常の旋律ラインの定石から外れたプロポーションを持たされている。さらにその後3連符で半音階上行するのも直前の跳躍下行に対して自然な進行とは言い難く、この上行は3連符とは異なるリズムである2分音符でねっとりとした後、フェルマータが加わった109小節で止められ、今度は3連符で順次下降しつつフレーズを終止。到底まっとうの精神状態が紡ぎ出す旋律とは思われない。つまり恋人旋律の中にも、冒頭の夢想旋律に見られた芸術家の傾向が見事に表現され、この固定観念が、まさに恋人そのものではなく、芸術家が恋人を反映させた内的な旋律、つまり「情熱のうねり」に侵された自己を引きずった旋律であることがよく分かる。
・始めに79、80小節で登場した鼓動の伴奏を見るといっそう興味深い。初めのうち主題にシンクロしようとする主人公の拍動は、まさにしどろもどろで、普通のまっとうな青年がこころ時めかすような拍動とはとても思えない、挙動不審の医者が泣き叫びそうな拍を打ち付けている。これが次第に密度を増しつつ、リズムを安定させ、恋人旋律と合わせるように鼓動を打つようになっていくと、拍の周期は保たれるのだが、非常にユニークな現象が起こってくる。つまり主題旋律の方は、主人公の拍が安定して高揚してくると、自然な進行を疎外されて、しどろもどろな進行になっていくのが譜面ズラから簡単に分かるのである。この方法、夢想家の鼓動が恋人の旋律と歩調を合わせれば合わせるほど、恋人旋律が夢想家の精神作用を受けて挙動を乱していくという遣り方は、実は続く楽曲の中でも何度も使用され、決して偶然置かれているのもでは無いことが分かってくる。(それどころか楽曲構成の地位にまで高められていると言えるかもしれない。)まるで心理学の楽曲を紐解く心持ちさえしてくるが、ベルリオーズの他の楽曲などで見せる様々な技法を考えてみても、周到に計算されていることは明らかである。
・→時代の革新性について、いつか記述。
・ただし序奏主題もそうだが、このフレージングの不一致や捻(ひね)りは周到に計算されたもので、例えば102小節からの「ファミ」「ドレ」「ラド」を見てみると、2回目の「ドレ」で入ってくる部分は前の部分の自然なフレージングを阻害し、いきなりの7度下行という不自然な跳躍で入り直す一方で、この「ドレ」は直前の順次進行下行型が成長したものとして捕らえられ、「ド」からの跳躍自体は少し遡って(animez)からの「シドシラソファミ」の最高点である「ド」とバランスが保たれ、また「ドレ、ラド」の跳躍下行の後に半音階上行の3連符が登場する部分は、主題冒頭(72-73)が跳躍上行した後で順次進行で下るのと、ある程度対置するように形成され、開始部分と終止部分のバランスを保つなど、他にも数え上げればきりがないほどのフレージングのバランスが働いて、この主題は不自然な設計を故意に導入しては居るが、まったく音楽上は破綻することがない、つまり楽曲としては自然なのである。
・したがってこの主題の登場を恋人そのものの登場だと思ってはいけない。標題の「夢ー情熱」にある通りに、この主題の登場も楽章全体も、完全に夢想する芸術家の「情熱のうねり」という病を通して映し出されたものであり、彼の精神の内的な物語なのである。すこし先走って説明すると、第2楽章の冒頭にも現実ではないことを暗示する序奏がわざわざ置かれ、決して第4,第5楽章に移行した後が夢の世界で、初めの3楽章が現実世界ということではまったく無い。「情熱のうねり」に取り付かれた芸術家は、初めからある種の夢に取り付かれ続けていて、楽章として具現化される音楽は、絶えずその夢を引きずっているのである。したがってまだ恋人への愛情が幸せを予期する1,2楽章でさえ、芸術家の心の病自体が音楽として取り込まれていて、実際は4,5楽章の精神と非常に親しい関係にあると言える。ベルリオーズが後になってパンフレットを改編したのはその全楽章にある親近性を作曲者であるが故に熟知していたからに他ならない。極端な言い方をすれば、夢想家である彼の精神が表現された各楽章は、現実世界であろうと、夢の中の世界であろうと、魂のもたらす幻想を引きずっていて、夢も現実もそれほど乖離していないのである。しかしあるいは第3楽章が、最も彼が本当の意味での現実に近づく瞬間なのかもしれない。
・さて序奏で提示された主人公の精神の病的な側面、すなわち急に激情のうねりが湧け出でて狂騒的状態に陥ってしまうという性質は、もちろんここでも踏襲される。(主人公の精神状態を表現した楽句が、楽曲を構成していくという、叙述性と純器楽曲の戯曲風融合には驚くべきものがある。後のヴァーグナーのライトモチーフなどがドラマ的手法、オペラ的手法のロマンチックな表現方法だとするならば、ベルリオーズのこうした遣り方は心理描写を突き詰めた緻密な小説家のような方針かも知れない。)
・その狂騒的状態は、半分は自分の心の写しでもあるイデー・フィクスが登場した後に、彼女への押さえきれない激情ととして(111-118)で沸き上がり、(119-124)の短い主題の回想でまた彼女を思い起こしてしまい、(125-132)で激情が繰り返される。続く(133-149)までは、まずヴァイオリンと木管が応答し合うように進行し、恋の激情の後には期待と不安が応答し合うような意味を持たせているのかもしれない。または恋煩いの高揚した溜め息と憧れが入り乱れているのかも知れない。しかしやがて期待の方が勝り、提示部分のクライマックスへ向けて、やがて和声的な部分に到達し、146小節のピアニッシモからクレシェンドしながらフォルテッシモに到達する。
・こうして彼の恋の葛藤は最後に圧倒的な希望、恋が成就する夢へと上り詰め、150小節からは恋人動機Xから始まる、提示部終止旋律に到達する。主題冒頭が恋人の問い掛けのようにフルートで分散和音上行をもって開始すれば、勝利を確信してしまった応答を、まるで恋人に答える自分を演じているように、自信たっぷりにヴァイオリンで加えるというのがその終止旋律だ。この主人公の応答が、彼の精神を象徴する「ソラソファミレ」の序奏主題音型を「シラソファミレ」と変形したアウトラインを元に作曲されているのが、分かってくるとまた面白い。まさにイデー・フィクスと主人主題(冒頭主題)の応答が演出されているわけだ。この問いと応答は、「三位一体に掛けて勝利あれ」と祈るように3回繰り返され、全体の主題提示部分を終える。
・この主題提示部分は、もう一度リピートで繰り返されるが、楽曲構成上このリピートは必要不可欠である。続く展開部への推移部分をBとするなら、AABの形で主題提示の安定化を図り、続く不確定性の高い展開部へ繰り出すのが、作者のプランだと思われる。
・こうして提示部を見てくると、イデー・フィクスと主人公の精神状態で叙述されたような楽曲が、実際は[主題→中間推移→主題に基づく終止旋律]で綺麗に構成され、さらに主題自体もイデー・フィクスを除けば、序奏主題がベースになって派生しているため、純器楽曲としての構成が見事に保たれている。(完成した作品自体から見た場合。)より正確に言えば、心理描写を果すための受け皿として、純器楽曲の構成と融合させているため、純器楽曲の形式を使用することによって初めて、心理描写を成し遂げている、と言う方が相応しいかも知れない。(ベートーヴェンがソナタ形式の枠組みの可能性を拡張したように。)

展開部への推移部分(166-197)G dur→

・ソナタ形式なら、完全な第1主題提示を終えて、第1主題を使用しながら推移へ移行しつつ、第2主題へ向かう部分だが、この楽章は完全な純器楽曲的ソナタ形式ではないので、安定した主題提示の後には、主題を使用した推移が形成され、展開部に向けて流動化を開始する。図式的に見ると、[安定した提示→流動化の開始→展開部(ドラマの進展する部分)]というような形になる。
・提示部では長い恋人主題を経て沸き上がる狂騒の後、恋人と己が心の対話を試みて、最後に希望が勝利してしまったたというプロセスが見られたが、続く推移部分は、その提示部分の対話の部分(133)からの部分を踏襲しながら進行する。主題提示部分ではイデー・フィクスの旋律に乗せて主人公の精神が高揚しながら(133-149)の不安と期待のような部分に到達したのが、ここでは弦楽器で繰り返されるイデー・フィクスの冒頭部分に対して、133小節から使用された溜め息のような付点2分音符からの順次下降音型が木管で返答し、その直後に和声的な高揚した部分を形成している。その後、191小節から主題最後の勝利動機を2回繰り返すというのが、この推移部分であり、主題提示部分そのものから導き出されているのがよく分かる。さらに166からの対話風部分では恋人動機と溜息の掛け合いになり、より直接的に恋人(の姿)と自己の対話になっているし、一方で191からの勝利の確信を繰り返す部分では、もはや恋人動機Xは冒頭に置かれていない。改めて譜面を見比べてみれば、提示部の(134)から先を繰り返しつつもより圧縮して展開させた姿を見ることが出来るだろう。
・この直後の部分(198小節から先)に場面が転換するような弦楽器の半音階順次進行の刻みが入り、新たな局面が開始した印象を強く与えるため、前に述べたように、この部分までがリピート付きで[AAB]という形で主題提示を行なっていると見ることが出来る。しかし同時にこの推移と呼んだ部分(つまりAABのB)と続く弦楽器の刻み進行部分は、共に主題提示の後の推移として機能してもいる。それはこの刻みが、実は展開部で発展させられる素材であり、その提示として置かれているからであるが、それはおいおい見ていくことにしよう。
・先取りして言ってしまえば、主題提示部分からこの刻みまでが提示的部分を形成し、そのパターンが232小節からの展開部によって発展的に繰り返されると見なすことが出来るのである。しかし同時にこの刻みが場面情景を変えるような印象は直接的なので、197小節までを主題提示部分とし、刻みの部分はベートーヴェンのソナタ形式でもお馴染みの、主題素材が登場する前の導入としておかれているとしておこう。

展開部(198-409)

・弦楽器がスタッカートで半音階順次進行をしばらく登っては、反転して下り、また逆転しては上行に転じては、また下りとする間に、木管楽器がサイレンのような響きを投入し、風雲急を告げる次の情景に移行する効果によって、展開部への導入を果たす。ソナタ形式の展開部がしばしば導入的フレーズから中心動機の展開が開始するように、展開部への転換を行なっているわけだが、ここでは場面転換の遣り方は、もっと劇場音楽的効果を使用している。つまり福次的動機によって導入を行なうのではなく、独立した楽句ではない次の情景を導く間奏伴奏のような、まさにオペラなどで情景を変える背景音楽に聞えるからである。(あるいは劇場音楽の効果を引用しつつ進行する序曲というジャンルでやりそうな方針。)この部分は実際はすべて3和音の第1転回型を半音階で平行進行させた和声から成り立っていて、それまでの機能和声進行から見ても、異質な部分を形成している。この平行進行は、まさに次の情景が登場するまで、ドラマの進行(和声が変化していく事と、主題や動機の新しい発展)を保留しつつ期待を高める効果を持っている。しかもベルリオーズはこの器楽楽曲を恐ろしく緻密な構成で作曲しており、実はこの部分は移行部だけではない、もっと重要な意味が隠されているのだが、これは後で分かることになるだろう。
・刻みが音量を高めてフォルテッシモに到達した刹那、音楽は空中に投げ出されたように止められ、3小節分のゲネラルパウゼで静止する(231小節)。あたかも高揚した挙げ句に放心状態に陥って音楽を忘れてしまったかのように。そう、この部分もまた主人公の性格が明確に反映されているのである。性急な爆発ではなく時間を掛け高ぶる遣り方だが、この刻みもまた主人公の情熱のうねりの急に高ぶってしまう精神状態のバリエーションと見なすことが出来るわけだ。ただこの刻みはやはり場面転換の要素も明確に持っていて、直接的な主人公の激情の部分とは区別されるが、それまでの楽曲進行に急に割り込むように、音階が急激に順次進行や、分散和音で上行下行を繰り返すという「激情の部分」を振り返ってみると、この半音階もその範疇に有るように思えてくる。いってみれば、この楽章全体が非メロディー的部分を主人公の精神状態を表わすことで統一していると見なせるかも知れない。そしてプログラムに寄れば、この激情には抑えきれない情熱だけではなく、怒りや嫉妬といった要素も込められている訳だが、この意味付けによって本来メロディー部分の間の繋ぎや、メロディーや動機の到達点のクライマックスの役割を担う和声的・リズム的な部分に、文学的意味を持たせることによって、主題に対抗するもう一つの部分として機能させ、楽曲密度を非常に高めている。これは非常に優れた戦略で、物語のディテールが音楽だけで分からないとしても、主題メロディーの精神や急に立ち上る激情に何か意味があるように感じ始めれば、次第に聞いている一人ひとりが何らかの意味の構築を始めたくなるので、この文学的楽曲構成が機能し始める。機能するとは、つまり聞いている人が補強してしまうからなのだが、プログラムは存在するものの、この幻想交響曲は何度も聞いて、楽譜などを眺めているだけでも、ある程度の物語が構築可能な、つまり純器楽曲としても完結している傑作である。こうして楽句に叙述的な付加価値を与えつつ楽曲構成を行なうところにベルリオーズのロマン派の旗手たる所以(ゆえん)があるのだろう・・・大分話がそれてしまった。
・やがて静かにホルンが(D)音で導入され、弦楽器に鼓動の刻み伴奏が始まると、(G dur)で恋人主題が開始する。ここで直前のゲネラルパウゼと明確にとぎれがあるから、ここからが展開部だと叫んでしまったあなた、必ずしもそうとは云えないかもしれない。直前の次第に感情が盛り上がって感極まって放心してしまう部分と、その感情の極みから静かに恋人主題が導き出されていく次の部分は、明確に意識されて主人公の二面性を表現する連続的な出来事として作曲されていて、休符の間にも音楽は流れているのである。(ただしこの部分で区切る楽曲解析も十分に説得力を持つ。)主題は今度は木管楽器(フルート、クラリネット、ファゴット)だけで奏され、安定した刻みの鼓動を伴奏に完全な形で最後まで再現される。
・続けて278小節以降は恋人主題のメランコリックな精神がそのまま継承され生まれた情景の中で、ファゴットの線が緩やかな半音階型下行型を描きつつ反転して上行するラインと、それに付きそう滑らかな仲間達(なんだそりゃ)がしばらく余韻を楽しむが、291小節からやはり主人公の激情が顔を出し、301小節からフォルテッシモのピークに到達してしまったかと思えば、どうしても押さえきれない、激しい激情が込み上げて、さらに(304-310)に掛けて波を打つ。突発性何とかかんとかとか病名が付きそうなぐらいで、どうもよっぽど精神に異常があるに相違ない(?)。
・激情が極まると優しい感情にすとんと落ちるのもすでに何度も登場した主人公の特徴である。(311-328)に入ると、先ほどのフォルテッシモが急に囁き声にトーンを落としつつ、提示部最後に登場した終止旋律を用いて、ストレッタ風に間隔を短くして擬似的にフゲッタ風声部導入を果たす。その後322小節からホモフォニースタイルの力強い終止旋律を2回、フォルテッシモで確信させる。前に見たように、この終止旋律は恋人旋律に対する、主人公側の応答旋律になっているから、恋人旋律から激情溢れた後に登場するのは、提示部の形同様、非常に物語じみている。しかもこの恋の勝利を思いおこすシーンは、提示部のフレーズを囁きのごとく思い出させ、対位法的に織り込みながら密度を増し、感極まってフォルテッシモに到達する辺り、どこまで台本が用意されているのか分かったものではない。
・(329-357)は提示部の中間部フレーズ(119-)を使用しながら、再び穏やかな恋人の回想に戻るが、直前の管弦使用から、しばらく弦楽器を主に使用して進行し、途中から修飾の分散和音風対旋律が、主題フレーズに絡み合う。この部分は提示部分で、主題の後半を繰り返しつつ穏やかな旋律に仕立てた(119-125)を元にしている。提示部がこの部分の後もう一度激情を挟んでから、恋人との対話を戯れる方針を取ったのに対して、ここでは激情は直前の部分で勝利の確信まで高まってしまったので、連続的に対話の部分に移行する。そのため恋人の旋律(のバリエーション)に対位法的な主人公の思いがまとわりついて、修飾を加えて行くのだが、さもありなん、続く(358-409)の部分では、オーボエの旋律(主人公の唄)と弦楽器の恋人動機X(恋人のイメージ)が対話ではなく、2重唱を奏でてしまうのである。
・さてここまでの楽句構成を見ていくと、非常に重要なことが分かってくる。提示部では
[恋人主題提示(72-110)ー激情(111-118)ー恋人主題の余韻(119-124)ー激情(125-132)ー対話風が盛り上がって激情に至る(133-149)ー自己勝利(150-)]
というパターンが採用されていたが、この展開部では
[恋人主題提示(232-290)ー激情(291-310)ー自己勝利(311-329)ー恋人主題の余韻から徐々に発展して2重奏に至る]
というように、提示部の楽句配置をドラマに合わせて変更しつつ、同時に提示部素材の展開発展によって、見事に構成をまっとうしているのが分かる。同時に最後の部分が拡大した自立的な部分(2重奏)に発展し展開のクライマックスに達するというのが、展開部のプロットであり、2重奏は終結部に向かう自立的な長いロマンス部分(358-409)を形成している。
・この部分は、繰り返される弦楽器での恋人動機Xの上で、始めオーボエだけで、やがてフルートも加わって独立した旋律が開始され、展開部でも自立性を獲得したロマンス風の愛の歌を表現しているようだ。この木管のメロディーは、恋人動機に同調するように歌い始めてしまった、芸術家側の恋の歌を表わしていると思われるが、定期的に繰り返される恋人動機Xそのものを伴奏として、普通の安定した美しいメロディーラインとはほど遠い、ロマンスの精神だけは漲っているが、メロディーラインを次第に通常あり得ないよな不可解なフレージングで歌い始めてしまう。より正確には歌い始めはメロディーをまっとうして始まるのだが、恋人動機が繰り返されるごとに、次第次第にろれつが回らなくなっていくのである。つまり魂に病を抱えるこの夢想家は、次第に客観視しながら恋人を讃えることが出来なくなり、恋人に同調しすぎて、次第にろれつが回らなくなり、旋律がしどろもどろの酔っぱらい気味になっていくことが、見事に表現されているわけだ。一方フレージングは辻褄が合わなくなっているのに、リズムの定期性と伴奏との関係は安定し、次第にクレシェンドしていくことから、旋律がしどろもどろなのに芸術家はこれぞ恋の歌だと全霊で歌いまくって、己惚れの恍惚状態を彷徨って恋人と一体になってしまっている。そしてついに終結部のクライマックスに到達してしまう。こうして彼の描き出したプロットが明らかになると、この部分をますます思い入れ深く楽しむことが出来るはずだ。文学的アプローチとは言ったものの、この洞察力と構成の見事さは恐ろしいくらいである。このようなアプローチの方法が他のロマン派の皆さんに与えた影響は、実際は相当大きかったのではないだろうか。(しかも自分の曲をヨーロッパ各地で演奏している。)
・それだけではないのである。さらにこの部分は和声を解析するとあら不思議、展開部への導入でみられた半音階をスライドする3和音の第1転回型の連続から成り立っていて、この遣り方は導入部分とこの部分だけで使用され、明確に共通の意味を持たせて設置されていることが明らかになる。初めの刻みの部分に主人公の精神が込められていると言ったのはこのためでもあり、まさにこの部分は彼の高揚した精神状態の中で奏でられるロマンスなのであり、空想の中で遂に彼女の旋律(イデー・フィクス、正しくは主人公のイメージを通した彼女の旋律)と、自分が彼女を憧れ慕う賛え歌が、融合してランデブー状態に陥っているのが、この部分なのである。舞い上がる病的な誇大妄想とも思えるこの部分は、しかしそれだけに愛情の真の姿を表わしたものなのかも知れない。(・・・・なんのこっちゃ。)プログラムにもあるように、彼女の旋律は主人公の憧れの中に生まれたものであるから、決してここで実際の彼女と戯れている訳ではないと、あえて余計な注を加えておこう。
・ここではベルリオーズの楽曲構成の見事さを同時に見ることが出来る。3和音第1転回型平行による2つの部分を取り上げてみると、今回区分した遣り方では、ちょうど展開部の導入と最後のクライマックスを形成し、恋人主題の展開部分、つまり提示部自体の発展型をサンドイッチする形で置かれている。しかし別の見方をして、展開部への推移と刻みの部分をひとまとまりに考える事も出来る。つまりゲネラルパウゼの休符の後に展開部が始まるようにも聞えるため、この場合完全な提示部である165小節目の後、非常に短い主題の発展(166-197)と第1転回型平行連続(198-231)が第1の発展型として置かれ、その後で引き延ばされた主題の発展と自立性を高めた第1転回型平行連続が、第1の発展型のパターンをさらに展開したもの(提示部と発展型の両方を含めた展開)として置かれていると見ることも出来る。
 この両面性を持った楽句部分同士の絡み合いによる、楽曲全体の緻密な構成は、ある程度まで明確な意識を持って作曲されているのだから、ベルリオーズはイマジネーション沸き上がる霊感任せの天才肌ではなく、実は非常な策略家なのである。例えば次のような見方が出来るだろう。ただし実際の所166小節からの提示部を使用した部分は、ソナータ形式で典型的な第1主題部分に基づく推移的部分なので、①か②が楽曲解析上は妥当かと思う。


提示部(72-197、aabの構成になる)
提示部分(72-165)×2→提示部分に基づく発展的推移(166-197)
展開部(198-)

上の亜種的な見方
提示部(72-197、aabの構成になる)
提示部分(72-165)×2→提示部分に基づく発展的推移(166-197)
経過的推移(198-231)
展開部(232-)


提示部(72-165)
提示部の発展と推移(166-231)
提示部と発展と推移のパターンをもとに拡大展開(232-)

終結部(409-525)C dur

・後は皆さんご承知の通りだ。ついに最も高揚した状態の中で恋人主題を讃えまくってしまう全体のクライマックスが、音価を短くした軍隊的ファンファーレのおもむきで主題を再現させれば、主人公の急激なうねりは、逆に情熱の中に不可解に入り込む挙動不審な拍のようなものに替えられていく(439-451)。またはプログラムに書かれた主人公の嫉妬や怒りがこの部分の「不信」からフォルテッシモに高まっていく「怒り」として暗示されているのかも知れないが、主人公の性質は精神が極端に反対に振れるので、結果としてこれが穏やかな心の状態を呼び起こし、恋人主題を回想し始める(451-)。再び感情の揺らぎが表われ(461-)、怒りに達するが(473)、475小節から結局激しく彼女を讃えまくっていた躁状態が勝利して490小節の止めを打つ。全身歓喜の中に疲れ果てた精神が途方に暮れたとき、491小節からの祈りのような彼女の回想が静かに幕を閉じるというのがこの第1楽章だ。プログラムでは最後の部分は涙、宗教的な慰め、と表現されている。
・終結部開始の激しい高揚の中で、451小節から一端穏やかな精神で彼女を思おうとしたが、また戻って不信や怒りに取り憑かれたりと、最後の最後まで主人公の精神状態は赤裸々に皆様の前に提示されてしまうである。恐るべしはこの描写力、恐るべしはベルリオーズ。また451小節は一度穏やかな恋人動機の導入を加えることによって、最後の祈りのような部分が予備され、前の部分との結合が見事に行なわれ、楽曲構成の面からも、すばらしいと拍手を送りたくなる。

終わりに

・終結部は楽曲構成上は提示部主題がクライマックス化して再現され、その後半がコーダ化した非常に密度の高い設計になっている。また展開部クライマックスを形成する最後のロマンスが、楽曲全体のクライマックスである終結部主題に至り、主題再現部に頂点があるという楽曲構成は、ベートーヴェンがすでに交響曲で行なっている遣り方でもある。
・このように序奏とコーダが使用されているが、いわば単一主題形式のソナタ・アレグロ形式が採用され、主題の提示的部分、展開的部分、再現を綺麗に分類することが出来る。純器楽曲形式のソナタ形式とは大きく構成を変えてはいるが、けっしてフォームはぶれていない。
・以上は、楽曲構成にスポットを当てたもので、実際はこれに管弦楽の扱い方や、和声の使用方法などを考察して、さらに楽曲を深めていくところに、楽曲解析の真髄があるのであるが、わたくしもうへとへとですから、誰か代わりに遣って下さい。ではさようなら。


2006/07/28
2006/10/24改訂
2007/3/22再改訂+MP3

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