鹿児島県の先から始まるような九州南方の島々から、遙か大陸の台湾まで島々が点在する。この連続的な島々をひっくるめて南西諸島と呼び、県の境界に合わせて、鹿児島県側を薩南諸島、沖縄県側を琉球諸島と呼ぶ。
さらに細かく見れば、鹿児島側から南に大熊諸島、トカラ列島、奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島と繋がって、最後に異国の台湾へと繋がっているのである。
宮古諸島と八重山諸島は日本の遙か先にあるので、先島諸島としてまとめられる。あらためて簡単に覗いてみると、まず鹿児島のすぐ南に、種子島(たねがしま)や屋久島(やくしま)が控えているのが大熊諸島。次に大きな島にぶち当たるのが、奄美大島であり、この当りが奄美諸島になるから、その間にある小さな島々がトカラ列島になるわけだ。奄美諸島の一連の島々の後には、沖縄島を中心とする沖縄諸島が控え、そこから大分離れて宮古諸島と八重山諸島が続いて、その先が台湾となる。さらに沖縄諸島の遙か東方に位置する大東諸島、それから八重山諸島の北方に位置する尖閣諸島などがある。
沖縄県に所属している沖縄の先にある宮古列島や八重山列島を合わせて、先島(さきしま)諸島と言うが、宮古列島のさらに北西にある石垣島を中心とする島嶼(とうしょ・・・大小の島々)を八重山列島、または八重山諸島という。
そのうち石垣島は沖縄県石垣市、与那国島は八重山郡与那国町、ほかの島々は八重山郡竹富町に所属。大きさの点では西表島が圏内2番目だが、人の住まざる世界が広がるため、圏内3番目の石垣島が八重山諸島の中心的な島になる。石垣島は那覇市からの距離が410km以上もあり、地図を見るとほとんど台湾に隣接しているような感じだ。
石垣島と西表島に挟まれた海は石西礁湖(せきせいしょうこ)と呼ばれて、珊瑚礁地帯として知られた、波の静かな海がひろがる。
亜熱帯海洋性気候、年平均気温24度で、冬でも平均18.3度。黒潮の温かい水で水温は冬でも20度以上。そのため藻類がそだたず、栄養が乏しいが、しかしサンゴ礁地帯は楽園。石垣島では3月に海開きが行なわれ、ゴールデンウィーク直後から梅雨入り、6月半ばには明けてしまう。7,8月は最も熱く、8月は台風が最も多く接近する。10月に入ると、さすがに秋の予感。
本土、那覇空港、宮古空港から石垣空港に行く場合、各他の島へは船の発着する離島桟橋から高速船か、車などを運ぶ場合フェリーで移動。桟橋は那覇などに出向する石垣港からは歩いて15分ぐらい離れたところにある。一つの島から他の島に行く場合も基本的には石垣島に戻ってから、出直す形になる。往復券を買えば、有効期限がないものが多いので割引分徳だそうだ。与那国島だけは那覇から飛行機で行くことが出来る。
(おまけ)冬でも暖かければ動き回るハブに咬まれたら、うがいをしながら毒を懸命に吸い出すようにと書いてあった。昼間は隠れている夜行性だから、迂闊に茂みなどに踏み込んだり、森林を走り回らない?
・石垣焼・・・石垣島の焼物(やちむん)。
・八重山上布・・・八重山では14世紀頃に苧布という記録があり布織が始まっていたのかも知れないが、琉球王朝時代に人頭税が課せられると苧麻(ちょま、20種類ほどもある麻の種類の一種)の麻織物が女性の税となり、税としての八重山上布の品質が完成したという。宮古上布が紺地絣の織物に対して、白地を基調とする特徴がある。大戦後一時消滅し掛かったが、復興運動が伝統工芸を盛んにする。
・ミンサー織・・・アフガニスタンの織物技術が400年前に中国を経由して流入したものと書いてあったが、5つと4つの四角形の絣模様が交互に置かれる意味は「何時の世までも末永く」のいつが五つを、世が四つを表わすという婚約に際しての女性から男性への愛情の印の意味を持つとされ、また花婿の家族に送ることもあったそうだ。この他、布に施された色の異なる帯の部分を飾る2本ずつの筋が「道を外して浮気をしないように」などという意味もあるそうだ。NHK連続テレビ小説「ちゅらさん」では小学生の主人公が、結婚の約束をした相手が東京に戻る際、意味を隠したままミンサー織のお守りをプレゼントし、船が離れるのに悲しくて結婚しようと走り出す事によって、死んだ兄貴の言葉が具現化して実在の物になるという演出が行なわれていた。この時主人公が走った港は、小浜島の民間港ではなく、代わりに小浜島の漁港の方を使用していたので、番組放映後この漁港の桟橋を走りだす女性の皆さんが後を絶たず、遠くを見詰めて走り出す危険な行為が、社会問題にまで発展したのは記憶に新しい。(・・・嘘を書くな。)そんな女性の思いの籠もるべきミンサー織だが、私は基にもせず自分で購入してサイバーショットと眼鏡を入れる入れ物として2つばかり使用している。私はカメラや眼鏡と何時の世までも一緒に居ることになるのだろうか。
・石垣の塩・・・海水100%で製造された自然塩で、最近は本土の料理屋などにも置かれていたりする。何処ぞのトンカツ屋ではソースではなく石垣の塩で肉を食えと毎回言ってくるが、俺はソースで食う。
・教訓茶碗(きょうくんぢゃわん)・・・石垣島で400年も昔から作られたという教訓茶碗は、8分目以上に水を入れると底から水が外に流れ出てしまう茶碗で、繋がった幾つもの池が同じ水面の高さに保たれる自然の摂理を利用した化学実験で小学生にも親しまれる構造を持つ。その意味は日常の平和を保つためには自我の押し通しや欲望がほどほど以上であっては行けないよというようなもの。
・人口約4万4千人
・ハブがいる
・県内最高峰の於茂登岳(おもとだけ)があり標高526メートルの山が起伏のある島を形作っている
・離島浅橋(りとうさんばし)付近が市街地になっている
・バスの利用は路線バスがあり、ほかに空港線と川平リゾート線があり、5日間乗り放題で1000円コースが。
・タクシーは初乗り390円で、呼び出しでも迎車代がかからない。
・お金をおろすなら、離島桟橋すぐの八重山郵便局は日曜祝日でもCD・ATMが利用可能。
・川平湾・・・黒真珠の養殖でも知られる、石垣を代表する観光名所。全国に8カ所しかない国指定名勝所のひとつ。流れが急で遊泳禁止だが、グラスボートの観光が出来、海の中には250種類ものの珊瑚が。満潮時が特にすぐれた景観だそうだ。琉球真珠の養殖もしている。1953年に黒蝶貝から取れる真珠の養殖に成功、黒蝶真珠は養殖から6年掛けてしかも良球率が低いため、非常な貴重品。最近は金色白蝶真珠の養殖も開始しているとか。また、川平には川平第1貝塚もあり、600-700年前の遺跡として重要。
・底地(すくじ)ビーチ・・・川平湾近くの定番海水浴場。当地では3月のことを「うりずん」というが3/21にこのビーチでうりずん八重山海開きが行なわれ、日本最初の海開きとなる。
・白保の海・・・桟橋から見て東にある名所で、北の川平か東の白保と讃えられる(かどうかは知らん)。浜から約1キロほどの沖に10数メートルにわたって長いリーフが続き、その内側には世界的にも有名な珊瑚礁が広がる。珊瑚巡りのボートなど利用したり、カヌーとスノーケリングのツアーに参加して珊瑚すごっくいいと叫んでしまったり出来る。特に600年以上生きている世界最大級のアオサンゴ群落が見所だとか。青い珊瑚ではなく、遠くから灰褐色のマリモ岩のお化けのように見える珊瑚で、先の白いひだ状の特徴が目に付く。実は骨格の色が青いのだそうだ。一方青く目立つ美しい珊瑚は、エダサンゴであるから注意が必要である。他にも5mにも達する球状のハマサンゴなど見所が沢山あるが、途中にある「しらほサンゴ村」というサンゴ保護研究センターに立ち寄って、珊瑚の知識も獲得して出かけてみる。さらに白保の集落では赤瓦の屋根と珊瑚石灰岩の塀の昔の姿を見ることが出来、ひっくるめて観光に最適。
・白保に限らず・・・沖縄の珊瑚は大量発生のオニヒトデによる死滅と共に、1972年本土復帰以後、米軍基地の代償的に農業基盤整備事業の公共事業を無頓着に進た結果、工事による森林伐採などで雨降れば赤土が大量に珊瑚の海に流れ出して、珊瑚崩壊の危険にさらされている。
・石垣市街地の北にあるバンナ岳にあるバンナ森林公園展望台から、八重山の島々が。夜景もベスト。かなり広い公園で、ゆっくり放心状態に浸るにも最適?
・まずは川平湾か白保の海を見に行こう。
・良奈川や吹通川でカヌーが出来る。宮良川(みやらがわ)は河口に広がるマングローブ群が有名で、観光スポットになっている。
・宮良川のマングローブ・・・河口に拡がる面積としては国内最大のマングローブ(ヒルギ群)地帯で、長さ1.5kmが国の天然記念物に指定。河口地帯は地元ではカーチビ(川尻)と呼ばれて、干潮時には干潟で様々な生物が顔を出し潮干狩りなども楽しめるそうだ。
・石垣島鍾乳洞・・・竜宮城を形どった施設には、鍾乳洞と土産屋と食堂があり、鍾乳洞では全長3.2kmのうち450mを見学できる。店で購入した泡盛は、1年間2000円で鍾乳洞内に保存しておいて、期間が過ぎたら送って貰えるサービスがある。
・石垣市立八重山博物館・・・八重山の郷土史を学ぶ。
・宮良殿内(みやらどぅんち)・・・琉球王朝時代島役人のいえ。19世紀前半の氏族屋敷を伝える県内唯一遺されたもので、国の重要文化財に。ただし人が宮良家の人々が住んでいるので、内部は入れない。美しい庭園を持つ。
・桃林寺(とうりんじ)・・・1609年に琉球を征服した薩摩の津島氏が八重山に寺院がない事を知り、首里政府に命じて1614年建立された臨済宗の寺で、つまり八重山初の寺院。始めて仏教と寺院建設技法が伝わってきたという。1787年に再建された権現堂(ごんげんどう)は沖縄最古の木造建築として、国の重要文化財。
・石垣永将(いしがきえいしょう)の墓・・・沖縄発のキリスト教信者だったそうで、最後は火刑と相成った。
・請福(せいふく)泡盛博物館
・唐人墓・・・1852年アメリカ行きの船の中で中国人の輸出労働者(苦力・クーリー)の300人あまりが暴動を起こして、石垣に逃げるも米英人が上陸して殺害・再奴隷化された。ただし今の墓は1971年に建てられたもの。
・バラビドー観光農園・・・かなり広い観光農園で、様々な植物を観察。
・御神崎(おがんざき・うがんざき)・・・島西、崎枝(さきえだ)半島またの名を屋良部(やらぶ)半島には標高216.5mの屋良部岳があり、その半島の北西の先端切り立った断崖にある御神崎。真っ白な灯台があり、4月、5月にはてっぽう百合が咲き乱れ、夕日の名所としても知られる。また灯台の下の海に突き出た方に向かうと昭和20年に石垣に戻る途中の八重山丸が遭難した惨事の慰霊碑があり、さらにその奥に進んでいくことも出来る。
・玉取崎(たまとりざき)展望台・・・島の北側にある平久保半島に向かい、丁度首が細くなっているところあたり、標高201.6mの金武岳(きんぶだけ)の東側山麓にある。北の半島と、南側の野原崎(のばるざき)さらに、東の珊瑚の海に、植えられたハイビスカスとごちそうさまでした気分になれる展望台。
・伊原間(いばるま)サビチ洞・・・これも北に向かって細くなるあたりにあり、石垣島が出来た3億7000年前に海底から浮上して出来た鍾乳洞だとか。海に抜ける貫通型の横穴で全長324メートルで、神秘の鍾乳洞で珊瑚やシャコ貝などの化石を眺めつつ進行すると、伊原間湾が広がっている。運が良いと入り口の池に住み着く2メートルもの巨大ウナギを見ることが出来る。ここでは乗馬も出来るそうだが、もちろん鍾乳洞の中で乗馬する訳じゃあない。
平久保崎(ひらくぼさき)・・・石垣最北端。白い灯台、晴れた日には彼方に多良間島が見える。ついでに平久保集落にある国の天然記念物ヤエヤマシタンも見物できる。
・名蔵アンパル・・・・ラムサール条約(湿地保全の国際条約)に登録されている湿地
・米原(よねはら)のヤエヤマヤシ群落・・・・石垣島と西表島だけに生える1属1種のヤシ科植物であるヤエヤマヤシの、最大規模群落。国の天然記念物に指定され、山の中腹の展望台からは島北部が展望できる。それから、米原には、米原ビーチ、米原キャンプ場もあり夏にはキャンプを求めて沢山の人々が群がってくる。
・野底岳(野底マーペー)・・・北部の平久保半島に向かう途中にある標高282mの岳。北部石垣は昔は裏石垣と呼ばれ、耕地も少なくマラリヤに掛かりやすい恐ろしい土地だったが、昔は新天地を求めたり、強制移住させられて開拓に従事しては、村崩壊という悲劇が繰り返された。そんな強制移住させられたうちに、一人の娘がおったそうな。娘のマーペーと言って、彼女は黒島から村ごと野底に移住させられ、黒島の許嫁カナムイの事を思いだして泣き濡れて開墾していたのだったが、ある時思い切って野底岳に登り詰めた。黒島が見たい一心で走り登ったのだが、哀れ於茂登岳(おもとだけ)に遮られ、どうしても見ることが出来ない。娘はそのまま泣き尽くし、倒れ込み、疲れ果てて眠りに落ちると、とうとうそのまま大きな岩となってしまった。それいらい、野底の岩山のことを皆は野底マーペーと呼ぶようになったとさ。
・石垣市公設市場・・・まあ市場だす。
・オヤケアカハチの碑・・・崎原公園に立っている。かつて八重山統治を行なった首長の一人で、地域ごとの首長が、例えば与那国島のサンアイイソバなど互いに割拠していた。同じ頃沖縄島には中央集権を図る首里の尚真王(しょうしんおう)が居て、納税を拒んだオヤケアカハチが地域首長と反旗を翻せば、国王軍と宮古の連合が中曽根豊見親(なかそねとうゆみや)を先陣として突撃してきたので、1500年敗れ去って、先島諸島の従属化が一層促進されてしまったという。八重山ではそんなオヤケアカハチの気概を讃える碑が建っている。
・フルスト原(ばる)遺跡・・・オヤケアカハチの居城と代々伝えられてきた15,16世紀頃の遺跡。
・トゥバラーマ・・・トゥバラーマとは何かいと問われて、唄さと答える。
<<T-DON(てぃいどん)竹富島>>・・・このサイトは、沖縄県の八重山諸島にある竹富島の民宿、宿、観光情報を主として、文化、伝統などの情報もご紹介しています。
<<竹富島ゆがふ館>>・・・竹富島の紹介が非常に丁寧になされている。竹富島に旅行の際はぜひお寄り下さい。
石垣島の南西だいたい6kmに位置する周囲8kmあまりの川もない平たい島で、そのため農耕には適さず、島民は西表島の東岸に出かけて水田を開拓していたそうだが、かつては昔八重山の行政府があった。といっても竹富の西塘(にしとう)と言う人が、首里の政府からお役目承って八重山統治を開始したが、1543年には不便のため石垣島に役所を移したというのが真相である。この人は村の優れものとして死後まつられ、西塘御嶽(うたき・島の言葉ではオン)となったそうだ。その呪いではないが、今日竹富町を代表するはずの竹富島には、町の役場は置かれず、何故か石垣島に置かれている。島は隆起した珊瑚礁で形成され、ところどころに石灰岩が小さな山のようになっている。第2次大戦の戦火を免れた集落は、多彩なシーサー、沖縄で伝統の赤瓦の屋根、琉球石灰岩の石垣といった古き沖縄の姿を留めているとされ、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。職人の積んだ石灰岩の石垣は漆喰で固めてもいないのに、どんな台風にもめげないそうだ。自転車が借りられるし、水牛車観光も名物だが、水牛よりも早足で歩いた方が楽な気がしなくもない。
島のほぼ中央にンブフルの丘があり、その北側にアイノタ(東集落)、インノタ(西集落)、南側に仲筋(なかすじ)の3つの集落群に分かれている。急ぎ足なら半日で島を一周できる。島には30ちかい御嶽(うたき)があり、様々な神をまつっている。中に入っちゃ駄目駄目。民宿が約10軒あるが、キャンプは禁止されている。
・10世紀頃移住してきた人々が住み始めたこの島では、1500年の琉球王朝軍によって八重山に力を持っていたオヤケアカハチ討伐の後に琉球王朝の支配が強まり、竹富島の西塘というものが首里で王朝教育を受けた後に八重山統治を任されこの竹富島に行政府を置いたものの、不便のためか1543年頃行政府を石垣島に移した。その後1609年に琉球王朝が薩摩藩に屈服すると、1000人以上の人口が過剰であるとしてか定期的に石垣島などへ集団移住させられる事が増え、特に1771年の八重山大津波の時には、石垣島で沢山の人が亡くなったため、人的被害の少なかった竹富住人が4割を越える523人も石垣島の冨埼村に移住させられた。明治維新を越えて1879年の琉球処分後にはこの竹富島も沖縄県に所属となるが、政治体制はのらりくらりと変化し、1892年には島に小学校が出来、漸く1903年になって人頭税が廃止され、しかし同じ年に徴兵令が適用さるようになり、大戦中までの送り出し悲劇が開始。幸い第2次大戦の直接的被害はなく島の景観が破壊されることはなかったが、大戦後に台湾に住んでいた日本人の八重山移住などがあり、人口は一時2千人を超えたが、今日では過疎化の問題を抱える。
・人口約300人
・ハブがいる
・石垣島から6km、高速船で約10分。
・東桟橋・・・石垣島と船が行き交う竹富島の港。
・西桟橋・・・夕日の名所
・カイジ(皆治)浜・・・別名「星砂の浜」、「星砂」や「太陽の砂」という星形をした砂が広がっている。この星砂は、実は大型の単細胞野郎で殻を持つアメーバーの仲間「有孔虫」のお亡くなりた後の殻なのだそうだ。アメーバ自身も星砂(ほしずな)や太陽の砂と呼ばれるが、正式名称はそれぞれ「バキュロジプシナ」、「カルカリナ」であり、浅場の海藻などで生活する姿を見つけることが出来るらしい。角のない円いやつも居て「ゼニイシ」と呼ばれる。ところが、最近は観光客の乱獲によって星砂が乏しくなってきているそうだ。遊泳は禁止。
・コンドイビーチ・・・遠浅の砂地ビーチとして八重山でも有名なビーチ。波の穏やかな海水浴を楽しめるビーチで、無料のシャワーとトイレ、更衣室がある。浜を歩いていると、カイジ浜に到達する。
・なごみの塔・・・集落の中心付近にある赤山公園の丘に立つ展望台。塔は赤山丘にあり、ここは昔壇ノ浦で破れた平家の部将が赤山王として住み込んだという伝説があるから驚きだ。この塔を目印に集落を歩くと善いとか。昔はメガホンで連絡を知らせ、高さ24メートルは島の最高地点。塔周辺には星の観測に使用した星見石や、石で叩くと風変わりな音のする太鼓石などがあるとか。
・喜宝院(きほういん)・・・日本最南端にあるお寺。一角に蒐集館(しゅうしゅうかん)があり、先代住職の集めた品々がならぶ。
・竹富民芸館・・・芭蕉布、ミンサー織りなど伝統織物を継承するための施設。制作見学や、安く購入ができる。
・安里屋クヤマの生家・・・安里屋ユンタにでてくる絶世の美女クヤマの生家。
・ンブフルの丘・・・飼い牛が逃げ出して、角を使って丘を築いてンブフルと鳴いたという不可解な逸話から、ンブフルの丘と呼ばれるそうだが、標高約20mの丘には、ンブフル展望台が建てられて、島を一望できる。料金は僅か100円。
・種子取祭(タナドゥイ・たねどりさい)・・・600年の歴史を持つ国の重要無形文化財にも指定されている祭りで、9日間繰り広げられる。島を離れた人々悉くに舞い戻り、観光客の目当てもあり、島の人口が大幅に増加するそうだ。特に7,8日目は水牛車や観光バスもストップして祭り一色になる。2日間にわたる奉納芸能は、弥勒奉安殿での「ミルクおこし」から始まる。
2001年のNHK連続テレビ小節「ちゅらさん」で脚光を浴びてしまった島で、古波蔵家はどこですかと彷徨い歩く観光客が絶えない。「和也君」が天に帰っていた記念に植えられたというガジュマルの木は、個人の土地なので勝手に入れないが、遠くから眺めるとドラマが思い出されるという。島中央の大岳(うふだき)は99Mあり、登ると与那国以外の八重山の島々が展望できる。名曲「小浜節」で知れ渡ると、どこぞに書いてあったが、私知りませんです。
・人口約450人
・ハブがいる
・石垣島から14km、高速船で約25分。
・シュガーロード・・・ヤマハリゾートはいむるぶし(インドクジャクを持ち込んでしまった)から集落方向にまっすぐ伸びるサトウキビ畑を突き抜ける道。
・小浜島民俗資料館・・・・小浜島の歴史を眺める施設。
・喫茶ヤシの木・・・島で唯一の喫茶店。
・ヤマハリゾートはいむるぶし・・・うっかりインドクジャクを持ち込んでしまったら野生化してしまったという噂もある、1979年開業の素敵なリゾートホテル。「はいむるぶし」は「南十字星」の意味。
・細崎集落(くばざきしゅうらく)・・・突き出た形の西の半島にある海人たちの活躍する集落。海人公園にはマンタを形どった屋根を持つ展望台があり、西表島がすぐそこに見える。また、漁港の防波堤は「ちゅらさん」の走りながら結婚を叫ぶシーンで使用。真似して遠くを見詰めながら「結婚しようネー」と叫び走る観光客の事故が絶えない。あれは熟練者だけが行なうべきである。(・・・また出鱈目を。)
・カンドゥラ石・・・豊作感謝と来年祈願を兼ねた「吉願祭(きつがんさい)」を行なうオン、嘉保根(かほね)御嶽の入り口にある2つの石。かつて雷鳴轟き空から落ちてきた天上石で、大雨を降らせてくれたという逸話から、日照りの時に石を持ち上げては落とし、落としては持ち上げて雨乞いを祈ったという。
・嘉耶真(かやま)島・・・小浜島北2キロに浮かぶ無人島で、石垣島からの予約ツアーに申し込むと、海水浴コースや、シュノーケルツアー付きやらでシャトロルボートで連れて行ってくれる。施設スタッフだけしか居ない島だが、一方大量の野ウサギが生息し、サンゴ礁はシュノーケリングが最適だそうだ。
竹富島の南西約11kmに浮かび、ハート形に見えるので「ハートアイランド」などと呼ばれている黒島は、隆起珊瑚礁で出来た平たい島で珊瑚礁に囲まれた周辺の海の美しさは例えようもない。ウミガメの産卵で知られる西の浜、珊瑚の美しい仲本(なかもと)海岸などがある。集落は島中心にある東筋(あがりすじ)の他に、黒島港付近の保利(ほり)、宿屋とお食事所の集まる宮里・中本(みやさと・なかもと)、さらに北東に伊古(いこ)があり、集落以外は黒毛和牛の放牧地が広がり、牛の数は人口の10倍を超える。2月には黒島牛祭が行なわれ、牛と綱引きしたり、出店でステーキが並んだり、大騒ぎになる。
・人口約200人
・ハブがいる
・石垣島から15km、高速船で約25分。
・サイクリングが最適だが、日陰がないので注意
・仲本海岸・・・泳げる海岸としての黒島代表的海岸である。生物保護地区となっている、沖合のリーフまで連なるワタンジ(渡ん地)という浅瀬があり、干潮時には露出、リーフへの通路となる。リーフの外側アウトリーフは急斜面になっていて、一気に深く落ち込みテーブル珊瑚などが生息。一方、内側はイノー(礁池)と呼ばれる天然のプールに変化する。行動は干潮時前後2時間が目安。
・西の浜では4~8月にアカウミガメ、アオウミガメ、タイマイという3種類のウミガメが産卵を行なう、世界的にも珍しい例が。ただし年々減少傾向で、研究者と保全運動者の危機感を高めている。。
・キノコ岩・・・隆起珊瑚礁海岸下側が浸食され崩れそうに際どくなった地形をノッチと言うが、黒島の海岸には海岸線ではなく離れた岩の下側が浸食されたキノコ岩が幾つも見られる。
・伊古(いこ)桟橋・・・昔使用されていた非常に長い桟橋。
・黒島ビジターセンター・・・珊瑚や動植物から黒島伝統まで揃えた無料の資料施設。
・プズマリ・・・ビジターセンターの近くにある琉球石灰岩による人工の丘で、琉球王朝時代の海上監視用狼火台をプズマリという。今日では展望台になっているが、当時は石垣島や西表島に合図を送ったりしていたそうだ。
・黒島灯台・・・島の北にあり、ハート形の先端にあるので、恋愛男女が訪れると見事に結ばれるという。ただし「接吻など所望致す」と男性が言うと、99%の確立で破綻する。
・八重山海中公園研究所・・・石西礁湖に生息する生物の調査や、黒島のウミガメ調査を行なうための施設。
・遊び岩(アサビシバナ)・・・黒島港のすぐ西側にある岩場で、美しい珊瑚礁の海を見ることが出来る。
・東筋集落(あがりすじしゅうらく)・・・黒島中心付近にある島の主要集落。郵便局、伝統工芸館などがあり、たま商店もここにある。また日本の道100選の最南端の道「県道黒島港線」が通り抜けている。しかし折角のサンゴ石の白い歩道は2001年に目出度くアスファルトで舗装されてしまった。
・たま商店・・・島にたった一つの商店
・パームツリー・・・レストランだぜよ。
・ツンダラ節・・・18世紀中頃に島民400人が石垣島野底に強制移住させられ、別れ別れになる恋人の心を唄にしてみたとされる。
上地(かみじ)、下地(しもじ)の二つの島の総称。両島が離れていることから、パナリ島とも呼ばれる。むかし、パナリ焼きと呼ばれる土器を産出していた。食堂や商店などはない。人口ははずか6人だが、祭事の時に出身者が戻ってくるため、民家が多い。アカマタ・クロマタで知られる豊年祭は島最大の行事。2つの島は干潮時には珊瑚礁の道でつながる。ただし定期便がないので、日帰りツアーなどに申し込んで出かけるのが一般的。
・人口約6人
・ハブがいる
・定期便はない
・タカニク(火番盛)・・・上地にある17世紀の烽火(ほうか)台
・クイヌパナ・・・端の高台の意味で、上地にある昔の見晴台。島の唄に「クイヌパナ節」というのがある。
・東御嶽(あーるうがん)・・・ジュゴンの収穫を祈願したオンで、今日では天然記念物指定のジュゴンは、当時王への献上品や、役人への税として皮と肉を加工して納めたりしていたという。
・パナリ牧場・・・下地の牛さんが闊歩。
・はいむるぶしアネックスパナリ・・・上地にある唯一の宿泊施設で、小浜島にある「ヤマハリゾートはいむるぶし」の別館だそうだ。
島の面積の90%が亜熱帯の原生林で、島の半分ほどは西表国立公園に指定されている。以前は定住困難のマラリアにかかる島だったが、八重山の風土病と呼ばれたマラリアは1962年に撲滅され、病苦から解放された。比較的周辺にそれぞれそびえる古見岳、テドウ山、御座岳という標高400メートル台の山がそびえ、昔の海水上昇期にも完全水没しなかったことが、独自の生態系を生み出したそうだ。
生活エリアは大原港を拠点とする東部と、船浦(ふなうら)港・上原港を拠点とする西部に分かれている。二つのエリアは30キロも離れているので高速船の行き先は確認すること。路線バスは、辛うじて開かれ道路の走る島周辺を周るように、大原と白浜の間約50キロを1時間30分で結んでいるが、周辺も残る1/3は全く開拓されていないため、一週は出来ない。カヌー・トレッキング・シュノーケリングなどが楽しめ、宿泊・土産屋、さらに見学場所も圧倒的に西部地区に多い。イリオモテヤマネコは有名だが他にも珍しい生き物が沢山いらっしゃる。
上原方面の西部地区では宿泊施設や、飲食店土産屋などが数多く存在し、ピナイサーラの滝、星砂の浜、浦内川を上流に登ってのトレッキングでカンピレー、マリュドゥの滝などが楽しめる。一方大原拠点の東部地区では仲間川遊覧船観光や、由布島観光などが楽しめる。
・人口約1950人
・ハブがいる
・石垣島から大原25.5km、船浦・上原30km。高速船で約35-40分。
・浦内川・・・11本の支流を持ち全長20km、支流も合わせると39kmに及ぶ沖縄県最長の川。遊覧ボートで中流の軍艦岩まで行って引き返すマングローブや亜熱帯植物観光(1時間ぐらい)の他に、そこで降りて歩いて2つの滝を見に行くコースがあり、他にも幾つもツアーコースがご用意されている。軍艦岩で降りるコースでは、内陸部に上がっていくと上流10km付近にあるマリュドゥの滝(円い淀みの滝という意味)、さらに徒歩で5分ほど上流に小さな落差が階段状に連なるカンピレーの滝がみられる。カンピレーとは神々が座るところという意味で、島の15か所の神々が集まって島創りの話し合いを行なったとされ、聖地として進行されている。遊覧船乗り場から行って帰って3,4時間コースだそうだ。
・仲間川(なかまがわ)・・・国内最大規模のマングローブ林を持つ川で、全長17.5kmのうち、河口から約5kmまでマングローブが広がっている。オオヒルギやヤエヤマヒルギのほかに、西表島でも東部地域でしかみることのできないマヤプシキが自生。6.5キロ上流の遊覧船の終点を降りると、日本最大といわれる樹齢400年のサキシマスオウノキがみられる。サキシマスオウノキは、奄美以南に生息する常緑高木。
・仲間第1貝塚、仲間第2貝塚・・・・大原にある貝塚で、要するにこの島が居住し辛いとはいえ、八重山の中でも最も古い人間の歴史を持つことを証明する貝塚。
・大見謝川(おおみじゃがわ)・・・岩場から海に水が流れ落ちていく川の河口付近にはロードパークや、散策路が整備されている。
・由布島(ゆぶじま)・・・400Mほどの浅瀬を水牛車に揺られると(歩いても渡れる)亜熱帯植物園となっている小さな島に行き着く。この島は海流で堆積した砂だけで形成されたそうだ。台風で壊滅して人の離れたこの島を植物で埋め尽くした西表正治おじい伝説(・・・伝説じゃあないか)が残されている。干潟にはミナミトビハゼ現地名トントンミーなども生息。
・船浮(ふなうき)・・・人口約50人、定期船でしか行けない西表の西にある陸の孤島。琉球王朝時代の首里役人と地元女性カマドマの悲恋伝説がある。
・ピナイサーラの滝・・・ピナイサーラとは髭の滝という意味。だから本来はピナイサーラだけで良いはずだが、まあ「髭滝の滝」でも可笑しくはないか。沖縄県最大の滝で、約55mの落差を持つ。船浦港からのヒナイ川遊覧ボートで見学でき、だいたい2時間でガイド観光が楽しめて、1500円だそうだ。
・祖納(そない)・星立(ほしたて)の集落・・・歴史の古い集落で、防風林のフクギや、テーブルサンゴでできた石垣が残る。毎年旧暦9月に海から神を迎え入れる五穀豊穣の祭り「節祭」が行われる。
・星砂の浜・・・島北側の定番ビーチ。対岸の小島との間がプール状になっていて、熱帯魚もよく見かける。泳ぐなら他にも、島の北西にある月ヶ浜や、島の南側にある人けの少ない南風見田の浜(はえみたのはま)などがある。
南風見田の浜(はえみたのはま)・・・遠浅の海水浴場で、トイレだけはある。浜の向こうにはごろごろ岩場が見え、ウミガメの産卵場所でもある。波照間島の住民が太平洋戦争で無理矢理疎開させられて、当地でマラリヤに掛かり次々に亡くなっていった悲劇を忘れるな、という忘れなの石がある。
・バラス・・・珊瑚のかけらで出来た小さな島で、体験ダイビングで知られるそうだ。
・イリオモテヤマネコ・・・およそ100頭ぐらいは居るのだろうとされている天然記念動物。
・西表島温泉・・・美原を越えてもう少し上原の方に向かっていくとある、だいたい島の北東に位置する日本最南端の温泉。カルシウム、ナトリウムを豊富に含む硫酸塩泉で、動脈硬化や慢性の皮膚炎に効果が。
・古見(こみ)のサキシマスオウノキ群落・・・大原から美原に向かう途中行程真ん中ぐらいにあり、三離御嶽(みちゃーりおん)の中で保護されているうちに、大群落となったとか。また付近には平西貝塚もある。
・環境省西表野生生物保護センター・・・古見を少し越えて美原に近づく途中にあり、島の自然やヤマネココーナー以外にも島人の暮らしの紹介もされている。すぐ近くに熱帯林の維持再生の施設である西表熱帯林育種技術園もあり、各地から集められた熱帯樹が見学でき、展示室でお勉強も出来ちゃう。
・炭坑跡・・・ペリーが発見してしまった石炭が採掘開始され第2次大戦時まで掘られていた。昭和初期には本土、台湾からも炭鉱労働者がかき集められ、映画館や病院、売店が並び活気を呈したのだそうだ。しかし、当然過酷な労働とマラリアなどでズタボロの人生を歩み消えていくものが後を絶たなかった。
・子午線モニュメント・・・島北西方向にある祖納にある、東経123度45分6.789秒の子午線が通ることを記念したモニュメント。不定期だが夜になると祖納から白浜地区の方に子午線に沿ってレーザー光線を放つという、西表島のジャングルに不意に現れた文明の光に、感無量という人にはお勧めのスポット。
・人口約50人
・ハブはいない
・石垣島から30km、フェリーしか無くて約130分。
沖縄でも有名な民謡「鳩間節」の舞台で、西表島の北5Kmに浮かぶ。鳩が多く特徴ある鳴き声でズアカアオバトが鳴いている。観光地化されておらず、鳩間行きのフェリーも週3便がでているだけ。島の中は徒歩だけだが、十分回れる。集落は南側にあり、民宿は基本的に3食付く。一方キャンプは禁止。旧暦6月の豊年祭の時だけは、沢山の人々が集まってくる。
・鳩間中森(はとまなかもり)・・・島中央にある標高33.8m、島の最高地点で、石積みの遠見台と、鳩間灯台が立つ。周辺は亜熱帯の植物に覆われて、野生のヤギに合うこともある。「鳩間節」はここから見た眺めと島人の生活を歌ったもの。
・前の浜・・・鳩間港の近くにある海水浴ビーチだが、トイレなどはないし、水道もない。
・浦崎商店・・・南側集落にある島唯一のお店。
「はてるま」とは、「果てのサンゴの島」という意味で、人が住む島では日本の最南端。地元では「パティローマ」と呼ばれ、このパティローマの南(パイ)に、「パイパティローマ」と呼ばれる楽園的な島があると考えられてきた。琉球政府の資料にも1648年に重税を逃れるため40人もの住人がパイパティローマ目指して脱走したとあり、神々の住む楽園が海の先にあるという「ニライ・カナイ」伝説の具現化したものかもしれないが、実際にどこかの島を指していたのかも知れない。他にも、島の発祥伝説も残されていて、遙か昔人々が幸せに暮らす島に油の雨が降り注ぎ、兄と妹2人だけが生き残ったので、夫婦となりて子孫を残したというもので、東南アジア方面の神話と似ているものがあるそうだ。
波照間島は人の住む日本最南端であり、「日本最南端の碑」と「日本最南端平和の碑」があり、何にでも「日本最南端の」という形容詞を付けたくなる。集落には赤瓦の民家や古い石垣と防風林のフクギなどが残り、昔のたたずまい。一面広がるサトウキビ畑も島を象徴で、島の中心的産業になっている。星空美しく南半球の星座に近づくために訪れる天文ファンも多い。台形状の島は同じような風景が続き、迷うことも多い。メインの交通手段は自転車。
・人口約550人
・ハブはいない
・石垣島から42km、高速船で約60分。石垣空港から飛行機あり。
・コート盛・・・昔17世紀の琉球王朝支配時代に海上を監視して、西表島の番所に伝えるためにのろし火が上げられていた。眺めが抜群。
・ニシ浜ビーチ・・・波照間港の西にある美しい定番ビーチで、更衣室、シャワー、トイレが整備されて、5月中頃から9月終わりぐらいまで遊泳できるそうだ。ここでは捜すと星砂も見られる。特に夕暮れの風景は際だっている。
・日本最南端の碑・・・蛇をデザインした小道が造られ、その裂きに最南端の碑が建っている。ただし無人島なら、もっと最南端がある。絡み合う蛇は、72年の本土復帰の時に本土と沖縄が離れることのないようにと願いを込めたものだそうだ。また、戦後50年に建てられた「日本最南端平和の碑」もある。
・ハマシタン群落・・・島西岸に太い幹を曲げて成長するハマシタン、和名ミズガンピの群落がある。
・波照間空港・・・一日一回飛行機が到着する。
・星空観測タワー・・・200mmの屈折式天体望遠鏡がある観測ドームと、星を説明するドームがある。上空にジェット気流がないため、気流が安定して星がたまらなくきれい。南十字星(はいむるぶし)の4つの星がみれるのは、12月上旬から6月上旬にかけてだが、南十字星の部分なら辛うじて?一年中見られる。
・オヤケアカハチ生誕の地・・・15世紀終わりに、八重山中で首里王に対して大規模な反乱を企てた首謀者オヤケアカハチが生まれた屋敷の後とされている所に、記念碑が建っている。反乱は切なくも敗れて1500年ちょうどに時の王、尚真王によって討伐されたのだという。
・下田原(しもたばる)貝塚・・・島の北にある貝塚。
・泡波(あわなみ)・・・・場所じゃない。幻の泡盛の名前。この島だけで作られる。
・ムシャーマ・・・旧盆(7/13-15)の中日を当地でムシャーマと呼ぶが、その祭もムシャーマと呼ばれる。仮装行列と、舞踏や狂言(コンギー)などが行なわれる。
石垣島からの距離は117Km、台湾までは111Kmという日本の最西端。晴れた日にはうっすらと台湾の島影を望む。八重山のほかの島々とは違い、絶海の孤島にあり、サンゴ礁はない。那覇からの航空便を利用して与那国空港までは約2時間。石垣島空港から約30分。石垣からの船は週に2便。約4時間で付くが、外洋に出るので揺れる。1986年に発見された海底遺跡やハンマーヘッドシャークなど、ダイビングが醍醐味だが、流れが速くベテラン向き。カジキ漁の基地としても知られる。また東アジアの在来種である嘗ての農耕馬ヨナグニウマが、今は観光ウマとしてのらりくらりとしている事でも有名。
歴史としては14世紀頃沖縄本島の海上貿易の中継点となり、やがて女首長サンアイ・イソバの元で独立国として君臨したが、1510年に琉球王国の支配下となった。台湾が日本領だったころは台湾との密貿易なども盛んで人口が2万人に達したこともあるそうだ。
・人口約1830人
・ハブはいない
・石垣島から117km、フェリーで約4時間。飛行機で約30分。
・西崎(いりざき)・・・最西端で日本で一番最後の夕日を眺める。世界最大の蛾ヨナグニサンをかたどった展望台があり、観光協会で発行している日本最西端到達の証明書が手にはいる。1枚400円。3月にはテッポウユリが咲き誇り、非常に運がよければ111km離れた台湾を遠く望むことが出来る。
・祖納(そない)集落・・・島の中心で、昔ながらの家々が並ぶ。花酒の酒造所も点在。
・ヨナグニサン(アヤミハビル)・・・世界最大の我の名前であり、県指定の天然記念物として与那国島が主な生息地。アヤミハビル館もあり、ヨナグニサンの標本や生態を見ることが出来る。
・花酒・・・国税庁の超法規的な計らいで認められているアルコール度60%の泡盛。ジン、テキーラと同様スピリッツと呼ばれる蒸留酒の分類に入る。水を注ぐとふわっと乳白色に濁ることから「はなざけ」とも呼ばれる。
・与那国島海底遺跡・・・未だ謎に謎を呼ぶ海底の遺跡。ダイビングがベストだが、ライセンスが無くてもグラスボードでも十分に楽しめる。人工で切り取られたかのような平面で切り取られ階段状になった遺跡は、自然の営みの結果出来たのか、はたまた古代遺跡が水没したのか。与那国島には水没した鍾乳洞もあることから、いわんこっちゃない、水没したのだと叫ぶ人もいる。他にもサンニヌ台や立神岩など島には不思議が連なる。
久部良(くぶら)バリ(割)・・・幅3m、深さ7mの岩の裂け目で、17世紀からの人頭税時代、妊婦に飛び越えさせ飛べない者を転げ落としたという人減らし政策が。島には他にも、100aぐらいの水田に男性集合を掛け、遅れて水田に入れなかった者を殺戮したという人升田(とうんぐだ)の伝説もあり、その跡が残されているそうだ。ちなみに近くの久部良漁港は近海で取れるカジキマグロの漁獲高が日本一だという。
・サンニヌ台と軍艦岩・・・波の浸食と風化によってできた、階段状の岸壁。近年この断崖におおわしや亀をかたどったレリーフのような後が発見され、海底遺跡と関連して調査が進められている。サンニヌ台の隣にあるのが軍艦岩。
・浦野墓地群・・・島北部にある海沿い丘陵地にある墓地群で、亀甲墓が並んでいる。
・東崎(あがりざき)・・・島東端の岬で、ヨナグニウマがのんびり草をはむ。晴れた日には遠く西表島が見える。
・立神岩(たちがみいわ)・・・荒々しい景観の東海岸にそそり立つ岩。海側の岩が顔のようにも見えるので、与那国モアイだとの話もある。昔若者が上って降りられなくなり、下ろしてくれーと叫びながら悲嘆きわまって眠りこけると、神に助けられサンニヌ台で目が覚めたという伝説が。
ティンダハナタ・・・標高100mの切り立った岩山、天然の展望台からの眺望がすばらしい。かつて島を統治した女傑サンアイイソバが居を構えたという説がある。彼女の村サンアイ村が広がっていたという。他にも、与那国に女と犬が漂流し暮らしていたが、そこに男が漂着し犬を殺して女をめとったのが与那国の人々の始まりだという。その後犬の殺害を知った女は、犬の死骸を抱いて自害。生まれた7人の子供達が子孫を繁栄させていくのだそうだ。また、昔琉球王朝時代にはこの展望台の上で島役人の接待が行なわれ、悪役人だと酔わせて突き落として事故死にしてしまったという。ここでは高台なのにわき水が湧き出ている。また詩人伊派南哲(いはなんてつ)の碑もあるそうだ。
ダンヌ浜・・・ここは珍しく断崖ではなく海水浴が出来る砂浜と珊瑚礁になっている。リーフの外に出ると、あっという間に流されて、二度と現世に戻れないかも。
比川浜(ひかわはま)・・・小さな比川の集落にあるビーチで、太平洋側に面した遠浅で波の静かな海水浴場。
与那国町伝統織物工芸館・・・島の上納品だった与那国花織などに触れることが出来る。
与那国民俗資料館・・・館長が集めた資料が並ぶ私設の資料館。