ボートから見上げた橋を渡り、仲間川を越えたバスは、閑散とした海沿いを走る。すれ違う車もないが、右手には遠く打ち寄せる波が、左手にはジャングルが広がっている。バスの中ではガイドさんが、イリオモテヤマネコについて説明をしているが、隣りの中年夫婦は聞く耳持たず、幸せそうにぐっすり居眠りしている。彼らの人生はどんなものだったのか、ガイドさんは知るよしもない。
「でありますから、鳩ほどの大きさで、焦げた茶色の体格に目元周りと足を黄色く染めて、白い斑点まで携(たずさ)えた強者カンムリワシが、例え八重山中に100羽に満たないとしても、やはり同じ特別天然記念物に指定されているイリオモテヤマネコこそ、西表島だけのまぼろし動物といえるわけです。昔から『ヤママヤー』、つまり『山の猫』などと呼ばれ知られていたこのヤマネコ。正式に確認されたのは1965年、動物作家の戸川幸夫(とがわゆきお)さんが、骨と毛皮を発見した時だとされ、67年にはついにヤマネコが生け捕りになって、学会は騒然としました。ヤママヤー、ヤママヤー、学者達は立ち上って驚愕したのです。その後の調査で、東南アジアに住んでいるベンガルヤマネコの亜種と考えられ、人間にくだらない野生の猫としては、ツシマヤマネコと並ぶ貴重な存在だということが分かってきました。まあ、美味しそうにふくれた焦げ茶色の猫と思えば、当らずしも遠からず。先の丸まった耳をお持ちになり、キョトンとしたつぶらな瞳の奥に、素っ頓狂な愛くるしさを宿したそのお姿は、西表猫丸君(ぎみ)とでも命名したくなるほどです。残念ながら100匹に満たないとされるこの猫丸君は、整備された車道の影響で時々交通事故に遭い、飛び出してお亡くなったり、病院に担ぎ込まれたりして、その度に地元新聞に大きく報じられるのであります。すなわち今日保護のために、ヤマネコ保護センターが機能しており、研究と保護が島ぐるみ、いや沖縄ぐるみで行なわれていると云えるかもしれません。皆さん、そんなにきょろきょろして、森の方を見回したからといって、滅多にあえるものではありませんから、おみやげの模型や写真、手形キーホルダーでも購入して、こんな奴も居たと思い出してやって下さい。」
後ろの席では例の2人娘が、「猫丸君に逢いたい」「お土産の足跡(あしあと)だけじゃ嫌」と言いだし、前の方で還暦を超えたじいさんが、「わしゃ昔ヤマネコを見たことがある」と勢いづいている。まさかとは思ったが、ヤマネコと聞くと誰もが心躍るらしかった。バスは制限速度で走るが渋滞がないので、時間の経った記憶もなく由布島が近づいてくる。話も自(おの)ずから次の観光に変わって来るはずだ。
「これから参ります由布島は、美原(みはら)という場所で降りまして、まったくの浅瀬を400mほど越えた所にある、ほとんど陸続きに近い離れ島であります。そして仲間川遊覧と並ぶ、大原側の観光名所であります。ここでは観光のため水牛に引かせた車で、人の足よりも遅く海を越えるのであります。この水牛は昭和の初め、台湾の開拓移民と共に八重山にもたらされ、由布島の水牛は皆々大五郎と花子という夫婦の子孫達であり、今日では観光に使用されておりますが、昔の水牛は農耕の必需品として、一家を支える重要な家畜殿(どの)でありました。水牛2頭で家が一軒買えるほどであったのです。それでは間もなく美原に着きますから、各自手荷物に注意して、まず水牛と一緒に記念写真を撮り、それからいよいよ由布島に渡って、昼食を取ることにしましょう。」
言い終わる間もなく、バスは駐車場に横付けし、マングローブの林に逢う。岸を抜けて、行くこと数十歩、中(うち)に雑樹なし。芳草鮮美(ほうそうせんび)落英繽紛(らくえいひんぷん)たり。などと陶淵明の「桃源郷」と戯れてしまったが、これは間違いだった。芳草は確かに鮮やかだが、雑樹はあったし、散った花びらなど影も見あたらない。駐車場の前に樹木が途切れ海に抜けると、砂浜には何頭かの水牛と、彼らの引く水牛車が長閑(のどか)に並んでいた。目的もなく放置されているような様子である。ガイドさんの指示に従って、気合いの入らない水牛と一緒に写真を撮ると、何だかこっちまで眠くなってくるから不思議だ。三人の子供達は水牛に興味を示したが、おっかなくてなかなか近づけない。綱を持ったおじさんが背中をさすって見せたので、ようやく水牛をなでることが出来た。周囲を見渡せば、人けのしない自然の中で、ちいちいと小鳥が囀(さえず)って、サンゴ礁に柔らかくされた波が、湖(みずうみ)ほどの穏やかさで打ち寄せている。雲は大分軽くなり、時々光が大地を照らすと、原色の世界が映し出される。潮風は優しく、こちらに吹き寄せて来る。いずこの世界に紛れ込んだかと不可思議な気持ちで、12,3人ぐらいが乗れる水牛車に乗り込んだ。
やがてのっそり動き出した車が、浅い海の中に入っていく。車輪はぎしりと音を立て、水牛の足音がぴしゃりと鳴る。水牛の足音がぴしゃりと鳴って、車輪がぎしりと音を立てる。ぎしりぴしゃり、ぴしゃりぎしり、言葉に書けばリズムが生まれるが、あまりゆっくりなのでテンポが掴めないほどだった。私は最後列に腰を下ろし、振り返って後続の水牛を見て笑っていた。彼はどんな気合いが入った時でも、きっとぼんやりしている。水牛を操りながら一応ムチを当てるオジィが、地元言葉の混じった説明で由布島について語りだした。オジィにはついに標準語は馴染まなかったらしい。人影のまるでない大自然に、水牛車の中だけ人声が響くのは不思議だ。長い間耳の病を煩(わずら)って、人の声さえ忘れた頃に、不意に包帯を外して生の声を聞いたような、あえてはっとする印象を与えるようだった。
東京では右を見ても左を見ても人の顔が広がっている。声が四方から押し寄せる。私はまた彼の言葉を思い出した。彼は
「他のどんな大都市でもあそこまで人は群がらない。どんな家畜だってあそこまで密集して育てたら、ストレスで死んでしまうはずだ。だから心から楽しそうに闊歩している人がいない。絶えず何かを目指して足を繰り出すから、集団にゆとりがない。小屋の享楽が世界と思えるほどの若者だけが、下品な笑い声を上げている。」
と言って、その下品なげらげら笑いを真似て見せたのだった。彼は何故都会を離れなかったのだろう。どこに行っても同じだから?彼をここに連れてきたら、今度は沖縄の悪口をはき続けるのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。頭を振って転がる車輪を見下ろすと、砂埃(すなぼこり)すら立てずに澄んだ水の中に車輪の後が現われる。ツアー客は2台の水牛車に分乗しているのだが、あちらが動き出したかと思えば、こちらは留まって、こちらが前に進めば、あちらは歩みを止めて、とうとうお互申し合わせたように立ち止まり、なかなか目的地には到着しない。場合によっては、留まるだけでは気が済まず、その場に大きな排泄物を置き土産にして、すっきりして足を出すこともしばしばだ。その置き土産は、自然のプランクトンや小動物が分解して、最後には粉になって海に帰るのだろう。サンゴ礁の海では、人間の排泄物でさえ、海の中ですぐさま食物として解体されるそうである。
不意に自動車の響きが聞えてきた。排泄など下品な事を考えたため、俗界に呼び戻されたかと心配したが、左手に電信柱が由布島まで伸びていて、文明のエネルギーを島に伝える辺りを、トラックが海に浸(つ)かりながら走り抜けていく。ますます不思議なことだ。後ろから水しぶきが跳ね輝いて、水牛を軽く追い越して、もう対岸に到着してしまった。美原との間は満潮時でさえ水深が1mに満たず、普段は足の膝ほどもない浅瀬が、トラックの通過を許しているらしい。笑い声がしたので反対側を向くと、3人ぐらいの若い男達が、半ズボンのまま海の中を歩いて渡っている。後から来た彼らも、やがて水牛を追い越していった。
気が付けば、いつの間にか案内役のオジィが、三線(さんしん)という三味線みたいな楽器を持ち出して、ポロンポロンと弾(はじ)きながら、誰もが知っていそうな沖縄のポピュラーソングを、沖縄方言で歌い始めた。さっきあの2人娘が口ずさんでいた「花」だ。傘に覆われた水牛車の屋根裏には、沢山の沖縄の唄が書かれた張り紙がしてある。オジィの奏でる三線は、中国の三弦(サンシェン)が14世紀頃琉球に渡ったもので、3つの弦を持ち、ニシキヘビの皮を張り、爪(チミ)を指に夾んで演奏する楽器として定着したそうだ。面白いことにこれが16世紀中頃、大阪の境(さかい)に伝わると、ニシキヘビの代わりに猫や犬の皮が張られ、琵琶を弾く時のバチが流用されて、本土の三味線になったのだという。その乾いたような音は、自然の遠い響きに人工的な張りを与え、音楽を一層際だたせる。だんだん、不思議の世界に迷い込むようで、唄が最後まで終わる頃、ようやく水牛は由布島に上陸した。
由布島、それは堆積した砂だけで形成された、海抜1.5m、周囲わずか2.15kmに過ぎない小島である。海抜に合わせて1.5mまでは掘れば真水が、しかしそれ以上は海水が湧き出すそうで、昔居住していた島人達は、美原に渡り水田を耕しては島に帰ってくる生活を続け、家ごとに水牛を持ち、島に学校があるほどの集落だったが、1969年の台風で壊滅状態に陥って、住民の悉(ことごと)くが島を離れてしまった。そんな中で1軒だけ、西表正治(いりおもてせいじ)さんの夫婦が島に留まって、沢山の木や花を植え、ついには亜熱帯植物園の名所となりましたと、ガイドさんが説明してくれた。現在は観光関係者など15人が島で生活しているそうだ。
美原に面する西側にはマングローブが茂り、水牛車乗り場の近くにもマヤプシキの姿を見ることが出来る。このマヤプシキは、自分の回りに筍根(じゅんこん)と呼ばれる沢山の呼吸根を、細い筍(たけのこ)のように従わせるマングローブであり、イチジクのような実を付けその種子が「猫のへそ」のように見えることから、マヤプシキという名称が生まれたとも、いいやそりゃ違うとも云われている。一方島の東側には、砂浜のビーチが広がっていて、すぐ向こうに小浜島が浮かんでいるはずだ。
水牛から降りて島を歩くと、すぐに土産屋と食堂のある施設に到着する。昼食を取るために食堂に入ったが、私達の他に客はなかった。テーブルには人数分の重箱が並んでいるが、お茶は各自入れるように、机の上にポットが置かれている。私はガイドさんと緑シャツと同じ席に着いて、さっそく蓋を開けてみた。こてこての観光ツアーだから、出てくる料理もこてこての観光客メニュー。沖縄料理の定番が並んでいるので、ついでに写真を取っておこう。重箱に入った料理を羅列してみると、古代米である黒紫米(こくしまい)のご飯に、汁物にアーサ汁が付き、おかずには沖縄の県魚になっているグルクン(和名タカサゴ)の唐揚げ、八重山かまぼこ、もずくの天ぷら、ラフテーと呼ばれる豚の三枚肉、ミミガーと呼ばれる豚の耳の皮、さらにダチョウの焼き肉に、ピーナツから作ったジーマミー豆腐までも並べられ、添え物としてパパイヤの漬け物と、これだけでご飯3杯はいけるという油みそ(アンダーミシュ)が付けられていたが、これは要するに沖縄特産の味付け味噌である。他にサラダやフルーツが付いて沖縄を堪能して頂くという重箱は、量もちょうど良くなかなか美味しかった。特にラフテーは、焼いた豚の三枚肉を砂糖、しょうゆ、泡盛で茹でた、沖縄版角煮のようなもので、非常に柔らかく肉の旨みが引き出されている。また県魚のグルクンは淡泊な白身魚に感じられたが、これを唐揚げにして骨までかぶりつくのは、沖縄っ子にはたまらない絶品料理らしく、一方では刺身にしても美味しいそうだ。
隣りにいた緑シャツに「なんでグルクンなんて変わった名前なんだろう」と聞いたら、「それはぐるぐると海の中を周りながら、クーンクーンと犬のように付き従うからだ」と断言されてしまった。こんなことなら聞かなきゃ良かった。しかし前に座ったガイドさんが「これがグルクンの写真です」と言って自分のデジカメを操作して、グルクンをディスプレイしてくれた。カメラを借りると、赤い色した熱帯魚風味の魚が表示されている。「こんな魚なんですか」と驚くと、緑シャツも「慣れないと毒々しいな」とカメラを覗きこんだ。ガイドさんは首を振って、「いいえ毒どころではありません。グルクンは綺麗な魂の持ち主なのです。ある時サンゴ礁に照りつける夕日があまりにも美しいので、彼は恋い焦がれ近づきすぎて、全身に紅色が移ってしまったのであります。一度赤くなったグルクンは、もう二度と海には戻れませんでした。ですからこの魚は、海の中では青く輝き、地上に出ると赤く染まるのであります」と教えてくれた。はたして本当の話だろうか。私はグルクンのために「夕紅魚(ゆうべにうお)」というニックネームと、シューマンのピアノ曲「夕べに」をテーマソングとして捧げよう。デジカメに表示されたグルクンは、構ってくれるなと困った顔をしているようだった。
のんびり食事を楽しんだ後は、1時間ぐらい自由時間があるので、ガイドさんと話をしている緑シャツを置いて、1人で勝手に歩き回ることにした。もっとも島は狭くツアー客しかいないので、しばしば誰かに顔を合わせながら、亜熱帯植物園の中を闊歩(かっぽ)すると、日光の遮られた散策路は少しヒンヤリとして、見慣れぬ植物にはそれぞれプレートが付けられている。しばらくふらついていると、小さな崩れかけの小屋が見えてきた。多くの村民が暮らしていた頃の学校だ。今はもうただの廃墟と化し、島は植物・動物園の様相を呈して、かつて人々が集住した所とは思えない。小さな学校に別れを告げると、樹木の暗がりの裂け目から光が射し、原色際だつ海と砂浜が広がっていた。
渚に近づくと、青く静かな水平線が伸びている。紫外線を浴びせる太陽は雲を突き抜け、反射する波がキラキラと輝く。島渡る風が心地よく、すぐ左手には裾の広い島が横たわる。さっそく近くの岩場に腰を下ろし、パンフレットを覗き込んだが、あれこそ「ちゅらさん」の生まれた小浜島だった。NHK朝の連続テレビ小説の放映はもう随分前のことだが、「ちゅらさん」だけは異例の続編が定期的に放映され続け、その印象はちっとも薄れない。「もう大丈夫心配ない」と、私もテーマソングを口ずさみたいくらいだったが、あいにく砂浜には3,4人同じグループの観光客が、シャッターを切ったり、貝殻を捜したりしている。私はこんな所でも人の目が気になって、たとえ自分の声が聞えなくても、照れくさい真似は出来ないのだった。しかし彼らの話し声も、後ろで鳴く鳥の声も、小さく寄せる波の音さえも、自然の中に吸収されていくようで、かえって全体の静けさが募(つの)る気がしたので、私はさっそく手帳を取り出して、浮かんだ言葉を思い付くまま羅列した。
浜辺に揺れる赤い花
赤い花びらゆらゆら揺れて
風に誘われ小さく踊る
そよぐ樹木がさらさら揺れて
のどかな蟹がてくてく行くよ
サンゴの浜に潮が満ち
空は青くて澄み渡る
遠く聞える三線(さんしん)に
答える声は鳥の歌
こうしてカメラ代わりに感じたことを、記していこうと始めた手帳は、気構えてなかなかページが進まない。これからはポケットにでも入れて、何でも写し取ろうと考えていたが、ふと気が付いて馬鹿馬鹿しくなった。無理に書き留める必要などないのだ。書きたくなったら自然に開くさ。ぼんやり海の方を眺めていると、遠くから「おおい」と声がする。私が砂浜に出たのとは反対側、樹木が密集している辺りから、「何をしてる」と緑シャツが叫んでいた。私も「おおい」と手を振り返したら、彼は小浜島を横にして歩いて来た。時計を見ながら「そろそろ時間だ」と言うから、私も「そろそろ時間だ」とオウム返して、他の観光客達と共に施設に戻ることにしたのである。
別のルートを散策しながら帰路につくと、途中に大きなガジュマルの木があった。周囲の樹木を従えるように太い幹にシワを携(たずさ)えている。ガジュマルというのは、熱帯地方に分布するクワ科の常緑高木である。茎(くき)の部分から、マングローブのように気根を生じる特徴があり、この気根が次第に茎にまとわりつき、複雑に絡み合いながら地表に腰を下ろし、幹全体をシワだらけの仙人に変えて成長していく。この仙人じみた様相から、キジムナーという妖怪妖精が住むとされ、力強い防風林として活躍するこのガジュマルは、沖縄では非常に親しい樹木だ。そんなガジュマルの木、朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」でも重要な役割を果たし、沖縄ブームを巻き起こしたNHKのお陰で、この木を知っている人もいるかも知れない。思えばゴーヤーチャンプルーが紹介され、スーパーにチャンプルーの元やゴーヤーが常に置かれるようになったのは、あの番組の恐るべき功績に違いない。ゴーヤーマンは本土でも通用するニューヒーローとして、観光客のお土産の定番になってしまった。そしてここでもまた、終了したはずの番組の影響力が、ガジュマルの霊感に作用したせいか、見知らぬ人の出会いを、さりげなく演出していたのである。なぜなら私がカメラを取り出し、ガジュマルの構図を決めていると、突然後ろから「キジムナーはどこかしら」という笑い声が響いたからだ。
私が振り向くと、若い女が2人立っている。片方はベレー帽を被って、もう1人は眼鏡を付けている。2人揃って「キジムナーは」と笑っているのは、蟹を見て歌い出した例の2人組だった。お調子者の緑シャツが木の陰(かげ)に回って、「ここじゃ、ここじゃあ」と変な顔を出して叫び声を上げる。2人から「偽物だわ」と言われて、「いいや本物だ。しっぽあるし。」と答えて体を捻ると、何時の間に付けたのか、ズボンの後ろにはツタが結わえてある。彼はツタをシッポに見立てて振り始めたのだった。何という奴だ。こいつは本当の馬鹿一匁(ばかいちもんめ)だ。勝っても負けても嬉しいだけの性格だ。アホなしっぽに不意を打たれた眼鏡が、壺(つぼ)にはまって腹を抱えて笑い出し、それがきっかけで私達は話しをするようになったのだが、思えば私自身が調子の良い彼のペースに引き込まれて、いつの間にか連れのように歩いていたのだった。何でも構えて接する私は、彼のような性格を少し軽蔑(けいべつ)しながらも、同時に羨ましかったりするわけで、この旅行中は少し彼を見習おうと、ガジュマルの木に誓いを立てて、私達はまた歩き出した。
2人娘は20代前半ぐらい、多分大学を卒業したばかりなのだろう、会社休みの友達旅行を思いつき、連続テレビ小説「ちゅらさん」の影響から、八重山観光に決めたのだという。「だから明日は小浜島で、ちゅらさん巡りをするの」と、なかなか気合いが入っている。私達は歩きながら、動物園も兼ねたルートでイノシシやヤギ、池の中で一層寝ぼけた水牛を見て、娘さん2人、はしゃいでいるのは屈託(くったく)がなかった。水牛から離れてしばらく行くと、「があがあ」と鳴き声がしてきた。近寄って見ると柵の中にダチョウが飼育されている。「もしかして、さっきのダチョウの焼き肉は、こいつらの友達かも」と私が覗き込むと、2人から散々に文句を言われてしまった。美味しそうに食べていたくせに。
入り口に戻ると、ツアー客は大分揃っていて、施設にある土産を買いあさっている最中だ。連れの3人もさっそく土産コーナーに消えたので、私は気になるシークァーサージュースを購入して、試しに飲んでみることにした。土産は最終日で十分だろう。シークァーサーは沖縄に原生するミカン科の植物で、特に若く青いうちは酸味が強く、柚の代わりに使用して来たことから、「シークァーサ(酢を与えるもの)」という名称になったという。その小粒の緑実はやがて黄色に変わり、その頃には適度な甘みも加わって、そのままで美味しいフルーツとなり、別名「ひらみレモン」とも呼ばれるのだ。最近では健康ブームに乗り盛んに宣伝されているが、このジュースがまあ何というか、適度な甘さの中に濃厚な酸っぱさを含んでいて非常に美味しいのだ。実は果汁のジュースを飲んだのはこれが初めてだったが、気温が熱くなれば熱くなるほど、不意に飲みたくなるような味がする。実が小さく希少性(きしょうせい)が高いので、100%果汁は瓶で1000円以上もする。しかし普通はこのまま飲むのではなく、10倍ぐらいに薄めて飲み頃になるから、結構な量が楽しめるはずだ。また焼酎、特に泡盛に入れて水割りするのも非常に美味しい。後日談だが、私は旅行から帰ってから、こればかり作っている。
ジュースを飲みながら施設の広場をふらついていると、ハイビスカスの赤い花が咲き誇る一角に、鍾乳洞でマドロスさんをやっていた4人家族がいた。長閑な家族旅行なのだろう、退職直後ぐらいの父親とその妻に、社会人であろう青年と娘が連れだって、互いに交替しながらハイビスカスの前で写真を撮っている。先ほどのキジムナーといい、どうも沖縄に来ると皆さん楽しく開放的になるらしい。家族連れの父親も、今度は私だとハイビスカスの中に潜り込んで、首だけ花の中から突き出して少し傾いた中年の親父顔には、端で見ていた私まで大笑いしそうになって、慌てて後ろを向いたくらいだった。緑シャツが見たらきっと真似をするに違いない。まさかとは思うが、私も首出し仲間に加わる日が来るのだろうか、そんな思いすら胸をかすめたのである。
ようやく時間が来れば、皆さん一斉に施設から溢(あふ)れ出して、再び水牛車で浅瀬を渡り、バスに乗り換え大原に戻り、1日1便14:30に直行する八重山観光フェリーを利用して、竹富島に向かうことになった。私はまた後ろのテラスでモーターを聞きながら、離れていく大原港に別れを告げ、しぶき上がる海水の向こうに揺れる西表島を、爽快な気持ちで眺めていた。折り返しの風を受け海水が頬にあたる。しかし今度は私1人ではなかった。緑シャツと、それから例のちゅらさん2人組みが、後部座席に陣を張り、あちこち眺めながら、シャッターを押してはしゃいでいる。はしゃいでいるといっても、モーター音がうるさくて声など聞えないが、私は明日の観光を、彼らと共に楽しんでも面白いような気がしていた。船は大きく梶を切り、大原に向かう高速艇とすれ違う。互いの波が力強くあたる。激しいしぶきがキラキラ光る。竹富島はもうすぐ先だ。
2006/03/29
2006/08/19改訂
2006/09/08再改訂