「大地の歌」
大地の歌さえ雲に閉ざされ
声を奪われ凍える季節
草木は照らす光を失って
己の誓いを忘れるだろう
魂(たましい)を支える幹には
蝕(むしば)みの炎が這いだし
深緑さえも焼き払うように
朽ち果て灰を降らせるならば
いつしか大地は実りを忘れ
不幸の呪文となって
実りを育む作物達の
生まれ育つ人間達の
芯を氷らせ雪に埋(うず)める
天に向かって祈りを捧げ
希望の翼で雲を払え
あの頃私は大学を卒業して、しかし企業に正社員として雇用されるのは気が重く、最後まで人生が詰まらなく決まっているようで、思い返せば大学までの道筋が、ひどく安い玩具のレールの上を、何も考えずに転がってきたような気がして、アルバイトをしながら、自分が情熱を傾ける何か、いつか見つかるのではないかと、探し回るように職を変え、職を変えては捜し回り、それでも毎日は怠惰に流れ、世界が空っぽのような気がしてふさぎ込んでいた。
そんな時、私は1人の男と会った。彼は私を居酒屋に誘い、同じ姿で没個性的な表情のスーツ姿の集団を非難した。誰もが利用する乗り物や、誰もが出入りする施設や町中を、広告で埋める下劣の国民を非難した。本来公的役割を多分に持つはずの全国的テレビ番組を、民放と称して人を叩いて喜んだり、事実にデフォルメを加えてまで国政担当者をけなすことに専念し、自らが国民の代弁者だと馬鹿なタレントに叫ばせたりしながら、ひたすら商品の宣伝を垂れ流すことの醜さと、それを何とも思わない視聴者を非難した。驚いた飲み屋の客達が、嫌な顔するのにも気を止めず、彼は日本の首都を、「ゴミ箱の中に埋め込まれた安い素材の秩序のない景観と、コンクリートの電信柱と電線だらけの汚らしい掃きだめ」と叫んで非難した。
本来人々の生きる喜びは、自己の好奇心を満たし、情熱を注ぎうる職を手に持ち、絶えず向上心を持って、仕事に当ることにあるはずだ。そういう人間が多くなれば、その都市は人々の住みやすい、豊かな町になるはずだ。元来巨大企業に所属するようなスーツ型の人間は、自立的な向上心にまで至らなかった生活者達が、賃金のために喜びを投げ打って、その代わりシステム内で一定の歯車を全うすれば、一生を暮らしていけるだけのもので、かつては腰弁(こしべん)と呼ばれていたものだ、と捲(まく)し立てた。私が周りを気にして、話を打ち切りたがっているのを知ると、彼はさらに「全員が同種の思考に傾斜し、異なる意見を聞こうともせず、次から次に蓋をして済ませたとき、その平坦の思想が大衆社会を形成した。今の君もその同類だ」と言い放った。そしてもう私の反論などまるで聞かず、「子供の教育システム自体が、まるで腰弁養成所となって、自ら文化を担わない消費するだけの、テレビを垂れ流したニュースやスポーツや娯楽の表層的な会話しか出来ない、あの電車に乗った腰弁を見て、君は何とも思わないのか」と箸を振り回して私に迫った。
私はその時まるで反論出来なかった。年齢が10歳以上も離れていたし、私自身あまりにもいろいろ悩んでいて、自己意見過剰に初対面で捲し立てるような人間には、それまで一度も逢ったことがなかったのだ。私だってスーツは好きではないし、日本では景観の汚さに対して、あまりに無頓着だとは思っていたが、そこまで自分の国民を非難する彼に、かえって嫌悪感が生まれ、サラリーマンだって人生だといきり立って、何度か言い返してみたが、彼ほど自信を持って議論をぶつける勇気はなく、やがて何も話したくなくなって、嫌な気持ちで酒を飲んでいた。多分彼に対してではなく、自分に対して嫌な気持ちだったのかもしれない。私はその晩非常に悪酔いし、最後は泣き寝入りのように逃げだし、家にたどり着いて浴室で吐いた。
以来彼と会ったことは一度もない。ただ今でも脳裏に浮かぶぐらい、彼の言葉の断片は、強烈に刻み込まれたのだった。私はその後もやはり、日々の気持ちに踏ん切りがつかず、もやもやしながら人混みの中で、怠惰の生活を繰り返していた。町中を歩くたびに、彼の言葉がちらついて、個性のない人混みと安い看板を見るたびに、たまらなく不愉快な気持ちだった。そんなある日のことである、旅行案内人を務める年の離れた知り合いから、私は八重山旅行ツアーに同行しないかと勧められたのだ。もう同じ生活は打ち切りたく、しかし日々流されがちな私も、心機一転を図る決心をし、潔(いさぎよ)く仕事を辞めると、半ばツアー客の1人として、羽田から飛行機に乗り込んだのである。
こうして私の八重山旅行が始まった。飛行機が離陸して、大きな空に向かって本土を離れるにしたがって、何だか気分まで軽くなっていくようで、私は嬉しかった。少なくとも今までの生活よりは、ずっと広い世界が待っているに違いない。私はぼんやり彼のことを思い出しながら、自分はあれほど言われて、黙っているような情けない人間ではないはずだと思い、自分の精神がすっかり参っていたのだと考えた。飛行機が八重山に着く頃には、彼の呪いも消えて無くなるような気がする。私は朝早くてぼんやりしながら、そんなことを考えたり、貰った毛布を掛け直したりして、疲れて何時の間にか眠ってしまった。沖縄に着いて那覇で乗り換えたが、私は次の飛行機でもやはり眠っていた。よほど疲れていたのだろう。ただ乗り継ぎの飛行機が、やけに小さかったことだけを覚えている。
やがて機内放送が到着の近いことを告げ、私が目を覚ますと、窓の横にはもう青い海洋の合間に、幾つかの島影が綺麗に浮かんでいるのだった。八重山諸島だ。気の重くなるような前書きを過ぎて、楽しい紀行文をお贈り出来るはずだ。私の心は急にワクワクし始めた。あまりにも単純な心の変化に驚いて、人はこんなにも感覚で生きているものか、それとも自分が単純でお目出度いのかと、少し苦笑してみたが、暗い前置きに別れを告げ、八重山の思い出を記していこう。デジタルカメラの入った手提げカバンに、私は1つの小さな手帳を偲(しの)ばせた。昔から好奇心に任せて記していた言葉の落書きを、旅行でのスケッチ代わりに残して、1次元媒体のアルバムは出来ないだろうか。もし良い詩が幾つか書けたら、きっと楽しい旅行になるはずだ、そう思ったからだ。私は飛行機の中で、先ほどの詩を1ページ目に記したのだった。
八重山諸島。沖縄本島を南西に下って台湾近くに迫る頃、ようやく姿を見せる日本最南端の人の住む島々。私は手荷物かばんの中から、折られたコピー用紙を取りだして、もう一度読み直した。インターネットを徘徊(はいかい)して見つけた八重山の解説を印刷したものだ。非常に分かりやすい説明なので、ちょっと清文して掲載しよう。制作者が八重山旅行をした時のものだが、私と同じ4月旅行なので非常に役に立つ。もちろん許可は取ってあるから、心配してはいけない。
石垣島の空港には滑走路が1500mしかない。それが羽田空港(東京国際空港)発の飛行機が小型機である理由で、そのため貨物はおろか燃料さえも満載して離着陸が出来ないため、観光客の輸送効率が悪くパイナップルやサトウキビの貨物運搬さえ効率的に行えない。旅客機のソファーに寄り掛かってぐっすり眠っていた私が目覚めると、機内放送が「揺れますのでご注意下さい」と決まった台詞を述べている最中だった。この短い滑走路のために、小型機でさえもぎりぎりの減速を行なわなければ、着陸場所を踏み外してしまう。観光と特産品による経済効果に島の復興を委ねる推進派は、新空港整備の見直しを図る政府を説得してでも、新空港建設のプランを邁進している。彼らは島を豊かにし観光客を呼び込み、島人の生活を潤すために計画を立てているのである。一方、自然の豊かさこそ観光と生活の源だと考える反対派もまた、島を心から愛する島人達に他ならないのだ。よそ者の私はそんな葛藤は知らず、羽田を後に約3時間の旅客機に別れを告げ、まだ見ぬ石垣に期待を膨らませていた。第2次大戦中に日本軍の軍用空港として開始した小さな石垣空港内を抜け、出口に近づくとクーラーの冷却を押しのけて、もわっとした外気が流れ込んでくる。4月半ば、東京はまだ肌寒く、厚い上着を着て羽田に向かったほどだが、熱い外気に誘われて石垣空港を出ると、25度を超える初夏の大気が、17時を過ぎても高く残る太陽に照らされ、湿度の高い湯気が立っているようだった。北緯24度20分に位置する石垣空港は、東京の羽田空港の35度33分と緯度が10度以上開き、そのため亜熱帯性気候に所属し、4月の平均気温を取り上げても、東京が14度に対し石垣島23度、ほとんど10度ぐらい離れている。同じく羽田の経度が東経139度46分に対して、石垣が東経124度11分。15度を超える経度の差は、必然的に太陽の出入り時間の違いとなり、日本標準時間(Japan Standard Time略してJST)を担う兵庫県明石市の135度より東に位置する羽田に対し、石垣島では1時間ぐらい日の出が遅く、同じくらい日の入りも遅い。
年平均気温は24度、冬でも18.3度という温暖な環境は、この八重山が亜熱帯性気候であると同時に、海洋性気候である事による。黒潮の温暖な海水は、冬でも水温を20度以上に保つ事があり、海洋性のため湿度が高く冬はよく雨が降るが、冬期気温が低く下がらず、夏期気温も一定を越えず、気温差が激しくない特徴がある。石垣島では3月に海開きが行なわれるほどだ。その後八重山はゴールデンウィーク直後から梅雨に入り、6月半ばには梅雨明けして長い夏を向かえる。8月には台風が最も多く接近するが、9月に入っても暑さは続き、10月になるとようやく秋の気配。冬はさすがに長袖のシーズンを迎えるが、暖房の使用は限られてくる。
そんな八重山は世界有数のサンゴ礁地帯でもある。黒潮暖流の影響下にある外海は、藻類が育ちにくく、プランクトンも生息せず栄養が乏しい。しかし高い海水温度と透明度による日光の浸透により、島周辺にはサンゴ礁地帯が形成され、サンゴを中心とする高密度な食物連鎖によって生物の楽園が広がっている。この石垣島と西表島に挟まれたサンゴ礁地帯を、石西礁湖(せきせいしょうこ)と呼ぶ。
さて、自分の紀行文なので引用はこのぐらいにしておこう。沖縄県に所属している島々、沖縄本島の先にある宮古(みやこ)列島や八重山(やえやま)列島を合わせて、先島(さきしま)諸島という。この先島に含まれる石垣島は、宮古島を中心とする宮古列島のさらに南西に位置し、石垣島を中心とする島嶼(とうしょ。大小の島々。)をまとめて八重山列島、または八重山諸島という。私は今まさに八重山の人間社会の中心地、市街地の近くの石垣空港に降り立ったのだ。
ところでこの八重山の名前、この地域に大小31もの島々が八重に、つまり幾重にも重なっている様子から生まれたそうだが、大きな島を上げると、石垣島(いしがきじま)・竹富島(たけとみじま)・嘉弥真島(かやまじま)・小浜島(こはまじま)・鳩間島(はとまじま)・黒島(くろしま)・西表島(いりおもてじま)・波照間島(はてるまじま)・与那国島(よなぐにじま)などが点在している。石垣島と他の島々とはフェリーや高速船によって結ばれ、石垣島を中心に人と物が行き交い、最近ではすぐれた観光地域として、それぞれの島へ客を運んでいる。私達もその高速船に乗って、石垣島から他の島に向かう予定だ。
この石垣島は那覇市からの距離が410km以上もあり、この距離はざっと東京と大阪ほどもある。一方で地図を見ると、ほとんど台湾に隣接しているような感じで、距離も台湾までが270km。昔は海人(うみんちゅ)達が、台湾に向けてサバニというカヌー船を繰り出して貿易を行なっていたという。そんな位置関係もあり、明治時代には八重山を中国に引き渡す話もあったが、今日では目出度く沖縄県の所属となって、パスポート無しで観光が楽しめるから幸せだ。八重山のすぐ北方にある尖閣諸島(せんかくしょとう)が、領土問題で中国ともめている事を考えると、外国になった可能性も十分にあるのだろう。この美しい島々が日本語文化圏に留まったことに感謝しつつ、味気ない行政区分について見てみると、石垣島は沖縄県石垣市、与那国島は八重山郡与那国町、ほかの島々は悉(ことごと)くに八重山郡竹富町に所属している。ヤマネコでお馴染みの西表島は、県内では沖縄本島に次ぐ大きさだが、人の住まざる自然界が広がり、少し前まではマラリアに掛かりやすい過酷な環境もあり、圏内3番目の石垣島が八重山諸島の中心となったのだそうだ。
そんな石垣島に私は降り立った。気温は4月半ばだというのに25度を超え、夏のような湿気が私を迎え入れてくれた。タクシーの待合所にはテッポウユリが植えられて、風に吹かれながら清楚(せいそ)に揺れている。初乗り運賃は、僅(わず)か390円だ。ガイドさんはツアー客を引率するが、さすがに手慣れたもので、バスに乗り込んで人数を確認すると、クーラーの効いた車内は涼しいくらい。運転手がアクセルを踏むと、バスは空港を離れて、石垣島を走り出した。
「皆さん本日はこの観光ツアーに参加致しましてまことにありがとうございます。」ガイドさんはさっそく挨拶を始める。私は流れる町並みを眺めながら、結構都会だなと思った。市街地は地方の都市を走るのと同じようなものだ。沖縄は車社会なので、交通量もけっこうある。ただ建物同士がせめぎ合わないので、ゆとりがあるような気がした。ぼんやりしていると、ガイドさんが今日の予定について話し始めたので、私も慌ててスケジュール表を取り出す。
「これからホテルに寄って荷物を預けましたら、さっそく観光の開始であります。八重山の海を期待した皆様には申し訳ありませんが、本日はまったくの山巡りであります。まず市街地の中心から北に10分ほどで到着するバンナ岳と、麓(ふもと)に広がるバンナ公園を散策します。その後でバラビドーの観光農園に向かいます。ここでは南国のフルーツの味を楽しんで頂き、最後に石垣島鍾乳洞を見学して、夕食を済ませてからホテルに帰ります。」
なるほど八重山に来て、亜熱帯の森林と植物園観光を初日に持ってくるのは、通常の行程とは趣向が異なるかもしれない。しかし、このバンナ公園には高台の展望所(てんぼうじょ)があり、まずは島全体を鳥瞰(ちょうかん)しながら、八重山の説明を行おうというのがガイドさんの趣旨らしい。彼が説明を終える頃には、バスはホテルの駐車場に停車した。市街地自体がコンパクトなので、大抵の場所にはすぐ到着する。私達はホテルのフロントに荷物を預け、身軽になって再びバスに乗り込んだ。時間はまだ午後2時を過ぎたばかり、さっそくバンナ公園に出発だ.
観光客達も荷物を置いて、すこし気楽になったようで、バスの中は少し賑やかになった。ガイドさんはバンナ岳について説明をしている真っ最中だ。窓を眺めていると、関東と変わらない市街地は、複車線の通りもあり、自動車も多く、なかなか堂々たる繁華街だが、やがて道路沿いの住宅が薄くなると、すぐに自然の勝った景観が飛び込んできた。バスの観光客は多くが中年夫婦や友人同士など、退職後の旅行を楽しむ世代だが、家族連れも何組かあって、そのうち1組は3人の子供を連れていた。他にも高校生ぐらいの娘と母親の連れや、二十歳(はたち)前後の女性だけの2人組みもあり、さらに私と同じぐらいの青年が1人で参加している。私は別としてツアーは1人参加が出来ないはずだが、彼は平然とバスの席を2人分占領して、旨そうにペットウーロン茶を飲んでいる。グレー調に色彩を整えたグリーン系のシャツを着ているのが目に付いた。バスはほどなく森林公園に到達し、先ほどの住宅街が嘘のように、辺りは深い森林が広がっている。初めの目的地はすぐそこだ。
2006/3/24
改訂と分割2006/8/11
再改訂2006/9/17