8月20日の改訂より前のもの。たぶん。
港の桟橋に船が着くと、船のチケット購入や待合いのための小さな建物はまだ新しい。私たちは背の低いガイドさんに付いていくが、ここは東京じゃないから彼を見失う気遣いはない。船を下りる人々が桟橋を散れば、閑散として人気のない島が広がっている。しかしここは人の住まない島ではない。それどころか、周囲8kmほどの川もない平らな島に、300人ほどの島人が村を作って生活している。この竹富島は一時期八重山統治の役所があったくらいだ。そんなガイドさんの解説を遠く聞きながら、歩くことほんの1分2分だろうか、2004年に完成したばかりの竹富島の新名所「ゆがふ館」に到着した。港を出たらゆがふ館ぐらいしか建物が見えないから、初めての人でも地図の心配はいらない。ガイドさんは「30分が過ぎたなら、このゆがふ館の裏口からバスに乗りますから、それまで見学をすると同時に、心配の方は御手洗いに寄って下さい。」と木造の建物に入っていくが、このゆがふ館は入館料無料の竹富島紹介施設で、竹富の歴史はもちろん、竹富の民俗音楽の視聴コーナーや、タナドゥイ祭の映像放映や、各種資料が設置され、コンパクトにまとめられた竹富紹介資料館になっている。さらに沖縄の書籍やCDも販売され、どうせなら喫茶店でも拡張して、船の待合代わりにでも使ったらどうかと、余計なことを考えたくなるほどの施設である。ところでこの「ゆがふ」と云う言葉、漢字で書くと「世果報」となって、ゆがふ館の説明によると「天からのご加護により豊穣を賜るという意味がある」そうで、要するに幸せの島、憂い無きところを表わすような言葉だが、NHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」を見た人には、東京に出た主人公がアルバイトをする沖縄料理の店としてお馴染みかもしれない。当然ながら例のちゅらさん2人組みは、「ゆがふだわ、ゆがふ」「フクロウの店長は居るかしら」とささやき合って入って行く。私たちも後を追うように立ち入るが、原色に映し出された色彩の世界から、薄暗い照明の館内に滑り込む時のコントラストは、何だか奇妙な感覚がしてワクワクした。ただしフクロウの店長は居ないから、期待してはいけない。入り口の広がりには大きなパネルがあって、八重山諸島とサンゴ礁の地図が掲載されている。石垣島と先ほど出かけた西表島の間に、島々近くを中心に水色に覆っているのが石西礁湖(せきせいしょうこ)であり、この竹富島はその中に浮かぶサンゴ礁の島なのである。ほの暗い館内を軽く観察すると、竹富島の地図や歴史年表やら聖地である御嶽(おん)を記したパネルがあり、また民芸織物の織り機や、奥にはけっこう大きな映像放映施設が設けられている。丁度竹富島の紹介を放映していたので、私はちょっとそれを見学した。大方この次のような内容だ。
「石垣島の南西約6kmに位置する竹富島は、サンゴ礁が隆起した島なのです。周囲8kmあまりの川もない島で、その中心に広がる集落では300人ほどの住人が暮らしています。そして集落にある赤山公園という丘に立つ展望台が、標高24メートルで島一番の高い場所になっています。他にも島中央にンブフルの丘という場所がありますが、この変わった名称は誰が名付けたものでしょうか。昔々の逸話では島民の飼い牛が逃げ出して、大地に角を突き立て丘を築いて、「ンブフル、ンブフル、ンブーフルフル」と鳴き声を上げたという、一見不可解な伝説から、そう呼ばれるようになったと言われています。この標高約20mの丘にも展望台が建てられ、料金100円を払えば島を一望することが出来ますから、時間のある方は訪れて下さい。この2つの丘が島の高台で、それ以外はほとんど平らな竹富島。地面を少し掘ればサンゴ礁の固まった岩がごろごろとあり、川は生まれず貴重な水源は井戸を掘って確保してきました。そのため農耕には適さず、昔の島民達はマツフニ(松舟)と呼ばれるくりぬき舟や、サバニと呼ばれるカヌーのような船を使って、西表島の東岸に出かけて水田を開拓していたのです。西表島の東にある小さな由布島の住人は、この竹富島や黒島から渡った人達であったと言われています。そんな竹富島ですが、かつては八重山の行政府があったこともあるのです。これは竹富の西塘(にしとう)さんという偉人が、首里政府の元で教育を受け、後に八重山当地を任され、建設した役所でしたが、残念ながら彼自身が統治の不便に気付き、1543年には石垣島に移してしまいました。しかしこの西塘さんは島思いの偉人でしたので、村の優れものとして死後奉(まつ)られ、今では西塘御嶽の聖域を守る故人となって、今も天上から島を治めているのです。
そんな私たちの島ですが、1771年に八重山地方を襲ったとされる明和(めいわ)大津波によって、他の周辺離島集落の大半が全滅し、その後で琉球王府による地割制度によって升状に区分けされた住宅が建設されたのに対して、奇跡的にこの津波を逃れた竹富島では、独自の集落形態を今日に維持しています。そして第2次大戦の戦火も運良く免れた集落は、村の土地割りや道の敷きかたや、住宅配置に多彩なシーサーの乗る赤瓦の屋根、琉球石灰岩の石垣といった古き沖縄の姿を留めているとされ、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているのです。ただし沖縄地方において赤瓦を葺くようになったのは明治20年代以降で、一般の庶民の家では大部分昭和に入ってからだとされ、それ以前は藁ぶきの屋根だったため、シーサーが屋根に乗ることはありませんでした。沖縄は台風の通り道なので、集落には風抜けを悪くするため直線を避けた道路配置や、常緑高木の広葉樹であるフクギなどを防風林として茂らせ、住宅を平たく寝そべった屋根で作るなど、様々な工夫が見られます。そんな集落は、ンブフルの丘の北側にアイノタ(東集落)、インノタ(西集落)、という東西2つの集落があり、丘の南側に仲筋(なかすじ)という集落があります。急ぎ足なら半日で島を一周出来る距離ですから、時間のある方は海岸だけでなく、ぜひ集落も一巡りして下さい。島には30ちかい御嶽(うたき)があり、竹富島では木の覆い茂る場所としてヤマ(山)と呼ばれ、非常に熱心に信仰されています。特にムーヤマ(六山)という6つの重要なヤマは、この島の始まりに関係する重要なヤマで、1713年の『琉球国由来記』によると、昔この島に6人の首領が争いなく暮らしていたが、島に神の居ないのを気に病んで祈ると、6体の神が訪れたと書かれていて、彼らが奉られたのがこのムーヤマなのです。もちろん他のヤマも様々な神を奉っていますから、不用意に中に入らないようにしてください。またこの島は景観と伝統を保護するために独自の憲章を立て、島民全員が固く守りながら生活しています。キャンプは禁止されていますし、民宿以外の宿泊施設もほとんど置かれません。観光客の皆さんも、ゴミを捨てない、生物植物に注意を払う、村落を水着で歩かないなど、当たり前のマナーを守って、ぜひ素敵な観光を楽しんで下さい。それでは、次の放映ではこの島最大のお祭りとして、沖縄だけでなく全国的にも有名なタナドゥイの祭についてお伝え致します。」
十分な解説に満足して放映所から出ると、ちゅらさん2人組みが柱に付けられた椅子から手招きをしている。竹富民謡が聴けるから試してみなさいとヘッドホンを渡された。民謡まで聴けるとは大した施設だ。緑シャツも来てヘッドホンの音楽に合わせて民謡を試みてみたが、あまりに素っ頓狂な音程で観光グループどころか施設のカウンターに居た従業員までこっちを見て、にやにやと笑っている。私もつい可笑しくて大笑いしていたら、それじゃあお前が遣って見ろとヘッドホンを突きつけるから、つい普段の慎重を取り落として「よし」とヘッドホンに合わせて声を出してみたら、今度は皆さん声を出して笑っている。確かにこれは非道い、あんまり可笑しいので自分でも笑い出してしまった。ちゅら組みも腹を抱えて笑っている。何だか少しずつ自分が壊れてきた気がする。そんなこんなで時間が来たので、一応綺麗なトイレに足を運んでから、出口で待っているバスに乗り込んだ。クーラーを効かせたバスは、誰も走らない道路を軽やかに滑り出す。
バスに乗り込むと、島の観光は私のものだと運転手が話し出す。小さなガイドさんも大人しく耳を傾けているようだ。贅沢に舗装された道路にはデイゴの木が植えられ、赤い花を美しく咲かせた中を、まだ比較的若い男がハンドルを握りながらガイドする。イントネーションに島の訛りがあるようだ。彼によると、一見景観を損なう恐れのあるこの舗装道路は、集落に向かい島中心に伸びる現在の道路と、集落付近を取り囲む道路があるそうだ。しかしその環状道路は、集落内部を出来るだけ車が走らず、集落の伝統と景観を守るために考え出されたのだという。運転手が「魔よけの木」があると、道路の中にある木を過ぎる頃、早くもバスは集落に乗り入れた。舗装道から横に伸びた幾つもの道が、そのまま集落の歩道を形作っている。道幅は狭くアスファルトでない自然の白い道が、両側に向かって伸びている。この白い砂はサンゴを粉々に砕いて歩道としたもので、月夜の晩には照り返す道明かりで、夜が明るく映し出されるという。集落が見え始めると誰もがそれぞれに感動の声を上げ、私たちは伝統的な沖縄の集落の中を走っていく。家々は、握り拳かそれ以上の白っぽい岩石を積み重ねた塀で仕切られ、その奥に広い庭と樹木が茂り、屋根まで平たい平屋造りの家が構えている。その屋根は皆一様に赤くレンガを重ねて、屋根の上にはシーサーが陣取っている。ここはいずこの国かと訝(いぶか)しがるほどの集落だ。時々人影がすれ違う。運転手は躊躇無く解説を続ける。
「さっき通り真ん中にあった、魔よけの木。昔は集落入り口の大きな通りにそれぞれ設けられて、魔払いをしてくれる樹木でした。島の言葉でツンマセーと言います。ツマンネーじゃありませんよ。はい、左を見て下さい。竹富郵便局、集落で唯一の金融機関で、おかげで大いに助かっています。民営化ですか、もちろん反対ですよ、何でも民営化じゃ困ります。続いてはい、今度は左側です。左側に見えてきたのが竹富島で唯一の学校。小学校と中学校を合わせた施設で、今年は5人の子供が入学しました。全部で合わせて32人ですが、その代わり先生が19人もいて、ほとんどマンツーマンの教育です。外からも生徒募集してます。皆さんのお子様や親戚の子供にも勧めて下さい。歓迎しますよ。はい今度は右側に井戸が見えます。速度を落としますよ。この井戸は中筋井戸という名前です。この道のすぐ先が島中心付近にあるンブフルの丘ですが、はい残念、今日はここで大きく曲がりましょう。集落には今見たような井戸が幾つもありますが、竹富島は川のない平坦な島で、昔は貴重な水源を井戸や、雨水を溜めて確保してました。幸い今は石垣島から海底を通って水道も電気も送られて来ます。水道は昭和47年に、電気は昭和51年に開通しました。それ以前はランプで明かりを取り、井戸で真水を確保していたのです。ここから集落を抜けてカイジ浜に向かいます。皆さんには星砂の浜、星砂ビーチと呼ぶ方が、馴染みかも知れません。沢山の星の砂が取れるビーチですが、この星砂の正体はヒトデの仲間であるユウコウチュウという小さな動物の亡骸だと言われています。」
バスは舗装のない亜熱帯の植物が茂る小さな道を進んでいく。途中で自転車を懸命にこぐ子供達の一行を追い越した。道もすこし揺れるぐらいだ。両側には真っ赤なハイビスカスだけでなく、朝顔が咲いているのが目に止まった。
「はいこの朝顔、実は朝顔ではありません。朝だけでなく夕方まで咲き続けて、夕方になるとピンクの花が、紫に変わります。とても朝顔とは呼べません。それから左手の方にラッパが下がっているような花が見えるでしょう。これはエンジェルトランペットです。日本の本土では夏から9月頃に咲く花ですが、もうすっかり咲いてます。形はピンク色した細長垂れ下がり朝顔といったところ。こないだのお客さんは、オペラ座の怪人を見過ぎてエンジェル・オブ・ミュージックと呼んでいる人が居ました。当らずしも遠からず。はい、そこの駐車場にバスを止めたらもうカイジ浜に到着です。20分ほど美しい砂浜を楽しんで、星砂を捜して下さい。それから集落に戻りましょう。」
白い砂の道がそのまま樹木で囲まれただけの小さな広場に停車すると、砂浜に抜ける小さな小道が緑の間にぽかんと開いている。向こうには真っ白な砂浜と美しい海が覗いている。神秘の門をくぐり抜けるようにして、私たちは星砂のビーチに降りていった。ところがその樹木の門の木陰で猫が長閑に横たわり、良い気分で眠っていたものだから、ベレー帽と眼鏡がさっそく「わあ、にゃんこ!」と叫んで、砂浜を忘れて写真を撮っている。ベレー帽が「西表にゃんこ!」と滅茶苦茶な事を言うので、驚いて何人か振り向いてしまった。そのころ緑シャツは誰よりも早く砂浜に飛び出していたのだが、遅れて付いてきた私は、残念ながらついうっかり猫に気を取られて、哀れ2人娘と一緒になって写真を撮ってしまったのである。竹富島はなかなかに猫の多い島なのだが、この星砂ビーチもよく猫が木陰にうずくまっているスポットだから、立ち寄った人は猫を探してみるとよい。この猫たちこそが朝な夕なに砂浜を散歩するここの主(あるじ)である。主に挨拶を済ませた私たちも、足を5,6歩踏み出して、白く輝く砂が照り返す太陽の光を受けて、眩しく目を細めれば、今は雲も消えた真っ青な空から風がやってきて、空の色に少し亜熱帯植物の緑色を加えてから、透明液で薄めたようなサンゴ礁の海を、本当に小さく波立たせながら私たちを抜けていく。サンゴの欠片から生まれた砂浜は白く輝き、砂から顔を出したサンゴ礁の岩石が、海と砂を隔てる無駄な防波堤として、灰色がかった硬質の彩色を加え、景観にアクセントを加えている。それがこのカイジ浜だ。私はしばらく惚けて星砂の浜辺に立ちつくしていたが、気が付けば一部の観光者達は景観よりも星砂探しに夢中になって、「あった」とか「無い」とか叫んでいるようだ。何でもかんでも持ち帰らないと勿体ないお化けが出ると思いこんでいる精神貧民によって、当地の星砂はどんどん減少しているという。思い出は心に焼き付ければいい、それが出来ないなら写真にでも撮っておけば十分だ、まさかと思うかも知れないが、こんなもの持ち帰っても星砂が何であるか、島の名前も浜の名前も説明できないものが沢山居る。それじゃあ何のために持ち帰っているのかさっぱり分からない。彼らはバーゲンの時には勿体ないお化けにそそのかされて馬鹿のように群がり、無料サービスの時にもお化けが出たと騒ぎながら押し寄せてくる。せっかくこれだけの景観を前にしながら、自然が作り出した星砂の欠片に触れながら、美しさについて学べないのは愚だ。これは私の意見ではない。砂浜を覗いていた猫丸君が、私たちの方を見て笑ったように見えたので、彼の意見を推し量ってみただけのことである。そこに緑シャツが何も知らずに「こんなに見つけたぞ」と私に寄ってきたので、私は少しく呆れて吹き出してしまった。覗き見ると確かに綺麗な星の形をしている。後で調べたところによると、これらは目に見える大型単細胞動物で、殻を作って生活しているアメーバーの仲間、一般的に「有孔虫」と呼ばれる微生物が亡くなった後の殻なのだそうだ。綺麗な星形をした「星砂」の他にも、円いボールから小さな手が幾つも突き出たような「太陽の砂」と呼ばれるものもあり、アメーバ自身も「星砂(ほしずな)」や「太陽の砂」と呼ばれるが、正式名称はそれぞれ「バキュロジプシナ」「カルカリナ」であり、慣れた人が捜せば浅場の海藻などで生活する姿を見つけることが出来るらしい。角のない円いだけの奴も居て「ゼニイシ」と呼ばれるそうだ。確かに浜辺の岩のところには、小さな海藻が黄緑色にへばり付いているが、その時は何の知識も無かったので、調べようともしなかった。果たして懸命に覗き見れば生きた有孔虫が居たのだろうか。もちろん全員が一丸となって星砂探しに熱中していたわけではない。例の4人家族連れは星砂ではなく交互に写真を撮るのに熱中している。ガイドさんは毎度のことで木陰で座り込んで居眠り加減に休んでいる。例の2人組みは海の水をじゃぶじゃぶ意味もなく掻き回していた。まさか有孔虫を捜している訳じゃあないだろう。私は目の前の真っ白な砂と、蟹が歩きそうな岩肌と、穏やかな広がる海を眺めて、先ほど書き記した言葉をまとめようと、少し離れて腰を下ろす。手帳を取り出して、下書きに1ページいろいろ単語を並べ替えていたが、だいたい落ち着いたようなので、次のページに「いつまでも」と記した。
「いつまでも」
赤い花びらまぶしく揺れて
風に誘われ小さく踊ろう
そよぐ緑に合わせて歌う
小さな蟹がさわさわ行くよ
白くかがやく砂道抜けて
瞳こらして潮風受ければ
さざ波かがやき珊瑚の浜に
空は青くて澄みわたる
遠く聞こえる三線(さんしん)の音に
どこかで応える鳥の歌
ここにいつまでいたけりゃさ
ここにいつまでいたけりゃさ
出来たと思って顔を上げると、砂探しにも飽きた緑シャツが「何してる」と寄ってきたから、共に砂浜沿いに少し奥まで歩いて、時間近くに戻ってきたら、まだ誰もバスに戻る気配がない。私はゆとりを持って一足早く駐車場の方に行くと、そこにはカイジ浜の説明をした看板があり、実際は漢字で「皆治浜」と書くそうだが、説明書きには星砂のことが記されていた。それによると星砂の美しい珍しさは島の民話として残され、「海の大蛇に食べられた星の子供の骨が流れ着いた」という、はかない伝承が残されているそうだ。天上を飾る満天の星になりかけた子供達が、幼くして亡くなった姿というのは詩的だが、海から生まれる星の子供達というのは、1年に一度一斉に産卵を行ない、その大量の卵で海を赤くするという、あの珊瑚の誕生の奇跡の事ではなかったか。成長してあるものは珊瑚になって、またあるものは天上に昇って星になる、その途中の姿では無かったかしらと、一人で空想を膨らませていた。すると向こうにも看板が立っている。ついでに読んでみると、こちらは蔵元跡(くらもとあと)と書いてある。始めて八重山地方統治を任された西塘(にしとう)さんが、16世紀前半に蔵元(つまり役所)を置いたのがこの場所で、当時はこのカイジ浜は港として機能していたのだそうだ。しかしどうにも不便のため石垣島に役所を移してからは、時々竹富を思い出して「シキタ盆」を作って歌っていたら、この歌は今では竹富島の大切な唄になりましたと書いてある。島に歴史あり。私は感慨を込めてその説明書きを眺めていると、不意にバスのクラクションが鳴り響いた。気が付けば全員バスに乗り込んで私の来るのを待っているではないか。しまった先に来て待っていたはずが、とんだ白い目で見られながらバスに乗り込むと、例の猫がこっちを覗いている。どうも笑っている気がしてならない。バスは走り出し、運転手は気にせず話を再開した。
「はいすぐ付きます。こんどは星砂ビーチの隣にあるコンドイビーチです。よくコンドイとは何ですかと聞かれますが、これはただの地名です。一説によると西表島古見(コミ、当地風発音クミ)村に向かうときに停泊することがあったため、古見泊という名称を付けコンドイと発音するようになったとか。ただし別の意見もあります。大阪は何故に大阪かと聞かれても、そこに大阪があるからさ、と答えが返ってくるだけです。学者ならともかく、あまり深く追求せずにコンドイだからコンドイなのです。このコンドイ、実は竹富島で唯一シャワーと更衣室がある正式の海水浴場なのですが、その白い砂浜と遠浅の海はコマーシャルの撮影などにも使用され有名です。ただしこのビーチ、1kmぐらいまでは大人の腰ぐらいまでしかない遠浅の海で、潮が引くと海も遠く干上がり、とても泳げるどころではありません。泳ぐ人は潮の満ちている時を選んで下さい。後は海水の中を楽しむシュノーケリングをするのにも便利ですが、それほど豊かなサンゴ礁は見られません。そんなコンドイですが、残念ながら時間がないのでバスの窓越しに眺めて下さい。はい到着です。」
砂浜に乗りだすやいなや、バスはUターンを開始、懸命に写真を撮るのが精一杯で、もうビーチを離れてしまった。私には観光のノルマ達成だけのために立ち寄ったとしか思えないが、不満を言うわけにもいかない。八重山の気温では泳ぐことは可能だとはいえ、4月だというのに何人もの人が果敢に海の中に進出しているビーチは、書き入れ時にはさぞ賑わうことだろう。
2006/08/20以前