八重山の思い出その9

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バス観光その2

「さて、先ほどの漁港でも、石垣島の桟橋でも、本土のような磯の香りがほとんど無いでしょう。誰か気が付きましたかね。」
 運転手は港を離れながらガイドを再開した。
「実はあの磯独特の香りは沢山の海藻が干からびて、朽ち果てる際に生じるもので、もずくやアーサーぐらいしか海藻の育たない沖縄では、あまり匂いません。しかし、昆布は親潮領域の北海道などで生産され、沖縄では取れないくせに、消費だけは日本一ですから、海藻に接する機会はどこよりも多い。それから沖縄名産の海ブドウという海藻もあります。これがまた口の中でプチプチと、三線に合わせて粒が弾け踊るような海ブドウ。これはやっぱり取れたてが一番さあ。はいはい、左手に干潟の湾が見えてきました。沢山のマングローブが小さく芽を出して並んでる。あれは西表島から流れ着いたヒルギです。その奥の高台に、見えますかね、小さな一本の木がぽつんと立っている姿が。あれこそ皆さんが憧れる『和也君の木』です。」
 すっかり親切になった運転手は、わざわざバスを止めて説明する。
「残念ながら今日は、木の近くにある『ちゅらさん展望台』までは行けませんが、実はあの木は4代目です。番組に合わせて交換するから、エリィが子供の頃植えたものではないんですね。おまけに植生を無視してガジュマルを植えたので、うまく根付かず枯れてしまったりと、夢の名所作りは難しいものがあります。」
 しばらく写真を撮らせてから走り出すと、運転手はその後も、白い綿帽子が光り輝くようなギンネムの木が、本土のネムノキとは違うとか、ハブには毒の有るものと無いものがあって、毒のない奴は自分から逃げていくが、毒のある奴は立ち向かってくるとか、しかしサキシマハブは比較的毒が弱く、血清も医療機関に完備されているから、しばらく死者は出していないと説明した後で、高台に沿って並んでいる巨大墓の説明を始めた。
「八重山に来てあれを見ると、皆さん驚きますが、見晴らしも土地も弔い人に最良の地を与え、巨大豪華な墓を建てる風習は、先祖への考え方を良く表わしています。死者への儀礼も今日まで継続され、周忌ごとには墓前(ぼぜん)に一族集結して、日を潰しての盛大などんちゃん騒ぎ・・・いや違う、供養とかこつけた壮大な泡盛祭・・・・・じゃなかった、慎ましい食事会のようなものも、まあ行なわれるのです。沖縄では旧盆を盛大に祝い、親戚家族ことごとく集まっては、各種行事が開催されるのも、また旧盆だったりします。冠婚葬祭(かんこんそうさい)に生き甲斐を見いだす沖縄の、血族同士の横の繋がりと、伝統への慈しみが生き続けているといえるでしょう。この八重山でも旧盆は『ソーロン』と呼ばれ、『アンガマ』と呼ばれる仮面を付けた行列が、家々を訪問するからぜひ遊びに来て下さい。
 さて、あの巨大な墓、差はあるけど平均250万円ぐらい、亀の甲羅のような恰好は、実は妊婦を形取ったもので、亡くなると再び母体に帰るという、転生(てんしょう)祈願と結びついているとか。中国からの影響で『亀甲墓(きっこうばか)』あるいは『かめこうばか』と呼ばれ、八重山では8割があのタイプの墓ですが、他にも薩摩支配の影響から、墓の上に塔が立っている大和墓というのもある。八重山は台湾やフィリピンにも近く、アジアや中国、それから大和の影響を受けて独自の文化が生まれました。最近ではアメリカ文化まで取り入れて、この混ぜ合わせカルチャーのことを、チャンプルー文化なんて呼んだりします。そうそう、異国との距離といえば、すぐ北方にある尖閣(せんかく)諸島、最近では新聞でも騒がれていますが、あそこは昔石垣島の人々が住んでいて、れっきとした石垣行政区なんです。実は今日でも18人の本籍が尖閣諸島になっている。こうなったら私も出かけ行って住んでしまおうかね。八重山人(ヤイマンチュ)を舐めちゃいけません。」
 運転手はだんだん慣れてきて素が出てきたようだ。やがて大岳の麓(ふもと)の駐車場に停車すると、「さあ、時間は40分あります。思う存分大岳(うふだき)の展望台に登って来てください」と扉を開けた。集落がすでに40メートルの高台にあったから、恐らく停車場からさらに上って50メートルぐらいだろう、2人並べるくらいの幅で木枠と砂利砂の階段が亜熱帯植物のトンネルへ伸びている。私達はバスを降り、さっそく登ってみることにした。

大岳(うふだき)

 バスの外は大分暑くなった。湿度も高いが、植物のトンネルを登っていく階段には、昼前の涼しさがまだ残っているようで、新鮮な森の空気が心地よい。見上げると、どこまでも階段が続いていく。私とシャツはちゅらさん組と一緒に登り始めたが、ベレー帽が早くも息を切らして、「大岳(うふだき)登ってどこどこ行くの」と歌い出した。これはいけない。眼鏡が「しっかりしなさい」と言ってベレー帽の歩調に合わせたので、全然先に進まなくなってしまった。早く頂上に辿り着きたかった私は、「俺が先に展望台に立つ」と緑シャツに挑戦状を突きつけ、いきなり駆け登った。「そうはいくか」とシャツも慌てて追って来る。ちゅらさん組みを見捨て、そのまま2人で競い合うように、観光客をごぼう抜きにして、汗まみれになって展望台の下まで辿り着いた。溢(あふ)れる汗を拭(ぬぐ)いながら、展望台の姿をシャッターに収めると、大きく息をしながらさっそく乗り込んでみる。しかしあに図らんや、乗り込んでみるともう先客がいた。なんと例の白い息子が、椅子に座って悠々と写真を撮っているではないか。ぜんそくの発作でも起こしそうな顔をして、私達の先を越すとは生意気だ。向こうで会釈をしたので、私達も軽く頭を下げた。
 気を取り直して景観を眺望すれば、さすが息を切らして登っただけのことはある。島を見下ろす鳥瞰(ちょうかん)は海岸線に至り、広がる海には石垣島や、竹富島、大きな西表島などが浮かんでいる。さすが島の最高峰は伊達ではないなと思った。後で調べてみたら、ここからは与那国島以外の八重山の主要諸島を見ることが出来るそうだ。私は身を乗り出して、なびく風を浴びながら、海の彼方に思いを馳せていた。
 そのうち1人2人と展望台に到着する。大分遅れてちゅらさん組みも辿り着き、2人だけ先に行って薄情者だとぼやいている。ベレー帽は足を叩きながら「明日は筋肉痛かも」と心配していたが、広がるサトウキビ畑や均整な赤い屋根に心奪われ、青い海と浮かぶ島を眺めて喜びだした。彼女達が見た赤屋根はバブル時代のリゾートで、破綻した施設を再生している最中だそうだ。そのすぐ先が海になって、目の前に島が浮かんでいる。「あれは嘉弥真島(かやまじま)だわ」とベレー帽がパンフレットを見ながら言った。地図で見ると小浜島の北東に浮かぶ小さな島だ。「行ってみたいな嘉弥真島」と眼鏡も身を乗り出した。
 あの島は連続テレビ小説の中で、やがて消え行く和也君が、弟の文也と主人公の恵里(エリィ)に、「お前達将来結婚しろよ」と言ってハートに火を灯す、第1週目のクライマックスにあたる島だ。この死に行く人の願いが結晶化されて、主人公が運命の再会と結婚を果たすという、民族文学的な構成が保たれているあのドラマは、手に負えないほどルーズな日本のテレビドラマの中でも、非常にユニークな存在になっていたはずだ。私達は皆で嘉弥真島を見ていたが、「あれ、無人島なのに、建物が建ってる」と眼鏡が向こうを指さした。小浜島はあちらこちらにリゾート化の波が押し寄せて、無人島といえどもリゾート客の荒稼ぎの遊び場になっているらしい。せっかくの美しい島だ、リゾートを押し出すにしても、伝統と自然を統合させた三つどもえの島を目指して欲しいものだ。
 そんなことを考えていると、展望台の先で声がする。振り向くと、またしても例の4人家族だった。狭い草原(くさはら)で横一列に並んで、親父が展望台からシャッターを切っている。草原は別ルートに続いているらしい。私は展望台から少し戻って、付近の亜熱帯植物を眺めていたが、あまり無知なものだからハイビスカスとクワズイモぐらいしか分からなかった。展望台の中はちょっと人が多すぎて騒がしい。仕方がない、潔くひるがえして大岳を下山することにしよう。麓に戻る途中、小さな子供の手を取ったお母さんが、階段を数えながら降りているのに出会った。2人は登る時にも段数を数えていたが、幸せな光景だと思って、邪魔をしないように脇をすり抜けた。
 駐車場まで辿り着いたら、早すぎて誰もこない、バスの運転手が居眠りをしてるだけだった。時計を見たらまだ10分以上時間が余っている。少し気が早すぎたようだ。仕方がないので亀甲墓が並んでいる辺りを見学してからバスに乗り込んだ。やがて子供連れのお母さんも乗り込んで、シャツとちゅらさん組も戻って来たが、最後列だけ席が空いている。「あれ、後ろの人達が居ない」と中年男性が声を上げると、例の白い息子が「すいません。うちの家族なんです。まったく何時も遅くって困ってしまいます」と、微妙な訛りを付けて謝っている。どこかで聞いたことのあるイントネーションだ。「ねえあれは、もしかして恵達の真似が入ってないかしら。」「古波蔵恵達!」とちゅらさん組みが囁(ささや)き合う。言うまでもないが、番組の登場人物の1人だ。このバスには一体何人の隠れちゅらさんがいるのだろう。「右を見てもちゅらさん、左を見てもちゅらさん。一体このバスにはどれほどのちゅらさんファンが隠れてるんだ」と緑シャツが呟(つぶや)いた。私が「そうだな」と相づちを打つと、「そういう俺もちゅらさんファンなのよねえ」と女言葉で言うものだから、飲みかけのサンピン茶をこぼしてしまったではないか、この馬鹿ちんが。
 暢気の家族がようやく席に戻って、バスは出発した。角を曲がるとまた亀甲墓が建ち並び、運転手が「左手に見えるのが、ちゅらさんで使用されたお墓です。あの左から2番目ね」と説明を始めた。途端にバスが傾くぐらい皆が左側に寄せてきた。運転手は墓が荒らされる危険を感じたか、ドアを開けずにアクセルを踏む。慌ててカメラを取り出した前の中年男性が勢いで左の席に倒れて、しきりに謝っている。運転手は知らぬ顔して「あの墓はごく普通のお墓を、番組のために使用したので、眠りについたオジィ、オバァも騒がしくて困っているかも知れない」と言った後で、
「でもちゅらさんのお陰で、最近は3歳から5歳の人口が以前より増加して、これはファンの人達が島に嫁いで来たからです。あい、前に見えるのが嘉弥真島。小浜島もあの島も八重山は皆サンゴ礁で覆われてます。このサンゴのことを方言でウルマと言い、ほら例の波照間(はてるま)島を知ってますかね。この波照間島の名称は、果てのウルマの島という意味に漢字を当てたわけです。決して馬が果てる浄土ではない。」
 そんな解説を加えながらバスは小浜港に戻ってきた。ここで石垣に帰る私達を下ろして、他の観光客達は「ヤマハリゾートはいむるぶし」に向かい、昼食を取ることになっている。私達が運転手にお礼を言うと、バスは「はいむるぶし」に走り去った。ところでこの「はいむるぶし」、「南十字星」を意味する八重山方言で、小浜島を代表するリゾート施設である。1979年にヤマハが島の1/5もの土地を買い占めてオープンしたが、なかなか経営が軌道に乗らず、1996年にヤマハから分社して「(株)はいむるぶし」として経営再建計画を全うして、現在は良くも悪くも小浜島の顔となっている。その広大な土地にはホテルとビーチはもちろんのこと、プライベートプールやテニスコートが整備され、各種マリンスポーツが堪能でき、あまり広いのでゴルフカートを使用して移動するほどだ。おまけに隣接する別のリゾート施設「南西楽園ヴィラハピラパナ」には、宿泊所と共にゴルフコースが整備され、この2つの施設を持って「リゾート良いとこ小浜島」を売り出しているらしい。ツアーの皆さんは「はいむるぶし」のレストランで昼食を取ってから、港に戻って来るのだそうだ。私達は「はいむるぶし」どころではない。ガイドさんが石垣牛の店に連れて行ってくれると云うので、さっそく港から高速船に乗って小浜を離れた。帰り際に振り返ると、港の道路にあるレンタサイクルの店から「サーターアンダギー」と書かれた旗が、風に揺れて長閑にそよいでいた。ちゅらさん組みはちょっと名残惜しそうだったが、石垣島に舞い戻れば、いよいよガイドさんと合流だ。

石垣牛の店

「どうでありましたか。ロケ地を十分に拝見することが出来ましたか。」
 車に乗り込むとガイドさんが聞いてきた。思ったより沢山の隠れファンが紛れ込んでいたと話すと、「そうでありますか。私も実は最後まで見ていました。そして不覚にも感動しました」と言うので、眼鏡が「でももっと沢山のロケ地が見たかったのに、ちょっと早足で」と不平顔をすると、「それは次のお楽しみに取り置きするのがよいと思います。ロケ地は逃げませんから」と笑った。
 ガイドさんの運転で石垣島の市街地を抜けると、空港の近くに「石垣屋」という石垣牛の焼き肉屋がずっしりと構えている。開いた駐車場に車を止めて、改めて建物に目を移すと、沖縄の伝統的な家屋(かおく)を踏まえた建築が、赤屋根にシーサーを備え付けて、椰子の木の背景に控えている。檜(ひのき)造りのどっしりとした入り口をくぐると、高天井のロビー風玄関があり、風のよく抜けそうな開放された空間が、左手に向かって広がっていた。その中心部には大黒柱が高くそびえ、座席が一周張り巡らされているが、駐車場に面した窓際席は、半ば個室風に仕切られて、仲間内だけで料理を楽しめるという店構えだ。窓の外にはちょっとした縁側もあり、降りると芝生が植えられている。その先が駐車場だが、高くなって椰子の木があるから、ちっとも気にならない。ガイドさんは顔馴染みらしく挨拶をしているので、私達は一番奥の、広い窓が2つある角席(かどのせき)に腰を下ろした。
 さっそくメニューを開く。お薦めのコースと、石垣牛の焼き肉メニューが、美味しそうに並んでいる。超庶民派の私達には、なかなか大した値段である。一際庶民の目立つ緑シャツはメニューを見ながらぶるぶる震えている。冗談でやっているのか、心底財布が心細いのか分からない。遅れてきたガイドさんは、これを見て思わず笑ってしまった。「心配いりません。1,260円の『ビビンバセット』を全員で注文して、それとは別に私が焼き肉をおごって差し上げましょう」と提案した。
「夕飯も沖縄料理を堪能しますから、石垣牛は量ではなく味を楽しんで下さい。」
 なるほど石垣牛を目当てにしてビビンバセットは邪道だが、ガイドさんは夕飯をメインに考えているようだった。八重山に来てからすっかり図々しくなった私達は、おごってくれるの一言に、「本当ですか」「やったぜ」「嬉しい」「ありがとうございます」と素直に頭を下げて、拍手を持ってこの提案を歓迎した。まるで、親に連れられた中学生みたいだ。ところで、石垣屋は石垣牛の焼き肉屋である。石垣牛とは有名な肉なのだろうか。さっそくガイドさんに尋ねてみた。
「皆さんご存じの通り、和牛は純日本固有の牛ではないのであります。明治になって日本にいた牛達に外国の優れものを紹介して、無理矢理結婚させて改良しているうちに生まれたものです。そして肉専用の4種類の牛のうち、9割以上が黒毛和牛であります。」
 ご存じどころか、そんな話は今始めてだが、大人しく頷いておこう。
「そんな和牛に含まれる松阪牛も神戸牛も、ですからまったく牛の品種ではありません。多くは黒毛和牛であります。ただ仔牛の頃に買い入れて育てた、育成する場所と環境や餌などによって、松阪牛(まつさかうし)になったり神戸肉(こうべにく)になったりしているわけであります。しかもこの牛の名称は、特に厳しい規定があるわけではありませんから、日本には100を超える地域名産の牛達が、都道府県の2倍以上も平然として登録されているのです。そんな状況にあっても、石垣島は優れた牛の畜産地でありまして、この島から生まれた仔牛達が、各地の名産牛としてデビューするために、親元から引き離されてどなどなと売られていくのであります。つまり地域名産の牛には、石垣島出身という牛が沢山含まれているわけでありまして、これまでは貧しい生活を補うべく、このように親里を離れていた仔牛達が、最近になって食用牛のエリートとして石垣島で成長育成され、石垣牛として地元に花を咲かせる機会が増えてきたのが、この石垣牛なのであります。」
 早合点の緑シャツが驚いて「それじゃあ」と声を上げる。
「松阪も神戸も石垣も、全部品種は同じなら、大した違いは無いのに、ブランドで値段が釣り上がっているだけなのか、ちきしょう騙された。」
 眼鏡が笑って「だから、仔牛から先は育て方が違うのよ」と言うと、ガイドさんも「同じ両親の子供でも、引き離して違った文化で成長すれば、知らぬ他人の異邦人であります。牛達の世界でも、育成地の環境や運動のさせ方や、餌などの要因が重なり合って、その土地の味に染まっていくのであります。」
 緑シャツがそんなものかと納得していると、開かれた窓から風が吹き込んで、ぼんやり空を眺めていたベレー帽が、「私達に食べられちゃうために、あなた色に染まっていく牛達よ」とため息交じりに呟くものだから、一同吹き出してしまった。
 そこに「おまちどおさま」と店の人が料理を持ってくる。頼んでおいたオリオンビールを持ってくる。ガイドさんの財布から生まれた焼き肉の皿もやって来る。ガイドさんに「ありがとう」とお詫びをしてから、4人でオリオンビールで乾杯すると、彼は気にせずウーロン茶のグラスをジョッキに打ち付けてくれた。
 そこから先はよく覚えていない、あまり旨いので夢中になって食事をしているうちに、皿のものがことごとく腹の中に消えていた。特に的確に焼かれた石垣牛の味は想像の範囲を超えるもので、これもガイドさんが焼きながら給仕してくれるものだから、私達はただただ箸を進めた。最後に「まぼろしの石垣牛」という上等の肉を戴いた時には、口の中で極上のマグロがとろけるような食感が、肉の旨みを引き継いで、ああ、私達はあの一刹那、別の世界を垣間見て仕舞ったのかも知れない。
 全員とろけ終わって口をすすぐために手洗いに寄ると、仕上げのハブラシまで用意されていた。大変満足したので、ごちそうさまと挨拶をして店を出る。せっかくだから写真に収めておこうと全員でカメラを取り出すと、見計らったように別の客が庭に出てタバコを吸い始めた。店を取ろうとすると邪魔な頭が一緒に入るので、結局このあんちゃんは全員の写真の中で、たった一人のヒーローになってしまったようだ。さらばあんちゃん、タバコは貧しい嗜好品だからもう卒業しなさい、そんな思いを胸に抱(いだ)きながら、私達は車に乗り込んで、いよいよ石垣島観光に向かうのであった。

2006/06/05
2006/08/27改訂
2006/09/21再改訂

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