19章 19世紀末芸術の新潮流

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初めに

 「さて皆さん、皆さんは今日一日で19世紀後半から第1次世界大戦にいたるまでのヨーロッパの音楽を駆け抜けることになります。よそ見をしていると、足を踏み外して転げ落ちることになりかねませんから気を付けてください。」先生の言葉に、生徒達は慌てふためきながらノートを開いたり、筆箱から筆記用具を何種類も取り出したり大忙しである。先生はいきなり走り始めるつもりらしい。「ちょうど今日のスタート地点である1870年代は、プロイセンの首相であるビスマルクの罠にまんまとはまったフランスが1871年の普仏戦争に打ちのめされた結果、プロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位、ドイツの統一がなされた頃から始まります。その後ビスマルクはヨーロッパ中に同盟の糸を張り巡らせることによってドイツの安泰を計りました。それにつられておよそ20年ぐらいの間、ヨーロッパ地域内は比較的平和な時代を迎えることになるのです。しかし、やがて彼が引退を決意するとそれに合わせるように同盟の糸によるヨーロッパ均衡政策が解きほぐされ、20世紀の導入部は次第に国際的緊張が高まっていくのです。やがて世界的な戦争が1914-18年の第一次主題を奏でることはご承知の通り。一方、音楽の方はと言いますと、世紀末から新世紀の始め、すでに曖昧になっていた機能和声が打ち破られるような改革が至る所で繰り広げられていくことになります。今日はその辺りまでを見ていきましょう。」先生は比較的緩やかな序章を奏でたかと思ったら、いきなりアレグロの第1主題に突入していった。

ドイツの伝統

 「かつて19世紀の前半の音楽家達が偉大な大王の亡霊と長い間格闘していたように、19世紀末のヨーロッパ中の音楽家は、誰もがヴァーグナーの魔術に立ち向かわなければならなかったのです。それでは、その影響と対処を踏まえながらドイツの作曲家達を見ていきましょう。」先生は重要作曲家を順番にやっつける積もりらしい。

フーゴ・ヴォルフ(1860-1903)

 「さて、オペラ「お代官様」(1896)なども作曲していますが、何よりも250曲もの独唱歌曲でお馴染みのヴォルフは、自分の歌曲をしばしば「ソロの声とピアノのための詩」と表現しています。実際当時の歌曲の作曲者達の中でも抜き出た文学的趣味を持ち合わせていた彼にとって、詩は歌曲を作るための材料なのではなく、まるで詩を表現するための手段として歌曲があるかのようです。彼は歌われる部分を出来るだけ詩の持つ言葉のリズム、抑揚、心象描写に一致させ、器楽のパートにはヴァーグナーと同様、詩の歌われるべき背景を提示させたり声に出せない情緒を表現させたりしています。彼は声のパートと、器楽のパートが互いに補い合いながら緊密な関係を築くことによって、初めて一つの歌曲が完成するのだと考えていました。しかし、そんなヴォルフは、まことに残念なことに、1897年に催されたヨーハネス・オケヘム(1420頃-1497)没後400年の鎮魂祭への出席を断ったが為に呪いにくべられてしまいました。本格的に作曲活動を始めてから10年にも満たない内に、彼は精神の病に冒され、作曲家としての人生に幕が下ろされてしまったのです。私は、この逸話を聞くたびに、祭りに潜む呪術的な力というものに対して考えないではいられません。」先生はそう締め括ると、ヴァーグナーのような言葉と音楽が主従無く密接に絡み合う理念を見事に成し遂げている好例として、「君、その国を知っていますか。」を、一方全音階的な様式の傑作として「さあ、歩きなさい、マリーアよ」の名前を挙げた。

グスタフ・マーラー(1860-1911)

 「一方、敬虔なヴァーグナー信徒として成長し、1897年の鎮魂祭では心を込めてオケヘムにも祈りを捧げたマーラーは、その1897年に認められて以後10年間のヴィーンオペラ劇場の監督に就任することが出来るのですから、人の織りなす生涯という名のドラマは不思議なものです。自らの栄転に感謝の思いを込めてその10年後に作曲された「交響曲第8番」は、音楽仙人のオケヘムを讃えるために「仙人の為の交響曲」と命名されました。もちろんこれは大規模な演奏者を表す「千人のための」という意味を掛け合わせたものですが、今日では元の意味がすっかり忘れ去られて人数を表わす「千人」だけが使用されています。しかし彼の交響曲を聞いていると、主題変形の仕方や、全音階的部分と半音階的部分の対比、引き延ばされた時間などにおいて、むしろオケヘムやらヴァーグナーよりもフランツ・リストを仙人として讃えた方がよいのではないかという気がしてきます。そう言えばメロディを悪魔的なもので歪めるという彼の悲しい性質も、ベルリオーズやリストに先例がありますね。20世紀を記念して作曲された「交響曲第5番(1901-2)」から、もともと巨大化傾向のあったマーラーの交響曲は、ますます壮大な規模を満喫し始めました。しかし、どのような大規模な管弦楽や大合唱を使っても、マーラーの音楽が声部のきめの細かさと、必要な効果以上の無駄な壮大さに陥ることは決してありません。これは特筆すべき事実です。ハーモニーの点では、旋律的な非和声音で解釈可能な彼の半音階とそのハーモニーは、他の同世代の革新家達に比べると幾分保守的にも思えます。実際、彼の交響曲は明確に調性的であり、多くの場合全音音階的でもあるのです。彼にとってヴァーグナーなどの新しい語法は更に発展させるべき命題というより、すでに出来上がった最新語法の一つに思えたのかもしれません。そういうわけで、やはり彼の交響曲は長い19世紀の伝統の正統な後継者だったと言えるでしょう。」先生はそう説明すると、それぞれの交響曲について説明を加え始めた。大規模な合唱を取り入れたり、開始調と最終調が違っていたりと話題に事欠かない交響曲を9番まで一つ一つ書き表すくらいなら教科書を読んだ方が有益なので、ここでは先生がすべての楽章を細かく検証している交響曲第4番と、マーラーの第2期の頂点だと言い張る交響曲第8番(先ほど取り上げた)の名前を載せておこう。
 他の重要作品として先生は独唱と管弦楽のための作品を上げた。フリードリヒ・リッケルトの詩による「死んだ子供の歌」(1901-04)と、恍惚の喜びと不安な予感の両面性を緊密に織り込んだ「大地の歌」は試験に出るからぜひ聞いておくようにと、後で先輩からのアドバイスも受けることが出来た。

リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)

 「マーラーに負けない指揮者となるべくハンス・フォン・ビューロ(1830-94)の徒弟となったリヒャルト・シュトラウスは、「チェロソナータ」や「ブルレスカ」のような最初期の作品からすでに驚異的な才能を思う存分に披露しきっています。しかしシュトラウスは、さらなる高みに達する必要性を感じました。彼はアレグザンダー・リッターから聞いていたリストやヴァーグナーの革新的音楽のすばらしさに踏み込むと、どっぷりと首まで浸かり試しにその中で泳ぎ回ってみました。だんだん幸せな心持ちになってきたリヒャルトは、この革新性をさらに推し進めようと決心しましたが、それが初めて作曲上に表われてくるのは1888年になってからです。この年彼は交響詩「ドン・ファン」を作曲、翌年には驚くべき「死と変容」を完成させました。「死と変容」は実際は導入とコーダを持つソナタ形式になっていて、リストお得意の主題変形をすっかり自分のもとしたシュトラウスの姿を見ることが出来ます。」先生によれば、古典からの交響曲伝統の最後を飾る位置にいるのがマーラーで、一方のシュトラウスはある時点までは明確に革新主義者だったのである。

 先生は交響詩を「哲学的」なものと「叙述的」なものに分類する試みをしているうちに、シュトラウスの中にこの両面性をもった第3の領域を発見した。つい喜び勇んで深く考える前に新西洋音楽史に著述してしまったことを、先生は若気の至りだといって白状した。ここでは先生の意地悪試験によく出る要点だけを書き表しておこう。

交響詩「詩と変容」

・導入と賛歌風結尾を持った自由なソナータ・アッレグーロと見なすことが出来、その不協和音は当時としては十二分に大胆な行為だった。

交響詩「ツァラトゥストラはこう言った」

・ニーチェの超人伝説がヨーロッパを震撼させているのをめざとく見つけて作曲された哲学的交響詩だが、一部の曲は映画のせいで至る所で演奏され今日ではむしろ娯楽的立場に陥ったという悲劇に内包される真理こそが哲学的なのである。

交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」

・悪戯を重ねるほど愚かさに拍車の掛かるティルにはロンドがふさわしい、2つのティル主題がマングースの素早さを持って手を替え品を替えあちこち現れる循環がロンド風なのである。

交響詩「ドン・キホーテ」

・一方サライ以上の愚か者としての失敗を重ねることによってまともな人間に近づいていくドン・キホーテには変奏こそがふさわしい。

 「シュトラウスは、オスカー・ワイルド(1856-1900)の戯曲に基づく1905年上演のオペラ「ザーロメ」において、前例のない複雑な不協和音をオペラ作品に使用しました。1908年のオペラ「エレクトラ」では更にこの遣り方を発展させています。ところがその後の「バラの騎士」(1911)と「ナクソス島のアリアドネ」で彼は、その方法を採用せずもっと調性的で全音階的な作品を提示して見せたのです。このことが一部の作曲家や、音楽家達を激しく苛立たせました。彼らは、シュトラウスを最新の音楽革新を進めるにはあまりにもお優し過ぎた作曲家だと定義し、ついうっかり後戻りを始めてしまった愚か者であるという後退伝説を主張し始めたのです。ですが私はあえて言いたい、それはあくまでも一つの側面に着目した発言に過ぎないのだと。」先生はそう言って、黒板上に記された「バラの騎士」の上に小さく傑作と記した。「それにもかかわらず」先生は生徒達の方に向き直った。「シュトラウスはエレクトラを最後に後ろ歩きを始めたというレッテルをこれからも背負い続けることでしょう。伝説とは、これほどまでに恐ろしいものなのです。」急に寒気がした先生は背後にシュトラウスが立っているような錯覚に陥って、ぶるりと震えた。

そのほかのドイツ作曲家

 先生の黒板に書いた要点だけをまとめれば、おとぎオペラの「ヘンゼルとグレーテル」(1893)で知られた、エンゲルベルト・フンパーディンク(1854-1921)。極端な半音階とはなはだ転調のマックス・レーガー(1873-1916)。そしてオペラ「パレストリーナ」(1917)でますますパレストリーナ崇拝を高めてしまった男ハンス・プフィッツナー(1869-1949)などが居るそうだ。

民族主義

 「かつて18世紀末頃のドイツでは、文学におけるフランスの影響や、音楽におけるイタリアの優位性に対して、次第に高まる民族意識と一致した民族的文化運動が沸き起こりました。ちょうどそれと同じような運動が、すっかり優位な地位を確立したドイツ音楽と、それを根底においた国際的な様式に対して各地で沸き起こってくるのも19世紀後半の特徴です。それぞれの地域で、蹂躙するドイツ音楽に対するアイデンティティの確立や、民族国家としての独立発展の情熱の文化的鼓舞として、真の民族的音楽語法を編み出す動きが現れて来ました。彼らは、標準的音楽語彙を元にして民族音楽的要素を提示するようなドイツ語圏メジャー作曲家を中心とする一群に対して、民族的音楽性を元に新たな語彙を生み出していったと言えるかもしれません。では、そうした作曲家達をまずロシアから見ていきましょう。」先生は更に続けて、面白い提案をしたので、私は試みにそれに付き合ってみようと思う。「せっかくですから、皆さんもこの民族主義の部分ではいつもと違う語法でノートをまとめてみたらいかがですか。皆さんのノートの記入の仕方も、日本の義務教育のお陰でしょうか、どれもこれも標準語法で同じようなものばかり。ですが、本来は自分の性質にあった記入の仕方が、それぞれの個性の数だけ存在するはずです。捕らわれないで、一度違った書き方をしてみることこそ、この民族主義を理解するための第一歩なのです。いや、どうかな、それは分らないが。まあ、面白いですから、ぜひ一度やってみなさい。」私も、いつもよりもう少し言葉を切磋琢磨してみようと心に決めた。

ロシア

 西方より来る作曲家達がさも文明の幾分遅れた田舎宮廷を見るような態度で現れロシア音楽会を牛耳っているのに嫌気が差したミハイール・イヴァノヴィチ・グリーンカ(1804-57)は、オペラ「皇帝に捧げた命」と「ルスランとリュドミーラ」によって、初めて西の作曲家達と対等の付き合いを成し遂げた。跡を継いでアレクサンドル・セルゲイェヴィチ・ダルゴミーシスキイ(1813-69)がオペラ「ルサールカ」を掲げて走り出せば、ピョートル・イリイチ・チャイコーフスキイ(1840-93)は二人を無視して国際的で土着色のない作品で西の作曲家の仲間入りをしてしまった。何をしやがるチャイコーフスキイ、オペラ「エウゲーニイ・アネーギン」や「スペードの女王」ではその主題だけが民族主義的であるとはなんたることか。彼に続いて国際折衷様式に陥ったアントーン・ルビンシテイン(1829-94)までもが、1862年にサンクト・ペテルブルグ音楽院を創設して西の様式を教え始めてしまった。
 こんちきしょうめと叫び声を上げて枠にはまらない5人の作曲家達が団結して「力強い仲間」を名乗ったのはこの時である。「強力5人組み」だ、「強力5人組み」の誕生だ。ついにロシアの土着性の色濃く表われた民族音楽が一斉に開花するシーズンの到来だ。よしきた、順番に見ていこうじゃないか。

アレクサンドル・パルフィリイェヴィチ・バラディーン(1833-87)

・交響曲第2番ロ短調(1876)、弦楽4重奏曲第2番ニ長調(1881)、交響的素描「中央アジアで」(1880)、そして未完のオペラ「イーゴリ公」(1890初演)

マデースト・ペトローヴィチ・ムーサルクスキイ(1839-81)

・次は、趣向を変えて先生のいるスケッチとして、ムーサルクスキイを書き表してみよう。
・旋法的な旋律と独創的な和声は、ピアノの前で頑張らなければ和声の標準的な定型を自由に扱えなかった限界のお陰ではないのか。そう思った先生は定番中の定番「禿げ山の聖ヨハネ祭の夜」(1867)やピアノ組み曲「展覧会の絵」(1874)から調べ直して行くうちに、連作歌曲集「日の光も無く」の中の「虚しい喧騒の日々は終わった」に見られる非機能的な和声進行に辿り着いた。一息ついて辺りを見渡すと先生の横ではドビュシがこの曲の和声進行を見て驚いている。先生は何もかもがすっかり分ってしまった。そんなムーサルクスキイの傑作歌曲は、オペラ「ボリース・ゴドゥノーフ」を見るのがしんどい人もぜひ聞かずにはいられない。

ミーリイ・アレクセイェヴィチ・バラーキエフ(1837-1910)

・グループの音楽理念の指導的立場にありながら、その理念は他の仲間の方が上手に乗りこなしたバラーキエフの作曲は、交響詩「ルーシ(ロシアの古名)」、ピアノ幻想曲「イスラメイ」、そして対比の激しい「リア王」序曲を聴くに限る。

ツェーザリ・アントノヴィチ・キュイ(1835-1918)

・誰か、ねえ誰か私の曲を知りませんか。(byキュウイ)

ニカレイ・アンドレエヴィチ・リームスキイ=コールサコフ(1844-1908)

・コールサコフ、お前はグリンカから強力5人組みまでの技法をサンクト・ペテルブルグ音楽院の教授となることによって20世紀初頭の世代に引き継がせ、指揮者として活躍しながら1913年には「管弦楽法の原理」を著述出版するほどの多才ぶりを発揮したな。そして「スペイン奇想曲」(1887)や交響組み曲「シェエラザード」(1888)は言うに及ばず、オペラ「サトコ」(1897)や「金鶏」(1909)までも人々に知らしめ、中でも「サトコ」はオケヘム400年を記念して作曲したのだ。中世ロシアにオケヘムが幻想として降臨するその物語は、コールサコフ、まさに時節にうってつけだった。さらに、2龍交響曲大家アレクサンドル・カンスタンティナヴィチ・グラズノーフ(1865-1936)とイーゴリ・ストラヴィーンスキイ(1882-1971)を弟子として成長させた功績、私は決して忘れたりはしないからな。

 言葉を戻して言うよう。彼らに対して、無頓着に後期ロマン的国際標準作曲にいそしんだのがセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマーニノフ(1873-1943)だが、交響曲第2番と交響詩「死の鳥」を聞いていると私は何故か途中で寝てしまい、いまだ最後まで到達できないのである。

 

アレクサンドル・ニカラエヴィチ・スクリャービン(1872-1915)

 オケヘムに捧げた若き日のピアノ協奏曲嬰ヘ短調(1897)に見られるショパンのリリシズムに、リストやヴァーグナーの半音階技法、さらにはドビュシのオブジェッシモな和声に感銘を受けて、芸術的恍惚状態に到達したいという貴族的な洗練された野心が沸き起こったスクリャービンは、次第に調性世界から独自の神秘和音の世界に旅立っていった。色を発するオルガンを使用する目論見の大失敗に終わった「プロメテ」(1910)はぜひ聞いておく必要がある。どうせだから、もう少しこの文体で進んでみよう。

中央ヨーロッパから東欧にかけて

 チェコでベドルジフ・スメタナ(1824-84)がオペラ「売られた花嫁」に民族的要素を織り込めば、アントニーン・ドヴォルジャーク(1841-1904)が答えて作曲するよう。遅れてレオシュ・ヤナーチェク(1854-1928)が曲を書き始めて、民族音楽の収集まで始めてしまったら、古スラヴ語の詩による「グラゴル・ミサ曲」(1926)にまで到達してしまった。ノールウェイではエドヴァルド・ハーゲループ=グリーグ(1843-1907)がドイツで学んだ音楽技法の上に民族的要素を加えて、ノールウェイの民謡や舞曲から影響を受けて曲を書く頃になれば、フィンランドでは民族的叙事詩「カレヴァラ」に夢中になっているヤン・シベリウス(1865-1957)が独創的な主題の扱いに励んでいた。1925年には現役作曲家から引退してしまったシベリウスの交響曲を聴くなら、ぜひとも4番と7番をまずもってクリアして欲しい。それが先生の望みなのだそうだ。なお、今日多くのフィンランド人が十分に活躍できる年齢で早速と引退を決意するのには、この時から始まったシベリウスの伝統が背景にある。一方私は引退はしないもののペンの速度が追いつかずにその他の国々の作曲家は名前を挙げるのが精一杯になってしまった。

ポーランドのスタニスワフ・モニューシュコ(1819-72)
デンマークのカール・アウゴスト・ニルセン(1865-1931)
オランダのアルフォンス・ディーペンブロック(1862-1921)

イギリス

 19世紀のイギリスは相変わらず多くの外国人作曲家による音楽が賑わいを見せる一方、自国の作曲家は主に合唱曲にはけ口を見いだす状況が続いていた。業を煮やして立ち上がった真にイギリス的音楽の救世主エドワド・エルガー(1857-1934)は、「威風堂々」とオラトーリオ「グロンティウスの夢」を掲げて殴り込みをかけたが、世紀末も差し迫ってきた1899年に作曲した「謎(エニグマ)の変奏曲」では同時代人のイギリス人作曲家であるフレデリック・ディリアス(1862-1934)に答えを見つけて貰おうとすっかりひよってしまった。残念ながらそれに答えたのは別のイギリス人作曲家である、セサル・シャープ(1859-1924)ラルフ・ヴォーン=ウィリアムズ(1872-1958)、さらにグスターヴ・ホウルスト(1874-1934)らであったのだ。

スペイン

 19世紀のスペインは民族主義音楽の足がかりを付けたフェリーペ・ペドレール(1841-1922)からイサーク・アルベニス(1860-1909)を通ってマヌエール・デ・ファーリャ(1876-1946)に流れる一本道がちゃんと用意されていた。

フランス

 さて、大変疲れたので、残りは先生の会話で締め括って貰うことにしよう。私は先生の会話の記述にスタイルを戻すことにした。よく考えれば、これだって十分すぎるほど独自のまとめ方になっているはずだ。「さて皆さん、今日の一番最初に述べた普仏戦争に立ち返って、その後のフランス音楽を見てみましょう。フランスでは、この戦争の終わった年の1871年に早くもフランス国民音楽協会が誕生し、自国の作曲家の作品を援護射撃を始めました。ドイツに打ちのめされた悔しさが、ドイツ音楽への反感を高めたことは言うまでもありません。さらに1894年にはパリにスコーラ・カントールムが創設され、広範な歴史に則った新しい音楽理論を教えるようになったのです。こうしてフランスは、20世紀の初めになると音楽の指導的中心地の一つとして返り咲くことが出来たのですが、この時期のフランス音楽には、幾つかの音楽的な立場が複雑に絡み合っていたのです。それでは、それを順番に見ていきましょう。」先生はまず黒板に「第2番は変ロ調」と謎の言葉を記入した。「まずは、反ロマン的で過剰な表現を嫌うという点ではフランス的な傾向を示していますが、基本的にドイツ語圏で行われていた作曲スタイルに則って作曲をした国際派のセザール・フランク(1822-90)、そしてその忠実な交響曲第1番の弟子ヴァンサン・ダンディ(1851-1931)について見てみましょう。フランクのスタイルを循環形式と半音階性だけで片づけるのは馬鹿馬鹿しい話ですが、今日は細かく見ている時間のゆとりがありません。ここでは循環形式だけでなくリストの仕立てた主題の変容も見て取ることが出来る「交響曲ニ短調」(1889)と、「交響的変奏曲」(1885)、さらにお馴染みの室内楽曲である「ヴァイオリン・ソナータ」を上げておきますので、皆さんはそれを聴いて彼の作風について考えてみてください。さて、彼の弟子であったダンディは、交響曲第1番「フランスの山人の歌による交響曲」(1886)において主題に民謡を用いていますが、この遣り方もフランスではあまり例がありません。彼はドイツ的な語法とフランス的な語法を真の意味で統合することに成功しましたが、「交響曲第2番変ロ調」(1904)においては、長調と短調の統合にも成功しています。あまりのできばえに、ロンイアーという学者は、この曲をベルリオーズの「幻想」の後に来るフランス交響曲だと讃えています。また、ダンディは教師としてもすぐれた活躍を見せ、「作曲法教程」(1903-1933)のような著作物も残していますから、私も教師としてのダンディをもっと見習わないといけませんね。そんなダンディの「イスタール」では通常最後に来るはずの複雑変奏から始まって、だんだんテーマがお優しくなっていく逆変奏も聞くことが出来ますから、一度確認してみてください。
 さて、一方カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)やジュール・マスネ(1842-1912)、さらにガブリエル・フォレ(1845-1924)などは、叙述的な発展的音楽ではなく、優雅で色彩豊かな展開のプロセスが重要でない舞踏的な音楽を得意としました。もちろんこれは古くからのフランスの伝統でもあるのですが、管弦楽法にはまるで精通していなかったフォレが書き残した100曲余りの歌曲を見ればその真髄がきっと分るでしょう。」先生は黒板に線を引っ張ると、ぜひ聞くべき歌曲として「優しい歌」の中の「お前が行ってしまわないうちに」の名前を書き込んだ。フォレの晩年の凝縮された技法は、弟子のナディア・ブランジェ(1887-1979)を通して辺田舎のジャパニーズ作曲家達にまで大きな影響力を与えたのである。彼らのお薦め曲としては、自ら客観的な音楽の美しさを表明したサン=サーンスの交響詩「死と舞踏」(1875)や交響曲第3番(1886)、それから忘れてはならない「ピアノ・トランペット・弦のための7重奏曲」(1881)や、実は当時もっとも革命的なハーモニーを使用していたフォレの「ピアノ4重奏曲ハ短調」、「レクイエム」(1887)などを先生は筆頭にあげた。
 「ところが控えめで幾分客観的で舞踏的なフランス伝統に則っているくせに、ほとんど一人で新しい語法を発明してしまったクロード・ドビュシ(1862-1918)が現れるから、後期ロマン派というのは奥が深い。」先生は生徒の方を振り向いて、しばらく黙っていたが、「君たち、クロード・モネというのを知っているでしょう。」と言ってまず絵画における印象主義の説明を始めた。そして音楽における印象主義は、叙述的な曲を書いたり感情の変化やある情感を表したりする代りに、ある種の束の間の気分を詩情豊かではあるが幾分客観的に曲にする遣り方なのだと締め括った。モネの絵画すらろくに見たことのない愚鈍の私には、何の事やらさっぱり分らなかったが、先生の話に好奇心が沸いてきたので、授業の帰りに「夜想曲集」(1899)交響的素描「海」(1905)のCDを買って帰ることにした。それまでは管弦楽曲は「牧神な午後への変奏曲」(1894)しか聞いたことがなかったのだ。先生が言っていた「機能和声的関連をそぎ落としたシンメトリーな和音連続に基づく中心調を持った」というフレーズが不思議に耳から離れない。
 しかしその後がいけなかった。先生はその時ドビュシのスコアーをしきりに覗き込んで時々鼻歌交じりに音楽を追っていたのだが、楽曲のあまりのすばらしさに我慢できなくなって、「ドビュシの管弦楽法すごくいい!」と突然叫び声を張り上げてつい教室を飛び出してしまったのだ。それは、ちょうどモリース・マーテルリンクの戯曲を元にしたオペラ「ペレアスとメリザンド」(1902)のDVDを視聴している最中で、先生が居なくなった教室でDVDを最後まで見終わった私たちは、先生は帰ってこないものだと決め込んで各自教室を後にして帰宅することにした。後から聞いた話では、先生はドビュシに負けないくらい自分自身を切磋琢磨するために、「エマニュエル・シャブリエ、影響与えた、いちはちよんいち、いちはちきゅうよん」と意味不明な掛け声を上げながら、体育館でヒンズースクワットを立て続けに500回やったため、疲れ果ててその場に寝込んでしまったのだそうだ。しかたがないので、ノートは教科書で最後の部分を補っておくことにしよう。


クロード・ドビュシ(1862-1918)

・お薦めピアノ曲「前奏曲第1巻」「前奏曲第2巻」や2巻の「心像(誤って映像とも)」
・お薦め管弦楽作品の残り「心像(誤って映像とも)」(1912)

エリク・サティ(1866-1925)

・反印象主義の立場で、ウェットに飛んだ警句的な短いピアノ作品群だけで、他の作曲家達に影響まで与えてしまったサティの音楽は、「梨の形をした3つの曲」と「干からびた胎児たち」を押さえておくと会話がスムーズに進む。

モーリス・ラヴェル(1875-1937)

・ハーモニー連続としてのドビュシ的な語法を遙かに古典的な形式や、輪郭線、機能調性で鍛え直した実直の人モーリス・ラヴェルのピアノ曲は、「亡くなった女王のためにあるパヴァーヌ」(1899)や「クプランを偲んで」(1917)から入って、古典形式のすっきり表わされた「ソナティーナ」(1905)に進んでみよう。その一方数多くの室内楽曲や、管弦楽組み曲「スペイン狂詩曲」(1907)とバレ「ダフニスとクレエ」(1909-11)もぜひ聞いてみよう。この遣り方で進もうと、私は自分で勝手に決めた。そう言えば思い出したが、昔ピアノを習っていた頃、「鷲鳥母さん(マ・メール・ロア)」(1908)をピアノの先生とたどたどしく連弾したことがあった。

20世紀初頭の他のフランス作曲家

ポール・デュカース(1865-1935)が交響詩「魔法使いの弟子」(1897)をオケヘム記念に作曲すれば、フロラン・シュミット(1870-1958)は交響詩「サロメの悲劇」(1910)でやり返す、それを見ていたアルベール・ルセル(1869-1937)は管弦楽のための「ヘ調の組曲」(1926)に到達してしまった。

イタリアのヴェリズモオペラ

 ありふれた日常に潜む悲劇のドラマを余すことなく演出しようという画家のクールベさんが泣いて喜びそうな写実主義的オペラが19世紀後半のイタリアで取り上げられ、今日のテレビや映画のスリラーものの先祖となった。残念ながら高い理念とは裏腹に、辛うじて生き残っている作品は、ピエートロ・マスカーニ(1863-1945)の「田舎騎士道(カヴァッレリア・ルスティカーナ)」と、ルッジェーロ・レオンカヴァッロ(1858-1919)の「道化師(イ・パリアッチ)」(1892)ぐらいのものである。他に世紀末のイタリアオペラ作曲家であるジャーコモ・プッチーニ(1858-1924)の「トスカ」(1900)と「外套(イル・タバルロ)」(1918)を入れることが出来るかもしれないが、私はそんなことよりもプッチーニというと、あまりにもお見事すぎて大爆笑してしまったコメディオペラ「お蝶夫人」(1904)と、アジアをあざ笑うかのような開けっぴろげの喜劇「トゥーランドット」(1926)の印象が強すぎて、純粋に音楽だけを聴くなんて到底考えることも出来そうにない。さて、以上、最後の部分は教科書を元に記入したのであるが、翌日先生は自分がやり残した仕事を放ったらかしたまま、次の章に突入してしまったのである。

2004/3/24
2004/5/4改訂

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