八重山の思い出、旧原稿

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旧原稿覚え書き

・運良く残っていたものをコンテンツにして、以後の作成の参考にしようという覚え書き。下の「注意」以下しばらくが8月11日の分割より前のオープニングになっている。

注意

 管理人の旅行の思い出を土台にした小説風味。備忘書きだけは旅行から帰宅後早い内に書き留めたものの、全体はネットを徘徊しつつ3年後の2006年に作製しているので、非常に曖昧な、したがって思い違いや、間違いがあると思われます。さらに2006年にもう一度旅行に行ったので、これをもとに混合中。おまけに途中から脱線して思い出もナーベラーも関係なくなってきたという・・・初日にはバラビドーとバンナを追加する可能性も。

4月吉日、初日

 石垣島の空港には滑走路が1500mしかない。それが羽田空港(東京国際空港)発の飛行機が小型機である理由で、そのため貨物はおろか燃料さえも満載して離着陸が出来ないため、観光客の輸送効率が悪くパイナップルやサトウキビの貨物運搬さえ効率的に行えないのだそうだ。旅客機のソファーに寄り掛かってぐっすり眠っていた私が目を覚ますと、機内放送が「揺れますのでご注意下さい」と決まった台詞を述べている最中だった。そう、この短い滑走路の為に、小型機でさえもぎりぎりの減速を行なわなければ、哀れ着陸場所を踏み外してしまうのである。観光と特産品による経済効果に島の復興を委ねる推進派は、新空港整備の見直しを図る政府を説得してでも、新空港建設のプランを邁進している。彼らは島を豊かにし人を呼び島人の生活を潤すために計画を立てているのである。一方、自然の豊かさこそ生活の源だと考える反対派もまた、島を心から愛する島人達に他ならないのだ。よそ者の私はそんな葛藤には気も付かず、羽田を後にして約3時間の空の旅に別れを告げ、まだ見ぬ石垣に期待を膨らませて席を立った。第2次大戦中に日本軍の軍用空港として開始した小さな石垣空港内を抜け、出口に近づくと不意にクーラーの冷却を押しのけて、もわっとした外気が流れ込んできた。今は4月半ば、東京はまだ肌寒く、曇り勝ちの春の都内を上着を着て羽田に向かったのだが、熱い外気に誘われて石垣空港を出ると、25度を超える初夏の大気が、17時を過ぎてもまだ高く残る太陽に照らされて、湿度の高い湯気を立てているようでもあった。この北緯24度20分に位置する石垣空港は、東京の羽田空港の35度33分と緯度が10度以降開き、そのため遙か南にあるこの地は、亜熱帯性気候に所属し、4月の平均気温も東京が14度であるのに対して、石垣島は23度、ほとんど10度ぐらい離れているのである。そして同じく羽田の経度が東経139度46分に対して、石垣が東経124度11分。この15度を超える経度の差は、必然的に日の出日の入りの時間の差を生み出し、日本標準時間(Japan Standard Time略してJST)を担う兵庫県明石市の135度より東に位置する羽田に対して、およそ1時間ぐらい日の出が早く、同じくらい日の入りが遅いのだそうだ。
 さて、沖縄県に所属している沖縄の先にある宮古列島や八重山列島を合わせて、先島(さきしま)諸島と言う。これに含まれる石垣島は、宮古島を中心とする宮古列島のさらに北西に位置し、石垣島を中心とする島嶼(とうしょ・・・大小の島々)をまとめて八重山列島、または八重山諸島という。私は今まさに八重山の人間社会の中心地に降り立った訳だ。この八重山の名は、この地域に大小31もの島が八重に、つまり幾重にも重なっている事から生まれ、大きな島として石垣島・竹富島・嘉弥真島・小浜島・鳩間島・黒島・西表島・波照間島・与那国島などが点在、石垣島と各島々を結ぶフェリーや高速船によって、人と物が行き交い、最近ではすぐれた観光地としてそれぞれの島へとお客を運んでいる。石垣島は那覇市からの距離が410km以上もあり、ざっと東京と大阪ほども離れている一方、地図を見るとほとんど台湾に隣接しているような感じで、距離も台湾までが270kmで、昔は海人(うみんちゅ)達が台湾に向けてサバニというカヌー船で貿易を行なったりしていたという。そんな位置関係もあり、明治時代には中国との交渉で八重山を引き渡すような話も検討されていたことさえあったが、今日では目出度く沖縄県の所属となっている。沖縄本土よりよほど近くにある、八重山諸島北方の尖閣諸島(せんかくしょとう)が領土問題で中国ともめている事を考えると、我が国で無かった可能性も十分にあったのだろう。この美しい島々が日本語文化圏に留まったことに感謝しつつ、味気ない行政区分について見てみると、石垣島は沖縄県石垣市、与那国島は八重山郡与那国町、ほかの島々は八重山郡竹富町に所属している。ヤマネコでお馴染みの西表島は、大きさの点では西表島が圏内2番目だが、人の住まざる世界が広がり、少し前まではマラリアに掛かりやすい過酷な環境下にあった事もあり、圏内3番目の石垣島が八重山諸島の中心的な島になっているわけだ。もうしばらく風土について書き足してみよう。
 亜熱帯海洋性気候は年平均気温を24度、冬でも平均18.3度の温暖な環境を提供し、海洋に浮かぶ島々の環境は、同時に海洋性気候であり、黒潮の温かい水が付近を流れ水温は冬でも20度以上を保つこともあり、湿度が高く冬に雨がよく降るが、冬の気温が高温に保たれ、また夏の暑さも一定以上は海の影響で高くなりにくく、気温差が激しくない特徴が見られるそうだ。石垣島では3月に海開きが行なわれ、ゴールデンウィーク直後から梅雨入り、6月半ばには明けてしまう。7,8月は最も熱く、8月は台風が最も多く接近する。10月に入ると、さすがに秋の予感。黒潮の暖かい海水の影響下にある外海は藻類がそだたず、プランクトンも生息せず栄養が乏しい海は、しかし島周辺にサンゴ礁地帯を海だし、珊瑚を中心とする食物連鎖の密度の高い回転により、珊瑚の海では生物たちの楽園が広がっている。石垣島と西表島に挟まれた海も、石西礁湖(せきせいしょうこ)と呼ばれる珊瑚が広がる波の静かな海が広がっているのだ。  そんな石垣島に降り立った私だが、4月半ばにして25度を超える気温と高めの湿度が亜熱帯性気候の歓迎をバスに乗り込む私に送りつけてくるなか、1日目の宿泊所となるホテル日空八重山に向かった。10分ぐらいでホテルに着くと、まだ落ち着くには時間が早い、さっそく荷物を預けて向かったのは、石垣島鍾乳洞である。まだ沈みそうにない太陽が、薄黒く色を入れた窓越しに横から照りつける中を走る観光バスの中で、ツアーを仕切るガイドさんが鍾乳洞について長い話を聞かせてくれた。このガイドさんは沖縄のガイドではなく、私の参加するツアーのガイドであるから、当然沖縄の言葉は喋らないが、変わりに一風変わった話し方をする。
 「そもそも、私たちの今走っている大地、この石垣島は、珊瑚礁が隆起して出来た島でありまして、これから見ていただく鍾乳洞も、地殻変動や地震津波などで裂けた洞窟が、亜熱帯性気候独特の沢山の雨水に浸食され、石灰岩が解かされながら形成されていったものなのであります。つまりは雨に含まれる二酸化炭素が、非常に長い年月を掛けて、石灰質を解かしていった結果出来たもので、この鍾乳洞の主な形成は1万年前にヴュルム氷河期が終わりを迎えるよりずっと前、およそ20万年前から5万年前に行なわれたと言います。ですから、4万年前頃に始めて我々の直接の先輩にあたる新人類、つまりホモ=サピエンス=サピエンス属の、クロマニヨン人などが登場するよりずっと早く、この鍾乳洞は誕生したといえましょう。沖縄は珊瑚の多い地域ですから、その主成分である石灰で出来た鍾乳洞もすなわち大変多いわけでありまして、大小100を優に越えると数えます。例えば皆様お馴染みの沖縄本島にある玉泉洞(ぎょくせんどう)などが有名な所ですが、あの洞窟は全長約5000mにも達し、日本一長い洞窟と言われる岩手県の安家洞(あっかどう)の持つ12000mには遠く及ばないものの、山口県にある秋芳洞(あきよしどう)の持つ3700mよりもずっと長いのです。ただし、まあ、観光洞としては秋芳洞は1kmにも達しますから、450mの観光ルートを持つ石垣鍾乳洞よりはずっと長いわけでありますが、しかし、しかしです。はたして観光優先がすべてなのでしょうか。石垣鍾乳洞の持つ、幾分味気ない照明、そして観光ルートの短縮は、決して観光客へのアプローチの不備を物語るものではなく、開発を必要以上に行なわず、少しでも自然のままに保存しておきたいという、環境への配慮に他ならないのであります。」
 そんな熱弁を聞きながら、バスは止まる。止まれば降りるに決まっている。さっそくまだ明るい駐車場を抜ければ、ちょっと先になにやら竜宮城を形どった建物がのっそりと建っている。これが、レストラン竜宮とおみやげ屋さんを抱える石垣島鍾乳洞、またの名を竜宮鍾乳洞というそうだ。とにかく入り口を抜けて、鍾乳洞へ向かうと、突然「おーりとーり」と書かれた謎の看板が目に付いた。「おーりとーり」とは何のことだが知らないが、知らないでも困らないから尋ねもしないで鍾乳洞に降りていった。何でも後から知った話では、石垣島では「いらっしゃいませ」の事を「おーりとーり」と言うのだそうだ。沖縄本島では「めんそーれ」だから、島が違えば随分違うものである。なんでも同じ八重山でも島が異なると例えば小浜島では「わーりたぼり」と島それぞれに異なり、離れて宮古島ではどうも驚く「んみゃーち」と「ん」から始まる言葉で「いらっしゃいませ」を表わすのだそうだ。沖縄の方言は島々によって大きく異なることを知らされたのは、これが最初だった。  夕方とはいえ原色豊かな竜宮入り口の豊かな植物を横目に、階段を下ると鍾乳洞の入り口がポッカリと開いている。足を踏み入れて急に暗やんだ世界に涼しい照明が照らす視界の変化は妙だ。歩きつつ目が慣れるにしたがって、様々な歪み曲がったまま丸みを帯びたような石灰の柱だの、つららが並ぶ中を、狭い歩道がジグザグと暗闇を下るよう。私も秋芳洞だの、沖縄本土の玉泉洞などいろいろ巡ったことがあるが、確かにここの照明は非常に質素なもので、洞窟自体も派手さのない、素っ気ないたたずまいで、偶然通りかかった人々に自然の様をさらすように、屈託のない姿で広がっている。それが返って普段着の親しみを私に感じさせるのだろうか。幾分意味不明な感慨を込めながらさらに奥に進んで行った。観光ルーツには水流豊かな地下川が流れている訳でもなければ、段々畑の石灰皿が大きく並び広がる訳でもない、ところどころ露骨に工事中であったり、照明が味気ない白色蛍光灯の場所もあった。それでも上から釣り下がる「つらら石」や「石柱」などが立ち並び、特に下から生えたような「石筍(せきじゅん)」が目に付く。あちらにも、こちらにも、石灰の岩からニョキン出ているので、刈り取って煮て佃煮でもしたくなる。実は石垣島鍾乳洞は、日本一「石筍」が多いとされる鍾乳洞だったのだ。ところどころに説明書きがしてある。
 これらをまとめて簡単な説明を加えると、この鍾乳洞が始めて本格調査されたのは、昭和48年から50年にかけてであり、その後観光用に開かれたのは大分下って平成6年になってからだそうで、ここの鍾乳石は100年間に6mmから10mmも大きくなる日本一成長の早い鍾乳洞だそうだ。成長が早いとはどういう意味だろうか。そもそも鍾乳洞というのは、例えば石灰岩の地層に様々な条件で亀裂が走り、そこから二酸化炭素を含んだ雨水が、石灰岩を浸食し空洞化し、同時に解かされた石灰岩は、流れながら一部が再び鍾乳石となって、形成されていくのだが、石灰を豊富に含んだ水滴による鍾乳石の形成が、非常に早いと言うことである。石灰、石灰と繰り返すので、余計なお節介を焼いておくと、そもそも石灰岩とは、石灰つまり炭酸カルシウム(CaCO3)の殻を持つ珊瑚やら石灰の殻を持った有孔虫の死骸などが大地の圧力で岩となったもので、それ以外の堆積方法もあるとはいえ、この石垣島鍾乳洞はまさに珊瑚などのなれの果ての石灰岩が元になって形成されているのだそうである。鍾乳洞にはお馴染みのコウモリや、目が退化し色素が抜け落ちた白子化(アルビノ)小動物などが住んでいるものだが、石垣島鍾乳洞には「石垣カグラコウモリ」「八重山キクガシラコウモリ」などの他には、ほとんど生息していないようだ。また、石垣島を含む八重山地方では神の聖域をウタキ、またはオンと言って崇めているが、そうしたオンの近くには大抵鍾乳洞があって、かつて人々が洞穴を神聖神秘の秘境と考えていたことがよく分かる。一方で、沖縄本島では洞窟つまりガマは、太平洋戦争の犠牲のシンボルにもなっているが、この石垣島では幸いそのような洞窟悲劇は免れたようだ。なるほどと思って外に出ると、次第に夕暮れつつある庭園に平たいサボテンのような植物が植えられて、赤いものをぶら下げている。はてと思ってガイドに聞いてみたところ、これがかのドラゴンフルーツだと教えてくれた。「この赤いのは花ではありませんよ、これが実なのです。ドラゴンフルーツの花は、非常にメルヘンチックな花で、夜に咲き朝には萎んでしまう清爽な白い花なのですが、これは全くもって実であります。そしてサボテンであります。そしてこの赤い実がドラゴンフルーツと呼ばれて、店で売られているわけです。それでもきっぱりと割れば、中は白いから不思議です。少しキュウイのような甘くさっぱりしたその味は、ぜひこちらにいる間に堪能していただきたい。私はそう思うわけであります。」
 なるほどと感心してレストラン竜宮に向かうと、オリオンビールと郷土料理を楽しみつつ、帰りにお土産屋さんであれこれ時間を過ごしていたら、さすがに外は月も昇り色彩を失いつつあった。何か、虫かカエルでも鳴きそうな初夏の風を感じて、この日はホテルに帰ったのである。

2日目、西表島その1

離島桟橋

 日頃夜中の0時過ぎにコーヒーを飲み、夜更け過ぎて頭のさえ渡る私は、普通なら目覚ましが鳴り渡っても朝早く起きるのは至難の業なのだが、こうして旅行に来ると観光を済ませて夕食後の一時を過ごすと眠くなり、カーテンから差し込む日の光に答えるように、こうして独りでにベットを離れるから不思議だ。眠気も残らずカーテンを引けば、窓の外はもう豊かな色を取り戻して、色彩に活気が溢れている。嬉しくなって窓を開き、新鮮な空気を吸い込んだ。再び観光に出かける準備を整えつつ、朝食を取ると、2日目の出発時間は、石垣島名物のトライアスロンが決めてくれた。なんでも、朝早くに町中の道路が使えなくなるというので、その前に観光バスに乗り込んで石垣港まで行ってしまおうという趣旨らしい。3つの(トリ)競技(アスレチック)という意味を持つこのスポーツは、20世紀半ばに開始され、水泳→自転車→ランニングを大会で設定された距離だけ駆け抜けるというもので、共に4月に行なわれる石垣島と宮古島のトライアスロンは、日本での代表的な大会になっている。参加者達が走り出す前に、私たちはバスで港に向かって走り出した。大した時間も掛からないで目的地に着けば、今日は曇りがちな空を見上げて、皆バスを降りる。ここから高速船に乗ってまず西表島に向かおうという計画だ。石垣港はバスを降りたところからは、まだ大分離れていて、そこでは大型フェリーが行き交い宮古島や沖縄本島、さらには台湾などに旅客船や貨物船が行き交い、石垣島飛行場と並ぶいわば石垣島の経済的な大動脈を担っているのだが、八重山の離島に出航する高速船は、港のターミナルからは徒歩で20分ほど離れた、離島桟橋(りとうさんばし)という高速船専用発着所から出発するのである。バスを降りた私たちも、石垣港とは反対の方向に歩きながら、ガイドさんが前の方で何か話しているのをいい加減に流して、いわば石垣の町中に戻るように海岸沿いをてくてくと行く。ガイドさんは「八重山の島巡りと言えば、交通手段はもちろんのこと船でありまして、観光客用の定期便と来たら、それはもう離島桟橋に他なりません。竹富島も、小浜島も、これから向かう西表島も、皆々この桟橋と見事に海路で結ばれて、いわばここが各島に向かう拠点として桟橋の賑わいをもり立てているのであります。石垣島以外の島から、また別の島に向かう場合も、直通便は無かったり数が少なく、個人で旅行をする場合などは、例えば竹島を観光し終わったら、一旦石垣島に戻ってきて、西表島まで出張したら、また石垣島に帰ってくる。そんな具合に枝の中心の機能を持つこの桟橋の周りは、石垣島の一番の繁華街でもあり、港と桟橋と内側に広がる市街地を合わせて、いわば石垣島の活動の心臓部を担っていると云えるわけです。」
 話の途中からすでにその離島桟橋が見え始め、沢山の船が発着して賑わっている。上り下りする沢山の客は、観光客よりも八重山の住人達のように、よそ行きでない服装の人の方が多いように感じられた。海に突き出た桟橋に直角に交わる道路に面して、観光センターなどが建ち並んでいる。何だか端の方には土産屋もあるようだと眺めていると、今朝挨拶を交して少し話すようになった20代半ばのジーンズ緑シャツが思い出したように、私に話しかけた。子供の頃に家族と八重山に来たことがあって、それ以来何時かもう一度訪れることを夢見ていたのだという。あの離島桟橋からの高速船も個人で観光するなら往復券を買えば断然お得で、有効期限が無いものが基本なのだと、そんな話をしながら桟橋に辿り着き、緑シャツにいろいろと質問を加えながら高速船に乗り込んだ。高速船は完全に覆われた室に椅子が並ぶものだが、船の後部には船の外側に辛うじて屋根と覆いを付けた、モーター音の直接響く後部テラスがあったので、騒がしくても外が見やすい理由で、「ちょっと騒がしい方に行ってくる」と緑シャツと離れて、一人こちらに腰を掛けることにした。何人か、見るからに島の人たちが腰を下ろしている。やがてすさまじいモーター音がうなり声を上げると、掻き立てられるように船は出発した。先ほど桟橋の先から海を覗いてみたら、小さな魚が驚くほどの数で水槽の熱帯魚のようにひしめいて驚かされたが、あの魚たちはこのような鉄の咆哮を上げる怪物に、飲み込まれたりはしないのだろうか。見上げれば空は相変わらずの曇天で、かなり蒸し暑い感じだったが、走り出すと強い風が当って丁度良い感じだ。黒い雲と、白い雲と、光が差し掛けた所が、空で不思議に漂いながら、時々海面をキラキラと照らす、そしてまた暗く陰る。日の差したとき後ろを振り向いてみたら、速力を強めつつある船の後ろから心地よい水しぶきが、瞬くように光って、その後ろに遙か遠くなった離島桟橋が、そして石垣の町並みが広がっていた。やがて石垣の波よけを抜ければ、島を離れ広がる海に乗り出す。島近くでは船はほとんど揺らないが、しばらく漕ぎ出すと、小さな波が立ち始めて、時々船が波に乗って幾分揺れだした。しかし大きな波は無い。珊瑚礁の島々では珊瑚の広がる上にある比較的浅い海では、波が弱められ、さらに天然防波堤たるリーフの中に入れば、ほとんど波は無くなってしまうが、石垣島とこれから向かう西表島の間に広がる海は、石西礁湖(せきせいしょうこ)と呼ばれる珊瑚礁上に広がっていて、比較的波が静かな海だそうだ。しかし、この外側の外海に出るとたちまち荒波高く押し寄せてくるから、油断は出来ない。それでもなかなかに揺られながら高速船はスピードを高めつつ、高めつつ、深そうな濃い群青(ぐんじょう)の海を進めば、やがて海の色が一線で異なる水色に変わる向こうに平たい島が浮かんでいる。桟橋で貰ったルート地図を見ると、どうやらあれは黒島という牛さん活躍する島で、やはり桟橋からの高速船で行くことが出来るそうだ。ちょうど良い具合に雲の合間から差した光が、平たい島をさっと照らせば、急にそこだけ原色の緑と、珊瑚の浅瀬の水色が、輝き、たちまちの内に、また雲が差しくすんだ色に変化して、そして海は何処までも広がっている。不思議な心持ちで眺めながら、また向きを変えて行く手を見たり、振り返っては船から上がる水しぶきや、海の波と船の澪の作る複雑な余韻を可笑しく思って、風を切って抜けていくと、やがて大きな島が見え始めた。観光用の船着き場を示す、綺麗に作られた赤の鳥居のようなものが建っている。私たちが目指す西表島の南東側にある大原港に着いたのは、石垣島の桟橋から45分ぐらいたってからのことだった。

大原港

 船を下り、赤い鳥居をくぐり抜け、出入り口の小さな建物を抜ければ、そこはヤマネコの都、西表島だ。この島は、面積約289平方kmのうち90%が亜熱帯の原生林に覆われている。そして国の特別天然記念物に指定されているイリオモテヤマネコや、カンムリワシを始め変わり種の動植物の豊庫であり、島の半分ほどが西表国立公園に指定されているほどだ。島は比較的周辺にそれぞれそびえる古見岳、テドウ山、御座岳という標高400メートル台の山がそびえ、お陰で昔の海水上昇期にも完全水没しなかったことが、独自の生態系を生み出したのだという。一方で人間の居住には厳しい。以前はマラリアが蔓延して定住困難の島だったが、八重山の風土病と呼ばれたマラリアは1962年に全島で撲滅され、ようやく病苦から解放。島の西側半周を結ぶ道路が整備され、最近では観光客の増加に伴い、観光業を中心に活性を図っている。そんな人々の生活するエリアは、私が辿り着いた島の南東にある大原港を拠点とする東部と、島北の船浦(ふなうら)港・上原港を拠点とする西部に分かれている。二つのエリアは島を半周する道路で結ばれているが、30キロも離れているので、石垣島からは両方行きの高速船がそれぞれ出ているそうだ。路線バスももちろんあって、大原と白浜の間約50キロを1時間30分で結んでいるが、その島周辺部ルートも残る1/3行程は全く開拓されていないため、一週することは出来ない。ついでにもう少し観光パンフレットを眺めて紹介を続けると、ここではカヌー・トレッキング・シュノーケリングなどが楽しめ、見学場所も宿泊施設や土産屋も圧倒的に西部地区に多く、ピナイサーラの滝、星砂の浜、浦内川を上流に登ってのトレッキングでカンピレー、マリュドゥの滝などが楽しめるとある。一方私達の訪れた大原拠点の東部地区では、これから向かう仲間川遊覧船観光や、由布島観光などが楽しめるので、さっそく出かけることにしよう。

仲間川遊覧ボート

 陸に上がってほんの短い距離をバスに乗ると、すぐに小さな船着き場に到着した。丁度海と仲間川の曖昧な境界線付近に位置し、海から川の方角へ首をひねると、そこには大きな橋が架けられている。仲間川を越えて走る舗装道路のために作られたもので、私たちも仲間川の観光が終わったら、あの橋を越えて由布島(ゆぶじま)に出かけるのだ。屋根の付いた平たい感じの仲間川遊覧ボートに乗り込むと、モーターが唸りだして走り出す。ボートは大体25~30人ぐらいが乗れるほどで、運転をする案内役のおっさんが、ポイント毎に船を止めてガイド宜しく説明を加えてくれるのだ。その説明に、後から加えた情報を加味してざっと述べると次のようになる。
 マングローブ。諸君、マングローブを知っているか。ニューグローブでもグローブ座でもない。仲間川はマングローブの川である。マングローブの川は汽水域(きすいいき)の川である。それじゃあ汽水域とは何さと問いかければ、潮の満ちによって海水が河を逆上り、潮の引きによって川の淡水が下流まで流れ込む、そんな淡水と海水の織りなすドラマが繰り広げられる、塩分の少ない水のある領域のことを、汽水域というのである。潮が満ちれば、川の水位が上がる、水位が上がれば川岸の低地は水没する。潮が引ければ、河の水位が下がる、下がれば川岸や川中の浅瀬が陸となり、ひょっこり束の間顔を出す。熱帯、亜熱帯地域では、この水と陸が移り変わり、しかも川の塩分濃度も変化する汽水域に、特徴的な木々の林が広がることがある。この汽水域の特徴的な木の総称がマングローブだ。塩分に対する耐性を持ち、水位が下がり泥状の干潟となった場合の酸素呼吸のために、呼吸根と呼ばれる地上に現われた根っこを持つことが多いマングローブ。その代表選手の一つにヒルギ科の植物があり、日本ではオヒルギ・メヒルギ・ヤエヤマヒルギの3種が見られるが、もちろんこの仲間川はヤエヤマヒルギの姿を見ることが出来るわけだが、オヒルギとメヒルギも健在だ。マングローブの入門木とされるオヒルギは、5月から6月にかけて頃に花を咲かせ、その花を覆うガクのところが赤く染まって、まるで赤い花びらを付けているように見えるため、アカバナヒルギなどと呼ばれることがあるという。ガクを混ぜた花は非常に小さいものだから、緑の葉っぱの中に赤が点々とインクを落とすような感じで咲くのだろう。ただし沖縄で普通「アカバナー」と言ったらハイビスカスの事を指すから、ヒルギと答えてはいけない。ところでこのマングローブ、非常に波当たりを嫌い、あまり波にさらされると根が枯れ始めてしまうそうだが、仲間川のマングローブは、最近の観光ブームで頻繁に往来するボートの出す波によって、少しずつ被害が広がっていて、観光と自然保護の両立の難しい問題に直面しているのだという。なるほど前を見れば、遠くにいち早く出発した別の観光客のボートが走っているし、先ほど帰りのボート1台とすれ違ったばかりである。また、最近は小さなカヌーに乗って仲間川に漕ぎ出すツアーも盛んで、ところどころにカヌーがぷかぷか浮いている。どうも人間が増えると、観光事業にとっては幸いだが、自然にとっては余計な悩み事が増えるだけのようだ。マングローブの話はまだ続いている。マングローブの子供は、果実が枝に付いて居るうちに、種から根が生えてきて、ある程度成長すると、根っこ付きの新芽のままで果実を離れ、ぽとりと落ちて海流に漂って、いつしか泥に到着して根を下ろすことを説明した後で、今度は水に近い方から陸に向かって、植物の種類が帯状に変化していくことを必要もないのに身振りを交えて教えてくれた。何でも一番川に近い方にはクマツヅラ科のヒルギダマシなんて奴らが居るが、木を支える沢山の支柱根を細かく伸ばすヤエヤマヒルギや、6月から7月頃白い花を咲かせ小さな板根(ばんこん)を持つメヒルギが続いて、やがてオヒルギに移り変わり、さらに陸の植生に近づく頃にサガリバナ(下がり花)や、サキシマスオウノキなどが群生しているのだという。サガリバナ科の下がり花はロマンチックな木だ。またの名を沢藤(さわふじ)と言い、沖縄ではキーフジと言うらしいが、4-10mにも達する木に咲く花は、夏の夕方に一晩限りの花火のような花を開き、白や薄いピンクの沢山の細い筋の房が、葉の間に垂れ下がるよう。優しい香りを漂わせ、翌朝には散って、地に落ちる。落ちる先が水面なら、どこまでも漂って、沢山の花びらが、どこまでもさらさらゆきて、流れる先は海に帰るのかも知れない。そんな花の様子からサガリバナと呼ばれるようになったそうである。残念ながら今は4月で、しかもお昼前、青々と茂るその木を前に説明されても、花の面影は浮かばなかった。そして、私たちのボートはいよいよサキシマスオウノキが群生している地点で、船着き場に到着。降りて鬱そうと茂る森の中に人工的に作られた木道を行くと、樹齢400年の巨大サキシマスオウノキが周辺の木々から際だってそびえている。高さは18メートルもあるそうだ。このサキシマスオウノキというのは巨大な板根(ばんこん)を作る特徴があり、地面に近い付近の根っこがまるでエラを張っているように根っこの板を作るのだが、日本最大を自認するその巨大な幹からは、小さな小屋でも建てられそうなほどの板根が張り出している。ただし板が非常に波打っているから、実際は小屋には不適当だ。これが日本かと思われる不思議な光景に、しばらく一時を忘れていたが、散々板根を触った後で、板根に触ると晩婚になるという言い伝えを聞かされ、泣き笑えの冗談に独身の己を顧みて涙した。結婚できなかったら、こいつのせいだ。この板根は昔はサバニ(カヌーのような船)の舵だけでなく、建築にも使われたそうで、さらにこの木から紅色の汁を取り出すことが出来、赤染のためのマメ科のスオウ(蘇芳)の変わりに布を赤く染めるのに使用したので、先島のスオウの木という名称が付けられたのだそうだ。ボートに戻る途中、折角上陸したので、土というより灰色っぽい泥のような固まりを持つ川と陸の境の粘土状の地面に触れてみると、触感を確かめる前に、すぐ横の岩陰から蟹が飛び出してきて驚かされた。
 さて、ボートに乗り込むと紹介の話も一通り済んで、朝から晴れの来ない少し黒ずんだ雲の下を海に向かって走っていく。これから向かう観光ボートとすれ違ったとき、振り向いたら、こちらのボートの澪と過ぎたボートの澪が互いに違う角度でぶつかり合って、少し照らした太陽の光が、キラキラと小さな波の喧嘩を際だたせた。そして、ボートの波は互いに別の方にも扇(おうぎ)のように広がって、ゆっくりゆっくり両岸のマングローブの林に打ち寄せたり、あるいは砂浜のように平らな川の中州に打ち寄せている。この美しい波が、一方ではマングローブを枯らせようとしているとは、教わってもピンとこない。海に近づいた頃、川中に浮かぶ砂の島に、手こぎボートから下りた2人組みの中年男女が、ボートの過ぎるのをぼんやり見詰めていた。雄大な自然の中で、すっかり惚けてしまったのだろう。こうした河口付近や内湾の干潟では、ミナミコメツキガニというせいぜい1㎝ほどの灰色のカニが群れを作っていて、人が近づくと慌てふためきながらぐるぐる回転するように砂に潜っていく様子が非常に滑稽だと、ボートの運転手がまた教えてくれた。こうして戻ってきて、再び河口の橋をくぐった私たちは、やがてボートの発着所に降り立った。時間はまだ午前中である。バスに乗り込むと、途中小さな「もともり工房」というお土産屋さんに立ち寄れば、本物のイリオモテヤマネコの石こう手形と、手形キーホルダーというものがどちらも500円で売られている。僕は一人しばらくお店の周囲を歩き回っていたのだが、ちょうどこのお店の辺りから北側に掛けて大原の居住区が広がっているようで、騒音のない静かな自然の中にも、向こうの方に家々が建ち並んでいる。でもこの居住地域はほんの少し歩けば、もう自然の中に紛れ込んでしまうような、そんな小さな集落で、食堂や民宿・宿泊施設が大原の港を拠点にして形成されたのだろう。考えながらふらついていると、居住地域の始まるように見える道の向こう側に、大きな高い木が植えられていて、赤い花が幾つも咲いて見える。ポピュラーソング「島唄」の出だしに「デイゴの花が咲き風を呼び嵐が来た」と唱われることでお馴染みの、つまりデイゴ(梯梧)の木だ。英語ではエリスリナと言い、1700年頃に海を渡って沖縄に帰化したらしいこのインド原産の植物は、エンドウやインゲンマメと同じマメ科に所属する落葉樹で、一つの元(もと)から3枚の葉っぱを付ける味な奴で、落葉樹とは言っても冬でもすべての葉が落ちることはないそうだ。ちょうど今の時期、4月始めから5月に掛けて頃、茂る葉っぱの先に、葉がそのまま赤く変化したような、美しい花が咲き始め、ピーク時にはまさに咲き乱れて、緑の葉の色よりも赤い花で覆われたように、染まったデイゴの木がよく海岸線の街路樹として植えられていて、この美しい花は、沖縄県の県花に指定されている。この木を素材にして琉球漆器が作られ、この花がいつもより沢山咲き乱れると、台風が沢山やって来るという話があり、唄にあるようにデイゴは嵐を呼ぶ花でもあるわけだ。ようやく晴れ間の増えてきた明るい光の下で、真っ赤な花が小さく、しっかりした色彩で眩しく光っている。だいぶ蒸し暑くなってきた。バスに乗り込んで私たちは由布島(ゆぶじま)に向かうことにした。

おまけ

改訂中却下物(毒入り)

・「スーツ効果という言葉がある、人間の振る舞いや性質は、内面が規定するどころか、自らの生まれ持った姿や、自らの着ている衣服によってまず規定されるものだ。異なる考えを持ち、一人前の個性を持ったものが、同じスーツを着て、同じ時間に同じようなシステムに組み込まれ、同程度の会話をするものか。」と云っては刺身を喰らい、「首都圏近くのレストランなどに集団で屯(たむろ)する中年女性の醜さを見ろ。あれは日本型の責任と義務を本質的に回避したパート生活者が、自ら考え向上することを忘れたなれの果てだ。毎日下らないテレビを垂れ流して、姿だけが年を重ね腐り始めた姿だ。田舎の農業などに従事する元気な中年女性は、もっと年齢と表情が調和している。試しに彼女たちに聞いてみたらいい。自分の子供達に、教えてやれる己の言葉を持っているのか、作物の作り方や、自分の生まれた国の物語や、詩や文学を何か語れるのか、それとも学校の宿題を性格に教えられるのかと聞いてみるがいい。自分以上のものを持たない親を、子供が慕うわけがないだろう。」と云ってはジョッキを飲み干して、私に迫った。

・だから本来は自然治癒力のあるはずのストレスや心病が、すぐ処方箋に至るのは病んでいる。神経衰弱の国民。それは夏目漱石の言葉ではなかったかしら。

改訂中却下物(毒なし)

・窓から外を眺めていたベレー帽が優しい声で「そのカンムリボクに下さいな」と呟いたから、冗談にしては生真面目すぎるのであっけに取られていた。しかし緑シャツのためにパンフレットを構えた眼鏡は、さすがに長年一緒にいて慣れているから、立ち所にパンフレットを持ち替えて反対側に座るベレー帽を打ち据えると、ベレー帽は「暴力反対」と叩かれた所をなでている。緑シャツは「折角、カンムリオレって言おうとしたのに」と心底がっかりして言うと、ガイドさんはこれを無視して運転を続ける。

・眼鏡は後ろにいた緑シャツに「ちょっと、呪文でも唱えて雲を広げてみなさい」と無法な注文をする。そんなことに怯むシャツじゃない。 彼はよしきたと手すりの前に立ち、両手を複雑に組み合わせながら「臨兵闘者皆陣烈在前(りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん)。いくさに臨むもの皆、陣列の前にあらん!」と、アニメかゲームから仕入れてきたような必殺技を繰り出してみせた。こいつは馬鹿に違いないが、もともと広がりだした雲の裂け目は、そうしている間にも光のスポットを海に照らし出した。「見たか我が術の威力を」と緑シャツは大の得意である。眼鏡は「やれば出来るじゃん」とからかっていたが、ガイドさんが「光のスポットの中に船が見えます」と言ったので、全員手すりに一列に並んで、海が光を受けて丸く輝く辺りに目を凝らせば、ちょうど大きな貨物船のようなものが、ゆっくりゆっくりスポットの中を通り抜けていく。(最初は「あらんだすぴす」という謎の言葉が・・・・。)

・ここは非常に夕焼けが美しい場所でもあるそうだ。私は木陰の辺りで手帳を開いて、また落書きを試みた。

陽射しが強くて木陰に逃げよう
オーブンみたいに砂浜焼ける
夕暮れ来るまで小説開こう
新聞みたいに風でめくれる
活字が色を落とす頃には
傾く夕暮れ愉快に眺めて
夕焼け小焼けに赤く染まって
星を見付けて家に帰ろう

あまりの奇絶(きぜつ)なる風景に気絶してしまうかも知れない。(市街地に戻る途中の悲惨な駄洒落)

バンナ改訂中のもの

 バンナ岳のふもとに広がる広大な公園は、幾つものルートとゾーンに別れています。例えばバンナ岳の南側に広がる南口からは「バンナ森」「いこいの広場」があり、岳の西側にも「自然観察広場」が、・・・自然の中に幾つもの公園がゾーンを形成するように置かれているのです。そして広大な森林公園の中心を抜けるバンナスカイラインの途中には景観を楽しむための展望台が儲けられ、

 有名な「エメラルドの海を見る展望台」や石造りの「南の島の展望台」、さらにカンムリワシの卵を形どった「卵の形の展望台」があり、これは正しくは「渡り鳥観察所」と呼ぶのだそうですが、この観測所では、9月後半から有名な渡り鳥であるサシバの遣ってくるのを見ることも出来ます。公園の北には優良児の育成と家族団らんを踏まえた「ふれあい子供公園」があり、最もよく知られた「森林散策広場」は、北口の駐車場を持つ施設ですが、実際は北東にあり、マダラチョウ科で日本最大の蝶々「オオゴマタラ」、石垣市の蝶々を育成した蝶園があり、また石垣ダムの湖上に掛けられた聖紫花(せいしか)の橋という吊り橋を見ることが出来ます。他にもホタルの季節には夜訪れたいホタル街道や、  など、

 

エメラルドから
 少し前までは、落ち着いた木造の展望台が自然と調和して景観に溶け込んでいたのですが、つい最近駐車場の拡張とトイレの整備に、展望の視覚性を高める新展望台が、2億7700万円を掛けて作成され、このような自然の営みに敢えて対抗するような、アバンギャルドな安ケバイ展望台に生まれ変わりました。この外観については改悪の声しきりですが、少なくともここからの眺めは、
特に石垣島の南~西側の展望が良
西側には名蔵湾方面の景色がこれは、卵の展望台も同じような景観 →竹富島が浮かんでいる、あちらが西表で、小浜も見える。これからいくのです。今すぐにです。
→市街地の景観、夜になると夜景が美しく、また星空も綺麗に見えるので、びゅーてふる

 橋は沖縄県唯一の吊り橋とも云われ、聖紫花の色に合わせて薄いピンク色に塗られた吊り橋の底は、木の板が敷かれ、道の中央には橋の底深く覗かれる仕組みになっている。高所恐怖症の人は、絶対に渡れない橋だ。

 熱帯雨林の道の木々にもプレートが付けられ、学習のためにも好奇心のためにも、非常に自然を楽しむことが出来る公園だ。ルートの歩道もしっかりしていて、これほどの公園を市街地すぐ近くに抱える石垣島の人々は、幸せ者だと思う。

 卵形の観測所から北を見渡すと、目の前には岩の展望台と、遙か向こうにオモト岳が見える。

 白ツツジに紫の高級染料を垂らし、あるいは薄いピンクの化粧液を垂らし淡く染めたような聖紫花(せいしか)の花は、ツツジの仲間で渓流岸などに咲く沖縄の花で、3月から4月初め頃に
 西表島でも浦内川を登っていく観光ルートで咲いている姿を見ることが出来るそうだが、かつては「まぼろしの花」と呼ばれた聖紫花を、バンナ公園で栽培して、今日ではこの「セイシカの橋」付近に見かけることが出来るのだ。

備忘

・初めての竹富島の時には、実際は星砂ビーチの後で恐ろしく無頓着な展示のサンゴセンターみたいな所と、隣りの土産屋がペアになった所で、葉っぱから根っこが生える土産を発見しつつ、近くの舗装道路をぶらり歩くと、蝶の島は本当で、ひらひらと蝶が舞っていた。それから織物の所には入らずに、周辺を散策。やがて港から石垣島に戻ると、トライアスロン真っ盛りで、港からバスに乗れず、皆でバス乗り場まで歩いていった。走行者の間隙をぬって大通り越えをして、石垣のバスガイドが川平湾に向かうバスの中で、オモト岳があるのが平らな宮古島との大きな違いだと説明などして。

2006のいろいろの時期

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