その4(謎のボツ原稿)

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ボツ原稿

・自分で作成しておきながら、眠っていたのか、綺麗さっぱり忘れて、しばらく後にファイルの中から発見したもの。2回目の旅行前に作成中だったのが、旅行から帰ってきて新たに作り直している間に、すっかり忘れられたということらしい。したがって、旧原稿と違って、全然違う物語が進行している。自分でも不可思議だった。タイトルも昔のままだ。

竹富島

竹富島へ

 八重山観光フェリーサザンクロス8号。大原港に遣ってきたフェリーに乗り込んだ私は、今度は快適な室内座席に腰を下ろし、外音を遮断した静かな船内でお昼の眠気に身を任せていた。隣ではしゃぎ気味の緑シャツが「着いたら起こしてやる」と言うから、少し眠ることにしよう。死んだ私の婆さんも「眠気だけは我慢してはならんね。休みたい魂の合図だからね。」と言っていた。最も婆さん、そうやって眠っているうちに、ある日ぽっくり行ってしまったのだが、今頃は天上で大好きな茶漬けでも食っているだろうか。私も茶漬けが食いたくなった。食いたくなったら我慢はしない。お茶を沸かしてお茶漬け振り掛け箸に手を伸ばし、頂きますと唱えたところ、突然「おい」と大きな声がする。ビックリして目を開けたら、竹富島に着いたという。私は何時のまにやら夢の世界を彷徨っていたらしい。さっそく心持ちを現世に戻して、竹富島に降り立って見せた。すぐそこに何台かのワゴン車が止まっている。私たちはワゴンで観光客を運んでくれる島人のお世話になって、竹富島を周るのだそうだ。ワゴンには緑シャツと、少し前知り合った「ちゅらさん」憧れ組みなどが同じ車に乗り込んだ。ここで少し竹富島について説明しておこう。
 珊瑚礁に覆われた竹富島は、珊瑚礁がなれの果てに石灰岩となり隆起した島だ。ところどころに石灰岩が小さな山のようになっているため、その高台に立つと美しい島の景色が一望出来るが、基本的には周囲8kmほどの川もない平たい煎餅のようなものと考えて貰えれば差し支えはない。そのため農耕には適さずに、島の民は西表島の東岸などに出張して水田開拓を行なって船で帰宅していた事があるそうだが、実は昔八重山の行政府があったことがあるそうだ。まあそうはいっても、大繁盛して他の島々を従えていたという事ではない。ただ竹富島の西塘(にしとう)と言う人が、首里の政府からお役目承って16世紀前半に八重山統治を開始したが、1543年には不便のため石垣島に役所を移したというのが真相である。この人は村の優れものとして死後奉(まつ)られ、それが西塘御嶽(うたき・島の言葉ではオン)となったそうだ。その呪いという訳ではないが、今日竹富町を代表するはずの竹富島には、町の役場は置かれず、何故か石垣島に置かれている。しばらく走るとワゴンの運転手が解説を始めた。何時のまにやら平たい作りの赤屋根を持つ家々が、しっかりした石垣の向こうに顔を出し始めた。集落の中に入ったようだ。どの家も互いに広い間隔を開けて、ゆったりとした庭を持ち、屋根の上にはシーサーが置かれている。庭は花や植物の豊庫で、家々を囲む石垣と、植物や木の中に家が建てられていると言ってもよい。台風の通り道である八重山地方には、かつてこんな集落がいろいろな場所にあったのだろうか。家を守るための石垣と、防風林を兼ねた庭の木々、風の影響を逃がすための低くなだらかな屋根に、風を通過させにくくする曲がりくねった道。人々の智恵を動員し、また屋根にはシーサーまで乗せて、神のご加護を待つ。「自然と生きる」などという言葉を思い浮かべて、うっかりまじめに考えてしまうほどだ。運転手は気にせず話を進めた。ただしどんな方言を使っていたのか、まるで思い出せないから、意味だけ取って標準語に変換するから、悪く思ってはいけない。「だから、運良く第2次大戦の戦火を免れたわけで、多彩なシーサー、沖縄で伝統の赤瓦の屋根、琉球石灰岩の石垣といった姿は皆、古き良き沖縄の姿を留めているとされるんです。今では国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているのどで、職人の積んだ石灰岩の石垣は漆喰で固めてもいないのに、どんな台風にも負けないと言われます。ちょうどこのワゴンは竹富島の西側にある竹富港から、南西にあるカイジ浜に向かって集落を突き抜けている恰好になりますが、人の住む集落はだいたい島の真ん中に固まっているんです。このずっと左手の奥の方、島のほぼ中央に位置するあたりにンブフルの丘という高台があり、その北側に私たちの通過中のアイノタ(東集落)、インノタ(西集落)が連続的に住宅地を形成、ただしそれ以外にもンブフルの南側に仲筋(なかすじ)という小さいですが集落があります。ほら、あそこにポストが見えるでしょう、あそこがこの島唯一の郵便局ですよ。」
 「人口はどのぐらいあるのかい」と、やはり一緒のワゴンに乗り込んだ男性が質問する。この男は、カメラマンのように一眼レフで目を光らせながら写真を撮る40代半ばの妻連れである。私は即座に「一眼レフ」というあだ名を付けて遣った。一眼レフの質問に、「300人ぐらいです」と答えた運転手は、物足りないと見えて付け足して言うには「これでも第二次大戦後の一時期は、島に戻る人々で人口増加に転じたこともあるのですがね。今では若い人は出て行くし、ご老体は御亡くなるしで、やはり過疎化の波は避けられません。でも、島には小学校も中学校もあるのです。」
「でも、観光客が来るだろう。」
「来ますが、皆日帰りです。10軒ほど民宿もありますが、長期滞在者はほんの一部です。ワゴンに乗って町を通り過ぎて、砂浜を見て帰ってしまうばかりでは。」
「駄目かね」
「いえ、もちろんそれでも来てくれたには違いないんですが、この島を知るためには、もう少し留まって落ち着く人も、増えて欲しいです。」
「それじゃあ、今度はゆっくりこようかね。」
「ええ、お待ちしていますよ。」
「キャンプは出来るかね。」
「キャンプは駄目駄目です。」
「そうかね。駄目駄目かね。」
といった具合で、町中唯一の散髪屋などと話を聞きながら集落を越えていくと、途端に青々しい木々の中に紛れ込んだ。人の住む気配は尽きて、ワゴン車は砂と砂利の混ざったような道を、両脇に覆い茂る亜熱帯の濃い緑の植物を抜けていく。2人組みはさっきからあちらこちらを指さしてはささやき笑いあっている。緑シャツと私はそれぞれに外を懸命ににらめている。一眼レフだけは相変わらず話の方が興味があるらしい。
「島は歩いて回れるかね。」
「ええ、暑さにもかかわらず急ぎ足で回れれば、半日で1周出来ます。自転車も貸してますし、観光用には水牛車もあります。それから、このワゴンもですね。」
「水牛車って、あの由布島へ行くときのようなかい。」
「あれ、お客さん達、あの水牛車に乗ってきたのですか。それじゃあ、もうここでは乗らなくていいはずだ。なに、あんなもの、慣れれば遅いばかりでちっとも楽しくありませんよ。」
「おやおや、そんな事を言ってしまっていいのかい。」
「構いやしません。さあ、見えてきました。」
ワゴンは車の止められる砂の広場のような所で横付けし、私たちは少し暗いワゴンの中から、急に日の照った原色亜熱帯植物と空の色に驚いて、目をぱちぱちさせている。「ねこだわ。ネコ。」急に大きな声を出して赤鞄の眼鏡女が小走りて、ベレー帽が「にゃんこ」と答えて後を追う先に、2匹の猫が木陰にうずくまって眠っている。なんでも、竹富島には野良だの飼い猫だの沢山いるそうだ。猫に向かった2人が向こうで「わあ」と言うから、追い掛けて言ってみると、そこがカイジ(皆治)浜へ向かう森の出口になっていた。急に現われる珊瑚礁内の緑ががかったような青い澄んだ海が、潮風と同時に広がっている様子は、確かに声を上げたくなるほど美しい。さっそく皆それぞれにカイジ浜に降りた。このカイジ浜は、別名「星砂の浜」とも呼ばれ、「星砂」や「太陽の砂」という星形をした小さな砂が広がっている。試しに砂を握りしめて手のひらに転がしてみたら、そんな形の砂が紛れ込んでいた。別のワゴンに乗り込んでいたツアーのガイドさんが、待ってましたと解説を買って出た。「この小さな星の形をした神秘の砂は、本当は大型単細胞動物で殻を持つアメーバーの仲間「有孔虫」が死んで、その後に殻だけがのこされた姿なのであります。このアメーバ自身も、そのまま星砂(ほしずな)や太陽の砂と呼ばれるのですが、学会などで使用する名称としては、それぞれ「バキュロジプシナ」、「カルカリナ」と呼ばれるのであります。試しに浅場にある海藻などを懸命に探し回ってごらんなさい、まだ生きている星砂の生活する姿を見つけることが出来るでしょう。星の形をしたもの以外にも、角ばった所のまるでない円い殻を持つ仲間もいて、これは「ゼニイシ」と呼ばれます。残念ながら、最近は観光客の乱獲によって星砂が乏しくなって来ている悲しい事情もあり、沢山お持ち帰るよりは、心のスナップに焼き付けて欲しいと、私はそう思うのであります。」
遊泳は禁止。
島には30ちかい御嶽(うたき)があり、様々な神をまつっている。中に入っちゃ駄目駄目。民宿が約10軒あるが、キャンプは禁止されている。

2006/03/28作成途中だった

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