吹け、潮風よ 「三日目」

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三日目

朝の歌

 八重山の観光ツアーに紛れ込んだ旅行も、だんだん賑やかになってきた。携帯電話のアラームに驚いて布団をはね除けると、寝坊を許さないほどの音楽が鳴り響いたのに、隣の緑シャツはぐっすり眠っている。私はベットルームを抜け出して、リビングのソファーに腰を掛けよう。窓の外を眺めると、手すりに掴まった小鳥が元気よく逃げ去った。嬉しくなってガラス窓を開ければ、朝の大気が流れ込み、鳥たちの囀りや牛の鳴く声まで風に乗って、またホテルの生活音もざわざわと心地よく、遠く波の音さえ聞えて来るような気がした。ぼんやりしながら、私はまたこころに和歌を詠んでみる。冗談で始めたのが、変な癖になってしまったようだ。

島歌を さえずる小鳥に 起こされて
  夢ふくらます 朝の石垣

 誰かもしそげな歌かと吹きだして、貶してみたとてしかたがないや。あの頃の和歌めく授業の片鱗も、作者もろくに覚えちゃいない。歌える和歌とてほとんどないや。枕詞もまるで知らない。なんでだか、浮かべる言の葉心地よく、にこにこしながら詠んでみるだけ。

ささやかな
   祈りとどけよ 石垣の
 風はどこまで
     登りゆくかな

 なんだか愉快になってきた。私はポットのお湯でサンピン茶を入れて、それからベランダに出て、小さな椅子に腰を下ろすことにした。外出しのガラステーブルにティーカップを置くと、お茶の良い香りが漂ってくる。このサンピン茶というのは、つまりジャスミンティーのことなのだが、大陸との関わりが濃い沖縄では、中国のジャスミンティーが非常に好まれ、緑茶でも飲むように生活の必需品となっている。朝の景観を楽しみながら、携帯電話で調べたところ、ジャスミン茶の製造方法やサンピン茶という名称の由来が載っていた。

「巨大中国には格式高き六つの代表的なお茶、六大茶の他にもいろいろなお茶が存在し、その中に花茶(ホワチャ)という種類がある。これは茶葉が香りを吸着する特徴を生かし、緑茶やウーロン茶などを製造する過程で、様々な花の香りを移した香り茶である。そのうちジャスミンの花びらを使用したジャスミンティーは、中国では茉莉花茶(モーリーホワチャー)とか、香片茶(シアンピエンチャー)と呼ばれ、非常にポピュラーなお茶であり、香りの移し終わった花びらは取り除いてあるのが一般的である。」

 つまりこのシアンピエンチャーと言う言葉が、沖縄訛ってサンピン茶となったらしいが、ジャスミンの花自体はルーツがインドにあるのは面白い。その刺激の強い香りは、胃腸の活性化を図る一方で、鎮静効果があり自律神経の緊張を和らげるという。

 なんだか急に俗に落ちてきた。湯気を軽く吸い込みながら、ぼんやり景観を眺めていると、高台のホテルからくだり降りた彼方に海が広がっている。スケッチをしても遠景に滲むくらい離れているが、昨日通った宮良川の河口もおそらく視界に入っていることだろう。その先は海岸線が弓なりに曲線を描いて、奥に見えるシルエットは石垣島の繁華街だ。ホテル周辺に目を移せば、住宅がいくつか緑の中に顔を覗かせる。昨日は気が付かなかったが、この辺りはちょうど今、宅地化が始まっているのかも知れない。右手の奥には山々が連なり、遠くにひときわ聳(そび)えるのは、あれは石垣島最高峰の於茂登岳(おもとだけ)ではないだろうか。確かパンフレットには標高五百二十六メートルと書いてあった。

 放し飼いの牛がときおり声を上げ、爽快なサンピン茶の味が心地よい。昨日は牛の臭いが気になったが、風向きのせいか、はたまたジャスミンのせいか、まるで気にならなかった。空は残念に雲が多いが、今日もまた晴れたり曇ったりだという。携帯で天気予報を見たら最高気温は二十五度だそうだ。八時が近づいたので、朝食に向かおうと戻ったら、ようやくシャツも目を覚ました。「おはよう」と寝ぼけさなかの挨拶をしていると、気の早いちゅらさん組がドアをどんどんどんどん叩くので、緑シャツを引きずり出すようにして朝食に向かったのである。

 ホテルの朝食は、昨日のレストランが、ご自由にお取り下さいのバイキング会場に生まれ変わったものだ。料理は庭へ出る窓際に横一列、サラダはガラスボールで括られて、おかずは白い四角盆に乗せられている。私たちは席を決めると、サラダとおかず、ご飯と汁物をよそって、飲み物を用意して「いただきます」と箸を伸ばした。

 バイキングには沖縄らしい料理がずらりと並べられている。様々な果物は記すまでもないが、炒め物料理の中には、パパイヤを野菜で炒めたものがある。沖縄では熟する前のパパイヤを、野菜として調理するのが一般的なのだそうだ。また当地ご自慢のゴーヤー、つまりニガウリと、パパイヤの漬け物もあったが、これは大根やキュウリほどの相性は感じなかった。

 汁物コーナーにはアーサー汁が用意されている。これは沖縄の代表的な汁物で、基本は塩味ベースの吸い物に生姜を加えて、そこにアーサーと島豆腐が泳いでいる。このアーサーは、沖縄では岩場で簡単に取れる海藻で、細い筋のような食感が汁物に溶け込むようでうれしい。本土でもスーパーで「アオサ」として売っているが、この場合アオサ科とヒトエグサ科の海藻を総称しているから注意が必要だ。沖縄でアーサといえばヒトエグサ科の海藻を指す。間違ってアオサ科の海藻を購入すると、だから風味や食感が異なる場合がある。後で気が付いたのだが、ヒトエグサ科の海藻であっても、アーサー汁にふさわしいふくよかな海草と、ふりかけに向くようなぱさぱさした海草があって、よく本土で売られているアオサは、ヒトエグサ科であっても、アーサー汁には全然向いていないものが多いようだ。

 ホテルのバイキングのアーサー汁は、塩ベースではなく味噌で味付けされていた。ちょうど生姜を加えた味噌汁のようで、さっぱりしながらも深みがある。うまいうまいと感心して吸っていると、ベレー帽がどんな味か尋ねるから、

「アーサーの新鮮な海藻の柔らかさを、さっぱりした生姜味噌のプールに溶かし込み、泳ぎ回る豆腐の姿が嬉しくて、そのままの鮮度で喉越しに差し込むるような味だ。さながら踊りを覚え立ての海苔が、全身ふにゃふにゃになってワルツでも踊っているような」

と言ったら、この「美味しんぼ」を越えた感想には誰も付いてこれなかったようで、すでに口を付けた二人は笑っていたが、ベレー帽はまったく分からないので、「もういいです」と言って自分でよそって持ってきた。

 早くも食事を終えた緑シャツは、食後のフルーツに移ってしまって、「山積みパイナポー」と言いながら、てんこ盛りの皿を持ってくる。一番遅いのはベレー帽で、ご飯ではなくパンを持ってきて、「やっぱりご飯が良かったのに」とぼやいている。途中でガイドさんが来て、九時一五分になったら出発しましょうと告げてから部屋に帰っていった。

 ベレー帽を待ってレストランを出ると、例の家族がまたしても土産屋を占有している。面白そうなので、

「ちょっと土産屋を見ていかないか」

と提案すると、土産に命を燃やす二人のことだから、喜んで店の方に走って行ってしまった。見てみると八重山の特産品が一通り揃っているようだ。チンスコウやサーターアンダギーなどの定番お菓子に、おやつ替わりのゴーヤーチップ、紅芋チップなども置いてあるし、一方ではミンサー織といった工芸品や、伝統的製法で作られた衣類なども最低限揃っている。

 私たちが入り込むと、ちょうど店のおばさんが、白い息子の顔色に驚いて、

「そんな白い肌じゃ駄目さあ、もっともっと焼かなきゃ、いつまで経ってもお嫁が来ないさあ」

と説教しているのが面白かった。彼は家族からも

「帽子を買わなきゃ駄目だあ」

と注意され、勝手に土産を物色している妹よりも子供の扱いを受けている。長男は慎重に育てられすぎて、端で見て心配になるような虚弱な一面を、成長しても持っているものだ。そういえば雑誌に書いてあったが、長男が家を継ぐ伝統の色濃い沖縄では、男子が産まれるとすぐ「嫡子(ちゃくし)、嫡子」と可愛がられて、家族どころか親戚中から大切にされて、自立しない長男になりやすいそうである。私も長男だから、自分の性格が心配になってきた。思えば旅行に来る前も全然駄目であったし、白い息子を笑ってばかりはいられない。ちゅらさん組はミンサー織の実物を見つけて、

「ミンサー織の五つと四つの意味はねえ」

「エリィ!」

と例の番組の台詞を並べて盛り上がっていたが、時間がないので二人を引きずり出して、部屋で準備を整えホテルを出発すると、ガイドさんがグレーの車から手招きをしている。しかもグラサンを掛けている。ちょっと「タモさん」に似ている。さっそく乗り込んでアクセルを踏めば、向かうのはまたしても離島桟橋だ。

小浜島へ

 ガイドさんが観光事務所で手続きをする間、ちゅらさん組はここでも土産屋に出張し、緑シャツは先にある手洗へと消えた。朝の離島桟橋は忙しなく、沢山の人で溢れ返っている。気さくな服装の肌黒い男たちは島人(しまんちゅ)だろう、その前を引率されたみたいなツアー客たちが、ぞろぞろてくてく歩いていく。目の前ではひしめく人混みの中に、お婆さんが孫の手を引いて桟橋に向かおうとして、心細げによろめいている。タクシーはすべての人をかき分け、かき分け、のろのろのろのろ水牛のようである。石垣の離島桟橋はなかなか活気に満ちている。私は手帳を取り出して、少し考えてから走り書きにした。

桟橋からしぶきが上がる頃
 朝鳥の忙しなさで揺れる人波
  吹けよ潮風、我が小さな体を抜けて
   吹けよ潮風、賑わう町並み駆け抜けろ
  港を越えて海を越え、この思いを伝えるために

 ざわつく人波を眺めていると、ガイドさんが観光事務所から現われる。緑シャツもすっきりして戻ってくる。しかしちゅらさん組は帰ってこないので、緑シャツが二人を呼び戻し、ガイドさんから「行ってらっしゃい」とチケットを貰うと、私たちは桟橋へと繰り出した。教わったように「にぬふぁぶし」と書かれた船に乗り込む。にぬふぁぶし。沖縄の民謡「てぃんさぐぬ花」の歌詞に、

夜走(ゆるは)らす船(ふに)や、
  子ぬ方星(にぬふぁぶし)目当(みあ)てぃ

と歌われる、北極星の呼び名である。乗り込むと結構な人が座っている。私はちょうど窓際だったので、日焼け止めクリームを塗りながら、広がる海を眺めていた。四月の曇り空でも油断をすると、黒く日焼けするほど紫外線が強いのだ。

「姉ちゃん火傷するぜ」

シャツが訳の分からんシャレをちゅらさん組に投げかけながら、やはり日焼け止めを塗っていた。しかも「SPF50+」だ。

 さて、船は走り出す。モーター音がうるさいので安心して、私は「てぃんさぐぬ花」を小声で口ずさんでみる。好きな沖縄歌手のCDを聞きながら、少し覚えて来たのである。

   一.
てぃんさぐぬ花(はな)や
爪先(ちみさち)に染(す)みてぃ
親(うや)のゆし事(ぐとぅ)や肝(ちむ)に染(す)みり

   二.
天(てぃん)ぬ群星(むりぶし)や
読(ゆ)みば読(ゆ)まりしが
親(うや)のゆし事(ぐとぅ)や
読(ゆ)みやならん

   三.
夜走(ゆるは)らす船(ふに)や
子ぬ方星(にぬふぁぶし)目当(みあ)てぃ
我(わ)ん生(な)ちぇる親(うや)や
我(わ)んどぅ目当(みあ)てぃ

 歌詞は三番以降も続いていくが、私が知っているのはそこまでだった。歌詞も二番と三番が逆になっていたり、後続の歌詞が異なるものがあったり、発音も地域で少し変わるそうだが、沖縄地方で広く歌われる有名な民謡だ。三番までなら何とか意味も分かるが、この民謡は子供に聞かせる教訓歌であり、子守歌であり、また親への感謝の歌でもあるのだろう。三線に乗せて歌われると、深く心に染み込んでくる。せっかくだからお優しい大和言葉でも紹介しておこう。

   一.
鳳仙花(ほうせんか)の花は爪先に染め
親の言うことは心に染めなさい

   二.
天に群がる星は数えられないことはない
親の言うことは限りないものです

   三.
夜を行く船は北極星を目当てにし
生みの親は私の成長を目ざすのです

 しかし昼走(ひるは)らす船(ふに)は小浜島(くばまじま)目当(みあ)てぃであるから、親(うや)のゆし事(ぐとぅ)など考えている暇はない。私はパンフレットを開いて、小浜島の地図を眺め出すと、ちゅらさん組も期待が膨らんで話が盛り上がっているようだ。緑シャツが、

「あれ、あいつらも小浜に行くのか」

と前方を指さしたから、ひょいと顔を上げてみたらどうも驚く、例の家族四人組が腰掛けているではないか。この調子だと、同じバスになる予感がした。観光コースなどごく限られているはずだ。なんだか宿世(すくせ)からの因縁じみていて恐ろしいくらいである。

「祟りじゃあないだろうか」

と呟いたら、キョトンとしたシャツから

「何大げさなこと言ってんだ」

と笑われた。

 さて、ちゅらさんファンなら「ちゅらさん3」において病気の母親を持つ愛子ちゃんが、小浜節(くもまぶし・くもうぶし)に乗せて踊るシーンに感動し、うっかり涙した人がいるかもしれない。その小浜節はヒロインの父が初めの頃から歌っていたもので、番組の中でも重要な民謡になっている。歌詞は

小浜(くもま)てぃる島(しぃま)や
  果報(かふ)の島やりば、
    大岳(うふだぎ)ばくさでぃ
  白浜(しるぱま)前(まい)なし

と歌い始め、

「果報の島小浜は
大岳を後ろに白浜を前に
その大岳に登り見下ろせば
稲や粟が実り豊かな世を
稲や粟の色は二十頃の娘のように
粒の美しい所を上納します」

という内容で歌われていくものだが、歌詞にある大岳(うふだけ)を中央に持つ小浜島は、西表島のすぐ東に位置し、サトウキビ産業とリゾート地で知られる八重山諸島の一員だ。石垣島から十四キロメートル、高速船で約二十五分、小さな港に到着した私たちが降り立つと、ターミナルには「旅ぬかろい」という文字が記されている。これは「旅の安全を」という意味だそうだ。

 ガイドさんから手渡されたチケットを見せ、駐車場に止まっている観光バスに乗り込むと、やはり例の家族四人組が座り込んでいた。しかも最後列を占領しただけでは飽きたらず、引き籠もりの息子は、一つ前の席に悠然と腰を下ろし、眠たげに発車を待っている。私たちも男二人女二人で中程に席を取り、冷房噴出口の向きを変えたりしていたが、やがて扉は閉まりバスが走り出し、振り返ればもう港には人の気配が無くなっていた。島の西側にある小浜港から出発したバスは、まず南に進路を取る。不思議に思うなかれ、島は南側半分が東西に膨れているのである。このツアーは小浜島の名所をバスで巡りながら、運転手がガイドを兼ねて島を案内してくれるものだから、しばらくは彼の説明に委ねて、小浜島の紹介をして貰うことにしよう。

駆け抜けの桟橋

「ワーリタポリ小浜島…………ようこそ小浜島へ。皆さん石垣島ではオーリトーリがようこそだと知って、沖縄本土のメンソーレと違う挨拶に驚いたでしょ。でも小浜ではさらに訛りが変化してワーリタポリが『ようこそ』の意味。それから先ほど港に掲載されていた『旅ぬかろい』、あれは『旅の安全を』という意味で、やはり小浜方言でね。今日は大分暑くなりそうで最高気温は二十七度の予想ですが、実は一月に二十七度を記録したこともあります。そんなわけで八重山では三月に海開きして、気の早い本土の観光客がダイビングにやって来ますが、本格的な海水浴シーズンは早い梅雨が明けた後、六月半ば頃からどんどん来る。
 この小浜島、周囲を十六.六キロメートルほどで巡る小さな島ですが、島中心にある集落を筆頭に四百五十人以上が生活、その集落の北にある大岳(うふだき)は標高九十九メートルあり、島で一番高い所です。島の南東にはリゾート施設『ヤマハリゾートはいむるぶし』が、南西には細崎(くぼさき)の漁村があり、島一面にサトウキビ畑が広がる、それが小浜島です。NHKの連続テレビ小説『ちゅらさん』ですっかり有名になって以来、沢山の人がちゅらさん観光にやって来ます。
 はい右手の方に孔雀が何羽も見えるでしょう。実はあの孔雀、現在島で農作物を荒らして、捕獲作業中です。ヤマハリゾートが珍しい動物として勝手に持ち込んだものが、野生化して増殖してしまった。そして窓の周辺に広がっているのはサトウキビ畑です。まだまだこれから成長して、来年の一月から三月にかけて収穫するサトウキビは、島の基幹産業になっています。明治一六年からサトウキビ栽培が始まったとされ、だいたい一年二,三ヶ月で収穫出来るんです。今日まで黒砂糖のみを生成してますが、買い取り料金が非常に安く、島の人たちの生計は楽ではない。他の野菜の栽培もしてますが、ほとんどは島で消費します。ではこれから右に回ります。」

 サトウキビ畑が広がる細道を曲がると、長い一本道が畑の真ん中を抜けて遙か集落まで伸びている。緩やかな下降線が彼方まで傾斜しつつ登りへと転じ、電信柱と一緒に遥かに続いている。それがシュガーロード、つまり砂糖の道だ。まあサトウキビ畑の道ということだが、ちゅらさん二人組は歓声を上げ、

「シュガーロードよ」

「止まってくれないのかしら」

とはしゃぎだした。

「はい、このシュガーロード、『ちゅらさん』を見ていた人は覚えてるかもしれませんが、主人公のエリィが学校に通った道として、弟を従えた姿がお馴染みの場面。しかし実際はここを通って学校に行く人なんかありません。集落も学校もこの先にあるからです。あれはNHKさんがドラマのために捏造(ねつぞう)したもので、おかげでこの道も観光名所となり、シュガーロードと呼ばれるようになりましたが、最近では逆にサトウキビ畑は減少しているくらいです。えっ、写真ですか?それじゃあ、ちょっと止まろうかね。」

 運転手がブレーキを踏んで扉を開けると、ちゅらさん組を筆頭に六人ほどが飛び出して、勾配の美しい細道に向かってシャッターを切っている。全員ちゅらさん一味に違いない。緑シャツは飛び出した先行隊を見て恥ずかしくなったか、タイミングを逃してバスの中に留まった。本当は行きたいくせに。

 皆がバスに戻ると運転手は軽くアクセルを踏み、ゆっくり上りの勾配に入ると、向こうの左手には傘のように開いた松が立っている。漱石先生の「坊ちゃん」に出てくる赤シャツなら、野田に向かって「あの松を見たまえ」と指さしそうなくらいの松である。ターナーがスケッチしたがる松である。ホイッスラーが歩みを止めて、ちょうど通りかかった広重に「松がかさ眠たげにして春霞」と発句をあげそうな松である。むろん運転手はターナーなど知るよしもない。

「昔、明和(めいわ)八年、まあ西暦だと一七七一年、八重山地方に津波がありました。それもそんじょそこらの津波じゃない。明和の大津波という怒濤(どとう)の高波が、何と八十五メートルの高さまで押し寄せ、ギネスブックにも名前を残したほど。まあ最近では三十メートルぐらいが真相だろうともいわれてます。それが小浜島にも押し寄せ、ちょうどあの松のところまで迫って、仕事をしていたオジィが飛びつく木の上によじ登って、『あがー、ならんどー』つまり『痛い、駄目さー』と叫ぶと、オジィの足もとで波は止まったという。だからといってあの松を『アガーナランドーの松』とは言いはしませんが。

 この先の高台が集落なので、オジィを含めて小浜島では死者は出ずにすんだ。しかし喜んでいると、石垣島の方では約九千人、人口の六割もが亡くなったので、琉球王府の政策で小浜島から三百人が石垣島に強制移住させられて、やっぱり苦しい思いをしたという。でもあの『波寄せの松』は、平和な時には恋人たちの待ち合わせ場所として知られ……おっと言い忘れた、そしてあの松、琉球松といって、沖縄県の県木(けんぼく)に指定されています。いろいろなところで目にするはず。ちょっとここを右に曲がると、ほら大分高台に来てるでしょう、右手の海の向こうには竹富島が見えます。そして次を左に曲がると、はい、いよいよ、島の学校に到着します。」

 番組ではちゅらさんが小学生の頃、生まれ島で通っていた学校ここである。これは小中学校が一緒になった「小浜小中学校」で、ちゅらさんことエリィが「低学年はあっちさ」と弟の恵達(けいたつ)を背負いで投げ飛ばすシーンがあったか無かったか、番組そのままの学校正門でバスは止まった。親切な運転手がまた写真タイムを設けてくれるという。

 ドアが開くやいなや「それでは」の声を待たずして、ちゅらさん組が飛び出して、後を追ってうっかり緑シャツまでバスを降り、今度は十人ぐらいが道路脇で写真を撮っている。呆れた運転手が、戻って来るのを待ってから、

「案内を待たずに飛び出したのは皆さんが初めてです」

と言うと、一斉に笑い声が起こった。道路には歩く島人(しまんちゅ)すら見えない。授業の時間なのだろう、学校もひっそり静まり返っていた。

「ここは小浜島唯一の学校ですが、小中学生が三十九人と十一人の合わせて五十人居ます。それに対して先生が十八人、ほとんど家庭教師並の授業が出来る。ではこれから集落に入ります。竹富島ばかりがクローズアップされるが、小浜でも赤煉瓦の屋根とサンゴ岩の石垣が楽しめるはず。ほら、左に見えるのは公民館、入り口に吊してあるのは大戦中の不発弾です。」

 なるほど砲弾の形がそのまま銅鑼(どら)のようにぶら下がっている。

「むろん爆発はしません。ちょっと前までは、あれを叩いて集会を知らせてました。この八重山地方、大戦中は直接上陸戦は免れたが、無理矢理の疎開でマラリアによる大量の犠牲者が出て、マラリア戦争なんて呼ばれてます。その後は米軍の統治下に入って、七二年からは本土に占領され……じゃないか、まあ日本に復帰するわけです。さて見えてきました、右にあるのがエリィが子供の頃に住んでいた『こはぐら荘』。つまり古波蔵家が民宿をしていた家です。ほら、ちゃんと看板が掛かってます。」

 バスの中は急にざわついた。先ほどまでの状況から、このバスに多くのちゅらさんファンが潜んでいることが発覚し、私はちゅらさんコールでも沸き起こったら大変だと危惧したくらいだが、そこは皆さん大人であるから、運転手の

「ここは非常に狭い道ですから窓越しの観光で我慢していただきたい。その代わり、いつもより長く止まっております」

という案内にもブーイングは起こさず、熱心にカメラを構えている。運転手の説明によると、屋根に乗っているシーサーは、NHKが番組のために設置したもので、二つペアになって反対側にも居るべきところを、一つしか置いてくれなかったそうだ。

「本来シーサーは沖縄で獅子のことを指すんですが、古代メソポタミアやエジプトのスフィンクスのようなライオンがシルクロードを通って、時代が下って十三世紀から十五世紀頃沖縄に伝わったのです。本土でお馴染みの『狛犬(こまいぬ)』も同じルーツのなれの果て。オスとメスが二つ一組で、口の開いたオスが幸せを招き、口の閉じたメスが災難を閉ざします。では出発しましょう。島の西端に突き出た細崎(くばざき)に向かいます。」

 次第に海岸線に近づくように走っていたバスは、西へ突き出た半島に入った。これが尽きる辺りに細崎の集落があり、かつては海人(うみんちゅ)たちのカツオ漁業で活気に溢れていた。昭和初期には三百世帯が生活するほどだったが、今では世帯数もすっかり減少し、わずか十五世帯を残すばかり。しかし細崎漁港を拠点にした漁業は行なわれていそうだ。海人公園まであり、マンタを形どった展望台が置かれているが、カツオ業で栄えた面影は薄い。バスは西の果て海岸に横付けすると、運転手が、

「十分ほど止まります。写真を撮るなりご自由に」

とドアを開け、私たちがかわいらしいビーチに降り立てば、ようやく雲間から日ざしも見え隠れ。気温はもう二十五度を超えているのだろう、大分暑くなってきた。

 広がる海は何と表わしたらいいか、精一杯の青系統の絵具をベースにして、白氷(しろごおり)で薄めながら、隠し味に粉山椒を溶かし込んだような、そんな複雑な味わいを見せて光り輝き、浜辺には湖じみた小波が寄せ返す。その波は深くまで砂が滲んで見えるほど、透明度が高かった。それにしても私は毎回同じことを書いているようだ。同じような海を見ているのだからしかたがないが、例えば

「翡翠(ひすい)のまどろみにプリズムで分離した青み成分が投影されて」

とか、

「ビードロのような滴を濾過(ろか)した上澄みに蛍光電灯を介入させた」

とか、

「酒に酔ったポセイダーオーンが誤ってラピスラズリの粉をばらまいた」

とか、いろいろ考えた方がいいのかもしれないが、そんな怪文を重ねても、なおさらに意味が分からなくなるから止めておこう。そのかわり歌でも詠んでおくことにしようか。

寄せ波を
   讃える歌詞さえ ないけれど
 こころ七色 なぎさのプリズム

 見あげれば、海を挟んで向こう側、泳いで渡れそうな距離に、大きな森林が広がっていた。あれは、昨日観光した西表島だ。運転手の説明では、二島を隔てるこのヨナラ水道は、泳ぐどころか流れの速い海域で、サンゴ礁も途絶えマンタが通れる海道があり、「マンタの道」とも呼ばれているそうだ。なるほど群青の深そうな辺りは、川のようにも思えるのだった。運転手は、

「マンタは一匹二匹でなく、一枚二枚と数えます」

と説明していたが、近くで聞いていた私に向かって、

「西表の右端に島が見えるだろう。あれはウ離島(うばなりじま)、またはアウシマと言うんだ。三線の形に見えるから、三線島とも呼ばれる」

とガイド調の丁寧語を止めて教えてくれた。私たちの正面向こう側にも、西表島を背景にして、手前に小さな島が見える。

「あれは由布島じゃないだろうか」

と聞くと、

「良く知ってるね。あれが水牛観光でお馴染みの由布島さ」

「実は昨日行ってきたんです」

「ああ、そうなんだ。由布島ではマングローブの小さい芽が沢山顔を出していたろう。マングローブの種子は水道を越えて小浜にも流れ着いて、細崎の北に広がる干潟に芽を出すんだ。石長田海岸(いしながたかいがん)って言うんだが、帰りにバスから見えるから注意してみい」

と説明した。私はついでに運転手にシャッターを頼んで、緑シャツとちゅらさん組と四人並んで、西表島を背景にして撮影して貰った。写真時間が過ぎるとバスは滑り出し、次に到着したのはすぐ近くの細崎漁港だ。

「はいお待ちどうさま。例のちゅらさん、番組では小浜港を使用せずに、この細崎漁港を使って撮影を行ないました。そしてあちらに見える長い桟橋、あれこそ有名な『駆け抜けの桟橋』です。ちゅらさん小学五年生の初恋、婚約をかわした恋人が島を離れる一刹那(いっせつな)、こらえきれず船を追い掛ける名場面の舞台なのです。」

 そう、ドラマ開始の第一週目に小浜島に訪れた親子連れ、その兄である和也の死が、えりぃと親子連れの弟文也の将来の結びつきの神話的、あるいは民話的呪縛となって未来を規定し、後の物語の骨格を形成するという、日本においては類い希な長編構成力を示した「ちゅらさん」において、その重要な第一週目の最後のクライマックスこそ、その「駆け抜けの桟橋」のシーンではなかったか。

 ところがである。運転手が説明するやいなや、眼鏡がそのクライマックスの台詞を小声で、

「結婚しようねえ。いつか大人になったら、かならず、結婚しようねえ」

と真似し始めると、途中から隣のベレー帽が参加しだして、

「和也君との約束だからさあ。文也くーん」

と声を揃え、悪ノリに掛けては容赦を見せない緑シャツが

「えりぃー」

と声を張り上げて参入し、さらに続けて

「文也くーん!」

「えりぃー」

「文也くーん……結婚しようねえ、

文也くーん。ばいばーい」

と最後まで一気呵成(いっきかせい)に熱演してしまったのである。バス中は岩にしみ入る蝉の声みたいに三人の台詞だけがこだました後で、一斉に拍手と哄笑が起こったことは言うまでもない。

 一緒にいた私が恥ずかしいくらいだが、三人はしてやったりの高笑いで何の屈託もない。到底私には真似できないと見ていると、運転手が

「しょうがない、本当は降りない場所なんだけど、特別に写真タイムを上げるさあ」

といって扉を開けたので、あまりの熱演ぶりに「ちゅらさん」に興味なかった人まで釣られて飛び出して、なんたることか、ついに全員がバスを降りてしまったのである。もちろん私も巻き込まれるようにして漁港に降り立ったのだが、今やこのグループ全体が暑さのためにおかしくなって来ているのではないだろうか。私は全員が一丸となって桟橋を走り抜けるシーンすら、心に想像したのである。ふと振り向くと例の白い息子が、こっちの方を見てにやにや笑っている。しまった今度は彼の方が私を観察していたようだ。近くにいたベレー帽が、

「私も駆け抜けしてみたい」

と言い出す。さっそくシャツが、

「よし、俺が船のほうから手を振ってやる」

と手をふる真似をした。眼鏡は、

「あんたはキジムナーの役よ」

と言うので、ベレー帽がおかしくて笑い出した。それから私の方を振り向く時に、そのベレー帽が風に吹かれ、押さえる彼女の何気ない右手の仕草に、私は思わずどきりとしてしまった。私は慌ててシャツに話し掛ける。まったくどうかしているに違いない。運転手は、

「結婚しようねを真似て桟橋を走り抜けようとして、海に落ちて大惨事に繋がるケースが後を絶ちません。特に桟橋を直角に遠くを見ながら曲がるところで、何人の娘さんが海の藻屑と消えていったか……あれは指導を受けた熟練者だけに許される技だから、カップルで来てこっそり真似しちゃ駄目さあ」

と言って笑ってた。

大岳(うふだき)へ

「さて、先ほどの漁港でも、石垣島の桟橋でも、本土のような磯の香りがほとんど無いでしょう。誰か気が付きましたかね」

運転手は港を離れながらガイドを再開した。

「実はあの磯独特の香りは、沢山の海藻が干からびて、朽ち果てる際に生じるもので、もずくやアーサーぐらいしか海藻の育たない沖縄では、あまり匂いません。しかし、昆布は親潮領域の北海道などで生産され、沖縄では取れないくせに、消費だけは日本一ですから、海藻に接する機会はどこよりも多い。それから沖縄名産の海ブドウという海藻もあります。これがまた口の中でプチプチと、三線(さんしん)に合わせて粒が弾けて踊るような海ブドウ。これはやっぱり取れたてが一番さあ。はいはい、左手に干潟の湾が見えてきました。沢山のマングローブが小さく芽を出して並んでる。あれは西表島から流れ着いたヒルギです。その奥の高台に、見えますかね、小さな一本の木がぽつんと立っている姿が。あれこそ皆さん憧れの『和也君の木』です」

すっかり親切になった運転手は、わざわざバスを止めて説明する。

「残念ながら今日は、木の近くにある『ちゅらさん展望台』までは行けませんが、実はあの木は四代目です。番組に合わせて交換するから、エリィが子供の頃植えたものではないんですね。おまけに植生を無視してガジュマルの木を植えたので、うまく根付かず枯れてしまったりと、夢の名所作りは難しいものがあります。」

 しばらく写真を撮らせてから走り出すと、運転手はその後も、白い綿帽子が光り輝くようなギンネムの木が、本土のネムノキとは違うとか、ハブには毒の有るものと無いものがあって、毒のない奴は自分から逃げていくが、毒のある奴は立ち向かってくるとか、しかしサキシマハブは比較的毒が弱く、血清も医療機関に完備されているから、しばらく死者は出していないと説明した後で、高台に沿って並んでいる巨大墓の説明を始めた。

「八重山に来てあれを見ると、皆さん驚きますが、見晴らしも土地も弔人(とむらいびと)にこそ最良の地を与え、巨大豪華な墓を建てる風習は、先祖への敬愛を良く表わしています。死者への儀礼も今日まで継続され、周忌ごとには墓前に一族集結して、日を潰しての盛大などんちゃん騒ぎ…………

いや違った、供養とかこつけた壮大な泡盛祭…………

じゃなかった、ええい、なんというか、つまり、慎ましい食事会のようなものも、まあ行なわれる八重山なのです。沖縄では旧盆を盛大に祝い、親戚家族ことごとく集まっては、各種行事が開催されるのも、また旧盆だったりします。冠婚葬祭に生き甲斐を見いだす沖縄の、血族同士の横の繋がりと、伝統への慈しみが生き続けているといえるでしょう。この八重山でも旧盆は『ソーロン』と呼ばれ、『アンガマ』と呼ばれる仮面を付けた行列が、家々を訪問するからぜひ遊びに来てみて下さい。

 さて、あの巨大な墓、差はあるけど平均二百五十万円ぐらい、亀の甲羅のような恰好は、実は妊婦を形取ったもので、亡くなると再び母体に帰るという、転生(てんしょう)祈願と結びついているとか。中国からの影響で『亀甲墓(きっこうばか)』あるいは『かめこうばか』と呼ばれ、八重山では八割があのタイプの墓ですが、他にも薩摩支配の影響から、墓の上に塔が立っている大和墓というのもある。八重山は台湾やフィリピンにも近く、アジアや中国、それから大和の影響を受けて独自の文化が生まれました。最近ではアメリカ文化まで取り入れて、この混ぜ合わせカルチャーのことを、チャンプルー文化なんて呼んだりします。そうそう、異国との距離といえば、すぐ北方にある尖閣諸島、最近では新聞でも騒がれていますが、あそこは昔石垣島の人々が住んでいて、れっきとした石垣行政区なんです。実は今日でも十八人の本籍が尖閣諸島になっている。れっきとした八重山です。こうなったら私も出かけ行って住んでしまおうかね。八重山人(ヤイマンチュ)を舐めちゃいけません。」

 運転手はだんだん慣れてきて素が出てきたようだ。やがて大岳のふもとの駐車場に停車すると、

「さあ、時間は四十分あります。思う存分大岳(うふだき)の展望台に登って来てください」

と扉を開けた。島の中央にどっしり腰を下ろした大岳は、島の最高地点である。集落がすでに四十メートルの高台にあったから、恐らく停車場からさらに上って五十メートルぐらいだろう、二人並べるくらいの幅で木枠と砂利砂の階段が亜熱帯植物のトンネルへと伸びている。私たちはバスを降り、さっそく登ってみることにした。

大岳(うふだき)の展望台

 バスの外は大分暑くなった。湿度も高いが、植物のトンネルを登っていく階段には、昼前の涼しさがまだ幾分残っているようで、新鮮な森の空気が心地よい。見上げると、どこまでも階段が続いていく。私とシャツはもちろんちゅらさん組と一緒に登り始めたが、ベレー帽は早くも息を切らして、

「大岳登ってどこどこ行くの」

と歌い出す始末。これはいけない。眼鏡が

「しっかりしなさい」

と言ってベレー帽の歩調に合わせ、

「人は登ってどこどこ行くの」

と二人で歌い出してしまったので、全然先に進まなくなってしまった。シャツまで歌に参加しそうな気配である。早く頂上に辿り着きたかった私は、

「俺が先に展望台に立つ」

と緑シャツに挑戦状を突きつけ、いきなり駆け登った。

「そうはいくまいか」

とシャツも慌てて追って来る。ちゅらさん組を見捨て、そのまま二人で競い合うように、観光客をごぼう抜きにして、汗まみれになって展望台の下まで辿り着いた。非常に愉快である。

 溢れる汗を拭いながら、まず展望台の姿をシャッターに収めると、大きく息をしながらさっそく乗り込んでみる。しかしあに図らんや、乗り込んでみるともう先客がいた。なんと例の白い息子が、椅子に座って悠々と写真を撮っているではないか。ぜんそくの発作でも起こしそうな引き籠もりの顔をして、私たちの先を越すとは生意気だ。ベレー帽たちに関わった時間で差が付いたに違いない。向こうで会釈をしたので、私たちも軽く頭を下げておいた。

 気を取り直して景観を眺望すれば、さすが息せき切って登っただけのことはある。島を見くだす鳥瞰(ちょうかん)は海岸線へといたり、果てなき海には石垣島や、竹富島、大きな西表島などが浮かんでいる。さすが島の最高峰は伊達ではないなと思った。後で調べてみたら、ここからは与那国島以外の八重山の主要諸島を見ることが出来るそうだ。私は身を乗り出して、なびく風を浴びながら、海の彼方に思いを馳せていた。

 そのうち一人二人と展望台に到着する。大分遅れてちゅらさん組も辿り着いた。二人だけ先に行くなんて薄情者だとぼやいている。ベレー帽は足を叩きながら、

「明日は筋肉痛かも」

と心配していたが、広がるサトウキビ畑や均整な赤い屋根に心奪われ、青い海と浮かぶ島々を眺めてようやく機嫌を直した。

「あれはなんの施設かな」

とベレー帽が指さす。その赤屋根はバブル時代のリゾートで、破綻した施設を再生している最中なのだそうだ。その時はそんな事は知らなかったから、

「あれは俺様の別荘だ」

と出張するシャツに任せて、私はただ笑っておいた。眼鏡が、

「こってこての庶民のくせに別荘があるわけ」

と突っ込むと、

「実は破綻しまして」

という。思わず全員噴きだしてしまった。

 さて、赤屋根のすぐ先の海を見れば、可愛らしい島が浮かんでいる。

「あれは嘉弥真島(かやまじま)だわ」

とベレー帽がパンフレットを見ながら言った。地図で見ると小浜島の北東に浮かぶ小さな島だ。

「行ってみたいな嘉弥真島」

と眼鏡も身を乗り出した。

 あの島は連続テレビ小説の中で、やがて消え行く和也君が、弟の文也と主人公の恵里(エリィ)に、

「お前たち将来結婚しろよ」

と言ってハートに火を灯す、いわば神話的呪縛を投げかける島である。この死にゆく人の願いが結晶化されて、主人公が運命の再会と結婚を果たすという、民族文学的な構成が保たれているあのドラマは、手に負えないほどルーズな日本のテレビドラマの中でも、ひときわユニークな存在であった。それだけに二人が結ばれた後に全体構成の揺らぎと危機が訪れたことを、私はちゃんと知っている。

亡き人を
   思い浮かべよ 嘉弥真島
 奏でるあしたを 歩みゆくため

 私たちはぼんやりと嘉弥真島を見ていたが、

「あれ、無人島なのに、建物が建ってる」

と眼鏡が向こうを指さした。小浜島はあちらこちらにリゾート化の波が押し寄せて、無人島といえどもリゾート客の荒稼ぎの遊び場になっているらしい。せっかくの美しい島だ、リゾートを押し出すにしても、伝統と自然を統合させた三つどもえの島を目指して欲しいものだ。

 そんなことを考えていると、展望台の先から声がする。振り向くと、またしても例の四人家族だった。狭い草原(くさはら)で横一列に並んで、親父が展望台からシャッターを切っている。その草原は別のくだり口に続いているらしいが、それにしても毎度お騒がせな奴らだ。

 私は展望台から少し階段に戻って、しばらく亜熱帯植物を眺めていたが、あまり無知なものだからハイビスカスとクワズイモぐらいしか分からなかった。シャツたちは展望台で写真を撮りまくっている。しかしバスの客が勢揃いしたため、ちょっと人が多すぎて騒がしい。仕方がない、潔くひるがえして大岳を下山することにしよう。私はふもとに戻る途中、小さな子供の手を取ったお母さんが、階段を数えながら降りているのに出会った。二人は登る時にも段数を数えていたが、幸せな光景だなと思って、邪魔をしないように脇をすり抜けた。夏草や君らの幸(さち)よ常永久(とことわ)に。そんなことを心に祈ってみた。

 駐車場まで辿り着いたら、早すぎたせいか誰もいない。バスの運転手が居眠りをしてるだけだった。時計を見たらまだ十分以上余っている。少し気が早すぎたようだ。仕方がないので亀甲墓が並んでいる辺りを歩きまわって、それからバスに乗り込んだ。

 今度はもう、子供連れのお母さんも乗り込んでいる。シャツとちゅらさん組も戻って来たが、最後列だけ席が空いている。

「あれ、後ろの人たちがいない」

と中年の男が声を上げると、なるほどお騒がせ四人家族のうち、白い息子しか戻ってきていない。その息子が、

「すいません。うちの家族なんです。まったくいつも遅くって困ってしまいます」

と微妙な訛りを付けて謝っている。どこかで聞いたことのあるようなイントネーションだ。

「ねえあれは、もしかして恵達(けいたつ)の真似が入ってないかしら」

「古波蔵恵達!」

とちゅらさん組が囁き合う。言うまでもないが、番組の登場人物の一人だ。そうだ、言われてみれば確かに恵達である。それも真似したともなく自然に真似てしまったような恵達だ。いったいバスの中には何人の隠れちゅらさんがいるのだろう。

「右を見てもちゅらさん、左を見てもちゅらさん。一体このバスにはどれほどのちゅらさんファンが隠れてるんだ」

と緑シャツも呟いた。私が

「そうだな」

と相づちを打つと、

「そういう俺もちゅらさんファンなのよねえ」

と女言葉で言うものだから、飲みかけのサンピン茶をこぼしてしまったではないか、この馬鹿ちんめが。

 暢気の家族がようやく席に戻って、バスは出発した。角を曲がるとまた亀甲墓が建ち並び、運転手が

「左手に見えるのが、ちゅらさんで使用されたお墓です。あの左から二番目ね」

と説明を加えた。途端にバスが傾くぐらい皆が左側に寄せてきた。運転手はさすがに墓が荒らされる危険でも感じたか、ドアを開けずにアクセルを踏む。慌ててカメラを取り出した前列の中年男性が勢いで左の席に倒れて、おばさんにしきりに謝っている。運転手は知らぬ顔して、

「あの墓はごく普通のお墓を、番組のために使用したものです。眠りについたオジィ、オバァも騒がしくて困っているかも知れない」

と言った後で、

「でもちゅらさんのお陰で、最近は三歳から五歳の人口が以前より増加して、これはファンの人たちが島に嫁いで来たからです。あい、前に見えるのが嘉弥真島。小浜島もあの島も八重山は皆サンゴ礁で覆われてます。このサンゴのことを方言でウルマと言い、ほら例の波照間(はてるま)島を知ってますかね。この波照間島の名称は、果てのウルマの島という意味に漢字を当てたわけです。決して馬が果てる浄土ではない。」

 そんな解説を加えながらバスは小浜港に戻ってきた。ここで石垣に帰る私たちだけを下ろして、他の観光客たちは「ヤマハリゾートはいむるぶし」に向かい、昼食を取ることになっている。私たちが運転手にお礼を言うと、運転手は

「またおいで」

とひと言残し、バスは「はいむるぶし」へと走り去った。

 ところでこの「はいむるぶし」、「南十字星」を意味する八重山方言で、小浜島を代表するリゾート施設である。一九七九年にヤマハが島の五分の一もの土地を買い占めてオープンしたが、なかなか経営が軌道に乗らず、一九九六年にヤマハから分社して「(株)はいむるぶし」として経営再建計画を全うして、現在は良くも悪くも小浜島の顔となっている。その広大な土地にはホテルとビーチはもちろんのこと、プライベートプールやテニスコートが整備され、各種マリンスポーツが堪能でき、あまり広いのでゴルフカートを使用して移動するほどだ。おまけに隣接する別のリゾート施設「南西楽園ヴィラハピラパナ」には、宿泊所と共にゴルフコースが整備され、この二つの施設を持って「リゾート良いとこ小浜島」を売り出しているらしい。ツアーの皆さんは「はいむるぶし」のレストランで昼食を取ってから、港に戻って来るのだそうだ。私たちは「はいむるぶし」どころではない。ガイドさんが石垣牛の店に連れて行ってくれるというので、さっそく港から高速船に乗って小浜を離れた。帰り際に振り返ると、港の道路にあるレンタサイクルの店から「サーターアンダギー」と書かれた旗が、風に揺れてのどかにそよいでいた。ちゅらさん組はちょっと名残惜しそうだったが、石垣島に舞い戻れば、いよいよガイドさんと合流だ。

石垣牛の店

「どうでありましたか。ロケ地を十分に拝見することが出来ましたか」

車に乗り込むとガイドさんが聞いてきた。ちゅらさんの隠れファンが随分紛れ込んでいたと話すと、

「そうでありますか。私も実は最後まで見ていました。そして不覚にも感動しました」

と言うので、眼鏡が

「でももっと沢山のロケ地が見たかったのに、ちょっと早足で」

と不平顔をする。ガイドさんは、

「それは次のお楽しみに取り置きするのがよいと思います。ロケ地は逃げませんから」

と笑った。

 ガイドさんの運転で石垣島の市街地を抜けると、空港の近くに「石垣屋」という石垣牛の焼き肉屋がずっしりと構えている。開いた駐車場に車を止めて、改めて建物に目を移すと、沖縄の伝統家屋を踏まえた建築が、赤屋根にシーサーを備え付けて、庭の椰子の木の後ろに控えている。檜造りのどっしりとした入り口をくぐると、高天井のロビー風玄関があり、風のよく抜けそうな開放された空間が、左手に向かって広がっていた。その中心部には大黒柱が高くそびえ、座席が一周張り巡らされているが、駐車場に面した窓際席は、半ば個室風に仕切られて、仲間内だけで料理を楽しめるという店構えだ。窓の外にはちょっとした縁側もあり、降りると芝生が植えられている。その先が駐車場だが、高くなって椰子の木があるから、ちっとも気にならない。ガイドさんは顔馴染みらしく挨拶をしている。私たちは一番奥の、広い窓が二つある角席(かどのせき)に案内された。

 さっそくメニューを開く。お薦めコースと、石垣牛の焼き肉メニューが、美味しそうに並んでいる。超庶民派の私たちには、なかなか大した値段である。ひときわ庶民の目立つ緑シャツはメニューを見ながらわなわな震えている。冗談でやっているのか、心底財布が心細いのか分からない。遅れてきたガイドさんは、これを見て思わず笑ってしまった。

「心配いりません。千二百六十円の『ビビンバセット』を全員で注文して、それとは別に私が焼き肉をおごって差し上げましょう」

と提案した。

「夕飯も沖縄料理を堪能しますから、石垣牛は量ではなく味を楽しんで下さい。」

 なるほど石垣牛を目当てにしてビビンバセットは邪道だが、ガイドさんは夕飯をメインに考えているようだった。八重山に来てからすっかり図々しくなった私たちは、おごってくれるの一言に、

「本当ですか」

「やったぜ」

「嬉しい」

「ありがとうございます」

と素直に頭を下げて、拍手を持ってこの提案を歓迎した。まるで、親に連れられた中学生みたいだ。ところで、石垣屋は石垣牛の焼き肉屋である。石垣牛とは有名な肉なのだろうか。さっそくガイドさんに尋ねてみた。

「皆さんご存じの通り、和牛は純日本固有の牛ではないのであります。明治になって日本にいた牛たちに外国の優れものを紹介して、無理矢理結婚させて改良しているうちに生まれたものです。そして肉専用の四種類の牛のうち、九割以上が黒毛和牛であります」

ご存じどころか、そんな話は今始めてだが、大人しく頷いておこう。

「そんな和牛に含まれる松阪牛も神戸牛も、ですからまったく牛の品種ではありません。多くは黒毛和牛であります。ただ仔牛の頃に買い入れて育てた、育成する場所と環境や餌などによって、松阪牛(まつさかうし)になったり神戸肉(こうべにく)になったりしているわけであります。しかもこの牛の名称は、特に厳しい規定があるわけではありませんから、日本には百を超える地域名産の牛たちが、都道府県の二倍以上も平然として登録されているのです。そんな状況にあっても、石垣島は優れた牛の畜産地でありまして、この島から生まれた仔牛たちが、各地の名産牛としてデビューするために、親元から引き離されてどなどなと売られていくのであります。つまり地域名産の牛には、石垣島出身という牛が沢山含まれているわけでありまして、これまでは貧しい生活を補うべく、このように親里を離れていた仔牛たちが、最近になって食用牛のエリートとして石垣島で成長育成され、石垣牛として地元に花を咲かせる機会が増えてきたのが、この石垣牛なのであります」

早合点の緑シャツが驚いて、

「それじゃあ」

と声を上げる。

「松阪も神戸も石垣も、全部品種は同じなら、大した違いはないのに、ブランドで値段が釣り上がっているだけなのか、ちきしょう騙された」

眼鏡が笑って、

「だから、仔牛から先は育て方が違うの」

と言うと、ガイドさんも

「同じ両親の子供でも、引き離して違った文化で成長すれば、見知らぬ赤の異邦人(エトランゼ)であります。牛たちの世界でも、育成地の環境や運動のさせ方や、餌などの要因が重なり合って、その土地の味に染まっていくのであります」

と締め括った。シャツがそんなものかと納得していると、開かれた窓からやさしく風が吹き込んで、ぼんやり外を眺めていたベレー帽が、

「私たちに食べられちゃうためだけに、あなた色に染まってゆく牛たちよ」

とため息交じりに呟くものだから、一同吹き出してしまった。

 そこに「おまちどおさま」と店の人が料理を持ってくる。頼んでおいたオリオンビールを持ってくる。ガイドさんの財布から生まれた焼き肉の皿もやって来る。ガイドさんに「ありがとう」とお詫びをしてから、四人でオリオンビールで乾杯すると、彼は気にせずウーロン茶のグラスをジョッキに打ち付けてくれた。

 そこから先はよく覚えていない、あまりうまいので夢中になって食事をしているうちに、皿のものがことごとく腹の中に消えていた。特に的確に焼かれた石垣牛の味は想像の範囲を超えるもので、これもガイドさんが焼きながら給仕してくれるものだから、私たちはただただ箸を進めたのである。最後に「まぼろしの石垣牛」という上等の肉をいただいた時には、口の中で極上のマグロがとろけるような食感が、肉の旨みを引き継いで、ああ、私たちはあの一刹那、天上世界を垣間見て仕舞ったのかも知れない。

土地に染め
  牛たちどなどな 屠(ほふ)られし
 せめてお辞儀し それから焼きます

 全員とろけ終わって口をすすぐために手洗いに寄ると、仕上げのハブラシまで用意されていた。大変満足したので、ごちそうさまと挨拶をして店を出る。せっかくだから写真に収めておこうと全員でカメラを取り出すと、見計らったように別の客が庭に出てタバコを吸い始めた。店を取ろうとすると邪魔な頭が一緒に入るので、結局このあんちゃんは全員の写真の中で、たった一人のダークヒーローになってしまったようだ。さらばあんちゃん、タバコは貧しい嗜好品だからもう卒業しなさい、そんな思いを胸に抱(いだ)きながら、私たちは車に乗り込んで、いよいよ石垣島観光に向かうのであった。

米原(よねはら)へ

「これから米原に向かいます。」

 ハンドルを切り都会的な交通量の十字路を曲がると、車は石垣島の海岸沿いではなく、島中央の東寄りを南北に抜ける二〇九号線に入った。実は石垣島はなかなか起伏の激しい島で、山岳地帯を抜けるといったら大げさかも知れないが、島内陸部は最高峰の於茂登岳(標高五百二十六メートル)を筆頭に、幾つもの岳がそびえている。昔から八重山の中では水源を持ち、そのため幾つものダムが作られ、今日では電力の確保にも恵まれているのだ。住宅も尽きた道路は山のシルエットを見ながら進み、周囲に広がる農耕地の中を、上下に勾配しながら続いている。まるで関東平野を山沿いにドライブするような感覚だ。

 ただ違うのは、まったく対向車とすれ違わない。前を見ても後ろを見ても、がらんとした道路が伸びているだけだった。ようやく対向車線に一台現われたと思ったら、ゆっくりゆっくり近付いて来る。すれ違うのが待ち遠しいくらいだった。しばらく進むとトラックの後ろ姿が見えてきたが、これがまた非常にゆったり走っている。

「あれ、あの車、故障でもしたのか」

と緑シャツが指さすと、ガイドさんが

「いいえ制限速度で走っているだけです」

と言う。なるほどスピードメーターを見ると、私たちの方が少し速度を越えているらしい。先ほどの対向車も速度を守っていたのだろう。ガイドさんの話では、石垣島では制限速度を守るのが当たり前で、超えて走る愚か者は観光客ばかりだという。誰もいない道路で速度を守り抜くとはすばらしい。成熟しているなと考えていると、まるで成熟していない緑シャツが

「抜いちゃえ抜いちゃえ」

と言って、パンフレットを丸めた眼鏡にどつかれていた。

 そのうちレンタカーのナビゲーションが、ダムの姿を映し出す。石垣島での最大の「底原(そこばる)ダム」だ。一九九二年に竣工(しゅんこう)して活動を始めたダムのお陰で、昔から干ばつに悩まされた石垣の水源も大分よくなったという。しかし完全には安心出来ないとガイドさんが教えてくれた。

「また、この石垣島と西表島、与那国島だけに生息するカンムリワシは、約二百羽ほどしか生息しない稀少動物で、西表ヤマネコと同様に特別天然記念物でありますが、このダムの辺りで見かけることがあります。方言では『マヤダン』などと呼ばれ、指笛のような鳴き声で知られています」

ワシと聞くと緑シャツが霊感を得て、

「カンムリワシと言えば」

と身を乗り出すから、また下らないシャレだろうと思って振り向くと、何も言う前に眼鏡からパンフレットで叩かれている。

「痛い、この暴力女何をする」

と緑シャツが自分の肩をなでると、

「だってシャレの後で叩いても、前に叩いても同じだし」

とパンフレットを突きつけるので、シャツはもうしませんと両手を上げて降参した。ところがベレー帽が

「カンムリボクなら許されるかも」

と支援するので、眼鏡はパンフレットを電光石火のごとくひるがえし、帽子の上をぽかりと叩いた。ベレー帽は

「暴力反対」

と嘆いている。シャツが

「そうだそうだ」

と賛同する。しかし眼鏡は

「カンムリボクでもカンムリオレでも許されないの」

と、パンフレットを手のひらに打ち付けて勝利を宣言した。何だか三人だけで楽しそうだ。私はガイドさんの横に座っているから、除け者にされたようですこし淋しかった。すっかり学生気分になってきたようだ。もちろんガイドさんは冗談を無視して運転を続けている。そのうちポッカリと暗い穴が近づいて来た。

「あれは於茂登トンネルであります。沖縄県で一番長いトンネルで、一キロメートル以上に渡ってトンネルが続くのであります。そして、『於茂登の長いトンネルを抜けると米原であった。海の底がサンゴになった。駐車場に車が止まった。』と、夏国の物語が始まるわけです。もちろん、駒ちゃんも葉子さんもいませんが。」

 ガイドさんの洒落は博識すぎて意味が分からないが、あえて質問する勇気も出なかった。しかし実際はトンネルを出てから少し西に行くと米原に到着するはずだ。シャツは

「俺、初めこめはらかと思ってた」

と率直なところを白状する。ガイドさんはちょっと笑って、

「米子(よなご)同様の発音であります」

と説明したが、シャツは米子もわけ分からん様子であった。ポカンとした顔のところを、面白がった眼鏡がまたパンフレットで叩いてみる。

「いて、てめこら、何すんだよ」

と、後ろ席はまたひとしきり賑やかになった。

 ふと見ると、カーナビには「ヤエヤマヤシ群落」という文字が左側に表示されている。八重山にだけ自生するヤエヤマヤシは、やはり国の天然記念物に指定されているが、それが数百本もの群落になった観光名所の一つである。トンネルを越えて少し進むと、道は海岸線に突き当たり、海岸に沿って左右に走る七九号線に出る。ここを左に曲がるとすぐに、私たちの目差す米原に到着だ。

米原(よねはら)ビーチ

 看板にしたがって米原海岸に切れると、砂と土で固められた駐車場がある。降りればすっかり初夏の気候で、水着になっても構わないぐらいだ。樹木の中には米原キャンプ場が広がり、木々の向こうには米原ビーチとエメラルドブルーの海が誘う。喉が乾いたから、自動販売機で冷えたサンピン茶を購入すると、それぞれ缶を片手にキャンプ場をぶらつきだした。駐車場の大きな掲示板には、

「初夏(はつなつ)のかかとでさんごを踏むなかれ」

と書いてある。じかでサンゴを踏みつけて折らないで欲しいらしい。ガイドさんがさっそく説明を始めた。

「この米原にあるビーチは、流れが速く幾分危険でもあるので、海水浴場としては公認されていないのであります。しかし隣接するこのキャンプ場を目当てに、夏場には沢山のキャンパーが訪れるのですから、自己責任で海水浴をまっとうする石垣島の名所に他なりません。ここは冬に閉鎖され夏に開かれるキャンプ場ですが、四月からはもう使用可能であります。かといって、冬は水道などが停止しているだけで、立ち入りが禁止という訳ではないのですが。」

 樹木に囲まれたトイレや炊事場らしい設備付近には、子供たちの遊ぶアスレチック施設が並び、その奥には青いテントが幾つか張られている。

「あれ、もうキャンプをしている人がいる」

とベレー帽が不思議がると、

失礼にかけては第一人者の緑シャツが、

「キャンプというか、上野公園の浮浪テントを思い出すような」

と聞えたら困るようなことを言う。

「ここが無料キャンプ場だった頃には、確かにホームレスの皆さんも沢山テント生活を営んでおりました。今でもキャンプ熱が高じて年中テント生活という強者もいて、様々なキャンパーが入り乱れ、これから夏に向け賑わいのひとときを向かえるのであります」

「そうなんだ、オレもキャンプやりたいな」

「このキャンプ場は夜になるとヤドカリの活動を垣間見たり、蛍が飛ぶこともあるのです。」

 蛍と聞くと皆は詩を感じて、それぞれテント生活を心に描いている様子で、しばらくは黙って足を進めた。それにしてもキャンプ施設は大分荒れている。夏場になる前に修理でもするのだろうか、アスレチックだって補修しなくては、子供が怪我をするかも知れない。それとも怪我をしたけりゃ勝手にしなされ、という放任主義こそが、飼い慣らされない大自然のいとなみでのキャンプの根源なのだろうか。キャンプ場を浜辺に抜けると、目の前には砂浜が広がっている。ちゅらさん組も緑シャツも、海に出ると途端にはしゃぎ出した。砂を踏むと結構じゃりじゃりした感じがする。この浜はサンゴの破片などが多く転がり、海に入るならビーチサンダルがないと危なそうだ。

「これが米原ビーチであります。浅瀬にまでサンゴ礁が張り出した海岸は、シュノーケルによる海中散策がすばらしいスポットであります。あの白波の立つ辺りで、海の色が濃く変わるでしょう。きっぱりとあそこまでがサンゴ礁の範疇(はんちゅう)であり、白波の下がリーフと呼ばれる縁を形成しているのであります。つまりリーフまでは非常な浅瀬でありますから、引き潮には干潟を形成して、サンゴがなければサンダルで歩き回るありさまです。そんなサンゴ礁と触れ合えるビーチですから、宿泊の皆様にはぜひサンゴを破壊したり、自然を虐める行為はよしていただきたい。私はそう思うのであります。」

 なるほど、サンゴの欠片が多いはずだ。砂浜はサンゴ片の多い所と、砂の細かい所と、じゃりじゃりした大粒の石っぽい部分が交替しながら、波打ち際まで続いている。

「あれ、大きな穴が開いてる」

眼鏡がまだ湿った波際に近寄ると、指で輪っかを作ったぐらいの穴が、くり抜かれてポッカリと空いている。

「ここにもあるよ」

とベレー帽が別の穴を覗く。

「その穴は、昼間潜んで夜活動するスナガニ科のミナミスナガニや、ツノメガニたちの掘ったものであります。スナガニ科は逃げ足が速いために、英語ではGhostcrab、すなわち幽霊ガニと呼ばれるありさまです」

ガイドさんが話している間に、緑シャツはスコップ状のサンゴの破片を捜して、勢いよくその穴を掘り始めた。

「あれ、掘ってるうちに穴が消えちまった」

「完全に乾いた砂を流し込むとルートが分かるのであります」

「なるほどスナガニ科」

と今度は別の穴に砂を流し込んで掘り始めたが、かなり奥までルートを辿っても蟹は見つからなかった。捨て去られた巣穴かもしれない。期待していたちゅらさん組はがっかりする。私はみんなの様子をそっとシャッターに収めてやった。そこへガイドさんは、細い植物のツタを持って来て、少しずつ別の穴に押し込んでいく。すると今度は慌てて蟹が飛び出した。小さなすばしっこい蟹で、砂の色に似せて目立たないような色をしている。これを緑シャツが、

「スナガニ科!」

と叫んで追い立てる。蟹は必死になってこちらに逃げて来るから、不意を打ってスナガニ科を捕まえてやった。いくら足が速くても後ろに気を取られていちゃ蟹なしだ。

 取り上げてみると何の変哲もないただのカニだ。挟まれないように甲羅の中心をつまんで眺めていると、懸命に手を振り回している。しばらくみんなで眺めていたが、ベレー帽が

「せっかく寝てたのに」

と言うので、住みかの穴に帰してやった。しかし人の好意が分からないカニだから、あらぬ彼方に全速力で逃げて行く。シャカシャカ駆け出すその姿は、むしろ、あさましいほどに右往左往、ついには鋏をかなぐり捨て、取り乱し、取り乱し、いまはかなはずと退散した。実に、それは、できてなかった。波も俗なら、蟹まで俗だ、ということになって、いま思い出しても、ばかばかしい。

 ……はてな?

 これはなんの文章であろうか。蟹がそう簡単に鋏をかなぐり捨てるはずがないではないか。私は紀行文を書いている最中に、ついうとうとと眠りこけて、迷走してしまったようだ。いつの間にか、太宰治の「富岳百景」が文章の中に紛れ込んでしまったらしい。とんだ失態である。まったくお恥ずかしい限りだ。話をもとに戻そう。そう、蟹がシャカシャカとしたあたりからである。

 ――シャカシャカと逃れるカニの狼狽を、面白がってか緑シャツが追い駆ける。ビックリしたカニはとうとう最後の手段、海の中へと潜ってしまった。さっそくベレー帽が、

「カニは流れてどこどこいくの」

と歌い出し、いつものお決まりで、眼鏡が続けて

「人も流れてどこどこいくの」

と後を継いでいる。それからみんなで別の穴を探し始めた。私はそれを眺めながら、手帳を取り出して、思いつくままに小さな詩を書き記しておく。

   「蟹のほこら」
砂浜もぐる蟹はのどかに
  波を子守歌にして
    小さなほこらに眠るよ
  小さく祈れば悩みさえ
挟みで刻んでくれるよ

  追伸
   でも追い立てれば
     指を挟んでくれるよ

 カニにも会えて満足したので、私たちは波際を散策がてら、サンゴ片や貝殻を探し回るビーチコーミングを始めた。空はあい変わらず晴れたり曇ったり、日が差す度に輝く海は、色彩から明度まで増加させ、砂は光を吸い白く吐き出す。風抜ける彼方(かなた)まで見返すと、於茂登(おもと)岳から周辺の嶺へと、重なり合う深緑が瑞々しい。小川はキラキラと水をたたえて海へと帰る。その向こうの海岸線は、カーブを描きながら海にせり出している。これから向かう川平湾(かびらわん)に向かって、半島が伸びている所だ。砂浜には岩石のようなサンゴ石や、海岸に打ち上げられたウキや、砕けた貝殻片などが転がっていて、私たちは夢中になってあれこれと探し回っていた。そこにひとしお風が吹き付ける。近くで砂浜を探っていたベレー帽の帽子が飛ばされたので、私はそれを拾って手渡しながら、

「何か面白いもの見つかった?」

と聞いてみた。

「これ、すごく綺麗なんだけど、もっと大きいのないかな」

ベレー帽は赤い筋の入った、不思議なつるつるした貝殻の破片を手のひらにかざした。

「そんな赤筋は見つからなかったな。これじゃ駄目かな」

と私が、青色く染まった小さな貝殻を手渡すと、

「何これ、青色の貝なの」

と手のひらに転がして驚いている。ガイドさんに尋ねると、

「それはルリガイです」

と答えが返ってきた。なんでも泡みたいなものを吹いて、それを浮遊体にして、海面にぷかぷか漂うという変わりだねの貝らしい。

「そんな生き方してみたいなあ」

と私がベレー帽に向かって言うと、彼女は、

「それじゃあ、これ私が貰っておくね」

とその貝殻を小さな袋に仕舞ってしまった。

「会話が噛み合ってないじゃないか」

と困った顔をしたら、彼女は屈託なく笑っている。その笑顔がかわいらしかった。

 そこへ緑シャツが

「これだ!」

と叫ぶから、

「どうした、何か見つかったか」

と顔を上げると、彼の指さす方には、両手でも抱えきれないような丸太が打ち寄せられている。

「これが一番の大物だ」

と宣言するから、呆れた眼鏡が

「それじゃあ持って帰りなさい」

と命じれば、緑シャツは

「よし」

と力を入れたが、さすがにこれはビクともしなかった。しかしせっかくの記念だ。交互に丸太を中心に記念写真を撮ってから、流れ込む小川をちょっと遡(さかのぼ)るようにして、再びキャンプ場に戻ったのである。

 するとキャンプ場の端から七九号線に復帰する出口の向こうに、カラフルな巨大シーサーが沢山並んでいる。その隣には店が構えている。シーサーなどの焼き物で有名な「米子焼工房(よなごやきこうぼう)」という店だそうだ。ユニークなシーサーが沢山製造され、お土産にしたらさぞ面白そうだったが、私たちは時間の都合で先に向かうことにした。ちゅらさん組は

「シーサーが待ってるのに」

と不満顔だ。戻る途中、巨大なクワズイモの葉っぱが何枚も生えているので、私はハイビスカスのおやじを思い出し、緑シャツを葉っぱの中に埋(うず)めて、首だけ出して写真を撮ってやった。後から見たら非常に恥ずかしい写真が出来たので、せっかくだからシャツだけでなく全員に送ってやった。おまけに葉書には、意味の分からない和歌をひとつ添えてやったのである。

くわづいも
  タブローヴィバンの コメディアン
 夜ごとキャンプに 笑みを添えるよ

 駐車場へ戻る途中、こんな自然豊かな蛍すら飛ぶ米原に、リゾートホテルを建設するという話をガイドさんから聞かされたので、後日インターネットを調べてみた。私はその完成図を見て驚いてしまった。余計な配慮はせず美的基準だけで考えても、完成予想図は景観を知らない前世紀的な、それがあることによって、土地の風土を明確に損なう、悲惨の建物だったからである。リゾート建設にしても、景観と自然に溶け込んで観光を誘い込むような配慮が欲しいこれからの時代、こんな安いものを建てるのは、幾らなんぼでも愚かの極みだ。精神的貧困だ。敗戦国の経済いちずだ。しかも米原の海は日本人はおろか世界中の人々にとって遺産になるほどの、優れたサンゴ礁地帯であり、土地をいじめ抜いて荒稼ぎをするような場所ではないのである。

 私は、あの男が居酒屋で「資本主義馬鹿」と叫んでいたのを不意に思いだした。彼は安易な発展のなれの果てに魂が干からびて、伝統も風俗も倫理も気品も朽ち果て、陳腐な物欲しか残らなくなる現象を嘆いて、また東京の景観の醜さを呪い、あれはコンクリートと排気ガスにまみれた汚い商品看板だらけのゴミ箱じゃないかと叫んだ。社会的公共物の役割を担うべき電車やバスにまで広告を垂れ流すのは、よその国がやっていたらこれを諫めるべきものを、率先して大いばりで商品で塗りたくって、これはまるで低俗の豚ではないか。一塊の人間のひとかたまり、むしろ集団で病んでいるのではないか。酔っぱらっては、そう激しく私に毒突いて、弁解がましく都会を擁護しようとする私を、卑怯者だと罵った彼は、今日もどこかで苛立ちをぶつけているのだろうか。沖縄も本島の景観は開発で切崩され、自然の風景を破壊する建築が休みなく顔を覗かせ、その代わり沢山の観光客が押し寄せるあか抜けたリゾート地となったが、そのあげくの失業率の高さは何を意味するか、資本主義馬鹿の精神に食い荒らされて汚染されているのだ。そんな風に、私に食ってかかるのだろうか。私には分からない。それに今度会ったとしても、もう私は聞く耳を持たないだろう。あんな不愉快な想いは二度と御免である。

 ただ八重山には、沖縄本土が辿った道とは違う方向で、観光の活性化を図れないものだろうかと、そんなことも頭に浮かんだが、米軍基地問題も島の暮らしも知らない私は、やはり無責任な余所者で、リゾートホテルに滞在する典型的な観光客として、この話に深入りする資格はないのかもしれない。それに私は彼の言葉を思い出すのは、ちっとも楽しくないのだから、この話は打ち切りにして紀行の続きに戻ることにしよう。

川平湾へ

 車に戻ると、木陰にも関わらず車内はすっかり熱くなっていた。しばらくドアを開放してから乗り込んだ私たちは、米原ビーチを後にして海岸沿いを走る。途中には美味しいと評判の食事所もあり、米原を訪れる人は、この付近で食事を取ってもいいかもしれない。途中「トミーのパン屋」と描かれた小さな看板もあった。

「少し折れると小さなパン屋があるのですが、そこのパンがなかなか美味しいのであります」

とガイドさんが説明すると、軽ノリの緑シャツが、

「お食事所富田君ではあるまいか」

とまったく理解できない冗談で答えている。ガイドさんは呆れてドライブに専念する。眼鏡がパンフレットを丸め出す。シャツは慌ててなんでもありません、という仕草をした。

 そのうち先を行く自動車が見え始めた。速度をきっちり守っているのだろう、私たちはすぐに追いついてしまう。こちらが制限速度を微妙に超えているせいだ。速度厳守の運転が、あんなにのどかでゆとりあるものだとは思わなかった。そういえば歩く速度ですら、東京と大阪は全国で二位一位を争う早足地区ではなかったろうか。沖縄の人たちは歩いてもゆったりしているのかもしれない。前の車両は日光を受けてキラキラと輝いたが、私たちが周辺の店を見ながら、

「アール・ヌーヴォーよりカフェ・ヌーボー」

とか、ガイドさんが答えて

「川平湾にも八重山そばの美味しい川平公園茶屋があります」

とか食べ物屋で盛り上がっているうちに、いつしかどこぞに消えてしまった。

 そのうち道は右に大きく弧を描く。地図を見ると、ちょうど石垣島の北西部分から小さな葉っぱが二枚生えるみたいに、北と西に向かって伸びる半島がある。北の方が川平(かびら)半島で、西の方は崎枝(さきえだ)半島、または屋良部(やらぶ)半島だ。川平半島には二百六十三メートルほどの前嵩(まえたけ)があり、崎枝半島には二百十六.五メートルの屋良部岳(やらぶだけ)があって、仲良くいただきを競っている。川平湾はその川平半島の付け根にあるのだが、湾の出口に小島(くすま)という離れ島が控え、これにより閉ざされたようなサンゴ礁の湾が形成され、穏やかなプールのように海水浴に最適の海が広がっている…………かと思ったら、諸君、とんだ甘ちゃんだ。実は湾を流れる海流はなかなか早く、遊泳禁止ゾーンになっているから気を付けるがよい。

 そんな川平湾だが、地元では「キファンナト」つまり川平の港(んなと)と呼ばれ、全国でわずか八か所の国指定名勝地に指定され、石垣でも一番の観光スポットになっている。太陽の角度が変わる度に様相を変える海は、宝石のように美しいという。また世界で始めて黒真珠の養殖に成功するなど、真珠養殖地としても重要で、遊泳が出来ない代わりに、船底がガラス張りになって海を散策する、グラスボート観光が有名だ。私たちも、そのグラスボートに乗るために川平湾に向かっているのである。

川平湾(かびらわん)

 土産屋が並ぶ小さな駐車場に降り立つと、アイスクリームの看板と一緒になってグラスボートのチケット売場があった。私たちはさっそくチケットを購入して、砂浜へ向かう坂道を下り始める。チケットを眺めながら歩いてた私は、砂を踏んだのではっとして顔を上げると、いきなり川平湾の景観が飛び込んできたので、思わず「あっ」と声を上げてしまった。ちゅらさん組が「わあい」と歓声を上げ、緑シャツは砂浜のおじさんにチケットを渡すと、海辺に向かって走り出す。私も搭乗券を切って貰い、波際に出て周囲を眺めながら、しばらくは茫然と言葉を失っていた。

 アーチ型に覆われた川平湾は、打ち寄せる波もほとんどあらず、海は深さを変える入り江に応じて、ソーダ色から群青まで気まぐれに移り変わる。海底(うなそこ)まで透ける砂が抹茶をこぼしたような彩色をほどこして、日を浴びると蛍光塗料のように輝きまさる。浮かぶ島々は重なり合って、初夏のおもむきで亜熱帯植物を茂らせている。島の合間からは、走ってきた石垣島の海岸線が見える。まる孔雀石(くじゃくせき)のしずくがしたたるのに任せて、長い年月をかけて湛えた、まぼろしの湖にたどり着いたような錯覚にとらわれた。

 しかし遙か左手の向こうだけは、どんなに目を凝らしても岸影は見えず、波立つ青海が広がっている。砂浜は白く細やかで、裸足になって踏み歩いたら、どんなに心地がよいことか。ただ岸に横付けされたグラスボートと、湾内に浮かぶ船影だけはまったく人工的なもので、景観のマイナス要因になるかと思われたが、実際は壮大な自然に吸収されて、それがまるで苦にならないほど、川平は美しい所だ。浜の方を見返ると、川平公園の展望台が小さく見えた。

「わあ、ここにもにゃんこ」

「西表にゃんこ」

とさっそく脱線したちゅらさん組が走り出す。白砂が黒土(くろつち)に代わりつつ、アダンの木が何本か伸びる辺りに、眠る猫を発見したからだ。猫は慣れているせいだろう、観客を一瞥したなり、ふてぶてしくも転がっている。ガイドさんが改めて、猫は沖縄方言で「まやー」と呼ぶのですと教えると、二人は

「はままやー」とか

「ねむりまやー」と呼びながら、気まぐれに写真を撮り始めた。そのうち「八重山猫紀行」のアルバムが出来るかも知れない。私はベレー帽の後ろから、

「猫ばっかりだね」

と声を掛けようとして、それが嫌味に思われたらと思って、つい躊躇してしまった。いけない、いけない。このような煮え切らずに思いとどまることは、八重山には相応しくないはずだった。

 そんな私のこころを知るよしもない緑シャツは、アダン(阿檀)の木にぶら下がる実を指さして、

「パイナポー発見」

と叫んでいる。ガイドさんが慌てて、

「それはパイナップルではありません。パイナップルは大地に低く生える草であります。大根やナスの知人であります。リンゴやミカンのような果物たちとは違い、決して木になったりはしません」

と説明すると、

「そうなんだ。オレは都会っ子だからパイナップルは椰子の実みたいにぶら下がっているのかと思ったよ」

と勝手なことを言う。実は恥ずかしながら私もそう信じていたのだが、犠牲者は一人で沢山だ、ガイドさんに合わせて知ったかぶりして笑っておいた。

「そういえば、さっきお土産屋さんでスナックパインって書いてあったよねえ」

猫を捨てた眼鏡がアダンの実を見上げると、ベレー帽も寄ってきて

「あの小粒のパイナップルみたいな実が、これじゃないの」

と顔を傾けた。私に質問されても困る。こんな時はガイドさんが話し出すのを待つだけだ。

「全く違います。お店屋さんにあったパイナップルは、あれはスナックパインと申しまして、確かに大きさも小ぶりでありますから、いっけんアダンの実が刈り取られた姿にも見えますが、実際は全くの別物です。スナックパインは、パイナップルの食感をさらに高めようと努力して、品種改良の結果生み出された、普通のパイナップルよりも甘くて酸味の少ない新進気鋭の名産品です。そして底のあたりを軽く切り込めば、まるで初めからブロックを寄せ集めて作られたように、するすると手でちぎって食べることが出来る、優れた特性のパイナップルです。おまけに芯まで美味しくいただけるという、至れり尽くせりの実なのです。そして草から実を付ける果物の仲間であります。しかしアダンは、このアダンの実は違います。これは木の実であります。人々の賞賛を受けるフルーツにはなれなかった、悲しい木の実であります。昔は食用にしたこともありますが、その淡泊な甘さから皆に捨てられて、他に優れた食材が豊富にある以上、あえて食用にすることも一般的では無くなったのであります。唯一八重山地方では、アダンの新芽の所をあく抜きして、精進料理のように正月を祝う調理が残されていますが、これは筍のような食感で、なかなかに美味しいのであります。ですからいつの日か、その食感を生かす調理法によって、アダンが一躍料理界に躍り出ることも、ないとは限りません。私はそう祈っているのです。」

 ガイドさんは解説をすることに飢えているようだった。スイッチが入ったら、もう誰にも止められない。ガイドすること、それが彼のライフであり、ライブでもあったのだ。

「そんなアダンですが、彼はタコノキ科という所属チームに入っています。そこの幹の下をごらんなさい。太い気根が伸びているでしょう。根っこが外に顔を出してしまった気根は、仲間川のマングローブでも散々お目に掛かったと思いますが、幹から出る気根が次第にはびこって、タコの足のように複雑に伸びることから、タコノキ科と命名されたのです。そしてアダンもその一員であります。彼は沖縄では暴風を防ぐために、潮の侵入を防ぐために、海岸線に多く植えられる葉にとげのある海岸木(かいがんぼく)なのです。」

 海岸木と聞いて緑シャツが反応しないはずはなかったが、シャレを言う前に眼鏡がパンフレットを丸めだしたので、

「なんでそんなもの持ってくるんだよ」

と驚くと、彼女は

「だってほら、ちょうどいい具合なんだもん」

と、シャツの腕を叩きながら答えている。こうして緑シャツの得意技は封印されてしまったが、私たちにとってはありがたいくらいのもんだ。

 私はアダンを見上げながら、帰りがけにスナックパインでも買っていこうかと考えていると、グラスボートが出発するという。さっそく竹富島で水牛に乗ったときのような布陣で、他の客に遅れて乗船し、男たちが左側に、女たちが右側に、海の底が見えるグラスボートにそれぞれ腰を下ろした。解説をしながら船を操る操縦士は、船尾にハンドルを握って控えるから、水牛の時とは違って、私たちがボート解説員の一番近くになった。エンジン音が上がると、船はさっそく岸を離れる。

グラスボートでサンゴ礁

 私たちが取り囲むように坐ると、手すり付きの堀が大きく船の中央を占領し、底がそのままガラス張りになって、海中が見られるようになっている。激しいモーター音と船が進むのに合わせて、ガラスすれすれの海底(うなそこ)が移動しながら、へばり付いた気泡が生き物のように揺れ動いた。がらくたのような沢山のサンゴ破片の合間に、小さな魚が過ぎていく。その海の色は大分緑がかって見える。観光ガイドを兼ねた若い操縦士がようこその挨拶を済ませると、船はいったん速度を落として、さっそく船底ツアーが始まった。目の前ではベレー帽たちが、懸命に底を覗いている。彼女は落とさないために帽子を外しているので、いつもとは印象が違う。

「はびこる雲が邪魔ですが、今日の天気はまあ悪くありません。海の底をご覧あれ、ここはちょっとプランクトンじみて、緑色に濁ってます」

若い声が響いたので私は慌てて視線を底へ落とした。白骨残骸の中に、生きたサンゴが見え始めたところである。

「今まで沢山見かけた、砕けた小さなサンゴ。遊泳禁止のため折る人はいないので、これは人的災害ではない。台風など自然の力で壊れた無数の残骸なのです。この残骸が砕けて最後には川平の砂浜になるといえば、なかなかロマンチックでしょう。船底にはすでに沢山の魚が泳いでますが、こうして潮が満ちているあいだは盛んに活動して、潮が引き始めると魚の姿がぐんと減る。このグラスボート観光も、海のコンディションによって、海底の様子はどんどん変わります。特に海の透明度は、上げ潮や下げ潮で海がかき回されると非常に悪くなるし、プランクトンの発生や、台風が近づいても悪くなる。逆に太陽が直接照り注ぐと、浅瀬の海底を非常にはっきり映し出します。さらに大潮で潮が引ききった時には、この辺りは大分陸地になってしまうのですから、コンディションによってグラスボートの評価に差が出るのは仕方がない。すばらしいと何度も来てくれるお客さんもいれば、ネットで悪口を書く人もいるのです。」

 そう言いながら船はまた少し進む。

「はい、サンゴの残骸のあいだにシャコ貝が見えてきました。あれで二十センチぐらいでしょうか。近づいたり触ったりすると、口をパクリと閉じるから危険です。昔、有名なドクターがシャコ貝と格闘した逸話があったような、なかったような。確か貝柱をメスで切り裂いて満潮の危機を乗り切ったとか。たしかブラックジャック先生がどうのこうのと……。」

 そんな脱線は要注意である、ちゅらさん組が間髪入れず、

「あっちょんぶりけ」

と二人で一斉にハモったからである。危機感を感じた操縦士は、あわてて一つ咳をする。

「ええ、とにかく挟む力は強力なシャコ貝ですが、刺身などにして食うとこれが旨いのです。では、もう少し沖のポイントに向かいましょう」

とハンドルを切った。

 振り返れば遠ざかる川平公園は小さく、ボートは島の間を勢いよく抜けていく。やがて速度が急に落ちたので、景色を眺めていた私も、再び底のガラスに目を向けた。海底までの距離はずっと開いたのに、さっきより透明度が上がり濁りが少ないようだ。白骨サンゴの破片もあまり見えなくなり、そのかわり名前も分からない沢山のサンゴが、百花繚乱に咲き乱れている。ちょうど一斉に打ち上げられた仕掛け花火が、開いた刹那(せつな)をフィルムに固着したよう。さながら海中の亜熱帯植物園といった景観だった。しかし、その上空を飛び交う鳥たちの代わりには、様々な色をした熱帯魚たちがのどかに、あるいはせわしなく泳ぎ回っている。群れをなす魚もあれば、はぐれ者もいて、弾丸のような青い小魚の後ろから、ずんぐりした赤い奴がジグザグ泳ぐ。名前をもって説明できないのが怨めしいくらいだが、あまりの見慣れない美しさに、観光客は息を凝らしてじっと覗き込んでいた。

「はい、透明度が高まってきました。沢山の熱帯魚がいるでしょう。ほら、ちょうど小さいのが競い合うようにして泳いでますね。そのうち黄色い方がネッタイスズメダイ、そして全身青いのがルリスズメダイ、どちらもサンゴの森では馴染みの魚です。サンゴだっていろいろあります。例えば枝の青いサンゴが見えるでしょう、あれはエダサンゴで、しかし青色でないのもあります。同じように枝を伸ばしても、先が細く尖っているのはトゲサンゴ。そんな訳で、熱帯魚もサンゴも沢山の種類があり、とても紹介しきれるものじゃありません。」

 なるほど、咲き誇るサンゴたちは、数え切れないほど個性派揃いだ。カメラを出してフラッシュ無しで撮影していると、突然向こうに座っていた眼鏡が立ち上がり、

「隠れクマノミ」

と声を上げた。慌てて枝状の白いサンゴを見ると、オレンジ色の熱帯魚が白い縞模様で飾られて、恥ずかしそうにサンゴに擦り寄って甘えている。ベレー帽が、

「ニモだわ。ちゃんとサンゴの合間に戯れてる」

とカメラを出すと、先ほどのスズメダイよりもっと大きい体をひねって、ニモはガラス越しから逃れてしまった。二人は「あーあ」とがっかりしている。

「はい、紹介する前に発見しましたね。最近は癒しの熱帯魚ブームで、すっかり人気者になったクマノミや隠れクマノミですが、やはりサンゴの代表的な住民です。特に隠れクマノミはファインディング・ニモですっかり熱帯魚のスターになってしまいました。この前なんか、小学生たちがあまりニモニモ暴れるので、身を乗り出しすぎて止める間もなくガラスに転落して、幸い怪我もなくガラスも無事でしたが、私は心臓が止まるかと思いましたよ」

ちゅらさん組は、

「生きてクマノミを拝めるなんて」

「それもニモの方に」

と言って両手を合わせた。私はおかしいのでそこをカメラに収めてやった。

「さて皆さん、サンゴは何であるか知ってますか。あれは海藻のような植物ではなく、れっきとした動物です。決してあのかたまり全体が一つの個体ではないのです。沢山の小さなサンゴが、蜂が巣を作って住むように、個体ごとに石灰の巣を作って、その中に生活しているのです。とはいっても、サンゴの個体は蜂とは違って巣と一体化し、離れて生活することは出来ない」

運転手はモーター音を落として、一つところに静止するみたいにして話を続けた。

「石灰で出来た巣も含めて、一つの種類でまとまった集合をサンゴ群体と呼びます。つまりそれは純粋な巣ではなく、個体の外側骨格に別の個体の骨格が連なって出来ているわけです。群体に住む一つ一つのサンゴのことは、『サンゴ個体』とか『ポリプ』と言い、彼らは『刺胞(しほう)』という毒針細胞を持ち、触手に触れたプランクトンを毒で殺して食べています。そのため大きな所属分類は刺胞動物と呼ばれるが、クラゲなどもこの刺胞動物の仲間。この前NHKで遣っていた『地球大進化』では、七億年前の生物として登場したエディアカラ生物群の中に、刺胞動物の原始の姿も見られるというから壮大です。

 その刺胞動物の中でも、サンゴやイソギンチャクのように付着性のポリプを特徴とするものを、さらに細かく分類して花虫綱(はなむしこう)と呼び、その下にサンゴの種類が来るというのが、まあ生物界上の分類ですが、私はガイドになるために、これを覚えさせられて非常に難儀(なんぎー)な思いをしました。」

 ガイドさんが小声でシャツに何か説明している。本当は彼が解説を乗っ取りたいに違いない。運転手はむろん、そんな恐ろしい相手が客の中に潜んでいるとは、知るよしもない。また少し移動してから、話を継いだ。

「しかしサンゴの恐ろしさは、まだまだこれからです。このポリプは、褐虫藻(かっちゅうそう)というピカッチュウみたいな単細胞の藻類を体内に住まわせて、その褐虫藻の光合成エネルギーを活用しているというから驚きです。まあ、共生(きょうせい)とでもいうのでしょうか、この光合成植物のお陰で、サンゴは命を繋ぎ、あのように豊かな色彩を保つことが出来るわけです。おっといけない。共生といえば、隠れクマノミが見えたら説明しなければならない話がありました。」

 なるほど海底散策ツアーの均質なガイドのためには、定まったコメント部分が多分にあるようだ。

「あの隠れクマノミは、よくイソギンチャクに体を擦り寄せている所が紹介されますが、あれも共生関係なんです。イソギンチャクの毒針細胞に対して免疫のある隠れクマノミは、イソギンチャク畑に潜り込んで、外敵から身を守って生活しているわけです。しかし離婚夫婦さながら共生が破綻することもある。

 サンゴの場合、海水が異常に高くなったりすると、中の褐虫藻が個体からうっかり放出されてしまい、サンゴはこれに驚いて全身真っ白の白髪オジィと化して、やがて死んでいくというのが、よく白化現象と呼ばれる現象で。一九九八年の世界的なサンゴ危機では、八重山地方でも沢山のサンゴ礁が白化して死んでしまったのです。他にも、サンゴをがばがば食い殺すオニヒトデが大量発生したり、最も恐ろしい人間が環境を破壊したりして、サンゴは日々危機にさらされている。ですから皆さん、サンゴを見付けたら、どうか優しく接してあげて下さい。」

 個体に共生する褐虫藻の光合成エネルギー。それはサンゴだけでは消費しきれず、余剰エネルギーを含んだサンゴの排出物を餌とする食物連鎖が、通常あり得ない高密度の生物地帯を生み出しているのが、サンゴ礁の海ではなかっただろうか。そしてそのサンゴたちは、ある満月の大潮の晩一斉に、蓄えた卵入りのカプセルを海に向かって放出し、海の中はまるで雪が降り積もるのを止めて空へと戻ってゆくように、天に登りゆく神秘の光景が見られるのではなかったろうか。そして大蛇に食われることなくつつがなく成長したならば、サンゴはついに満天の星にまで昇りつめるのかも知れない。そしてある新月の晩に、一縷(いちる)の星屑となって降り注ぐのかも知れない。

「月影のあこがれかえすやサンゴの子」

私はとあるサンゴの番組を思い出しながら、そんなことを考えていた。すると船は少し進んで、ごつごつした岩みたいな固まりがガラス越しに見えてくる。

「はい、ジャガイモがごろごろしているような巨大なサンゴが見えてきました。この美味しそうなジャガイモは、グラスボートで巡る川平湾の名所の一つになっています。正式名称はこれまた面倒ですから、適当(てーげー)にジャガイモサンゴとでも覚えておいて下さい。写真を撮るなら、携帯でも結構写りますよ。ただしフラッシュ焚いちゃ駄目です。」

 船底一杯にもこもことジャガイモが鎮座している辺りで、しばらく留まっていた船は、折を見てまた少し前進した。

「すこしずれて、砂が多く見られるこの辺に、はいはい、いたいた、居ました。ほらあの図々しく横たわっているナマコときたら。四コマ漫画、『ナマコの一生』でもお馴染みですが、それにしても、なんと図々しそうな奴だ。皆さん、調理されたナマコを見かけたら、どうか彼の姿を思い出してあげて下さい。」

 それにしてもなんと図々しい態度だ。あんな我が物顔に比べたら、シャツなどまだまだかわいい位である。あ奴は古事記の中でも、

「この口、答えぬ口」

とて、アメノウズメの命から、ふてぶてしさのため刀で口を切られておったぞ。その頃あ奴は、ただ「こ」と呼ばれていたはずだ。私はおかしくなったので、ちょっと面白い歌を頭の中に浮かべてみた。

川平には
  さんごの狭間に ぬしがいた
 こ奴は僕らを 見あげておったぞ

「それでは、グラスボートの旅も解説も、ナマコを持って終わりにして、これから再び川平湾に帰ることにしましょう」

運転手が舵を切ると、ナマコは急速に遠ざかった。さらばナマコよ。二度とお会いすることもあるまい。それとも、あるいは近々食卓で……。

 急に速力を増したボートから顔を上げて、駆け抜ける島々を眺めながら、ようやく私たちは浜辺まで戻ってきた。白いビーチに足を下ろせば、この砂が先ほど見たサンゴの破片かと、訝(いぶか)しがるほどの細やかさだ。ボートを離れると、さっそく我らのガイドさんが話し出す。自分で解説が出来ないひとときは、さぞ辛かったことだろう。

「大潮の干潮の時は、湾内に浮かぶ小さな島々も、入り口付近の小島さえも、歩いて渡れるほどみに潮が引き、海水は一部を残して湾から消えてしまいます。美しい観光とはいえませんが、いつかまた訪れて、そんな姿もぜひ見ていただきたい。ここで年中川平湾の姿を追っていれば、さぞ自然の不可思議なエネルギーを実感することでしょう。私もガイドを引退して、いっそ八重山に住みたい誘惑に駆られるのであります。」

 この博識の彼がグラスボートの解説をしたら、どんな話が聞けただろう。私たちは砂浜を歩きつつ、すぐ先にある川平公園の展望台に向かうことにした。階段を登る辺りに、シュノーケルと書かれた屋台風の出店があり、八重山の若者が数人おしゃべりをしている。いつまでもアルバイト生活じゃあ駄目さあという話らしかったが、イントネーションが違うものの、意味の分からないような方言はなく、大体意味が通じる訛り標準語だった。ただ横を通った時に「なんぎさー」と聞えたのが、印象に残った。「なんぎ」とは要するに難儀の事で、沖縄の人たちはちょっと面倒なことがあると、すぐ「なんぎー」を連発するのだという。いずれにしろ、若い人たちの間では、初耳では理解に困るような方言は、もう遠いものになってしまったのかもしれない。方言を持たない私は、それを少しもったいないことだと思って、階段を登っていたのだが、下の方では相変わらず楽しそうな笑い声が響いていた。

駐車場へ

 砂浜から高台に登る先に、展望台と公園の歩道があり、写真でよく見る川平湾の絶景が広がっている。展望台から見下ろすと、右手には名産品の真珠養殖場が白い船と浮かび、左手にはグラスボートが停泊するビーチがあり、ポストカードに使用される川平湾そのものであった。私たちも景観を取り込んでシャッターを切っていると、ガイドさんが記念写真を撮ってくれるという。礼を言ってから横一列に並ぶと、緑シャツだけが変なポーズを取っている。きっとおかしな写真が出来るに違いない。

「ちょっとあんた、真面目にやんなさいよ」

と眼鏡が笑いながらパンフレットを丸めるので、緑シャツは

「それは止めろ」

と言いながら逃げていった。眼鏡がそれを追いかける。ベレー帽がやれやれという風に私の方を見つめるので、私は下手なジェスチャーで両手のひらを返し上げて見せた。ガイドさんは全部をまぜこぜにして一人で笑っている。

 記念写真を済ませ公園をゆっくり駐車場に向かう途中、ガイドさんが奥の方を指さした。

「この先にあるのが八重山そばの美味しい川平公園茶屋であります。今回は石垣牛を優先させましたが、今度来た時にはここで昼食を楽しむのも、お薦めのコースの一つです。そば以外にも、辛みのある焼きそばなど、安い島料理が楽しめることでしょう」

するとへこたれない緑シャツが、

「しゃあないから、今回はそばを断念して、代わりにアイスクリームを食うべし」

と言いだした。そばとアイスにどんな因果関係があるか知らないが、ちゅらさん組も、これにはたちまち賛同し、

「熱いもん、それじゃアイスで我慢する」

と言いだした。こうなったらもう止められない。駐車場に戻ると、アイスクリーム屋さんで紅芋アイスなど好きなのを頼んで、全員で食べ歩き状態に陥ってしまったのである。ガイドさんもシークァーサーを購入して旨そうになめている。

 私はパイナップルを注文したが、頼んでからマンゴーが欲しくなった。

「あっちの方がよかったかな」

と口を滑らせたら、さっそくちゅらさん組が

「まったく子供なんだからしょうがない」

と言い出して、緑シャツからも

「この駄々っ子野郎め」

と突っ込まれ、すっかり笑いものにされてしまった。けっ、勝手にするがいい。シャツにまで子供扱いされちゃあお仕舞いだ。もう私のことなどは放っておいてくれ。その後で土産屋を徘徊して、物色の飽きない二人を引っ張り出して、ようやく川平を後にしたのである。

底地(すくぢ)ビーチ

 せっかくだから五分ほどで到着する、底地(すくぢ)ビーチにも立ち寄ろう。ここは県で指定されている唯一の海水浴場で、舗装した駐車場もあり、シャワーにトイレに更衣室も完備して、安心の海水浴が出来るというふれこみ。石垣の観光ここに極まれりと自信満々のはずだった。ところが蓋を開けてみれば、大量のハブクラゲが気ままに押し寄せて、毎年刺される人が後を絶たない。今では安全ネットを張って、水遊びのように海水浴を楽しむのは、すこし情けないくらいだ。また海水浴場の指定を受けただけあって、リゾート化したビーチを代表するリゾートホテルがどっかと立っている。しかしホテルを除けば景観は美しい。このビーチは非常な遠浅の砂浜であり、サンゴ礁もあまりないうえ、干潮時には海が退いて泳ぐどころではないらしいが、水平線を眺めてぼんやりするだけでも来る価値は十二分(じゅうにぶん)にある。

 それにしても米原でリゾートホテルが建設されたら、あんな風に虚しくホテルがにょきり立つのだろうか。しかし、私たちの泊まっているホテルだって、丘の上に無頓着に突っ立っているのだから、建設当時は反対もあったのだろう。でもあそこは周囲に家々も建ち始め、宅地への道は避けられないようだ。私はしばらくのあいだ、ホテルの外装を変えれば自然に溶け込むか、高層にした時点で景観の崩壊は避けられないのかと考えていた。樹木から顔を出さなければ景観が損なわれないなら、風景を守りたい場所では、赤屋根の伝統を踏まえた建築による、平屋か二階建てに留めた方が良いのかも知れない。とにかくビルディングやマンションのような棒立ちの安っぽい建築が、一番まずいようだ。米原のリゾート建設も五階建ての修正案があるようだが、どっちにしろ樹木の上に醜い顔を晒すなら、同じ事のように思われた。ハワイの高層ホテルは、あれはあんまり非道いじゃないか。感性が鈍すぎるんじゃないか。いくらオプティミストのハンバーガー気取りとはいえ、ものには限度があるんじゃないか。などと考えて、私はこちらに来てから、かえって居酒屋の彼に似てきたのかも知れない。

 詰まらなくなったので、ホテルを視線から外して、風の来る方を見上げたら、海は何も語らず超越して構えている。頼もしいものだ。人類が亡んでも、緑シャツが我慢できずに化け出て来ても、海はのどかに笑っているだろう。下らないことは忘れて、砂を踏んで歩き出すと、相変わらずじゃぶじゃぶ小波が寄せる。潮の満ち来る透明な海や、遠く突き出た屋良部半島を眺めながら、奥に広がる林の木陰に腰を下ろし、ひねもす空っぽのままに暮らしてみたい。ここは非常に夕焼けが美しい場所でもあるそうだ。夏目漱石の「草枕」でも持ってきて、読み飽かして顔をあげれば、暮れなずむ夕焼けに心奪われ、本の内容すらおぼろげにして、のんびり家路に向かってみたい。その時は私にも恋人がいて、二人で一緒に家路に向かうのかも知れない。

底地では
  見つめあったり する君の
 染めてみたいな
    こころなのです

 私はまた嬉しくなってきたので、皆の方に走っていって、結局大いにはしゃぎまわって、裸足になって足だけ海に浸して遊んでいたが、しばらくして車に戻ると、今度はもう一つの半島、屋良部(やらぶ)半島の先にある御神崎(うがんざき、おがんざき)の灯台に向かった。

御神崎(うがんざき、おがんざき)

 屋良部(やらぶ)半島の北西先端、切り立った断崖にある御神崎は、真っ白な灯台が際だった景勝地である。私たちが灯台沿いに車を止めると、階段付近に説明書きがしてあった。灯台は正しくは「石垣御神埼(おがんさき)灯台」という名称で、一九八三年に設置された光の強さ三十一万カンデラの灯台であるそうだ。カンデラなんて光度は始めて聞くが、ある方向にどれだけの強さを出しているかの単位らしく、とどく距離は二十一海里(約三十九キロメートル)と説明が加えてある。

「あれ、ここでは『おがんさき』って書いてある」

とベレー帽が不思議がった。実は名所パンフレットには「うがんざき」とあって、ガイドさんは「おがんざき」と発音するし、ここに来てまた違った発音が出てきたので、ちょっと気になったらしい。緑シャツがすかさず、

「元々はおっ母さんと叫ぶ『おかんざき』だったものが、言葉の乱れでそうなったのだ」

と言うものだから、眼鏡は笑い出すは、ベレー帽は困り果てるは、私とガイドさんは聞かなかったことにして灯台に足を踏み出すので、名称の話は有耶無耶になってしまった。

 灯台まではごく狭い階段が一人幅で二十段といったところ。すぐに灯台もとの見晴しに到達した。川平では日ざしも見えた上空は、今ではすっかり雲が覆い、その上すさまじいばかりの強風だ。ほんにころころ変わる天候である。しかし快晴で風も穏やかな夕暮れならば、真っ赤に照り返す灯台はさぞ見事に違いない。ガイドさんの説明によると、御神崎や石垣島北端にある平久保崎(ひらくぼさき)の灯台のように、海に突き出た島の端では、強風が吹いていることがはなはだ多いし、夕暮れが快晴で穏やかなのはむしろ希だそうだ。

 それでも強風に打たれながら西に向かって眺望すると、灯台の先にも歩道が続いて、その奥に記念碑のようなものが立っている。

「あれは昭和二〇年に起きた、八重山丸遭難事故の悲しい慰霊碑なのであります」

ガイドさんの指さす石碑の辺りには、数人の人影があり、更(さら)に奥の突き出た岩で陸は尽き、先には壮大な海が広がっている。あれは東シナ海だ。しばらく果てしない海洋を眺めていたが、

「雲の合間が広がってきた」

とベレー帽が遠い空を指さした。

「本当、雲の上から光が射してきた」

と眼鏡が手すりに近づくと、

「海にスポットが当るかも知れない」

とベレー帽が答えるので、眼鏡は後ろにいた緑シャツに

「ちょっとあんた、呪文でも唱えて雲の隙間を広げてみせなさいよ」

と無法な注文をする。もちろんそんなことに怯むシャツじゃない。

「よしきた」

と手すりの前に立ち、何か嘘の呪文でも唱えようとしたのだが、横にいたガイドさんが

「待ちなさい」

と彼を制止した。

「私が代わりに唱えてみましょう」

と胸に手を当てている。私はついに頼みのガイドさんまでシャツの世界に引きずり込まれたのかと心配したが、彼はまるで沖縄の三線弾きのように、すばらしく抑揚を付けて張りのある声で歌い始めたのである。

仲道(なかどぅー)路(みちぃ)から
七(なな)けーら通(かよ)ーんけ
ツィンダサヤー、ツィンダサー
仲筋(なかすぃじ)乙女子(かぬしゃ)どぅ
相談(そーだん)ぬならぬ
マクトゥニ、ツィンダサヤー
ンゾーシヌ、カヌシャマヨー

 私たちは思わず聞き惚れてしまった。伴奏もなく一節(ひとふし)ゆっくり歌われるフレーズは、後半に向かって次第に高められていき、極まったところで、合いの手が入る。本当は別の人が歌う部分らしいが、ガイドさんは合いの手も一人で歌いきった。あまり心に染み込むメロディーだったので、つい言葉を忘れて押し黙っていると、ガイドさんは笑いながら

「せっかくですから紹介がてらに、八重山の有名な民謡であるトゥバラーマをお贈りしました。本当は三線に乗せて歌われるものですが、元々は無伴奏だったそうです」

と照れもせずに説明した。私たちはようやく我に返って拍手をしたが、このトゥバラーマというのはある定型の節を元にして、歌詞も細かいメロディーも変化させながら歌う自由な民謡だ。それでも定着した歌詞を幾つも持ち、今日でも石垣島では大会が開かれるという。緑シャツも感動して、出番を奪われたことに不満はないようだ。

 ガイドさんの歌に誘われたか、雲の裂け目からゆっくりと、光のスポットが海を照らし始めた。光絵具を垂らしたように広がっていく様子を見ていると、ガイドさんは改めてトゥバラーマを三番まで歌い継ぎ、途中の「トゥバラーマヨ」という言葉だけが、今でも私の耳に深く残っている。

 やがて歌い終えたガイドさんが

「光のスポットに船が見えます」

と言ったので、輝くあたりに瞳を凝らせば、大きな貨物船のようなものが、ゆっくりゆっくり、最果ての海のあたりで、スポットの中を潜り抜けていく。風はいよいよ激して、びゅうびゅうびゅうびゅう吹き抜けて、ベレー帽も帽子を外して髪をなびかせたぐらいだが、それを忘れるぐらい黄金に囲まれたシルエットは名画じみていた。そして私はそっと横を振り向く。ベレー帽の横顔が、この名画にはふさわしかった。

 私たちは船が抜けるまでじっと眺めていたが、気の早い緑シャツが、今度はあの慰霊碑の方に行ってみようと階段を降り始める。私は留まって手帳を開くと、そっと小さな落書きを記した。ほんの走り書きだから誰も気づかない代わりに、悲しいくらい即興の書留だ。

傾く陽ざしが雲を割らせた
くすみゆく海原(うなはら)に注ぎ込む
ふるさとの想い歌は遠くはるかで
揺らめく光のじゅうたんのかなたへ
のどかさひとつで貨物船のシルエット
汽笛といっしょに海を越えゆく
やさしい彼女の横顔ばかりを
僕はとなりで眺めていたっけ

フチブイ岩

 灯台の前に伸びる歩道には、まばらにテッポウユリが咲いている。ラッパの先が開いたみたいな、清楚な白い花が三つ四つ、固まって点々としている。灯台の説明には四月から五月にかけて、テッポウユリが咲いて、咲いて咲いて咲き乱れと書いてあったが、とても咲き乱れという形容はできない。ぽつりぽつりと咲いているくらいのものだ。今年は花の開きが悪いのかも知れないが、それよりもテッポウユリの球根が台風で大量に失われてしまったのが原因だとか、バイオ栽培の球根の植え付けが軌道に乗らなかったといわれている。その代わり、なんだかブロッコリーがダイエットに成功してすらりと伸びたような草が、そのまましゃべり出しそうな恰好で風にもめげず揺れていた。ガイドさんは、

「今の風の強さからはピンとこないかも知れませんが、この付近の海は比較的危険が少ないために、ダイビングの重要なポイントとなっていて、初心者でも潜れますとか、お年寄りでも安心ですと、勧誘のようなキャッチコピーが付いているくらいです。そしてご覧なさい。あの遙か彼方には黒潮が流れているのです。八重山地方と台湾を結ぶ海を、フィリピン辺りで大きく梶を切った黒潮が、すさまじい早さで駆け抜けているのであります。」

 黒潮は八重山の、さらには沖縄のサンゴ礁の命の親だ。元々は、風や温度の影響に地球の自転が加わって、太平洋には大きく時計回りの巨大な海の流れが出来る。この流れは、赤道からフィリピンの東を通って台湾と石垣島の間を通過、沖縄本島の西側を通って九州の南から日本列島東部を北上する。そして関東地方の東付近で、寒流の日本海流とぶつかるように日本を離れてアメリカの方に向かっていく。この黒潮は、幅が五十キロメートルから百キロメートル、深さが千メートル以上の厚さで、速度は時速四から七キロメートル、最大では時速十二キロメートルを越えるとてつもない海流で、流れに任せた船の上から覗き込むと、栄養が少なくプランクトンがあまり生息しないので、透明度が高く黒ずんで見え、そのために黒潮という名称が付けられた。青の波長を散乱するものが無いために、青い海にはならず、可視光線の波長がみな深海へと下る時、海は果てなく黒く見えるのだ。

 この栄養の少ない暖流は、日本列島東部を南下する日本海流、つまり親潮の持つ豊富な栄養とは正反対で、親潮が魚たちの豊かな海流、親なる潮と呼ばれるようには生物を育まない。しかし黒潮と親潮のぶつかるところでは、寒流の運ぶ豊富な栄養が暖流の下に潜り込むと同時に、暖流による水温上昇で爆発的にプランクトンが増殖し、恰好の漁場を形成するから、自然の営みというものは不思議なものだ。そしてこれこそが、日本を有数の漁場に仕立て上げる原動力になっているわけだ。

 しかもこの黒潮、プランクトンに侵されない透明度の高さによって、水中に十分な日光を送り届け、高い海水温度によってサンゴ礁の北限を引き上げ、誕生したサンゴ礁地帯では高密度の食物連鎖で、数多くの生命が不条理なまでにひしめき合っているのが、この八重山の海であり、宮古の海であり、沖縄本島の海なのだ。

 さらにサンゴ礁の形成には台風も大きく関わっている、台風は一方ではサンゴ礁を破壊するが、同時に深海中のミネラル分をサンゴ礁のある海へと送り込み、また海水温度が上がりすぎないように調整する役割も果たしているからだ。このような自然の営みの複雑な絡み合いから生まれた、奇跡ともいえる日本のサンゴ礁を守るのは、恐らく住んでいる住人の問題ではなく、国民全体の環境問題ではないだろうか。黒潮の話が出たので、話が大きく梶を切ってしまった。そろそろそぞろ歩く私たちの姿を追い掛けることにしよう。

 慰霊碑の所には観光客が数人おしゃべりをしていたが、私たちは元気印の緑シャツを追って、さらにその先に足を繰り出した。女性にはきつい岩肌の下りが続いているから、ゆっくり付いてくるちゅらさん組は放り出して、私はシャツと先頭を争って踏み降りていった。もっとも眼鏡だけならなんの躊躇もないはずだ。しかし彼女はベレー帽の付き添いを兼ねている。一方ガイドさんは、さすがに慰霊碑で待っているようで、見返ると遠くから手を振った。その向こうには白き灯台が遙かにそびえている。風はいっそう激しくて、細い裸道はすぐに岩肌が海面に落ち、砕け散る波が催促するようにぶち当たっている。気まぐれに風力が増したら、斜(はす)に転げ落ちそうでちょっと恐ろしい。ちゅらさん組はそれでも懸命に追ってくる。眼鏡がベレー帽の手を引いてくる。小さなその手を引いてくる。その手をいつか私も引いてみたい。

 振り向いた私たちは、立ち止まって二人を待つことにした。巨大な岩石がそびえ立つだけで、もう道は無くなっていたのである。ベレー帽は大した距離じゃないのに、もう息切れしているようだ。

 私が「ほら、軍艦岩だ」

と指さすと、灯台の上からも見えた、軍艦が難破して傾いたような岩が、海の中から顔を出している。荒れ狂う波が、軍艦を粉砕しにかかる。

「慰霊碑の代わりにこれを拝んで、拝む崎の目的は達成だ」

と私が手を合わせると、皆も同じように手を合わせて、それから写真を取って引き上げた。この紀行文を読んだ人は、この岩に向かって手を打って祈りを捧げる伝統を、私は意味もなく提唱しておこう。ただし危ないから慰霊碑の所からにしたほうが良い。(後で調べたら、この岩はフチブイ岩といって、ちゃんと伝承が残されているようだ。)

慰霊碑の
   墓前に傾く 軍艦は
 かたくな口を 閉ざしていました

夕焼小焼

 暮れかけの曇り空を眺めながら、石垣島の西側街道を市街地へと戻る。標高三百二十一.六メートルのぶざま岳の近くを過ぎるとき、カーナビを見ていた疲れ知らずの緑シャツが、

「貴様はぶさまな奴よのう」

と得意がったが、突っ込み役の眼鏡は疲れて眠り込んでいた。困った緑シャツが嘆願するように私を見たから、振り返った私は無愛想に、

「ノーコメントだ」

と言っておいた。この辺りには「石垣観光パイン園」などもあり、右手に海を望んでのドライブは心地よい。快晴だったら、どれほどの夕暮れが楽しめることだろう。やがて八重山民族園という看板が出てくる頃、ガイドさんが教えてくれた。

「この右側に広がる海は名蔵湾(なぐらわん)と呼ばれるのであります。初日にエメラルドの展望台から西に広がっていたあの海です。そして今から渡る名蔵大橋の下、名蔵川が海に流れ込む辺りが『名蔵アンパル』と呼ばれ、二〇〇五年、湿地帯を守り抜く『ラムサール条約』に登録されたのであります。ここにもまた沢山のマングローブが茂り、干潟では愉快な生物たちが活躍し、渡り鳥の滞在地にもなっているのです。」

 幸せそうに寝ている眼鏡はそのままにして、ほんの少し車を降りて干潟を眺めた私たちは、再び街道を南下する。途中「ミンサー織り」や「八重山上布」の製造販売で有名な「みね屋」の看板もあったが、ここは機織りの体験販売もやっているから、ちょっと寄ってみたい気もする。少し先には宮良農園や、関東のレストランに置かれるぐらい有名な、「石垣の塩」を製造する工場もあり、ここでは「塩あめ」とか「塩ようかん」なども売っている。さらにこの工場は、高濃度の海水により体が浮き上がるという小さなプールもあって、更衣室もあって頼めば入れてくれるらしい。それにしても、手元のパンフレットも大分見にくくなってきた。雲の合間にぼんやり見える夕日も、すっかり水平線に近づいたようだ。

「ちょっと夕暮れを眺めることにしましょうか」

とガイドさんがハンドルを切ると、海岸沿いに小さな駐車場があり、奥に小さな灯台が建っている。

「ここは観音崎(かんのんざき)であります。あの灯台が観音崎灯台で、その下にある小さな展望台が観音崎展望台でありますから、太陽が水平線に消えるのを見届けるのも悪くありません。」

 ベレー帽が「ほら起きて」と眠そうな眼鏡を揺すり起こし、私たちはちょっと薄ら寒くなった風を浴びながら、少し歩いて屋根とベンチだけの展望台に出向いて腰掛けた。

「この先にはフサキリゾートヴィレッジというホテルがあり、フサキビーチというプライベートビーチを持っていますし、もう少し歩けば唐人墓という名所も見ることが出来ます。残念ながら時間がありませんが、今度来た時にはぜひ観光してみて下さい。ほらあそこに大きく見える島、あれが竹富島ですよ。」

 海が遠景に達するまえに、平たい島がシルエットを黒くして浮かんでいる。雲は御神崎の頃より薄くなったから、濁ったカーテンみたいに輪郭をぼかされた夕日が、屠られし鈍い血を滴らせるようにも見える。じゃぶじゃぶと小波が寄せるだけの海はだだっぴろく、私たちまでオレンジ色した夕陽の道を作っている。しばらくは会話も少なく、腰を下ろしたまま、太陽が消えてゆく姿を眺めていた。しかしやがて、ベレー帽が不意に「夕焼小焼」と囁いて、それから独り言みたいにして詩(うた)を読み始めた。

うたいやめ、ふっとだまった私たち。
誰もかえろとはいわないが。
お家(うち)の灯(あかり)がおもわれる、
おかずの匂いもおもわれる。
「かえろがなくからかえろう。」
たれかひとこと言ったから
みんなばらばらかえるのよ、
けれどももっと大声で、
さわいでみたい気もするし、
草山、小山、日のくれは、
なぜかさみしい風がふく。

 彼女の美しい声が、夕日にこだまして波が揺れる。「金子みすゞ」が好きなのですかと、尋ねる私に頷いて、夕暮れを眺めている頬が赤く染まった。シャツや眼鏡もおのおのが、心に何かを膨らませ、消えきらない光が海に吸い込まれるまで、ただ黙って座っていた。私は金子みすゞの詩を、心の中に唱してみた。彼女くらい女性の率直性が損なわれることなく芸術化した詩はまたとない。率直であればあるほど芸術にはなりにくく、宮沢賢治の詩はちょっと気取ったおしゃれなハイセンスで書かれている。俊太郎にいたっては、着飾った修飾が化粧じみて、モデルみたいにして澄ましている。つまり詩というものは、本人の感情を越えて切磋琢磨した言葉の虚構を多分に含んでいるもので、それは詩の技巧上ちっとも悪いことではないが、金子みすゞの作品はどんなに飾って聞えても、自分の感情を越えた言葉を決して使わない。それが直接的に読者に伝わってくるので、私は密かに好きなのだった。日が暮れればなぜかさみしい風が吹く。日の光を奪われた風は急によそよそしくなって、思い出したように冷たく体に当たる。じゃぶじゃぶと聞える波の音が、味気なく聞えてくる。私たちはようやく腰を上げて、車に戻ることにした。もうすぐ夕食時だ。ガイドさんが、石垣市街地で沖縄料理を食べさせてくれるというので、車に戻った私たちは、さっきまでのセンチメンタリズムも吹き飛んで、沖縄料理に話を膨らませながら暮れなずむ街道を行くのだった。

離島桟橋の夜

 今朝小浜に出発した離島桟橋に私たちは戻ってきた。少し離れの海沿いに、車社会への対応を迫られた石垣の、広大な駐車場が続いている。暮れの余韻を残した空は、町のシルエットをわずかに包み込む。戸惑うようなヘッドライトが揺れて、初夏の大気が風に乗る。夕暮れの駐車場を借りた私たちは、愉快に桟橋へと闊歩(かっぽ)しながら、郷土料理への高まる期待に浮ついた。仲の良いちゅらさん組は、二人揃ってポピュラーソング「花」を歌い始め、調子に乗った緑シャツが「どこどこ行くの」という歌詞の後に、「どっこ、どっこ」という不可思議な合いの手を入れた。真面目なのか、おどけているのか、あまりおかしいので、そのフレーズだけが今でも耳にこびりついている。

 桟橋に到着すると、町灯りに照らされた港にも、昼間の喧噪とてすでになく、通りを行く人影はぶらりと、明るい市街地に消えていく。私は夕暮れのセンチメンタルが残っていて、少しだけ一人きりになりたかったので、

「少し桟橋を眺めているから、お土産でも見て来たら」

と断って一行と別れた。桟橋通りの観光事務所や土産屋から、白い灯火(ともしび)はもれ出して、その前をゆき過ぎる人影は、ふっと光を浴びて、またふっと消えていった。私は少し桟橋から離れ、港岸の小さな鉄の船留(ふなどめ)に腰を下ろした。昼間書いた落書きが、詩になりそうな気がする。ベレー帽が囁いた詩の面影が、暮れゆく港の風情に溶け出して、そんな気持ちになったのかも知れない。私は桟橋のあたりをぼんやり眺めていたが、駐車場を離れるとき、暮れなずみの明星ひとつ、薄い雲の合間にふっと瞬いたのを思い出し、暗闇に消えかかる灰色の手帳にペンを走らせた。

   「吹け、潮風よ」
ほら、日が暮れていくよ 日が暮れるねえ
雲のあい間の一番星に、さあ祈りを捧げよう
やさしく風が吹き抜ける大空が深く染まっては
帰り支度の海鳥たちを追ってか追わずか人の波
船が着くたびあふれ出て町明かりへと消えていく
ほら、色を忘れかけたぶっきらぼうな波止場の向こうに
オレンジ色して輝くような金星が海をゆらしているよ
さあ吹け、潮風よ、この小さな僕の体を抜けて
さあ行け、潮風よ、夕暮れの町並みを駆け抜けろ
町を抜け海を越えて、次の島に夜を告げるのだ
照れくさくては小さな声で、空に向かってつぶやきながら
心楽しく見つめるこの町がぼんやりと暮れていく
ふと思い出す夕食の時間にありきたりの幸せを
知ってか知らずか親子連れが、買い物通りに消えていく

 ここは本当に良いところだ。冷たい海風にも、はや初夏の息吹が感じられ、盆踊りのうちわも風も懐かしい。手帳の文字を読み直して、ああこれで出来たと思って桟橋を見上げると、突然後ろから、

「何しているの」

と小さな声が聞こえた。私が驚いて振り向くと、ベレー帽が一人で立っている。

「あれ、いつからいるの」

と問うと、今来たところと答えるので、

「土産屋から自分で離れるなんて珍しい」

とからかった。彼女は静かに

「いいの。お土産屋さんはまた明日行くから」

と澄まして、遠く桟橋の方を眺めている。

 町灯りを反射するだけの黒ずんだ海に、せり出すように小さな船着き場。船の発着は夕暮れに済んだのだろう、何人かの島人(しまんちゅ)が、縺れあったり笑いあったりしている。三線を持ったオジイもいるが、あそこで演奏でもするつもりだろうか。かりゆしのたなびくシャツも、賑やかさでいっぱいだ。ベレー帽はもう一度、

「何していたの」

と尋ねた。頭が空っぽになっていた私は、素直(すなお)に

「あなたの夕焼け小焼けのおかげで、今朝書き留めた落書きが詩になりました」

と言って手帳を渡した。自分の心を隠しがちな私は、こんな率直(そっちょく)に思ったことを口にしたのは初めてだった。彼女は柔らかな髪をなびかせながら、手に持った帽子を脇に抱え込むようにして、それから手帳に顔を近付けて、懸命に私の落書きを追っている。後ろの町灯りがなければ、文字が読めないくらい、もう暗くなっていた。

 島人(しまんちゅ)の遠くで笑う声がする。三線の風鈴みたいな響きがする。穏やかに、寄せ来る波の音もする。そして彼女が懸命に読んでくれるのが、私には嬉しかった。感想なんて欲しくはなかった。ただこうして一人でいるところを、わざわざ探しに来てくれたようなその態度が嬉しかったのである。それから彼女は、懸命に眺めながら、彼女の優しい声で私の詩を読んでくれた。それが全然恥ずかしくないくらい、彼女はあたりきだった。彼女は最後のところへ差し掛かると、

「ふと思い出す夕食の時間にありきたりの幸せを

知ってか知らずか親子連れが、買い物通りに消えていく」

と読んだ後で、恥ずかしがるみたいにしてそっと、

「二人ばかりの足並みを、かみしめるみたいに消えていく」

と続けた。それが私の詩に対する、彼女の反歌らしかった。それから彼女は少し饒舌(じょうぜつ)になり、自分も詩が好きなことや、いろいろノートに落書きのあることや、人に見せるにはまだ何か足りないなどと話した後で、どうかこの詩を記念に欲しいと言いだした。私はちゃんと清書をしてから渡すと答えて、それから私も日頃なら口に出さないような詩への想いなどを、自らの意見さえも口にして、二人は桟橋を眺めるみたいにして、つかのま時を惜しむみたいにして、互いに少しだけ相手にもたれかかるみたいにして、桟橋の港にたたずんでいたのである。そこへ、後ろの方から、呼ぶ声が聞こえた。

 振り返ると、眼鏡と緑シャツはすっかり意気投合したらしく、二人でおそろいのシーサーの置物を購入して、小さなガイドさんと一緒に私たちを見付けたようだ。

「そこの二人、なにいちゃついとるか」

と緑シャツが手を振った。

「それはこっちの台詞だ」

と立ち上がって全員合流すれば、いよいよ市街地に入って沖縄料理を堪能するのだから、桟橋のセンチメンタルも、すぐに忘れてしまうのだった。

沖縄料理の店

 一人のバスガイドさんが、すっかり夕暮れの空っぽのお腹をすかせて、ぴかぴかする照明をくぐって、世間知らずのような若者を四人連れて、だいぶ石垣の町の灯りのむらがったとこを、こんなことを言いながら、歩いておりました。

「ここです、この店であります。この店が、注文の多い沖縄料理店であります。」

 ガイドさんが戸を開けたので、私たちは誘われるまますり抜ける。オレンジがかった暖色照明が木造りの店を照らしだし、座席はこじんまりと並んで、部分部分が板で仕切られている。三線に乗せた島歌のオンパレードが、備え付けのスピーカーからOkinawanmusicを流している。席に案内され腰を下ろした私たちは、「注文の多い店」と聞いて自分たちが食べられてしまうのか心配したが、そうではない、注文料理の沢山ある店だというのでようやく安心した。

 ガイドさんがメニューを開きながら、食べたいものが有りますかと聞くから、皆が知っている「ゴーヤーチャンプルー」を筆頭に、ちゅらさん組が「中味汁(なかみじる)」だの「足テビチ」だの「チラガー」だの「イカスミ汁」だの、番組で登場した沖縄料理を片っ端から上げだして、ついに収拾が付かなくなってしまった。最後には全員疲れ果て、沖縄博士のガイドさんにお任せして、メニューを決めて貰うことにする。しかし今はとにかく喉が渇いた。まずは全員オリオンビールのジョッキを取り寄せて、今日一日の旅行に祝杯を挙げようじゃないか。ビールを手にして全員で「乾杯!」とジョッキを鳴らせば、気持ちのいい音が響き渡り、喉を抜ける爽快感の、香ばしいこと限りなし。こうなったらもう止められない、完全に居酒屋モードに突入だ。

 ガイドさんがメニューを注文する間にも、通しに出された小皿の一品、まるでスルメの足が瑞々しく生まれ変わったような料理に手を出した緑シャツが、「こりゃなんだろう」と歯ごたえを確かめている。私も箸を出してみたが、コリコリしていて脂肪が固まったゴムのような食感だ。皆で不思議な顔をして口を動かしていたが、なかなか味の表現が難しい。注文を終えたガイドさんの顔を覗き込むと、

「それはミミガーです。ミミガーとは要するに耳の皮であります。豚のミミガーを調理場に持ち込んで、ピーナツバターと砂糖と味噌で和えた、行き着く果ての姿であります」

と教えてくれた。

「耳って、この耳のことか」

と緑シャツが自分の耳を摘み上げる。

「その耳であります。コラーゲン豊富な軟骨の味が楽しめる酒の友であります」

「そんなところまで食うのか」

「沖縄では豚は鳴き声以外すべて調理して、これをもって成仏となすわけです。先ほどお二人が言った『チラガー』も、豚の顔全体の皮を剥いで、ガスバーナーで毛を焼き落とし加工した姿で、市場に並んでいるのであります。一般家庭では、これをそのまま買ってきて、ダシに使ったり調理して食べ尽くすのです」

と説明すれば、

「そうそう、チラガーは公設市場に釣ら下がってたわ」

とベレー帽が番組を思い出し、

「それを見て池端容子(いけはたようこ)がきゃーと叫ぶ」

と眼鏡が怖がって見せたら、緑シャツが

「そしておっ母さんが怖い目をして笑っている」

と騒ぎ出して、

己惚(おのぼ)れちゅらさん観光客の様相を呈してきた。

 にやにやしている私に気づいた眼鏡が

「ちょっとあんたも参加しなさい」

と迫るから、

「いや、仲間に見られるの恥ずかしいし」

と逃げると、

「どこからどう見ても仲間であります」

とガイドさんまで言うので、

やけを起こして

「あきちゃびよー、ほんとねー」

と似てない沖縄言葉で叫んでしまったら、

あまりにも発音が変なので、

近くのお客さんまで笑い出す始末だった。

 これじゃあもう駄目だ。もはやセンチメンタルどころの静けさじゃない。私のリリシズムはすっかり滅茶苦茶になってしまったのである。こうなったらもう、もう飲みまくるしか、道は残されていないではないか。私は勢いよくジョッキを空にすると、さっそくオリオンビールを追加注文した。緑シャツもそうこなくちゃと私に追随する。料理の来る前に二杯目とは気が早い。

 ビールと一緒に島豆腐の冷や奴がやってきた。

ゴーヤサラダと、ゴーヤのおひたしもやってきた。

「あれこの冷や奴って、暖かいよ」

とベレー帽が箸を付けると、ほんわか湯気が上がってくる。

「それは冷や奴ではありません、温奴(ぬくやっこ)であります」

とガイドさんが答えると、ベレー帽は

「そうなの。まるで、ぬく猫みたい」

と訳の分からないことを呟いた。意味が分からないので目をまるくした眼鏡が、

「意味が分からない」

と今だ隠し持っていたパンフレットで彼女の肩を叩いている。彼女は暴力反対を訴えている。仕方がないのでガイドさんが説明を始める。

 それによると、島豆腐はたいへん硬派な豆腐なのだそうだ。すり潰した大豆を、皮やおからと加熱した後に、ろ過した豆乳から作る本土の豆腐に対して、これは豆乳にろ過した後で加熱し、豆腐の凝固剤としてお馴染みの苦汁、海水から塩を作る際に生成するニガリをうって、しっかり固めたものが島豆腐だという。えぐみを取るために水にさらす必要がないので、ずっしりと濃厚な味わいが楽しめ、冷たく冷やすより暖かいうちこそ旨いそうだ。

「沖縄にもいろいろな豆腐料理があります。奴っこのようにいただくものでも、例えば『おぼろ豆腐』のように崩れたままの『ゆし豆腐』や、スクガラスというアイゴの稚魚を島豆腐の上に乗せた、『スクガラス豆腐』という冗談みたいな料理も定番なのであります。これはつぶらな瞳をした小魚の化石標本みたいなもので、味わい以外の愉快がいつもつきまといます。由布島の昼食にあったピーナツから作られる豆腐、『ジーマミー豆腐』もまた、滑らかな食感がたまりません。さらに島豆腐をチーズのように発酵・熟成させた『豆腐よう』という料理もあり、これは好みが分かれますが、沖縄の伝統料理として、泡盛のつまみにも最適であります。そしてつまみといえばこのゴーヤのお浸しが、冷やしたビールによく合います。」

 そう言うので、口の中に放り込んで見ると、初めは苦かったが、箸を二回三回運んだら、鰹節と醤油で味付けされた苦みが非常にさっぱりしていて癖になる感覚だ。ゴーヤーサラダにいたっては、ゴーヤーの苦みがほとんど感じられず、レタスを敷いてもずくを泳がせた薄味のドレッシングにマッチして、大層美味しかった。それにこのドレッシングはシークァーサーを使用しているようだ。これがまたゴーヤーとよく合うこと。タコやマグロまでまぶしてあるから、これは海鮮サラダも兼ねているに違いない。ともかくたいしたサラダである。ただしゴーヤのお浸しの方はちゅらさん組には不評のようで、「苦い苦い」と言いながら、それでも何口か噛みしめていた。

 そのうち刺身がやってきた。一つは普通の刺身の盛り合わせであるが、もう一つは白身魚の和え物のようなものだ。さっそく小皿に醤油を入れていたら、ガイドさんが沖縄流に酢も入れて、さらにわさびではなくコーレーグースをちょっと垂らすと良いと教えてくれた。このコーレーグースは、沖縄を代表する調味料で、要するに島唐辛子という小粒の唐辛子を泡盛で漬けた、タバスコ的な辛さを持つ調味料だが、沖縄の料理屋には必ず置いてある。高麗胡椒(こうらいごしょう)という意味が訛って生まれた名称ともされるが、由来は高麗ではなく、十九世紀終わりから始まるハワイや南米への移民ラッシュの時に、当地のスパイス製法が取り入れられたらしい。そばやラーメンに入れても、炒め物の辛みに使用しても、みそ汁にちょっと垂らしても美味しく、慣れてくるとビールにまで入れたくなる恐ろしい調味料だ。昼間食事をした石垣屋でも何に使うのか、ちゃんと置いてあった。まさか焼き肉のたれにも入れたりするのだろうか。ただし旅行から帰ってから、ざる蕎麦やソーメンのタレに加えてみたら、これだけはちっとも冴えなかった。よき調味料は郷土に根ざしたものらしい。

「刺身の盛り合わせは、マグロと、ミーバイ、それにエビなどが乗ってますから、ご自由に取って下さい。」

 ミーバイと聞いては緑シャツが黙ってはいない。

「何々、アイバイ、マイバイ、ミーバイも刺身になるのか」

と箸を繰り出すから、ガイドさんも

「アイバイ、マイバイは刺身にはなりません」

と言ってエビを酢醤油に付けている。

「俺バイも刺身じゃないわよ」

と眼鏡がパンフレットを付き出している。シャツは下手なシャレを封印されてから大分経つので、部屋に戻ったら私に駄洒落の嵐をお見舞いするかもしれない。恐ろしいことだ。そこへベレー帽が、

「モウマンタイ」

と言って、一人で笑っている。このあいだのレストランで鯛とかハタとか言ったのに掛けているのらしかったが、みんな意味がつかめず思わずキョトンとなってしまった。それからまた箸を繰り出してみる。それにしてもこのコーレーグース入りの酢醤油はなかなか旨い。

 そのうち眼鏡が

「それでこっちの和え物は何なの」

と箸で捕まえると、ガイドさんがメニューの中の写真を見せて、「この魚です」と恐ろしい透明がかった水色の熱帯魚を指さした。「え、熱帯魚なの」と眼鏡は女らしからぬ度胸で、そのまま躊躇(ちゅうちょ)することなく口の中に放り込んでしまった。そんな毒々しい魚を食べて大丈夫かと、ベレー帽が眼鏡の中を覗き込む。

「あら、美味しいじゃない」

と輝く眼鏡がすぐイラブチャーの皿に箸を返して、口の中に放り込んだ。どうやら害はないらしい。

「美味しいでしょう。このイラブチャーは和名でブダイと言いますが、これを酢と白味噌で和え物にしたものがこれです。もちろん普通に刺身にしてもすばらしいのでありますが、本日は私の一存(いちぞん)で、こちらを選択しました」

と彼も箸を繰り出すので、私と緑シャツも慌てて手を伸ばした。なるほどこれはうまい。あっさりさっぱりしてさらに酒が進みそうだ。おまけに刺身の皿に盛られている、ブドウがミニチュア化して小指の半分ぐらいになった緑の海藻。これは、これはまさに海ブドウじゃないか。口の中からプチプチとした食感が心地よいオリオンビールの友、海ブドウもまた、もずく同様沖縄で取れる海藻なのである。

 刺身と海ブドウを堪能しているうちに話も盛り上がってきた。ちゅらさん組の会社のことや、ガイドさんの観光の仕事に話が移り、緑シャツと私がアルバイト組であることが発覚して、

「私たちより駄目駄目じゃん」

と眼鏡にからかわれたので、

「空っぽのスーツ姿よりまだましだ」

と、珍しく二人で意気投合して反論していると、ちゅらさん組は不意に真面目になって、そうかも知れないと頷いた。その後で話はまたしてもテレビ小説「ちゅらさん」に移り、話に合わせて酒も料理も進むので、私と緑シャツは共にオリオンビール三杯目を追加。残りの三人も直ちに二杯目を注文。程なくして全員の酒が、クーブイリチーと共にテーブルに並べられたのである。

「私ったらクーブイリチーなら知ってるしー。」

 眼鏡が変なイントネーションでエリィの物まねをやる。ベレー帽が

「でも食べたことはないしー」

と箸を付ける。イリチーの意味はどこかに「炒め煮」と書いてあったが、要するに昆布と共に豚肉やコンニャクなどを炒めてから煮たものだ。これは結構薄い味付けで美味しく、ご飯のおかずの昆布煮より、それだけでいただくのに適している。昆布の味が素朴に引き立っていて好印象だ。

「不思議なことに沖縄では、地元で取れない昆布の使用量が日本一なのであります」

解説に飢えたガイドさんがさっそく、ワンポイント講義を開始する。

「これは醤油の消費量が少なく、塩ベースの味付けに生き甲斐を見いだす、いわば東南アジア圏の食文化が、カツオや昆布などのダシ消費量を押し上げている側面もありますが、料理としてもそのまま使うので、昆布の名産地である北海道にとっては、大のお得意様であります。」

 説明する間に、さらに「ラフテー」と「テビチ」が盆に乗せられてやってきた。豚の三枚肉に泡盛を加えて煮込むラフテーは、すでに何度か口にしたが、驚いたのはテビチである。皿の中になんだかぷるぷるした謎の塊が、骨を付けたまま震えているではないか。箸でおそるおそる突(つ)いてみると、ぶにぶにとした弾力がある。おのずから生きている気配がある。おまけに名前は「テビチ」である。

「アシテビチだわ」

と、眼鏡がちょっと曇ったレンズをハンカチで拭きながら、

ぶよぶよした固まりを眺めている。

「てびちって、不思議な響きね」と、

ベレー帽が謎モードに突入する。

ついに先発隊の緑シャツが

「オレが行く、見届けてくれ」

と言って箸を伸ばした。お皿に盛られた「テビチ」は寒天の固まりのように、蛸殴りにされて観念したスライムのように、だし汁に半分沈めてぷよぷよと佇んでいる。

「これは何の肉だ」

と緑シャツが持ち上げたから、ガイドさんが

「テビチというから手かと思えばあら不思議、それは豚の足、豚足(とんそく)なのであります。豚足を可哀想にぶっつり断罪した後で、ゆっくり煮込んで柔らかく仕上げたのが、このテビチなのであります」

と答えた。

 皆が見守る中、テビチを持ち上げた緑シャツだったが、口に入れるやいなや、かぶりついて骨以外食べ尽くしてしまった。

「これはうまい」

と言うから、安心した私たちも慌てて箸を伸ばす。ついでだから、ふにふにと突(つつ)いてみる。するとぷにぷにと返ってくる。かぶりついてみると、なるほどこれはまるでコラーゲンのゼリーのようだ。フライドチキンの食感よりは咬むと弾力性があるが、固いという訳ではなく、散々大地を踏みしめた名残が、柔らかさの木陰に昔を思い出すようなものだ。後で調べたらこれは調理時間の問題で、もっと茹でるとふやふやのテビチが出来るらしい。

「それにしても本当にどこでも料理してしまうんですね」

と私が聞くと、ガイドさんは、沖縄では仏教の伝来に由来する肉食忌避がなかったので、四百年以上前から庶民も豚を食べ続けていたが、贅沢な食べ物には違いなかったので、あらゆるところを料理する伝統が生まれたと説明してくれた。ちゅらさん組の顔もアルコールで赤らんで、私たちの飲み会も、次第に佳境に入ってきたようだ。

 ガイドさんが沖縄について語り始めた。語り始めたら誰も止められない。ノンストップガイドさんである。沖縄は出生率が高く長寿の県であり、一家族あたりの子供の数も全国平均よりずっと多いのに、最近では肥満など長寿を脅かすデーターが急増していることや、結婚式はニービチといって、親類が親類を呼んで想像を絶する人数が集まり、皆さん日頃鍛えた芸能などを上演し、本土では見られない盛り上がりを見せるのにも関わらず、なぜか離婚率がずば抜けて高いことなどを説明していたが、話しているうちについツアー観光の口調になってしまった。

「どうも職業病でいけません。」

 彼は照れたように酒を飲んだ。後から出生数を調べてみたら、二〇〇五年の統計では、全国平均の人口千人に対する出生数が八.四人で、死亡数が八.六人に対して、沖縄では出生数が十一.八人で死亡数は六.六人だそうである。

 それから話は何故か沖縄の方言に移って、母音が三つしかなく、「aiueo」の「e」と「o」が「i」と「u」に置き換えられてしまうので、「夜」が「ゆる」と発音され、「心」が「くくる」になると教えてくれた。緑シャツは非常に感心して、

「なるほど、そうすると、格好(かこ)いいが、カクイイとか発音されるわけだ」

「ちょっと待ちなさいよ。かこいいなんて、そんな日本語誰が使うのよ」

「ええ、皆使ってるじゃん。なあ、明智君」

と私の方を振り向いたので、私は慌てて首を横に振った。何が明智君だ、うっかり頷いて同類扱いされたのではたまらない。シャツは気にせず、

「かこいい!」

と叫んで、自らの腕の筋肉を引き締めている。しかし眼鏡に

「かこわる!」

と言われて、つかの間しょげている。それを見てみんなで吹きだした。酒は大分進む。

 食べ物も腹に収まってゆとりが出てきたので、改めて店内を見渡すと、厨房前には六人座りの黒ずんだカウンターがある。テーブルの座席は四人掛けが七、八席、ほかに大人数用も二つあり、レジの近くには熱帯魚の泳ぐ水槽が置かれ、周囲の棚には沢山の泡盛が並んでいる。内装は、黒墨(くろずみ)の雨に晒した後で水洗いしたような、焦げ茶色の木を使用して、煤(すす)けたように照明を落ち着かせている。奥の壁際には三線が数本置いてあるから、ちょっと借りて弾いてみたい気がした。お客さんは大分入って来たが、まだ席に空きがある。私たちの隣も運良くまだ空いているし、反対側はちょうど壁なので、すこしぐらい騒いでも大丈夫だ。料理を運んでくるのは比較的若い娘だが、おおかた大学生ぐらいのアルバイトである。奥では板前姿の似合うおじさんと若い男が、忙しなく調理をしている。その四十代頃のズングリした店長が「はいよ」と手渡した皿が、そのまま私たちの席まで運ばれてきた。天ぷらだ。

「盛り合わせで、ゴーヤ、モズク、アーサー、グルクンの天ぷらです。」

 店員は空いた皿と交換して天ぷらをテーブルに置いた。なんだか大変重厚な様子で、ころもの太った奴が沢山乗せられている。しかもタレがない。タレなしで天ぷらが食えるものかと見ていると、ガイドさんが待ってましたと口に放り込んでしまった。

「味が付いているのですか」

「沖縄の天ぷらはタレは使いません。塩味が含まれていて、おまけにコロモでたっぷり太らせてあるからです。ただしスタンダードといえば、良くソースをかける人があります。」

 ガイドさんは隅にあったソースを真ん中にどんと置いた。天ぷらに箸を伸ばすと、なるほどこれはソースなど必要ない。絶妙な塩加減で味が締まっている。まずはグルクン、またの名を「夕紅魚」は、前にも食べたことがあるが、新鮮な白身魚を揚げたてで頬張るのは、淡泊な味がまるでフライドポテトの感覚で、ファーストフード店のメニューになりそうなくらいだ。他の天ぷらも悪くない。ガイドさんは、

「本当は島らっきょうの天ぷらをお勧めしたいのですが、今日は切れているそうです」

と残念がった。自分で欲しかったに違いない。

「島らっきょうの天ぷら」

私も覚えておいて、後の楽しみにしよう。

 おやつのようにぱくぱく頬張っていた緑シャツが、飲み物が欲しいとメニューを開くから、私も三杯目のジョッキを空にして次に備えた。ガイドさんはマイペースで、私たちに付き合う気はまるで無いので、店員を呼んで二人揃ってシークァーサービールというのにチャレンジしてみる。飲んでみるとほんのりシークァーサーじみたビールくらいで、さっぱりしていて悪くない。これを飲みながら天ぷらなどを口にしていると、隣の席に大変な奴らがやってきたので、私は驚いてしまった。

白い家族連れ

 隣りに客が入ったかと振り向く途端に、「やあ奇遇ですね」と声がする。見覚えのあるその顔は、なんたることか、由布島でハイビスカスに埋もれていた中年親父じゃないか。その向かいには白い息子が、座りながら無愛想に顔を軽く下げた。息子の栄養を吸い取った体格の良い妹が「こんばんは」と言って兄の隣りに腰掛け、眼鏡を掛けた母親は立ったままガイドさんに「どうもお世話になりまして」と社交辞令を述べている。ガイドさんも改まって「いいえ」とお辞儀をする。母親はようやく安心して親父の隣りに腰を下ろした。

 この因縁の家族とは、旅行中しばしば顔を合わせたが、ついに接触するとは夢にも思わなかった。私の戦慄など知るよしもない四人は、さっそくオリオンビールを四つ注文して、メニューを開いて料理を選んでいる。盛んにページをめくっているが、沖縄料理はあまり知らないらしい。気の短い中年親父が、このお薦めコースで良いじゃないかと言うと、白い息子がそれじゃあ詰まらない、個別に頼もうじゃないかと反論して、なかなか収拾が付かない。母親がガイドさんに助けを求め、料理について尋ねるのは時間の問題だった。こうして運良くガイドさんの隣りに座った彼らは、私たち同様メニューを決めて貰うことなったのである。

 しかし私たちはすでに食事半ばで、向こうはまだ始めたばかり、ガイドさんは隣のためにクーブイリチーとゴーヤーサラダを頼んでから、両方の席で一緒に箸を付ける主旨で、ゴーヤチャンプルーとパパヤーチャンプルーという、沖縄名物チャンプルー料理を少し遅れて注文した。安心した隣の席では、オリオンビールが到着するやいなや乾杯が始まる。気さくな社交家の緑シャツが、「皆さんはどこに行ってきたんです」と家族に質問し、料理を待つあいだ私たちは、彼らの観光に話を移した。居酒屋での話題がころころ捻転(ねんてん)するのは世の常だ。これを話題捻転と呼ぶに違いない。

 どうやら彼らは午後の観光を、私たちが時間の都合ではぶいた、石垣島最北端を目差すドライブに費やしたらしい。白い息子が不平顔で、

「限られた時間だから、最北端など止めて、米原海岸から川平に回ろうと言ったのに、煙が高く昇るように、ひたすら北を目差すものだから」

とぼやくと、妹が笑いながら

「兄いが一番走り回って、写真取りまくってたくせに」

と切り返す。それにしても危ない。あと少しで、同じルートに出くわすところだった。私は息子の良識的提案を見事に突っぱねた家族に感謝した。あまり偶然が重なると、呪いを掛けられて東京でも鉢合わせないとも限らない。こうして最後に居酒屋で出逢うだけでも、恐ろしい因縁を感じるのだった。

 ガイドさんが細かな経緯(いきさつ)を尋ねると、父親が

「午前中の小浜島では皆さんとご一緒しました」

と、ハイビスカスのくせに丁寧な受け答えをする。彼の話によると一行は、小浜島で「ヤマハリゾートはいむるぶし」まで観光を楽しみ、そこのレストランで昼食を済ませた後は、石垣島に戻るやいなやレンタカーに飛び乗った。さあ出発だ、レンタカーは夢一杯。夕暮れまで観光するぞと気負った所、ハンドルが曲がらない。アクセルが踏み出せない。それは踏み出せないはずだ、誰も行き先を知らないのだ。彼らは観光名所の下調べもせず飛行機に飛び乗って、後先考えなくレンタカーだけ借りてみたのである。

 笑ってはいけない、案外こんな観光客はざらにいるものだ。「無計画の計画」とは下村湖人の使った言葉だったかどうだか、万事無計画では時間の無駄が生じるばかりである。せっかく本土を後にした甲斐がないではないか。多少予備知識を持っていた息子が、パンフレットを見ながら、

「米原海岸から川平湾の方に回って、ぐるりと返ってくるルートなら、石垣島の名所が効率的に回れる」

と提案したところ、それはどうかなと聞いていた他の三人が、パンフレットの北方にニョキン出た半島の、石垣島最北端という一文字に突然意気投合し、平久保半島をドライブして、平久保崎(ひらくぼさき)の灯台に向かおうと決めてしまったそうである。白い息子がジョッキを片手に、

「自分が何か提案すると、必ず別の決定が下されるけど、何なんだいったい」

とオリオンビールをやけ飲みする。

突っ込み役の妹が、

「不幸な星の下に生まれた兄い」

と言って、兄より深くジョッキを進める。

なれなれしい緑シャツが、

「まさか一人だけ血の繋がらない他人ではないか」

と不謹慎なことを言うから、眼鏡が

「静かにしなさい」

と取り分けの長箸を突きつけ、

皆で笑っていると料理がやってきた。

 まずは、隣の席にクーブイリチーとゴーヤーサラダが並んだので、彼らはうまいうまいと箸を付け、クーブイリチーについて尋ねる母親に、ガイドさんは先ほどの説明を丁寧に繰り返した。それで話が折られている間に、やがてゴーヤーチャンプルーと、パパヤーチャンプルーが両方の席にそれぞれ届けられ、私たちもさっそく箸を付けたので、当然話題は料理へと流れ去る。

 ゴーヤーチャンプルー。ゴーヤーと島豆腐と、ポークと玉子の憎い奴。最近では「チャンプルーの元」が加工食品となって並び、ゴーヤーも年中関東のスーパーにも並んでいる。スーパーお薦めのメニューを見ながら、自宅で調理してみたり、総菜を試しに購入したり、外食で季節メニューのゴーヤーチャンプルーを注文した人もいて、誰もが味だけは知っているつもりだった。しかしそれは真のゴーヤーチャンではなかったのである。

 まずは家族連れの母親が

「あら、家で作るのとは全然違う」

と感心する。眼鏡が

「固い島豆腐が水気を出さないせいかな」

と箸を伸ばす。

「島豆腐ですか」

と息子が尋ねると、緑シャツは

「水分の少ない手ごわい豆腐だ」

と言って済ませしまった。なるほどゴーヤーと島豆腐の素材を生かしたこのチャンプルーは、玉子も程よく水気が飛んで、食感があってわずかな苦みが心地よい。さらに加工肉のポークランチョンミートを使用して、肉にも歯ごたえの統一が図られている。したがって今の形のゴーヤーチャンプルーは、アメリカ統治時代に完成したと言えるかもしれない。

 しかしベレー帽が

「あら、これが本当にパパイアなの」

と、好奇心に任せてパパヤーチャンプルーに移ってしまったので、皆も慌てて次の料理を皿によそる。緑シャツが

「パパイアを炒めるとは何事か」

と冗談で憤慨すると、ガイドさんが箸を下ろして説明を始めた。

「沖縄ではパパイアは蒼いうちにもぎ取って、野菜として調理するのであります。あなた方も朝食にパパイアの漬け物を見たでしょう。また別の方は、パパイアが炒め物にされた皿から、料理をよそったかも知れません。その方はつまりパパイアチャンプルーをいただいた訳でありまして、パパイアと肉や野菜をヘルシーに炒め物にした、ごらんの通りの料理であります。ワンポイント加えておきますと、健康ブームで取りざたされる酵素パパインは、成熟した果実にはほとんどありません。沖縄のように青いうちに調理してこそ、パパインを摂取できるのであります。」

 なるほど、パパイアの半透明な細切りは、しっかりした噛みごたえと、滑らかな舌触りと、癖のない薄味が甘みを帯びて、飽きのこない料理に仕上がっている。この味をどう表現したらいいか、ほろ酔い加減に考えていたが、ベレー帽が唐突に、

「イカの刺身の細切りに魔法を掛けて野菜に化かしてしまったような味だわ」

と言いだして、お茶の間の皆さんを煙(けむ)に巻いてしまった。これはアーサー汁の時の私への復讐かも知れなかった。ガイドさんは

「イカの刺身でありますか」

と頸を傾ける。シャツが

「うまけりゃあ、イカでもタコでもまあいいかあ」

と一口頬張る。

「蛸じゃあ駄目だよ」

と白い息子が遠くで笑う。その妹は

「あっ、本当に美味しい」

といって、それからジョッキも手にとって飲み食いする。眼鏡は話が進んでパンフレットでシャツを叩けなくなって残念そうな顔をする。それにしてもゴーヤーもパパイアも、同じチャンプルーじみた炒め物なのに、まるで異なる個性を発揮していて、二つを同時に注文したガイドさんの采配がうかがえる。

 そのうち例の親父が、いきなり立ち上がるとついに酔っぱらって、ガイドさんに向かって、

「おい貴様、しゃべってばかりいないで、俺のために酒を選べ、このやろう」と、ガイドさんの胸ぐらを掴んで暴れだし暴れだし…………あう、そんなことは致しませんでした。いかん、いかん、私も少し酒が回ってきたようだ。そうではなく、この親父が泡盛を飲みたいと提案し、釣られた私たちも泡盛を注文しようということになって、ガイドさんにお薦めの酒を聞いてみたのである。彼は親切にも並んでいる泡盛の瓶まで差して、石垣島で有名な「於茂登(おもと)」でも頼んでみたらどうです、と教えてくれた。結局ガイドさんも含めたこちらの五人と、家族連れの親父が「於茂登」のロックを注文し、隣りの息子と妹はオリオンビールを追加。母親は酒より料理らしく、まだビールが半分ほど残っている。

 酒がやって来れば、ビールを飲んでいるくせに白い息子が、

「泡盛というと、確かタイ米を使用した焼酎ですよね」

とガイドさんに尋ねた。

「そのとおりであります。正しくはインディカ米を使用し、その大部分がタイ米であるという表現が相応しいのですが、これを胞子の黒い黒麹菌(くろこうじきん)で発酵させ、蒸留して純度を高めたものが泡盛であります」

「それにしてもあの壁に並んでいる瓶は全部泡盛でしょう。随分沢山種類が有りますね」

「あのぐらいで感心してはいけません。沖縄県には四十七か所の酒造所があって、他にも協同組合がありまして、銘柄にして五百種類を越える数があり、それらがさらに細かく分類されていて、競い合って地域自慢の泡盛を販売しているのであります」

「そんなに有るんですか」

「沖縄では島の酒ということで、泡盛をシマーと呼ぶほどであります。つまり泡盛が島の魂であるかのごとくに、瓶の隅まで飲み尽くすのがウチナーンチュ、沖縄の皆さんの姿であります。大抵オリオンビールを飲んだ後は、ひたすら泡盛を飲んで盛り上がるのです。ロック、水割り、カクテール、飲みに違いはあるけれど、老若男女すべての県民が、ゆりかごから墓場まで泡盛ひと筋に酔いまくりです。酒の消費量も全国でトップクラスでありますから、日没の遅さもあり東京ならお開きの時間頃になってようやく、酒宴は盛り上がりを見せ始め、零時を過ぎてなお、踊り狂うのが沖縄流であります」

するとちゅらさん組が例の番組を思い出して、

「ちゅらさんに出てくる居酒屋でも、盛り上がってくると皆で三線を掻き鳴らして踊り出すよね」

「そうそう、ゆがふで盛り上がって、お祝いの時も皆で一斉に踊ってしまう。まさか、沖縄ではあれが当たり前なのかしら」

二人はガイドさんの顔を見詰めた。

「沖縄では必然なのであります。沖縄は今だ家族親戚の繋がりが厚く、年中行事のことごとくに沢山の血族が集まり、お祝いの度にグループを組んで歌い踊るほど、一人ひとりが芸能に秀でているのであります。中でも宴会などで手のひらをかざして踊るものは、沖縄本島ではカチャーシと呼ばれますが、お子さまからご老体まで、誰もが蝶のように手をひらつかせ、三線に合わせて踊り狂ってしまうのであります。何も特別の行事だけではありません。沖縄では友人と集まって飲む機会もまた多く、そのような日常の宴会でもまた、泡盛とたそがれては踊り出す毎日であります。あたかも明治維新の矛盾にえいじゃないか運動の沸き起こる、狂瀾怒濤(きょうらんどとう)の乱舞が街角に溢れ出すがごとく、深夜の熱気は夜ごと夜ごとに高まっていくのであります。」

 ガイドさんも少し酒が回ったか、よく分からない落ちを付けたようだ。笑って良いのか、謹聴すべきなのか、私にはさっぱり分からない。みんな真面目な顔で聞き終える中に、隣の親父と白い息子だけがにやにや笑っているのは生意気だ。ただガイドさんの話には、酔っぱらいの誇張があるようにも思われた。

 ところで今気が付いたのだが、こうして全員で酒を呑んで、呑んで呑んで、呑みまくって、私たちはどうやってホテルまで戻るのだろう。ガイドさんはちゃんと落ち度なく考えているのだろうか。まあいいや、こんな時沖縄では「何とかなるさ」の意味で、「なんくるないさー」と叫んでしまうのだそうだ。「なんくるないさー」、いい響きじゃあないか。

 だんだん陽気になってきた私は、味も記述も乱れる時分だが、「於茂登」は料理にマッチしていて、程よい辛みが美味しく感じられた。冷やして遥かに旨し、という言葉が浮かんだが、私は比べられるほどの泡盛を知らないし、第一泡盛はどれも冷やして旨き酒ではないか。これじゃあ意味がないや。もう一度確認しようと思って口に含むと、溶けだした氷と酒の成分が融和して、薄まりながらかえって味が引き立つように感じられ、この泡盛という酒は、どうして氷が入るとこうもすばらしく生き生きとしてくるのだろう。そして私はなぜだか、そこにチョコレートの仄かな気配を感じたのである。

氷滴(ひょうてき)の甘みとかせよ島の酒

 私がグラスをからからと転がしていると、気の早い親父は、さっそく泡盛を飲みきってしまった。ガイドさんが今度はクースはいかがですと、親父のためにクースのグラスを注文する。残念ながら酒の名称は忘れてしまったが、親父は「クース」とは何ですとグラスに口を付けて、「ああ、古酒の事ですね」と了解したようだ。クースは文字通り古酒の沖縄訛りで、泡盛では三年以上寝かせた酒に、古酒の名称が使用出来るという。やがて私たちは、泡盛を飲みながら、チャンプルーに箸を延ばし、思いだしたように家族連れの観光話に帰っていった。

 妹が

「途中で赤い三角屋根のある展望台で休んでいったね」

と回想する。観光馬鹿のガイドさんが、

「そこは玉取崎(たまとりざき)展望台であります。東の太平洋だけでなく、反対側の東シナ海も見られたことでしょう。あの辺りは石垣で一番狭い首の辺りになります」

と答える。母親が思い出したように

「三角形のような山が立ってたのは、そこだったかしら」

とようやくジョッキを空にすると、息子が

「確か何とかマコペーとか書いてあった」

と答える。ガイドさんは黙っている訳にはいかない。

「マコベーではありません。マーペーであります。それは野底岳(のそこだけ)という山で、火山活動の結果あのような形になったのです。マーペーというのは、昔強制移住によって黒島から石垣島に連行された娘さんの名で、黒島に残された恋人のカニムイを慕い、あの山の上なら黒島が見えるだろうと、未開の山を狂乱の呈でかき分けかき分け、登りつめた山の先には、黒島の方角に冷たく立ちはだかる於茂登岳。絶叫の中で髪を振り乱し、地を踏みならし、のたうちまわる彼女の、衣服さえもはだけ、ついに精根尽き果てて地に伏して嘆き、涙は山をつたってふもとに達っするかと思われた頃、彼女はいつしか大きな岩の固まりとなって、そばにはただ彼女の衣服だけが残されておりました。それ以来人々はあの山のことを、ヌスクマーペーと呼ぶようになったというのであります。」

 うーむ。さすがにガイドだけあって、淀みなく話される昔話には、みな酒を忘れて聞き惚れるほどだった。すると緑シャツが首を突っ込んで、

「するとこの於茂登のやろうが、二人の恋を引き裂いたのか。俺が飲み乾してやるから、覚悟しろ」

と言って泡盛をぐっと飲み干した。すると例の親父が、

「それは違う。その話の於茂登というのは役人の命令という絶対服従の社会状況を、人間には逆らえない大自然を表わすことによって、間接強調したものだ。神話や民間伝承では、込められた思いの深さを表わすために、よくそんな遣り方が使われている」

と緑シャツを諭したので、緑シャツは面食らって、空になった於茂登のグラスを見詰めてキョトンとしてしまった。その不意を打たれたようなつぶらな瞳がおかしくて、全員大笑いとなったのだが、やっぱりこの家族は油断がならない。白い息子とこの親父が場違いな議論でも始めたら、あっと言う間に閑古鳥(かんこどり)が鳴き出すに違いない。幸いその話は笑いに途切れて、彼らの観光話に帰って来た。

 野底岳と展望台を後にした家族は、北に向かう途中の伊原間(いばるま)サビジ洞という鍾乳洞を見学し、白い息子が

「鍾乳洞は初日に見たじゃないか」

とぼやくのを無視して、ひたすら暗闇へ足を進め、突き抜けた先に海の広がるユニークな鍾乳洞を楽しんだ。それから美しい海岸線に沿ってドライブし、石垣島北端の平久保崎灯台に辿り着いたのは、ちょうど私たちが御神崎の灯台にいた頃で、同じような白い灯台のある高台には、やはり強風が吹き抜けて大変だったそうだが、雲の晴れ間から光の筋が射したのが印象的だったと妹が締め括った。そのスポットライトは私たちのトゥバラーマの、あの貨物船を照らした光に違いない。

 家族は車に戻ると、灯台から遠くに広がるビーチを目差して、農業道のような狭い道に迷い込み、うっかりレンタカーの底に傷を付けながらも、ついに砂浜まで辿り着いたという。さすがに時季外れの浜辺には、誰にも拾われない貝殻などが幾つも転がり、それを集めて帰って来たのだそうだ。母親は親父が大きな変わった岩だの、まだ湿ったサンゴだの余計なものを拾ってきて、荷物が重くなったと愚痴をこぼしている。不平の息子は

「行って帰ってくるルートは観光時間のロスに繋がるから、よほど時間のある人以外には、最北端はお薦めしない」

と最後まで自説を曲げなかった。妹が笑って

「まだいってるし。一番はしゃいでたくせに」

とジョッキを飲み干すと、二人揃ってオリオンビールの三杯目を注文した。彼らはどこまでもビールで押し通すのかも知れない。

 そこにチャンプルーの皿も空になった頃、いつ注文したのか、次の料理がやってきた。店員が帰る前に、私と緑シャツは頷きあって、さっき選んでおいた泡盛を、

「まさひろ、グラス二つ下さい!」

と二人でハモって注文したら、眼鏡が突然に吹き出して、

「誰なの、まさひろって誰なの」

と一人で壷にはまってしまった。メニューを見せて酒の名前だと説明しても、よほどこたえたのか笑いが止まらなくなってしまい、あまりにも苦しそうに笑っているのが面白くて、仕舞いに全員が笑い出してしまった。周囲のお客さんには全く申し訳ないほどの馬鹿騒ぎである。それにしても気になるのは「まさひろ」で、いったいどんな奴が来るのかしらん。グラスが来るまでに到着した料理をよそってみると、これはどうも味噌ベースの煮物のような感じだ。茄子の代わりに胡瓜の延べ棒を味噌煮にしたような風情でもある。一箸先によそった隣りの家族が、

「美味しい」

「うまい」

「これは一体何ですか」

と感嘆するので、慌てた私たちもさっそくいただいてみると、

「これはうめえ」

とのシャツの叫びに、ベレー帽が

「食文化の構築だわ」

と全然意味の分からない感想を述べ、

私もガイドさんに

「これは何の野菜です」

と勢いよく尋ねてしまうほどだった。

「これはナーベラーンブシーであります。ナーベラーというのはつまりヘチマのことで、その味噌炒め煮物というような意味でナーベラーンブシーと呼ぶのであります」

「ヘチマですか」

「あのあごの長い?」

「ヘチマを食うのか」

「あごの長い?」

「大きなお世話よ!」

「タワシなら使ったことあるが」

「そうであります。ヘチマは実は栄養価も高く、本土でたわしのまま終わってしまうのは、実に迂闊(うかつ)であります。さらに味もこのように、少し野性味がありますが、瑞々しく柔らかい食感で、すこぶる美味であります」

「強いて言うなら、ナスの味噌煮のような感じだけど、その上を行く完成度の高さだ」

と白い息子も感心している。私はさっきの感想を思い出したから、ベレー帽に

「どうです、この味の感想は」

と聞いてみた。皆も彼女の発言を待っているようだ。

彼女は

「そうねえ」

と考えた後で、

「ヘチマがナスの味噌和えに上品に化けて狐の嫁入りを全うしてしまったような味だわ。でもシッポは隠せないといったところ」

と答えた。酔っぱらっているせいか、言葉の意味はよく分からないが、何だかすばらしい感想のように思われ、皆さん感心して思わず拍手などしたら、偶然聞いた周囲の呑み客までも、

「それは言い得て妙」

「うまいさー」

などと拍手を下さって、またしても我々は市井の皆さんを巻き込んでしまったのであった。

 そこに「まさひろ」がやって来る。二つ並んで「まさひろ」がやって来る。店員さん

「はいお待たせ、まさひろです」

と置いた瞬間、せっかく笑い治めた眼鏡がまた吹きだして、腹を抱えて収拾が付かなくなってしまった。これはまったくもって笑い上戸だ。シャツが調子に乗って、

「まさひろ、まさひろったらあ」

と繰り返す。眼鏡はますます腹を抱える。この二人煩(ふたりうるさ)は、しばらく放っておくことにしよう。

 口を付けてみると、まさひろの味は、すこぶる中性的でバランスよく、味のアクセントも先ほどより軽く、さらさらとして飲みやすい。

「これは女性にこそおすすめの泡盛だ」

と言うと、気になって仕方がなかった「まさひろ」の事だから、結局ちゅらさん組も「まさひろ」を注文してしまった。注文しながらまた腹を抱えて、店員を呆れさせたのは言うまでもないが、その「まさひろ」と一緒に次の料理が運ばれてきた。もちろんちゅらさん組は、料理よりも気になる泡盛に手を伸ばしたが、一口飲んだベレー帽が

「ほんと飲みやすい」

と感心すれば、眼鏡の方は

「やだ、まさひろ飲んじゃった。何か大胆」

と顔を赤らめて、ベレー帽から

「ちょっとあなた、静かにしなさい」

とメニューで引っぱたかれている。本当に馬鹿だ。

 やがて感心は皿に盛られた料理に向けられる。しかし「まさひろ」に気を取られている間に、またしても隣に先を越されてしまった。家族連れが、

「これもうまい」

「これは芋ですね」

「兄い見たいにねちっこい」

「なんだと」

と騒ぎ出すので、私たちも慌てて、ねっとりねちっこそうな、冴えない色した皿に箸を伸ばす。口に含むやいなや、嬉しくなった。ナーベラーンブシーに続いて、これもたいしたヒット料理だ。

「これはドゥルワカシーといって、つまり泥沸かしという意味なのでありますが、沖縄で栽培される水芋(みずいも)、つまり田芋(ターンム)によって生み出された、沖縄版里芋の煮っ転がし、その粘着質タイプであります」

とガイドさんまで変な修飾を加えて教えてくれた。すかさず白い息子が

「粘着質タイプというと、ドイツの医学者エルンスト・クレッチマーが定義した性格分類ですか。でもあれだと……」

と考えていたが、親父が笑いながらよせよせと彼に目配せしたので、彼も笑って話を折ってしまった。二人ともよく自覚しているらしい。

 それにしてもこの料理は美味しい。ひたすらうまいうまいと箸を進めながら、泡盛に口を付けると、何だか酒の味と料理の味が、相互に高めあっているような錯覚にさえ捕らわれた。あまり旨そうに飲んでいるので、ついに家族連れの兄弟も「まさひろ」を頼むと言いだし、空のジョッキが寂しかった母親も、「ちょっと飲んでみようかしら」と参加を希望したので、ついに二つの卓上は「まさひろ」オンパレードになってしまった。ただ親父だけが、クースをもう一度頼んで済ませている。非常にマイペースだ。緑シャツは、

「まさひろ、まさに一堂に会する!」

と訳の分からないことを叫んで、これが乾杯の合図となって、始めて両方の卓全員がグラスをかち合わせたのである。念のために加えておくと、これは飲み会でよくある名前の勝利だ。石垣島に来たのだから、本当は「八重泉(やえせん)」などを薦める方が定石(じょうせき)だろう。

 ガイドさんがメニューを取り出して、どうですまだ頼みますかと聞いてきたが、さすがに食べ放題状態の私たちは、とどめのドゥルワカシーでお腹一杯、もう入らない。酒もいつになく飲んだ気がする。しかし甘いものは別腹というちゅらさん組が、案の定また最後にデザートを頼むと言い出して、結局私たちは五人とも、シークァーサーアイスクリームを注文して、隣りの家族と話しを続けながら、最後には食後のサンピン茶まで頼んで締め括った。隣りの家族連れはまだ食事中なので、私たちは名残惜しく別れを告げて、帰路に着くことにしたのである。ガイドさんは、家族のために残りのメニューを注文しながら、軽く料理の説明を加えると、丁寧過剰な母親が

「本当に何から何までありがとうございます」

とお辞儀をしていた。

 店を出るとき振り向くと、白い息子と偶然に目があったので、私たちは軽く会釈をして、軽い因縁の縁切りの挨拶とした。あちらも同じように思ったのに違いない。こうして私たちは、注文の多い沖縄料理店を後にしたのである。

島歌の
 ひとつ暖簾を くぐるたび
   こころに響こう 出会いと別れよ

花火の夜

 離島桟橋の方に戻りながら、ちゅらさん組が

「そういえば中味汁(なかみじる)を注文し忘れた」

「ショックだわ」

と、まだ料理の話をするので、呆れたガイドさんが

「私としても、ヨモギを使った炊き込みご飯であるフーチバジューシーや、沖縄版お好み焼きのヒラヤーチなども紹介したかったのですが、一度に全部食べてしまったら先の楽しみがなくなるではありませんか」

と二人を窘(たしな)めた。二人は「はーい」といって素直に従う。私はまさか酔っぱらい運転をしないだろうか、ウチナースタイル?がくがくぶるぶると、帰りのことばかり心配していたが、ガイドさんはごく当たり前の選択として、タクシーを拾ってくれたのだった。駐車場に捨てたレンタカーについては、きっとすでに手が打ってあるに違いない。

「明日は再び全員行動に戻って、まず皆さんを石垣島の市街地にある、石垣公設市場にご案内致します。この市場の二階が、石垣名産品が会するトータルなお土産屋さんになっていて、またこの市場のある『あやぱに(綾羽)モール』の商店街では、沢山の土産屋が建ち並び、市場を中心としたお土産タイムを満喫できるでしょう。」

 ガイドさんがとどめを刺すと、お土産の一言に歓喜したちゅらさん組が、ひとしきり喜んだ後に、嬉しくなってポピュラーソング「花」を歌い始め、私までいつになく手拍子など打ち始めるし、緑シャツが「どっこお、どっこお」と不可解な合いの手を入れるは、今にして思えばよくタクシーを蹴り出されなかったものである。それからガイドさんは、

「明日の昼食は、市街地で各自自由にしてありますから、私は皆さんに八重山そばの美味しい店を紹介しましょう。そばと名を打ちながら、そば粉ではなく小麦粉麺を使用し、茹で上がるやいなや油で打って、醤油ではなくカツオと豚のダシ汁を使用した『沖縄そば』。そんな中にあっても、丸い麺で独自の主張を行なう『八重山そば』の味を、ぜひ堪能していただきたいのであります。ただし念のために教えておきますと、調味料として卓上に並べられた『ピパーチ』と『コーレーグース』。この二つを動員して味を整えなければ、完成された八重山そばとはいわれません。ピパーチは八重山地方だけで使用される、独特のスパイスなので、ぜひお土産コーナーで一つ買っておくことをお薦めします」

と提案してくれた。

「よっし、明日はラーメンそばを食うぞ!」

と緑シャツが盛り上がって、

「八重山そばでしょ」

と眼鏡が突っ込みを入れる。

そこへベレー帽がまたしても、

「そばも流れてどこどこいくの」

と歌い出し、

私も手拍子を打ち始めるし、

シャツは「どっこおどっこお」

を再開するし、ガイドさんは見ないふりを決め込むし、「こんなお客さん怖いさー」と震えおののく運転手をよそに、はしゃいだまんまでホテルまで辿り着いたのであった。

 その夜私たちは、まだ眠りに就かなかった。買ってきた花火を持ち出してホテルを出ると、安全な広がりで小さな花火大会を催し、火の粉が舞う枝を持っては振り回したり、火花が吹き上がるのを眺めたりしながら、今日一日のエピローグを心に焼き付けた。昇る煙のかなたを見上げれば、澄んだ大気は夜空へと深まって、宵の雲はすっかり払われ、深き御空を見守るみたいにして、夏の星座が輝いている。大きな夏の三角形が、三つの明るい星によって描かれて、天上には花火の瞬きよりずっと静かな、ずっと雄大な煌めきが、穏やかにこの世界を包み込んでいるのだった。

 今日は楽しかった。こんな愉快に過ごせた日を、私はずっと失っていた気がする。再び天を仰ぎ見れば、ちょうど白鳥座の十字架の辺りを、ひときわ明るく、ひときわ長く、すっと流れ星が音もなくきらめいた。楽しい私たちの騒ぎ声だけが、静まり返った夜の大気にこだまして、星明かりと花火に守られて、キラキラキラキラとまたたいた。

 演出家のガイドさんが、線香花火を不思議に二つ結んで、

「アベック花火です」

といって私たちに差し出す。酔っぱらいの四人は、緑シャツと眼鏡さんが、そしてベレー帽と私が線香花火を二人の指で支え、ガイドさんがそれにマッチを近づければ、燃える小さな玉が線香の先に生まれ、小さな花が刹那に開いては、散りゆく連鎖みたいにして、いのちとは線香花火の見る夢か、恋する僕らの夢なのか、しばらく続いた線香花火は、真っ赤な玉の色がくすんで、どちらの玉も下には落ちないで、留(とど)まったまま燃え尽きたのである。そのとき私は、酒だけでなく大気に酔っていたのかもしれない。旅の最後に生まれた詩は、恥ずかしいくらいに甘ったるくて、一筆書きのように生まれたその言葉を、私は心の中に書き留めて、寝る前に手帳に書き込んだ。

   「北十字」
白鳥のいのりは空へと舞い上がり
  おのがたましいを空へと帰すとき
    燃え盛るひと筋の十字架となって
  敬虔な誓いを奏でるだろう

十字を支えるくちばしには
  色違(いろたが)いの炎が寄り添って
    線香花火の玉が結ぶみたいに
  もつれ合う一つのまたたきとなるだろう

いつしか白鳥は闇を照らす
  幸せの道しるべとなって
    銀河を越える恋人たちの
  地上を駆ける恋人たちの
    守り神として初夏(はつなつ)を告げるだろう

 流れる星に祈りを捧げ
   仰ぎ見すれば天(あま)駆ける姿よ

 こうして長い一日が幕を下ろした。翌日私たちは最後の観光を楽しむと、本土に戻る飛行機に乗りこんだ。機内で私はベレー帽に、桟橋で作った詩を清書して、その後ろに最後の詩をそっと書き加えて、恥ずかしいのでぶっきらぼうに手渡した。飛行機が羽田に近づくと、日を落とした夕暮れの灯火が、次第次第に数を増やし、人工の鳥は静かに静かに滑走路へと降り立った。最後にお世話になったガイドさんにお礼を言ってから、私たちはまた四人で会う約束をして、手を振り合って羽田を後にしたのである。東京はまだ薄寒くって、灰色の雲が低く垂れ、私が旅立つ前と同じように、沢山の人が同じような服を着て、ひどく没個性的に詰まらなそうな顔を、私に投げかけたが、私は平気だった。どんな所にいても、北十字が心の中にあると信じていた。

         (終わり)

2006/9/29「原文」完成
2009/9/5「吹け、潮風よ」へ改訂
2015/10/29 掲載

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