これは改訂の覚書など残して、自らの向上の助けとするほどのものである。
つかもうとしてすり抜ける夜更けの蜃気楼
散文と律文のはざまを模索するはいいとしても、自由律時代の独りよがりの駄散文の様相が濃い。特に中七の拙い叙し方を修正して、
「つかもうとして指すりぬける蜃気楼」
とするも、遠くの蜃気楼が指すり抜けるという表現は安っぽいデフォルメに落ち、幾分か不自然であるような気がする。例えば、手のひら遠くをかざして眺めたとしても、そう推し量るべきところにすでに理屈がひそみ、情緒的にマイナスに働くのではないだろうか。そうであるならば、もっと率直に、
「つかもうとして指すり抜ける夏の砂」
くらいのほうが良いだろうか。しかしこれでは、句の意味が消失して、実も蓋もなくなってしまうようだ。
繰り返し熟読するうちに、蜃気楼の方がなんぼかマシな気がしてきた。蜃気楼を指先につかみ取りたい思いは、あながち不自然なものではないのかもしれない。あれこれと煩悶するうちに、ようやく、
「つかもうとして指すりぬける星の砂」
という句を得た。「星の砂」は砂の中にあってもまばらだから、「夏の砂」ほどの俗には陥らずには済みそうな気がする。しかし「蜃気楼」と比べてどちらが勝るものか。
このように、取るべき言葉の定まらない場合、その言葉の動くような場合は、最終稿へと結晶化されていないことがほとんどである。その後ようやく、
「つかもうとして指すりぬける砂の星」
という句を得るに到った。これによって、ようやく蜃気楼は消失したのである。つまりこの句は、
「つかもうとして指すりぬける星の砂」
の下五を入れ替えたに過ぎないが、「星の砂」とすれば星の形をした砂であることを説明したに過ぎず、単に事実を叙しただけであるが、「砂の星」とすれば、星という概念にウェイトが掛かり、つまりは本来の星の概念がわずかに混入し、まるで砂粒のような星が指先をすり抜ける、つまりは星の形をした砂粒というだけの対象物ではなく、砂粒の中にある夜空の星のイメージが、指をすり抜けるような錯覚を、かすかに内包するように思われるため、まだしも相応しい表現かと思われる。
言葉の定まり切らない例については、他にも、
廃線の枯れ葉になくした道標
という元の句を、
「廃線の枯蔦(かれづた)になお道標」
としたものの、「になお」の表現にもの足りなさを感じて、
「廃線の枯蔦(かれづた)今も隠された道標」
と字余りに説明すれば説明過剰に陥り、
「廃線の枯蔦(かれづた)色あせた道標」
と中七を句切ってみれば、「色あせた」もまた「枯蔦」や「廃線」から類推できる余計な説明でることに気がつき、その他、紆余曲折をさ迷ったあげく、始めの
廃線の枯蔦(かれづた)になお道標
こそもっとも優れた表現であると悟ったような場合もある。
時の軸を見失って雪の白さばかり
明確な意味を持たない抽象的概念である「時の軸」が詩を硬質に牽引するので、かえって「見失って雪の白さばかり」と中七を句切って全体をナチュラルな言いまわしから遠ざけるよりも、
「時の軸を見失ってた雪あかり」
など韻律に従った表現の方が優れていると考え、さらに「見失ってた」ではただの説明的叙述に過ぎないと気づき、
時の軸を見失っては雪あかり
と変更した。前のものは「雪あかり」を説明したに過ぎないが、これだと時の軸を見失って、その状況のもとに雪あかりを見出したという二つの事象が内包され、句意が豊かになるからである。
叙し方については他にも、
斉射尽きて驟雨(しゅうう)に友の横たわる
を改変して、
斉射尽きて驟雨にねむる友の影
としたものなども好例としてあげられる。つまりはこの場合客観的事実を説明した始めのよりも、「驟雨にねむる」と主観的にものした方が、わずかな哀しみの籠もるというような例である。
あじさいの夕べに変わる花の色
あじさいの夕べに変わるのは「花の色」であることは明らかであるから、不要であると考え、
「あじさいの夕べに変わるこころかな」
ようやく始めに戻って考え直すには、
「あじさいの夕べに変わる雨の色」
「あじさいの夕べ水色に変わります」
などいろいろ直してみるも、ただ事実を事実として言い切った「花の色」には敵わず、ついに元の句を取ることとした。
しかしその後、
「あじさいの夕べに変わる雲の色」
ならばどうかとまた煩悶し始める。これだと紫陽花の咲く頃の梅雨の雲の変化を込めるような気がしたからである。
けれどもまた、始めの「花の色」に引き戻される。よくよく考えると、下五をあじさいから離れた対象物に移すためには「あじさいの」という叙し方では駄目で、「あじさいよ」とか「あじさいや」とか置かなければフォーカスの移行が巧く定まらない。しかし、そのように叙したからといって、色の変わるのはまさに紫陽花であるという圧倒的な事実の前に、雲の色や雨の色が変わったという中途半端な逸脱を加えるのがすでに俗で、安っぽい着想であり、極めて陳腐なはぐらかしに過ぎないのではないだろうか。そのチープな印象は句からにじみ出ているには違いないのだ。そうであるならば、
「あじさいの変わる花の色」
という圧倒的な事実に対して、「夕べに」とわずかな虚構を加える、
あじさいの夕べに変わる花の色
くらいが、もっとも詩情を豊かに表現できるというのが、今のところの結論である。
これに似た例としては、
蛾を運ぶ数え切れない蟻の列
「数え切れない」という叙し方は、あまりにも説明に過ぎると考えて、
「蛾を運ぶおびただしくも蟻の列」
など模索するも、蟻の列の真に多く感じられるのは即物的な描写の「数え切れない」の方がかえって勝っているように思われ、結局はもとに戻すことにしたものもある。
エプロンの手料理似合うあなた部屋
これは「あらたまの手料理に逢う」の対になるものとして、つまりは「手料理に逢う」と「手料理似合う」の言葉のたわむれを無季調で記したものである。ひと時、これにも季語を含めようとして、
「エプロンにお鍋料理もあなた部屋」
などと試みたこともあった。これによって冬めく効果が得られたことを喜び、さすがは俳句には季語だよなどと欣喜雀躍、そんな愚かしい瞬間が、たしかにわたしの胸のうちを、一日くらいは支配していたのだった。
ところがこれを翌日に読み返してみればはなはだ馬鹿馬鹿しく、実も蓋もない俗調に陥っていることに気がついた。これに対して、始めのものは、季語などなくても、情緒的に暖かさが伝わってきて、あなた色に染められた人の思いが詩に込められていることを発見し、安易に季語に走ろうとしたおろか者のわたくしをポカリポカリと糾弾しつつ、すごすごと元に戻すこととしたのであった。
炭酸ソーダのジンジャーとかせよプール際
中七までの空想的飛翔を「プール際」が俗に貶めている。これを回避しようとしたのが推敲の始まりである。始めは水と無関係の方が、かえって幻想性が増すかと考え、「夏の月」「星まつり」などを候補に挙げるが、そのうちまた水に関連した「夏の海」の方が良いのではないかとさ迷い始める。
いずれにせよ単純な季語の叙し方では、中七までと釣り合いが取れなそうだ。あれこれ煩悶して、
「炭酸ソーダのジンジャーとかせよ梁(やな)しぶき」
など、古きと新しきを融合し、不可思議の領域を模索するの策を得て、愚かなるわたくしは、またしてもひと時欣喜雀躍。春色の脳みそに心を委ねてしまったのである。翌日になって、あまりの馬鹿らしさにすっかりへこたれた。
_| ̄|○
一層のこと幻想性をではなく、写実をこそ込めて、
「炭酸ソーダのジンジャーとかせよ夏の酒」
くらいの方が良いのだろうか。そん煩悶をする中にあっても、どうしても捨てきれない表現、
炭酸ソーダのジンジャーとかせよ夏の月
だけが常に回帰する候補となって残留し、ついに決定稿に登ることとなった。なぜ「夏の月」であるのか、……それは今以て分からない。
[あるいはそれは
「夏の月にはジンジャーエールがよく似合う」
くらいのイメージのためかとも思われる]
春辺やわらかく夜行列車の窓ならび
春のやわらかい大気のなかに列車の窓がすっと過ぎていく様を詠んだものであるが、「夜行列車の窓ならび」という表現、日常的表現に対して佶屈(きっくつ)に勝り、詠み人の情緒性に対してプラスに作用しないのではないだろうか。そうであるならば、
「春辺やわらかく列車あかりの横ならび」
つまりは「夜行」の説明を消して、情緒的な「あかり」をクローズアップさせようと考えた。
しかし、はたして夜行列車の「窓あかり」のイメージを込めることが、この句に於いて重要な事なのかどうか。そのようなものは読み人が勝手に解釈すべき事柄で、つまりは読み手のあまたのイメージの一つとしてあれば十分で、聞き手の解釈の多様性に委ねる方が、遙かに詩情に勝るのではないか。そう思い直し、
春辺やわらかく列車の窓の横ならび
へと辿り着いた。つまりは列車の過ぎゆく窓辺が朝なのか、昼なのか、夜なのか、あるいはどのような situation であるかは、詠み人に委ねることにしたのである。
たましいの最後に浮かぶほたるかな
たましいをなくして光るほたるかな
以上二つを併記するも、どちらもしっくり来ず、つまりそれぞれが補い合っては何かをイメージしているようであり、それぞれが単一では何かもの足りない。すなわち二つを融合させる方法を模索すべきであると考え、しばし後に、
たましいの最後にひかるほたるかな
となる。
生きものの冷たくなりて包囲網
おおよそ人々の情緒にすんなり溶け込めないような説明的文章は、詩において興ざめを引き起こすばかりである。もちろんある程度の長さの詩であれば、全体のバランスの中に埋没させ、それをプラスに作用させることも、ありきたりの技法ではある。けれども短詩、特に短歌や俳句の場合は、その部分が露骨に提示されるとなると、全体の詩情を奪い取る性質を帯びること、ほとんど決定的要因として作用するには違いないのだ。
下五の「包囲網」は、この句に於いては、それだけの興ざめを引き起こすべき単語ではある。このあたりの取捨選択は極めて難しく、使い方によっては生かされる場合も多く、かえって効果的な場合すらある。しかしこの場合は、前の「生きものが冷たく果てて」という露骨な描写が、「包囲網」の殺風景を誘発して、より俗な調子に仕立てているらしい。ここは抽象的な物語風に叙して、
生けるもの冷たく絶えて村ほろぶ
へと変更することにした。
主観と客観についても見ておけば、
うめきさえ短き夜を待つでなく
つまり、主観的に「ああ、うめき声が消えたなあ」とつぶやくくらいの叙述よりも、やや客体に突き放して、
日の落ちて真っ赤に消えるうめき声
などとした方が、うめき声の断末魔の唸りを、リアルに表現しているのではないだろうか。
秋刀魚遠くて裸足で駆けてく栄螺(さざえ)かな
例の「お魚咥えたさざえさん」の唄を、不可解な句に抽象化できないかという、いわば冗談で考えて、
「秋刀魚遙かなり駆けて行くのは栄螺かな」
など試みるも、いささか作りすぎかと反省し、
「秋刀魚に焦がれ駆け出していく栄螺かな」
とすれば、理屈っぽくて冗談にもならず、
「秋刀魚慕わしく駆け出していく栄螺かな」
くらいで筆を休めてみることとした。実に下らないことをしたものである。
ところが翌日眺めると、いくら冗談にしても冗長に過ぎることが気になり始める。一層のこと意味不明の警句みたいにして、
慕わしく秋刀魚に走る栄螺かな
とした方が、かえって面白みに勝るような気がして変更した。
以上、これらの改変に於いて、「練習曲」の頃とは異なり、全体としては初稿より推敲の度合いがずいぶん減ったのは、恐らくは句全体の構図、プロポーションなどを一つの概念として捉えることが、以前よりは容易くなったからに違いない。ようするに五七五のなかでの律し方が、次第に身についた結果ではないかと思われる。
特に「残書」の部分は十一月直前に記された句の様相が濃いが、大きく改変を加えたものは極めて少ないのが特徴である。
いずれにしても必ずしも写実を模索するでもなく、虚偽を邁進するでもなく、ただあらゆるイメージを語るためのすべを、以前よりは少しばかり知ったと云うくらいのところが、この即興曲第二番における作者の成長であった。
(おわり)
2011/11/6