16章 ロマン主義と管弦楽曲

[Topへ]

16章 ロマン主義と19世紀の管弦楽曲

 初めが肝心かと思ったか先生は下巻を受講した生徒達に向かっていきなり言い放った。「古典派とロマン派は別のものではないのです。機能和声語彙で括れる一つの連なりなのです。あなた達だって、話し言葉も違って遠く離れた別の生活をしている人と対立をしようなどとは、夢にも思わないでしょう。同じ事です。同じ語法で括れるが故に、立場の違いが自覚を持って主張されるに至ったのです。今でこそ古典派の3羽ガラスの一人とされるベートーベンを、かつてE.T.A.ホフマンがロマン的だと見なしたのを忘れたのですか。そんなことでは、到底卒業は叶いませんよ。いいですか、いきなり核心に入り込むから、何があっても聞き逃さない書き逃さないの精神でしっかり後を追ってきなさい。さあ来なさい。そうしなさい。」そう言うと先生は後ろを向いて黒板に「ロマン派」と書き始めたが、この時の一言で今までざわついていた講堂は岩に染みいるように静かになってしまったのを覚えている。
 「いいですか、ここでは古典派の3羽ガラスのあとからロマン派の作曲家達が飛んでくることにしておきます。すると最後のカラスが飛び去る前に19世紀の幕が開けたわけです。作曲家達は、詩や文学から着想を得た情感や場景の変化、あるいは自己の内面から沸き上がる感情の表出と変遷を、最大限に表したいという野心と好奇心をみなぎらせていました。やがて、強くなる一方の思いにそそのかされたのか、形式と和製語彙の拡張を限界を超えて推し進めていくことになります。文学界で盛んになっていたロマン主義の活動家達がこれに目を付けました。ヴァッケンローダーや、ジャン・パウル、ホフマン、ティークと様々な人たちが新しい音楽が始まったことや、ロマン派の音楽とはどのようなものかを書き表しています。これについては後ほど詳しく見るとして、ロマン派の音楽自体はこのような著述に自信を深めることはあっても、基本的には時代が進むに連れて自立的に発展していくのです。こうした中で、哲学者のショーペンハウアー(1788-1860)やフランツ・リストらは、音楽こそが内面の奥にある真実をもっとも直接的に表す扉なのだと信じ、文学と音楽がブレンドされた標題音楽(program music)なども生まれて来るわけです。さて、それではロマン派の精神はどのようなものかと言いますと、それについてはどうか今から皆さんに配る謎の小説風レポートを各自読んで考えてみてください。」
<<謎の小説風レポート>>
 こうして新西洋音楽史下巻の講義が始まった。それぞれがレポートを読み終えて狐に摘まれたような不思議な顔をしていたのだが、先生はかえってそれを楽しんでいるかのように、ロマン派の管弦楽曲の説明に入っていった。「皆さん、ベートーベン以降の作曲家達は誰もが、要塞がよいのルートヴィヒ大王の存在に服従するか立ち向かうかそれぞれ覚悟を決めて管弦楽曲を作曲しなければならなかったのです。」先生はそう言うとルートヴィヒ大王への各作曲家の対処を踏まえながら、重要な作曲家の作品を紹介していったのである。以下は私が懸命に先生の話を聞きながら作ったレポートになっている。

フランツ・シューベルト(1797-1828)

ロ短調「完成されていない交響曲」(1822)

・「一昔前に8番の番号を付けられていたこの交響曲は、1978年に新目録を作った時に7番に換えられました。これまで7番に作りかけの交響曲が一つ入ると考えられていたのですが、実は沢山の作りかけの交響曲があることが分ってしまったのです。それじゃあ、逆に一つの作品として常時演奏される、この交響曲だけを6番に続くものと考え、ラッキーな7番を与えようというのですね。1822年に作曲を始めたこの交響曲は第3楽章の20小節で立ち止まったままで放って置かれ、2楽章止まりの完成されていない交響曲となってしまいました。」先生はその後、自身著述している音楽史には決して書き込まれない噂話を生徒達に教え込んだ。曲が未完に終わった理由の隠された有力候補の一つだそうである。それによるとシューベルトは購入可能な女性達を「ポルナイおーん」と叫びながら取っ替え引っ替えしている内に、つい梅の毒に遣られてしまい、頭の中がすっかりお優しくなってしまったのだという。一方この曲をだしに使った白黒映画の名作「未完成交響曲」では、貴族の女性に叶わぬ恋を抱き破れたシューベルトが曲の最後に「私の恋が未完であるように、この曲もまた未完なのだ!」と書き込んだという悲惨な逸話を仕立て上げられてしまった。いずれにしろシューベルトは「完成されていない交響曲」の導入部の主題において心よりお慕い申し上げているベートーベンの英雄交響曲に対して、心からのご挨拶を申し上げた後、到底それまでの動機と旋律の役割を半々に持たせたような第一主題の遣り方とは異なる、旋律的立場が優位の第一主題へと入っていくために、この曲は真にロマン的な交響曲の始まりだとされているのだそうだ。

ハ長調「ザ・グレイト」あるいは「天上的な長さ交響曲」(1828)(最近では8番の)

・シューマンは自ら刊行する「新音楽誌」の中で、細部までもが徹底的に練り上げられたまったく無駄のない楽曲が、爽快さと豊かさの中でひたすら続いていくこの最高の作品を、天上的な長さだと讃えているが、シューベルトの旋律美と管弦楽の効果がなければ地獄行きだったことだろう。天上的な効果の幾つかは先生の口癖に従えば忘れがたい。先生は続けて、「しかしシューマンの逸話と混ぜ合わさったようなグレイトという言葉は、ただ単にシューベルトのもう一つのハ長調交響曲に対して長い方という意味で使われていた可能性が高いかもしれません。」と付け加えた。

フェーリクス・メンデルスゾーン=バルトルディ(1809-47)

・「いいですか。」先生はメンデルスゾーンに話を進めた。「子供の頃から成績優秀だった私のように、引き算も十分に扱える天才少年として育て上げられたメンデルスゾーンは、若い頃からバッハやヘンデルなどの音楽を研究していたおかげで、学校教育においては極悪非道の足し算止まりだったベートーベンの影響に打ちのめされずに済んだのです。」先生はそう言うと、おもむろにワンポイントメモを生徒達に配り始めた。開くとカードがしゃべり出すというおしゃべりワンポイントになっているようだ。「音符達の主、ジョスカン・デ・プレ(1440頃-1521)が年号を教えてくれるという、ありがたいワンポイントになっています。」教えてくれるのはありがたいが、ジョスカンのカンが缶詰の缶になっているのは知識の玉手箱と言った意味合いでもあるのだろうか。
<<ワンポイントジョス缶>>
・生徒達がワンポイントを見終わると先生は代表作品を上げ始めた。私は試験に出そうな所だけを書き写すことにした。

第4番「イタリア」(1833)

・イタリア旅行の気分を留めて彩度が高くて活気がある曲。

第3番「スコットランド」(1842)

・ブリテン諸島を旅した思いが込められて曇りよどんで北国の冷たさがあるが、4つの楽章が切れ目無く演奏されるのは劇的な寒さに凍り付いたためではないらしい。

お薦めの管弦楽曲

ヴァイオリン協奏曲ホ短調「エモール・メンコーン」(1844)
・余りにも有名になってしまったために、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトの略がメンコンと呼ばれるのにも関わらず、この略語を中途半端に使うとかえって素人扱いされる。管弦楽の提示が無くいきなり開始するヴァイオリンの主題は数回聞いたら忘れ去ることが出来ないが、再現部の前に置かれたソロカデンツ部分もさりげなく斬新である。

有名な序曲

序曲「ヘブリーデン、あるいはフィンガルの洞窟」(1832)
序曲「静かな海と楽しい航海」(1828-32)
序曲「美しいメルジーネ」(1833)・・・フランツ・グリルパルツァー(1791-1872)の戯曲を元にしたおとぎ話の具現化
序曲「リュイ・ブラス」(1839)・・・ヴィクトール・ユゴ(1802-85)の戯曲のための
序曲「夏の夜の夢」(1826)・・・通の間では「17歳序曲」と呼ばれている。

エクトール・ベルリオーズ(1803-69)

 「ロンイアーという学者は、ベルリオーズの作曲が当時の音楽の主流からあまりにも離れていたため、同時代の人達はおろか、次の世代の作曲家や批評家からも誤解を受けてしまったのだと述べています。ちょうどカルロ・ジェズアルドやフリーデマン・バッハ、またはヤナーチェクなどにも見られる同時代人との異質性を、ロンイアーはベルリオーズに感じたわけですね。ですから彼の言葉に従うならば、もしベルリオーズをロマン派の夜空に輝く一番星と定義したとしても、他の同時代を彩る作曲家達とは恒星と惑星のような本質的な違いが見られることになります。今日は私の意見はあえて挟まないで、エクトールの楽曲の紹介だけをしますから、皆さんは夏期休暇が終わるまでにベルリオーズについての自分なりの意見を纏めてレポートにしてください。」先生は学期が始まったばかりだというのに、提出論文の恐怖を私たちに投げ付けた。慌てた私は必死になって先生の紹介をノートに記入したのだった。

「とりとめのない想像交響曲(幻想交響曲) Symphonie fantastique」(1830)

・「ベルリオーズは演奏会場でベートーベンの第5番を初めて聞いた時、全楽章にわたって冒頭主題が縦横無尽に活躍するあまりの力強さに打ちのめされて、心の臓が慌てふためく発作に見舞われたといいます。彼は次の第6番「田園」を聞くことによって、感情や場景を具現化するために古典形式を十分に使用出来ることを確信しました。こうして漸く彼の発作が収まったのです。この幻想交響曲において、彼は冒頭主題を固定楽想idee fixe(仏)として全楽章で回想されることを思いつきました。ベルリオーズ自身が自信満々に書き込んだ標題によりますと、この主題は「主人公に取り付いて離れない恋人の像」を表しているのです。その時のベルリオーズは、曲全体に「ある芸術家の生涯における挿話」というサブタイトルまで用意していました。さらに各楽章ごとに自伝的標題まで掲げて、交響曲自体を言葉を伴わない音楽劇に仕立てようしていたわけです。もっとも、後になって「レリオ」と対にするために4,5楽章だけがアヘン中毒の夢だったものを、初めから夢にしてますから、絶対的な音楽劇ではないのですが・・・・。」先生はやがてそれぞれの楽章の説明を始めたのだが、4楽章の断頭台への死の行進で立ち止まると、独り言のように「離れ業(ツアー・デ・フォース)」と呟いた。天才的ひらめきが尋常な作曲レベルを凌駕している瞬間に出会う時の先生のお気に入りの口癖である。先生は何を思ったのか、授業そっちのけで突然セクエンツィア「怒りの日」を歌い出してしまった。

「イタリアのアロール[イタリアのハロルド]」(1834)

・「バイロン(1788-1824)の「チャイルド・ハロルド」から表題を貰って、イタリア滞在時の場景をスケッチしたこの交響曲は」歌い疲れたのか先生は静かに語り始めた。「何時いかなる所でも己の技法をお披露目したい自信満々のパガニーニが、願いが適わないのを理由にヴィオラ演奏を断ったのだとベルリオーズ自身が伝記に書き込んでしまいました。ですがこの話を聞いたパガニーニは、またしてもベルリオーズの誇大妄想のために自分が悪魔人間に仕立て上げられたことを知って、リストに泣きついたことでしょう。」どうもベルリオーズという人は作曲以外ではかなりの問題児だったらしい。先生は構わずに曲の解説を始めると、曲のそれぞれの部分を繋ぐ循環主題が独奏ヴィオラに任されているのに注意して視聴するように生徒達に忠告した。

劇的交響曲「ロメオとジュリエット[ロミオとジュリエット]」(1839)

・「管弦楽、独唱と合唱のための7楽章交響曲で、両端の楽章に合唱を持つ「ロメオとジュリエット」。この曲の注目点は、ベルリオーズがロメオとジュリエットの愛の場面に言葉の妨げがない器楽曲をもちいたということです。」そう言うと先生はそれぞれの曲の解説を始めたのだが、「マブ女王」のスケルツォの部分を説明している内に、譜面を見詰めたまま黙り込んでしまった。「離れ業だ」先生は呟いた。「見たまえ、まったくもってツアー・デ・フォースだ、こんなツアー・デ・フォースがまだ残されていたとは」先生は嬉しくなってきたのか、ピアノの前に座るとゆっくりツバメで曲を演奏しながら解説を始めた。弾いている内にだんだん調子が出てきたのか、先生は、ベルリオーズが管弦楽法を改新した事と、後の作曲家達に循環形式をどう使用するかのお手本を授けた様子を、生き生きと語り出した。

ローベルト・シューマン(1810-56)

 「でも先生、シューマンはどうなのかしら。」ちょうど真ん中付近で黒髪すらりさんが質問を投げかけなかったら、先生はいつまでもベルリオーズのことを語っていただろう。「良い着眼点です。」先生はようやくのことピアノの前から離れた。「彼こそは一人でもロマン派なのです。」そう言うと、黒板に「歩くロマン派」と書き込みながらシューマンの話を始めた。「ではまず、ワンポイントメモを配りますから、それに目を通してください。」
<<ワンポイントジョス缶>>
 「さて、ローベルトはあまりにも縦横無尽に檜舞台を駆けずり巡ってロマンの華を演じきってしまいました。ですから、ドイツロマン派はシューマンが自らの音楽作品と数々のジャーナリズムによって紡ぎ出した壮大な創造物ではないかしら、そんな気さえしてくるのです。」私は先生の要点を黒板と会話から写し取っていった。

交響曲第1番変ロ長調「春」(1841)

・「皆さんはまず、紅3兄弟という言葉を覚えなければなりません。」先生は紅3兄弟が唐笠掲げて水辺に佇む挿絵を見せながら、いきなり意味の掴めない謎の単語を投げかけたのである。「紅3兄弟?」あまりにも突然のそぐわない言葉に、教室中がざわめいた。先生は平然として、生徒の動揺を沈めながらこう続けた。「いいですか、この交響曲が書かれた1841年はシューマン愛好家から「交響曲の年」と言われています。この1番と後に4番となる交響曲を唐突に、情感を込めながら作曲したからです。シューマンは後の伝記作家達のために最高の方法を思いつきました。それは1840年にひたすら歌曲ばかり作曲することによって「歌の年」と呼んで貰い、また、1842年には室内楽だけに専念して「室内楽の年」と呼ばれるように同じ楽曲を集中して仕上げたのです。シューマンはある音楽評論の中で、このように3つの年を紅3兄弟として、作曲年代を区切ることによって、後の世の分類の便宜を図ることもロマン派の作曲家の仕事だと言っています。残念ながらこの評論は失われ、なぜ紅なのかも諸説入り乱れていますが、皆さんは、このお陰で、簡単に作曲された年を把握できる訳です。ですから、1841年は3タイプそろって紅3兄弟の真ん中の年、になる訳ですね。」どこまでが本当なのか、皆目見当も付かないが、この威勢良く掛け声まで張り上げて誕生した交響曲第1番変ロ長調「春」も、フランツ・リストに言わせればベートーベンのような形式と感情表出の調和に達するにはローベルトは余りにもお優しすぎたそうである。「伝統楽曲に生きるにはあまりにもロマンチックすぎるようですね。」リストは面と向かってシューマンにささやいた。その時の戦慄が仇となって、ライン下りの時期が早まったという噂も残されているようだ。

交響曲第4番ニ短調(1841)

・リストの言葉に怒り狂ったシューマンは、基本動機によって全楽章が形成された、ベートーベンの第5の愛弟子のようなすっきりとした作品を書き上げてリストに投げ付けようとしたが、出版に漕ぎ着けることなく10年間眠ってしまった。そのため「出版だけが遅れた交響曲」と命名されたというたわいもない出鱈目は試験に出ることもないが、、51年の出版前に大改訂を施して、その際に交響的幻想曲という単語がロベルトの頭を駆け巡ってしまったらしい。

交響曲第2番ハ長調(1846)

・「短調で提示される緩徐楽章の主題が、最終楽章に長調の第2主題になってかえって来るというヒーロー伝説を予感させる作りになっています。」どうもシューマンの所に来てから、先生の話す内容が可笑しくなってきているように思える。

フランツ・リスト(1811-86)

 「交響曲として定義されてきたような伝統的形式の枠に収まらない自らの管弦楽曲作品に、」先生はリストに話を移した。「フランツは、交響詩という名前を付けて13曲も世に送り出しました。」その一連の作品は、文学的、戯曲的アプローチと言うよりは、文字通り詩のような柔軟性をもって標題からのインスピレーションを音楽に移し替えたもの。古典の伝統に従うことに生き甲斐を見いだした絶対音楽主義者を除けば、後の作曲家はほとんどがリストの交響詩の影響を大喜びで被ったという。説明が終わると先生は、交響詩の中でも特に次の3曲に丸を付けた。

「オルフィウス」

「ハムレット」

「前奏曲」(1854)

・アルフォンス=マリ・ド・ラマルティーヌ(1790-1869)の詩に基づきながら、1つの動機を変形させつつ楽曲に統一性を持たせてみたところ、右に倣えの後続作曲家達が交響詩を書き始めてしまったという交響詩伝説の前奏曲になっている。

伝説を引き継いだ後の作曲家のお薦め楽曲も上げておこう。

ベドルジフ・スメタナ(1824-1884)
   「私の生まれ育った国(マ・ヴラスト)」
セザール・フランク(1822-90)
   「プシケ」
シャルル・カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)
   「オンファールの紡ぎ車」「死の舞踏」
ピョートル・イリイチ・チャイコーフスキイ(1840-93)
   「フランチェスカ・ダ・リーミニ」

「ファウスト交響曲」(1854)

・標題の先輩ベルリオーズに捧げた交響曲はやはり標題的であった。「ファウスト」「グレートヒェン」「メフィストーフェレス」の3楽章の後に、ゲーテの劇を閉じる神秘的な合唱を終楽章として加えてみた。「導入部に増3和音を多用しているのは、革新者ベルリオーズに負けまいと立ち向かったためだなのです。」先生はちょっと力を込めた。

「ダンテの神曲による交響曲」(1856)

・こちらも「地獄(インフェルノ[伊])」「煉獄(プルガトーリオ[伊])」の2楽章を持ち標題的であるが、「天国(パラディーソ)」には到達せずに、終結部には「マニフィカト」の詩による合唱を加えてみたのだそうだ。

ヨハネス・ブラームス(1833-97)

 「偉大なベートーベンが四六時中の亡霊となってブラームスの背後でどたばた足音を立てたために」先生はブラームスの肖像画を教壇の上に置くと、その背後からどたばた足音を立てて見せた。「怯えきったブラームスは、慎重に足を忍ばせながら前に進むしかありませんでした。そのためですか、交響曲第1番は20年間も譜面との格闘を繰り返した後で、ようやく1876年の完成に辿り着くことが出来たのです。この時ブラームスは、完成された年号を重ね合わせて、「1876年、これで嫌な老後も安心だ」とつまらない冗談をクララ宛に送ってしまいました。案の定、この手紙を読んだクララはすっかりブラームスへの気持ちが冷めてしまいましたが、数多くのブラームスの管弦楽を改めて聴き直すことによって、再び親愛の年を取り戻したのです。」先生は黒板に、矢継ぎ早にブラームスの管弦楽曲を書き込んでいったが、あまりの量に到底書き写す気力を失ってしまった。とにかく、先生がこれだけ力を入れているのだから、ブラームスの管弦楽曲は傑作揃いに決まっている。先生は、更に4つの交響曲すべてに時間を割き、とりわけ「遅れてきた第1番ハ短調」(1876)「いぶし銀の第4番ホ短調」(1885)により多くの解説を加えた。私は、手を上げると、「一番最初に視聴くのにはその交響曲が良いのでしょうか」と聞いてみた。先生は初めて聞くなら、と前置きをした後で、「そんな壮大な曲から入っていったのでは、どうせ君たちは飽きてしまうに決まっています。ですから、分りやすくて忘れがたい「ハイドンの主題による変奏曲集」(1873)や君でもきっと知っている「大学祝典序曲」(1880)付近から初めてください。それで、間延びした耳をならしてから、交響曲を聴くのです。」と教えてくれた。

アントーン・ブルックナー(1824-96)

 「絶えず人々の批評に怯えながら自らの作品に改変に継ぐ改変を加えていく彼の手法は、ついには大きなお節介によって後の編者が勝手に作品に手を加える悲しい結末を迎えました。ベートーベンを頼りにヴァーグナーの和声と管弦楽にどっぷりと浸かった彼の様式は、本質的に生涯変わりませんが、その管弦楽法には長い間培ってきたオルガン奏者としてのストップ技法が宿っているのです。」先生は黒板に「交響曲第4番」と書きながら、話を続けた。「斬新なことに」先生は交響曲4番に括弧を付けてイコール5番と書き足した。「実は0番から始まっている彼の交響曲の中では、最後の3曲が最高の到達点を示しています。」

交響曲第4番変ホ長調「ロマン的」(1874-80)

・ベートーベンの第9番のように次第に立ち現れる主題と、20世紀のミニマリズムを先取りしそうな終結部を持つ第一楽章でおなじみだそうだ。「ブラームスの日陰者として、あるいはヴァーグナーの使徒として白い眼で見られていたブルックナー。彼のことを地中深くまで沈めることに生き甲斐を見いだしていたヴィーンの人々も、この第4番とと7番だけは興味を示して拍手を送ってくれました。それにしてもヴィーンでは対位法の教授までつとめた結果がこれでは、あんまりにも報われない扱いですね。」先生はこれだけの授業をしているのに、最近の音楽界では必ずしも最上の賛辞を受けていないことに気が付いて、急にブルックナーに愛着がわいてきたという。

交響曲第8番ハ短調

・特に最終楽章は聞き逃したくない作品だって。

ピョートル・イリイチ・チャイコーフスキイ(1840-93)

 お薦めの交響曲4番~6番のなかでも、第6番ロ短調「悲しく痛ましい(パテティーチェスカヤ)」(1893)が一番に知られているが、別名「がぶ飲みコレラシンフォニー」という名称は誰にも知られていない。これは先生の言葉ではなく、私の落書きである。

眠気に負けて他の管弦楽曲は取りあえず曲目だけを上げておこう

交響詩「フランチェスカ・ダ・リーミニ」(1876)
ピアノ協奏曲第1番変ロ短調(1875)
ヴァイオリン協奏曲ニ長調(1878)
序曲「1812」
バレ曲「白鳥の湖」(1876)
バレ曲「眠っている森の美女」(1890)
バレ曲「胡桃割り人形」(1892)

アントニン・ドヴォルジャーク(1841-1904)

 先生の言葉を纏めると、ドヴォルジャークは、農民出身者は音楽家になれないという士農工商の枠を乗り越えて、努力の結果認められた19世紀のボヘミアを代表する作曲家である。最良の交響曲は第7番ニ短調(1885)だと考えられているが、皆さんはどうせ第9番「新しい世界から」(1893)しか聞いていないに決まっている。それにもかかわらず、チェロ協奏曲はすっかり今日の演奏目録として定着してしまった。もう駄目だ、頼むから、しばらく眠らせて欲しい。私は、次の時間になったら起こしてくれるように後ろの知人に頼むと、机の上に俯した。もはや先生の声は、私の耳には届かなかった。

2004/3/11
2004/4/5改訂
2004/4/14修正

[上層へ] [Topへ]