古今和歌集の物名について

(朗読まだ)

古今和歌集の物名について

 古今和歌集の巻第十は「物名(もののな)」の和歌を収めている。これは例えば「猫にマタタビ」という言葉を、

すてきだ「ね 子にまた旅」を させるとは

などと、別の意味の文脈のなかに折り込むもので、たとえば、「古今和歌集」の巻第十のはじめには、「うぐひす」の物名として、

こゝろから
  花のしづくに そぼちつゝ
   うくひずとのみ 鳥の鳴くらむ
              藤原敏之(としゆき) 古今集422

が記されている。
 ここで「うくひず」とは、「憂く干ず」という意味で、つまるところは、こころ引かれて梅の花にとまり、その花の雫に羽を濡らしながら、「羽が乾かなくて(=干ず)つらいなあ(=憂く)」と鶯は鳴いているよ、と言っているまでのこと。もっともこの場合、「うぐひす」が「うくひず」と鳴いているというのは、ちと表現がこなれず、着想に溺れた気配がなくもない。ただ、この和歌の場合は、

「うぐいすが梅の美しさに溺れて、
   自ら立ち寄った花の雫に憂いている」

という全体の表現のきめ細かさが認められて、
   優れた物名とまではいかないまでも、
 巻頭に置かれているものと思われる。

続けて、古今集より

 短い言葉は、たやすく折り込めそうではあるが、
  たとえば「おき火」を折り込んで

流れいづる かただに見えぬ なみだ川
  沖ひむ時や 底は知られむ
          みやこのよしか  古今集466

「沖ひむ時」など、優れた和歌の表現というよりは、むりやりねじ込んだ日常語を、苦しく述べ立てたようなもので、『古今和歌集』とはいえ、このくらいの駄歌もなかなかにひしめいているのは、はなから遊び歌であるから、採点も甘くなったものかと思われる。あるいはわざと表現し損ねたような感覚すらも、面白いものとして採用したのかもしれない。


 短い言葉には過ぎなくて、また、和歌の内容との関係も微妙ではあるものの、なかなかに優れた例としては、夏に咲くという「くたに」の花を折り込んで、

散りぬれば のちは芥(あくた)に なる花を
  思ひしらずも まどふ蝶(てふ)かな
          僧正遍昭 古今集435

といったものがある。ただしここまで短いと、恣意的(しいてき)に詠み込んだものか、単なる偶然なのだか、題名が記されているから分かるようなものの、「物名」としてのアイデンティティーがあやふやで心もとない。より長くして、優れたものとしては、

    「すももの花」
今いくか 春しなければ うぐひすも
  ものは眺めて 思ふべらなり
          紀貫之 古今集428

    「からももの花」
逢ふからも ものはなほこそ 悲しけれ
  別れむことを かねて思へば
          清原深養父(ふかやぶ) 古今集429

    「やまがきの木」
秋はきぬ 今やまがきの きり/”\す
  よな/\鳴かむ 風のさむさに
          よみ人しらず 古今集432

などがある一方で、滑稽ものにふさわしい、
  笑いを誘うような、「りうたむの花」の和歌もある。

わが宿の 花踏みしだく 鳥打たむ
  野はなければや こゝにしも来る
          紀友則 古今集442

これは、

「わたしの宿の、花々を踏み荒らしている、憎たらしい鳥を討ってくれる。野原がないからといって、ここにやってきやがって。こんちくしょうめ」

というたわむれに、「りうたむのはな」つまりリンドウの花を折り込んだものであるが、「鳥打たむ」などという、普通の和歌では取られないような表現や、鳥をぶちのめすようなシチュエーションが、物名のもとには平然と行われ、それがかえって今日には、新鮮に思えるような場合もある。もちろん、当時の人々も、規範とされる和歌を踏み外したところに、なにも言葉を織り込んだだけではない、おもしろみを感じ取っていたに違いない。

ただ読み込むなら

 そんな物名が、古今和歌集の真ん中に置かれているのは、きまじめな前半と後半の間に見せる、笑いの演出であるとも見ることが出来るし、前半の最後に「物名」を置き、後半の最後の方に「俳諧歌」を置いて、バランスを取っているとも考えられるが、なによりも和歌が古典や芸術などではなく、今日の流行歌のように、さまざまな状況で生き生きと使用されていたその息吹を、天皇の名のものとに編纂された『古今集』にさえ、このような頓知や冗談に関わり合うような和歌を、納めてしまった事実から、かすかに感じ取ることが出来るのではないだろうか。

 もっとも、この手の遊びは、やはりパズルやクロスワードの範疇に所属していて、和歌の意味との関わり合いを突き詰めなければ、たやすくできるものにも違いなく、たとえば、

  「クロノスの砂時計」
アルバム一葉 わざとモノクロの 州の砂と
  毛糸のマフラー あなたとわたしと……

 もとより、三句目が「スナップは」くらいなら、かろうじて意味もつながろうところを、言葉を織り込んだために、「州の砂」などという、まったく無意味な説明書きが加えられて、和歌としては破綻してしまっている。ただ浜辺で毛糸のマフラーをつけたあなたと、それからわたしと、という知性による解読から、かろうじて意味がつながっているものの、心には少しも響いてこない。すなわち頓知の和歌、冗談の範疇には過ぎないものだ。

  「春の日の幻想」
刈り終えて 縄はる野火の 喧噪は
  たきぎまつりの 高き太鼓よ

 これも三句目を「喧噪は」と置いたところがちと苦しいが、先ほどのものよりは、語られた言葉が、直にイメージへと結びつき、しかも読み込まれた言葉が「春の日の幻想」でありながら、刈り終えた秋のまつりを読み込むあたり、「物名」の理想像に近づいたものとなっているようだ。

 このような表現は、詩としての体裁を意識するからこそ、難しくなるのであって、(そうであればこそ、取るべき意義も生まれてくるのであって、)もし意味だけを頼りに、つたない表現をものともせず、パズル気分で言葉を当てはめるだけなら、たやすく長文でも織り込めてしまう。けれどもこれは、暇さえあれば、誰にでも生みなせるようなもので、あまり価値のある行為とは言えない。

  「未来へは羽ばたけ、希望を胸に坊や」
ブルクミラー 家は母だけ 技法を胸に
  ぼうやに教える ピアノの響きよ

  「サンスベリア ポトス オリヅルラン」
園児さん すべり合いする 奪うほど
  すべり降りする らんぼうな遊び

 このように、実際に試してみると、たやすく数時間で何個も生まれてしまうくらいの、しがない遊びには過ぎないもの。もしこれを、十日繰り返せば、五十の落書きが記されて、そのうち幾つかをさらに洗練させれば、多少の優れた「物名(もののな)」も勾玉の転がり落ちるくらいに、生みなされたとして、はたしてそこに、何の意味があるのやら……


 何しろ、和歌としての体裁を気にしないとなると、どんなことでも、三十一字に収るものならば、いいこなせるような気さえしてくるくらいで、先ほどの例より、いっそう苦しいものではあるけれども、いささか試みてみれば……

  「山羊の歌、羊の歌、中原中也」
静けさや きのう旅辻の 討たれては
  芦のなが原 血夕やみへ

これは古今集に
  「ささ まつ びは ばせをば」
の物名として、

いさゝめに 時待つ間にぞ 日はへぬる
  こゝろばせをば 人に見えつつ
           きのめのと 古今集454

とあるのをいっそう難しくしたものだが、もちろん、遙かに古今集より劣っているのはもっともで、あまり長い言葉をこめるならば、和歌の内容がおろそかになることは避けられない。かえって、それを和歌らしくこなすのは、おそらくは彼らが、わたしのように思いつきでぽんぽんと、落書きを極めなかったということには違いなく、例えば、次のような長文を、

   「高浜虚子の句は駄目にもあるか」
ためしたが 葉巻よしのぐ はた目にも
  ある紙巻に しくものはなし

と詠んでみせたからといって、
  その歌の内容のお粗末さは、
    覆いようもないものである。
 それが悲しくて、ことさらに、
   でたらめの解説を加えるならば……

「葉巻とはすなわち子規居士のことにて、紙巻とは虚子のことなれば、あながち煙草として駄目なものに有らざれば、虚子は子規居士の詠みは試したものの、紙巻にしくものはなしと思ひたりし。はたして葉巻との差に及ばずや。との意味をこめたるものなるべし。」

 このような、後付けの解説に彩られて、なんでもないものが、優れた作品とか、佳作などと誤認されることも、もちろんあるわけで、その実、実際は、なんの価値もない、言葉のがらくたには過ぎない、といった不始末には違いないのだ。

すぐれた物名とは

 こうして見てくると、古今和歌集の物名が、単なる言葉の「言い込め遊び」ではなく、あくまでも、和歌としての体裁にこだわりながらの、言葉遊びであるということが分かってくる。ずいぶんひどい作品もありはするものの、和歌的な作品を選び取ろうとしている。そんな傾向が見て取れる。単に、言いこなすばかりであれば、いかに撰集するといって、なんの選抜も必要ないくらいである。
 そこでわたしも、少しは、
   価値のある物名を考えてみたくなってくる。

  「愛してます。あなたひとりだけ……」
いがみ合い してますあなた 日取りだけ
  決めてくれたら きっとあやまろう

  「アルデバラン すばる 雄牛座」
見あげれば 思いある手は 欄干(らんかん)に
  のこす春さえ 星のおうじさま

  「しあわせの青い鳥 かなしみ」
誰が掛けし 袷(あわせ)の葵 とりつくろう
  三味を弾くかな しみじみと夜を

 なるほど、このくらいなら、
   芸者の待ち姿にかこつけて、
 後付けの解釈も叶うかもしれません。

後の集の例

 それはさておき、この手の和歌は、『古今集』以後も見られ、たとえば『拾遺集』の例としては、

   「ねずみ」
年をへて 君をのみこそ 寝住(ねす)みつれ
  ことはらにやは 子をば生むべき
           藤原すけみ 拾遺集421

   「ね うし とら う たつ み」
ひとよねて うしとらこそは おもひけめ
  うきなたつみぞ わびしかりける
           拾遺集429

   「うま ひつじ さる とり いぬ い」
むまれより ひつしつくれば やまにさる
  ひとりいぬるに ひとゐてゐませ
           拾遺集430

といった、遊び歌の伝統となって、繰り返されることとなった。

折句(おりく)

 他にも古今集の物名には、「折句(おりく)」の技法を使用したものが、収められている。つまりは、それぞれの句の頭(かしら)を取ると、「をみなへし」と取れるような和歌である。

ぐら山
 ねたちならし
  く鹿の
   にけむ秋を
    る人ぞなき
        紀貫之 古今集439

 もちろんここでも、単に折句に「をみなへし」を詠み込んだだけでなく、和歌としての体裁を、それなりに保っていることが、この和歌を捨てがたいものにしていることは疑いない。こんな折句を、またいい加減に試みてみれば、

    「クリスマス」
曇り空 理由もなくて 好きだから
  待ちます君へ 素敵なプレゼント

 このくらいなら、まだしも、和歌として保たれるものを、つい調子に乗って、句の頭と後に、それぞれ、言葉を折り込もうとして、
    「ほろよいの つきみざけ」
などと言葉を決めて、

埃立つ 路傍の朽ち木 宵に踏み
  板つきの蓙(ござ) 呑むために敷け

 あまりにもみじめな、取りどころのない、だらけた駄文へと陥るばかり。つまりは、ここでも大切なことは、着想はすぐれた和歌(あるいは詩)のうちにかき消され、悟られないくらい自然なものでなければ、芸術など持ち出すまでもなく、詩としては何の意味もない、嫌みな頓智へと還元されてしまうばかりである。それを懸命に手直しなどして、

ほのかに立つ 路地の柿の木
    宵の君 いつも聞くミサ
   のぼる月影

などしても、四句目のあまりの不明瞭には、いかに韜晦主義の烙印さえも、背中に駄歌の紋章を、刻み込むには違いない。それをナチュラルにしようとして、

ほのかに立つ 路地の椎の木 夜は寒み
  いま君のしぐさ のぼる月かげ

などしても、大した違いなどないのである。つまり着想そのものが失態であるという、悲しい例には違いないが、かといって、瞬間の思いつきと気づけば、いくらでも捨て去ることが出来るだろう。捨て去ることが出来るうちは、その言葉に価値など、まるでないことを悟るべきである。

 一方で、『古今和歌集』における、折句の優れた例としては、

らころも
 つつなれにし
  ましあれば
   るばるきぬる
    びをしぞおもふ
         在原業平 古今集410

 唐衣(からころも)のように着慣れた親しい妻であればこそ、彼女と別れてからはるばるここまで来た、この旅のことをしみじみと思うよ。という純粋な和歌として、きわめてナチュラルで、効果的な詩になっているばかりでなく、この和歌は、「かきつばたを前に詠んだ和歌」と説明書きがあるものだから、旅先の「かきつばた」の花を見て、まるで「かきつばた」のような、妻のイメージを呼び起こして、その感じるままに読んだものであるという、折り込まれた言葉が、和歌の内容と、綿密に関わり合って、わたしたちの興を誘う。先ほどの、わたしの、みじめな例と比べてみれば、その月とすっぽんどころではない、価値の本質的な違いが悟れるのではないだろうか。

 また、もっとも知られた「折句」の例としては、吉田兼好の、

夜もすずし 寝ざめのかりほ たまくらも
  まそでも秋に へだてなきかぜ

があげられるだろうか。つまりは、
    もすず
     ざめのかり
      まくら
       そでもあき
        だてなきか
「よねたまへ、ぜにもほし」(米をください、銭も欲しい)という意味をしのばせた、きわめて技巧的な作品なのだが、下の句は折り句の影響で、おおいに説明がちになり、和歌として最高のものであるとは、お世辞にも言えないが、かといって、取るに足らないあまたの和歌よりは、すぐれた内容を維持している。そのうえで裏の意味が、
    「食料とお金を恵んでおくれよ」
という着飾った体裁(表の和歌の意味)に対して、本音を打ち明けているあたり、今日であれば心理学的なおもしろさで、わたしたちに訴えてくるくらいのものである。そんな裏と表の関係で、結びつけられているからおもしろく、シリアスな切羽詰まった心情と、『古今和歌集』から続く滑稽ものの伝統が、深いところで結びあわされているような感慨を、わたしたちが無意識のうちに抱いてしまうのであれば、この和歌もまた、すぐれた折句ということになるのではないだろうか。

最後に

 ただ、このような技巧もまた、何度も読み返すうちに、飽きが来るのは、それがどこかで、知恵や頓知と関わり合う、説明的な傾向が、詩情に勝ってくるからには違いない。そうであればこそ、『古今和歌集』の物名の、もっとも優れた例としては、かえって、このようなものを、わたしは候補に挙げたくなる。
  「きちかうのはな」つまり「桔梗(ききょう)」を詠み込んで、

秋近う 野はなりにけり
  しら露の おける草葉も
    色かはりゆく
        紀友則 古今集440

 このように、折り込んだとすら悟らせずに、
   しかも和歌の本意と解け合うような主題を、
  折り込むこそ理想である。

2013/9月 作成
2015/9/20 改訂掲載

[上層へ] [Topへ]