シューマンの生涯と作曲作品

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ローベルト・シューマン(1810-1856)

誕生

 1810年6月8日、ツヴィッカウに生まれたローベルト・シューマン(Robert Schumann)。彼は、出版業を営む父アウグスト、外科医の娘ヨハンナの間に、5人兄弟の末っ子として誕生した。詳細は割愛して、故郷のツヴィッカウのリツェーウム(高校ぐらい)を卒業。文学大好きの親父が、同時に音楽も学ばせたので、古典文学からゲーテやシラーのロマン派文学まで読みこなし、自分で詩を書きながら、6歳でピアノを始め、10歳を待たずして作曲さえ試みるたちの悪い?少年が誕生してしまった。

 文学においては、ジャン・パウル・リヒターの影響を多大に被り、詩人になるのが夢だったらしいが、親父さんも「魔弾の射手」(1821)ですでに名声を博していた、カール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)について音楽を勉強させようと考えたり、親子揃って芸術馬鹿だった。(ヴェーバーに海外旅行の予定があって断られてしまったらしいが)

 ところが1826年、2つの悲劇が一辺に押し寄せた。お姉様エミリーが心の病か自分を殺してしまい、親父さんもその年の内にお亡くなりて、シューマンは鬱状態に陥ってしまったのだ。そして悲惨の出来事が母親に危機感を抱かせたものか、母ヨハンナはローベルトに対して、「芸術家なんて生計が立たないのだから」と諭し、1828年にはライプツィヒ大学法学科に入学することになったのである。しかし芸術に心引かれる息子は、法律なんて興味湧かないまま、翌年ハイデルベルク大学に移籍したりしつつ、1830年、ライプツィヒの有名なピアノ教師フリードリヒ・ヴィークに弟子入りして、ますますピアノにうつつを抜かし始めた。結局は先生のヴィークも一役買って、母親もついに、音楽の道を認めて貰ったそうだ。

 ヴィークの家に居候を決め込んだシューマンだったが、想像上の人物ABEGGをドイツ音名で音型にして、アベック変奏曲(op1)を完成するなど、すでにシューマン的特徴の漲った楽曲を完成させている。翌1831年には、「パピヨン(フランス語で蝶々)」というピアノ曲も完成させ、ハインリッヒ・ドルンのもとで作曲を学び始めた。またこの31年には、「一般音楽時報」という雑誌に評論を書き始め、フレデリック・ショパン(1810-1849)の「モーツアルトのドン・ジョバンニの『お手をどうぞ』による変奏曲変ロ長調op2」を紹介して
「諸君颯爽と脱帽したまえ。天才だ、天才が現われたのだ。」
と叫んで、ショパンから白い目で見られた(彼は仰々しいのは嫌いだったから)のは有名な話だ。翌年32年には「パガニーニ練習曲」(op3)を完成させている。

 評論では、さらに1834年からは自分で「音楽新報(新音楽時報)」(一般音楽時報に対抗したものか?)を設立。音楽評論によって、不安定な収入の確保を兼ねた。特に44年までの精力的な批評活動は、ロマン派音楽の啓蒙に大きな役割を果たした。面白いことに、批評的活動がベルリオーズと同じ頃始まっているが、時代のニーズにマッチしていたからかも知れない。

 しかし評論だけではなかった。若い力があらゆる方向に漲るシューマンは、どうやら女性だらけの不夜城に出かけて、梅毒を頂戴したという説もあるのだった。噂話なら、女だけでなく男とも関係を持ったとか、若気の至りだけでなくクララと結婚してからも出かけたとか、真相を究明したい方もおられるだろうが、私にはどうでもいいことだから、まあ放っておくことにしよう。

青春?

 ところが、1832年には練習のしすぎか、病気で手を壊したのかピアニストの道が閉ざされてしまった。本人は日記に猛特訓のしすぎと記しているし、先生のヴィークも「ある弟子が私の意向に添わない練習をして指を壊した」と言っているし、クララも晩年になって「夫の指は無音ピアノを叩きすぎで駄目になった」と説明しているから、本当に練習上の問題だったのかも知れない。(これも諸説ある。医療技術の進んだ今からひるがえって、もう観察しきれない人物のことを述べ立てたら、永遠に諸説入り乱れるような気もするのだが……)

 そのショックのためか、それとも元々あった不定期の鬱状態の一環なのか、1833年には、自分が消えることに想いを致して、部屋の隅に(かどうかは知らないが)怯えきっていた。また最近では、梅毒の症状の一環として、またはその水銀治療の結果として右手の人差し指と中指が壊れたのではないかともいわれ、だとすればその症状は様々な形で当時の彼を悩ませ、彼を絶望とノイローゼに陥れていたのかも知れない。という説もある。説ばっかりで困ってしまう。いずれ、その時期の精神状態が記録に残されているのは確かである。

「1833年10月17日、18日、僕はおぞましい考えに脅かされていた。人間にとっての一番の恐怖、天上が下す最も恐ろしい裁き、理性を無くすという考えに。僕はこの考えに取り付かれ、祈りも慰めも何の効果もなく、頭の中がぐるぐると回って・・・そしてこう考えて、僕は心の中が真っ暗になった・・・もし考えることが出来なくなったらどうなるのだ!」
(のようなことが書かれている)



 しかしそんな危機も、1834年にエルネスティーネ・フォン・フリッケンという貴族の娘がヴィーク家に習いに来たところ吹っ飛んだ。彼女に対して優しい感情が目覚めてしまったのである。ちなみに、梅毒に掛かったとすれば、2年間ぐらい続く第2期を過ぎると、体の表面上に表われる症状は無くなって、たいていの人は長い潜伏期間のまま生涯を全うし、そうでない場合は体の内面や神経がじわじわと冒されていくのだという。

 梅毒だろうと欝症状だろうと、男子単純なものであるから、症状さえ収まれば、体力と精神の回復は直ちに恋愛に結びつく。彼はさっそく「謝肉祭」op9やら「交響的練習曲」op13などのピアノを彼女のために作曲、婚約にまで漕ぎ着けて幸せに浸っていたのだが、彼女の親が2人の恋路を遮断して娘を連れ去ってしまった。

「交響的練習曲」op13
・愛するエルネスティーネの親父さんフォン・フリッケン男爵(ボヘミアの貴族)は、趣味でフルートを演奏するだけでなく作曲までも行っていた。フルート変奏曲をシューマンに見せたところ、その中のテーマから着想を得て、シューマンが作曲したのがこの曲である。1837年には初版が出版されたが、その時にはすでに婚約が破綻していたので、「あるアマチュアの主題による」と書かれていたそうである。
・ところが、1852年になって、3曲目と9曲目を削除して最後を大改造した改訂版がタイトルも新たに登場した。この(第2版)が、シューマンの死後出版されたが、さらにブラームスが監修(かんしゅう)して出版された全集では、未使用の5曲分遺作として加わり、これが第3版などと呼ばれている。
・結論としては、シューマンの改訂版では「主題と9つの変奏と終曲」になっていたものが、初演版にあった2曲、さらに遺作の5曲も存在し、時にブレンドして演奏されたりもするというわけだ。どの曲にも共通するのは、特徴的な和声と鍵盤効果によるロマンチックの精神で、雄大な広がりと、ナイーヴな曲ごとの精神の切り替えは、彼の交響曲よりもずっと本領を発揮している。(交響曲においては、良くも悪くも、ロマンがちょっと宥められてしまっている。)

「謝肉祭」op9
・エルネスティーネの生まれ故郷である、ボヘミアのアッシュ(ASCH)をドイツ語読みで音型に仕立てて(A-Es-C-H)または(As-C-H)として、これを曲にちりばめつつ、謝肉祭の祝祭を演出。
・副題に「4つの音による愉快な情景」と付けられ、前口上(まえこうじょう)の後にピエロやアルルカンから始まって、自らが妄想で生み出した(いわゆる頭のなかのコビトさん達)、性格の異なる若手音楽家のオイゼービウス、フローレンスタンが登場したり、キャリーナ(クララのこと)やエストレッラ(エルネスティーネのこと)が登場したり、ショパンとパガニーニまで出てきて、自分の精神を支える親愛な者達を、現実妄想入り乱れて登場させ、最後には悪の芸術家フィリスティン達(つまりペリシテ人のことで、ドイツ芸術を硬直化させている俗物達を、旧約聖書になぞらえて命名している)に対抗する、我々新進気鋭の芸術家同盟ダーフィット同盟達(つまりペリシテ人を打ち倒すダヴィデのこと)の行進を持って曲を終えるという、想像を絶する馬鹿らしさ……もとい、呆れるほどのおめでたさ……じゃなかった、比類ない妄想の極みにもとずく、謝肉祭、つまりカーニバルの情景なのである。
・曲はコンサート用大楽曲の系譜に連なり、それほど深みのない楽曲が、華やかさと祝祭的傾向のうちに、ときおり繊細さを見せながら進行する。ショパンは、この開けっぴろげの作品が、不愉快だったらしい。
・曲は20曲が演奏され、他に「返事」という曲の後に、スフィンクス(Sphinxes)という曲があって、この楽曲を規定する音型が、三つばかり、記されている。これは「演奏されるには及ばない」譜面であるらしく、ジョンケージの4分33秒がちっとも新しくなかったことを示す逸材である(これは冗談)。

クララとの愛の時代

 そんな切ない失恋を慰めて貰ったかどうだか、次第に成長してきたヴィーク家の娘っ子、クララ・ヴィーク(1819-1896)との間に恋が芽生えた。1835年の11月25日にはファースト・キッスに漕ぎ着けたらしい。日付が分かっているのは、自分達で記しているためだろう。当時は、誰もがみんなロマンっ子である。もちろん、お父さんは危機を感じる。

 そんな中、1836年にはシューマンの母親が亡くなって、彼には両親とも居なくなってしまった。こんな時必要なのは優しい恋人のはずだが、ヴィークはシューマンからクララを隔離してしまったのだ。しかし二人の愛は途切れなかった。それどころか優しい愛情があふれ出し、シューマンは沢山のピアノ曲を量産していった。はたして、障壁が高まれば高まるほど愛情が高まってしまうと言う、ロミオとジュリエット効果の好例なのだろうか。(あるいはローベルトとクララ効果と命名してもいいかもしれない)

 36年のうちに「幻想曲ハ長調」(op17)が完成。これは後に1839年フランツ・リストに献呈され、リストがお返しに有名な「ロ短調ソナータ」を献呈してくれたという逸話が残されているが、霊感とピアニスティックな効果の結びつきにおいてはシューマンの「幻想曲」の方が優れているほどの傑作だ。(ここだけの話、リストのは形式が無駄に肥大しすぎている。あんなに拡大するほどの曲じゃないのである)

 1837年には「幻想小曲集」op12、「ダーヴィット同盟舞曲集」op6が誕生、この舞曲集は架空の作曲家フローレンスタンとオイゼービウスの名で出版しようとして、出版社から「お遊びはいい加減になさい」と諭されてしまった。クララに「結婚を想起させるものをたくさん描きました」と書いている。これはまさに、クララへの愛の結晶なのである。38年には「子供の情景」op15、「クライスレアーナ」op16(ショパンに献呈された)、「ノヴェレッテン」op21などが完成。「ノヴェレッテン」は手紙に「あなたを想って沢山の曲が、父親の居る家庭というもの、結婚式の情景……ああ、私はそれを集めて、ノヴェレッテンとしたのです」なんてことを書いているようだ。つまり有名なピアノ曲は大部分は、クララとの恋の時期に生み出されたのだった。

 おまけに1838年にはヴィーンを訪れ、うっかりシューベルトの「ハ長調交響曲(グレート)」を発見した。さっそくライプツィヒにおいて、メンデルスゾーンの指揮で初演された。これが現在のシューベルトの「交響曲第8番ハ長調」だが、この時、
「交響曲の天上的な長さは、あたかもジャン・パウルの小説のように、4巻を費やしてもまだ終わらせない、むしろ読者の創造を奪わないために結末を設けない長編小説のようだ。」
という有名な一言が生まれた。そして、シューマンがこれまで完成させられなかった大規模なオーケストラ作品、自分も完成させてみたいという欲求は、この曲が引き金になって「交響曲第1番」に結晶化していくようである。シューマンはベートーヴェンの音楽だけでなく、シューベルトの音楽が大好物だったのである。でも一番の大好物は……1839年にはクララと2人で初めてのクリスマスと記してある……のろけ、勝手にしやがれ。

結婚時代

 ついに2人は結婚の約束を交わし、娘さんを嫁に下さいと父親に頭を下げたが、精神状態不安定の気質を見て取ったか、それともとっくの昔に掛かっていたいう噂もある、梅毒感染に感づいたのか、とにかく親父さん、この結婚には大反対。しかし娘の方がはるかに強かった。実力派のクララはローベルトと一緒に裁判を起こして、親父さんを打ち負かして結婚してしまったのである。1840年のことである。

 この結婚の年こそ「シューマン歌の年」と呼ばれるリートの当たり年で、「ミルテの花」op25、「リーダークライス」op39、「女の愛と生涯」op42、「詩人の恋」op48など留まることを知らない傑作リートを完成させてしまった。彼は、同じジャンルの作品を、徹底的に探求する傾向があったのである。

 1840-42年まで続く3年間の真ん中、1841年は交響曲の年である。この年は、クララに励まされ大作曲家のオケ作品など研究史ながら、立て続けに管弦楽作品を作曲してみせた。まずは、交響曲第1番「春」変ロ長調op38が、3月31日にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でメンデルスゾーンの指揮により初演された。メンデルスゾーンは1835年からここの指揮者を務めていたのだ。

 4月には「序曲、スケルツォとフィナーレ」op52(1845年再度改訂)も作曲され、これはシューマン自身が「交響曲の形式と違うからバラバラで演奏して差し支えないぜ」と太鼓判を押しているのに、最近では3楽章交響曲のように真面目に演奏するのが一般的だ。5月には後のピアノ協奏曲の第1楽章を担う作品も完成され、交響曲第4番ニ短調op120の原型まで誕生した。

 このニ短調は9月9日に完成し、9月13日のクララ22歳の誕生日に歌曲と共にプレゼントして、まだまだ新婚のお熱いところを見せつけた。そして12月6日に初演されたが、その時リストと妻のクララがピアノで共演して、大喝采を引っさらってしまったのが原因か、あまり評価が芳しくなく、自身不満の点もあったようで、その後再演も出版もされなかったのである。

 さらに1842年は室内楽の年である。またまたクララにそそのかされて、懸命に古典派の弦楽4重奏などを学習しながら、3つの弦楽4重奏曲op41、ピアノ5重奏op44やピアノ4重奏op47、さらに3つのピアノ三重奏曲など沢山の室内楽曲を完成させた。

ご乱心?

 1843年、シューマンと親しいメンデルスゾーンがやってのけた、評論で音楽を啓蒙するシューマンに対して、彼は資金調達をして自らライプツィヒ音楽院を創設。わずか34歳の校長先生として、シューマンをピアノとスコア・リーディングの教授に迎え入れたのだ。栄光の3年間に大量の作品を書いたシューマンも、いよいよ安定した時期を迎えるのかと思えば、残念ながらこころの切ないご病気がかんばしくなくなって、ここから先は、作品の数はずっと少なくなってしまうのである。ただし、傑作が目白押しなのも確かである。

 まず1844年、クララの演奏旅行に付き合ってロシア巡りをしたのだが、妻の名声ばかり高まって背負われる夫の重圧が高まったのか、ロシアで妻のマネージャー扱いされたのか、単に梅毒の症状の一環なのか、それとも精神的にナイーブな家系に過ぎなかったのか、その頃から鬱病症状がひどくなり、同年ライプツィヒを離れてドレースデンにお引っ越しを果たした。

 ドレースデンへの移転は、当面プラスに作用した。ピアニストから指揮者まで熟す作曲家のフェルディナンド・ヒラーとも知り合って、翌年45年には、かつて作曲した「ピアノと管弦楽のための幻想曲イ短調」(1841)に2楽章と3楽章を加え、ピアノ協奏曲イ短調op54を完成させてしまうのである。同年ヴァーグナーとも知り合い、バッハの対位法作品を勉強して作曲の向上と魂の立て直しを図ったと言われているが、この年から翌年にかけて交響曲第2番ハ長調op61が作曲完成された。しかし残念ながら魂の方はバッハでは回復せず、一時は交響曲第2番の作曲を中断するほど悪化したが、何とか乗り切って46年の11月5日に、メンデルスゾーン指揮ゲヴァントハウス管弦楽団で初演を向かえることが出来た。

 しかし1847年には、口を利かないほどの、引きこもり状態に陥ってしまった。(これは現代の引きこもりのルーツではないようである。)長男が5月に亡くなって、11月にはメンデルスゾーンまで天に召されてしまったのだ。(シューマンはもしかしたら43年頃に梅毒の症状が脳みそに浸透し始めて、精神状態を不定期に陥れたりしながら、しばしば精神不安定の波にさらわれながら、傑作作品を書き続けたという説もある。)いずれ彼は、この1847年に、2つのピアノ3重奏曲(op63,80)を完成させ、デュッセルドルフの音楽監督に就任したヒラーの後任として、合唱団の指揮者の役割を引き継ぎ、翌年初めには、「合唱協会」を立ち上げているのだから、立派に仕事をこなしつつ、魂が震えたりなんかしていたのである。(仕事と病の両立)

最後の輝き

 症状の軽くなった1848年、シューマンはただ1作品のオペラ「ゲノフェーファー」op81を完成。中世フランク王国の逸話を扱ったそのストーリは、台本も自分で書き音楽を付けたもので、ヴァーグナーから影響を受けたのかも知れない。しかし残念ながらヴァーグナーのようには成功を収めることは出来なかった。同年、バイロンの「マンフレッド」による劇の為の付随音楽「マンフレッド」op115も完成させ、これは52年に初演となる。

 しかし、48年にフランスで勃発した2月革命は、ヴィーン体制を完全崩壊させる狼煙を上げ各地に伝播。彼の居るドレースデンも革命の不穏が騒がれ、自分の精神状態で精一杯の彼は、革命の息吹には賛同するものの、魂が落ち着かなかったらしい。

 49年には、ゲーテ生誕100年記念祭のために「ファウストからの情景」(開始は44年で完成は53年だそうだが)の作曲を続け、ピアノ曲としては一度は子供に習わせたい、いや習わせなければならない「子供ためのアルバム」(op68)、それから「森の情景」(op82)という傑作も生み出した。けれども、やっぱり体調を崩し気味なので、まず1849年の夏には、少しばかりドレースデンを離れて、居住地を変えながら、同時に革命に加わってドレースデンを逃れたヴァーグナーの後任として、ザクセン王国宮廷劇場指揮者のポストなんかも狙ったりしていたが、1850年に初演されたゲノフェーファーでは、全然ポストに近づくことが敵わなかった。結局1850年のうちにフェルディナント・ヒラーが招待して、デュッセルドルフの管弦楽団および合唱団の音楽監督に就任した。この移転は彼の魂に良い影響を与えたようだ。

 なぜなら彼は、9月に到着すると11月までにチェロ協奏曲イ短調(op129)を完成し(ただし初演は死後の1860年)、交響曲第3番変ホ長調op97(「ライン」の名称は当人が付けたものではない)に着手したからである。11月始めに開始して僅か1ヶ月で完成させた後、翌年2月に自分自身の指揮で初演を行なう。これは完成度の点では、彼の交響曲の中で最も高いと思われる。そしてその51年、一時放棄していた41年のニ短調交響曲を改訂したのである。これは53年に初演され、本人の希望に反して出版社から交響曲第4番ニ短調op120として送り出された。その51年にはピアノ3重奏曲(op110)や2つのヴァイオリン・ソナータ(op105,op121)も完成させている。

 その間にも52年にはレクイエム変ニ長調op148を完成、他にもミサ曲ハ短調op147など大作合唱曲が生み出されるが、53年には言動に不備が目立ち、魂の病が原因で指揮者の役割を全うできず、楽団員から不満が上がり、遂に11月に指揮者を辞任させられてしまった。しかしこれは、地域社会の疎外性といった意味があったのかも知れない。クララも日記の中で、何て卑劣な人達でしょうと楽団員を非難している。この頃作曲された「ヴァイオリン協奏曲」は、生前演奏されることもなく、「ちょっと病んだ傾向のある作品」としてシューマンに相応しくないとして隠されてしまったのが、1937年になって発見された。この作品は、友人の大ヴァイオリニストであるヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)がベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏するのを聴いて、53年10月3日からわずか13日で完成されたのだが、これをヨアヒムに献呈したところ、彼はこれを公開で演奏せず、出版も許さなかったという。恐らくラインに飛び込んでしまったから、世に送り出しちゃいけないと思ったのだろう。

ライン下り

 その少し前、1853年9月30日に一人の若者が訪ねてきた。しかしシューマンが居なかったので翌日もう一度来て、自作のソナタを演奏してもじもじするのは例のヨハネス・ブラームス(1833-1897)である。これに対してシューマンが久しぶりに評論に手を出し、「新しい道」としてブラームスを賛えきったのは、今日でもクラシックファンの恰好の逸話になっている。
「勝利の月桂冠が彼を待っているだろう」
と言って大笑いする不届きものが居るくらいだ。さらにシューマンと弟子のディートリヒにブラームスを加えて、3人が合作して書いたソナータ、「F.A.Eソナータ」(フライ・アーバ・アインザム「自由にされど孤高に」というヨーゼフ・ヨアヒムの座右の銘を込めてヨアヒムに捧げられたから、実際は4人の魂が込められているとか。)なんていう変わりものも作曲された。



 しかし遂に来てしまった。その時がやって来てしまったのである。1854年2月27日、幻聴と耳鳴りに眠れぬ夜を過ごしていたシューマンは、事もあろうにカーニバルの仮装行列などが出発するローゼンモンタークの日に合わせるように、家族が目を離した一刹那、突然夜の雨の中をアパートから飛び出して、パジャマを着たままで走り出して、一目散にラインを目差して、ライン川を見下ろした。果たして何を見たものか、彼は酔っぱらいのようにクララとの婚約指輪を川に投げ込んで、それから自分自身を、川に放り込んでしまったという。

 運良く船に救い出された彼は、自宅のベットで自ら懇願して、ボン・エンデ二ッヒの精神病院に入ることになったのである。まさか、「サイチェン、また遭おう」(by宣統帝)とは言わなかっただろうが、直ってまた帰ってくるといって彼は病院に移っていった。ああ、シューマンよ、君はラインに何を見たのか。

 シューマンが病院送りになった時のカルテが発見され、これには梅毒の症状が、医者なら分かるぐらいに記入されているそうだ。しかもクララは、梅毒だと知って非常なショックをうけてしまい、医者から感染するかも知れないから面会謝絶だと告げられて、複雑な気持ちで2年間精神病院は訪れなかったという。

 シューマンは、地位の高い人達が入るような精神病院で、時折知人のブラームスやヨアヒムらと面会し、手紙の遣り取りもしていたが、一方では錯乱してうわごとを言ったり、幻聴が聞えて苦しんだり、しばらくじっと留まっていたかと思えば唐突に、あるいは情感を込めてピアノを弾きまくったり、魂の震えが一進一退を繰り返し、とうとう最後には危篤状態になり、クララの元に電報が走った。

 1856年の7月27日に知らせを受けたクララは、ようやく彼を見舞うことが出来たが、その直後の1856年7月29日に、ローベルト・シューマンは天上に昇っていったのであった。ウィキペディアを見ると、クララの日記には最後の訪問の様子が書かれていて、その最後の言葉は、ワインを指に付け夫にしゃぶらせるクララを力のない腕を必死に絡ませて抱き寄せながら「僕には分かるよ(Ich weis)」と呟いたのだそうだ。

2006/10/16
2006/10/18改訂

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