八重山の思い出その6

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竹富の水牛

 集落に戻ったバスは、水牛車の待合広場に私達を置いて帰っていった。まさか1日2回水牛に乗るとは思わなかったが、ガイドさんは「今日は水牛のハシゴですから」といって皆を笑わせている。私は新田観光の水牛搭乗ツアーの手続きを待ちながら、白砂と生け垣に囲まれた家々が、樹木の間から赤瓦の屋根を覗かせる姿を眺めていた。水牛の鳴き声や私達のおしゃべりだけが聞こえる島の静寂に、果たしてここは21世紀の日本なのかと不思議な心持ちがした。水牛ツアーの新田観光は自転車の貸し出しも行なっていて、一日1500円で自転車を借りることが出来るし、竹富島に滞在したい人のためには民宿新田荘も経営している。さらに手続き所の隣に「あかばなー」というお土産屋さんがあり、思い出の品物を購入できるから非常に便利だ。待合い広場の前には一軒の藁葺き屋根が建っている。赤瓦に変わる前はあんな家々が並んでいたのだろうか。
 ガイドさんが戻って水牛車に乗り込めと言うから、私達は一番後ろに席を取った。右側には緑シャツと私が、左側には眼鏡とベレー帽が、向かい合って腰を下ろすと、水牛が動き出し、ガイドさんは例の4人家族と共に後ろの水牛車に乗車した。子供達も後ろの水牛車から「やほーい」と叫んでいる。車の屋根裏を見ると、由布島の時とは違って、「安里屋ユンタ」の歌詞だけが沢山並んでいる。ははあ、これを歌うのだなと思った。
 さあ出発だと期待していると、水牛は歩道に出る前に立ち止まって、道ばたで用を足し始めた。水牛の習性はもう知っているから気にもしないが、自分のルートを完全に理解しているぐらいだから、トイレの場所も矯正出来るかも知れない。まさか排泄まで観光料金に含まれているかと不埒なことを考えていると、待合い広場では空の水牛車を係のオジィがぐいぐい引っ張っている。聞き分けない水牛も負けじとオジィを引っ張り返して、その奥では、水牛が走るように所定位置に戻っていった。「あれ、水牛なのに早い」と緑シャツが叫ぶと、水牛を操る40代頃のおじさんが「水牛もゆっくり歩くように訓練されてるけど、いざとなったらもっと速度を出せるんです」と答え、「その通りだ」と頷(うなず)くように私達の水牛も歩き出した。
 ようやく観光が始まり、水牛遣いのおじさんが挨拶を済ませると、一番前に座った還暦を遙か過ぎたじいさんが、「家のあるべきところに空き地が広がっているが、草木だけが生えているのは、あれは過疎化の影響じゃないか」と質問した。じいさんは、西表島で昔ヤマネコにあったと宣言した強者だ。このじいさんが原因で、私達の水牛観光は台本から外れて、半ば2人の会話に任せて進んでいった。水牛運転手は気さくに答える。
「戦後の一時期は非常に人口が膨らんだことがあるけど、特に沖縄の本土復帰に近づく頃から過疎化が進行しました。今日は340人ぐらいで、しかもその1/3以上が65歳以上のお年寄りで占められてるんです」
「毎年減るばかりじゃ、観光業も覚束ないではないか」
「いえ、最近の観光業の本格化によって、島を離れた若者が戻ったり、他にも島ぐるみで知恵を絞ってるんです。お陰で僅かながら、もう10年以上も人口が増加してます。」
 するとじいさん「余所者でも土地を買って住むことは出来るのかね」と聞くから、「村には独自の憲章があって、自分の土地を勝手に売買してはいけません。憲章は法律ではないですが、村の住人は自ら守り伝統保全に努めています。だから我々も、憲章を守り祭りや行事へ参加する人間なら大歓迎ですが、土地を売ってくれるとは限りませんね。まあ、まず余所者気分でなく本気で島の一員になれないとね。」
 のそり進む水牛は狭いT字路を器用に曲がっていく。竹富島にも道を走り回る魔物達を粉砕する石敢当(いしがんとう)がところどころに置かれているが、水牛の早さなら粉砕される心配はない。この石敢当というのは、三叉路やT字路の突き当たる壁に設置される魔除けで、スピードを出しすぎた魔物達が、交通事故のように家の中に突っ込んでくるのを防ぎ、これに当たった妖怪達は粉々に砕け散るのだという。マングースのように落ち着きなく走り回る妖怪というのも面白いが、実はこの魔物は台風などによる強風を指し、壁を守る意味があるとも云われている。右手には空き地が整備中らしく工事車両が放置され、石垣で使用するサンゴの岩石が集められて山になっていた。
「ああやって石垣の岩を再利用するのですが、岩はもともと遠くから運んできたものではありません。竹富島では村落の中でもすこし掘れば、サンゴの岩が採取できるぐらい。工事中の庭はちょっと情けないですが、石垣の向こうから顔を覗かせる黄色い花や、フクギの蒼さはすばらしいでしょう。あっちにはブーゲンビリアが咲いています。皆さんブーゲンビリアと聞くと、紫がかった赤い花だと答えますが、それは大間違い。赤いのは花を取り巻く包葉(ほうよう)という部分で、本当は白い小さな花が咲くのです。また赤紫だけがブーゲンビリアだと思う人も多いが、包葉の色もオレンジや白がありバラエティに富んでいます。今日は天気に恵まれ、赤い屋根の色も冴えますが、シーサーも日光を浴びて、凛々(りり)しく立っています。」
 なるほど褐色の屋根にシーサーが構えている。じいさんが突然「あのシーサーの由来はやはり大陸かね」と質問モードに入る。
「そう、中国の唐獅子が13世紀から15世紀頃に流入したそうです。初めは王族だけの習慣が、風水と共に庶民に伝わり、村を守るシーサーとして広まりました。朝鮮からの影響を受けた本土の狛犬とは親類関係で、元を辿ればオリエント時代のライオン崇拝が、シルクロードを渡って世界中に伝播(でんぱ)したとか。大した話です。」
「口を開いているのと、閉じているのが、左右や前後に陣取るのは、あれはやはり阿吽(あうん)じゃないかね」
「仏教の影響もあって、災いを入れないのと、福を呼び込むシーサーがペアになったと聞きました」
「阿吽は、仏教の真言(しんごん)で、口を開き最初に出る言葉『阿』と、閉じる最後の言葉『吽』が、万物の開始と終焉(しゅうえん)を司(つかさど)るんだね」
 運転手はなるほどと頷いている。どっちがガイド役だか分からなくなってきた。後ろの席では眼鏡とベレー帽がシーサーも買って帰ろうと固く決意し、私とシャツは共にデジカメを構えきょろきょろして、ちっとも話を聞いてはいない。水牛遣いは気を取り直して、「この静かな集落の姿に心打たれ、何度も訪れる竹富病の人も沢山います。皆さんも少しだけ病気に掛かって、ぜひまた観光に来て下さい。いよいよ安里屋クヤマの家が見えてきました。ちょっと水牛に留(と)まって貰おう。」

安里屋ユンタ

 従順なる水牛は顔色変えずに車輪を止める。石垣にはハイビスカスが咲き誇り、入り口には「安里屋(美女クヤマ)生誕の家」とある。クヤマは偉業のため現在に名を残す英雄ではない。人並み外れた美貌ゆえに民謡に歌われ、今日に名前を残す幸せ者だ。だから彼女の細かい生涯など分からないのだが、唄の中では余所者役人の求婚を断ったヒロインとして、現在に歌い継がれているのだ。ただし学者達の執拗(しつよう)な捜索によって、1722年生まれで70歳まで生き、子供はなかった事まで分かっているという。
 通りかかった小学生達の1人が、「クーヤマだけが特別。クーヤマだけが、クーヤマだけが、役人の求婚を拒むことが出来たのさあ。」と訳の分からないことを叫び、残りの2人が「出来たのさあ。」とオウム返しに水牛の横を通り過ぎていった。学校で由来でも教わったか、小学生の考えることはさっぱり分からないが、ひょっとしたら観光客をからかっただけかもしれない。水牛遣いのおじさんは「そうです、クーヤマだけが特別なんです。」と後を繋ぎ、皆は等しく笑い声を上げた。
「安里屋ユンタには幾つかバリエーションがあります。」彼は三線を取り出した。「まず元々竹富島で歌われていた元祖安里屋ユンタがあります。ユンタというのは、協同で労働するユイマールの中で『サーユイユイ』などの掛け声と共に歌われた労働歌で、ユイは一説では「結い物」の結いとされます。織物共同体からユイマールという言葉が生まれ、その際歌われる「結い唄」がユンタになったという。皆さんは労働の唄がそのままユンタだと思っていいでしょう。したがって元祖安里屋は三線(さんしん)は使わない。皆で一斉に歌う仕事唄で、簡単なメロディーに乗せてなんと23番まであります。ちょっとだけ歌ってみましょう。」
 三線を持った水牛遣いは唱い手に変じて、楽器は使わず方言によるユンタを歌い出す。それに合わせて、水牛は歩行を再開し、私達は揺られながら安里屋を堪能した。
「サァあさどやぬくやまによ
サァユイユイ
あんちゅらさぁうんまりばしよ
マタハーリヌ
チンダラ
カヌシャマヨ」
 歌が終われば皆は拍手をするが、水牛だけは毎度のことで眠そうな顔を下に落とした。
「歌詞の23番までの粗筋は、クヤマに妾(めかけ)の求婚を断わられた役人が、別の集落でイスケマという女性に求婚。今度は成功して目出度く結ばれ、引き続き役人として島を治め、お酌の上手なイスケマと子作りに励む。生まれた子供は、男の子なら村の指導者に、女の子なら家庭を守りましょう。という内容で、クヤマはまあ脇役だったんですね。さらにこのユンタを元にした、三線で唱う節唄(ふしうた)もあり、安里屋節(あさどやぶし)として歌詞はそのまま異なるメロディーで唱われます。ところが第2次世界大戦後のアメリカ統治時代に、星克(ほしかつ)という人がクヤマに狙いを定めて歌詞を作り、石垣島の宮良長包(みやらちょうほう)が曲を書いたからさあ大変、この新安里屋ユンタが流行して本土にまで広がった結果、誰もが知っているのは、新安里屋ユンタになってしまいました。今では観光客のために三線で歌うのが仕事になってるんで、さっそく手拍子お願いします。」
 そう言うと、三線を構えた歌い手は空気の中にパンと跳ね渡るような三線の音に乗せて歌い始めた。

「サァ君は野中の茨の花か
サァユイユイ
暮れて帰ればやれほんに引き止める
マタハーリヌ
チンダラ
カヌシャマヨ」

 手拍子に乗せて1番が終わると、2番では歌好きのちゅらさん組みが黙っていられない。さっそく掛け声の所を一緒に歌い始めた。しかし歌が4番まで続くうちに、1人2人と参加者が増えて、最後には水牛の観光客全員が掛け声を斉唱(せいしょう)して、竹富よいととこ一度はおいで、はあこりゃこりゃのような5番まで付け加え、ついに大円団かと思われたところ、歌い手は調子が漲(みなぎ)って、「はいもう一度1番を歌いましょう」と三線を爪弾きながら始めに戻ると、ついに全員歌詞を見ながら1番を熱唱し、武道館ライブ状態に陥ってしまったのである。こんな現象は私の生涯でも前代未聞だ。竹富島は、人の心をスポンジにしてしまうのかもしれない。そういう私も、結局緑シャツと後ろから声を張り上げ、サーユイユイと叫んでしまったのだ。全員拍手の後で水牛遣いは、「こんなノリに乗ったお客さんは、初めてさあ」と驚いていたが、振り向くと後ろの水牛車から、何事かと心配して覗くガイドさんの姿が見えた。手を振ってみたら、ガイドさんではなく、4人家族の親父と娘が手を振り返したので、ちょっと困ってしまった。

タナドゥイ祭

「三線で歌う安里屋節の方にも、竹富以外で歌われる別の歌詞があり、『貧しくても島の男と結婚したいとわ』と求婚を断るクヤマは、気概ある島の女に変貌を遂げています。私もまだ調査の途中だけど、安里屋ユンタはなかなか奥が深い。」
 水牛遣いが三線を片付けていると、歌ばかり聴かされた質問じいさんがさっそく口を挟む。「ところで、ユンタに関係するユイマールだが、島ではまだ生きてるんかね。」
 水牛遣いも合いの手を貰って話が弾むようだ。
「今は金ですべてを行うから、本来の意味では残ってないけど、助け合いの精神としてなら残ってるかもしれませんね。」
 するとじいさん「そうかねえ。金がすべてじゃ、寂しいねえ。」と答えながら、水牛は竹富民芸館と書かれた建物を通り過ぎる。消滅の危機に瀕(ひん)した島の伝統織物に対して力強い復興運動が起こり、織物の保存育成をするために作られたのがこの民芸館だ。ミンサー織や芭蕉布などに興味がある人はぜひ訪れたい。織物に興味のない私も見学したかったが、ツアー旅行の悲しさ水牛に引かれて通過するとは思わなかった。すぐ先の十字を左に曲がると、右手に開けた公園が広がっている。奥には鳥居のようなものが立っているではないか。ここはまさに「ゆがふ館」のパネルでも説明されていた、竹富島名物「タナドゥイ祭」が行なわれる会場である。水牛遣いの説明だけでは簡単過ぎるので、後から「易しいタナドゥイ入門」のガイドブックを見て、祭の説明を書き記しておこう。

 「諸君、毎年秋遅く開催する竹富島のタナドゥイ(種子取)祭を知っているか。祭事諸島沖縄でも特に有名な祭で、1977年には重要無形民族文化財に指定されたほどだ。その重要な舞台こそ、ユームチ(世持)の御嶽(うたき)と、前に広がる広場なのである。それじゃあ、タナドゥイとは何だと問われれば、この祭は琉球王朝の影響で八重山に伝わった、種まきが刈り取りに成就(じょうじゅ)することを祈る豊作祭の一種だ。現に沖縄本島でもタントゥイ(種子取)祭があるんだから間違いない。粟(あわ)や稲の種を蒔く前に、保存された種を取り出しながら祈り奉(たてまつ)るのだ。竹富島にも古来からの祭があったはずだが、八重山地方が琉球王朝の勢力下に組み込まれていく1500年前後に、本土のタントゥイが取り入れられて、今日に続くタナドゥイの祭になったと考えられている。10日間も続く盛大な祝祭は、数々の芸能を奉納する7日と8日にクライマックスを迎え、ユームチ(世持)の御嶽で様々な芸能を競い合って奉納し、島は祭色(まつりいろ)に染められていくのだ。奉納される祭は、大きく男達の行なうキョンギョンつまり狂言と、女達の行なうブドゥイつまり踊りに分けられ、2日間で70ほどの出し物が立ち替わる。まず祭の7日目の朝、御嶽から弥勒(みるく)様のお面を取り出す「みるくおこし」が行なわれ、この白い笑顔の平和と豊潤の神は、奉納の芸能が行なわれていく最中に、子供達を引き連れて姿を表わすという儀式に繋がっていく。この弥勒さま、海の彼方から五穀豊穣(ごこくほうじょう)を招く神様だと信じられているので、他の島の祭にも登場するお馴染みの神様だ。しかし奉納にはもう一つの意味がある。実は芸能儀式は、奉納と同時に集落対抗の芸能競演を兼ていて、まず7日目には玻座間(はざま)集落がそれぞれの芸能を奉納し、翌8日には玻座間集落の北側にある中筋(なかすじ)集落が芸能を奉納し、優れた技を競い合うのだ。その奉納が行なわれる場所こそ、水牛観光の名所の一つユームチ(世持)の御嶽(おん)なのである。」

 付け加えておくと、ユームチ(世持)の御嶽(うたき)があるこの集落全体を玻座間(はざま)集落と言う。この集落はさらに東集落(あいのた)と西集落(いんのた)とに分けられるが、まとめると玻座間(はざま)なのである。奉納儀式の行なわれる2日間に挟まれた7日の夜には、さらにユークイという行事があり、これは「世乞い」という言葉から来ていて、豊穣を祈願しつつ果てしなく唄い踊る儀式である。一般の観光客でも夜まで残ってさえいれば、参加して歌い踊ることが許され、このユークイは夜を徹して舞い明かし、2日目の奉納祭に突入していくのだ。
 そんなタナドゥイの様子を大ざっぱに説明しているうちに、再び水牛は発着所に辿り着き、私達は水牛に別れを告げた。後から降りてきたガイドさんが「30分したら再びここに集合して下さい」と伝え、しばらく自由行動となった。目の前にはお土産屋さん「あかばなー」があり、ハガキやミンサー織や民芸品から、竹富島で特に有名な香辛料であるピィヤーシ(ピパーチ、フィハツ)、さらには星砂までお土産として売られているから、さっそくベレー帽と眼鏡は「あかばなー」に消えてしまった。ちなみに店の名称は漢字で書けば赤花となり、沖縄ではハイビスカスのことを「あかばなー」と呼ぶのである。ハイビスカスは沖縄を代表する日常的な花であり、同時に後生花(ぐしょーぬはな)と呼ばれ、死後の幸せを祈り墓などに植える仏花でもあるが、一方ではこれを乾燥させた薬茶も健康飲料として、最近では本土でも売られている。

喜宝院蒐集館(きほういんしゅうしゅうかん)

 緑シャツも女の後を追って「あかばなー」に消えてしまったので、私はガイドさんの勧めにしたがって、「あかばなー」の隣りにある資料館に入った。ここは1949年に開かれた日本最南端のお寺、浄土宗本願寺喜宝院(きほういん)であり、その先代住職が集めた民俗資料を陳列する蒐集館(しゅうしゅうかん)が一緒になっているので、竹富島を知るためには訪れたい施設だ。運がよければ館長の上勢頭芳徳(うえしぇど・よしのり)さんに会って、民俗や蒐集物について詳しい話を聞けるかもしれない。
 あいにく私が戸口を潜(くぐ)り抜けると、先にあの家族4人組みが潜(もぐ)り込んでいて、館長は彼らの相手で精一杯だ。ちょうど藁を紐状(ひもじょう)に編み結んだ展示物の前で、藁算(わらさん)の説明をしている最中だった。藁算というのは、読み書きの出来ない島人達が台帳を作ったり、物の数量を記述するのに利用したものである。例えばある形で藁が結われている場合に商品Aを表すなら、別の形で編まれた藁は商品Bを表わす。続いて短い藁の結びでその数を表わすとか、いろいろな遣り方で数と品物を表現するような原理らしい。
 館長は息子に向かって台帳の説明をしている。息子の顔は沖縄に不釣り合いなほど色が白い。「ですからこの藁によって集落の一つの道から、隣の道までが区分けされているのです。この場合その間にある小さな藁の数から、幾つの家があって、家族が何人かまで分かります。ほら、数えてみましょう。まずここが3人で、隣りの家がさんしい4人、さらにこちらは5人になりますから、さて区画全体の住人は、合わせると何人になりますかね。」
 すっかり聞き耳モードに入っていた息子は、急に質問を掛けられて頭が混乱したか「きゅっ、九人です。」と馬鹿なことを叫んでしまった。館長が笑って「暑いですからねえ」と言うので、私は思わず吹き出してしまったが、白い奴は運良く私には気が付かず、慌てて「すっかり馬鹿になってしまいました。12人です」と訂正した。後ろで娘が「しっかりしろ兄い」と言っている。ハイビスカスから顔を出していた父親は、まじめな顔をして館長に「こっちの藁はどういう意味なのだろうか」と質問を加え、館長はさらに熱心に藁を指し示している。邪魔をしては悪いから、私は会釈だけして奥に踏み込んだ。
 刀や装飾品が飾ってある展示棚の隣りには、平台ケースのようなガラス陳列棚に、紙幣や貨幣が沢山並べられている。貨幣の変遷が網羅されているのだろう。戦後アメリカ統治時代に使用された、紙幣の代わりであるB型軍票(通称B円)やドル紙幣などが飾ってある。1972年に日本に復帰するまで、沖縄はアメリカ軍の直接統治下にあり、本土とは異なる歴史を歩んできた、その証拠の品々が、小さな資料館にも残されているのだ。それだけじゃない、大戦末期には本土決戦が現実となった悲しい舞台として、沖縄では多くの島人が命を落としたのである。
 紙幣ケースの横の部屋に行くと、昔の衣類などが展示される一角に、陳列物に紛れ込んだように仏壇が置かれている。つまりこれが喜宝院らしかった。お寺の中に蒐集館が付随するのではなく、まるで蒐集館の中にお寺が展示されているような感じだ。宗教心など無くてもお寺では手を合わせる私も、この時は何だか調子が出ないで通り越してしまった。
 入り口の部屋に戻ると、今度は紙幣ケースの奥にある部屋を見学する。死者を運ぶときの乗り物や、西表島に6時間も掛けて漕ぎ出したサバニなどが展示されている。これで終わりかと思ったら、部屋の奥隅に小さな出入口があって、くぐり抜けると、ミンサー織などを展示販売する小店が控えていた。女性の従業員がいたが、ずっと電話をしているので、一周見物して部屋を出る。蒐集館には人頭税に関する資料や拷問の道具まであり、民俗に興味のある人には頼もしい資料館だが、私はいい加減に見回して館長にお辞儀をして外に出ると、私を捜していた緑シャツとガイドさんが、「なごみの塔に行きますが一緒にどうです」と寄ってきた。集落の高台にある物見塔だが、歩いてほんの2,3分ぐらいだという。せっかくだから土産屋で物色しているちゅらさん組みも誘い出して、5人で登ることにした。

なごみの塔

 「水牛観光」と「あかばなー」と「喜宝院」が仲良く並ぶ前の道を、水牛待合い広場に向かって戻ると、先ほどの質問じいさんが、水牛観光の人を捕まえて「あの藁葺きは」と屋根を指して説明を求めている。もう70歳は超えているだろうに、まだまだ彼の好奇心は枯渇(こかつ)しないらしい。照射する日光が眩しく跳ね返り、若葉を精一杯に張りつめた高木(こうぼく)が、石垣を高く抜きん出る。ざっざと音を立てる足音が愉快なので、足元を見てわざと威勢良く歩くうちに、もう丘の下に辿り着いてしまった。見上げれば、丘と命名するには躊躇(ちゅうちょ)するような、ほんのり隆起した高台の上に、人工的にコンクリートの遠見台が設置され、非常に可愛らしい名所である。ちょうど降りてくる娘とお母さんの連れが頭を下げたので、ガイドさんが軽く挨拶をする。離島桟橋でシャツを睨んだ親子連れだ。シャツは締まりが悪そうに私の影に隠れてしまった。だらしがないから、2人が去った後で背中をつついて遣ったら、彼は知らぬ振りして階段を駆け登る。丘の途中でガイドさんが説明を始めた。
 「この赤山公園は本当に小さな公園でありまして、その小さな赤山の丘がそのまま整備された見晴らし台に至るのです。この赤山という名称は、昔壇ノ浦で破れた平家の部将が、落ち延びて赤山王として住み込んだという、平家伝説に関わっているから驚きです。昔は高見台からメガホンで連絡を知らせたこともあり、高さ10メートルほどですが、集落の最高地点なのです。はい、ここまでは広いですが、コンクリートの遠見台へ登る階段は、尋常ならざる急勾配になっていますから、一人ひとり順番に登って、景観を楽しんだら降りてきて下さい。降りる時には、後ろ向きにならないと危ないですよ。常に両手で手すりのところを掴んでいて下さい。」
 なるほどこれは急だ。緑シャツがまず先陣を切って頂上に立ち、塔から見渡す竹富島に歓声を上げたが、私も交替して階段をよじ上る。島を眺望すると、集落の白い道筋から赤瓦の屋根が深緑の間に美しく並び、水牛観光が小さく道を歩いている。遙か先は島が尽きて海に至り、遮ることのない海風が、遠見台を軽く吹き抜け囀(さえず)る鳥の声を運ぶ。海の向こうには石垣島の繁華街まで見えた。空や海は青を基調とし、木々や植物は緑を基調とし、流れる雲と石垣・歩道は白く浮き立っている。朱色の屋根瓦は、ハイビスカスや豊かな色彩の花々だけでは足りなくて、色彩に調和を保つために、無意識に赤く染められたのかも知れない。家々を繋ぐ電線は、木造(きづくり)の電信柱で橋渡され、まるで昭和初期かと疑うくらい、時代錯誤なたたずまいを見せている。そういえば子供の頃、母方の田舎で、あんな電信柱から足掛けを引き出しては上まで登って遊んでいたが、そんな危険な行為さえ、私の情緒感の形成に一役買っているならば、田舎もなくあらゆる危険から遠ざけられて、小さな冒険を無くした子供達は、ある意味において檻の中の動物達のような悲惨の境遇にあるのかも知れない。
 しかしそんな考えは一瞬で去り、私は心地よく空気を吸い込んで、カメラを構えたり眺望していたが、ようやく順番があるのを思い出して、ちゅらさん組みと交替した。
 次は眼鏡が登る。彼女は非常に溌剌(はつらつ)として、私より勢いよく階段を登りきると、わあいと恥ずかし気もなく大声を上げた。もちろんカメラも取り出して、パノラマのように一周撮って、驚くことに前を向いたままで、平気で階段を下りてきた。緑シャツが驚いて「おとこ女だ」と口を滑らせると、「何か言いました」と眼鏡が詰め寄せる。シャツが慌てて首を振る間に、ベレー帽はおっかなびっくり階段を踏み出した。こっちは見ている方が心配になるくらい、危機恐々(きききょうきょう)たるありさまだ。ベレー帽はえらく時間を掛けて展望台に立つと、しかし不意に我を忘れたように、島の景観に吸込まれてしまったらしい。風が強いので、右手で帽子を支えながら、遠くを見詰める姿はとても美しかった。画家なら私は一枚のスケッチを残すかも知れない。そして「遠見台の女」として発表するだろう。もっとも降りてくる時は、一人で大騒ぎして、眼鏡が5秒ほどで駆け降りた階段を、1分以上掛かって帰ってきた。彼女は下で笑われて、仕方ないじゃないとふくれている。ガイドさんは前に何度も登ったのだろう、「さあそろそろ時間です」というと、私達は反対側の歩道に降りていった。
 小さな公園にはガジュマルの木もあり、綺麗な花が整理されて植えられている。フルートのような鳥の声に誘われて、帰り際に振り返ったら、あの色白の息子が見晴らしからカメラを構えていた。彼は知らないだろう、私は旅の記念にシャッターを押した。時間が来てバスが戻れば、たちまち竹富島の港に運ばれ、私達は石垣に向かう船を待つ。暇つぶしに港を散策すれば、海へ降る階段に2匹の蟹が寄り添って、港の壁面には貝殻が幾つもへばり付いていた。

2006/05/12
2006/08/22改訂
2006/09/11再改訂

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