交響曲第39番変ホ長調(K543)、4楽章

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概説

 冒頭に登場する動機が楽曲中絶え間なく繰り返される固着動機の無休動的面白さを探求したフィナーレ。

提示部(1-104)

第1主題部分(1-41)

<<<確認のためだけの下手なmp3>>>
・アウフタクトの16分音符の細かい動きで始まる特徴的な冒頭動機からそのまま主題が紡ぎ出されていく第1主題。始めヴァイオリンだけで8小節、繰り返しで管弦総奏となり(1-15)までをテーマとし、続く(16-41)までがテーマに対する応答になっている。応答も物わかりよく8小節で形成され、音階パッセージ型のリズム変化豊かな第1主題に対して、分散和音型の単一リズム的な対比がされ、これがもう一度繰り返すと、最後の応答後半部分を使用しつつ、(B dur)に転調推移しながら、属和音と属和音上のドッペルに至り半終止する。なお、第1主題旋律の上行下行や走り出す部分と留まるリズムの配置など、詳しく見ると非常によくできているから、小学生のための楽曲解析事始めでは、まず曲線で音符の傾向を絵に表わしてみるのも面白いかも知れない。

第2主題部分(41終わり-78)

・先ほど第1主題の応答部分で一時離れていた冒頭動機が、再び回帰してくるのが第2主題である。つまり開始は冒頭動機によって導入されつつ、第1主題とは異なる継続旋律で作曲され、それでも第1主題に対して対比的であるよりは親和性が高い。そしてこれは作曲者の狙いそのものであった。主題旋律と伴奏がヴァイオリンだけで行なわれるのも第1主題の開始と親和性を強調するが、同時にここでは木管が小さな対旋律を印象的に加えることによって、第1主題に対比される第2主題の自立性も持たせている。主題は6小節で形成され、それがもう一度繰り返されると、(B dur)から半音上行調の(H dur)を経由して(fis moll)と調性を大きく離脱し、転調による印象を深く刻み込みながら、何度も冒頭動機を繰り返したのち、さらに(es moll)に転調し、第1主題の応答部分に対比するかのように、第2主題に対する応答が行なわれ、冒頭リズムを使用しない異なるリズムの特徴を持って締め括り、これにて第2主題を終える。

提示部終止部分(79-104)

・全声部4分音符の休符を挟んで一端時の止まったような効果を出しながら、再開する楽曲は弦楽器の和声の上で木管が冒頭動機を呼び込み、ついに85小節終わりから終止旋律が、そう終止旋律が、またしても冒頭動機に基づいて形成されてしまった。そうして先の2つの主題に対して、終止的な異なる旋律が継続するわけだ。この冒頭動機を持った終止メロディーが2回繰り返されると、先の第1第2主題と同様、後半は終止旋律の最後の部分から派生したように、冒頭動機のないリズム的部分を形成し、提示部を終える。ついでに終止最後の部分に、第1主題提示後の応答部分で見せた分散和音を思い起こさせるフレーズが、第1ヴァイオリンに登場するあたり、作者のプランが垣間見られるようだ。

展開部(105-152)

 冒頭動機を固着使用するなら、展開部は当然冒頭動機に基づいて形成されるはずだ。まず冒頭動機が2回繰り返した後、107小節がゲネラルパウゼとなり一端楽曲が停止。この全休止による停止は、ジークを思わせるような快活で愉快な曲などで、走り出しては、不意に立ち止まり、立ち止まってはまた動き出す効果として、しばしば使用される例だ。案の定、続けて(As dur)という、提示部後半の(B dur)に対して遠い調性で、再び第1主題が導入され、途中まで第1主題が続くのかと思わせると、いきなり短調化するやいなや、そこでフレーズが途切れ、1小節引き延ばした2分音符だけで、停止をくらうのが113小節。そしてさらに冒頭動機の流動性が増し再び出発。今度は転調を重ねながら、ヴァイオリンの冒頭動機とベースの冒頭動機が1小節ごとに交互に繰り返され、応答を始める。この重ね合いの密度は、125小節からさらに高まりを見せ、半拍ごとにずれた冒頭動機が、ヴァイオリンとビオラ&ベースが対になって交互に繰り返され、これに木管楽器が対旋律を加えるのだった。こうして展開部のクライマックスを形成すると、続けて密度が引き戻され、冒頭動機2回を一組とした形で、再現部への推移を形成していく。こうして結局最後まで冒頭動機がかけずり回る展開部を経て、冒頭動機で始まる再現部に連続的に移行するわけだ。

再現部(153-264)

 そして再現部は第1主題再現では、ヴァイオリンにフルートが加わった形で主題が開始するなど変化導入されるが、ここでは提示部と同様であることが、冒頭動機が十全に駆けめぐるために相応しいらしく、それほど大きな逸脱はなく、再現部の終止部分がそのまますこし拡大され、最後に冒頭動機を2回打ち鳴らしていさぎよく楽曲を終える。
 このように各主題が冒頭動機によって形成され、主題に対応する後半で冒頭動機が消える。冒頭動機を使用した推移などで再び冒頭動機が呼び戻され、次の主題が登場する。そして展開部は高密度に冒頭動機によって形成されるという、冒頭動機活躍のための檜舞台が、この第4楽章そのものだったのである。つまり私が最後に云いたいのは、こうした作品は一流のプロの職人芸の賜物であって、非常に計画が行き届いたものであるから、天上の音楽が風に揺られて風鈴がちりりーんだの、天使が舞い降りて輪舞を踊るだの、小学生並みの感想だけで済ましては、全然作品に近づいたことにならないじゃないか。それでモーツァルトの生涯もお優しくお優しく拝見して、馬鹿なタレントが可哀想とか不憫だとか云って、終わってしまったのでは意味がない。遣ってることが下劣だ、三流だ。彼の音楽に近づくためには、知識よりもまず、やっぱりどんなにヘタでも単旋律でも、自分で音を鳴らさなくちゃ、自分で声に出して歌わなくちゃ駄目なのだ。もはやこんな文章を懸命に書いたってしょうがないではないか。そう思った私は、パソコンの前から立ち上がると、しばらく開くことの無かったピアノの蓋を取り払らい、夜明けをものともせずに、39番のスコアをたどりつつたどりつつ、大声で旋律を歌いまくって、床をティンパニーの代わりに踏みならしてしまったのである。その日私は留まることを知らなかった。阿呆であった。翌日、管理人室に呼ばれバケツを抱えて正座させられたことは云うまでもない。

2006/06/24
2006/07/09改訂

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