『 etude1、etude2 について』

(朗読)

『 etude1、etude2 』について

 先に総論を述べたので、[ etude1 ]を中心にいくつかの和歌を考察してみよう。

言葉のリズムについて

ふと散らす花びらかざす手の平に
暖かそうな春のぬくもり

極めて安っぽい感慨を、

ふと散らす花びらかざす手の平に
幸せを待つ春のぬくもり

など、安易な主観にものしてみても取り所がなく、あれこれと考えるうちに「花びら」のもたらす言葉のリズムに気がついた。つまり、

ひとひらふたひら花びらかざす手のひらの
すり抜けてゆきます幸せばかりは

と「ひら」の言葉遊びとたわむれて、それを散りゆくものへの感慨へと委ねるという方針である。しかしなかなか定まらず、

ひとひらふたひら手のひらひらひら花吹雪
指すり抜ける時の砂粒

などすれば、
「花びらはまるで指をすり抜ける砂時計の粒のようである」
というくどくどしい説明書へと陥ってしまった。まるで花びらの「ひらひら」と舞う姿まで、たどたどしくなってしまったような気がする。ようやく、手の平をすり抜ける花びらへと焦点を定め、しかも「時の砂粒」といった屁理屈の感慨は抜きにして、

ひとひらふたひら花びらひらひら手のひらに
触れてこぼれてすり抜けるかも

へと落ち着いた。しかし朗読後、それを聞いているうちに、

ひとひらふたひら花びらひらひら手のひらに
触れてこぼれてすり落ちるかも

の方がよいことに気がつき、これが最終稿となった。何故なら母音のリズムが、
「ueeooee,uiueuao」よりも
「ueeooee,uioiuao」の方が、
前半の冗長な「ia」の繰り返しに対して、「o」の重心を定めてリズム的に宜しかろうという判断である。

言葉のリズムその二

 言葉のリズムについては、他にも、

うつし世のうつらうつらとまどろめば
八重のさくらよ今宵散らすな

の、上の句ともフィットしない下の句の陳腐な語りかけを逃れて、まずは
「八重のさくらの今宵花ざかり」
などと置き換えたものの、

うつし世のうつらうつらとまどろめば
うつし身の上さくら吹雪よ

と後半に「うつし」のリズムを加えて整えることを見出し、

うつし世のうつらうつらのまどろみは
うつし身の上さくら散ります

まで変化させた。ここに到ってようやく、「うつし」「うつら」「うつす」のリズムで全体を構築することが可能であることを発見し、遂に、

うつし世のうつらうつらのまどろみは
うつし身のうえうつす月影

へと辿り着いた例もある。

言葉の交代について

   「決定稿」
しょんぼりなあなたの顔に精一杯
エールをしましょう励ましたいから

 この初稿は、

しょんぼりとしているあなたにこの歌を
届けてみたいな顔も見ぬひと

である。これにいくつかの行程を加えて、

しょんぼりなあなたの顔に励ましの
エールをしましょう僕の精一杯

へと到った。ここに到って、三句と結句を交換することによって、「励まし」の取りまとめに全体のウェイトを委ねることが出来ると思いつき、

しょんぼりなあなたの顔に精一杯
エールをしましょう僕の励まし

となったのである。さらに「僕の励まし」ではなく、「励ましたいから」と主観にものするほうが、語りかけの文脈に詩情を委ねることが出来ると考え、

しょんぼりなあなたの顔に精一杯
エールをしましょう励ましたいから

へと逢着した。このように、入れ替えるべき言葉を探り当てることは、推敲に於いて重要な作業となってくるので、一例に記しておいた。

採用・不採用について

 落書された和歌の採用基準は、「 etude 」全体の始めに於いて緩く、後に向かうほど厳しくなっている。「 etude4 」つまり2011年に到っては、その大半が破棄されたが、[これは筆者の勘違い、というか執筆上の妄想である。「 etude4 」の草稿から破棄された物は、却って2011年の作品より少なくなっている]これは必ずしも歌の質を問題としたための減少ではなかった。始めの頃は、ほとんど取るべき価値もない駄歌をも、どうにかこね回して採用して、最終稿までこぎ着けようとしたものが、後には軽やかに×点をして、屑籠へと放り込んだまでのことである。

 またマンネリズムとも思われる同趣向の歌が、蟻の行列よろしく並びゆくものだから、前と同趣向のものを破棄するため、後になるほど採用が見送られるという現象も起こってくる。いずれにせよ、「 etude 」開始部分の採用基準には、後には絶対に取りようのないほどの駄歌も含まれているので、試みに、その一例を上げてみることにしよう。

つかもうと伸ばす手のひらさくら花
染めるほっぺに宵の子守歌

あまりの安っぽさに今なら破棄するほどのものを、

つかもうと仕掛け損ねのさくら花
泣く子をあやす宵の子守歌

まで改変し、

つかもうと仕掛け損ねの花びらよ
泣く子をあやす宵の子守歌

まで来て、ようやくその陳腐な意匠に気づき、雄大な自然に委ねようとし、

つかもうとしかけ損ねの花びらと
振り仰ぎ見るおぼろ月夜と

などものすれば、散文みたいな学生の感慨に陥ってしまった。始めから一貫して、この歌に於いてまだしも採用されるべき価値のある着想は、実は「つかもうと仕掛け損ねの何々」という表現くらいのものである。ここは、俳句で作ったことのある「つかもうと仕掛け花火」という表現を採用して、取るに足らない他の部分はばっさり捨て去ることにした。つまりは、

つかもうとしかけ花火の遠き灯を
眺めていました初夏の風

へと舵を切ったのである。

 結論を申せば、舵を切ったものも、やはり陳腐であった。またそれを逃れようと煩悶することしばし。つまりは全体のイメージが散漫で、詩人の心に明確な焦点が定まっていないから、このようなルーズな歌に仕上がってしまうのには違いない。具体的な意味合いを込めていけば、まだしも価値を見いだせるかも知れない。そこでようやく、

つかもうとしかけ花火の落書と
ヘチマの唄と僕の夏やすみ

というアウトラインが出来上がった。つまりは、
「花火の落書のような絵日記と、
  ヘチマの観察の時の唄くらいが、
   僕の夏休みなのさ」
といった趣向ある。しかし、「ヘチマの唄」ではその意味が十分に伝わらないかと危惧し、また自分の行為よりも、たとえば我が子を眺める唄として、歌い手を他者へ移す方が良かろうと考え、

つかもうとしかけ花火の落書と
ヘチマも伸びる坊の夏やすみ

としたが、「ヘチマも伸びる」は理屈っぽく、結局、

つかもうとしかけ花火の落書と
ヘチマの唄と坊の夏やすみ

へと帰着した。

 このようにして出来た歌は、始めの落書とはほとんど関係なく、ただその落書に食らいついて試行錯誤を行ったというプロセスに於いてのみ、始めの着想はまだしも最終稿と繋がっているようである。ようするに、始めから歌うべきイメージを定めて、構図や焦点を定めてから歌いさえすれば、このような試行錯誤のプロセスはまるで意味のない、無駄な労力には過ぎなくて、それが出来ない故に、このような混迷に身を委ねる不始末と陥っているばかりである。よって後になると、この種の落書は、採用せずに×点を記すこととした。このような例で、悲惨なくらいに改訂の定まらず、迷宮を徘徊(はいかい)したものとしては、

おビールのおいし季節となりまして
庭先家族のジョッキ高らか

という駄歌がある。これを

おビールのおいし季節となりまして
駅前屋台のジョッキ高らか

と改変するのは極めてストレートな発想だ。しかし全体のチープさは覆い隠しようもない。これを逃れようとして、

のど越しのゆるむ季節となりました
駅前屋台のジョッキ高らか

とするも、下の句の安っぽさは相変わらずで、

のど越しの夕べにゆるむ物語
ジョッキの響く帰路のビアガーデン

散漫を逃れようとして様々なものを込めすぎては、かえって焦点を定めず、屁理屈の説明書へと陥ってしまった。あれこれ模索して、

のど越しの夕べにゆるむ帰宅道
提灯ならべて宵のビアガーデン

へとようやく辿り着く。しかし読み返してみると、描写の散漫の程度においては、始めの歌からまるで進歩していないのであった。つまり、「ビールを欲しがる季節なのでジョッキを掲げる」のか「ビアガーデン」に参るのかくらいの違いで、ただ叙し方だけが次第に整いつつあるばかりである。ここまできて、むしろ俳句にするべきかと思い立ち、

のど越しの夕べにゆるむ帰宅道

に締まりを与えるべく、

のど越しのゆるむサイフも帰宅道

のど越しもサイフもゆるむ帰宅道

など考えたことによって、却って歌に締まりを与えるすべを発見することとなった。短歌、俳句、自由律など詩型によってその表現の特徴に傾向があるものだから、これを行き交うことは、すべての詩型に於いて極めて有益なことである。もし二十一世紀に於いて、おぞましいくもかたくなな戸に閉じこもって、己がジャンルを砂のお城よろしく築いて、詩文を作る詩人ではなく、例えば俳人とか、歌人などと、自らを定義するような人物が居たとすれば、それは極めて滑稽なある種の非文学的な動物に過ぎないことは、ここで付け加えて置いてもいいかもしれない。そうしてさまざまな詩型に過ぎないある矮小のジャンルに閉じこもり、かたくなにそれを趣味などとおほざきなさる方々もまた、彼らと同様、はなはだ非文学的な何者かであるには違いないのだ。彼らはまるで、絵を嗜(たしな)む代わりに、昆虫の絵をのみ何千枚も描き続ける、一種の偏執狂患者によく似ている。

 軽やかに脱線したようだ。閑話休題。

のど越しのゆるむさいふも帰宅道
友と語らう宵のビアガーデン

ここから、くどくどしい叙述を取り払い、焦点を定めるとともに、「からから」と干からびた咽を潤せば、さいふは「からから」鳴るといった言葉遊びをリズムがてらに織り込めて、

のど越しのゆるむさいふのからからと
答えてくれます宵のビアガーデン

の完成を見るまでに、ほとほと作者はたましいをすり減らしてしまったらしい。なぜならば、このような忙しない推敲が、この歌に限らずに、あらゆる短歌を埋め尽くしているからである。

その他

 その他、幾つかの和歌について、多少の補足をしておけば、

とんぼうに追っかけられてた鬼ごっこ
忘れないでねはじめの教科書

 これは「追いかけられてた」とされていたものを、「鬼ごっこ」に合わせて変更を加えたもので、これによってリズムばかりでなく、「追いかけっこ」を「追っかけっこ」と言えば子供らの側により近くなるといった効果も含んでいる。

生えかけのおたまじゃくしのちぐはぐな
ちぐはぐおどり畦にゆらめく

 結句の極めて定まり難かった歌であり、今日でもこれが動かない最終稿であるとはどうしても考えられない。もっと他に、代替の利かないような言いまわしがあるような気がしてならないが、今はどうしても思いつかないあたりが、わたくしの現時点の限界点であるらしい。

 さて、
「 etude1 」の最後の部分は、短歌から自由律へと移り変わり、また短歌へと戻るという、この作者お得意の方法が取られている。もちろん草稿では、ある日の執筆の間に差し込まれたひとまとまりの落書を、「 etude1 」の最後へと定めたには過ぎないのだが、このやり方はすでにこなれているせいか、詩文と律文の融合したような部分では、あまり推敲の余地が見られず、つまりは始めから、より完成に近い場合が多い。すなわち「 etude 」内では、もっとも楽な部分であった。(このことは「 etude2 」にも言えることだが、「 etude3 」の独立した最後の部分には必ずしも当てはまらず、「 etude3 」に於いてはなかなかの推敲を重ねることとなった)

etude2

 破棄された落書の量はかなりのものであるが、採用されたものだけを眺めると、八月頃に入ると、推敲の程度がわずかに軽減されたような傾向が見て取れる。そうかと思えば、取り所もない駄歌が大量に処分されたのも同時期の特徴であり、これを向上や沈滞などで推し量ることをほとんど不可能にしている。しかし採用されたものに関しては、「 etude1 」に記したほどの混迷には到らずに完成したものが多い。完成度の高さ、さらに歌の対象の拡大、叙し方の巧みさも、「 etude1 」より勝っているものが多いように思われる。例えば、

今の世を埋めるすべをなくしては
消え去りましょうか冬のみずうみ

夕暮に膨れあがった陽の匂い
焦げ茶けた海時の終わり日

千年の祈りも尽きて享楽の
浮き世を守る古きやしろよ

といった叙事的・空想的傾向をもつ和歌も、「 etude1 」に対して十全に取り入れられ、この種の歌は「 etude2 」の特徴ともなっている。中には聖書物語的に、

憂いして血を吐きよろける予言者を
叩き殺せと石を投げます

とものするような場合もあり、あるいは「星合」の贈歌と返歌のように、七夕星のやり取りを気取ったものもある。この例は、「 etude1 」の「星合」の歌の進化形と見ることも出来るだろう。同傾向の歌にすがりついているうちにその内容が発展していくというのは、かの子規居士の俳句に於いて顕著な特徴でもあった。

 他にも、生死感を抽象的にものして、

音もなく忍び寄ってはたましいを
切り捨ててゆくタナトスの鎌

と表現したものや、歴史時代の回想を込めて、

シュメールの血の気もよだつ歴史書も
風にさらわれ酒の歌ひとつ

といった例も見られるなどさまざまである。さらに韜晦主義とたわむれて自然法則ぶった落書は、

積極性消極性はや宵闇に
消されゆきます第三法則

さらに童話の題材を歌にしたもの

灯しさえなくし少女の亡きがらと
握りしめますマッチひと箱

あるいは、『お爺さんの古時計』を題材にしたもの

機械仕掛の古び時計のオルゴール
あるじなくして鳴り渡ります

など、「 etude1 」に対して歌うべき題材に広がりを見せている。また、ものしかたも、
「あなた色レモンドロップのもどかしさ」
「すべてはあの日粉雪クリスマス」
といった表現方法、あるいは、
(振り向けば里は穢れに満ちて……)
と歌の後ろに加えてみたり、
「貰って欲しい……けど……ちょっと迷惑?」
などの用法など、表現に柔軟性が見られることは評価すべき点かも知れない。他にも「里の名月」を

ミリンよりお砂糖慕うさといもの
煮っ転がしよ里の名月

とまでものしたのは、ユニークな着想にも幅が出来てきたようにも思えるし、

トッカータ十五の夏の二人には
驟雨にひそむ闇の秘め事

のような動的傾向の高まった和歌にも、新しい発見が見られるかもしれない。もっともこれは、残されて推敲された作品のみを取り出したものに過ぎず、破棄された駄歌の多さは、「 etude1 」よりも「 etude2 」の方がはるかに勝っている。あるいはより多くものした分だけ、拾うべき石ころも増加したくらいのものなのかもしれない。

 作品集の最後は「 etude1 」同様、お得意の自由律を経由したものになっているが、これは「 etude3 」の長大な自由律部分の布石(つまり同じ構図)にもなっている。

 総体として「 etude 」を眺めれば、あるいは「 etude2 」がもっともバラエティー豊かなおすすめの集になっていると言うことが出来るかもしれない。「 etude3 」については、改めて記すことにする。

         (おわり)

2011/12/12

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