星砂の浜辺を持ち、沖縄古来の集落を保存し、有名なタナドゥイ祭が行なわれる竹富島。独自の憲章で伝統を保護するこの島は、時に伝統の脅威となる観光によって、過疎化を克服し、活性化をはかるサンゴ礁の島だ。桟橋に船が着くと、まだ新しい綺麗な待合い施設は長閑だった。私達が全員を確認するうちに、桟橋からは人影が消えてしまい、太陽がコンクリートに照りつけ、湯気が出るような大気の中で、閑散とした自然が広がっている。この小さな港だけが、現代建築に整備されて、観光に精を出す八重山全体の活力を感じさせた。それは島の人々にとっても同じかも知れない。いくら伝統を守り続けても、村の灯りが一軒ずつ消えていく過疎化の波は止まらない。ついに後継者を無くして、小さな集落が自然に帰る頃には、語り継ぐ者さえ居ないだろう。やはり入島者は必要だ。しかし人口を遙かに超える観光客が年中闊歩したら、集落の快適な生活は脅かされるし、なかなか難しい。そんな事を考えながら、ガイドさんの解説も聞かずに付いていくと、やがて竹富の新名所「ゆがふ館」に到着した。2004年にオープンしたこの建物は、港から3分ほどで到着する資料館で、入場料も取らず竹富の歴史や、民族音楽や、各種の映像配信や、展示物を配置した島の紹介施設になっている。
「30分ほどしましたら、ゆがふ館の裏口からバスが出発しますから、それまでに見学を済ませて、心配の方は御手洗いにも寄って下さい。」ガイドさんはそう注意して、私達を解散させた。ゆがふの看板を見て「ゆがふだわ、ゆがふ」「フクロウの店長は居るかしら」とはしゃぎだしたちゅらさん組みは、「確かめなくっちゃ」と真っ先に飛び込む。実は連続テレビ小説「ちゅらさん」において、東京に家出した主人公がアルバイトをする沖縄料理店が「ゆがふ」だったのである。しかしもちろんここは料理屋でもないしNHK資料館でもないから、私達が中に入ると、2人組みは期待がずれてぽかんとしていた。
入り口には八重山全体のパネルがあって、石垣島と西表島が東西に構えるあいだに、竹富島や小浜島、黒島などが浮かんでいる。サンゴ礁は明るい水色で表示され、島を中心に広く分布しているが、これらのサンゴ礁群を石西礁湖(せきせいしょうこ)と呼ぶと書いてある。ほの暗い館内を見渡すと、竹富島の地図と歴史年表や、聖地である御嶽(おん)を記したパネルも展示され、また民芸品の機織(はたお)り機や、けっこう大きな映像放映施設まであった。沖縄関連の書籍やCDも販売され、どうせなら喫茶店でも拡張して、船の待合代わりに使ったらどうかと、余計なことを考えたくなるほど立派な施設である。
ところで「ゆがふ」とはいったい何だろう。パネルの説明書きを見ると、漢字なら「世果報」と記し、「天からのご加護により豊穣を賜る」という意味を持つそうだ。要するに幸せの島とか、憂い無き世界を表わすのだろう。館内を歩き回っていると、巨大スクリーンを持つ放映所が設置されていて、今から竹富島の紹介ビデオを上演するらしい。私達の到着に合わせて、わざわざ上演するのかもしれない。せっかくだから見ていくことにしよう。席に着くと前の方に、ハイビスカスと戯れていた親父が1人で座っている。残りの3人は館内を回っているらしく、その反対側にはヤマネコに出会ったというじいさんもいる。ビデオは10分ほどだったが、後から足しながら紹介しよう。
「石垣島の南西約6kmに位置する竹富島は、サンゴ礁が隆起した島です。周囲が9.2kmほど、中心に広がる集落には約340人ほどが暮らしています。今では人口の1/3が65歳以上の高齢者で占められていますが、戦前には1000人ほどが生活していましたし、敗戦直後には2300人もの人口を抱え込んだこともあるのです。その後本土の経済成長に合わせるように過疎化が進み、1995年には262人にまで減少し、村の壊滅さえ危ぶまれましたが、近年新しい定住者と島への帰還者を合わせて、着々と人口を回復しています。これには観光客の増加や八重山定住者の増加という後押しがあり、竹富島への年間観光客は平成元年に8万6千人ぐらいだったものが、今日では35万人にも達するのです。
そんな竹富島、周囲をサンゴで囲まれたほとんど平らな島で、中央には島の最高点である『ンブフルの丘』があります。といっても標高僅(わず)か20メートル、丘の展望台に登ってようやく24メートル、竹富島で一番高い場所です。ところでンブフルの丘、一風変わった名称はどこから来たのでしょう。島の逸話では夜中に飼い牛が逃げ出して、大地に角(つの)を突き立て丘を築き、『ンブフル、ンブフル、ンブーフルフル』と鳴き声を上げたという、非常に不可解な伝説が残されています。他にも集落の中に赤山公園という丘があり、丘の上には『なごみの塔』が置かれています。丘と合わせて僅(わず)か10メートルですが、集落の中にあり美しい景観が楽しめます。ただ非常に階段が急ですから、自信のない方は控えて下さい。
それ以外はほとんど平らな竹富島、地面を少し掘ればサンゴの岩が顔を出し、川は生まれず貴重な水源は井戸で確保していました。そのため耕作には適さず、昔はマツフニ(松舟)というくりぬき舟や、サバニと呼ばれるカヌー船で、西表島の東岸に出かけて水田を開拓していたのです。西表島北東にある由布島の住人は、竹富島や黒島からの渡り者であったとされています。
そんな竹富島ですが、かつては八重山の行政府があったこともあります。これは西塘(にしとう)という島の偉人が、首里王府の元で教育を受け、後で八重山統治を任され、蔵元(くらもと)と呼ばれる役所を設置したからです。しかし行政を仕切るのに不便があったのでしょう、1543年には蔵元を石垣島に移してしまいました。非常に短い行政府ではありましたが、この西塘さん、村の優れものとして死後奉(まつ)られ、西塘御嶽(にしとうおん・にしとううたき)を守る神となって、今では天上から島を統治しています。
そんな竹富島ですが、古い伝統集落を今日に残す、貴重な証人となっています。1771年に八重山地方を襲った明和(めいわ)の大津波。これによって八重山の伝統集落の大半が壊滅し、琉球王府による地割制度によって、升目に区分した集落が生まれたのですが、奇跡的に津波を逃れた竹富島では、独特な集落形態が今日に残されました。第2次大戦の戦火も免れた集落は、村の土地割りや歩道の整備や、住宅の配置に赤瓦の屋根、さらには琉球石灰岩の石垣に至るまで、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているのです。ただし沖縄で赤瓦を屋根に葺くようになったのは明治20年代以降、庶民の家では昭和に入ってからだと考えられ、それまでは藁ぶきの屋根が一般でしたから、シーサーが乗ることもありませんでした。八重山は台風の通り道なので、風を防ぐように直線を避けた道路配置や、常緑高木の広葉樹であるフクギなどを茂らせ、屋根の寝そべった平屋を築くなど、様々な工夫が見られます。そんな集落ですが、ンブフルの丘の北側にアイノタ(東集落)、インノタ(西集落)、という東西2つの集落があり、丘の南側に仲筋(なかすじ)という集落があります。急ぎ足なら半日で島を巡る距離ですから、時間の許す方は集落巡りも面白いでしょう。
島には30ちかい御嶽(うたき・おん)があり、木の覆い茂る場所としてヤマ(山)と呼ばれ、非常に熱心に信仰されています。特にムーヤマ(六山)という6つの重要なヤマは、島の始まりを告げるヤマと考えられ、1713年の『琉球国由来記』によると、昔竹富島に6人の首領が争いもなく暮らしていましたが、ある時、神が居ないことに気付いて祈りを捧げると、6体の神が島に渡って来たと書かれています。その神々が奉(まつ)られたのがムーヤマなのです。もちろん他のヤマにも様々な信仰がありますから、不用意に中に入らないように気を付けて下さい。またこの島は、景観と伝統保護のために独自の憲章を立て、島民全員が固く守りながら生活しています。キャンプは禁止されていますし、民宿以外の宿泊施設もほとんどありません。観光客の皆さんも、ゴミを捨てない、生物や植物の保護に注意を払う、村落を水着で歩かない、アイスクリームを振り回さないなど、当たり前のマナーを守って、ぜひ素敵な観光を楽しんで下さい。それでは次の放映は、我が島最大の祭りとして、沖縄だけでなく全国的にも有名なタナドゥイの祭についてお伝えします。」
すっかり満足して放映所から出ると、ちゅらさん2人組みが柱に備え付けられた椅子から手招きをしている。近づくと竹富民謡が聴けるから試してみなさいとヘッドホンを渡された。民謡まで聴けるとは大した施設だ。緑シャツも来てヘッドホンの音楽に合わせて民謡を口ずさんでみたが、あまりにも素っ頓狂な音程で歌うから、観光グループどころか施設の従業員までこっちを見て、にやにやと笑っている。私も「下手歌だ」と大笑いしていたら、「じゃあお前がやって見ろ」とヘッドホンを突きつけるから、つい普段の慎重も取り落として、「よし」とヘッドホンに合わせて歌い出したら、今度は皆さん声まで出して笑っている。確かにこれは非道い、あんまり変な声なので自分でも笑い出してしまった。ちゅらさん組みも腹を抱えて笑っている。子供達は自分も真似しようとして、一斉に近寄ってきた。何だか少しずつ自分が壊れてきた気がするが、他人に笑われてもちっとも嫌でないのが嬉しかった。やがて時間が来たので、綺麗なトイレにも足を運んでから、出口で待っているバスに乗り込んだ。クーラーを効かせたバスは、誰も走らない舗装路を軽やかに滑り出す。
バスに乗り込むと、ガイドさんはしばらくお役御免となって、島の運転手が解説を始める。贅沢に舗装された車道にはデイゴの木が植えられ、赤い花を美しく咲かせる中を、比較的若い青年がハンドルを握りながら挨拶を済ませた。イントネーションに島の訛りがあるようだ。彼はこの舗装道路について解説をしてくれたが、景観を損なう恐れのある舗装は、集落に向かうこの道と、集落を取り囲む環状道路だけで、その環状道路は、集落内部を自動車から守り、集落の伝統と景観を守るために作られたという。
「前にあるのは魔よけの木です」と運転手が告げると、道中(みちなか)に大きな樹木が立っている。そこを抜けると亜熱帯植物の世界から、人の住む集落が現れてきた。舗装路から横に歩道が延び、家々をつないでいる。歩道はサンゴを砕いた白砂(しらすな)で、月明かりの晩には集落が浮かび上がるほど色が白い。私達は誰もが感嘆(かんたん)の溜め息をもらした。家々はサンゴの岩石を積み重ねた塀で仕切られ、その奥に広い庭と樹木が茂り、平屋造りが屋根の傾斜を鈍くして構えている。その屋根は一様に赤レンガを重ねて、上にはシーサーが陣取って、我々を見下ろしている。ここはいずこの国かと訝(いぶか)しがるほどの集落だ。忘れた頃に人影とすれ違う。運転手は解説を続ける。
「さっきの魔よけの木。あれは中国から渡来した風水が、王朝から庶民に伝わって植えられたもので、昔は集落の進入路ごとに設けられ、魔物払いをしてくれる樹木でした。島の言葉でツンマセーと言います。つまんねーじゃありませんよ。はい、左を見て下さい。竹富郵便局、集落で唯一の金融機関で、おかげで大いに助かってます。民営化は仕方ないとしても、これが潰れると大いに困る。皆さんもぜひ立ち寄って利用してって下さい。さあ、続いて今度は右側。
はい右側に見えてきたのが竹富島で唯一の学校。小学校と中学校が一緒で、今年は5人入学しました。全部合わせて32人ですが、先生が19人もいて、ほとんどマンツーマンの教育です。外からも生徒を募集してますから、ぜひ紹介して下さい、歓迎しますよ。
はい今度は左側に井戸が見えてきます。速度を落としますよ。この井戸は中筋(なかすじ)井戸という名前です。この道のすぐ先が島中心にあるンブフルの丘ですが、残念ながら今日は時間がない、ここで大きく曲がりましょう。集落にはあのような井戸が幾つもありますが、竹富は川のない平坦な島で、昔は貴重な水源を井戸や雨水で確保してきました。今では幸い石垣島から海底を通って送られています。水道は昭和47年に、電気は昭和51年に開通しました。それ以前はランプで明かりを取り、井戸で真水を確保していたのです。それではいよいよ集落を抜けてカイジ浜に向かいます。皆さんには星砂の浜、星砂ビーチと呼ぶ方が馴染みかも知れません。沢山の星の砂が取れるビーチですが、この星砂の正体はヒトデの仲間、ユウコウチュウという微生物の亡骸だとされています。」
バスは亜熱帯植物に覆われた砂の小道に進入する。道はもう浜に近いのだろう、何となくさらさらして見える。途中で自転車を懸命にこぐ子供達の一行を追い越した。揺れながらのんびり進むと、両側には真っ赤なハイビスカスや、朝顔の花が咲いている。
「はいこの朝顔、本当は朝顔じゃありません。朝だけでなく夕方まで咲き続け、夕方になるとピンクの花が紫に変わります。とても朝顔とは呼べません。移り花とでも呼んでおきましょうか。左手にはラッパがぶら下がったような花が見えてるでしょう。これはエンジェルトランペットです。本土では夏から9月頃に咲く花ですが、もうすっかり咲いてます。形はピンク色した面長の朝顔といったところ。前のお客さんなどは、オペラ座の怪人を見過ぎてエンジェル・オブ・ミュージックと叫んでいました。まあ形がラッパですから、当らずしも遠からず。はい、そこの駐車場にバスを止めたらもうカイジ浜です。20分ほど美しい砂浜を楽しんで、星砂を捜して下さい。それから集落に戻りましょう。」
小さな砂の停車場に着くと、覆われた樹木の合間に浜へ抜ける下り口(くだりくち)があった。その先は真っ白な砂浜と青い海だ。私達は神秘の門をくぐり抜けるように、星砂のビーチに降りていった。ところがその樹木の門には、2匹の猫が長閑に寝そべっていたから、ベレー帽と眼鏡が「わあい、にゃんこ!」と叫んで、砂浜を忘れて写真を撮り始めてしまった。ベレー帽が「西表にゃんこ!」と滅茶苦茶なことを言うので、驚いて何人かが振り向いて、彼らまでカメラを構え出す。その頃シャツは一番乗りで砂浜に飛び出したが、後から付いて来た私は、ついうっかり猫に気を取られて、ちゅらさん組みと一緒にシャッターを切ってしまった。竹富島は猫の多い島だが、この星砂ビーチもよく猫のたむろするスポットだ。訪れた人はついでに探してみると良い。この猫達こそ朝な夕なに砂浜を闊歩するここの主(あるじ)なのだから。
主人に挨拶を済ませた私達も、皆の後を追い白く輝く砂に足を繰り出す。浜は眩しかった。朝の曇は影も形も消え失せ、真っ青な空から照りつける太陽が、すべての色彩を活気づける。大空に植物の緑を数滴垂らし、透明液で薄めたようなサンゴ礁の海を、風が水平線から吹き寄せる。砂浜から顔を出した岩石が、灰色がかった硬質の彩色を加え、景観にアクセントを与えている。それがカイジ浜だ。
私はしばらく立ち尽くしていたが、一部の観光者達は早くも星砂探しに夢中になって、「あった」とか「違った」とか叫んでいるようだ。何でも持ち帰らないと勿体(もったい)ないお化けの精神で、当地の星砂はどんどん減少しているという。思い出は心に焼き付け、記録は写真に残せば十分だ、まさかと思うかも知れないが、持ち帰った次の年には、もう星砂が何であるか、島の名前も浜の名前も浮かばない愚か者が沢山いる。何のために持ち帰えるのか分からない。彼らはバーゲンの度に勿体ないお化けにそそのかされて群がり、無料サービスの時にもお化けが出たと騒ぎながら押し寄せてくる。本当にお化けが出たのか、それとも自分がお化けと一体なのか分からないが、せっかくこれだけの景観を前にしながら、自然が作り出した星砂の欠片に触れながら、その美しさについて何も学べないのは愚かだ。これは私の意見ではない。砂浜を覗いていた猫丸君が、私達の方を見て笑ったように見えたので、彼の意見を推し量ってみたのである。
そこに何も知らない緑シャツが「こんなに見つけたぞ」と両手を広げて、私に星砂を見せたので、私は思わず吹き出してしまった。覗き見ると確かに綺麗な星の形をしている。後で調べたところ、これらは目に見える大型単細胞生物で、殻を作って生活するアメーバーの仲間、一般的に「有孔虫(ゆうこうちゅう)」と呼ばれる微生物が死んだ残り殻なのだそうだ。綺麗な星形をした「星砂」の他にも、円いボールから小さな手が幾つも突き出たような「太陽の砂」もあり、アメーバ自身も「星砂(ほしずな)」とか「太陽の砂」と呼ばれるが、正式名称はそれぞれ「バキュロジプシナ」「カルカリナ」であり、慣れた人が捜せば浅瀬の海藻に見付けられる。手のない円形だけの奴もいて、これは「ゼニイシ」と呼ばれるそうだ。確かに浜辺の岩肌には、小さな海藻が黄緑色にへばり付いているが、その時は何の知識も無かったので、調べようともしなかった。果たして懸命に捜したら有孔虫が見つかっただろうか。
もちろん全員が一丸となって星砂探しに熱中しているわけではない。例の4人家族は星砂ではなく交互に写真を撮るのに熱中している。子供達は砂探しよりも、わざわざサンダルを持参して海に入って遊んでいる。ガイドさんは毎度のことで木陰に座り休んでいる。例の2人組みは海水をじゃぶじゃぶ掻き回していた。まさか有孔虫を捜している訳じゃあないだろう。私は目の前の真っ白な砂と、蟹が歩きそうな岩肌と、穏やかに広がる海を眺めて、前に記した言葉をまとめようと、少し離れて腰を下ろす。手帳を取り出して、下書きに1ページいろいろ並べていたが、これでいいだろうと思って、次のページに「いつまでも」と記した。
「いつまでも」
赤い花びらまぶしく揺れて
風に誘われ小さく踊ろう
そよぐ緑に合わせて歌う
小さな蟹がさわさわ行くよ
白くかがやく砂道抜けて
瞳こらして潮風受ければ
さざ波光ってさんごの浜に
空は青くて澄みわたる
遠く聞こえる三線(さんしん)に
どこかで応える鳥の歌
ここにいつまでいたけりゃさ
ここにいつまでいたけりゃさ
出来たと思って顔を上げると、砂探しにも飽きた緑シャツが「何をしてる」と寄ってきたから、共に砂浜沿いに奥まで歩いて、時間近くに戻ってきたら、まだ誰もバスに帰る気配がない。私は先に駐車場に行って、カイジ浜の看板を読んでいた。看板には漢字で「皆治浜」と書かれ、星砂のことが説明されている。星砂の美しい珍しさは島の民話に残され、「海の大蛇に食べられた星の子供の骨が流れ着いた」という、はかな悲しい伝承があるそうだ。天上を飾る満天の星になりかけた子供達が、幼くして砕けた姿というのは詩的だが、海から生まれる星の子供達というのは、1年に一度一斉に産卵を行ない、その大量の卵で海を赤くするという、サンゴ誕生の奇跡ではなかったか。成長してあるものはサンゴになって、またあるものは天上に昇って星になる、その途中の姿ではなかったかと、一人で空想を膨らませていた。
すると向こうにも看板が立っている。ちょっと歩いて読んでみると、こちらは蔵元跡(くらもとあと)と紹介されている。始めて八重山地方統治を任された西塘(にしとう)が、16世紀前半に蔵元を置いたのがこの場所で、当時のカイジ浜は港として機能していたそうだ。しかしどうにも難儀(なんぎー)なので石垣島に役所を移してからは、時々竹富島のことを思い出して「シキタ盆」など作って歌っていたら、今では竹富島の大切な唄になりましたと書いてある。島に歴史あり。私は感慨を込めてその説明書きを眺めていると、不意にバスのクラクションが鳴り響いた。気が付けば全員がバスに乗り込んで、最後の私を待っているではないか。しまったとんだ迂闊者(うかつもの)だ。白い目を浴びてバスに乗り込むと、例の猫君(ねこぎみ)がこっちを覗いている。どうも笑っている気がしてならない。バスは走り出し、運転手は気にせず話を再開した。
「はいすぐ付きます。こんどは星砂ビーチの隣にあるコンドイビーチです。よくコンドイとは何ですかと聞かれますが、これはただの地名です。一説によると西表島古見(コミ、当地風発音クミ)に向かうときに停泊することがあったため、古見泊という名称が付けられ、何時しかコンドイと発音するようになったとか。ただし別の意見もあります。大阪は何故に大阪だと質問しても、そこに大阪があるからさ、と答えるしかありません。学者ならともかく、あまり深く追求せずにコンドイだからコンドイなのです。そしてこのコンドイ、実は竹富島で唯一、シャワーと更衣室がある正式の海水浴場なのですが、その白い砂浜と遠浅の海はコマーシャルの撮影などにも使用されています。ただしこのビーチ、1km先まで大人の腰ぐらいまでしかない遠浅の海で、潮が引くと海も遙かに干上がり、とても泳げるどころではありません。泳ぐ人は潮の満ちている時を選んで下さい。海水の中を楽しむシュノーケリングをするのにも便利ですが、それほど豊かなサンゴ礁は見られません。そんなコンドイですが、残念ながら時間がないのでバスの窓越しに眺めて下さい。はい到着です。」
砂浜に乗り出すやいなや、待ったの声を掛ける間もなく、バスはUターンを開始、懸命に写真を撮るのが精一杯で、もうビーチを離れてしまった。私には観光のノルマ達成のために立ち寄ったとしか思えないが、不満を言うわけにもいかない。八重山の気温なら泳ぐことが可能だとはいえ、こんな4月の頭から、何人もの客が海に入っているのが印象的だった。
2006/05/11
2006/08/20改訂
2006/09/11さらに改訂