17章 ロマン派のピアノ、室内楽、声楽曲

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ピアノ

 「今日の前半は、19世紀における楽器のヴィクトリア女王とまで呼ばれたピアノの楽曲を見ていきましょう。その後で室内楽と声楽を見て、来週オペラを見るとあら不思議、もう19世紀がすっかり分ってしまうのです。そんなわけないか。」先生は自分の言葉が可笑しかったのか一人でにやりとすると、先を続けた。「さて、ピアノという楽器はモーツァルトの頃は音域も少なく、音量も小さくて、田園的地味さの残る生娘のようでした。それがベートーベンの生涯に呼応するように、著しい成長を遂げていくのです。音域が拡大され、弦の強度が高められ、今日使われているダブルアクションが取り入れられたと思ったら、フレームまで木から金属に変わって、ロマン派の作曲家達の活躍する19世紀中頃にはすっかり華麗な楽器に生まれ変わったのです。こうして一躍きらびやかな花形楽器に成長したピアノは、すべての楽器が一目を置くような存在になりました。ですから管弦楽曲の次ぎにピアノ曲を紹介するのはまさに相応しいことです。」先生は優しく前置きをした後で、作曲家と演奏家の分類を開始した。

 懸命になって先生の話を追いかけながらノートに内容を書き写したところ、19世紀の初めにはピアノ音楽に大きな2つの流派があったという。「一方に陣取っていたのはヨハン・ネーポムク・フメル(1778-1837)です。ピアノソナタ嬰ヘ短調が有名ですが、誰か聞いたことのある人はいますか。」そんなしっかりした奴がこの教室にいるもんか。私は半ばあきれ顔で辺りを見渡したら、驚くことに斜め後ろの男が堂々と手を上げていた。私は彼のことを博識君と名付けることにした。「おやおや、たった一人ですか。」先生は心底がっかりしたようだ。「いいですか、フメルはかつてモーツァルトと共同生活を送ったこともあるピアニスト兼作曲家で、モーツァルトの音楽に見られるような、転がる音の明快さとよどみなく流れる旋律の華麗さを信条としていました。それに対していっそう劇的な強弱法を求め、管弦楽の効果までも取り入れたいという野望を持っていた一派がいたのです。彼らは感情の高ぶりをすべてピアノに受け止めて貰いたいと願っているような血気盛んな浪士達で、その中心にはベートーベンが大王として控えていました。でも、すべての作曲家がどちらかの陣営に分かれていたわけではありません。中にはコウモリのように獣たちの住む大地と鳥たちの生活する大空を行き来しながら作曲をした器用な男もいたのです。例えばムーツィオ・クレメンティ(1752-1832)がそうです。しかし、誤解してはいけません。彼の大部分の作品に器用さ以外の何物も見いだせないのは、決してどっちにも付かない作曲態度のせいではないのです。彼は、収入と名声のために初めから商業目的を最優先した楽曲を大量に残しました。ですから、モーツァルトの言葉を真に受けて、クレメンティをイタリア名物のエセ作曲家だと信じる人達は、十分に練り上げられた晩年の5つのソナタを聴いてみて下さい。3度のパッセージ以外にも1クロイツァー以上の価値はあります。」私は先生の話を聞いて、不意にクレメンティの「グラドゥス・アド・パルナッスム(パルナッソス山に登るための階段)」を思い出した。実は私は昔ピアノを習っていて、ちょうどツェルニーの呆れるばかりの練習曲集をてんこ盛りに食べさせられた後で、この練習曲に出会ったのだ。あの時買った楽譜代でも、私はすでに1クロイツァー以上の金額の価値をクレメンティに与えているに違いない。そんなことを考えているうちに、先生は次の世代のピアノ作曲家達に話題を変えてしまった。

 「さて、ウィーン会議(1814-5)も大分過ぎて、正統主義とヴィーン体制がすっかり板についてきた頃に話を移しましょう。この頃になっても、例えば辺境の大国ロシアで活躍したジョン・フィールド(1782-1837)や、アードルフ・フォン・ヘンゼルト(1814-89)のようなひたむきな作曲家達は、楽曲の内容で勝負をするような曲を書いていました。ですがこの時期、数多くの馬鹿旨演奏家兼作曲家達が流星のように現れて、中産階級がサーカスを求めて暇を持て余すパリに群がって来たのです。彼らは己の技芸だけを頼りに、見物客を沸かせるきらびやかな軽業師的技芸に進んで身を投じました。そうして生み出されたサーカス用ピアノ曲は楽譜の売れ行きも上々だったのです。」私は先生の言わなかった言葉をノートに補っておくことにした。「中でももっともあっぱれなのは次の者達である。」

フレデリック・カルクブレネール(1785-1849)
アンリ・エルツ(1803-88)
ジーギスムント・タールベルク(1812-71)
ルイス・モロ・ゴットシャルク[ゴチョーク](1829-69)

 先生は続けて、サーカスだけでなくすぐれた解釈も出来た演奏家兼作曲家を、ピアノの巨人たち(Titan of the piano)と呼んで名前を挙げた。

フランツ・リスト(1811-1886)
アントーン・ルビンシテイン(1829-94)
ハンス・フォン・ビューロ(1830-94)
カール・タウジヒ(1841-71)

 しかし、安易なサロンの花としての感傷性と華やかなだけで中身は空っぽの技巧の両面を虚飾として切り捨て、音楽内容で戦う真の戦士達もいた。シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームス、と一匹雌狐クラーラ・ヴィーク・シューマンがそれにあたる。彼らの戦いは、時代を超えて今日もっとも演奏される機会の多い音楽を残したことで十分に報われたのかもしれない。「一方、当時広範な影響力のあったイグナツ・モシェレス(1794-1870)のように、自伝を残すことによって今日まで名を残すことに成功した風変わりな作曲家もいます。」先生はこの辺りで話を逸脱しておくのも悪くないと考えたらしい。「モシェレスの自伝に、ルイ・シュポーア(1784-1859)ベルリオーズのものを合わせて、19世紀前半の3大自伝を形成するのですが。」先生はわざとらしく首をしかめてみせた。「楽曲が自伝を超えたものはベルリオーズだけでした。」

ピアノ音楽

 「ほら、このたった10本の指で。」先生は突然に両手のひらをぱっと開いて、生徒達に見せた。「このたった10本の指だけで、上声では、歌謡的旋律をより修飾を加えて情緒豊かに演奏したい。同時に内声と下声では、主旋律を引き立たせるための効果的な伴奏を常に付き添わせたい。そんな欲張りな思いを成し遂げるにはどうしたらよいだろう。さんざん悩んだ挙句に、作曲家達はそれぞれ、今までに無いようなピアノ技法を生み出していきました。それと同時に、演奏家のテクニックも急激に高められていったのです。そんな中で、テクニックの競争に付いていけなくなったシューマンは、指の動きを当社比1.5倍に高めようとして、指を縛り付けたり、土の中に突き刺したり、煮たり焼いたりしてすっかりぼろぼろにしてしまいましたが、このエピソードは当時の演奏者達の熾烈な競争を物語っています。こうした作曲家と演奏家の切磋琢磨の結果、ついにピアノ曲は技巧的華麗さに置いても、音楽表現の深さに置いても19世紀の花形楽器に上り詰めたのです。詩情と感傷と幻想と物語性に生き甲斐を見いだしたロマンの息吹。それをあなたがたも感じるはずです。舞曲形式の堅苦しくない楽曲の中で、ロマン派の旋律美が、縦横無尽に遊泳し、伴奏形がそれを讃える。人々は感嘆の言葉を漏らす。どうですか、これこそロマン主義の精神じゃないですか。そんな性格的小品群の影でかつての主役ピアノソナータは、伝統との対峙を求める学習意欲とさらなる高みに達する野心を持った一部の音楽家の最後の砦として、まだ十分に威厳を持って存在していました。」
 先生の話は情報が多すぎて愚鈍な私には到底すべてを写し取ることは出来ない。私はただあたふたしながら、重要作曲家の重要作品だけをやっとの思いで書き写していくのだった。先生の言葉が気になる方はいつでも先生に聞くがよい。新西洋音楽史を開けば、先生はいつでもそこにいるのだから。

カール・マリーア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)

ピアノと管弦楽のための小協奏曲ヘ短調(1821)
「舞踏への勧誘」(1819)

・シューベルトの一昔前に生まれた史上初の真のロマン主義作曲家であるヴェーバーはオーケストラの響きを鍵盤上で模倣しようと試みたため、逆にピアノ曲がたやすく管弦楽に編曲される結果となった。この曲も管弦楽編曲版が知られるが、教師付きでピアノに取り掛かるとこの曲を勧誘される場合もある。

ボヘミア3人衆

・19世紀初頭にヨーロッパ中を吹き荒れたボヘミア人の3人のピアニスト達の美談は今日でも「ボヘミアン三羽ガラス」として知られている。疲れてきた私は、つい先生の言葉を無視して、こんな意味のない落書きを書き込んでしまった。

ヤン・ラーディスラフ・ドゥシーク[ドゥシェック](1760-1812)
・極端に遍歴青年だった彼は、担当分野であったソナータでさえも古典的均衡を打ち破って遍歴的である。その遍歴的音楽はかなりの程度でロマン派の音楽語法が先取りされてた。聞きたくなった人はソナータ「エレジー・アルモニック」を聞くように。先生は何も言っていなかったが、確か参考書にそう書いてあったはずだ。
ヤン・ヴァーツラフ・トマーシェク(1774-1850)
・短い叙情曲を掲げてヨーロッパをぶらり長旅。
ヤン・ヴァーツラフ・ヴォルジーシェク(1791-1825)
ピアノソナータ作品20交響曲ニ短調の2曲だけでヴィーンに移り住み、シューベルトにまで影響を及ぼした。

フランツ・シューベルト(1797-1828)

6曲の「楽興の一時」8曲からなる「即興的は曲」はピアノ学習者にとってお薦め定番メニューであるが、他にも自作の歌曲からの主題によってピアノ学習者を困らせるほどの技巧性と芸術性を紡ぎ出した「さまよい歩く人の幻想曲」[さすらい人幻想曲]や、古典時代の技法から影響を受けつつもむしろ叙情的な旋律によって形作られた数多くのソナータがある。「すぐれた最後の3曲のソナータの中でも、ソナータ変ロ長調が一番の傑作です。」先生はそう言いきって曲名の上にチョークで「傑作ソナータ」と書き加えた。「この驚くべき叙情性と果てしなく続く楽曲は、シューマンが交響曲8番ハ長調に与えた「天上的長さ」の器楽版と言えるかもしれません。」先生の声に力が入った。赤点を取りたくない者はぜひ聞いておくようにしよう。

フェーリクス・メンデルスゾーン=バルトルディ(1809-47)

・「大勢の人前で演奏するには余りにもデリケートすぎたシューベルトのピアノ演奏技術に対して、メンデルスゾーンは一流の演奏家でもありました。しかし不思議なことに、そのピアノ曲は幾分生真面目過ぎるきらいがあるようです。ですから、CDの再生ボタンを押す瞬間に感じる、心わくわく指先震えるような好奇心に触れる機会がそれほど多いとは言えないかもしれませんね。そこで、私は15歳の時に書かれた「アンダンテとロンド・カプリッチョーソ」(op14)をお奨めします。この曲は本当に瑞々しい。忘れがたい曲だ。」一方で[言葉のない歌曲集](無言歌集)は様々な時期に作曲した48曲を含み標題的だが、こちらはピアノを習ってさえいれば最低でも数曲とは挨拶を交わすことになるだろう。実は私も、「狩りの歌」を初め何曲か遣ったことがある。さらに一層精進してピアノ道を突き進めば、やがては参考書にも最高作品と紹介される「厳しい変奏曲ニ短調op54」(1841)と立ち会うことが叶うかもしれない。もっとも、私はそこまで辿り着くことが出来なかったのだが。私がかつて演奏したことのあるメンデルスゾーンの曲を思い出していると、先生はメンデルスゾーンのオルガン曲に話を移してしまった。「そうそう、ユニークな作品としてオルガンのための3曲の「前奏曲とフーガ」や、6曲のソナータがあります。このソナータのそれぞれの楽章は、もともとは礼拝前に演奏されるヴォランタリとして作曲されました。メンデルスゾーンはそれをカップリングしてソナータに仕上げたわけです。これらのオルガン曲とリストのオルガン用作品があるお陰で、オルガンはヨハン・セバスチャン以後の不毛砂漠を生き長らえて、一時期よりはすっかり日陰者となってしまった19世紀にも、かろうじて面目を保つことを許されたのです。」

ローベルト・シューマン(1810-56)

・「シューマンは名ピアニストのクララに負けまいと、命がけで独学亜流のピアノ上達法を試みました。しかし、あまりにも常識を覆す新奇な訓練方法の連続に指が付いていけなくなって、すっかり両手を駄目してしまったのです。挙句の果てに泣きながら試みた自殺にまで失敗して、あわれ作曲と新音楽誌の仕事に専念するほかなくなってしまいました。まあ、作曲家シューマンにとっては、それで良かったのかもしれませんね。それにしてもこのローベルト君、腹いせ紛れか1840年までの初期出版作品をどれもこれも未練がましくピアノ曲で押し通してしまうなんて。遣ってくれるじゃないですか。そんな彼の音楽が苦手な人は、どうも和声の色調の変化と、色彩感覚に反感を覚えるらしいのですが。」先生は何かシューマンに恨みでもあるのだろうか。他の作曲家の説明と少し違うような気がするのだが。「好みはともかくとして、彼のピアノ曲はロマン派の他の誰の作品よりも物語性を内包しています。狙った情感が素直に伝わってくるのです。もう、ここは、定冠詞Theを付けて、「Theロマン」と命名してもいいくらいです。」先生は褒めているのか貶しているのかよく分からない領域を模索しているようだった。それはともかく、ピアノ曲については小品を上げるのに限りがないため、ここでは大曲である「交響的練習曲」(1834-37)「幻想曲ハ長調op17」(1836)を上げておこう。私がここまでをノートに記すと、先生はもう一つの大曲「ダーフィト同盟舞曲集」の説明を始めた。「さて皆さん、前回シューマンの紅3兄弟についてお話ししたと思いますが、覚えているでしょうか。そこの君、説明できますか。」先生は先ほど一人だけ手を上げていた博識君を指名した。博識君はさも当然のことのように、シューマンが1840-42年の間、作曲する楽曲を毎年区切った遣り方について説明し始めた。「大変結構です。私は先週そのひと続きの3年間を紅3兄弟と呼びました。しかし、驚くべき事に、紅3兄弟にはもう一つ意味があるのです。」確かに驚くべき事だ、紅3兄弟なんて言葉が平然と使われているだけですでに驚きだ。「シューマンは、あまりにもお優しい精神状態が躁鬱症状を引き起こしているのを自覚して、それぞれの症状の自分から「衝動革命児フローレンスタン」と「青年空想家オイゼービウス」を取り出してきました。ロマンティックな彼は、だんだんその2人がはっきりとした人物像を獲得して、頭の中で物語を形作っていくの目の当たりにしたのです。それによると、彼ら2人はそれぞれ若さに任せて現在の音楽界に対して戦う、相反する精神を持った作曲家の卵なのです。しかし、シューマンはすぐさま、その2人を調停する「老齢哲学者ラーロ」が必要なことに気が付きました。こうして初めて、3つのタイプの人物像が頭の中に出来上がったわけです。シューマンは喜び勇んで、この3人を年号と同様に紅3兄弟と命名しました。残念ながら、その資料も今日失われていますが、この「ダーフィト同盟曲集」においても、紅3兄弟が当時の音楽界に三位一体攻撃を仕掛ける生き様が余すことなく描かれているのです。」私はこの話を聞いている内に、先生の中にも何か別のタイプがいて、それが時々現れてくるような気持ちになってきた。夢想する先生は放っておいて、シューマンのピアノ曲を聞くのが初めての人には、小品集である「幻想小品集」を奨めておこう。先生の声が途切れたので、ノートから眼を離すと、先生は教壇の前に立ち手を振りながら生徒達に呼びかけ始めた。「どうかお願いします。初めてピアノを習う人たちは、簡単な子供用の小品でも良いですからぜひとも、ぜひとも一度シューマンのピアノ作品を直に演奏してみて下さい。ロベルト・シューマン、ロベルト・シューマンのピアノ曲をどうぞ、どうぞよろしくお願い致します。」血迷った先生はそう叫ぶと、教室を飛び出して選挙演説に出かけてしまった。

フレデリック・ショパン(1810-49)

・ようやく戻ってきた先生はショパンのピアノ曲を紹介していったが、どうも自分が知っているせいかあまりノートに写す気になれない。ほとんどピアノ曲に命を捧げきったショパンの音楽はとるに足らない楽曲を探す方が困難なのだから、好きな者を聞けばいいのではないだろうか。どうしても何か初めの足がかりが欲しいと言うなら、マズルカ集よりも、まずはワルツ集から始めるのが無難かもしれない。

フランツ・リスト(1811-86)

・母国語を話せないままハンガリーに沸け出でて幼き日々を神童の演奏活動に費やしたリストは、解決されない不協和音を使いこなす一方で国際的な様式を自分のものとする事が出来た。ヴィーンやパリで活躍する見せ物技巧ピアニスト達の上に芸術性まで埋め込んでピアノにおける超絶技巧魔術師パガニーニを目指した6曲の「パガニーニによる超絶技巧練習曲集」(1851)は圧巻である。しかしさらに困難きわまりない練習曲として「超絶的演奏の練習曲集」までも仕立て上げて見せる才能は、ついに伝統的ソナータにあえて立ち向かった「ソナータロ短調」(1853)に昇華する一方で、後年のピアノ曲「灰色の雲」(1881)においては20世紀の革新を先取りしたような和声が見られるそうだ。20世紀への影響を見るとき、もしかしたらヴァーグナーよりもフランツの名前を、筆頭に出さなければならないのかもしれない。

ヨハネス・ブラームス(1833-97)

・旋律をことさら彩る華麗な修飾音符も、自らの技芸を誇示するために無駄に難易度を増したイディオムも、ブラームスにはとるに足らないもののように思われたので、大王の作品のような切磋琢磨した作品を目指した。「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」「パガニーニの主題による変奏曲」から始めるのが入りやすい一方、晩年の11曲のオルガン曲においては、フランクのオルガン作品と共にあまりの出来映えにオルガンはすっかり自信を回復してしまった。

おまけの重要曲として先生の上げるところ

マデースト・ペトロヴィチ・ムーサルクスキイ(1839-81)
「展覧会の絵」
ミーリイ・アレクセイェヴィチ・バラーキレフ(1837-1910)
「ソナータ変ロ短調」「イスラメイ」
セザール・フランク(1822-90)の幾つかの作品

室内楽

 「華麗なロマンの輝きに室内楽のこじんまりとした幾分形式的な純器楽曲は不似合いだとは思いませんか。」先生は誰を指したわけでもなくそう言った。「これがベルリオーズやリスト、ヴァーグナーらが室内楽を見捨てた理由です。こうして河に流された室内楽を、すくい拾い上げて大切に育て上げたのは、古典的伝統に価値を見いだした作曲家達だったのです。」どうせ1,2曲聞くだけでも儲けものなのだから、先生の言葉の中から各作曲家の作品を1,2曲に絞って書いておこう。

シューベルト

・ピアノ5重奏曲「鱒」(1819)ではあまりにも定番すぎるので、先生が傑作と奨める「弦楽5重奏曲ハ長調D956」を上げておこう。

メンデルスゾーン

・知る人ぞしるピアノ3重奏曲ではなく、またしても若くして仕立て上げちゃった鮮度の高い弦楽8重奏曲(1825)を始めに聞いてみよう。

シューマン

・彼の主要な室内楽作品、弦楽四重奏3曲、ピアノ4重奏と5重奏が一曲ずつはすべて紅3兄弟の3男坊である1842年に作曲されている。シューマンにおける紅3兄弟は3年にまたがる西暦を表す場合と、彼自身の作り出した3タイプの架空人物を指す場合があるから注意しなければならないと、先生はいつも注意している。

ブラームス

・彼の室内楽は傑作しかないから何から聞いても問題ないが、「ピアノ4重奏曲ト短調op25」「ピアノ5重奏曲ヘ短調op34」を傑作中の傑作として初心者に奨めるのは必ずしも適切ではない。もっと分りやすいヴァイオリンソナータ「雨の歌」から聞いた方が分かりやすいに決まっているじゃないか。

フランク

・フランクは循環法という言葉と共に「ピアノ5重奏曲ヘ短調」「弦楽4重奏曲ニ長調」「ヴァイオリン・ソナータイ長調」を編み出した。

リート

 「かなり長めの詩を語りと対話を繰り返しながら物語っていくような新しい歌曲の形式が生まれました。皆さんもさすがにシューベルトの「魔王」は知っているでしょう。そうです、バラードというジャンルはこの時期盛んに作曲されるようになったのです。この曲種をいち早く作曲したのは、ヨハン・ルードルフ・ツムシュテーク(1760-1802)カール・レーヴェ(1796-1869)達だったのですが、天才的旋律家のシューベルトが現れて完璧な形で完成させてしまいました。このシューベルトこそバラードに限らず19世紀前半のドイツリートの控えめな大王だったのです。彼は、旋律だけでなく、伴奏型や和声も十全に使いこなすと、これまでにない新たな遣り方までも探し出して曲に織り込みました。このような十全な感性を備えていたことから、シューベルトは「十全青年」と呼ばれることがあります。」先生はおもむろに後ろを向くと、黒板に「十全青年」と書き込んだ。「その伴奏法はまるで歌詞の内容が示すニュアンスを音符でスケッチしたかのよう、「糸を紡ぐグレートヒェン」が16分音符で糸車をぐるぐると回せば、「魔王」の伴奏がそれに答えて馬掛ける足音を不安な心情と共に表現する。そのようにフランツは自らの音楽を生み出していったのです。」もちろん先生のお薦め曲はヴィルヘルム・ミュラー(1794-1827)の詩による連作歌曲集「冬旅」(1827)で、主人公が人間達の住む世界から獣たちの住む世界へと帽子を拾い上げることなく突き進む生き様は歌詞の内容が分らなくても訴えかけてくるそうだ。一方「影法師」の項目において、教科書である新西洋音楽史とその日本語翻訳者達は解説における前代未聞の離れ業(ツアー・デ・フォース)を演出して見せたため、そこの一文だけでも新西洋音楽史下巻を購入するだけの価値を持つことを私が付け加えておこう。

シューマン

・ロマン的和声の分際で古典的伝統歌曲の枠を考慮に入れて均衡の取れた作品を贈りだしたシューマンのリートは、父親の度重なる仕打ちに耐え何とかクラーラ・ヴィークとの結婚に漕ぎ着けた1840年の歌の年に作成した「詩人の恋」「女の愛と人生」の2つの連作リート集を聞けばよく分かるそうだ。一方、愛すべき妻クラーラ・ヴィーク=シューマン(1819-96)の作曲したお薦めの曲として、先生はリート集作品23を挙げている。

ブラームス

・「何故に、何故にブラームスはあれほど綿密な楽曲を書いているくせにこんなに控えめに邪魔することなくリートの声部を讃えることが出来るのでしょう。」別の教室での授業中に譜面に見入っていた先生は、つい驚き慌てて生徒達の前で声を張り上げたそうだ。心を落ち着けてピアノの前に座り、ブラームスにしては珍しく諧謔的な作品である「虚しいセレナード」や、もっともよく知られた「サッポーの頌歌(たたえ歌)」を調べている内に、先生は晩年の「4つの厳粛な歌」こそが最高の到達点であることに気が付いたという。授業はその瞬間に潰れて全員一斉に歌曲の練習が始まってしまったのだと、隣の教室の知人が教えてくれた。

合唱音楽

 「文学や詩から霊感の源泉を汲み取ったロマンの世紀なら、歌詞付きの合唱曲に飛び付くだろうと思ったでしょう。まったく、だから君たちは議論の出来ない鵜呑み坊やだと言われるのです。」あまりにも音楽史における常識を知らない私たちは、とうとう坊やにされてしまった。「いいですか、ロマン派の作曲家達は、情感を表すのに最適な、自由に飛翔のできる独唱形式に一斉に群がりました。しかし、合唱は違います。合唱においては、そもそも何人もの人が同じパートを歌うため、旋律の飛翔に制約が出てきます。そのうえ、音色も音域も自由闊達には冒険できない。これでは、ロマンの華になるにはちょっと堅物過ぎますね。こうして合唱は、ついには管弦楽の添え物に成り下ってしまいました。」先生はさも残念そうな顔をしたと思ったら、下手な演技で急に顔を上に向けた。「しかし、心配はいりません。古典伝統に生き甲斐を見いだしたメンデルスゾーンやブラームスが、捨てられた合唱曲を拾い上げ、再び1流の楽曲に育て上げたのです。」その後で先生は、実際には各種合唱団体の発達や民族高揚の合唱に弾みがついた19世紀は、数多くの合唱曲が作曲されていたことを教えてくれた。短く各合唱パートが比較的同じように歌うパート・ソングや、独唱と合唱の互いに渡り合うようなカンタータ、そして特にイギリスとドイツではオラトーリオが盛んに作られて、歌声酒場で(???)輪になって歌われたのだ。特に19世紀前半には、ピアノ曲とオラトーリオの時代とまで言われるほどオラトーリオが作曲されたらしい。先生はそのような説明をしてから幾つかの曲を上げたが、私は書き記すのを忘れていたので、すっかり記憶から消えてしまった。

 先生は次ぎに教会音楽に話を持っていった。「さて皆さん、長らくの間、新西洋音楽史の中心的主題だったはずの教会音楽は、この授業のカリキュラムを見れば分るように、ロマン派の時代にはすっかり周辺事象に追いやられてしまったのです。」先生のこの一言に対して危機感を募らせたのか、先生の眼を再び教会音楽に向けるため、19世紀の中頃に「チェチェーリア運動」が繰り広げられたのだそうだ。この運動は宗教音楽を本来の姿に戻す意気込みで、16世紀のア・カッペッラ様式を復活させた。しかし残念なことに、副作用としてパレストリーナがジョスカンよりも遙かに高められてしまったのだ。先生は運動に呼応するように、教会の音楽ですぐれたものを幾つかあげた。ここではその一部を記しておこう。


シューベルトの「ミサ曲変イ長調D678」「ミサ曲変ホ長調D950」
メンデルスゾーンの詩編歌
サミュアル・セバスチャン・ウェズリ(1810-76)のアンセム
ドミートリイ・ボルトニャーンスキイ(1751-1825)のロシア教会の音楽
シャルル・グノ(1818-93)のミサ曲「聖チェチェーリア」


 「一方ロッシーニの場合、「母は悲しみに(スターバト・マーテル)」のような宗教曲は、けばけばしすぎるという理由で後になって教会から閉め出されてしまいました。」先生はそう言うと、今度は典礼の詩を使ってはいるが到底、教会音楽とは言えない作品を上げていった。


ベルリオーズ
「テ・デーウム(神であるあなたを私たちは讃えます)」(1855)
先生も讃える「レクイエム(死者のための大きなミサ曲)」(1837)

リスト
「グーランの聖堂献堂式のための荘厳ミサ曲」「ハンガリー王戴冠のミサ曲」
「詩編第13番」実験的和声の玉手箱「十字架の道(ヴィーア・クルーチス)」(1879)

ヴェルディの「レクイエム」(1874)

ブルックナーの「ミサ曲ニ短調」(1864)「ミサ曲へ短調」(1867)

ブラームスの「ドイツ・レクイエム」(1868)


 私はオラトーリオの説明で先生が言っていた一言を思い出したので、最後に記しておこう。「ベルリオーズの「キリストの幼児」(1854)はまたしても全く他の作曲家と違ってしまいました。メンデルスゾーンの「パウロ」や「エリア」、そしてリストの「聖エリーザベトの伝説」もすぐれていますが、ベルリオーズやっぱりすごい。」先生があまりにも褒めるので、私も少し興味がわいてきた。今日は、音楽室でCDでも視聴してみようか。

2004/3/17
2004/3/24改訂
2004/4/17再改訂

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