ベルリオーズ 幻想交響曲 5楽章

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ベルリオーズ自身のプログラムを元に

・そして芸術家は魔女達の深夜の怪しい宴(サバト)に引き込まれ、おぞましい亡霊達や、魔女や、様々な物の怪に囲まれた自分を見る。自分の葬儀を目当てに群がって来たのだ。異様な物音、うめき声、つんざくような笑い声に、遠い叫び声がこだまし、答えるように笑い声。そして恋人の旋律(イデー・フィクス)が登場するが、高貴で控えめな性格は、下劣な、野卑な、グロテスクな踊りの旋律におとしめられた。これがサバトに出席する彼女の姿なのだ・・・・彼女の到着を喜ぶ歓声が轟き・・・・彼女はこの狂乱パーティーに参加する・・・・弔いの鐘が鳴り、「ディエス・イレ」を下等に玩んだパロディーが響き渡り、「サバトのロンド」が開始する。そしてサバトのロンドと「ディエス・イレ」が重なり合うのだ。

サバトの集会(1-126)

序奏(1-20)h moll

<<<確認すら危ういへたれmp3>>>
・序奏はモノノケ達の情景であり、(h moll)の属9和音根音省略がもたらす減7の暗い響きの中で、チェロと、コントラバスとティンパニーが、音階上行型のパッセージと共に3回扉を叩く。この開始を告げる序奏動機は、いわばベートーヴェンの英雄交響曲第1楽章の序奏動機のように楽曲の開始を導くものであり、同時に後に鳴り響く特徴的な鐘の音、3音をひとまとまりとする鐘を暗示してもいる。もちろんこの序奏は英雄の降臨を告げる輝かしい動機ではない。サバトの集会を導くための、おどろおどろしい不穏な動機となって開始する。
・不穏な序奏により幕が開けると、プログラムにあるように、異様な物音(3-4)や、うめき声(5-6)、そしてつんざくような笑い声(7-8)に、遠い叫び声がこだまし(9-10)、答えるように笑い声(11-12)という、物の怪達の集会が提示される。細かく見ていくと、つんざく笑い声が木管3種によって提示され、これに対して遠くから答える応答には、ホルンだけが使用され、最後に一斉に木管と弦楽器の笑い声の応答に至る辺り、どれだけ具体的に物語が構築されているかよく分かるが、最後の笑い声では3和音の響きではない、4度を重ねた響きを混入させることによって、非常に異質な物の怪達の笑いを表現している。(11小節)まるで、こっちで群がる下品な魔物が離れた奴をからかって、一匹の魔物が下品な冗談を張り裂けんばかりに返すと、全員一斉におぞましい響きで「どひゃひゃひゃ」と腹を抱えるような、不気味な臨場感が描かれているようではないか。
・4度を4回重ねた進行を3回(冒頭で暗示された数でもある)行なう11小節は、一瞬であり3度を含むことによって機能和声との調性が図られているが、明確に4度構成和音の響きが模索されている点は注目に値する。
・続いて序奏動機が調性を変え、(c moll)の属和音減7から繰り返され、物の怪の応答が行なわれると、最後に答える笑い声の変わりに、変形されたイデーフィクスが登場して、本編に導くという方針が取られている。

変形されたイデー・フィクスの登場(21-71)C dur→Es dur

・クラリネットにイデー・フィクスが登場するが、プログラムにあるように旋律は諧謔的な気味の悪い踊りのフレーズに変えられ、ティンパニーと大太鼓の足取りに乗せて姿を表わす。「これがあの高貴なあなたの姿であったのか。」と芸術家が嘆いたかどうだか、私には分からない。
・主人公に殺された彼女の登場は、サバトのヒロインとしてのイデー・フィクスを向かえ入れることにより表現され、(29-39)にかけて物の怪達の大歓声に包まれる。つまり初めての管弦総奏がけたたましく鳴り響くのだ。
・歓声に答えるようにクラリネットとオーボエの諧謔伴奏に乗せて、彼女の主題が再び提示される。今度は小クラリネットで開始し、途中からピッコロが主題を補強しつつ、ファゴットが落ち着き無く浮き足立ったような伴奏を加え、彼女を舞踏の中心に迎えたサバトのダンスがノリノリで始まってしまった様子を見て取れる。舞踏は65小節から高揚した物の怪の鼻歌のような高揚に至り、いよいよ主人公の魂をサバトの中に引きずり込む。

中心主題の登場(72-126)c moll

・第1楽章の構成を思い返すと、主人公の旋律による序奏から恋人のメロディーが導かれて展開されていくというものだった。それと対置するように、この楽章の構成は、恋人のメロディーから主人公の旋律が導かれ、それが展開されていく。つまり叙述出来るもの、物語性から、楽曲の構成が導かれている点が、ベートーヴェンの構成感とはまた異なった、されど説得力のある構成感を生み出しているのが、非常にユニークだ。
・72小節から8分音符のスタッカート半音階進行が魔物達の打ち鳴らす足踏みのように響き、76小節で高ぶって甲高く叫ぶような声と共に、4楽章で処刑された主人公を迎えるための扉が開くような演出がなされている。78小節から弦楽器の急激な下降音型が登場し、これは主人公の特徴であるフレーズを乗り越えた下降旋律のようでもあるが、むしろサバトの会場から遙か低いところにある主人公の魂にスポットが移行したような効果を持っている。
・主人公の魂か81小節から急激に上昇を試みる短い旋律断片として始めて登場し、再び跳躍下降音型が繰り返されると、主人公の死を弔うためであろうか、やがて鐘が打ち鳴らされるのだ。そして鐘の音の中で主人公の魂は処刑を思い出してでもいるのだろうか、106小節から、115小節から導入されると、直ちに強烈な和音で打ち落とされる。まるで断頭台が回顧されているような演出だ。そして鐘の中から、主人公を弔う死者のためのミサ曲の固有文「Dies Irae」が聞え始める。しかも皮肉なことに、その聖歌は「私のすべての罪が裁かれる時」の恐怖を歌ったものなのである。4楽章で人間社会の法によって裁かれ、死刑を執行された芸術家が、今度は「Dies Irae」に導かれ死後の世界での審判を下される。しかもその審判はサバトの集会場で行なわれ、その結果こそがこれから表現されるサバトへの参加であり、自らがグロテスクなモノノケの一員となり、魔物の勝利が確信されるという終楽章なのであった。
・本来ならミサ曲に導かれてパラダイスに至るべきところで、ベルリオーズはこのパラダイスをサバトの集会に変え、モノノケの大勝利を演出して見せたのである。そしてこれは芸術家という種族にとっては残酷な審判である。芸術家は確かにグロテスクなものにも人並み外れて感心を持つが、その魂の最高の部分はやはり美しいものへの憧れであるからである。だからこそ主人公は彼女に憧れたはずである。それが気品を失った彼女がグロテスクに狂舞する魔物の集会に、自らも高貴の心を失って引き込まれるという結末は、壮大な悲劇である。しかしこの悲劇はどういう意味を持っているのだろうか。主人公自身の精神に問題があるため、現世に戻れないほどの錯乱に落ち入った方が、彼にとっては幸せだとでも言うのだろうか、それともこれは魔性の女性に引きつけられる芸術家の宿命を象徴しているのだろうか。だとすればこの曲は間接的に19世紀末のファム・ファタルを間接表現したものなのか。与次郎だって「可哀想だた惚れたってことよ」と言っているではないか。惚れたが故の悲劇、確かにそれは芸術家の大好きなテーマの一つには違いなかった。しかし、むしろ個人的に考えるのは、ロマン派の時代は、グロテスクなもの、異常なもの、不可解なもの、奇妙なもの、つまり健全で強靱で正当であるとは言えないものに対する美学、ゆがんだものへの美しさ、いびつな世界を愛(め)でる心が花開いた時代でもあり、ベルリオーズは音楽においてその美学の先陣を切っているのではないだろうか。このようなグロテスクなものが勝利するような結末は、それ自身に退廃的ではあるが非常に紙一重の美しさがある。それは古典派の時代精神からは生み出されない美的価値である。だから幻想交響曲は永遠に先験的な作品で有り続け、人々に愛されるのかもしれない。そしてそのあまりの描写力のために、毛嫌いする人々を生むのかも知れない。

ディエス・イレ(127-240)

ディエス・イレ(127-221)c moll

<<<確認すら覚束ない下手なmp3>>>
・いつものことではあるが、つい話が飛翔してしまったので、「閑話休題」と叫んで本題に戻ろう。グレゴリオ聖歌の「Dies Irae」の旋律を使用したこの部分は、弔いの鐘と聖歌によって進行し、当然和声も旋法的な進行を見せる。しかし犯罪者を弔うその聖歌は、決して賛美歌のようには響かず、おどろおどろしい不穏の響きと、それからある種の諧謔性を持って進行、なぜならこれはサバトの集会場で余興として行なわれる葬儀のパロディーだからである。

中心主題によるロンドへの導入(222-240)

・主人公のテーマが何度も導入され、いよいよサバトのロンドが始まる。偽りの葬儀によって主人公の魂は天国には辿り着けず、まんまとサバトの会場に引きずり出されたのだった。主人公を取り囲んで魔物達が主人公のテーマを歌いながらかごめかごめをやっているようなこの臨場感たるや。(なんだそりゃ、そんな楽曲解析でいいのか。)

サバトのロンド(241-413)C dur→

調性記号が消え、(C dur)がベースになる。サバトのアンサンブルが彼の参加を賛える呪わしいフーガを奏でる。魔女というものは知的な存在でもあるから、サバトの集会でフーガが歌われることに差し支えはない。むしろ相応しいと言っても構わない。ただ天上の天使達の合唱と違って、彼女たちは盛り上がってくると暴走を初め、ついには収拾が付かなくなってしまうのだ。(ほんまかいな。)

主題提示としてのフーガ(241-305)

[主題提示部分(241-268)]
・簡単に導入を記しておこう。弦楽器低音で主題が開始し、それを第2ヴァイオリンの応答が引き継ぐ。主題の提示(C dur)に対して、応答は属調の(G dur)で導入され、続いて主調(C dur)で第1ヴァイオリンが3回目の提示をする。この第1ヴァイオリンに合わせてファゴットが同じ旋律を補強して、管楽器の音色を参加させると、最後の4声目の提示はヴィオラと共に木管楽器が全員でテーマを演奏し、一気にクライマックスを形成し主題提示を終える。オケ曲内でのフーガ部分の扱いとしては、アカデミックと言って構わないぐらい正統的な作曲方法だ。イタリアのハロルドの開始部分のフーガも非常に正当な導入を果しているが、ベルリオーズという人は、実際は非常に論理整然とした作曲法を自由自在に使いこなす、天才肌と職人芸が融合しているような作曲家なのである。
[喜遊句・エピソード(269-288)]
・次の主題提示までのエピソードの部分は初めは対位法的に進行しているが、277小節からポリフォニースタイルが破棄され、ホモフォニースタイルの和声的進行に移行し、自由なエピソードを形成。この遣り方はベートーヴェンのシンフォニーでも対位法スタイルから和声的スタイルに移行する場合に使用しているが、この時代となっては交響曲の書法の常套手段であると言えるかもしれない。
[主題展開部分(289-305)]
・フーガなら再び新たな主題再現が対位法的に行なわれるところだが、古典派時代からシンフォニースタイルのフゲッタ導入は途中でホモフォニースタイルに取って代わられるという書法は一般的だった。ここでも主題が始めに木管楽器群で、2小節遅れて弦楽器群が主題を開始するが、この2声のストレット(主題の出現の幅が短くなる)は、さらに継続されることはなく、遅れて導入されるヴァイオリンのテーマの最後の部分でポリフォニースタイルが破棄される。

推移(306-413)

・和声的下降音型の中で金管楽器が不穏な声を上げて、モノノケの動きを追うと、327小節後半から、不穏のホルンと弦楽器の導入によって、魔女達より下等な魔物達の歌が始まる。跳躍と半音階で主人公のテーマは大きく崩され、弦楽器のベースとファゴットが応答するように交互に導入を果す。そして導入ごとに次の主題の開始を短くしながら、主人公のテーマの冒頭を繰り返し、やがてディーエスイレの断片がこだまする。ついに主人公のテーマは完全な半音階進行に変形され、364小節から改めて下級魔物達のフーガ風導入を開始する。ちょうど先ほど(例えば)魔女達が主人公を囲んでフーガを果したのを真似して、もっと劣等な生き物がこれを真似するが、主題が歪められて原型を失いつつあるような場面設定が儲けられているようだ。
→と書いておいてなんだが、実際は呪われたフーガによってサバトの住人に貶められていく彼の姿が、次第に原型から離れていく姿そのものを表現しているというのが、一番率直な見解だろう。一連のフーガの合間の推移的楽句は、いわば主人公を魔物達が作り替えているときの儀式の音なのかも知れない。(・・・ほとんど改造人間のノリになってきたな。)
・フーガの開始は弦楽器で行なわれ、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリンと上声に向かって導入され、386小節から木管楽器を加えたストレット風の半音階主題導入でクレシェンドすると、シンコペーションリズムの和声だけのフォルテッシモに到達。主人公の参加を賛えるかのように弦楽器で主題が一斉導入され・・・・。

ディエス・イレとサバトのロンド(414-524)C dur→

・これにディーエスイレの旋律が加わり、壮大な盛り上がりを見せ始める。主題が原型で登場するのは、本来の姿を鏡に映して喜ぶサバトの住人達の悪趣味な合唱なのだろうか、ディエス・イレはもはや葬儀の音楽ではなく、彼を賛えるための魔物の讃歌となってグロテスクに輝かしい合唱のようだ。この主人公を賛える儀式が済んだ暁には、彼は完全にサバトの住人になってしまうのだろう。
・ついに彼はサバトの魔物と化した。440-443小節で魔物達のひっかくような嫌な呻きが導入を告げると、444小節から「キキキキ」とおぞましい虫がはいずり回るような音が、ヴァイオリンの弓を逆にして演奏する奏法で弦楽器に登場し、こんな描写は今日聞いても毎度斬新すぎて、ちょっとびっくりさせられるぐらいだ。
(よく「現在では聞き慣れているから」という言葉で当時の和声や演奏方法の斬新さを大根切りにする人が居るが、あれは正確ではない。なぜなら、人の耳は柔軟なもので、簡単な和声の中に魅惑の響きがあればたちまち強調されるように、その楽曲内での事象変化の逸脱の度合いで、響きは推し量れるものだからである。その要素を踏まえない大根切りには何の意味もないばかりか、むしろ思考を停止する有害な発言である。)
・そしてついに変わり果てた彼の姿が、楽章の開始部分でイデー・フィクスが歪められて登場したのと同じように、サバトの住人と化した彼のなれの果の姿が、諧謔的なトリルを付けた主人公の旋律で登場し、はいずり回るおぞましい響きそのものを伴奏に、主人公の末路をこれ見よがしに私達に見せつけるのである。直前に元の姿でテーマが1回再現されたことによって、いかにそのなれの果ての姿がクローズアップされることか。サバトの住人達はしてやったり、正しくはベルリオーズはしてやったりの瞬間である。
・「ディーエス・イレ」の断片はサバトの住人の勝利の合唱のようにこだまし、敬虔な聖職者が聞いたらベルリオーズをぶん殴ってしまうぐらいの扱い方だ。ここで私達と言ったが、実際は彼は夢の中で、半分はサバトの中で自分を崩壊させながら、もう一方ではそれを遠く見詰めるという、2つの視点を同時に感じていることを考えると、この悪夢のむごたらしさは例えようもないものになる。こんな際どい精神状態を扱って見事に楽曲に仕上げた作曲家は、ベルリオーズの後にも存在しないかもしれない。そして楽曲はサバトの大勝利によって、壮大な盛り上がりのうちに幕を閉じるのであった。あたかもドン・ジョバンニがこの世から別の世界に吸込まれて行くように、主人公の魂もこのサバトの大円団の中に消えていく、というのが第5楽章のプロットである。
・おまけ、最後の大円団の管弦楽の響きに、勝利に導くような英雄的交響曲とは異なる、不穏なものを感じるのは、明確にベルリオーズの策略である。

全体を振り返ると

・例えばこんなストーリーを設定できるという意味では面白いので、全体を下のように眺めてみましょう。

サバトの集会[導きの儀式](1-126)

序奏(1-20)
   [サバト達の集合]
変形されたイデー・フィクスの登場(21-71)
   [ヒロインの登場]
中心主題の導入(72-126)
   [主人公の魂の呼び込み]
ディエス・イレ(127-221)
   [偽りの葬儀の儀式]
中心主題によるロンドへの導入(222-240)
   [主人公の会場への導き]

サバトのロンド[契約の儀式](241-413)

契約の儀式としてのフーガ的部分(241-414)
   [主人公の魔物化]
      フーガ主題提示部分(241-269)
      エピソード(269-288)
      フーガ主題提示部分2(289-305)
      エピソード(306-330)
      フーガ主題提示への導入(331-363)
      変形フーガ主題提示部分(364-413)
ディエス・イレとサバトのロンド(414-524)
   [サバトの勝利の大円団]

こうして見ると

・第1楽章が、基本的に序奏にソナタ・アレグロ形式という古典派時代の交響曲の王道の形式が踏襲され、アウトラインを形成していた。そして最終楽章は、序奏の後に、変奏形式を織り込んだフーガ風対位法スタイルを中心に据え、その後で大円団のコーダが付くという、実際は非常に強固で形式的なスタイルを採用し、その上で自由自在に振る舞っているのが分かるだろう。形式の枠組みが感情に訴える劇性を一層高める役割を果すというのは、ある意味でベートーヴェンのソナタ形式へのチャレンジを引き継いだものだと言えるかもしれない。その一方でそれが完全にストーリー性に置き換えられている点が、まさにロマン派の第1人者に相応しい新しい立場を代表している。
・また上の区分けのように考えてみると、単にディーエス・イレを使用しているだけでなく、この楽章全体が、一種キリスト教のミサをパロディーにして作られているようにも見えてくる。
・和声上のユニークな点をいくつか上げておくと、前に見た4度構成和音の響き、それからディーエス・イレによる旋法的和声の部分、同種和声(主和音や属和音などの)平行進行の部分(古典派時代でも使用している常套手段ではあるが)などに着目してみると面白いかも知れない。
・そして実際は、ベルリオーズの当時としては革新的なオーケストレーションや奏法についても多大な考察が必要なのですが、私、おなかぺこぺこです、さよなら。


2006/10/19
2007/4/8改訂+MP3

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