吹け、潮風よ 「初日」

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「吹け潮風よ ― 八重山の歌」 (時乃志憐)

前夜

居酒屋の男

大地の祈りは雲に閉ざされ
空のかなたを静寂がただよう
陽に捨てられし名ばかりの花が
己の誓いすら忘れてうかれ騒ぐ

享楽の宴は悪魔を僕(しもべ)となし
蝕みの炎は幹を駆け昇るならば
僕らのたましいは悶えるみたいにして
互いにごうごうと燃えるのだろう

逃れるすべなき緑葉よ
朽ちて灰色の涙を降らせよ
失われたふるさとへの鎮魂歌を
奏でる大地へと灰色の雨を降らせよ

あらゆる果実はもぎ取られ
あらゆる人々はよもすがら
宴なかばに踊りあかして
魂ばかりを灰に埋める儀式が
甲高き竜笛となってこだまする

今こそ集え我らのために
宴に反旗をひるがえすものよ
ふるさとを我が手に戻すため
天に向かって祈りを捧げ
希望の翼で雲を払おう

 あの頃私は大学を卒業して、しかし企業に正社員として雇用されるのは気が重く、最後まで人生が詰まらなく決まっているようで、思い返せば大学までの道筋が、ひどく安い玩具のレールの上を、何も考えずに転がってきたような気がして、アルバイトをしながら、自分が情熱を傾ける何か、いつか見つかるのではないかと、探し回るように職を変え、職を変えては捜し回り、それでも毎日は怠惰に流れ、世界が空っぽのような気がしてふさぎ込んでいた。

 そんな時、私は一人の男と会った。彼は私を居酒屋に誘い、同じ姿で没個性的な表情のスーツ姿の集団を非難した。誰もが利用する乗り物や、誰もが出入りする施設や町中を、広告で埋める下劣の国民を非難した。本来公的役割を多分に持つはずの全国的テレビ番組を、民放と称して人を叩いて喜んだり、事実にデフォルメを加えてまで国政担当者をけなすことに専念し、自らが国民の代弁者だと馬鹿なタレントに叫ばせたりしながら、ひたすら商品の宣伝を垂れ流すことの醜さと、それを何とも思わない視聴者を非難した。驚いた飲み屋の客たちが、嫌な顔するのにも気を止めず、彼は日本の首都を、

「キャッチコピーのゴミ箱の中に埋め込まれた、安い素材の秩序なき景観と、コンクリートの電信柱と電線だらけの汚らしい掃きだめ」

と叫んで非難した。

 本来人々の生きる喜びは、自己の好奇心を満たし、情熱を注ぎうる職を手に持ち、絶えず向上心を持って、仕事に当ることにあるはずだ。そういう人間が多くなれば、その都市は人々の住みやすい、豊かな町になるはずだ。元来巨大企業に所属するようなスーツ型の人間は、自立的な向上心にまでいたらなかった生活者たちが、賃金のために喜びを投げ打って、その代わりシステム内で一定の歯車を全うすれば、一生を暮らしていけるだけのもので、かつては腰弁(こしべん)と呼ばれていたものだ、と捲(まく)し立てた。私が周りを気にして、話を打ち切りたがっているのを知ると、彼はさらに

「全員が同種の思考に傾斜し、異なる意見を聞こうともせず、次から次に蓋をして済ませたとき、その平坦の思想が大衆社会を形成した。今の君もその同類だ」

と言い放った。そしてもう私の反論などまるで聞かず、

「子供の教育システム自体が、まるで腰弁養成所となって、自ら文化を担わない消費するだけの、テレビを垂れ流したニュースやスポーツや娯楽の表層的な会話しか出来ない、あの電車に乗った腰弁を見て、君は何とも思わないのか」

と箸を振り回して私に迫った。

 私はその時まるで反論出来なかった。年齢が十歳以上も離れていたし、私自身があまりにもいろいろ悩んでいたのだし、それに自己意見過剰に初対面で捲し立てるような人間には、それまで一度も逢ったことがなかったのだ。私だってスーツは好きではないし、日本では景観の汚さに対して、あまりに無頓着だとは思っていたが、そこまで自分の国民を非難する彼に、かえって嫌悪感が生まれ、サラリーマンだって人生だといきり立って、何度か言い返してみたが、彼ほど自信を持って議論をぶつける勇気はなく、やがて何も話したくなくなって、嫌な気持ちで酒を飲んでいた。多分彼に対してではなく、自分に対して嫌な気持ちだったのかもしれない。私はその晩非常に悪酔いし、最後は泣き寝入りのように逃げだし、家にたどり着いて浴室で吐いた。

 以来彼と会ったことは一度もない。ただ今でも脳裏に浮かぶぐらい、彼の言葉の断片は、心に強烈に刻み込まれたのだった。私はその後もやはり、日々の気持ちに踏ん切りがつかず、もやもやしながら人混みの中で、怠惰の生活を繰り返していた。町中を歩くたびに、彼の言葉がちらついて、個性のない人混みと安い看板を見るたびに、たまらなく不愉快な気持ちだった。

 そんなある日のことである、旅行案内人を務める年の離れた知り合いから、私は八重山旅行ツアーに同行しないかと勧められたのだ。もう同じ生活は打ち切りたく、しかし日々流されがちな私も、心機一転を図る決心をし、潔く仕事を辞めると、半ばツアー客の一人として、羽田から飛行機に乗り込んだのである。

 こうして私の八重山旅行が始まった。飛行機が離陸して、大きな空に向かって本土を離れるにしたがって、何だか気分まで軽くなっていくようで、私は嬉しかった。少なくとも今までの生活よりは、ずっと広い世界が待っているに違いない。私はぼんやり居酒屋の男のことを思い出しながら、自分はあれほど言われて、黙っているような情けない人間ではないはずだと思い、自分の精神がすっかり参っていたのだと考えた。飛行機が八重山に着く頃には、彼の呪いも消えて無くなるような気がする。私は朝早くてぼんやりしながら、そんなことを考えたり、貰った毛布を掛け直したりして、そのうちに疲れて眠ってしまったようだ。沖縄に着いて那覇で乗り換えたが、私は次の飛行機でもやはり眠っていた。よほどたましいが疲れていたのだろう。ただ乗り継ぎの飛行機が、やけに小さかったことだけを覚えている。

 やがて機内放送が到着の近いことを告げ、私が目を覚ますと、窓の横にはもう青い海洋の合間に、幾つかの島影が綺麗に浮かんでいるのだった。八重山諸島だ。気の重くなるような前書きを過ぎて、楽しい紀行文をお贈り出来るはずだ。私の心は急にワクワクし始めた。あまりにも単純な心の変化に驚いて、人はこんなにも感覚で生きているものか、それとも自分が単純でおめでたいのかと、少し苦笑いしてみたが、暗い前置きに別れを告げ、八重山の思い出を記していこう。

 デジタルカメラの入った手提げカバンに、私は一つの小さな手帳を偲ばせた。昔から好奇心に任せて記していた言葉の落書きを、旅行でのスケッチ代わりに残して、一次元媒体のアルバムは出来ないだろうか。もし良い詩が幾つか書けたら、きっと楽しい旅行になるはずだ、そう思ったからだ。私は飛行機の中で、先ほどの詩を一ページ目に記したのだった。

初日

石垣島へ

 八重山諸島。沖縄本島を南西に下って台湾近くに迫る頃、ようやく姿を見せる日本最南端の人の住まう島々。私は手荷物かばんの中から、折られたコピー用紙を取りだして、もう一度読み直した。インターネットを徘徊(はいかい)して見つけた八重山の解説を印刷したものだ。非常に分かりやすい説明なので、ちょっと清文して掲載しよう。制作者が八重山旅行をした時のものであるが、私と同じ四月の旅行記なので非常に有益だ。もちろん許可は取ってあるから、心配してはいけない。

 石垣島の空港には滑走路が千五百メートルしかない。それが羽田空港(東京国際空港)発の飛行機が小型機である理由で、そのため貨物はおろか燃料さえも満載して離着陸が出来ないため、観光客の輸送効率が悪くパイナップルやサトウキビの貨物運搬さえ効率的に行えない。旅客機のソファーに寄り掛かってぐっすり眠っていた私が目覚めると、機内放送が「揺れますのでご注意下さい」と決まった台詞を述べている最中だった。この短い滑走路のために、小型機でさえもぎりぎりの減速を行なわなければ、着陸場所を踏み外してしまう。観光と特産品による経済効果に島の復興を委ねる推進派は、新空港整備の見直しを図る政府を説得してでも、新空港建設のプランを邁進している。彼らは島を豊かにし観光客を呼び込み、島人の生活を潤すために計画を立てているのである。一方、自然の豊かさこそ観光と生活の源だと考える反対派もまた、島を心から愛する島人たちに他ならないのだ。よそ者の私はそんな葛藤は知らず、羽田を後に約三時間の旅客機に別れを告げ、まだ見ぬ石垣に期待を膨らませていた。第二次大戦中に日本軍の軍用空港として開始した小さな石垣空港内を抜け、出口に近づくとクーラーの冷却を押しのけて、もわっとした外気が流れ込んでくる。四月半ば、東京はまだ肌寒く、厚い上着を着て羽田に向かったほどだが、熱い外気に誘われて石垣空港を出ると、二十五度を超える初夏の大気が、十七時を過ぎても高く残る太陽に照らされ、湿度の高い湯気が立っているようだった。北緯二十四度二十分に位置する石垣空港は、東京の羽田空港の三十五度三十三分と緯度が十度以上開き、そのため亜熱帯性気候に所属し、四月の平均気温を取り上げても、東京が十四度に対し石垣島二十三度、ほとんど十度ぐらい離れている。同じく羽田の経度が東経百三十九度四十六分に対して、石垣が東経百二十四度十一分。十五度を超える経度の差は、必然的に太陽の出入り時間の違いとなり、日本標準時間(Japan Standard Time、略してJST)を担う兵庫県明石市の百三十五度より東に位置する羽田に対し、石垣島では一時間ぐらい日の出が遅く、同じくらい日の入りも遅い。

 年平均気温は二十四度、冬でも十八度三分という温暖な環境は、この八重山が亜熱帯性気候であると同時に、海洋性気候である事による。黒潮の温暖な海水は、冬でも水温を二十度以上に保つ事があり、海洋性のため湿度が高く冬はよく雨が降るが、冬期気温が低く下がらず、夏期気温も一定を越えず、気温差が激しくない特徴がある。石垣島では三月に海開きが行なわれるほどだ。その後八重山はゴールデンウィーク直後から梅雨に入り、六月半ばには梅雨明けして長い夏を向かえる。八月には台風が最も多く接近するが、九月に入っても暑さは続き、十月になるとようやく秋の気配。冬はさすがに長袖のシーズンを迎えるが、暖房の使用は限られてくる。

 そんな八重山は世界有数のサンゴ礁地帯でもある。黒潮暖流の影響下にある外海は、藻類が育ちにくく、プランクトンも生息せず栄養が乏しい。しかし高い海水温度と透明度による日光の浸透により、島周辺にはサンゴ礁地帯が形成され、サンゴを中心とする高密度な食物連鎖によって生物の楽園が広がっている。この石垣島と西表島に挟まれたサンゴ礁地帯を、石西礁湖(せきせいしょうこ)と呼ぶ。

 さて、自分の紀行文なので引用はこのぐらいにしておこう。沖縄県に所属している島々、沖縄本島の先にある宮古(みやこ)列島や八重山(やえやま)列島を合わせて、先島(さきしま)諸島という。この先島に含まれる石垣島は、宮古島を中心とする宮古列島のさらに南西に位置し、石垣島を中心とする島嶼(とうしょ)をまとめて八重山列島、または八重山諸島という。私は今まさに八重山の人間社会の中心地、市街地の近くの石垣空港に降り立ったのだ。

 ところでこの八重山の名前、この地域に大小三十一もの島々が八重に、つまり幾重々々に重なりあう様子から生まれたそうだが、大きな島のみを上げると、石垣島(いしがきじま)・竹富島(たけとみじま)・嘉弥真島(かやまじま)・小浜島(こはまじま)・鳩間島(はとまじま)・黒島(くろしま)・西表島(いりおもてじま)・波照間島(はてるまじま)・与那国島(よなぐにじま)などが点在している。石垣島と他の島々とはフェリーや高速船によって結ばれ、石垣島を中心として人と物とが行き交い、最近ではすぐれた観光地域として、それぞれの島へと旅人を送り出している。私たちもその高速船に乗って、石垣島から他の島に向かう予定だ。

 この石垣島は那覇市からの距離が四百十キロメートル以上もあり、この距離はざっと東京と大阪ほどもある。一方で地図を見ると、ほとんど台湾に隣接しているような感じで、距離も台湾までが二百七十キロメートル。昔は海人(うみんちゅ)たちが、台湾に向けてサバニというカヌー船を繰り出して貿易を行なっていたという。そんな位置関係もあり、明治時代には八重山を中国に引き渡す話もあったが、今日ではめでたく沖縄県の所属となって、パスポートなしで観光が楽しめるから幸せだ。八重山のすぐ北方にある尖閣諸島(せんかくしょとう)が、領土問題で中国ともめているのを考えると、外国になった可能性も十分にあるのだろう。この美しい島々が日本語文化圏に留まったことに感謝しつつ、味気ない行政区分について見てみると、石垣島は沖縄県石垣市、与那国島は八重山郡与那国町、ほかの島々は悉くに八重山郡竹富町に所属している。ヤマネコでお馴染みの西表島は、県内では沖縄本島に次ぐ大きさだが、人さ住まざる自然界が広がり、少し前まではマラリアに掛かりやすい過酷な環境もあり、圏内三番目の石垣島が八重山諸島の中心となったのだそうだ。

 そんな石垣島に私は降り立った。気温は四月半ばだというのに二十五度を超え、夏のような湿気が私を迎え入れてくれた。タクシーの待合所にはテッポウユリが植えられて、風に吹かれながら清楚に揺れている。初乗り運賃は、わずか三百九十円だ。ガイドさんはツアー客を引率するが、さすがに手慣れたもので、バスに乗り込んで人数を確認すると、クーラーの効いた車内は涼しいくらい。運転手がアクセルを踏むと、バスは空港を離れて、石垣島を走り出した。

「皆さん、本日はこの観光ツアーに参加致しまして、まことにありがとうございます。」

 ガイドさんはさっそく挨拶を始める。私は流れる町並みを眺めながら、結構都会だなと思った。市街地は関東の地方都市を走るようなものだ。沖縄は車社会であるから、交通量もけっこうある。ただ建物同士がせめぎ合わないので、ゆとりがあるような気がした。ぼんやりしていると、ガイドさんが今日の予定について話し始めたので、私も慌ててスケジュール表を取り出す。

「これからホテルに寄って荷物を預けましたら、さっそく観光の開始であります。八重山の海を期待した皆様には申し訳ありませんが、本日はまったくの山めぐりであります。まず市街地の中心から北に十分ほどで到着するバンナ岳と、ふもとに広がるバンナ公園を散策します。その後でバラビドーの観光農園に向かいます。ここでは南国のフルーツの味を楽しんでいただき、最後に石垣島鍾乳洞を見学して、夕食を済ませてからホテルに帰ります。」

 なるほど八重山に来て、亜熱帯の森林と植物園観光を初日に持ってくるのは、通常の行程とは趣向が異なるかもしれない。しかし、このバンナ公園には高台の展望所があり、まずは島全体を鳥瞰(ちょうかん)しながら、八重山の説明を行おうというのがガイドさんの趣旨らしい。彼が説明を終える頃には、バスはホテルの駐車場に停車した。市街地自体がコンパクトなので、大抵の場所にはすぐ到着する。私たちはホテルのフロントに荷物を預け、身軽になって再びバスに乗り込んだ。時間はまだ午後二時を過ぎたばかり、さっそくバンナ公園に出発だ。

 観光客も荷物を置いて、すこし気楽になったようで、バスの中は少しく賑やかになった。ガイドさんはバンナ岳について説明をしている真っ最中だ。窓を眺めていると、石垣の市街地は、複車線の通りもあり、自動車も多く、なかなか堂々たる繁華街だ。しかし、やがて車線沿いの住宅がまばらになると、すぐに自然の勝った景観が飛び込んできた。バスの中の観光客は、多くが中年夫婦や友人同士など、退職後の旅行を楽しむべき世代だが、家族連れも何組かあって、そのうち一組は三人の子供を連れていた。他にも高校生ぐらいの娘と母親の二人連れや、二十歳(はたち)前後の女性だけの二人組もあり、さらに私と同じぐらいの青年が一人で参加している。私は別としてツアーは一人参加は出来ないはずだが、彼は平然とバスの席を二人分占領して、旨そうにペットウーロン茶を飲んでいる。グレー調に色彩を整えたグリーン系のシャツを着ているのが目に付いた。バスはほどなく森林公園に到達し、先ほどの住宅街がまるで嘘みたいに、辺りは深い森林が広がっている。初めの目的地はすぐそこだ。

バンナ森林公園

「間もなくバンナ公園南口であります。これより公園中央を走り抜けるバンナスカイラインに侵入します。曲がりますからご注意下さい。」

 ガイドさんの言葉にあわせて、バスはハンドルを右に切り、公園のふところに入り込んだ。前方にはバンナ岳の山頂があり、山麓一帯に広がる公園には、亜熱帯地方の植物が覆い茂っている。薄い雲を貫いた日ざしが樹木を鮮やかに照らし、それを受けて反射するみたいな青葉と、枝葉に遮られた影とのコントラストは、どうしても初夏の景観だ。ガイドさんは公園の説明を始めた。

「標高二百三十メートルのバンナ岳のふもとに広がる公園は、正しくはバンナ森林公園と呼ぶのであります。森林地帯は幾つかのゾーンに分けられ、例えばこの南口付近には、『バンナ森』や『いこいの広場』があり、すこし北西に行くと『自然観察広場』も広がっています。各ゾーンは舗装道路で結ばれていますが、中でもバンナスカイラインは中心を抜ける大動脈なのであります。」

 うっそうとした森林を登って行くと、やがて広い駐車場の整備された、不自然な彩色の展望台が現われた。「エメラルドの海を見る展望台」だ。「見える」ではなく「見る」としたところに自信を感じさせるが、展望台の方はあまり見られたものではなかった。元々は木造の落ち着いた展望台があった隣に、トイレの整備と駐車場の拡大を兼ねた新築が、二億七千七百万円を掛けて建造され、自然景観にあえてチャレンジするような、アバンギャルドな姿で立ちはだかっている。奇抜な施設が自己主張を繰り広げ、自然との調和を崩壊させるデリカシーのなさは、ほとんど噴飯物(ふんぱんもの)と言ってもいい。しかし階段を登り切った私たちは、つい言葉を失ってしまった。施設はともかく見渡す景色は、

「エメラルドの海を見に来なければなりません。今すぐにです!」

と呼びかけたくなるくらい美しい。視界の開けた南側には空港と石垣島の市街地が広がり、その彼方には宝石のような海が広がっている。それこそまさにエメラルドの海なのだ。市街地のまわりはほどなく田畑や深緑へ移り変わり、様々なブルーを溶かしたみたいなサンゴ礁と、美しく調和していた。吹き抜ける風が鳥たちの鳴き声を運ぶ。

 突然後ろで、

「キィ、キィ、キィキュルルルルルゥ」

という響きが聞えた。鋭い「キィ、キィ」という高音の後に、スライド管楽器で連続的に音程を下げたような、キュルルルともキュロロロとも表現しがたい声が谺(こだま)したので、驚いて振り向くと、覆われた樹木の中から真っ赤な鳥が、突然飛び出して彼方に消えていった。朱色のくちばしから燃えさかり、全身が炎に包まれたようなその姿は、まるで火の鳥の雛のようだ。後で聞いたらあれはリュウキュウアカショウビンといって、冬になれば南方に消える渡り鳥なのだそうだ。ショウビンといったらカワセミの別名で、本土でも梅雨の時季になると南国からアカショウビンが渡って来るが、沖縄で見られるのはその亜種だという。

 私はなんだか不思議なセンチメンタリズムに囚われて、それから、ふとあの鳥で和歌でも作ってみようかと思いついた。それがなんでかは分からない。分からないのだけれども、紀貫之もすなるという大和歌を、旅人である私もしてみんとて、なんとはなしに歌ってみたくなったのである。しかし私には歌の心得も何もないのだから、それに心にうち流す即興なのだから、善意の皆さんは決して吹き出したりしてはいけない。

野火の穂の
  炎盛(ほざかり)りよりも なお赤く
 去りゆく鳥よ 嘴(くちばし)燃やせよ

 さて、この鳥は「水恋鳥」という美しい別名を持っている。火事で焼けた娘の魂が鳥になって、

「水が恋しいよう、水が恋しいよう」

と鳴いているのだそうだ。また、梅雨に繁殖期を迎えて盛んに鳴き増すことから、見かければ雨が降るともいわれている。そんな雨降鳥だが、晴れた日に鮮やかに映える姿も美しい。炎を抱え羽ばたく姿を浮かべて、私はふと自らの生活を顧みた。鳥のような自由な翼で舞いあがらないと、人は小さな枠に捕われて、それが世界になってしまうのかも知れない。「水恋し鳥よこころは燃えさかれ」そんな炎を胸に秘め、私たちも羽ばたかなければならないのだろうか。見上げれば海岸線は島の輪郭を描き出し、市街地から少し西寄りのあたりに、大きな島がぽっかり浮かんでいる。ガイドさんがさっそく説明を始めるが、気にせずカメラを構える夫婦もあり、手すりから乗り出している緑のシャツもあり、若い女性の二人組は、ようやく今頃展望台に辿り着いた。

「この輝かしい景観には、まるで山が重なり合うようにして島々が浮かび、私たちはこの地方を八重山と呼ぶのであります。あのエメラルドに輝く海は、サンゴ礁を抱えた遠浅の海に日が射して、宝石のような色彩をかもし出しているのですが、八重山一体に広がるサンゴ礁群は、石西礁湖と呼ばれています。幸い今日は天気にも恵まれ、自然の圧倒的な景色の前では、人工的に作られた繁華街もまた、美しく輝くことを理解出来ると思います。もしあの市街地が途切れず、森林や畑の代わりにどこまでも広がっていると仮定してご覧なさい。どんなにがっかりするか知れません。」

 なるほど遠浅の市街地は決して醜くはない。自然の中に我々の住まうコロニーがあるような、人間的な喜びを感じさせてくれるのは不思議だ。自然との比率や、密集してそびえない都市空間のせいかもしれない。不意に居酒屋で景観を呪った彼の言葉が浮かんだが、この風景を見せたら、彼は何と言うだろう。ガイドさんは南西の方を指さした。

「平たく浮かんでのは竹富島であります。山も川もないサンゴの島は、古い伝統的集落に約三百四十人ほどが生活しています。その奥にはずっと大きな島が見えるでしょう。あれが西表島です。私たちはあした西表島に出発して、午後には引き返して竹富島に渡ります。島には高速船で出発しますが、ごらんなさい、市街地の向こうでいま船が走り出したでしょう。きっぱりとあれが石垣港です。ではしばらく時間を取りますので、お好きなようにカメラを構え、景観を楽しんで下さい。手洗いが気になる方は、下にトイレもあります。」

 観光客はさっそく記念撮影を始めたり、遠くを眺めたり、ガイドさんに話し掛けたり、心配性の何人かはトイレへと消えていった。私もデジタルカメラを出してシャッターを切り、名も知らぬ鳥の歌声や、風に揺れる森のざわめきに、静かに耳を傾けていた。瞳を閉じて深呼吸をすると、音だけが心に浮かびあがる。非常に愉快だ。少し先では三人子どもの家族連れが、中年夫婦にカメラを渡して、横一列に並んでいる。緑のシャツを着た若者はガイドさんと話していたが、やがて下に降りて木造の展望台に向かった。娘と母親の二人連れが、缶ジュースを開けて飲んでいる。私が市街地を見ていると、ガイドさんが近づいて来た。

「どうです、シャッターチャンスはありましたか」

と聞くから、

「ここは夕方も美しいでしょう」

と尋ねると、

「あの西の彼方をご覧なさい、名蔵湾(なぐらわん)が広がっています。遙かな東シナ海の水平線に夕日が沈むとき、石垣島は真っ赤に染まるのです。そして日が暮れると、市街地の明かりが一つ二つと浮かび上がって、ここは最高の夜景観測所に変わるのです」

と教えてくれた。私は美しい夕暮れを想い、一人で手帳を取り出すとペンを走らせ、最後に「夕暮れ残照」と書き足した。

   「夕暮れ残照」
夕暮れ残照海を染め
  風さえ赤くなりました
 ふもとの畑もゆらゆら燃えて
   心もいつか染まります
  火灯し頃が近づいて
    遙かな私の住む町が
   ぽつりぽつりと街灯
     飾って色を落とすとき
    見上げる空は深い青
      星が瞬き始めます

聖紫花(せいしか)の橋

 バスに戻るやいなや、人数確認を待たず運転手はアクセルを踏んだ。足りなかったら引き返そうくらいの暢気さが心地よい。このスカイラインは私道かと疑うくらい交通量が少なく、私たちだけが亜熱帯植物園を走っているようだ。しばらく行くとまた展望台が現われたが、バスはもう止まらなかった。

「このスカイラインにはエメラルドの展望台以外にも、自然に調和させた石造りの『南の島の展望台』や、カンムリワシの卵を形どった『卵の形の展望台』があり、今見えた展望台がまさにそれでありますが、正しくは『渡り鳥観察所』と呼ぶのであります。まるで宮沢賢治の命名したような展望台が続きますが、もし彼がここを訪れていたならば、いかなる詩が生み出されたことでしょう。そう思えば、少し残念なくらいです。

 さて、この観測所では毎年九月後半になると、八重山で有名な渡り鳥、サシバの到来を観察することが出来ます。日本列島で夏のバカンスを楽しんだサシバが、秋風に誘われるみたいにフィリピンなどへ戻る途中、宮古島や八重山で羽を休めるからです。またこの観測所のずっと北には、優良児の育成と家族団らんを踏まえた『ふれあい子供公園』のゾーンもありますが、今日は西に向かって『森林散策広場』で聖紫花(せいしか)の橋を見学しましょう。」

 ガイドさんの説明が終わる頃、バスは空っぽの駐車場に私たちを降ろし、気だるそうな運転手は居眠りの準備をする。この運転手はさっきも展望台でぐうすか眠っていた。私はちゃんと知っている。駐車場には北口と書いてあるが、地図を見るとほぼ公園東部に位置し、南口からスカイラインに侵入したバスは、公園をほぼ南西から北東に走り抜けた形になる。私たちはほとんど人影なき公園を歩き出した。遊歩道は綺麗に整備され、新しい植物が顔を出すたびにプレートが付けられている。学習のためにも好奇心のためにも、配慮の行き届いた施設である。先ほどの展望台といい、これほどの公園を市街地近くに持つ石垣島の人々は幸せだ。

 遊歩道ではハイビスカスやブーゲンビリアはもちろんのこと、巨大なシダ植物であるヒカゲヘゴや、一月に花を咲かせるヒカンザクラ(緋寒桜、ただし彼岸桜と紛らわしいため最近ではカンヒザクラ、つまり寒緋桜とも呼ぶ)など様々な草木(そうぼく)と巡り会える。しばらく歩いたら、ヤシ園まで姿を覗かせ、ヤエヤマヤシを筆頭に何種類ものヤシが並んでいた。実を付けている奴もいる。みんな我が物顔である。そういえば沖縄本島に行った時は、ココヤシの実を割ってストローでココナッツジュースを飲んだっけか。私はまた頭の中で大和歌をさ拵(こさ)えてみる。拵えてみるとなかなかに面白い。

椰子のやつ
  夜更けにやけに 踊ります
 それを見たとて 声はかけるな

今ひとつものたりなくて恋の色
  こめてみせたらどうなるだろう?

椰子とても
  恋する娘の うしろ髪
 ため息ばかりが その葉揺らすよ

 そんな馬鹿なことをあれこれ思いながら、駐車場から大体十二、三分ぐらいだろうか、大きな吊り橋が現われた。「聖紫花(せいしか)の橋」だ。バンナ公園の東部には石垣ダムがあって、そのダムの水面(すいめん)が見下ろせる吊り橋は、沖縄県唯一の吊り橋ともいわれている。聖紫花に合わせて薄ピンクに塗られた骨組に、板が一面敷き詰めてあるが、隙間があるから、高所恐怖症の人には辛い橋だ。踏み出すと板はギイギイ音を立てる。風吹けば吊り橋が揺れる気がして、ふと下を見た時には思わずどきりとした。たった今、大地震でもあったらどうなるだろう。どうも足の下が宙ぶらりんだと、度胸のないことばかり浮かんできて、自分でも情けなくなった。その点、緑のシャツの青年は高所大好症らしく、大喜びでガイドさんの前を歩き出す。高校生ぐらいの娘を連れた母親は渡るのを断念して、娘だけが付いてくる。

 ガイドさんは橋の真ん中で立ち止り、ダムや公園の説明を始めた。私は心細い場所に立たされて、下が気になってしかたがない。せっかくの話もほとんど忘れてしまった。しかし子供たちは大喜びで橋から顔を出して覗き込む。落ちたらどうなるか、妄想に乏しいのは幸せの証である。

 しばらくすると「戻りましょう」とガイドさんが言うので、ほっとして踵(きびす)を返すと、勝手に橋を渡りきっていたシャツが、待ってくれとばかりに板の上を走って来た。途端に橋が左右に揺れる。危ない、何てことをするんだ。ガイドさんが慌てて、

「吊り橋で走ってはなりません」

と叫んだら、シャツは

「すいません」

と答えて歩き出したが、今度はツアー客の子供たちが橋を揺らせると知って、大はしゃぎして飛び跳ねだした。ガイドさんは、

「吊り橋で飛び跳ねてもなりません」

と慌てて注意をする。これじゃあまるで小学校の遠足だ。どたばた劇を繰り広げながら戻って来ると、さっきの母親が聖紫花を見ながら待っていた。ガイドさんはさっそく花の紹介に入る。

「この、白ツツジに紫めいた高級染料を滲ませ、あるいは薄いピンクの化粧液を数滴垂らして、淡く染め抜いたような聖紫花は、ツツジの仲間であります。渓流の岸などに咲く花で、三月から四月の初めにかけて、清楚なたたずまいでひらく姿は、西表島の浦内川(うらうちがわ)上流などへ出向き、ようやく見つけることが出来たものです。そんな『まぼろしの花』とまで言われた奥ゆかしい花を、バンナ公園では丁寧に栽培して、すっかり人目にさらしてしまいました。」

 だからといって、

「バンナ公園には聖紫花がよく似合う」

と宣言した文学者はまだいないようだが、確かにこの花は人目をはばかる繊麗(せんれい)の姿を、なおさらに見たいと思う旅人の琴線に触れるものがある。優しい花だと思った。さっきの三人の子どもたちが、携帯電話を使って交互に撮影しているのは、なんだかデリカシーに欠ける気がした。悪ガキ三人組は、すこし前にもジュースの空缶を置き去りにして、ガイドさんに優しく注意されていた。子供は無頓着に残忍なものだから、自分たちだけだったら、平気で花をもぎ取るかもしれない。それが子どもにとっての悪でもなかろうが、どうせ折られるなら、花だって好青年の方がよかろう。

聖紫花の
   恋するこころを 捧げるは
 海のおとこか 山のおとこか

 私たちは花をしばらく眺めて、再び駐車場に向けて散策を続けたが、私はふっと恋人のいない淋しさが、こころに触れて、吹き抜けたような気がした。妻子持ちのガイドさんは無頓着に説明を再開する。

「このゾーンにはマダラチョウ科で日本最大の『オオゴマタラ』を育成した蝶園があり、このオオゴマタラは石垣市の蝶に指定されています。またホタルの季節であれば、夜が待ち遠しいホタル街道もあり、八重山の名称を持つヤエヤマヒメボタルは、ゴールデンウィークをピークとしていますから、きっと夜になれば、今日も淡い光が点滅しているはずです。こんな見所満載のバンナ公園ですから、三日間を公園ツアーに費やしても飽きることはありません。急いで離れるのは残念でありますが、ツアー観光の悲しさと諦め、続くバラビドー観光農園に向かうことにしましょう」

そう締め括って駐車場に戻った私たちは、寝起き顔の運転手に迎えられて、冷房の効いたバスに乗り込んだ。

 バラビドー観光農園までは、ほとんど掛からなかった。ここはわずか二百円の入場料で楽しめる観光農園で、バンナ森林公園の続きのようなものだ。ヤシ園や蝶園もあるが、私たちはここで南国ならではのフルーツをつまみ食いし、マンゴーやパッションフルーツの絞りジュースを飲むことが出来る。私はつい大好きなパイナップルジュースを注文して、うまいうまいとグラスを空にしてから、しまった知らないフルーツにすればよかったと後悔した。若い二人娘のペアは互いのジュースを交替して、二種類の味を楽しんでいる。どうやら、こういう時は知人が必用らしい。ふとガイドさんの方を見ると、彼はサンピン茶を飲んで済ましている。きっと何度も訪れて、ジュースは飲み尽くしたのだろう。私も沖縄のツアーガイドになりたくなった。ついでにシャツを見たら、強者の彼は一人で二杯飲んでいた。何て奴だ、後で腹でも壊してうなされているがいい。三人の子供たちにいたっては、ついに飲み物を巡って喧嘩を始めて、最後にはお父さんに叱られてしまった。観光ツアーもなかなか面白いものだ。私たちは三十分ほど農園に滞在してから、次の目的地に向かったのである。

石垣島鍾乳洞

 本日最後の観光地は石垣島鍾乳洞だ。西に傾く太陽が、くすみを加えた窓ガラスから差し込み、ツアーを仕切るガイドさんは鍾乳洞について語り出す。だんだん調子づいてきたようだ。

「そもそも、私たちの今走っている大地、この石垣島というものは、サンゴ礁が隆起した島でありまして、これから見ていただく鍾乳洞も、地殻変動や地震、津波などで裂けた地中が、亜熱帯性気候のふんだんな雨水に浸食され、石灰岩が溶かされて形成されたものであります。つまりは雨水に含まれる二酸化炭素が、非常に長い年月を掛けて、石灰質を溶かし流した結果でありまして、この鍾乳洞の主な形成は、一万年前にヴュルム氷河期が終わるよりずっと前、およそ二十万年前から五万年前頃と考えられています。ですから、四万年前に登場する新人類、つまりホモ・サピエンス・サピエンス属の、クロマニヨン人などが登場するよりずっと早く、この鍾乳洞は誕生したといえるでしょう。沖縄は有数のサンゴ地帯ですから、その主成分である石灰が築き上げた鍾乳洞も、すなわち大変多いわけでありまして、大小百を優に越える鍾乳洞が存在します。例えば沖縄本島にある玉泉洞(ぎょくせんどう)は有名な観光地ですが、全長で約五千メートルにも達し、岩手県安家洞(あっかどう)の日本一の長さ一万二千メートルには及ばないものの、山口県にある秋芳洞(あきよしどう)の三千七百メートルよりもずっと長いのあります。ただし、観光洞としての長さは秋芳洞が千メートルにも達しますから、六百六十メートルの観光ルートを持つ石垣鍾乳洞より遙かに長いのですが…………しかし、しかしです。はたして観光がすべてなのでしょうか。石垣鍾乳洞の持つ幾分味気ない照明、そして観光ルートの短縮は、決して観光客へのアプローチ不足を物語るものではなく、人口の開発を最小限に止め、少しでも自然のままに保存しておきたいという、環境への配慮に他ならないのであります。」

 そんな熱弁を聞きながらバスは停車場に止まり、止まれば竜宮城じみた建物が控えている。「石垣島鍾乳洞」だ。施設にレストラン竜宮と土産屋従えて、「竜宮鍾乳洞」とも呼ばれている。私たちが中に入ると、突然「おーりとーり」と書かれた謎の看板が現われた。

はてな?

これは何の呪文かしら。

鍾乳洞の扉を開くアリババの暗号、そのEXバージョンかとも思ったが、そうじゃあない、実は石垣島では「いらっしゃいませ」の事を「おーりとーり」と言うのだそうだ。沖縄本島では「めんそーれ」だから、島が違えば随分変わるものだ。同じ八重山諸島でも、島が異なると発音が変化し、例えば小浜島では「わーりたぼり」と言うらしいが、離れた宮古島になると、「んみゃーち」という「ん」から始まる言葉で「いらっしゃいませ」を表わすという。沖縄の方言が島ごとに異なると知ったのは、これが最初だった。沖縄方言にも中心的方言と、方言の方言があるのは、言語の奥深さを感じさせるが、特に沖縄本土と宮古諸島と八重山諸島は、それぞれ独自の地域形成をしてきた歴史があり、三つの方言で互いに話をしても、まったく通じないともいわれている。しかしそんな豊かな方言の奥行きさえ、恐るべき標準語政策の末路として、今ではすっかり廃れてしまったようだ。純粋な八重山方言を話せる人は、もう年配ばかりになってしまった。

 原色図鑑の草花を横目に、階段を降(くだ)ると鍾乳洞がポッカリ開いている。照明を受けて鍾乳石が肌を晒し、色彩の乏しい黄泉の国の到来を告げる。目が慣れるにしたがって、歪み曲がった石柱(せきちゅう)だの、ツララのような岩が浮かび上がり、狭いルートが奈落に向かって折れ下がっていた。私も秋芳洞だの、沖縄本土の玉泉洞などを見学したことがあるが、確かにここの照明は幾分質素なもので、洞窟自体も飾り気のない、偶然通りかかった人に普段着の姿を晒しているようだ。鍾乳石との距離が近いので、安いアトラクションに陥らない臨場感があるのかもしれない。そんな好印象で地下を巡っていたら、後でディズニーランドのようなイルミネーションコーナーが登場したので、私は面食らってしまった。これが良いのか悪いのか、それは行った皆さんの判断にお任せしよう。

 円柱やツララを眺めながら奥に向かうと、成人過ぎぐらいの息子と娘を持つ四人家族が、カメラを構えてルートを遮っている。仕方がないので、撮影が済むまで待っていた。すると娘は石灰のタケノコに足をかけて、マドロスさんのポーズを取っているじゃないか。鍾乳石を踏みつけるとはいい度胸だ。今度は交替して息子を撮影するつもりらしいから、私は慌てて彼らの間をすり抜けた。

 やれやれと思ってちょっと振り向くと、おや、もう誰もいない。なんだか急に孤独になった気がする。ほんのわずかな曲がり角によって、人が失せる錯覚に陥るほど、静かにしずくを垂らす闇の世界は、入り組んでいて視野が狭い。

 観光のルートは工事中の部分があったり、味気ない白色蛍光灯の部分もあったが、天井から釣り下がる「ツララ石」や「石柱」などと共に、地面から生えたような「石筍(せきじゅん)」が美しい白肌を覗かせている。この石筍はいたる所にニョキン出ているので、刈り取って調理したいぐらいだ。ガイドさんに聞いたら石垣島鍾乳洞は、日本一「石筍」が多い鍾乳洞なのだそうだ。後ろから来た若い二人連れの女性が、

「この白いタケノコおいしそう」

「栽培したら何年でこの大きさになるかな」

と囁いていたが、ガイドさんが

「十年で一ミリぐらいは成長します」

と教えると、

「十年で一ミリなの」

「食べる前に死んじゃう」

と非常に驚いている。三人を置き去りに先に進むと、今度は吊り橋を揺らしたシャツが現れた。彼は途方に暮れて手すりを見下ろしている。すっかり気の軽くなった私は、ためらいもなく「どうした」と声をかけると、鍾乳石ゾーンに手荷物を落としてしまったらしい。私はちょっと辺りを見回して、さっと手すりを乗り越えて拾ってやった。別段重要そうな鍾乳石もないので、例外的に行動したのだから、読んだ皆さんは真似をしてはいけない。シャツは「ありがとう」と感謝しながら、いきなり十年来の友達のように話し始めるので、私はちょっと驚いてしまった。普段ならあまり図々しいのは苦手なのだが、その時はなんだか嬉しくて、彼と話しながら地底探索を続けることにした。せっかくだから時々設置されている説明書を元に、鍾乳洞についてまとめておこう。もちろん鍾乳洞で書き写したのではない。カメラで撮影してホテルに帰って記したものだ。シャツは何故そんなものを撮るのか不思議がっていた。

 全長三千二百メートルのこの鍾乳洞が始めて本格調査されたのは、昭和四八年から五〇年にかけて。観光用に開かれたのは平成六年になってからだ。ここの鍾乳石は百年間に六ミリから十ミリも大きくなり、日本一成長が早い鍾乳洞とも呼ばれている。成長が早いとはどういう意味だろうか。そもそも鍾乳洞というのは、例えば石灰岩の地層に様々な条件で亀裂が走り、そこから二酸化炭素を含んだ雨水が、石灰岩を浸食しつつ空洞化し、同時に解かされた石灰岩は、溶けながら一部が鍾乳石に戻って、沢山の岩の芸術が形成されるのだが、その石灰水による鍾乳石の形成が、非常に早いのである。石灰石灰と何度も繰り返すので、余計なお節介を焼いておくと、そもそも石灰岩とは、石灰つまり炭酸カルシウム(CaCO3)の殻を持つサンゴや有孔虫の死骸などが、積もり積もって大地の圧力で岩となったもので、それ以外の堆積方法もあるとはいえ、この石垣島鍾乳洞はまさにサンゴなどのなれの果てから出来ている。

 鍾乳洞といえばコウモリや、目が退化し色素が抜け落ちた白子化(アルビノ)小動物などが住んでいるものだが、石垣島鍾乳洞には「石垣カグラコウモリ」「八重山キクガシラコウモリ」などの他には、ほとんど生息していないようだ。また、石垣島を含む八重山地方では神の聖域をウタキ(御嶽)、またはオンといって崇めているが、そうしたオンの近くには大抵鍾乳洞があって、人々が洞穴を神聖神秘の秘境と考えていたことがよく分かる。一方で、沖縄本島では洞窟つまりガマは、太平洋戦争の犠牲のシンボルにもなっているが、この石垣島では幸いそのような洞窟悲劇は免れたようだ。

 黄泉の国を抜けると、地上は夕支度を始めたところだった。亜熱帯植物の小さな庭園が、ようやく一日の暑さから開放され、東京より一時間も遅れて色彩を落とし始めた。振り返ると、私たちは竜宮城の口の部分から地上界に放り出されたようだ。鍾乳洞が竜宮城の内側という主旨なのだろう。だとすれば、鍾乳洞はむしろ海底(うなそこ)の国、綿津国(わたつくに)を表しているのかも知れなかった。私たちは施設に戻る小道を歩き出す。すると不思議な植物に出くわす。

「あれはなんだ」

と緑のシャツが駈け寄るので、覗き込むと、サボテンのような平たい葉をした植物に、赤いものが幾つも咲いている。いや、よく見ると花ではない。赤い葉っぱが何かを包み込んで丸く固まったような姿である。

「これは実かな」

と私が訊ねると、

「どこかに何か書いてあるんじゃまいか」

とシャツはプレートを捜し始めた。しかし何も付いていないようだ。

そこへ後ろから、

「どうしました」

と声がする。振り向くと、鍾乳洞から戻ったガイドさんが立っていた。さっそく

「この赤いのはなんですか」

と尋ねてみる。

「これはサボテンの仲間、ドラゴンフルーツであります。花の時季はとうに過ぎて、今は出荷を待ちわびるお年頃でありますが、花の頃は非常にメルヘンチックなのであります。なぜなら、ある満月の夜に一斉に開花して、月神アルテミスと美しさを競い合い、翌朝には力尽きて萎れてしまうという伝承があるからです。そして実際、満月か新月に合わせるように、大きな原色の白い花が咲き、朝のうちに萎んでしまうのです。萎んだ後からこの赤い実が成長し、やがて果物コーナーに並ぶのですが、それでもきっぱりと割れば、中は白いから不思議です。少しキュウイのような甘くさっぱりした味がしますから、ぜひ一度試してみてください。」

 後から確認したところ、ドラゴンフルーツにはピンク色の果肉もあるそうだが、味は変わらないそうだ。

竜宮の
  玉手箱より 授かれば
 割ってはならぬよ ドラゴンフルーツ

 私たち三人が施設に戻ると、レストラン竜宮には料理が重箱風に並べられている。私はガイドさんとシャツと一緒の席に座り、全員が揃うまでお茶を飲みながら話していた。やがてガイドさんは観光客の人数確認を済ませると、あしたの観光を説明し始めた。まず西表島に向かって仲間川観光と由布島観光を行い、その後で竹富島に渡るのだそうだが、出発時間が予定より早くなるという。今日は大分疲れたけど、明日の朝はちゃんと起きられるだろうか。

「それでは皆さん食事をお楽しみ下さい。ビールなどを注文される方は、自費ですがご自由にどうぞ」

と言うので、私とシャツもそれぞれオリオンビールを注文して、知り合った記念に乾杯しておいた。

 食事が済むとお土産タイムが待っていた。観光客はそれぞれ品物の列をさ迷っていたが、気の早い人はもうお土産を購入している。私も魔よけのシーサーを眺めていたが、不意に沖縄音楽を流し続けるスピーカーから、八重山の民謡「月ぬ美(かい)しゃ」が流れてきた。

月ぬ美(かい)しゃ、十日三日(とぅか、みっか)
  女童美しゃ(みやらびかいしゃ)、十七つ(とぅななつ)
 ホーイチョーガー、ホーイチョーガー

「月の最も美しいのは満ちる直前の十三夜頃に、
   乙女の最も美しいのは満ちる直前の十七の頃に」
と歌い始めるこの歌は、八重山地方の子守歌であり、泣く子寝る子に歌って聞かせるのだという。不思議なことに私も子供の頃、この子守歌を聴いていた。親が子供のために買ってくれたCDに、この沖縄の子守歌が紛れ込んでいて、この曲だけは生まれ故郷の歌のように、私には響くのだった。歌は「東から登る月の夜」と続いていく。懐かしい気持ちになりながら、皆を追うように店を出ると、もうすっかり色を落とした天空には、月が黄金(こがね)に輝いていた。青白き石垣照らすや初夏の月。千の地上の花々も、アルテミスの冷笑にはかなうまい。石垣島は暗い藍のうちにその個性を失い始め、虫の音(ね)かカエルの声が聞えそうなそよ風を受けながら、この日はホテルに帰ったのである。

2015/10/29 掲載

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