つきみ酒

(朗読)

つきみ酒

 2014年と2015年の落書から、掲載に足りそうな発句と、それにまつわる文章を拾いました。それから章の最後に散文が来るように、足りない言葉を補いました。おまけにお絵かきもしてみます。ただそれだけの宵でした。

去年今年

 はせをの発句をひもとくうち、つらぬく棒のごとき比喩の、おろそかなるには羞恥を致し、
  「浅薄なるかな吾。拙劣なるものを、
    あがめたてまつりし時もありき」
など、煩悶と興ざめをカクテールすれば、

去年今年
  貫く棒の 如きもの

 文芸とも至らぬほどの矮小さと、それをひけらかす自我(エゴ)、「貫く棒」のあけつぴろげにはなみだをながし、その比喩ます/\あさましく響く夕べには、ミクロコスモスと塵芥(ちりあくた)の区別もつかぬ乏しさを、小市民的傾向へと移し換え、朽ちた枯葉とありがたがるほどの、しぐれにうたれるみじめさを、吾らひとり/\はたそがれに、さみしく滅びゆくものだとしても、それでもこゝろのうちには、彼らとは違う星のひとかけら、きらめきくものと知るならば………

はしまりと
  をはりませかふ 鐘も又……

もはや「鐘の音」やら「除夜の鐘」などのフレーズも、マンネリズムの堆積に、うずもれるばかりの砂丘には、こころのかけらもあらざる事を悟るとき………

    「大つごもり」
おはり瀬に
  はじまる波の音あらむ

くらいの空想もまた、
 棒よりはまだしもゆかいに感ずるばかりなるべし。
        元旦 書生記す

[棒の如きは、警句を反復するときのよろこび、力強くて明快ないい切り方がもたらす爽快さと、単純な発想のもたらす愉快があり、そうしてそれ以外はなにもない。俗人受けするのはもっともで、引き合いに出されるのももっともで、語られがちなのももっともではあるが、それは警句としての愉快さであって、詩情とは関わりの浅いものである。情に乏しいのではなく、情に浅いのは、時間軸の比喩として、棒というのが、はなはだ安っぽく感じられるからであり、それ以外のなにものでもない。俗人は、強い刺激をありがたがるものである。ならば、この句の価値も、保証されたと言うべきか。]

春の歌

返されて
  ショコラーデした なみだかな

酔わされて
   だまされたくて はしゃぎ猫

さくらして
  風になみだの 散る夜かな

[「風に」⇒「風は」]

ポニーテールの唄

 駅へ向かえば、小学生くらいの女の子たち、はしゃぎながらすれ違う時に、何気なく思いつくことは、

通学路
  風にリボンが もつれては

 思いつきならば、そのままの表現はよろこばしく、けれども句にもならないことは、また当然のことならば、

通学路
  風にリボンが もつれ歌

など、空想的な表現にゆだねて、駅の階段をのぼる頃、

ポニーテール
  風にリボンが もつれ唄

 通学路を捨て、代わりに迎えた「ポニーテール」がここちよく思われたので、これを端末に書き留めて、駅の改札を抜けるのだった。けれども………

 「もつれ唄」というのは、空想的傾向に勝るものとして、現実的にものすならば、

ポニーテール
  風にリボンが もつれ髪

 くらいになるだろうかと思い比べる時、わざわざポニーテールと風とリボンを持ち出した、その絡み合うようなうれしい感じが、「もつれ髪」だと理屈に落ちて、なんのおもしろみもなくなることに気がついた。つまり空想的に「もつれ唄」としないと、上句も中句も存在する意味がなくなってしまう。ポニーテールを付けているはずの誰かの心理状態が、最後の「もつれ唄」には込められていると気がついて、「もつれ唄」をもって完成とすることとした。

夏の歌

[はじめここに、
    「どんな夢を
       僕らに明日を 虹のさき」
という駄句あり。みせしめに記し置くものなり。]

こぽ/\と
  おどる清水を 呑みにけり

とうせんぼしかけ花火のラプソディ

あまやどり

 言葉の動くとき、言葉の置き換わるとき、句は完成していないとされるが、どちらの意味でも価値が認められ、どちらが劣るほどのものでもないならば、あえて確定させる必要などないのかもしれない。たとえば、帰省するあいだに列車に揺られながら思いついた句に、

手を振るは
  傘待つ君か あまやどり

というのがあるが、中句の動詞を名詞化させて、

手を振るは
  傘待ち君か あまやどり

とすれば、手を振る相手が、ちょっとキャンバスに描かれたような、アルバムの一葉じみた気配がこもる一方で、初めに見られた、即興的な臨場感が、ちょっと遠のくようなもの。どちらがよりすばらしいというほどのこともなく、同質的傾向が顕著(けんちょ)である。あるいはこれを、

手を振れば
  傘待ち君か あまやどり

と改編すれば、手を振るのが相手から、読み手自身へと移され、内容は大きく異なるにも関わらず、どちらの解釈にも意義とおもしろみがあって、それぞれが天秤の釣り合って優劣をつけられないならば………

 これらの作品は、すべてが完成品であるとして、三つ並べても差し支えのないものである。矮小な傾向の籠もるわずか十七字において、たった一つの完成された小宇宙が存在し、それこそ芸術であるなどと思い込むのは、いくらなんでも蟻ん子の脳みそにすぎるだろう。

秋の歌

まぼろしの
  みやこあそびよ かぐやひめ

清らかに 照る月なみの ふたりかな

いのり火
  夜半に吹き消す 嵐かな

君は去り
  夕んべな風よ はぎの月

君去りて 虫鳴きしきる 夕べかな

かゞりやんで
  風に散りしく もみぢかな

夢を背に
  いざよふ汽車を 聞く夜かな

ほされて
  さらされ朽ちる そほどかな

使いまわしのフレーズ

ふるさとは
  とほく/\て しぐれかな

 わずか十七字であればこそ、ここちよいフレーズのパターンに、さまざまなシチュエーションを折り込んで、あちらの情緒、こちらの情景をゆだねたくなるのは、なにも盗用を持ちだすまでもなく、故人の表現のうつしかえが、砂利の連なっているようなこの道程を眺め返すだけでも、理解できるかと思われる。もちろんそれには、矮小なマンネリズムの問題も含まれるだろうが、本質的に短い表現を警句的に、類型的なフレーズにゆだねたくなるのは、むしろわたしたちの会話の本質から導き出された、パターンのここちよさが関係しているのかもしれない。たとえば、この句などは、すぐ後の雪の発句にも、

しろく/\
   しろく/\て ゆきあかり

 先のパターンに、さらに同型反復のパターンを加えて、まさに語りのここちよさに身をゆだねたような表現も見られるし、そもそも「とほく/\てしぐれかな」という表現自体が、

冬の海遠く遠くてあかりかな

という、もっとも初期の俳句集『幸子へ、あるいは四季の夢』から来ているのは、単純にこのはじめの俳句が、こころに何度もリフレインされるうち、お気に入りの表現として、たびたび顔をのぞかせるに過ぎないという、それだけのことではあるのだが……

 それにしても、「ちかく/\て」だろうと「あかく/\て」だろうと、さまざまな形容を当てはめて、その対象を「~かな」で締めくくるだけなら、その発句のアイデンティティが心配されるかもしれないが、実際にこのパターンに当てはめてゆかいなものなど、この世には数え切れないほどある訳で、橘曙覧の「たのしみは」を出すまでもなく、いずれにせよ一定の情緒を宿すならば、類型的であるからといって、軽蔑するほどのことはないかと思われる。それに……

 これほど短い表現に、個別的な絶対的個性など打ち立てようとするから、詩でも何でもない頓知と屁理屈に、不可解な表現を織り交ぜた、あまたの落書きが今日もまた、生みなされているのではないでしょうか。

冬の歌

あかぎれにひかれてはしゃぐふた子かな

差し伸べて 星につゞみを 打つ夜かな

あわゆきの
  なめてはやせる 犬っころ

おしゃべりなペチカ
  狼のうなり声

しろく/\
   しろく/\て ゆきあかり

うずもれるポチの御墓よゆきあかり

千代が梅の
  枝落しけり しづり雪

千代が枝の
  夢落しけり しづり雪
 ではいと安し

今はむかし
   むかしは雪に 染まりゆく

ふんわり
  ふとんにくるまる ゆきおんな

雪の夜 ― 動くという事につきて

 動くということにつきて。容易に置き換わる言葉は、詩の定まらぬ証なり。他にも配置の動く事在り。同じ意にて、言い換えの利く事在り。よく/\尽くすべし。

ロウソクの灯しも尽きて雪あかり

居酒屋の灯しも尽きて雪あかり

君の窓ともしも尽きて雪あかり

 言葉も配置も、いかようにも移り変るは、着想の未熟による処なり。最後の如き惰弱の情緒は、現代語こそ勝るべし。

ともし消えて君の窓辺よ雪あかり

雪あかりともし火消える君の窓

 句の善し悪しはさておき、ひと文字動かせば、又意味も変るなり。

雪あかりともして消える君の窓

 暇をもてあそぶが如く、着想の変るも面白し。至らざる落書のうちにも、以下などはあへて季語を必要とせず。

ともしする窓辺に消える君の影

 さりとて季語を込めたれば、浮かび来たる情景の、たやすく情緒へと至るべし。

星冴えてともし火消える君の窓

 雪あかりのふと消されたればこそ、
  もとの着想の安易を思い知るべし。
   窓よりも又、

星冴えてともし火消える君の家

 もとより居士の時代なれば、

星冴えてともし火消える君が家

この「の」と「が」にはそれぞれ意味の籠もるなり。
 さりとてはじめの雪も捨てがたきとすれば、

雪ふかみともし火消える君が家

などは、星と灯火のあからさまなる対象を捨て、おだやかな冷たさに包みこむが如し。かくの如き対象のうつろひは、畢竟(ひっきょう)写実のうちにものせず、空想にものしたるがゆえに起こることにて、現実なればこそ万人に受け入れられるがゆえに、実写はたやすく、空想は困難なるべし。しかれども、実写にせよ、空想にせよ、言葉は動かぬ処まで、よく/\吟味すべきにや。
            (書生記す)

四季の歌

なっぱして
  四季折々な お漬けもの

消されず……
   あふれる宵は かなしみと

くゆらせて時折むせぶパイプかな

マニエリスムの
   果てにまどろむ 鴉かな

みづうみの
  影さへあせて うすあかり

君見ずや
  ほの燃えわたる かゞり火を

つきみ酒

 カクテルの紹介に発句でも加えようと思って。

銀のうさぎ 金のしづくか つきみ酒

 これは、「銀のしずく、あるいは金のうさぎのようにも見える月を、眺めながらに酒を飲む」くらいの思いを、ちょっとした修辞に交差させた落書には過ぎません。つまりは、

銀のしずく 金のうさぎか つきみ酒

という着想を、ひねったようなものなのですが、あるいは、

銀の鈴
  金のうさぎか つきみ酒

のほうがよいのか、あるいは、

銀のうさぎ
  黄金のしずく つきみ酒

がよいかなど、何度も繰り返し、どれほど唱えても、最終的にはある特定の表現へと、理想が収斂(しゅうれん)されるとき、

銀のうさぎ
  金のしずくか つきみ酒

こそが詩として、落書以上の価値を有すると、わたしにはようやく判断されるものでした。たとえばこれが、百年を超えて通用するならば、発句は芭蕉へといたるでしょう。数年のうちに陳腐化するならば、一茶の虚名はまぬがれないかもしれません。さながら猥雑(わいざつ)な落書のなかに、ときおり原石が転がるようなものかもしれません。

 もっとも、蕪村には見どころがあるでしょう。
   子規はまことを探求し、蛇笏の表現は、
  感性とかみ合っているように思われるのですが……
 それにしても、虚子の後半生は、
蛇足のように思われはしませんでしょうか。

 それさえまだしもマシに思われる頃、あふれかえるものは、世のなかから遊離したような、路傍に転がる蝉どもの、近づけばいきなり人を驚かせるような、警句にあふれた言葉遊びやら、メディアに群がるような、点取り先生やら生徒ども、利権をむさぼる企業との、枯葉をまとったような、collaboration 舞踏会。そんなものが、芭蕉の夢の残骸みたいにして、腐気(ふき)を放ってはいないでしょうか。

          (おはり)

2015/11/06 掲載
2016/02/06 改訂+朗読
2017/12/14 当時の絵掲載

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