八重山の思い出その3

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西表島その1

離島桟橋

 薄いカーテンから日の光が差し込み、目覚めるとホテルのベットに私は寝ていた。寝ぼけながら辺りを見渡していたが、そうか八重山に来たんだと気が付いて、嬉しくなって起き上がると、窓を開いて空気を一杯に吸込んだ。生憎(あいにく)の空模様だが、雲を抜ける光は、南国らしく風景の彩度を高める。鳥の囀(さえず)りが聞えてきたので、私は窓を開け放ち、カップのコーヒーを持ってソファーに腰掛けた。学生時代から夜更かしの身に付いた私は、0時を過ぎてお茶を飲む生活に慣れ、朝は目覚ましが鳴っても起きないのだが、こんな朝早く喫茶タイムをむかえるなんて、ほとんど初めての経験かもしれない。一緒の部屋の予定だったガイドさんは、ホテルが別室を用意してくれたので、くつろいでも気兼ねする必要はない。「これは快適だ」と伸びをした私は、もう一杯コーヒーでも飲んで、いっそ朝風呂にでも入りたい気がしたが、実はそう落ち着いてもいられないのである。さっそく出かける準備を整え、下に降りてバイキング形式の朝食を取ると、早くも出発時間が近づいて来る。今日はトライアスロンが開催され、早朝から主要道路が使えなくなるので、その前に石垣港に行くのだそうだ。
 石垣島名物のトライアスロン、この3つ(トリ)の競技(アスレチック)という意味のスポーツは、20世紀半ばに開始され、水泳と自転車とランニングを大会の定めた距離で駆け抜ける競技で、4月に行なわれる石垣島と宮古島のトライアスロンは、日本の代表的な大会になっている。参加者達がスタートを切る前に、私達はホテルを出発し、ほどなくして海沿いの駐車場に到着した。降りる時に見上げると、相変わらず雲がはびこり、せっかくの西表島(いりおもてじま)での自然観光も、太陽がないと半減するような気がした。
 さて、石垣島飛行場と並ぶ島の拠点である石垣港は、大型フェリーが行き交い、宮古島や沖縄本島、さらには台湾に向けて旅客船や貨物船が発着する、八重山で最も重要な港である。しかし離島に向かう高速船は、石垣港のターミナルは使用しない。そこから徒歩で20分ほど離れた、離島桟橋(りとうさんばし)という高速船乗り場から出発するのである。私達もバスを後にして、石垣港とは反対の方角、ちょうど市街地に戻るように海岸沿いを歩きだした。歩きながら解説するガイドさんは朝から元気だ。
「八重山の島巡りは何かと問われれば、それはもちろん船であります。そして観光客用の定期便といったら、それはもう離島桟橋に他(ほか)なりません。竹富島も、小浜島も、これから向かう西表島も、八重山の島々はことごとく、桟橋と海路で結ばれているのです。いわば桟橋が第2のターミナルとなって、八重山の中心地をサポートしていると云えるかもしれません。例えば石垣以外のある島から別の島に向かう場合も、直通便は無かったり数が少ないため、いったん石垣島に戻ってから、再び桟橋から出発するのです。そんなハブ機能を持った桟橋を降りて市街地に向かえば、すぐ『730(ななさんまる)交差点』から石垣島一番の繁華街が広がり、桟橋と市街地をパッケージにして、いわば市民活動の心臓部を担っているのであります。」
 やがてその離島桟橋が見え始め、沢山の船が発着し賑わう小港は、コンクリートで直角に仕切られた海の一番奥から、一本の長い桟橋が突き出ている。ガイドさんは歩きながら「730交差点」について話し出した。
「あの海を直角に区切った曲がり角をご覧なさい、そこだけ建物がなく奥に抜けているでしょう。あの先が『730交差点』であります。この730は沖縄本土復帰に関連して、アメリカ式の交通ルールから日本式の交通ルールに変更した、1978年7月30日を記念して碑(いしぶみ)が置かれています。それで『ナナサンマル』と呼ぶのですが、この交差点の周囲は石垣島一番の繁華街になっています。」
 その曲がり角に来ると、確かに左手の奥の方に道が抜けて、すぐ先に車道が走っている。しかし私達はそこを右側に折れ、折れればすぐ離島桟橋だ。桟橋付近は急に賑(にぎ)わいが増し、船を待つ人でひしめいている。観光をするには時間が早すぎるのか、観光客より地元の人達が多く、朝の通勤時間のような感じだった。桟橋と交わる道路沿いには横一列に観光センターなどが並んでいる。隅には土産屋もあるようだ。
 桟橋に到着すると、昨日知り合ったシャツの男が話しかけてきた。
「おはよう、よく眠れたか。」
 彼は朝から元気である。
「珍しく早起きして嬉しかったから珈琲を飲んだ」と答えると、
「そうなんだ。俺なんか、慣れない布団だから、金縛りにあって、大変だった。死んだばあちゃんが上に乗っかってるんだから、もうあの世かと思ったよ。」
と泣き顔で訴えるので、思わず笑ってしまった。
 見ると彼は今日も緑のシャツを着ている。後で聞いたらこの男は、衣服のどこかにグリーンの色彩がないと落ち着かないそうだが、妙な病気があったものだ。ただし原色の緑ではなく、今日も褐色と深緑を白絵具で薄めて軽くしたようなシャツを着ている。それはどんな色だと聞かれても困るが、昨日聞いた話によると、彼は知人と2人でツアーに申し込んだが、仲間が風邪をこじらせて来られなくなったのだそうだ。その知人から「せめて写真だけでも見せてくれ」と連絡が入り、一人旅を決意したのだという。
「実は子供の頃、親に連れられて遊びに来たことがあるんだ。だからもう一度来たかった。」
 シャツは初めてではないらしい。
 しばらく2人で話していたが、ふと桟橋から海を覗(のぞ)くと、小魚が水槽のメダカのようにひしめいる。ちょっと驚いたので、緑シャツに「小魚が沢山泳いでいる」と言ったら、「黄色い熱帯魚だ。青いのもいる」と眺めていたが、近くにいたツアー客の若い娘に向かって、「魚が泳いでるぞ」と声を掛けた。背の高い彼女はまだ高校生ぐらいだろう、「なに魚、本当、こんな所にまで」と携帯を前にして、懸命に写真を取り始めた。シャツはもう一声(ひとこえ)話掛けようとしたが、そこに突然娘の母親が割り込んできて、恐ろしい目でずばりと睨(にら)まれたので、慌てて逃げ帰ってくる。あの中年女性は、昨日吊り橋を渡れなかった聖紫花の人だ。
 時間になったので高速船に乗り込むと、室内は椅子で敷き詰められ、窓は開放出来ないようになっている。しかし、船尾の甲板には屋根を付けただけの、モーター音が直接響くテラスがあって、騒がしくても景観が見渡せるようだ。私は「ちょっと騒がしい方に行ってくる」と緑シャツから別れて、1人で後部テラスに腰掛けることにした。見るからに島人(しまんちゅ)達が何人か腰を下ろしている。最後列には顔に独特の丸みのある20代頃の女性が座っているが、どこかのスポーツ選手か歌手で見たような輪郭をしていた。
 やがてモーターが唸(うな)りを上げ、武者震(むしゃぶる)いして立ち上がるように船が動き出す。桟橋の下に泳いでいた魚は大丈夫だろうか。恐ろしい鉄の咆哮(ほうこう)を上げる怪物に、飲み込まれたりはしないのだろうか。空は相変わらずの曇天、後部座席も少し薄暗い感じで、待っている時は蒸し暑かったが、走り出すと強風が体を冷やした。黒い雲と、白い雲が不思議に絡み合い、時々薄い裂け目を作りながら、急激に移り変わる。不意に日が射して、驚いて振り向いたら、速力を増す船尾から跳ね返る水しぶきが一斉に照り輝き、さっと色を回復した海の向こうに、離島桟橋と石垣の町並みが広がっていた。
 またすぐ雲に閉ざされ、石垣港の防波堤を抜ける頃、船は波に乗って揺れ始める。しかし大きな荒波はない。小学校の頃、千葉県から海釣りに出た時は、船先(ふなさき)で落とした「お握り」が船尾まで転がって、再び先頭に戻ってくるほど船が揺れるので、私は酔って倒れ込んでしまった。しかしこのぐらいの揺れなら、まったく問題はない。サンゴの広がる浅海では、波は弱められるし、天然防波堤たるリーフの中に入ってしまえば、ほとんど波は無くなってしまう。石垣島とこれから向かう西表島の間にも、石西礁湖(せきせいしょうこ)と呼ばれるサンゴ礁群が広がっていて、比較的穏やかな海が続く。サンゴ礁と島々の作る防波堤のおかげで、激しい荒波は打ち消されてしまうのだそうだ。しかし少し外海に出ると、すぐ高波が寄せてくるから油断は出来ない。
 それでもなかなかに揺られながら、高速船はスピードを高めつつ、高めつつ、群青(ぐんじょう)の海を渡っていく。やがて左手前方に、平たい島が現われた。岸の近くは海が水色に変化し、サンゴ礁に囲まれた島全体が、海に浮かんでいるようにも見える。桟橋で貰ったルート地図を見ると、どうもあれは黒島らしい。ハート型をしていることから、ハートアイランドとも呼ばれるその島は、人間より牛の方が多い島だという。やはり桟橋から高速船で行けるそうだ。
 横を通るとき、雲の合間を抜ける太陽が、不意に黒島を斜めから照らす。たちまち鮮やかな植物の緑と、浅瀬のホワイトブルーが輝き始め、薄暗く沈んだ海に理想郷が浮かび上がったような光景だったが、瞬く間に雲が差し込んで、くすんだ色に消されていった。
 視界を転じれば海は冴えない色で広がっている。不思議な心持ちで黒島を振り返ったり、そろそろ到着時間かと考えて時計を眺めたり、モーターから上がる水しぶきや、船の作る波の余韻を可笑しく思って、風を切って進んでいくと、やがて前方に大きな島が見え始めた。西表島(いりおもてじま)だ。島はどんどん近づいて、ほとんど大陸かと思われる頃、港を示す赤い鳥居のようなものが現われる。私達が西表島の南東側にある大原港に着いたのは、石垣島の桟橋から45分ぐらいたってからのことだった。

大原港

 船を下り、赤い鳥居をくぐり、小さな建物を抜ければ、そこはヤマネコの都、西表島だ。この島は、面積約289平方キロメートルのうち90%が亜熱帯の原生林に覆われている。そして国の特別天然記念物に指定されているイリオモテヤマネコや、カンムリワシを筆頭に、様々な変わりだね動植物の豊庫であり、島半分が西表国立公園に指定されているほどだ。島には比較的周囲にそびえる古見(こみ)岳、テドウ山、御座(ござ)岳という標高400メートル台の山々があり、海水上昇期にも完全水没しなかったことが、独自の生態系を生み出したのだという。しかし人間の居住(きょじゅう)には厳しい。以前はマラリアが蔓延(まんえん)して定住困難だったが、八重山の風土病とまで呼ばれたマラリアは、1962年ようやく全島で撲滅(ぼくめつ)され、人を寄せ付ける島になったという。島の東側半周は道路が整備され、最近では観光客の増加に伴い、観光業を中心に活性化が図られている。
 そんな人々の生活するエリアは、私達が辿り着いた大原港を拠点とする東部地域と、島北側の船浦(ふなうら)港・上原港を拠点とする西部地区に分かれている。二つのエリアは島を半周する道路で結ばれているが、30キロも離れているので、石垣島からはそれぞれの港に高速船が出るのだそうだ。路線バスももちろんあって、大原と白浜の約50キロを1時間30分で結んでいるが、その島を周るルートも残る1/3行程は全く開拓されていないため、一周することは出来ない。
 ついでにもう少し観光パンフレットを片手に紹介を続けると、この島ではカヌー・トレッキング・シュノーケリングなどが楽しめ、見学場所も宿泊施設や土産屋も圧倒的に西部地区に多い。名所としてピナイサーラの滝、星砂の浜などがあり、浦内(うらうち)川を逆上るトレッキングではカンピレーの滝、マリュドゥの滝などが楽しめる。一方私達の訪れた大原拠点の東部地区では、これから向かう仲間川遊覧船観光や、由布島観光が楽しめるので、さっそく出かけることにしよう。

仲間川遊覧ボート

 バスに乗り込んでひと眠りする間もなく、もう小さな船着き場に到着した。目の前には仲間川の河口が広がり、海の方には小さなボートが浮かんでいる。ちょうど川と海の境界線上に位置するのだろう、海の反対側には仲間大橋が、高く車道を通して架けられている。私達も仲間川観光が終わったら、あの橋を越えて由布島(ゆぶじま)に向かうはずだ。
 屋根付きの平たい仲間川遊覧ボートに乗り込むと、船頭は出発時間になってもまだ来ない。ガイドさんが「どうしたのでありましょう」と心配すると、駐車場に滑り込んだ乗用車がバスの隣に横付けして、40歳ぐらいの男が「申し訳ない」と走り込んできた。ガイドさんは皆に向かって話し出す。
「どうか皆さん聞いて下さい、このように沖縄の人々は時間にルーズで、少々の遅れなどものともしないのであります。沖縄県民、すなわちウチナーの時間感覚を表す言葉にウチナータイムというものがありますが、沖縄では何かある度にウチナータイム、ウチナータイムと言って誤魔化して、10分や15分の遅れは勘定に入れないのであります。なぜなら、沖縄にはテーゲー文化という、非常にゆとりを持った伝統が息づき、このテーゲーとはつまり大概とか適当の意味でありますが、なんでもテーゲー、いつでもテーゲー、あなたも私も皆テーゲーと言って済ましてしまうのです。」
と説明し始めたので、船頭は大いに慌てて「馬鹿言っちゃいけないよ。観光業は時間厳守だよ。皆の乗るのが早すぎさあ」と独特のイントネーションで言い訳をしながら運転席に乗り込んだ、ガイドさんはにやにや笑っている。どうやら2人は懇意(こんい)であるらしい。東京では馬鹿みたいに1分1秒を振り分けて、あらゆるスケジュールを秒単位で刻み込む。すこし遅れると野人のようにヤジを飛ばす。人間が密集しすぎると、社会もゆとりを無くして、ひたすらシステム化されて行くのかもしれない。そして自ら進んで組み込まれた人間は、会話で社会を形成することが出来なくなって、ますます獣(けもの)に近づいた。自然から離れれば離れるほど、人口が過密になれば過密になるほど、人間は動物に帰っていくのかも知れない。あの男が居酒屋で話していたことを思い出して、いろいろと考えていると、やがてモーターが唸り船は岸を離れた。ボートは大体30人が乗れるぐらい。運転手が案内役を兼ねて、ポイントごとに船を止め、丁寧な解説をしてくれる。運転手はもう沖縄訛りは見せず、標準語のイントネーションで解説を始めた。彼の説明を元に、後から加えた情報を加味すると、大概(てーげー)次のようになる。

 マングローブ。諸君、マングローブを知っているか。ニューグローブでもグローブ座でもない。仲間川はマングローブの川である。マングローブの川は汽水域(きすいいき)の川である。それじゃあ汽水域とは何さと問われれば、潮が満ちれば海水が逆上り、潮が引けば河口まで淡水が押し寄せる、そんな淡水と海水が葛藤する領域のことを、汽水域というのである。潮が満ちれば、川の水位が上がる、上がれば川岸の低地は水没する。潮が引ければ、水位が下がる、下がれば河口の浅瀬がひょっこり姿を現わす。熱帯・亜熱帯地域では、干潟(ひがた)と水面(みなも)を繰り返し、川の塩分濃度も変化するこの汽水域に、特徴的な木々が茂ることがある。このような木の総称のことをマングローブと呼ぶのである。決してマングローブという名称の木がある訳ではないから、誤解して貰っては困る。
 このマングローブは、塩分に対する耐性を持ち、酸素の少ない泥に根を張って生活するために、呼吸根(こきゅうこん)と呼ばれる地表に現われた根っこを持っている。代表選手の一つにヒルギ科の植物があり、日本ではオヒルギ・メヒルギ・ヤエヤマヒルギの3種類が生息するが、もちろん仲間川ではオヒルギ・メヒルギと共に、ヤエヤマヒルギの姿を見ることが出来るのだ。
 ところでマングローブ入門の木とされるオヒルギは、5月から6月にかけ花を咲かせ、花を覆うガクのところが赤く染まって、まるで赤花のように見えるため、アカバナヒルギと呼ばれることがある。ガクを含めても花は小さいものだから、まるで赤い染みが点々と、深緑にインクを落とすように咲くのだろう。ただし沖縄で普通「アカバナー」と言ったらハイビスカスの事を指すのだから、決してヒルギと答えてはいけない。

 最後に運転手は「このマングローブ、非常に波当たりを嫌い、あまり波にさらされると根が腐ってしまいます。そして仲間川のマングローブもまた、最近の観光ブームでボートの数が増え、我々の出す波によって被害に遭(あ)っています。このように観光と自然保護の両立は難しく、片付かない物語の連続です」と付け加えた。なるほど前方には別の観光ボートが走っているし、もう2度ほど帰りのボートとすれ違った。最近では小さなカヌーで漕ぎ出すツアーも盛んらしく、ところどころにカヌーがぷかぷか浮いている。どうも人間が増えると、観光事業にとっては幸いだが、自然にとっては新しい悩みが加わるだけのようだ。マングローブの話はまだ続く。
「マングローブの子供は、果実が枝に付いているうちに、種から根が生えてきます。そしてある程度成長すると、根っこ付きの新芽だけが果実を離れ、ぽとりと落ちて海流に漂って、いつしか泥に漂着して根を下ろすのです。」
と説明した後で、帯状分布というものについて説明を始めた。何でも一番海に近い辺りに、クマツヅラ科のヒルギダマシなどが植生(しょくせい)し、少し川を登ると、木を支えるために沢山の支柱根(しちゅうこん)を伸ばすヤエヤマヒルギや、6月から7月頃白い花を咲かせるメヒルギが登場する。メヒルギは板のように地上に張り出した根っこ、板根(ばんこん)を持つ特徴があるそうである。続いて分布はオヒルギに変わり、陸の植生に近づく頃、サガリバナ(下がり花)や、サキシマスオウノキが群生しているという。
 サガリバナ科のサガリバナは非常にロマンチックな木だ。またの名を沢藤(さわふじ)と言い、沖縄ではキーフジとも呼ぶらしい。4mから10mにも達する沢藤が花を付けるとき、夏の夕闇に花火のように咲き乱れ、白や薄いピンクの細い筋が束になって、葉の間に美しく垂れ下がる。優しく甘い香りを漂わせ、大気さえも染まるかと思われる頃、花は星明かりの下で、ダンスを踊るのかも知れない。夜通し踊り尽くして、やがて空も白む頃、サガリバナは霊力を失って、頬を伝う涙のように、はらりはらりと地に落ちていく。落ちる先が水面(みなも)なら、どこまでも漂って、沢山の花びらが、儚(はかな)くも揺られながら、流れる先は海に帰って行くのだろう。そんな様子からサガリバナと呼ばれるようになったそうだ。残念ながら今は4月で、太陽は頭の上にある。青々と茂る木を前に説明されても、花の面影は浮かばなかった。

サキシマスオウノキ

 私達のボートはさらに仲間川を登り、サキシマスオウノキが群生している地点で、船着き場に到着した。運転手はボートから降りず、ガイドさんに従って板を敷いた歩道を進むと、鬱蒼(うっそう)と茂る森林の奥に、樹齢400年の巨大サキシマスオウノキが、周囲の木々を圧倒するようにそびえている。高さは18メートルもあるそうだ。このサキシマスオウノキというのは、奄美より南方に自生(じせい)する常緑高木だが、巨大な板根を作る特徴があり、地表に現れた根がエラを張るように広がり、波打つひだを形成する。日本最大とされる太い幹からは、小さな小屋でも建てられそうな板根が張り出していた。ただし非常に波打っているから、いびつな小屋が出来るかもしれない。周辺の植物も見慣れない亜熱帯の植生で、ここが日本かと思われる不思議な光景に、しばらく我を忘れていた。すると緑シャツが寄って来て、「板に触ってみろ」と言う。何だろう。私が板根をぺたぺた叩いていると、側にいたガイドさんが待っていたように、「板根に触ると晩婚になるという言い伝えがあります」と説明した。私はまんまと2人の策略に引っかかってしまったのだ。緑シャツもぺたぺたと触って宣言を下されたそうだが、結婚が遅れたらどうしてくれるんだ。
 ガイドさんの説明によると、この板根はかつて、サバニ(カヌーのような船)の舵や建築に使われたそうで、さらにこの木から取れる紅色の汁は、赤染料で使用するマメ科のスオウ(蘇芳)の変わりになったので、先島のスオウの木という名称が付けられたのだそうだ。私はついでにガイドさんにシャッターを切って貰い、緑シャツと一緒に大木の記念撮影を済ませた。シャツは交互に撮影していた2人組の女性に気付くと、呼ばれもしないのに声を掛け、「2人並んで記念撮影したほうがいい」とシャッターを押してやった。時々目に付く彼女達は、私と同じぐらいの背丈でほっそりした方がベレー帽を被り、少し背は低いがしっかりしてそうな方が眼鏡を掛けている。その向こうでは成人の息子と娘を連れた4人家族が、皆で板根を叩き合っている。あの若い2人も、きっと結婚が遅れるに違いない。5人家族の子供3人組に至っては、板根にしがみついて互いによじ登ろうとして、1人が転げ落ちて泣き出してしまった。まだ若いお父さんは、心配するよりげらげらと笑っている。こうして本来静かなはずの森林は、ひととき非常に賑やかになった。
 ボートに戻る途中地面を見ると、泥が灰色の粘土状になっている。どんな触感だろうと思って地面に手を伸ばすと、突然岩陰から蟹が飛び出したので、私は思わず「あっ」と叫んでしまった。側にいた眼鏡とベレー帽が「もう逃げちゃった」「蟹さん蟹さんどこどこ行くの」と言った後で、突然2人揃って「人も流れてどこどこ行くの」と歌い出して、楽しそうに笑っている。緑シャツは蟹を追い掛けて行ったが、あっという間に蟹は消えてしまった。
 帰りのボートは観光案内も済んだので、マングローブの森を見つめながら、静かに川を下(くだ)る。雲は激しく流れて、時々光が射し込む。亜熱帯地方の空は刻々と変化するらしい。観光ボートとすれ違った時に振り向いたら、こちらのボートの澪とあちらのボートの澪が互いにぶつかって、少し照らした日光が、波の喧嘩をキラキラと際だたせた。波は扇(おうぎ)のように広がって、ゆっくりゆっくりマングローブの林に打ち寄せたり、小さな中州に乗り上げている。この美しい波がマングローブを枯らせようとしているとは、なかなか想像できない。その中州では、手こぎボートから下りた中年夫婦が、私達の方をぼんやり見詰めていた。雄大な自然の中で、すっかり惚けてしまったのだろう。
 ボートの運転手が、あのような河口付近の干潟では、ミナミコメツキガニという1㎝ほどの蟹が群れを作って、人が近づくと慌てふためきながら砂に潜っていく様子が非常に滑稽だと教えてくれた。こうして再び河口の橋をくぐった私達は、運転手がテーゲーに遅刻したボートの発着所に帰って来たのである。時間はまだ午前中だ。

デイゴの花

 バスに乗り込む私達をボートの運転手が見送る。最後に乗るガイドさんと、何か挨拶を交して、走り出す車に手を振ってくれた。さらば運転手、私はテーゲーという言葉を決して忘れないだろう。すこし走ると「もともり工房」という小さなお土産屋さんに立ち寄るそうだ。「15分ほどしましたら、バスにお戻りください。」ガイドさんが言い終わると、さっきの2人娘が真っ先に扉を抜ける。私も店を覗いてみたら、本物のイリオモテヤマネコの石こう手形と、手形キーホルダーというものが500円で売られていた。しかしまだ土産を買う気はないので、私は時間まで周囲を散歩していた。ちょうどこの辺りから南側に大原の居住区が広がっているようだ。騒音のない静かな自然にも、道路の向こうには一軒家が建ち並んでいる。この居住地域もしばらく歩けば、深緑に帰るような小さな集落で、食堂や民宿・宿泊施設が大原港を拠点に形成されているのだろう。ぶらぶら歩いていると高木(こうぼく)が一本、仰ぎ見れば赤い花を幾つも咲かせている。ポピュラーソング「島唄」にも歌われるデイゴ(梯梧)の木だ。有名な歌だから知っている人も多いだろう。
「デイゴの花が咲き、風を呼び嵐が来た、
繰り返す悲しみは、島渡る波のよう」
と歌われるあの木は、沖縄本島を観光して見かけたことがある。英語ではエリスリナと呼び、1700年頃海を渡って沖縄に帰化したらしいこのインド原産の植物は、エンドウやインゲンと同じマメ科に所属する落葉樹で、一つの元(もと)から3枚の葉っぱを付ける味な奴だ。落葉樹とはいってもすべての葉が落ちることはなく、ちょうど今の時期、4月始めから5月にかけて、茂る葉っぱの先に、葉がそのまま赤く変化したような、美しい花が咲き始め、ピーク時にはまさに咲き乱れて、緑の葉の色よりも赤い花で覆われたように、染まったデイゴの木がよく海岸線の街路樹として植えられていて、この美しい花は、沖縄県の県花に指定されている。この木を素材にして琉球漆器が作られ、この花がいつもより咲くと、台風が多く来るという言い伝えがあり、歌われるようにデイゴは嵐を呼ぶ花でもあるようだ。ようやく晴れ間の見える空の下で、真っ赤な花が鮮やかに、鳥達の囀(さえず)りは軽やかに、人けのない集落は長閑に広がっている。私は小声で島唄を口ずさんでみたが、この歌は「ウージの森であなたと出会い」と続き、そういえばウージもまた沖縄を代表するサトウキビの方言であった。そしてサトウキビは成長すると人を遮る茂みとなって、そのウージが風に揺られる様子は、「サトウキビ畑」で歌われるように、「ざわわざわわ」と音を立てるのだろう。だいぶ蒸し暑くなってきた。バスに乗り込むと次の目的地は、由布島(ゆぶじま)である。

2006/03/28
2006/08/18改訂
2006/09/06再改訂

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