ローマ帝国、初期キリスト教の音楽上

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選別の儀式

「さて、皆さん。これからいよいよヨーロッパに話しを移しつつ、キリスト教から西洋音楽が派生してくる所を見ていくことになるわけですが。当然その始まりは、イエスの死後弟子たちが教会を発足させ、各地に伝道を開始する所から、ローマ帝国の繁栄と衰退を交えてお送りしなければなりません。

 たとえ契約の時間が過ぎてしまい、2千年先の時代に戻れなくなってしまったとしてもです。ヨーロッパとキリスト教音楽の形成が分らなければ、ここまでやってきた甲斐が無いじゃありませんか。そんな中途半端なままで元の世界に帰るくらいなら、先生はむしろこの音楽史誕生の荒野で砂埃に打ちのめされた方が遙かにましです。ですが、皆さんは、そこまでの思いなど持ち合わせていない、親の金貰ってだらだら教育生活を満喫していたいような甘ったれた坊やたちに過ぎないのですから、無理に私の講義に付き合わなくてもかまいません。しばらく考える時間を上げますから、私と共に行くか、おうちに帰ってコタツミカンになだれ込むか、各自よく考えて下さい。1時間後に、脱落を試みる者たちを、たやすく教室に返して差し上げましょう」

 先生は、別に残って欲しい素振りもなく、私たちにこう告げた。2学期に入ってから、到底普通の授業ではなくりつつある私たちの音楽講義も、ついに命を懸けた音楽決死隊の決起にまで追い込まれたようだ。先生、そんなことを言って、誰も残らなかったら、一人で旅を続ける気なのだろうか。まあいい。私としては下らない毎日が繰り返されるあの退屈な世界に帰るくらいなら、先生と共にどこまでも音楽史をさまよい歩いていた方が、生きている甲斐があるようなものだ。ただし、早いところどこかに記述でもして記録を残さないと、ボイスレコーダーのメモリーが底を尽きるのは時間の問題だ。幸い鞄の中にはいつもシグマリオンを持ち歩いているから、しばらくはそちらにデーターを転送しながら、シグマリオンに記述を加えることも出来るかも知れないが、どっちにしろバッテリーが切れたら充電のしようがない。

 私が、困り果ててこっそりボイスレコーダーとシグマリオンを接続していると、なんたることか先生が後ろから覗いて居るではないか。
「君、そんなものでこっそり講義を採取していたのですか」
しまった、私としたことが何というへまをしたことか。お優しい日本の先生にばかり慣れていた私は、没収の一言をさえ頭に浮かべた。
「すばらしいじゃないですか」
しかし、先生の頭には、そのような下らない島国育ちの感情はまったくないようだ。
「何をこそこそ隠しているのです。気にせず、どんどん講義を採取して、書き写して、知識を自分のものにしなさい。先生は、そのために講義を行っているのですから」
私は、先生の心の広さに感じ入り、隠し撮りをわびると同時に、バッテリーが無くて採取は困難であることを告げた。
「そんなことなら、心配に及びません」
先生は、超ハイテク兵器のラブドスを取り出して、ボイスレコーダーにちょっとばかり触れた。ラブドスが黄色く輝き、その瞬間にボイスレコーダーのバッテリーが満タンになった。
「燃料でしたら、いくらでもラブドスが差し上げましょう。あなたは、気にせずじゃんじゃん講義を採取して、暇さえあればそれを記述しなさい。まあ、付いてくる積もりがあるのならの話ですがね」
「もちろん、ついて行きます」
私は、珍しく向きになって答えてしまったのだが、先生は嬉しそうに笑うと向こうの方に行ってしまった。
「さて皆さん。今から、残りたい人と、帰りたい人を選別しますから、どちらかに挙手をお願いします」

 こうして、最後に残った音楽決死隊生徒8名、もちろんその中には私も入っている。先生は予想以上に参加者が多かったのに大喜びの様子だ。残りの者たちは、ラブドスの光に目が眩んでいるあいだに、私たちの前から消えてしまった。ふん、勝手に下らない生活に帰るがいいさ。私は思わず日頃に似合わないような熱き感情が沸き起こってしまったらしい。

初期教会と伝道の開始

「さて、初めは歴史を駆け抜けてざっと中世を見渡す積もりだったのですが、こうなった以上は大地を這うようにひた向きに進んで行くことにしましょう。そうするとまず気になるのは、皆さんが眠りにつく前に見た、イエスの復活がなされた後の弟子たちの活動になりますね。もちろん歴史書からの引用ではありません。聖書の内容に基づいて話を進めているのですから、そこだけは弁えておいて下さい。
 先ほど自分の意志だけで、何者にもそそのかされることなくイエスを裏切ったユダは、その後すぐに大後悔時代を迎え、首を吊ってこの世に別れを告げてしまいました。しかし、イエスは復活したのです。復活してガリラヤに戻ったイエスから
『あなた方は行って、すべての国民を弟子とし、父と子と精霊の名によって、彼らに洗礼を施して、護るべき事を護るように伝えなさい』
と言われた他の弟子たちは、すぐさまイェルサレムに戻ると、イェルサレム教会を設立して教えを広め始めるのです。
 そんなある日のこと、イエスの処刑されたペサハの祭りから50日たった頃、ユダヤでは次の宗教的大祭であるペンテコステが始まっていました。弟子たちが、皆一緒に集まっていると、激しい風が吹き抜けるような音と共に、まるで舌のような小さな炎が弟子たちの頭上にそれぞれ遣ってきて、頭の上を跳んだり跳ねたりしています。ついつられて、一緒に跳ね回っていると、弟子たちはいつの間にかあらゆる国の言葉でそれぞれが話せるようになっていました。丁度、ラブドスの全球翻訳のシステムが天上から下されたようなものです。
 こうして、キリスト教が各国に伝道されるための下準備ができました。この突然に各国言語で話し出すという事件の衝撃が、エルサレムを駆け巡ったかどうかは知りません。次第に話を聞きに集まるユダヤ人たちに向けて、
『あなた方はそれぞれが聖なる方を見捨てて殺してしまった罪人である、しかし主は約束を果たし蘇ったのだから、この上は悔い改めて信仰を開始するべきだ』
と弟子たちは語り始めました。
 もちろん、ユダヤ教の宗教関係者たちが彼らを捕らえたり、議会で弁明させたりと弾圧を計ります。しかし、やはりイエスの死と復活が最大のキーポイントだったのでしょう、もはや完全に弾圧することもできず、むしろ民衆を恐れてなかなか手を打てません。こうなったらと使徒たちをまとめて投獄してみれば、何時の間にやら聖なる力で外に抜け出してしまって、ゆとりを持って教えを説いている始末でした。
 それに合わせて、教会の預言者や伝道者も増え始めます。我慢できなくなったユダヤ教徒たちは、ついに伝道者の一人ステパノが議会の人々を前に、誤った人々を殺すユダヤ人たちの愚かさを説いた時、怒りにまかせて裁判も審判も関係なく、彼に石を投げ付けて撃ち殺してしまいました。
 これを聞いて、
『してやったり』
と大喜びで祝杯を挙げた一人の若者が居ました。名前をサウロ(パウロ)。ローマ帝国内で破格の待遇を保証されるという、あのローマ市民権を持ったユダヤ人で、熱烈なユダヤ教の信者でした。彼は、ユダヤ教会の過激な信徒として、この機会にイエスの教えを根絶やしにしようと、エルサレム教会の迫害に参加し、とうとう多くの信者たちは、迫害を逃れて各地に散り散りになってしまうのでした。さらにそれを追いかけ回して、各地の伝道拠点と信者の集会を襲撃しては、暴れ回っていたサウロ。ほら、あそこにいる若者がサウロですよ」

 先生はいつもながらに唐突に、はるか遠くの崖沿いの細くうねる小道を指差した。馬に乗った威風堂々たる若者と、ユダヤ教の宗教的兵士たちが獲物を求めて次の町に向かっているらしかった。

「ほら、後ろに引っ捕らえた綱付きの行列がイエスの信者たちです。こんどはダマスコという町に出掛け、同様に獲物を男女平等に引っ捕らえてエルサレムに連行しようという魂胆でしょう。それにしても、若いせいか随分と己惚れて高らかに歌など歌っているじゃありませんか。調子に乗りすぎです。主の言葉を聞くまでもない、ラブドス、一つ懲らしめて差し上げなさい」

 ラブドスは、3回続けて回ると、シグナルを赤に変えて大喜びで獲物の方に向かっていった。ラブドスに付け狙われたのでは、サウロも可哀想に、逃げることなど出来るはずがない。案の定、ラブドスはサウロの近くにこっそり天空から近づくと、いきなりすべての色彩が白色に変じたかのような壮大な光をサウロに投げかけたたのである。
 サウロは目を潰して、馬から転げ落ちて、驚いた馬の後ろ足で蹴飛ばされ、みぞおちに直撃して吹っ飛ばされた。苦しく叫び漸く立ち上がったサウロに、ラブドスが、足の小指めがけて巨大な石を投げ付けたので、サウロは『そこは駄目よ』の急所を打ちのめされて、大地を転げ回って涙する。非情のラブドスは、天空高くから万国共通言語でサウロに話しかけた。
 「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」
 サウロは泣きながら誰だ誰だとわめき散らしている。周りの兵士たちは皆、我先にと逃れてしまった。ラブドスは、誰かと問われて答えないわけにはいかないだろう。
「私は、あなたが迫害しているイエスである」
……本当はそうじゃないのだが、「私は、ラブドスである」などと言おうものなら、歴史が崩壊してしまうのだから仕方がない。ラブドスは楽しそうに主の声をエンジョイしているようだ。
「立って、ダマスコの町に行きなさい。そこでなすべき事が伝えられるだろう」
ラブドスはそう言うと、目映い光と共に天空から消えてしまった。周りの者たちは皆、光でその姿が見えずに恐怖したが、何のことはない、私たちの所に帰ってきただけのことである。



「こうして、目の潰れたサウロは、ダマスコの町に転がり込み、そこで主の言葉を聞いたアナニヤという男に視力を回復して貰うとあら不思議、宗教的にも目が開いて熱烈なイエスの信奉者になっていたという、キリスト教にとって重要な一コマが演じられるわけです。
 この時に目から、鱗のようなものがひらりと舞い踊ったと言う記述から、目から鱗という諺が生まれてきました。こうしたことは皆、福音の後に控える『使徒行伝』に書かれているものですが、この後サウロは、初め恐れられながらも徐々にエルサレム教会でも認められて、アンティオキア教会を拠点に伝道者の地位を任されていくことになるのです。
 そして、功績が定まった後から書かれた事も関係していますが、使徒行伝では伝導のもう一人のヒーローである、ペトロが主の暗示された意味を解き、異教の徒であるローマ軍隊百卒長コルネリオへの洗礼を行い、そこからエルサレム教会で、割礼などを行わなくても異教徒に洗礼を授けて差し支えないと定められるなど、異教徒への伝道の本格化の下準備が次第に整い始めます。
 使徒行伝の11では初めてアンティオキアに置いてクリスチャン、つまりキリスト教徒という言葉が使われたと記述が加えられ、使徒行伝の後半では、サウロに焦点が完全移行し、サウロが実際に異教徒への伝道を行っていく様子が、生き生きと描かれていくのです。サウロは伝道の途中、ユダヤ教徒に捕まりますが、ローマ市民権を持っているという事実に助けられ、ローマに連行され、それがローマでの布教に繋がって使徒行伝を終えています。
 従って使徒行伝は、初めからローマへの布教を正当化し、国際的宗教にキリスト教を発展させるための布石として考えられて著述されたものなのかも知れません。そして、聖書には著述のないものの、聖書外の著述として人々がこよなく愛した逸話として、同じようにペトロもまたローマに伝道に出掛け、そこで殉教したという伝説が残っています。もちろん、聖ピエトロ大聖堂はその逸話に基づいて、聖なるペトロの教会とされているわけですが、この辺で私たちも、その頃のローマに話しを移してみる必要がありそうです」

 先生が杖を一振りすると、私たちはラブドスの光に乗ってローマに向かった。

ローマ帝国へ

「危ないです。下がって下さい」
 先生が私たちを押しのけると同時に、慌ただしく2頭立ての粗末な馬車が、箱のようなものを乗せて私たちの前を通り過ぎる。あっと思ってどいた体にぶち当たって、若い男たちが「邪魔だ邪魔だ」と押しのける。なにやら、細い路地の両側にレンガの4階、5階建ての建物が建ち並んで、白布を巻いただけの男たちやら、カラフルな色で着飾った若い女性やら、半分裸で荷物を運んでいる肌黒の泥だらけがそれぞれ勝手に狭い通りを歩き回り、あるいは仕事をこなす間を、馬車が通り抜けて、大変な賑わいを見せている。気が付けば、私たちの服装も、羊飼いの衣装から、一転してローマ人としてよく紹介されているような、白い布きれの服装に変わっていた。先生は、人々を押しのけながら、先に先にと歩いていく。私たちは必死で後を追った。先生は大声で私たちに話し出す。



「まだ昼を過ぎて大して時間も経っていませんが、朝から昼までが労働時間のローマでは、すでに遊びに出掛けるものと、帰宅するもの、仕事など持ち合わせていない多くの無給ローマ市民に、働くことに事欠かない奴隷たちと、様々な人々が渾然一体として喧騒の街角を作り出しているようです。この両側に立ち並ぶ高いマンションの狭い一室が、この通りを歩き回っている人たちの多くの住みかなのですが、そんな部屋の中に閉じこもっているものは、まあ例外でしょう。家庭内職人でもない限り、眠る時以外は、働くものも働かざる者も、朝から日の暮れるまで市内に出て活動しています。どうです、いろいろな人たちが居るでしょう。この辺りはそれほどの裕福層ではない類似階級の人々の固まりなのですが、大体顔立ちや髪や皮膚の色の違うのが沢山いるでしょう。私たちは今、ちょうどネロ帝(54-68)が活躍する紀元64年にやってきたのですが、この頃すでにローマの人口は100万人を超え、おそらく110-120万人にたちしていました。すでに本来のローマ人などよりも諸都市、諸外国から流入した圧倒的な混合民族がローマの構成員でした。
 あるものは、イタリアの諸都市から、またローマに多大な影響を与えたギリシア人たちが、さらにエジプトやシリアのようなオリエントや、逆にゲルマンの漲るガリア地方から、多くの人々が集まっていました。ローマ市民権の拡大の結果、このような人たちは多くがローマ市民であり、仕事の無いものでも家族ぐるみで無料で穀物を受け取ることが出来るわけです。
 当時およそ総人口の1/3から1/2もの人々が、この穀物配給のお世話になっていたと推定され、彼らは「パンとサーカス」という言葉があるように、食料だけでなく、各種の見せ物などまで皇帝から保証されていたのです。
 さらに、総人口のうち、おそらく1/3ぐらいは奴隷たちであり、他にローマ市民権を保有しない外人と、首都警備の兵士たちを除くと、普通の意味で経済的に自立している人々の数は、家族合わせてたったの10万から多くても2,30万という、いわば遊び人の都になってしまうのです。しかも、自立している人たちの大部分は、無料で食料を貰える人々とそれほど大きな差のない経済状況であり、その一方でほんの2千人から3千人ぐらいの巨額の豊を蓄えた別次元の人々が、ローマとして思い起こされるような想像を絶する贅沢な暮らしを謳歌している。この圧倒的な矛盾こそ、このローマだったのです。こうした、裕福層は中核に600人からなる元老院議員、そして騎士身分を持つ者たちがいて、その頂上には皇帝が控えているわけです」

 先生は、ラブドスで投げやりに周囲の人々を払いのけながらお構いなしに話しを続ける。知っている言葉は訳の分からない外国語よりも遙かに聞き取りやすいという、カクテルパーティーを大いに活用して喧騒の講義をお送りしているわけだ。

「そして、こうした数少ない大富豪こそ、帝国各地に膨大な農業のための土地を所有し、奴隷たちを大量に導入して大規模経営を行う当事者たちでした。そして、彼らは巨額の豊を一手に引き受け、それを資本にローマでソドムとゴモラの再現を演じきったわけです」
「ソドムとゴモラ」
生き残って付いてきた三四郎が、またしても一言呟いた。すかさず先生が突っ込みを入れる。
「君、オウム返しじゃ全然役に立ちません。一言呟くなら、ソドムとゴモラに対して、「快楽重ねて放蕩の」と続けるのです。いいですか」
 三四郎が頷いたので、先生はもう一度
「ソドムとゴモラはユダヤの町よ」
と問いかける。三四郎が言われた通りに
「快楽重ねて放蕩の」
と呟くと、先生がラブドスを振り回しながら、
さらに答えて
「天罰下りて燃えに燃え、
崩れ落ちたる炎の中で、
ロトは逃げたる、振り向きもせず」
と高らかに唱えたので、
にやりと笑った秀才君が
「妻は振り向き、塩の柱か」
と締め括った。ほら見たことか、変な見せ物が始まったのかと、ローマ市民たちが集まってきてしまったではないか。先生は調子に乗ってラブドスを光らせて、拍手喝采を浴びている。まったく困ったものだ。



「こら、お前たち、そんなところで興行をしてはいかん」
 聞き慣れた声が聞こえたかと思えば、前回の講義で先生に言われて消えていなくなったパルティア・オリバナムが立っているのだ。おまけにローマの見回り兵の恰好をしている。
「こら、そこの赤い羽織もの!お前たちも、そんなところでサイコロ博打をしてはいかん!」
 オリバナムは事のついでに近くを占めていたサイコロ集団を追い払うと、私たちの方に戻ってきた。
「失礼した。すこし時間に遅れたようだが、ローマはあまりにも人が多すぎる。しばらく迷える牡羊になってしまったのだ。だが、そのおかげでこれを買うことが出来た。気を悪くするな」

 オリバナムは、パンとチーズの固まりの入った箱を取り出し、皆に見せた。沢山のパンが膨れて重なっていて、大変美味しそうだ。それを見ていたら、何だか急にお腹がすいてきた。先生は、液体の入った瓶を見つけると、途端に目を輝かせて声が一層張りを増した。
「それは良い、もう私たちの時間にして3時ぐらいにはなる頃です。高層貴族たちが想像を絶する食卓を開始するのもこのぐらいの時間でしょう。私たちも、慎ましい食事をしても良い頃です。もう少し行くと、フォロ・ロマーノですから、列柱の端でも借りて食事をして、それから講義の再開と行きましょうか」



 先生は急に歩きも元気になって先に先にと行くので、私たちも懸命になって後を追いかけた。何時の間にやら、広い空間に壮大な建物の建ち並ぶ大きな広場に出てきたようだ。

「さあ、先に見えるのが噂に名高いフォロ・ロマーノ。ローマの政治の中心地であって、周辺には商業の中心も抱え込み、ローマ帝国全体の最重要地点であると言っても構いません。もともとローマで公共広場のことをフォールムと言いますが、このラテン語にしてフォールム・ロマーヌムは周囲に柱を張り巡らせ公共の集会場であるバシリカ建築や、ギリシアとエトルリア建築の影響を元に生まれた壮大なローマ神殿群、政治を行う建物や、数々の凱旋門を配し、その周辺に浴場や図書館、商業センターなどを配備しています。このような都市中心部の形成は、各地に建てられるローマ植民市で模倣され、ローマ型の一連のフォールムの原型はここから始まっているわけです。
 覚えていますか、こちら側に来る前の教室での講義で、ローマがティベレ川のクネッと曲がった部分の東側、カピトリーノの丘とパラティーノの丘周辺から始まったことを地図を見ながら説明したでしょう。フォロ・ロマーノはちょうどその2つの丘に挟まった部分にあたり、初めは湿地だったのですが廃水処理をして公共の広場とした所が、都市の中心部となっていったのです。ちょうど前にスライドを見せた、ギリシアの丘上にある神域アクロポリスと公共広場アゴラを思い起こして頂ければ分かりやすいでしょうが、ほら、さっきから何度も目に付く丘の上の壮大な神殿があるでしょう。あれが、カピトリーノの丘に立つユピテル神殿なのです。まあローマの宗教的中心部と言えるでしょう」

 先生のそんな話しも上の空で、己惚れさん状態で上ずった私たちは、壮大な石造りの柱立ち並ぶ建物や、数多くの大小様々に形どられたオブジェや、高くそびえ立つ柱の上や神殿らしき建物の上から私たちを見下ろす神々の像や、ずんぐりと構える凱旋門に圧倒されて、あちらの目線がこちらに移り、上向き下向き目が回るまで、首をひねってはきょろきょろしていた。相変わらず沢山の人がいるが、さすがに広い空間がそれを吸収してゆとりがあるようだ。

「ほら、直ぐ左手に柱が一周円状に連なっている建物がありますね。他の巨大な建物に較べれば、幾分かわいらしく見えますが、そこがヴェスタの巫女が聖なる火を護るヴェスタの神殿です。
 ヴェスタというのは、ギリシア神話で言うところのヘスティア、つまりかまどを護る守護神で、ローマに置いては非常に重要な女神と見なされていました。それぞれの家庭のかまどを守り、その火を絶やさない生活の永続を意味し、この神殿に燃える聖なる炎が消えると恐ろしい災いが降りかかるとされていたのです。残念ながらここからでは見えませんが、この神殿は6人のヴェスタの巫女たちによって護られていました。彼女たちは少女の頃から隔離され、男性と関わらない宗教的な儀式満載の巫女生活を30年間続けなければならなかったのですが、その代わり公式の行事などでは皇帝に次ぐ席が与えられるなど、最高レベルの特権も付与されていました。
 ほら、そのヴェスタの神殿の直ぐ後ろが巫女たちの生活の場所となっています。それでは先に行きましょう。修飾豊かな凱旋門が見えていますね。このアウグストゥスの凱旋門を抜けると、左に見える巨大な神殿がカエサルの神殿、この辺りの建物はカエサルが考えたフォールム改造計画を元に、オクタウィアヌスが建造した、出来たてのほやほやです。オクタウィアヌスは都市計画の一環としてこのフォロ・ロマーノ一帯を改築完成させると共に、ローマの街を14の地区に分け、都市計画を進めました。しかし先ほど通ってきた密集したマンション群などは人々の居住地であり、都市計画と言っても簡単に変更が加えられない状況でした。ああしたマンション群は骨格に木を使用した物が多く、おまけに木の部分を外に張り出して使用していたことなどから、火事が起きるたびにゆとりを持って炎上して、その度に大災害を引き起こしていたのですが、これから見ていくネロ帝の大火災によって中心部を中心にローマの1/3が焼失して、それが幸いして、幅広く周辺部まで都市計画が完成されることになるのです。偉大なるローマはオクタウィアヌスではなく、ネロ帝が完成させたのかも知れませんね」



 先生は、なんだか一人で勝手に笑っているが、ネロ帝のなんたるかもろくに知らない私たちは幾分途方に暮れるばかりだった。

「さて、反対の右側に目をやってみましょう。更にどでかい神殿が階段の上に横並びの柱も美しくそびえていますね。これはカストールとポルックスの神殿です。ローマが一時屈服していたエトルリア人専制王制を倒し共和制を獲得した時に建てられた神殿で、この時ギリシア神話でお馴染みの双子の神、2人合わせてディオスクーロイ神が助太刀をしてくれたという伝説が残っています。
 この柱の形は、先ほどからよく見かけるでしょう。これはギリシアからヘレニズム世界に広がったいくつもの柱のタイプのうち、ローマ人のお気に入りだったコリント式というタイプをローマ式にアレンジしたもので、特に好まれて使用されました。
 こうした神殿自体が、ギリシアや、かつて支配されていたエトルリア人の建築の影響下に作られているのですが、一方、真にローマ的な建造物もあります。例えば先ほど通り抜けた凱旋門がそうですし、公共浴場や円形闘技場などは皆ローマで発たちした建造物です。
 考えてみれば、格子のような道路に上下水道と公共広場、浴場、劇場などを計画的に配したローマ的な都市計画そのものが、この時代に初めて行われるようになったのです。我々は遠くその恩恵にあずかっているという訳です」



「それから、この先にもローマ的な建物がありますよ。ほら、神殿の奥に壁がアーチ型にくり抜かれたような形で柱が並ぶ建物が見えているでしょう。あれはバシリカという建築物で、やはりローマ的な建物なのです。これは様々な集会場として使われたのですが、後にキリスト教徒がこうしたバシリカ建築を利用して活動を行っていたことがあり、それが元で中世のキリスト教バシリカ建築へと引き継がれていくのです。なかなか、壮大な話しですね。このバシリカは、ユリウスという名前が付けられています。そして、ほら、向かい合った反対側にも同じようにバシリカ・エミリアが立っていますね。
 その向こうに遠く見える小振りの建物が、今では皇帝お抱えの集団に成り下がってしまった、元老院の議事堂。嘗ては元老院議員たちこそが、ローマ政治の中心だったわけです。君たちの中に海外旅行でローマに行った人はいたとすれば、ローマのマンホールのふたに「S・P・Q・R」と刻まれているのを目にしたかも知れません。あれはローマ帝国の正式名称である『ローマの元老院と民衆』の頭文字なのです。
 少し前カエサルの時代まで、元老院は名実共にローマの最高権力機関でした。おや、ちょうどサトゥルヌの神殿の手前が静かそうですね、このオブジェの柱の影に敷物でも敷いて食事にしましょう。私たちは当然あれでね」



 先生の押し寄せる情報量を物とせず、先ほどから周辺ばかり見渡している私たちが漸く先生の方に首を向けると、先生は兵士姿のオリバナムに対して、一目で酒をよこせと分るようなジェスチャーをした。オリバナムは大きく剣を胸に当てる。
「もちろん抜かりはない」
 大きな入れ物を地面に降ろし、敷物を広げると、オリバナムは先ほどの液体の入った入れ物を先生に渡し、箱を開けて私たちにパンとチーズ、それからリンゴとブドウを配ってくれた。
「君たちも、成人に到たちしていればワインを上げましょう。ただし、講義の最中ですから、ちょっとだけですよ」
 しかし私たちは、一斉に、
「日本国憲法はもはや我々には及ばないのだ」
と反論したので、呆れた先生は笑いながら私たち全員にワインを飲ませることにした。腹の減った私たちが異国の物を警戒するゆとりもなく口の中に投げ込むと、腹の欲求が強いせいか非常に美味しく感じられる。隣でピアスが
「おれたち今日からローマ人!」
と訳の分からないことを言って皆を笑わせているが、まさか1杯の酒で酔った訳じゃないだろう。



 注意も受けずローマの中枢で食事を楽しんでいると、仮面をつけた男が何人もの男たちを従えて来て、皇帝も使うという演説台の近くに群がっている。やがて彼らは、それぞれに笛のようなものを取り出し、私たちの近くでいきなり楽器を演奏し始めた。
「これはいい、パントミームスの一団が練習を始めました」

 笛の中でも特徴のある2本同時に咥(くわ)える奴は見覚えがある。あれはギリシアの講義で説明を受けたアウロスに違いなかった。他の笛や、太鼓やら、鈴のようなものは皆目名前が分からない。ローマ版の笛の総称はティービアだとか言うから、とにかくティービアが鳴り響いていると思っておこう。そんなことを考えていると、仮面をつけた男が次第に豊かなジェスチャーを交えて踊りだし、楽器の伴奏に合わせて男たちの合唱が始まった。

「もともとミーモスmimos劇(ラテン語ではミームスmimus劇)というものはギリシアで行われていた、軽業や寸劇、物まねを取り入れたような軽い劇だったのですが、やがて一種の芸術的ジャンルとして確立され、喜劇的な出し物として流行していました。ローマでは日常的で現実的な要素をおおいに取り入れて、劇の出し物としてギリシアの悲劇などよりもはるかに人々の喝采をさらっていたのです。
 さらにこうした劇の役者たちは貴族や皇帝たちに抱え込まれ、夜通しのお騒がせ祝宴や、宮廷内の様々な事件の重要な構成要因となって活躍しました。一方、このミーモス劇を元にして、ローマにおける独自のジャンルとして、更なる進化を遂げたものが、台詞による劇の進行の替わりに、俳優のジェスチャーとダンスと音楽によって、神話の場面などを表わした、総合舞台芸術であるパントミームス(pantomimus)です。
 特に紀元前22年にピュラデスという人が大合唱と器楽を伴った大形式の総合芸術に仕立て上げてから、ローマにおける花形芸術のトップに躍り出ました。俳優はあのように仮面をつけ、それを交代することによってさまざまな役を演じていくのですが、見て分かるように常にソロの歌と合唱の歌が場面ごとに効果的に配置され、器楽の伴奏がそれを支え、場面ごとにさまざまな創作を凝らしたダンスが絶えず付き従う、これは一種の舞踏芸術であり、音楽芸術だったわけです。
 ローマの音楽は、この後キレイさっぱり消えてなくなってしまいますが、実際にはこれまで見てきたどの文化よりも音楽にあふれていたといってもいいぐらいです。舞台に限らず、叙事詩には音楽が付けられた例が幾つもありますし、上流階級の少女たちは皆、歌と踊りの練習に多くの時間を費やしました。
 例えば、アウグストゥスの葬儀では少年少女が葬送歌を合唱し、神々の祭日には9人ずつ3組の少女たちが行列の先頭で、賛歌を歌いながら行進していました。彼女たちは、ギリシア人たちのようにキタラーの演奏を通じて音楽を学び、君たちがピアノを習うのと同じように、キタラーや歌、さらに踊りの練習に熱を入れたわけです。
 一方でギリシアや諸外国から、数多くの専門の音楽家たちがローマに流入して、ローマは文化都市、音楽都市としても当時の中枢にあったわけです。もちろん、日常においても刈り取りの歌や、哀悼の歌、子守唄やら婚礼の歌などさまざまな歌が歌われていました。そして忘れてならない、もう一方のローマ音楽の華と言えば」



 それに答えて遠くから金管楽器と太鼓が一斉にとどろく華々しいファンファーレが鳴り響いた。驚いたパントミームス一団も練習を中断すると、そのファンファーレの方を見渡している。

「ちょうど皇帝を祭る祭事が近いため、軍楽隊が練習をしているのです。金管楽器は、剣闘競技などと一緒に、エトルリアの影響によってローマに取り込まれたのですが、今ではすっかりローマのお家芸となっています。直管トランペットであるトゥバに、湾曲型トランペットのブーキナ、C型に大きく曲がったホルンであるコルヌーに、朝顔の部分が曲線を描いているリトゥウスなどさまざまな金管楽器があって、あのように私たちが聞いても壮大で華やかな音楽を奏でていたわけです。
 ああした金管楽器群は、戦車競技や剣闘士の殺し合いでも重要な役割を持っていましたし、夜の宴会にはティービアなども大いに活躍していましたから、ローマは朝から晩までそこら中で音楽が使用され尽くしていたわけです。
 一方でアレクサンドリアで生まれた始めての水力オルガンも、クテシビオスによって編み出され、当時のモザイク画に大きくCの字に曲がったホルンであるコルヌーと一緒に演奏を行っている姿が残されていますが、先ほどのパントミームスたちの音楽といい、これほどの音楽に見向きもせずに捨て去る事の出来た原始ヨーロッパ人というものには、ちょっとがっかりさせられてしまいます。
 まあ、歴史的に考えると必然だったのかも知れませんがね。さて、そろそろ食事もすんだようですから、久しぶりにパルティア・オリバナムにローマの歴史を教えて貰うことにしましょう」



 先生はそう言うとラブドスをオリバナムの方に差し出したが、分けの分からない名前で呼ばれたオリバナムはラブドスを受け取ったものの、釈然としないようだった。
「なに、そこの生徒があなたの名前を考えてくれたのですよ。乳香オリバナムを手にした、パルティア人ということです。いい名前ではありませんか。もちろん、パルティアが崩壊したら、名前も変わるわけです」
 何時の間か私のつたない草稿を読み終えていたらしく、先生がそう言うと、オリバナムはようやく納得して潔く講義を開始した。

「改めて、パルティアの遠い異邦の地で、私が歴史書を読み解いて学んだ知識を元にして、この時代のローマの歴史を教えてやろう」

 オリバナムは自信を持ってパルティアを主張した。つまりこの紀元後1世紀半ばにおいても、パルティアは健在だと言うことだろう。私の歴史の知識だと、この時期のローマ帝国はパルティアを越えて、遙か遠く中国の後漢とまで交易を結び、絹の道や海のルートを活用して絹織物などを購入していたはずだ。そしてローマ貨幣は後漢の遺跡からも出土すると言うから驚きだ。これは、184年に中国で黄巾の乱が起こって、三国志に突入するより更に前の時代の話しである。
 今、不意に思い出したが、この黄巾の乱と言えば、私の友人が先生が引っ張り出したのに気をよくして先生のマネをして、「184(いやよ)張角(ちょうかく)黄巾(こうきん)の乱」と地図を指し示し、首謀者の名前込みで教えてくれたのが、未だ耳について離れない。

「そこのお前、人の名前を勝手に付けでおいて、ぼやけている場合ではない。しっかり聞いておけ」

 しまった、あだ名なんか付けたばかりにパルティアに目を付けられてしまった。

「まず、お前たちの先生が使徒行伝で教えたことを、復習の意味を込め、歴史書に準じて教えよう。キリストの亡くなった32年に発足したペテロ中心のイェルサレム教会に次いで、バルナバが送られアンティオキア教会が発足。その地で弾圧ひるがえって改宗のパウロも加わり、アンティオキアもキリスト教の中心的役割を果たすようになっていく。やがてこの教会がユダヤ人以外の伝道の中心となり、ユダヤ人中心のイェルサレム教会とは別の性格を持つようになっていったのだ。
 その頃イェルサレム教会では再律法化、再ユダヤ教化が起こり、安息日などの扱いに置いても厳格化が唱えられ出すなど、ユダヤ教的儀式が日増しに強まっていった。それに対して、アンティオキアのパウロは、律法厳守ではなく無条件的に神への恩寵を信じることによってのみ許しが与えられる、という神学を非ユダヤ世界に直接送り出す役割を果たすことになった。
 もちろん2つの教会は断絶していたわけではない。48年にはイェルサレムで使徒会議が行われ、パウロとバルナバも出席、一応の妥協を見いだした。パウロ側は、最低限の倫理として偶像供え物と絞め殺した動物を食することの禁止、流血を行わないなどの規則厳守を受け入れ、それによって非ユダヤ人に対する伝道とすべしと承認されたのだ。
 彼がローマ市民権を駆使し各地に伝道したことは、初期キリスト教の拡大にとって決定的な意味を持った。この間に、イエス自体にあった反ローマ的な思想がほとんど無くなり、ローマとの和解の意味さえ見いだせるかもしれない。
 おそらく後にローマの国教へと上り詰めるための布石は、この時に巻かれたのかも知れない。パウロの手紙などを見ると、現在ある秩序や国家権力を受け入れながらの立場がよく現われている。やがて彼が、伝道途中に保護逮捕されたままローマに到着する頃、49年頃にはユダヤ人からなるローマ内のキリスト教徒が集まって活動を開始していたが、パウロはローマ内で2年間自由に伝道し、広く異教徒に対して教えを広め、真の意味での帝国首都への種まきを行っていった」

 先生がサウロと言った人物を、オリバナムはパウロと呼んだ。なんでもサウロはヘブライ語で、ギリシア語だと「パウロス」からパウロになるそうだが、使徒行伝では多くがサウロとなっていて、自分の手紙では多くパウロスと書かれているそうだ。そう言えば、サウロと言えば、ユダヤ民族の初代国王サウロ(サウル)と同じじゃないか。大した名前だ。
「ユダヤ人どこにでもいるな」
 不意にピアスがそんなことを呟いた。彼は、サーファー野郎のなれの果ての分際で、何故かそのまま居残って講義を受けているのだ。
「なんか言ったか。そこのピアス」
ほら見ろ、やっぱりピアスに目が行くじゃないか。
「いや、ほら、ユダヤ人がキリスト教の広まる先々にすでにいるのは、なんだ、可笑しくないか。おまけに、ユダヤ教でなく、キリスト教が迫害されるんだろ。何でだろうってな」
さすがにピアスだけあって、先生に対する質問の態度がまるでなっていない。
「おう、それはいいところに目を付けた。教えてやろう」
まあ、先生とその一味はリアクションさえあれば、言葉付きなんてどうでもいいに違いない。



ディアスポラという言葉を知っているか。ギリシア語で「散らされたもの」を意味して、バビロン捕囚以来祖国を棄て、余所者の国に散って生活を開始したユダヤ人たちを指す言葉だ。
 例えばエジプトのアレキサンドリアが紀元前1世紀に人口の40%ものユダヤ人たちを抱え込むなど、彼らはローマ帝国内に広まり、それぞれの地域でコロニーを作って生活をしていた。宗教には比較的寛大で、統治のための宗教許容を広く認めていたローマでは、ユダヤ教徒はローマの公的礼拝に参加しなくてもよいといった特権さえ貰っていたのだ。
 パウロの伝道もこうしたコロニーを大いに活用しているし、初めのうちはキリスト教はユダヤ教の内部宗教のように見られていたために、ローマ側の弾圧などは皆目無かった。
 しかし次第にキリスト教徒たちが、一切の偶像を崇拝しない無神教であり、ローマ皇帝の神格性をまったく認めようとせず、軍事活動を暴力として批判し、しかもローマ側で他民族集団の統治の手段として容認する必要性も全くないために、次第に弾圧が開始されるのだ。
 一方のユダヤ人たちは、やがて起こる第1次第2次ユダヤ戦争で、国民総ディアスポラ状態に陥ってしまい、それぞれのコロニーでユダヤ教を継続させていくが、やがてキリスト教がローマの宗教とされると、逆に弾圧されるべき存在になっていく。2つの宗教は皮肉な絡み合いを演じつつ、決して交わることがないのだ。分ったか」

 ピアスは、「分ったぜ。ありがとう」とぶっきらぼうに言ったが、十分すぎる返答にピアスなりに感激しているようだった。

後半へ

<ローマ帝国と初期キリスト教音楽、後半へ。>

2004/11/19
2004/11/21改訂

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