シューベルト 交響曲第7番 第1楽章

[Topへ]

提示部

第1主題提示部分(1-38)(h mollとD durの交替)

・チェロとコントラバスによる低音ユニゾンで冒頭旋律が始まり、やがて弦楽器による刻み伴奏が開始。短調のアレグロ楽章において絶え間なく和音を刻み続け、ある種の焦燥感を表わす遣り方は、例えばハイドンの「告別」や、モーツァルトのピアノソナタイ短調など、古典派伝統のある作曲方法である。しかし、その上で繰り広げられるオーボエとクラリネットによる第1主題は、先人達の例よりも一層旋律的なメロディーとなっている。この楽曲の主要な旋律である、冒頭旋律(1-8)と、第1主題旋律(13-20)第2主題旋律(44-52)はいずれも、息の長いフレーズの特徴、中心の水平線を軸に周波数見たような弧線を描く特徴を持っていて、特に第1主題、第2主題は故意に狭い音域で作曲され、次のフレーズに飛翔できないような旋律の効果が、ある種の解放されない想いを表わしているようだ。その上で冒頭旋律から直接生み出される第1主題は、短調で音価の長い単純なフレーズで作曲され、それに対して第2主題は提示部も再現部も長調で表わされ、より細かいリズムとフレーズの動きを特徴とし、伴奏型も裏拍リズムに変化して作曲され異なる性格を持っていて、いわば第2主題には諦めがちな第1主題に対して、希望に向かって僅かでも前進しようとする意志が見られ、特に第2主題に含まれている付点素材は、主題自体を聞いている時にはあまり強く感じないが、後々の使用においては、あきらめの勝った第1主題に対して、打ち勝とうとする前向きな意志が込められているのが分かってくる。つまり、第2主題提示以降の使用においては、時に軍隊的ですらあり、提示部最後の長調による一時的な長調の勝利部分は、まさに付点素材の力が引き金となって第2主題を元に形成されて行くことになるのだ。それにも関わらず、3つの主要旋律自体(とそれぞれに関わる伴奏型)の持つ、自由に羽ばたくことが許されないような効果には、楽曲全体の性格である「決して果たされることのない憧れや希望」のような情景が込められ、これが第1楽章を規定しているのだが、その主題のあいだには新たな悲劇の混入や、葛藤や、希望への前進、さらに展開部の激しいドラマがあって、それぞれの主題の持つ夢み果たされないような情景を、抽象的な筋道をもった一種哲学的なものに高めるために、ソナタ形式が使用されているあたり、一見単純な形式化された作品にも見えながら、その形式の扱いは実に的確である。そしてこれらはもちろんシューベルトお得意の、和音選択によって非常に魅力的な物に高められているわけだ。
冒頭旋律は、丁度ベートーヴェンの「英雄交響曲」の冒頭動機(と生み出される第1主題)が楽曲全体を規定していたのと同様、楽曲全体構成の中心として機能している。
<<<確認のためだけの下手なmp3>>>
・特に開始部分の順次上行型による3音は、常に冒頭旋律を思い起こさせる楽曲の重要動機として機能しているが、この旋律全体は(h moll)の主和音構成音(下からD-Fis-H-D)を元に形成され、非常にシンプルではあるが、後々の動機的使用が意識されて作曲されている。例えば冒頭開始の3音、あるいは4音の固まりは一つの動機として機能するし、(3-4)小節目も一つの動機として、あるいは4小節だけの動機としても使用可能だ。続く5小節目の2音も、2小節目と同様のリズムだが、2小節目が1小節目と連続的であるため、後にこのリズムが出てきた場合、由来はむしろこの5小節目に感じられると云った具合。幾つかのリズムと、跳躍進行を織り交ぜた特徴的音型による旋律作曲は、まさにこの部分を冒頭動機の代わりに置き換えた、冒頭旋律として楽曲全体を規定しようとする意気込みをうかがわせる。同時に和声的特徴として、ⅠからⅤに向かう間に2小節のサブドミナント系和音(といっても単旋律だが、仮に和声付けをしようとするとおそらく。)を経由して属和音に到着する旋律は、Ⅰ-Ⅴの交替を中心に置く古典派の作曲スタイルから、サブドミナントを豊かに使用した情緒豊かな旋律自体への関心高まるロマン派への、シンフォニーが辿りつつある足取りを表わしているかのようだ。この足取りは、もちろん続く第1主題、第2主題でも見ることが出来るだろう。

・さて開始部分は冒頭旋律(1-8)、伴奏型導入(9-12)、第1主題(13-21)と考えても良いが、第1主題旋律は完全に冒頭旋律に基づいて作曲されている。
<<<確認のためだけの下手なmp3>>>
・すなわち冒頭旋律2小節の開始部分を元に、順次進行を下行跳躍型に置き換えた(Fis-H-Cis)を冒頭旋律リズムを使用して生みだし、これを2回繰り返す形に変えたものが、第1主題の開始4小節を形作っている。2小節目は旋律修飾とリズム変化がなされているが、アウトラインは冒頭旋律から導き出されたものだ。そしてリズム変化により生み出された14小節目の付点による「ターータタタ」のリズムも、やはり冒頭旋律に基づいている。つまり冒頭旋律(3-4)小節のリズムを1/2に圧縮するという、ベートーヴェンもよくやった方法によって、このリズムを生みだし、第1主題の旋律修飾を果たすと共に、このリズムは第1主題部分全体を支配する重要な伴奏型リズムとして、16分音符の刻みと共に、すでに主題提示の前から伴奏型導入(9-12)で提示を果たしているのであった。それだけではない、第1主題2小節目(つまり14小節目)に生み出された「ターータタタ」のリズムと、引き延ばした後でより下の音から順次上行する3音という音型は、やはり伴奏型導入の16分音符の刻みを生み出す元になっていて、これは該当部分の半音下行を修飾と見なせばすぐ分かるはずだ。こうして導入された伴奏型と第1主題開始4小節までが完全に冒頭旋律から生まれたものであることが分かったので、主題の次の部分を細かく見てみよう。
・第1主題旋律の5小節目以降、つまり(17-21)小節は、冒頭旋律の3小節目以降のリズムを使用して、旋律の方向を下行型から上行を夢見る水平型に置き換えたもので、冒頭旋律の4拍目の4分音符リズムが特徴的な付点4分音符の使用で変化され、次の冒頭旋律5拍目の長短リズムが、第1主題の19小節目では短長リズムに置き換えられてはいるが、基本的に冒頭旋律のリズム輪郭が使用されている。ここで誕生した18小節目の4分音符付点リズムは、冒頭旋律自体からの由来ではないが、第1主題冒頭の(Fis-H-Cis)の音型が修飾された際に登場した、付点4分音符の力が合計2回繰り返されたことによって、この部分が付点化したと考えられる。つまり付点2分音符は1小節分なのでリズムに波が立たないが、ここで付点4分音符の場合にはリズムに揺らぎが生じる事になるのだが、下のように書くと分かり易いだろう。

第1主題の小節毎の配置
・付点2分音符(安定1小節)→付点4分音符化リズム部分(揺らぎ1小節)→付点2分音符(安定1小節)→付点4分音符化リズム部分(揺らぎ1小節)→付点2分音符(1小節)→付点4分音符化された第2音を持つリズムの揺らいだ3音
・となり、つまり冒頭旋律が基本拍子に対する付点4分音符の揺らぎが全く存在しないのに対して、第1主題に付点4分音符が登場することによって、結果として18小節目の波が生まれたと解釈できるが、実はこれはこれまで記述してきたような経緯を経ての意識の産物と言うより、我々がほとんど無意識のうちに持つ旋律バランスに従った旋律、つまり旋律的感性によって自然に生まれたものを、逆に改まって考察してみただけのことだ。


・こうしてリズムパターンの影響により、本来の4分音符3音が、付点4分音符化したのだが、このリズム強調が次の小節にも影響をあたえ、冒頭旋律において長短リズムだった19小節が、短長リズムに変化したという解釈が可能になる。続く部分も、この冒頭旋律に対するリズムのブレが尾を引いて、本来8小節の主題をさらにもう1小節躊躇させると共に、最後のホルンの揺らぎ音型の導入を招いたと見ることが出来るかもしれない。こうした一連のリズム変化と、もちろん旋律効果そのものによって、悲劇調が確定した冒頭旋律よりも、一層曖昧な彷徨うような旋律が生み出されているのが、この第1主題の旋律なのである。
・さて、改めて冒頭から観察し直してみよう。(・・・いつまで第1主題に留まっているのだろう。)まずオーボエとクラリネットで導入される主題旋律が、ピアニッシモの弦の刻みの上に静かに開始する効果が非常に印象的だが、この2つの楽器のコンビはシューベルトお気に入りの楽器構成だし、一般的オーケストレーションでも、よく解け合う楽器編成としての定番セットになっている。(つまりカツ丼か、はたまたヅケ丼あたりか?)伴奏を見ると、ヴァイオリンの16分音符の刻みに対して、低音弦楽器が第1主題旋律の2小節目(つまり14小節)のリズムを使用して、8分音符で一定の歩調を築き、16分音符の無休動的リズムを小節毎に大きなリズムパターンで束ねる役割を持たせている。この黄泉の国からの足音のような、ある種太古の響きのような効果が、16分音符の刻みと共に不穏な焦燥感のようなものを暗示的に絶えず表わしているのだが、この伴奏の上で音域も狭く同じ所を彷徨いがちの第1主題が提示される事によって、足を踏み出したいと願いつつも躊躇するような効果が生み出され、これは(9-16)まで繰り返されるⅠ和音とⅣ系和音(Ⅳ+6の和音ぐらいが適当か)の交替で和声的にも行なわれているわけだ。今ふと面白いことに気が付いたのだが、ここでの「ターータタタ、ターータタタ」の伴奏型を作曲していたとき、運命が戸を叩くベートーヴェンの第5交響曲のリズムパターンの印象が、一瞬作曲中にシューベルトの頭に浮かんだりはしたのだろうか。
・さて、ついでだから調性も見てみよう。掻き立てられながらも躊躇する第1主題も、17小節目でとうとう平行調である(D dur)に移行し、少し新しい領域に移行したいと願うようだが、しかし、次の小節の付点4分音符化された部分では、重要な構成音である(F#)が半音下げられ(F)となり、(D dur)自体が脅かされることになるのだった。この18小節の(F)音の部分は和声上(E)音の修飾と解釈できるが、実際はこの部分は強調されるべき重要な音で、この部分の属和音(GHDF)の響きは(D dur)から離れた異質な効果を持って、狙って置かれているように思われる。(ただし和声解釈上はⅡ7の1転ぐらいを当てはめることになるだろうが。)つまりこの付点4分音符の(F)は、旋律的に第1主題全体で最もエネルギーの高い(強調される)部分になっているため、和声上独自の響きで強調されているのだが、その(D dur)を脅かす響きによって、旋律強調と同時に(D dur)という調性そのものを妨げて、すぐに(h moll)領域に引き戻す役割も兼ねているように思われる。つまり続く19小節目で(D dur)のカデンツを踏み、20小節の頭で主和音に到着し、何とか主題が長調に辿り着いたかと感じたその刹那、2拍目で鳴らされるホルンと単音トロンボーンの響きが、我々を元の調性(h moll)の属和音に突き戻し、再度第1主題旋律が開始していくのである。つまり17小節目からの(D dur)領域は、非常に大きな(h moll)の重力によって虐げられて、引き戻されるような効果が和声から見ることが出来るだろう。しかも第1主題は最後に(h moll)の属和音が登場した後、さらにもう1小節属和音のまま保留し、再度主題旋律へ向かうので、主題自体が9小節になり、8小節の後で直ちに主題が開始するのと比較してみると、よりもどかしい、躊躇する効果が読み取れる訳で、最大で短6度の幅で苦しく上下する主題と小節数、伴奏型、和声効果など、狙った楽想を表わすために、すべての作曲法を動員する遣り方は、まあ時代を超えるぐらいの作曲家では当然の事だとはいえ、やはり「すばらしい」と一声掛けたくなる。
・続いて22小節からは、第1主題の再現を開始しながら、第2主題への推移に移行していくという遣り口だが、(D dur)に移行し元の第1主題と異なる進行が行なわれる26小節目で、フルートとファゴットが導入される。この部分は元の第1主題の付点2分音符の代わりに、付点4分音符化された3音音型が先取りして行われ、次の小節でも改めてこれを繰り返すことによって、付点4分音符リズムをより強調し、しかも先ほどとは異なり、(D dur)内の和声だけを使用して、先ほどより一層(D dur)感を強め長調化を確定させようとするが、それでもまだ(D dur)領域にはたどり着けず、第1主題最後の部分同様、やがて(h moll)の属和音が投入され、元の領域への引き戻しに掛るのだった。
・その後、負けじと先ほどの(D dur)に入った26小節からの部分をもう一度繰り返し、今度こそ(D dur)を確定して見せようとするが、またしても(h moll)の属和音が投入され、哀れ36小節目から(h moll)の属7和音連続によって和声的な止めの部分が開始して、38小節では(h moll)の主和音が断言されてしまった。つまり推移部を越え、本来の短調ソナタ形式が指向する平行調(D dur)に到達しようとした楽句は、(h moll)の引き戻しに破れ果て、泣きながら元の(h moll)を断言して終止するという、切ない最後を迎えたわけだ。

第2主題提示部分(38-72)G dur→g moll→d dur

<<<確認のためだけの下手なmp3>>>
・第1主題の(h moll)が(D dur)を夢見て試みた飛翔は敗れ去り、第2主題はもはや本来のソナタ・アレグロ形式の基本である、短調の平行調(つまりD dur)での提示は不可能になった。(h moll)に閉ざされた第1主題に対して、ベートーヴェンの大好物でもあった3度調関係の(G dur)を使用して、冒頭旋律から誕生した、第1主題とは異なるもう一つのフレーズによって、もう一度新たに夢を成し遂げようと試みるのが、この第2主題となる。したがって、冒頭旋律から見たとき、提示部の第1主題部分と、第2主題部分はパラレルな関係にあると考えられる。面白いことに、冒頭旋律を持たない再現部では、第2主題が本来提示部で到達する(D dur)で行なわれている。ただし、再現部では第1主題の2回目繰り返しがすでに(e moll)で行なわれるため、(D dur)を指向するという筋書き自体がなくなっているため、到達したという感じはやはりない。
・話を第2主題自体に移そう。すでに冒頭旋律と第1主題にも、冒頭動機を冒頭旋律に置き換えた方法や、中心の水平ラインを上下する周波数的な主題の作り方など、ベートーヴェンの第3交響曲第1楽章の影響らしきものが見られたが、第2主題においては一貫して裏拍で行なわれる伴奏、主題の水平ラインを上下する曲線的な性質(主題開始から2つ目の音を取り除いてみるとよく分かる)から、「英雄」第1楽章の展開部に見られる、俗に展開部主題と呼ばれる部分に親しいものを感じるので、もしかしたら、その辺りから着想が来ているのではないかと思いたくなる。
・第2主題旋律(44-52)も第1主題同様、わずかなフレーズではあるが(38-41)の第2主題導入旋律が付けられ、2小節(42-43)の伴奏導入が行なわれた後導入される。この導入旋律は第1主題が最後に(h moll)の主和音に引き戻されたフォルツァンドの主和音のすぐ裏拍(2拍目)から開始し、ファゴットとホルンの管楽器の響きが、まるで次の主題の到来を告げる、霧の中に響く管楽器の合図のような効果を出している。続いてコントラバスの小節ごとのピチカート音に乗せて、裏拍伴奏が開始するが、始めヴィオラとクラリネットで行なわれるこの伴奏の響きは非常に印象的だ。この裏拍伴奏は、第1主題18小節の付点4分音符音型が、主題提示後の推移部分後半で連続使用されているうちに、次第にその精神に近づいて行くように感じられ、特に第1主題部分最後の和音による(36-37)部分が元になっている。つまり連続的に生成発展の印象が刻み込まれているので、異なる印象はあっても、とっぴな印象を受けるわけではない。細かい刻み伴奏に支配された第1主題に対して、第2主題はこの裏拍開始のシンコペーションリズムの伴奏に支配されるため、憧れつつも飛翔できないような主題旋律は、この伴奏によって、やはりもどかしくも抑圧されるよう。主題旋律自体はチェロによって提示され、49小節目でⅡ調の属和音を使用することによって、主題旋律自体が(G)の音を(G#)に上行させ、異なる音域への飛翔を試みるが、直ちに元の調に引き戻され半終止する。この(38-52)までが第2主題となるが、続いてヴァイオリンで第2主題旋律が開始すると共に、ファゴット、ホルンなどが参加しもう一度主題が繰り返される。
・こうして楽器を増加させ音量と音域を拡大して、第2主題によってもう一度飛翔を試みる効果を大いに利用して、62小節目で全声部の休止が入る。拡大の後の断絶、これもベートーヴェンから学んだかのような方針だ。これによって第2主題部分ははかなくも切断され、次に続く激しい和声進行的部分によって、主題の思いを断ちきるような、短調による激しい悲劇的なものが提示され、最後(71,72小節)にいたっては裏拍伴奏だけが辛うじて第2主題の面影を残しているに過ぎない。しかし全休止の小節を抜いて管楽器の上声を追えば、直前の第2主題のヴァイオリンによる主題が、フルートに受け継がれて(G)音(63小節目)に到達し、続く(C)への下行は第2主題旋律のフレーズの切れ目(47小節)に見られる跳躍下行の様にも取れ、次の部分も切断されながらではあるが、(G→D→G)という第2主題冒頭の進行を持つなど、第2主題の冒頭断片化による連続性が意識されながら、ついに(g moll)のドッペルドミナント9和音下方変位に至って、ヴァイオリン旋律がこれまで押さえつけられていた音階上行を激しいフォルツァンド連続の中で行ない、提示部内での弦楽器の最高音にまで到達する。これはいわば精神世界的な直前の主題部分に対して、外的な力が加わることによって、その内的な世界が流動化していくような印象で、この力によって、続く終止部分では第2主題の動機が力強く前進しつつ、長調による勝利的な部分に到達するのである。楽曲を掴み取る手段として、導入には分かり易くて良かろうと、身も蓋もない説明を加えればこんな具合になるかもしれない。あくまでも、例えである。
「青年悩み多くあれこれと反問している最中に、最愛の人の死などの外的な悲劇要因があって、提示部終止部分では、かえってこんな悩みなど取るに足らないと奮い立っては見たものの、展開部の負の葛藤によって打ち負かされ、もう一度反問から奮い立つ心の変遷はあっても、もはや負の属性から逃れることは出来ないというのが、最後のコーダになるようなものだ。」
・もうちと楽曲精神を的確に掴み取った例えはないかしらと考えながら、ふと気が付いたのだが、この楽曲の持つ悲劇的な力は、永遠に解消出来ない負の属性を持つ冒頭旋律の内的なものと、何らかの要因が作用して悲劇のドラマを引き起こすような外的なもの(この場合は主題を切断して登場する大音量の短調和声提示)の2つがあって、しかもそれぞれが旋律的なものと、和声的なものとして対比され、それぞれが楽曲の重要な要素となっているのではないだろうか。ただし、この和声的な力は全く由来のないものではなく、実際は第1主題部分が推移の最後に(h moll)の属和音上での和声止めに辿り着くというプロセスが事前にあって、この部分では和声的楽句が、いきなりより強烈な印象を持って登場するので、もちろんインパクトは大きいが、「なぁんで、そぉう、なるのっ。」と欽ちゃんが突っ込みを入れるほど突飛な印象にはならないはずだ。ひるがえって見ると、第2主題旋律は、冒頭旋律の影響と、後の和声悲劇の影響が混在しているのかも知れない。しかし、立ち返るって考えるのは辛いので、ここでは知らぬ振りをして先に行くことにしよう。

提示部終止部分(73-109)G durが中心

・これ以降の部分は、際ほど提示された第2主題素材を使用しての終止部分となっているが、先ほどの切断と外的悲劇のエネルギーによって、もう一度楽句の練り直しを開始する73小節からは、実際は第1主題、第2主題で果たせなかった飛翔の夢が、仮初めに実現させる部分となっているので、これ以降を提示部終止部分とする。ただし、先ほどの和声的部分からを終止部分とした方が、より良いような心持ちもするのである。
・まず引き延ばされた管楽器の響きの中で、第2主題旋律の3小節目を連続して使用した転調的部分が開始。第2主題を聞いている時には気が付かなかったが、この動機には軍隊的な行進の響きが隠されていたようだ。その力強いリズム素材によって、次第に密度を高めつつ(G dur)を回復し、際ほどの悲劇的な和声部分を(G dur)による確信的な和声部分に変え、提示部で最もはっきりした力強い部分に到達。さらに、その安定した力によって、終止旋律に置き換えられた第2主題旋律の再現(94-)も、開始音の束縛を抜け高音に大きく上行するフレーズに置き換えられている。こうして、冒頭旋律、第1主題、第2主題の持つ束縛的な属性をようやく抜け出すことが出来たかのようであるが、この終止旋律も実は音域を大幅に拡大しては居るものの、開始(G)音から大きく山なりに上行した旋律が、後半同じような曲線で下行し、開始の(G)音の高さに戻るのを見ると、実際には以前の精神を捨てきれず、そもそも第2主題の属性そのものを引きずっていて、結局最後に(h moll)に落ちて、冒頭旋律から提示部をやり直し、あるいは悲劇調の展開部に移行することになる。夢は成就しなかったのか。

展開部(110-217)

冒頭旋律による部分(110-145)e moll→h moll

・(G dur)の平行調である(e moll)に移行し、冒頭旋律が提示されると、冒頭旋律の開始音型を使用した推移的部分に移行。その干からびたような独特の響きは、ファゴットの効果や、ドッペル下方変位和音などの効果によって出され、提示部最後に到達した正の力に対して、負のエネルギーが圧倒的に高まっていく印象だ。精神の克服と安定を果たすことの出来なかった冒頭旋律が、今まさにさらなる深みにはまっていく生き様を、私たちは見ることが出来るのである。(なんのこちゃか。)

第2主題に基づく部分(146-169)

・第2主題部分の旋律後の激しい和音的部分4小節と、ひるがえって第2主題の伴奏型4小節で8小節の楽句が形成され、始め(cis moll)、次いで(d moll)、最後に(e moll)と移行しながら3回繰り返す。つまり、ここでもう一度外的な悲劇が、内的な悲劇に深く作用することによって、続く部分で激しい葛藤が引き起こされるのが、続く展開部のクライマックスになる。

冒頭旋律に基づく、クライマックス(170-217)e moll→D dur→h moll

・(e moll)で冒頭旋律が再度提示されると、続いて冒頭旋律開始4音が低音で繰り返される上で、弦楽器に悲劇調の16分音符の早いパッセージが登場し、そちらが楽想の前面に躍り出てくるため、新しい部分が開始したような印象を与えている。展開部のクライマックスがこのような自立的部分にまで高められる方法は、すでにベートーヴェンが初期の交響曲で模索していた遣り方だ。184小節からは下声と上声が冒頭旋律開始3音に続く3小節目からの動機を交互に繰り返し、やはり冒頭旋律が明確に継続されているが、早い音階上行パッセージと、管楽器にまさに軍隊的な付点リズム連打が加わることによって、さらに新しい事象が登場したような印象を与え、楽曲全体で最も激しい嵐のような部分を形成している。この軍隊的な付点は、提示部終止部分で行なわれた第2主題3小節目の動機を連続使用した部分(73-)と親しい関係にあると考えられ、提示部での8分音符連続の開始だけが付点化した旋律的動機に対して、この部分では連続付点化した8分音符同音連打によるリズム動機として、まるでその軍隊的な力だけが抽象化されたようだ。つまりこの部分では冒頭旋律の内的な悲劇と、第2主題部分の外的な悲劇が絡み合って、非常に激しい葛藤を引き起こしていて、この悲劇の激流はついに194小節目から、冒頭旋律開始の3音上行型のかすかな希望さえ打ち消した、3音下行型のパッセージに至り、これは同時に冒頭旋律の5小節目の精神で、直前の部分から連続的に冒頭旋律を踏襲しつつ、急激に音量をピアニッシモに落とす。
・しかし激しい葛藤はそう簡単に終止符を打たない。直前のピアニッシモが再度クレシェンドに転じつつ、提示部での一時的な勝利を思い起こして、一連の展開部の悲劇調に打ち負かされまいと、(D dur)の滑走付分散和音パッセージが和声的部分を形成しフォルテッシモで(202-208)まで激しく応戦を開始。和声的部分に相応しく、ここには第2主題旋律冒頭の持つ跳躍して別の音に移り、元の音に戻る(オクターヴを無視すれば)の精神が込められ、激しい戦闘を繰り広げたが、とうとう最後には(h moll)の属和音が優位に立ち、夢やぶれて再現部へ移行する。この展開部全体は大きく(h moll)のⅣ調である(e moll)を中心調に作曲されていたが、この最後のクライマックス部分で、提示部第1主題に見られた(D dur)と(h moll)の交替が、もう一度行なわれているのは非常に意図的だ。

再現部(218-322)

 結局外的な劇的要因によって内面の劇的要因を取り除くことなど、出来ない相談だったのだろうか。再び第1主題の持つ内的な満たされないような想いが回帰し、(D moll)への離脱を試みるが、先ほどの展開部の調性である(e moll)が重くのし掛り、第1主題繰り返しは、(e moll)によって行なわれ、それが(G dur)への離脱を試みるという調性プランに変えられている。このような調性プランによる関連づけは、単純で分かりやすいものであるだけに、非常に明確で効果的だ。その後の推移では(A dur)が(fis moll)の属和音に辿り着くパターンが2回繰り返され、本来ならば提示部で到達する(D dur)で、第2主題が開始するが、ここに至る経緯を思うとき、(D dur)にとってもいろいろ感慨深いところがあることだろう。その後、終止部分は(h moll)の同主長調である(H dur)で行なわれるが、提示部から展開部へと向かう部分同様、(h moll)へ落ち込みつつ、やがて冒頭旋律が完全に提示され、短いコーダに突入する。つまりここでも勝利は許されなかったのぞなもし。

コーダ(323-368)h moll

 再度(h moll)の響きが導入された後、冒頭旋律が導入され1度完全に提示すると、冒頭旋律を使用したカノン風の部分を経由して、最後に弦楽器の刻み付きの、例の和音部分の力により最後の飛翔を試み、フォルテッシモに到達するが、直ちにピアニッシモで冒頭旋律開始3音が何度も繰り返され、そのかすれ声の憧れすら絶つように、最後にはフォルテッシモによる(h moll)の和声カデンツが打ち付けて、悲劇を確定させ楽曲を終える。

最後に

 このように楽句や動機旋律などに何らかの意味あいを持たせ、それぞれの楽句の情景変化や渡り合いのドラマを、明確な調性プランの土台の上に繰り広げる方法は、シューベルトがバラードなどで見せる見事な構成法と親しい関係にあり、この場合には詩の代わりにソナタ形式の枠組みそのものが、着想の土台になっていると言えるかもしれない。しかし、そうはいってもホモフォニーからポリフォニーまでを渡り歩き、動機の十全使用によりそれぞれの楽句の由来を強固なものにしつつ、全体をドラマティックに構成するベートーヴェンの、メロディーと伴奏の時でさえも各声部の独立性が水面下に意識されているようなきめ細かい作曲態度に比べると、シューベルトの第7番は基本的にメロディーと伴奏のホモフォニースタイルが優位で、対位法的な部分でも本質的には2声(と伴奏型)が掛け合う作曲法は、ウィーン調の叙情的歌謡旋律と伴奏型を強固なソナタ形式にしたような所があって、メロディーと和声の持つ情緒に多大に寄り添って、良い意味でセンチメンタルであり、情に訴える力は深いものがあるが、感情に関わる密度は高いものの、純粋な動機や対位法や管弦楽法などから見た楽曲密度は圧倒的な作品というわけではないので、一過性の病のように、しばらくこの曲に没頭した後は、卒業してしまう人も居るかと思われる。もしかしたら、第2楽章まで作曲した所で、シューベルトと自身がこの楽曲から卒業してしまっただけのことなのかも知れない。こうした交響曲のためにもう一つ補強が欲しい欲求は、シューベルト自身が大いに感じていて、これら7番まで同様に見られる傾向を、交響曲第8番ハ長調(D944)で大きく乗り越えようとしたのだと思われる。しかしそれは、ベートーヴェン的な作曲スタイルによるものではなく、彼自身の特性を一層生かすすばらしい遣り口によってであった。次回は図抜けた第8番でお楽しみ下さい。んわぐく。・・・とまあ、サザエさんの予告編風味は大変結構だが、なんでシューベルトの未完成でこんなに文章が膨らんでしまったのだろう。さくっと流すつもりだったのに。こんなことじゃあ、次のベルリオーズが思い遣られる。第2楽章は、さくっといけるかな。

2006/01/15
2006/02/17改訂+MP3

[上層へ] [Topへ]