沖縄の歴史、覚え書き

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旧石器時代

 さて皆さん、新生代第4期(今日もここに含まれる)の更新世(こうしんせい)という言葉がありんす。これは氷河期と間氷期を繰り返していた180-160万年前から1万年前頃の時代で、この時期すでに日本列島の大まかな形は形成されていたが、氷河の具合で海面が大きく上下することによって、大陸と陸続きになったり離れたりしていた。例えば13万年から10万年前の時期も間氷期を向かえて大陸と離れていたが、その後最も今日に近い氷河期が訪れ、再び日本列島は大陸と繋がる時代を迎える。これを乗り越えて最後に氷河期から間氷期へ移行したのが約1万年前頃だとされているが、この1万年前に向けて次第に気温の上昇と氷河の後退による海面上昇が時間をかけて進行し、日本列島南側の大陸へ陸続きだった部分からは、九州の南の方に沖縄、台湾、中国へ続く一連の南西諸島が成立し、また北方では宗谷海峡が約1万3000年から1万2000年ごろに誕生し、日本列島は完全に大陸と切り離され、今日のような島国となった。この更新世以後の時代を、新生代第4期の完新世なんて読んでみたりなんかする今日この頃であるが、実際は日本列島が大陸から分断される前からこの日本の大地では人々が生活し、まあ少なくとも3万年前には人類の活躍があったことが分かっている。沖縄でも那覇市の山下洞人が3万2000年前の骨だとされ、石垣市にも3万年前のものだとされる米原人などが掘り出されているわけだ。それに具志頭村(ぐしかみそん)の港川で出土した港川人も居て、これは整った形の旧石器人達の骨として教科書にも乗っているが、大分下って約1万7000年前のものだ。
 ここまで調べて、さらに先に進もうとしたところ、だんだん路頭に迷って来た。まずどこかの説で、日本列島が大陸と切り離される前に、恐らくベーリング海を越えてアメリカの方に渡ってしまったモンゴロイドであるインディアンと同じように、北方系モンゴロイドの皆さんが日本の方にも押し寄せてきたので、彼らが中心的人種として縄文人となり、大陸と切り離されることもあり独自の文化を漲らせて縄文時代が開始する。しかし今度は中国や朝鮮の方から南方系のモンゴロイドが九州の方に住み着いて、彼らが元になって弥生人を形成したりしながら日本列島の歴史時代に突入していくという説明が書いてある。しかし別のところには、氷河期で海面が下がったためにインドネシアの方にスンダランドという大きな大陸が張り出して、かつてそこに住み着いたモンゴロイド達が、後になってフィリピンやら沖縄の方に進出して縄文人の原型となったという説もある。さらに後から日本に来た方が北方モンゴロイドだとか、北方南方混ざったモンゴロイドだから分類に意味がないとか、何だか調べると大変なことになるので、とにかくいつの間にかいらっしゃった縄文人による縄文時代としておこう。

縄文時代の頃

 さて、本土では最古の土器が1万6000年前まで逆上るとも言われる縄文時代。氷河期から間氷期への移行による気候の温暖化と緑豊かな日本の形成が引き金になって文明が花開いてしまった縄文人達は、日本全国で大いに栄えのさばった挙げ句、以前では紀元前300年頃とされ、最近では紀元前8C以前にまで逆上るかも知れないとされる弥生人達の文化に移り変わって行くことになる。そんな縄文時代だが、沖縄では貝塚時代前期という区分がされ、一方本土が弥生時代に移り変わった以後は、沖縄では貝塚時代後期と呼ばれている。そして奄美諸島から沖縄諸島までは、縄文時代前期のうちに九州から縄文文化が流入して発展し、本土と同様に縄文時代と呼んでも構わないぐらいだが、一方で先島諸島の方はまるで縄文文化に影響されず、台湾やフィリピンの方と結びついた独自の文化があったと考えられている。例えば沖縄諸島では本土に遅れて紀元前5000頃には縄文土器の影響を受けた土器の使用が開始されたのに対して、先島諸島では長らく土器の使用がされないという大きな断絶が見られるそうだ。この縄文文化が流入した時期、沖縄諸島の方では貝塚を持つ集落を中心に海から離れた内地での集住が行なわれ、本土や大陸と交易を盛んに行なう時期とあまり見られない時期を交替しつつ、本土で大和の国が形成され平安時代が終わる頃まで、大和や大陸との交易はあっても文化を根本変化させるほどの侵略や進出はなく、この貝塚時代が長らく続いていくことになった。そうは言っても、本土の方で弥生時代に突入すると、九州と交易を行なっていた沖縄諸島でも弥生式土器が見られ、鉄器や銅器の出土が増え、こうした物を交易で獲得しながら、相変わらず狩猟を中心に、網を使った漁業なども行なわれつつ貝塚時代後期を迎え、この時期には人々の生活圏も内地から海岸近くに移っていったとされている。この後期貝塚時代に突入しても、先島諸島の方はやはり沖縄諸島とは切り離された文化圏を形成し、土器なんていらない文化で押し通している。

農耕の頃

 そんな貝塚時代にも、恐らく紀元前8世紀頃には農耕の開始が見られるが、ずっと遅れて12世紀頃になると本格的な農耕が行なわれるようになった。この農耕社会の時代から、薩摩の島津氏が沖縄統治に首を突っ込む本土の江戸時代初期、1609年までの間を古琉球と呼ぶそうである。この時代各地に按司(あじ)と呼ばれる有力者が並び立ち、砦(ぐすく)を持って互いに競い合うという「グスク時代」が始まり、やはり農耕文化の到来は本土と同じ道を辿るものかと考えさせる。そんな農耕の頃、13世紀にはひらがなが大和から流入し文章に使用されるようになる一方、中国・東南アジアと活発な交流を行ない、大陸文化の大きな影響を受けている。

三山時代頃まで

 後に琉球王朝が自らの系譜を正統たらしめるべく編纂した「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」、「中山世譜(ちゅうざんせいふ)」、「球陽(きゅうよう)」といった歴史書に登場する舜天(しゅんてん)や、英祖(えいそ)といった伝説の琉球王朝初期の王達は、実際は琉球王朝に連なる有力者である按司(あじ)であったと考えられている。その琉球王朝が大和王朝と同じ遣り口で自らを正統とする神話と歴史を築き上げた伝承によると、阿摩美久(アマミキヨ)という神が沖縄の島々を築き、島に1対の男女の神を地上に送り、この神達の間に生まれた子供達が元になって島々の繁栄の礎(いしずえ)が築かれるが、特にその子供達のうち長男は国王の役割を授かり、その子孫達は天孫と名乗り天孫王朝が開始する。平和の世がとこしえに続くかと思われたが、しかし遂に国乱れて12世紀後半に各地で反乱が起こると、これに対し舜天(しゅんてん)という按司が国内の危機を納め王となり、続いて3代後には天孫の末裔とされる英祖(えいそ)が王の座を譲り受けて13世紀を納めたとされている。そしてこの英祖の時に南宋から仏教が伝来したという逸話も残されているようだ。
 さて、実際は彼らもまた有力豪族の一勢力に過ぎなかったらしいが、やがて14世紀にはいると沖縄本島では特に大きな有力者達が三つどもえで勢力争いを繰り広げる、小さな三国志時代を迎えることになった。これが約100年間続く「三山時代(さんざんじだい)」であり、沖縄の北部・中部・南部にそれぞれ北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)という勢力が中小豪族を配下に納めつつ互いに争い、それぞれが中国の明王朝に朝貢を行ない正統性を競い合ったが、やがて中山の下にあった佐敷の按司(あじ)だった尚 巴志(しょう、はし)(1372-1439)が中山王の座を奪い取り、感心にも?自分ではなく父親を中山王となし、首里を首都に置き勢力を拡大する。1416年には北山も討ち果たし、1422年には父親に次いで自らが中山王として即位、そしてついに1429年(最近では1422年頃とされる)に南山を亡ぼして、この間先島諸島にも勢力を拡大しつつ、ついに琉球を(というか沖縄本島を)統一。第一尚氏王朝を開始した。

琉球王朝

 王の名称や細かい経緯は私の好奇心の及ぶところでないが、この第一尚氏時代には15世紀半ばに始めて日本の神を祭るべく神社が建立され、一方で明との交易も栄えたが、1469年に恐らくネロ帝もびっくりの駄目王に対してクーデターが行なわれ、農民から臣下に出世していた金丸(かなまる)が王となった。彼は即位後に尚 円(しょう、えん)(在位1469-1476)と名乗り、これを持って第二尚氏王朝時代が開始する。そして王朝は彼の息子のマカトタルが尚 真(しょう、しん)(在位1465-1526)として即位すると、地方の按司を参勤交代もビックリの首里に住まわせるなどして中央集権を確立し、さらに秀吉もビックリの刀狩りを行なう一方、租税を拒み服属拒否の意を表した先島諸島の有力者オヤケアカハチを、服属の道を選び琉球王朝の臣下となった八重山の中曽根豊見親(なかそねとぅゆみや)を先陣に遠征し、ついに1500年討ち滅ぼし、さらに1522年には与那国島までも征服、その存在は怪しいが「与那国で一番の有力者だった女傑サンアイ・イソバここに散る」という一幕が、征服物語の内にあったとも言われている。さらに先島支配を固めるべく蔵元(くらもと)と呼ばれる役所を置くなど、先島を含めた中央集権王朝を確立しつつ、明貿易に日本本土との貿易、特に明自体が諸国との海上貿易を閉ざしていたので、明と東南アジア諸国や日本との中継ぎを行なう役割を担いつつ、東南アジア諸国とも貿易を行ない大いに栄えて見せた。ちなみに琉球という呼び名も中国側から頂いた名称だ。一方沖縄と言う言葉は、島人達が自分達をウチナーと呼ぶ名称から、やがて本土で沖縄と呼ばれるようになったそうだ。
 ところが16世紀後半に入ると明は海外との貿易を日本を除いて許可したので中継地点としての琉球の必要性が薄れた上、いよいよヨーロッパの船が大航海時代を本格化させのさばり始めたりと、新しい波が押し寄せて来た。ついに1570年には東南アジアとの貿易が終わりを告げ、その頃日本の薩摩では戦国時代の勢力拡大に突き進む島津氏が南方にも目を向け始め嫌な予感がする。そんな危機的な状況にあって、ヨーロッパではレパントの海戦が開かれトルコ軍を見事討ち果たした記念すべき1571年、琉球王朝はそれでも何とか奄美諸島を勢力下に納め、南西諸島の大部分を勢力下に納めることになった。

薩摩藩の勢力が

 さて、本土はようやく戦乱の世を抜けて1603年に江戸幕府が開かれると、幕府は明との服属的な朝貢貿易(明王朝の配下として貢ぎものを送るという形での貿易、この形を取れば明王朝はお礼の品として相互に貿易が行なわれる)は良しとせず、でも貿易はしたいというジレンマを解消すべく、琉球を貿易中継とする道を模索。江戸幕府への服属を良しとしない琉球王朝に対して、1609年薩摩藩となった島津氏が戦争を仕掛け、慰めの言葉もないほど見事に琉球王朝を屈服させてしまった。これをもって琉球王朝の存続は認めるが、代わりに薩摩藩の監督下に置かれるぞ、という切ない事態に陥った。琉球は石高12万石とされ、「税をよこせ!」と脅す薩摩の声に、琉球王朝は沖縄本島では反乱因子を作りたくないこともあってか、先島諸島に対して人頭税を課して「税をよこせ!」と叫んでしまった。この「税をよこせ!」の負の連鎖が、最後に民衆の悲劇を生むことは何時の世でも同じである。おまけに連鎖の上位に位置する薩摩藩、琉球王朝と清が行なう貿易の実権を握ることによって、直接の税どころではない阿漕(あこぎ)の利潤を貪って、後に西郷さんを誕生させるほどの悪徳・・・じゃなかった、豊かな藩力を高めていったのである。おまけに遙かメキシコやコロンビアから流れ流れて中国に伝わっていたサツマイモが、17世紀に琉球で栽培され始め重要な作物となり、さらにこれが薩摩藩に伝わって琉球芋などと呼ばれて栽培されているうちに、今度はお江戸の人々が薩摩の芋だと叫んで「サツマイモ」と呼ばれるようなたわいもない出来事もあり、ついでにサトウキビから黒砂糖を作る方法も17世紀に確立されて、琉球王朝の貿易の重要生産物となっていくが、サトウキビから生まれる貿易商品価値は今日も健在である。

明治時代に突入する頃

 やがて江戸幕府が諸外国の船に右往左往する頃には、巨大な中国が負けたというアヘン戦争(1840年)に恐れおののいた江戸幕府によって、琉球での対英仏通商貿易が許され、ついに1847年に海港した。さらに1853年には例のペリーさんが江戸幕府と交渉する前に、琉球に立ち寄って大統領の親書を突きつけて、琉球王朝は偽の国王などを立たせて誤魔化そうと図ったようだが、結局日本開港後に琉球との通商条約も結ばれることになった。そして黒船事件で江戸幕府が崩壊して明治政府が誕生すると、1871年に廃藩置県という恐るべき政策がなされ、日本は中央集権の道をひた走りだすのである。琉球王国はこれにより滅亡の危機を向かえたが、取りあえずは王朝政府が納める琉球藩として置こうじゃないかという事になった。これに怒ったのは清朝である。ふざけちゃ行けない琉球は清朝に服属して貿易していたのだ勝手に話を進めるなと清朝も琉球所有を叫ぶので、これに対し明治政府は台湾原住民が琉球人を殺害したとして1874年に台湾に出兵しつつ、1879年には琉球を一度鹿児島県に編入し、その後に沖縄県とした。これをもって完全に琉球王朝は滅びてしまい、沖縄県が誕生することになったが、王朝の士族達はことごとく仕事をなくしてふて腐れてしまい、女性の皆さんだけが一生懸命働いていたという噂も残されている。この一連の事件を琉球処分と呼ぶが、こじれた清朝と日本の関係は米国の仲介で話し合いが行なわれ、一度は先島諸島の清朝への割譲ということで合意してしまった事もある。今となっては幸運な事だが、清朝の方で不満漲って最後の土壇場で調印なさらず、そのうち1894年に日清戦争に突入して、日本が勝利したために、このプランは行方知れずになってしまった。

その後

 こうして日本の一つの県となった沖縄だったが、本土の政策には置き去りを喰らって旧態依然の体質のまま、先島の人頭税などに至っては1903年になって漸く「地租条例」という物が政府から公布され廃止となったぐらいで、その他政府の近代化政策も遅れ気味に採用されつつ、しかし近代化の効果は人口の爆発的な増加として現われ、出稼ぎ住民が外国を含めて各地に移住するようになる。その後30年代の恐慌では沖縄も危機的状況を迎え、毒があって元来食べられないソテツまで食用にして「そてつ地獄」という言葉まで生まれる。40年代の太平洋戦争では悲劇の舞台となり、米兵が上陸して、遣ってきた大和が沈んでしまったり、八重山地方では45年に多くの島々の住人が西表島などに強制疎開させられて、結果として戦死者以上のマラリア死者を出す一時期を乗り越え、戦後はアメリカの統治となって、1972年にようやく日本に復帰するという近代史については、皆さんウィキペディアなどを読んで各自調べてみて下さい。

沖縄の歴史が書かれた有用なリンク

<<ウィキペディアの「沖縄の歴史」>>
<<琉球文化アーカイブの「沖縄の歴史」>>

2006/04/30
2006/05/03改訂

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