『練習曲第三番第四番について』

(朗読1) (朗読2)

練習曲第三番第四番について

 練習曲第三番に於いては、着想も構図も語り口調も定まらないまま落書し、改訂に改訂を重ねた例が極めて多い。つまりはルーズな酔いどれのひと筆書を、重ね塗りの校訂作業によって、どうにか作品へと昇華させたような有様であった。その顕著な例をひとつ挙げてみよう。

かたくなに

吾が胸のおごり清めよ夜明星

[第一段階]

 趣旨は単純というよりむしろ陳腐で、
「自らのおごる心を星よ清めておくれよ」
と云う譬喩は安っぽく、かつ稚拙な尊大さに溢れている。その上、
「どうかわたくしのおごりを鎮めて下さい」
と訴えるならまだしも、斯くこそは俳句の句調なるべしと吐いた、情の籠もらない偽りの言語を、
「吾が胸の」
などとものしたところに、月並と呼ばれべき俗調が溢れ出しているように思われる。

 さすがにこれはすぐ気がついて、学芸会じみた語り口調を無くそうとして、 「この胸のおごり清めよ夜明星」 などするも、本質はまるで変わりなく、そもそも星に対しておごりを清めよなどと願うのは、三流芝居のポンチ画にも等しい児戯には違いないのだ。そうであるならば、
「この胸のおごり清めよすみれ草」
と願いの対象物を、小さくやさしいものに委ねてはどうかと考えたが脱落し、いよいよ、
「わたしのおごりを清めてよ」
という安逸な発想に嫌気が差して、
「かたくななおごり清めよすみれ草」
と読み替えてみることにした。しかしここで「かたくなな」を「かたくなに」とする方が、「わたしのかたくななこころ」を離れ、まるですみれ草の行為として「かたくなに」清めるかのような、つまりは直情を少し逃れた心持ちがして、
「かたくなにおごり清めよすみれ草」
へと到着した。「おごり清めよ」こそ嫌みの根源であることを理解するには、さらにもう一段階経なければならなかったのである。

[第二段階]

かたくなにおごり清めよすみれ草

 すみれ草に対して「おごりを清めよ」と語りかける処、もし間接的に自らへの戒めとすれば安っぽく、純粋にすみれ草に対して放った言葉とすれば、社会一般のすみれ草のイメージ、すみれ草の清楚な情緒性の範疇から乖離し、いわば
「おごり高ぶったという表現の一般的に似つかわしくもないはずのすみれ草よ、そのおごりを清めるのだ」
というような不始末に陥っていることをようやく発見する。詩とはあるいは、己の誠と公共の誠とのせめぎ合いに成り立っていて、自らがどれほど誠の言葉を吐いたつもりでも、それが社会一般の定義の範疇から乖離しすぎれば、(さまざまな曲折を得ずしては)情緒的な表現として認知されることもなく、ただ屁理屈を述べたてたか、いつわりの情緒を玩んだかと思われるのが落ちなのかもしれない。いずれすみれ草に対して「おごりを清めよ」という表現は、そのままの叙し方ではいつわりの表現の感が濃厚である。その結果「すみれ草に対しておごり清めよ」という発想を抱いたわたくし、すなわち着想という名の陳腐なエゴが表面に溢れ出し、句全体に著しい嫌みを生じる結果となったのだ。

 さらにこの句は、どっちつかずの曖昧さでもって、「わたくしのおごりをかたくなに清めよ」という意味とも読み取ることが可能で、このどっちつかずの方針がそのまま仇(あだ)となって、読み手の方針が定まらないような嫌いがある。その為、詠む度に中途半端で、釈然としない思いが情感を削ぐ方向へ作用するようだ。つまりはすみれ草に対して似つかわしくもなく、「おごりを清める」という言葉ともそぐわない、「かたくなに」のひと言を加えたために、この句の意味は、
「清楚なこころを持つすみれ草よ、わたくしのおごれるこころをかたくなに清めておくれ」
といった印象ではなく、
「すみれ草に対しておごり清めよという尊大な着想を生みなしたわたくし。さらに加えてかたくなという表現まで思いついたわたくしは大したものである。」
つまりは着想を生みなしたわたくしを句によって自己アピールしている、といった様相がちろちろ燻(くすぶ)るような不始末だ。

 もっとも、それに気がついたのは、ここにようやく振り返ってからのことで、改変中はただ訳も分からず嫌みから逃れようとして無闇にもがき苦しみ、例えば、
「かたくなを流し清めよすみれ草」
とすれば今度は「すみれ草」がおかしいことに気がつき、
「かたくなを流し清めよ春の水」
など改変するうちに、ついに「かたくな」に対してまだしも自然な発想であるかと思われる、
「かたくなにつぼみを閉ざすすみれ草」
へと辿り着いた。つまりはもっとも客観性、写実性に近いものが、もっとも情感に作用するという結末を迎えたのだ。しかしこれでも
「つぼみを閉ざすすみれ草」
という印象に虚偽が籠もるような気がして、一層のこと季節をかたくなな寒さの方へと移して、

かたくなに莟を閉ざす寒椿

へと逢着した。これによって、出発点の意味はまるでなくなってしまった。

ストーブに

 この時期の句は、百人百記、千日千述程度の発想を安逸にものしたものが多い。そうであれば、道ゆく人の数に合わせて数千、数万の句が容易に生みなされる筈で、生みなされた反古紙のどれを選んでも極めて同質的という事になれば、それを吟味する故さえ損なわれるばかりである。良きも悪しきも存在しない奈落の底の落書が大量生産され続けるには違いない。つまりは誰にでも出来ることなら、はなっから記す必要すら無い日常会話であり、もはや詩でも文学でもない記のがらくたには過ぎないかと思われる。大量生産された既製品のオンパレードをカタログ的に蒐集(しゅうしゅう)するほど、下等な趣味など存在しないのだ。一例を上げれば、

夜明け前の凍えるなみだ音もなし

 寒い夜更けに浮かめるなみだを叙するに対して、誰にでも思いつく感慨をひと筆書きにして、陳腐安逸怠惰直情に歌いきる。取り所もないような凡句である。
 これを逃れようとして、
「失って凍えなみだを聞く夜かな」
などものすればなおさら俗で、誰を失ってか知らないが勝手に失っておいて、読み手を無視して感慨に耽るような不始末へと転げ落ちてしまった。あるいは、これを逃れようとして、
「凍えてたなみだの音を聞く夜かな」
とするも、なみだの凍る音を聞くなど、ポンチもポンチ、戯画も戯画。詩情も知らない凡夫(ぼんぷ)が、詩とは斯くあるべしと演技をうって、周囲はあまりの素人芝居にげんなり致し、本人のみは大得意といった結末を迎えた。

 つまりは善し悪しを悟るだけの分別が形成されていないのが原因で、ようやく奈落まで落ちて見えるものもあるらしい。ポンチ画のデフォルメされた陳腐をそぎ落とす事によって、ようやく大根役者の芝居から逃れた、日常的なひたむきさを叙述することが出来たのは、
「凍えつつなみだのゆえを聞く夜かな」
となってからである。

 しかし「凍えつつ」という説明がくどいものに思われ出し、いっそ寒さをなだめてくれるものへと、フォーカスを移したらどうかと思いつき、

ストーブになみだのゆえを聞く夜かな

へと辿り着いた。こうして出来たものは、即興的でありきたりな落書ではありながら、始めの句よりは、多くの人が犯しそうな過ちを幾つか回避しているという点に於いてのみ、わずかに詩としての価値を獲得しているように思われる。つまりは百人百記の状態から、せめても百人十記くらいの希少性は獲得したのではないだろうか。

待ち人を

 もっとも始めの即興性を捨て難くて、結論の出せなかったような場合もある。

待ち人をあきらめきれずに冬時計

 一番始めに考えたのは、この位なら学生のノートに記された落書にもありそうなということで、まずはそれを逃れようとして、
「待ち人を思いつづけて冬隣」
「待ち人を思いつづけて春時計」
などと試み始めた。その後わずかにリアリティーを獲得したらしく、
「待ち人を待ち尽くしてます傘の宿」
へと辿り着く。けれども「待ち人を待ち尽くす」というくどくどしい叙述、雨宿りの意味とも何とも解し難い「傘の宿」の表現など、描写のディテールが定まっていないのに気がついた。

 そこで言葉のリズムを取って、
「待ち人を待ち人を待ち」
という遊びの要素を取り入れ、同時に下五を自然な発想へと導いて、

待ち人を待ち人を待ち傘の雨

と取りまとめることとしたのである。今となってもこの結論に反論する気は起こらない。しかし、改めて読み返してみると、一番始めの句、
「待ち人をあきらめきれずに冬時計」
という表現は極めて率直であり、いつわりの表現や嫌らしい言いまわしへ陥らず、かつ即興的であり、散文的でルーズな表現法ではあるものの、詩の情緒的真実ということについては、改編後の句よりもかえって生きているような錯覚が起こってくる。つまりはどちらがマシなのか、どちらが優れていて、取るべき価値があるのか、取りまとめがつかない心持ちがして、しばし煩悶することとなった。

 さらに読み返しつつ吟味してみると、始めの句は、たしかに率直であるけれども、やはり日常会話的レベルに留まっている、つまりは叙し方が洗練されず、朴直(ぼくちょく)の延べ書きの傾向が残り、言葉の抽象化に対して弱みがある事に気がついた。やはり改訂後の方が、句としての結晶化が図られているようだ。

 ところが翌日になって読み直してみると、今度は逆に日常会話的であればこそリアリティーを獲得しているような気さえしてくる不始末で、つまりはこの時期の句は、自らのものさえ方針が定まらず、右往左往のあげくに成り立ったものが極めて多いのが特徴である。もっともこれは今日に於いても解消されていない問題で、つまりは未だに

待ち人をあきらめきれずに冬時計

が捨てるべき作品であったのかどうだか、結論を見ていないのである。

たれ慕ふ

 率直と俗調の合間に息づくような句は他にもあり、例えば

まだ誰か思い切れずになみだ枯

のような漠然とした表現は、直情のものしかたを客体につかみ取ることさえ出来ない学生の落書に近いもので、その上「まだ誰か」の表現によって主体的に思いを詠んだものか、客体に眺めようとしたのか、それすら定まりがつかない不始末だ。それを逃れようとして、
「人こいしなみだの果を枯尾花」
「人こいし思いなみだも枯尾花」
「人こいしなみだも果てて枯尾花」
などと主観に寄り添ってものするも一層の俗調を極め、ようやくのことで、
「たれ慕うこころも飽きて枯尾花」
と自らの思いを間接的に枯尾花へ委ねる方針を見出すこととなった。けれどもこの「たれ慕う」の表現は、
「待ち人をあきらめきれずに冬時計」
に見たような率直な情緒性に対してはマイナスに作用し、かえって抽象化を高めるのに作用しているものだから、一層のこと様式化を推し進め、

たれ慕ふ夢や忘れし枯尾花

と古文調にものした方が、優れているのではないかという暫定的結論へと達した。

生まれてそれが

 一方、

今日を生きてそれがどうした枯の果

のような典型的な口語調は作者の嗜好の一つである。この種の句は口語の言いまわし、言葉のリズムによって句調を整える他、遺棄する以外方途が付かない。推敲ももっぱらそれに専念し、
「生まれてそれがどうしたというの冴え返る」
といった言いこなしの変更に始まって、字余りを拡大させて、
「生まれたからってそれがどうしたっていうの冴え返る」
など試みるも、

生まれてそれがどうしたっていうの冴え返る

くらいがもっとも即興的に情緒を表現したような心持ちがして、とりあえず筆を置くこととした。

ふたりの夢を

 語りにおける情緒の真実性ということについては、

どんな夢を語り明かそうふたりペチカ

という初稿が、
「ふたりの夢を語り合いたいような冬至です」
へと至り、さらに冬至の必然性に疑問を抱き、つまりは本当に「ふたりの夢を語り合いたい」のはいつなのかと思い悩み、かえって無季的に

ふたりの夢を語り合いたいような夜更です

とする方が、詩情を含んでいるような結論を迎えたものもある。

つかみきれない

 あるいはまた

どうしても伝えきれずに時雨かな

という初稿が、
「つかみきれない時雨の果ての思いかな」
となり、ようやくその描写の烟のような曖昧さに驚いて、
「つかみきれない蜃気楼みたいだね君はいつも」
へと到るなど、まるで別の句へと逢着したものも少なくない。さらにこの句は、女性的に語りかけた方がリアリティーが籠もると考え、

つかみきれない蜃気楼なのかなあなたいつも

という最終稿を見た。

秒針に

 もっとも、詩情に率直なのは結構としても、

時計の針鼓動の陰を冬の月

などものして、窮屈にイメージを押し殺したような、着想の叙述が原形質に留まった駄句もまま見られ、これを逃れようとして、
「秒針も鼓動に添わず寒の月」
とするも、今度は「寒の月」の描写が、極めて陳腐なものに思われ出し、
「秒針も鼓動に添わず寒苦鳥(かんくちょう)」
など試みれば、この「寒苦鳥」の作為まるだしの感は、まるで
「寒苦鳥という発想を思いついたわたくし」
の影が背後にちらつくような不始末に陥った。それでいて、それを消す妙案も悟り得ず、
「秒針も鼓動に添わずすがり虫」
「秒針も鼓動に添わず虫細る」
「秒針も鼓動に添わず虫の音遠し」
などさ迷ったあげく、ようやく、自ら生みなしたばかりに捨てきれない表現となっている、
「秒針も鼓動に添わず」
こそが安っぽさの元凶になっていることに気がついた。つまりは、この部分を放棄して、

秒針に怯えていましたすがり虫

くらいで十分だったのだ。

ペガサスよ

 お恥ずかしながら、ほとんどポンチ画としか思えない物もある。

ペガサスよ落ちぶれて我のへたれ靴

 醜態の極みである。詩情も抽象も象徴も言いこなしもわきまえないような愚か愚かした学生が、調子に乗ってものしたような自堕落の句が、酔いに任せて叙述されているのは情けない。それを捨てずにこね回す勇気も勇気だが、
「落ちぶれて泥を踏みます初しぐれ」
と中七以下を取ってみたり、
「落ちぶれた泥を踏みます初しぐれ」
へと変更するも、焦点を失ったような曖昧へと陥ってしまった。これではまだしもペガサスこそが焦点だったことを悟り、
「ペガサスよ折れたつばさの後始末」
とするも、意味が不明瞭であるような気がして、
「ペガサスよつばさの折れて遠き空」
と変更する。よく考えると、ペガサスのつばさが折れてしまったようなポンチ画のイメージを内包する叙述で、拙さばかりが強調されてしまったようだ。ここは一つ前の、

ペガサスよ折れたつばさの後始末

を取ることにした。こちらもまた、ペガサスのつばさの折れたような印象の籠もるが、ペガサスのつばさは折れるはずもないものであるからと悟らせる、いわば俳句的な解釈の方法に従った叙述法であるから、まだしも自らのつばさの折れたという思いを「後始末」の取りまとめに委ねられると考えたからである。

星はこぼれ

 つたない感慨をたどたどしくものした凡句を、幻想に逃れてどうにか救いあげた例もある。

星落ちて戻れぬ小路のごとくなり

 星が流れ落ちるように、戻ることの出来ない小路。その小路のように、わたしの歩みも戻らない、といった安っぽい理屈の句である。おおよそ説教じみた詩ほど低俗で興ざめをおこすものはない。それは悟りもせず詩など歌っている貴様に、そんなことを言われる筋合はないという、いわば詩の後ろに説教などして差し上げる作者の、着想という名の顔がチロチロするからである、これをどうにか写実的に生かそうと考えて、
「星落ちて戻れぬ小路も風ばかり」
などすれば、三流小説の説明書に陥ってしまった。

 つまりは叙し方がまるでなっていないのである。もしこれを実写的にものすなら、
「星落ちて小路に細る明かりかな」
くらいでもなんぼかマシなものを、どうしたらよいか方途も付かず、たちまち虚構へと逃れ、
「星は流れて戻れぬ秋の砂時計」
へと舵を切った。つまりは始めの趣向に基づいたデフォルメに戻ってしまった訳である、これをさらに、
「星はこぼれてつかの間をゆく砂時計」
としてみたり、その芝居じみた安っぽさに羞恥して、ようやく、

星はこぼれひと粒ほどの砂時計

という描写へと落ち着いた。今詠むと、説教臭さはないが、幾分理屈じみている。

赤い靴

 描写の定まらない例としては、

砕け散るいのちひとつを夏の岩

「いのちひとつ」に委ねた「人のいのち」ほどの感慨。その安っぽさを嫌い、
「砕け散る卯月の浪よ靴の跡」
とするも、まるで自殺志願者じみた露骨な描写に陥り、慌てて逃れようとして、
「赤い靴岩は卯月の波しぶき」
など改変し、ついには

赤い靴崖は卯月の波しぶき

へと逢着する。これによって赤白の対比、女性的男性的の対比、静寂と動態の対比、小さき者と大なる者との対比へと、句を昇華させることに成功した……かどうだかはなはだ怪しいものだが、理屈や着想をまるだしにした陳腐な叙述は、逃れ得たと信じて筆を置くこととした。

磔刑の

 情景だけは定まり、デッサン力に乏しいものもままある。

信じます磔刑(たっけい)のひとよ春は来ると

極めて俗に表現するも安っぽく、その拙さを逃れようとして、
「磔刑の人を守るか春の雷」
と改変すれば余計に俗調を極め、改めて、
「磔刑の人つかの間は春の雷」
と客体に眺めるもまるで要領を得ず、
「磔刑の耳許に聞く春の雷」
「磔刑の耳許に春の神鳴か」
など試みるも、どうしてもその場面を描写しきれなかった。ようやく雷を捨てた方が良かろうと思い直し、断罪されべき人と、未来を告げる鳥と、その先にあるもの……くらいに考えて、
「磔刑(たっけい)の耳許(みみもと)に聞く春告鳥」
と吟じてみた。しかし改めて考えると、この「春告鳥」もまた、自然さよりも着想に己惚れる吟者の姿がちらちらとして、嫌みを生じているように思われる。ここは、
「磔刑(たっけい)の耳許(みみもと)に聞く春の鳥」
くらいで良いのではないだろうか。

 そう思った後にまた眺めていたら、磔(はりつけ)という人事に対して、春の鳥という自然を配合するよりも、危機的な人事に対して、長閑な人事を込めた方が良いのではないかと気がついた。つまり結論としては、

磔刑(たっけい)の耳許(みみもと)に聞く春の唄

自らを見あげながらか、知るでもなく遠ざかる人か、春の唄を長閑に口ずさむ声が、磔刑の耳許へと聞こえてくる。ただそれだけの趣旨である。

蕭条(しょうじょう)として

 一番初めに見た例のように、改変の果に原形を捨て去ったものは多い。中途半端なイメージのままぼんやり書き記すのが原因で、全体構図をつかんでそれを吟じるなど思いもよらない不始末である。中には、

きみ色の/ゆびさきよ秋染まる雲みなしずか

のように始めから方針も定まらず併記されたものもある。ちなみにこれは「きみ色の」と「ゆびさきよ」を併記したものでなく、「きみ色のゆびさきよ」と大きく字余りにさせるか否かという併記であった。

 まずは、始めを客観的に叙してから、主観「しずか」へと到らしめる方が良さそうだと考え、
「晩秋を染めなす夕べみなしずか」
とするも、「晩秋」など漢語的な表現を持ち込んだのが原因で、古典的な調子へと舵を切ることとなった。つまりは、
「晩秋蕭条(しょうじょう)染めなす夕べみな閑か」
「晩秋蕭条(しょうじょう)染めなす夕べ閑かなり」
など漢文訓読文的傾向を模索するも定まらず、
「蕭条として染めなす夕べみな閑か」
など混迷を極めるも、振り出しに戻ってみれば、
「きみ色のゆびさきよ秋染まる雲みなしずか」
という方が、はるかに詩情を偽りなく表現した落書であり、
「蕭条として染めなす夕べみな閑か」
とは要するに、情緒もなくてもてあそんだ言葉のレトリック(それも拙いくらいの)に過ぎないことに気がついた。それならば漢語的表現を詩を抽象化させるための道具として使用し、すなわち「蕭条」のみを取り出して、率直な語り口調に委ねる方が良いのではないかと思いつき、ようやく、

蕭条(しょうじょう)として悲しみの舞う季節です

へと漂着する。要するに始めの句は、意味も言葉も消失することとなった。

打ち消し句

 これらは改変に成功した例であるが、混迷のあげくに放擲した句もある。もっとも始めより手術のしようのない作品もままあり、例えば、
「朝空を冬の終わりの風ごころ」
といった漠然として、ほとんど無意味に近いもの、
「返り咲くなおさら遠き春の鳥」
はなはだ独りよがりで、イメージの不鮮明なものもあり、
「鋼鉄のごとく閉ざせし沼の主」
まるで馬鹿な学生が、珍奇と詩情を誤認したような作品や、
「梅の香も市井の人も海の底」
震災を愚弄するかのような陳腐な叙述で、感慨を述べたてた混迷の作品まで含まれているのは情けない。挙げ句の果てに、
「我が歌を黄泉に伝えよ蝉しぐれ」
まで来ると、何が言いたいのか今もって自分でも判別不可能である。これはお前さん、まったく酔っぱらいの落書だよと、呆れるほどの不始末だ。

 幾分か改変を試みたものとしては、
「鼓動のみ残して散るやこのこころ」
いと拙きを、
「鼓動ばかり寒き夜空にこだまします」
とまで持って行くも、あまりにも漠然とした殺風景に嫌気が差し、ついに遺棄したもの。あるいは、
「我がことをもうあきらめて野ざらし記」
のような独りよがりの落書を、
「我がことをあきらめとして野ざらし記」
などもてあそぶも、始めの意匠の乏しさから逃れきれず、一層奮発して
「旅に病んでしぐれの音や野ざらし記」
「旅に病んでしぐれを聞くや野ざらし記」
と名句と戯れて見るも、すでに「野ざらし記」に「野ざらし」の思いを託すところに嫌みを生じている上に、蕉翁の陳腐のパロディーの感が濃厚で、読み返せば読み返すほどに呆れ果て、そのうち羞恥の蛸壺に陥って「たっ、助けてくれ」と叫びたいほどの混迷のうちに放擲(ほうてき)したものさえある。

 あるいは叙し方を悟れず、
「水の如く誓いを聞くや除夜の鐘」
の安っぽい感慨を逃れようとして、
「水は清く山河を行くや除夜の鐘」
「水は深く山河を行くや除夜の鐘」
など考えるも、広漠たる散漫を逃れ得ず、
「寝静まる山河を行くや除夜の鐘」
とするも焦点を定めず、
「寝静まる里の灯しや除夜の鐘」
と改編することとなった。しかしこれまた、寝静まる里に灯しとは如何(いかが)なものか、それ以前に除夜の鐘を聞くべき夜であるのに寝静まるものか、などさまざまな煩悶に逢い、悲しくも遺棄する結末を迎えることとなった。もっとも捨てるべき作品だったかどうか未だ分からない。あるいはこの位の句もあっても良かったのだろうか。

練習曲第四番

 以上「練習曲第三番」における改変の甚だしさに対して、「練習曲第四番」の句は、相変わらず改変の多いものの、質的と云っていいくらい、混迷の句が減少したことが特徴である。これは恐らく、正岡子規の俳論を読み、芭蕉とその門下の俳句を吟味し、蕪村の面白みを悟り、謎サークルの奇妙な俳句には嘔吐を催しつつ、やがて子規の俳句の詩情にのめり込むうちに、自らの句作にわずかの方針を得たためかと思われる。

 「第四番」に於いては、「七不思議」の成立に見るべき所があるかもしれない。このシリーズは元々は、

ななふしぎ夕べの夏も美術室

という子供の落書みたような拙い句を元にして、

「七不思議」
人形の夕べに笑う美術室

と戯れたのが始まりで、面白くなって七つ作ってみたのは、実際は最終稿を仕立てている最中(さなか)の落書である。だから初稿の拙さが光って見えるのも、実にこの部分である。その戯れに即興した七不思議を掲載すれば、

人形の夕べに笑う美術室
かすみの日廊下の向こうにまた廊下
真っ赤な教室に人もなく笑うピアノです
つゆの宵部室の壁に人の影
ひなまつり池にひっぱる白き腕
かがみの向こうに満月を見るとその人は……
花散る夕べ蛇口から真っ赤な水あふれ

 ここから、具体的な表現で興ざめを起こすような、さまざまな要素を取り払い、抽象化するのが推敲の役割には違いない。そうでなければ、五七五になっているからといってただの説明書、叙述、落書には過ぎず、詩でも何でもないのだから。そこでまず、

人形の夕焼け雲にわらうかな
春がすみ鏡向こうのおんなの子
廊下のかなたに廊下のつづく終戦日
もみじ池足を引っぱる白き腕
音のして指だけ走るピアノかな
いちょうよりぽたりぽたりと赤きもの
すりガラスより満月を見るとその人は……

それからさらに、

夕焼けににっこりわらう壁人形
春かがみ手まねきしてます女の子
廊下のかなたに血まみれを見る終戦日
白き腕の足を引っぱるもみじ池
短夜のピアノひともなく指ばかり
雪の降る夜は真っ赤なプールに首ひとつ
部室より満月を見るとその人は……

となり、最終的には配列も変えつつ、

「七不思議」
春かがみ手招きしてますおんなの子
短夜のピアノひともなく指ばかり
夕焼ににっこりほほえむ壁人形
廊下のかなたに血まみれを見る魂(たま)おくり
あの物置より満月を見るとそのひとは……
白き腕に足を引かれて冬の池
雪の降る夜は真っ赤なプールの首浮かぶ

として掲載された。
 しかし学園的な七不思議と考えれば、
「廊下のかなたに血まみれを見る魂(たま)おくり」
は少しピントがずれている。ここは一つ戻して
「廊下のかなたに血まみれを見る終戦日」
あるいは
「廊下のかなたに血まみれを見る後の月」
くらいの方が良いだろう。あるいは奮発して、
「廊下のかなたに血まみれを見る夏やすみ」
「廊下のかなたに血まみれを見る肝試し」
などはいかがかと再考してみるが、結局抽象と具体的リアリティーの狭間(はざま)に息づくような即物性を持った、
「廊下のかなたに血まみれを見る終戦日」
こそもっとも良いだろうという結論へと達した。つまり「終戦日」は動きそうな言葉でありながら、その実動かない言葉であったということか。

「七不思議」
春かがみ手招きしてますおんなの子
短夜のピアノひともなく指ばかり
夕焼ににっこりほほえむ壁人形
廊下のかなたに血まみれを見る終戦日
あの物置より満月を見るとそのひとは……
白き腕に足を引かれて冬の池
雪の降る夜は真っ赤なプールの首浮かぶ

           (おわり)

2011/11/5

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