「 etude3 」については、詩人の下方変位した精神の表出が極めて顕著である。一方で、先ほど観察した「 etude2 」に於ける進化の、さらなる発展は見られず、ただ、
愛憎に幸せ掛けて二で割って
歩いてゆきたい君とふたりで
秋高く国旗もなびくピストルの
響きに走るびりの坊やよ
カシオペア探し当てますポラリスの
ベクトル示すきっと未来図
といった表現に、新し味を見出すくらいのものである。
ここでの力点は、むしろ「悲しき落書」と記された三つの短歌と詩の融合物で、この種の精神状態を詩情に偽りなく、しかも詩的領域に留まらせるべく言葉の取捨選択を行うこと、愚者の独りよがりに陥らないように体裁を保つことは、なかなかに難しい作業である。
のがれ得ぬのがれ得ぬもののがれ得ぬ
のがれ得ぬもののがれ得ぬかも
といったものは、かなり紙一重、あるいはうっかり転落的領域に属するような歌である。これを却下すべきか、さもなくばどこに置くべきかと、いくらか悩んだような作品であった。山上憶良の『貧窮問答歌(びんぐうもんどうか)』が和歌としての柔軟性には欠けるように、これらの歌に於いて、ある種のぎこちなさが伴うのは避けられない事実である。しかし、これもまた大量に破棄された同種の歌からピックアップされた、この時期の選集には違いないのだ。
さて、 混迷を晒すことは羞恥を伴うものだから、ひと皆は体裁を取り付くろうを、あまねく提示して見せる馬鹿一匹。まあそれもよかろう。この恥多き作業は、ものし方を確立する上で有益な作業であるように思われるのだから。
「 etude3 」の下書の開始部分を改めて眺めてみることにする。すなわち2010年9月4日、十の短歌が落書され、採用されたのは三つである。その開始は、まるで中学生の落書のような拙さである。
ただ君を願い歌った歌声の
聞くものなくて笑う月影
こんな駄歌では月も失笑したに違いない。続いては、下の句の意味が酔っぱらいのたわごとのように不明瞭なものが控えている。
もう誰も信じないといって抱きしめた
思い貶(けな)すなそれはいとなみ
あまりの珍作に風呂敷をかぶってごめんなさいをしたくなるような体たらくである。
僕がいて君がいてもう誰も
残らない最後の一日(ひとひ)なるべし
幼稚園じみた駄散文に、最後の結句の「なるべし」とは、なんのことやら、ほとんど古語の猿まねとしか思えない。そうかと思えば、おどおどしい屁理屈を説明した解説に過ぎないものもある。
素直でない言葉遊びのどぎつさを
突き詰めてまだ悟らずの花
なんのことはない、言葉遊びのどぎつさを突き詰めて悟らないのは、この駄文千里を駆け巡るが如き落書の、作者そのものではないのか。そう声を大にして、主張したいくらいの噴飯ぶりである。
これに対して、
僕は誠を本当だけを歌ったのに
嘲笑しますあの人この人
などは僅かに真実味が籠もるが、「僕ちん頑張ったのに褒めてくれないの」と駄々をこねる幼児の、おさなおさなした感慨から、一歩も逃れることのないチープさには呆れ果て、どうしたらこれほど惰弱を極められるものかと、お尋ねしたいくらいの低俗さである。
もっとも、どぎついながらも、ある種のすごみのある失敗作もある。
蹴飛ばされへらへら笑う負け犬を
ますます蹴飛ばすあの人この人
あまりの露骨さと、安っぽい「蹴飛ばす」の繰り返しと、以前の「 etude 」内に於ける類似の作品とを鑑みて、ばっさりと切り捨てにはしたものの、今眺めてみると、蹴飛ばされてなおかつ寄り添う犬を、憎たらしくてさらに蹴飛ばす人々という構図は、人にあらずとはいえ、壮絶なところがあり、巧みに構築し直せば、あまり見られないような短歌を生み出す可能性を秘めていたかもしれない。
蹴飛ばされのこのこすがる野良犬を
蹴飛ばしながらはしゃぐ子供ら
では、まだしも元歌の範疇から逃れられないが、あるいは、
蹴飛ばされのこのこすがる野良犬を
また蹴飛ばして消えるサラリーマン
くらいの路線で構築すれば、サラリーマンの、己に負け犬のしっぽを眺めつつ、野良犬を蹴飛ばすうっ屈した心情が、あるいは、うまく込められたかも知れない。あるいは子供らの歌でも、
蹴飛ばされのこのこすがる野良犬を
川へ流してはしゃぐ子供ら
などとして推敲を重ねれば、残酷さにも真実味が籠もってくるだろうか。
そしてこの事は、同時に、わたしが大量に×を付けた駄歌の中にも、実は取るべき作品が潜んでいる可能性をも示唆している。……だからといって、わたしはもう二度と、あの駄歌の林に分け入って、どうにか飢えを凌ぐべき木の実を探し当てる作業には、二度と従事したくない気分である。始めから新しい歌を生みなした方がなんぼかマシだ。
さて、あなたはまだ付いてきているかしら。次の歌は陳腐なる俗調の見本といっていいだろう。 黄昏の友を尽くしてひとり歌う 虫の音にこそ我は寄り添う 彼は誰(たれ)ぞと尋ねるほどの夕暮れに、けれども尋ねべき友の影すらなくなって、侘びしくもひとり鳴きするすがり虫の、その虫の音にこそ、わたしのこころは寄り添うものだ。という意味である。もとの歌と、ここに書かれた解説と、どちらがまだしも心情に訴えるかと問われれば、恐らくはこの散文の方ではないだろうか。つまりは散文の説明に負けている。抽象化された歌に於いては、屈辱的な敗退である。敗退はともかくも、歌としてのアイデンティティーがまるでないことになってしまう。 Ja, Richtig (ヤー、リヒティヒ), まさにこの歌は、詩情を削ぐ駄文の見本のような不始末ではないか。
このような駄歌の中に、僅かに光明を見出すほどの作業は、喜び薄く、倦怠を伴うものであった。取り上げられた三つの作品を順に眺めてみよう。
誰皆もかたきと知らされ涙色
雨粒くらいが僕の一生
この時期大量に記された虚弱体質の歌である。逆をいえば、そのような瞬間にしか歌を記さなかったというのが正しいところだが、問題点は、その意匠ではなく、ものしかたがなっていないことで、まるで学生の愚か愚かした感慨を、そのまま記した散文を、ちょっとだけ詩型に誤魔化してみたような落書は、言ってしまえば俗調の極みである。その、安っぽい主観主義を逃れようとして、
あきもせずポタリポタリと軒を打つ
雨粒くらいが僕の一生
と、稚拙な駄文を極めた上の句を、実景に委ねるところから推敲作業は始まった。ここでもまた「軒を打つ」などの描写は、歌の根幹に関わらない無駄な説明には過ぎず、かえって歌を理屈っぽくしているだけには違いない。
飽きもせずぽたりぽたりをくり返す
雨粒くらいが僕の一生
「ぽたりぽたり」と「雨粒」で、すでに「くり返す」ことは明白である。つまりは無駄な説明には違いないと考え、
飽きもせずぽたりぽたりとぐちばかり
雨粒に聞く僕のいきざま
これでもまだ、「雨粒」の聞こえるのは当然なので「雨粒に聞く」はくどくどしい説明過剰である。こうして最後に、
飽きもせずぽたりぽたりと愚痴ばかり
雨粒くらいが僕の一生
へと辿り着いた。
続いての草稿は、率直すぎて甘々している。
ねえ一緒にお風呂のなかであわあわと
戯れたいなそれじゃ駄目かな?
まず始めをわずかに引いて、「ふたり一緒に」としたが、本質はなにも変わらず、ここは母音のリズムを楽しんで「あわあわ」(aaaa)の母音連続を「お風呂」(ouo)が挟み込むという方針を思いついた。つまり言葉の面白さをもって、歌としての抽象化を推し進めようという作戦である。
ふたりしてあわあわお風呂あわあわと
たわむれてます眠くなるまで
けれどもリズムを取るなら、始めの「ふたりして」(uaiie)が二句三句のリズムの面白さに対して無頓着に分断されている。それに語りかけによっては「ふたり」などの言葉は不必要であり、推し量るべき余韻に移してこそ効果的なのではないだろうか。そうであるならば、
あわあわと泡のお風呂のあわあわと
たわむれましょうよ眠くなるまで
としたらどうだろう。「たわむれましょうよ」の語りかけは二人称の相手に対してであり、「あわあわとたわむれる」関係が恋人たちの関係であることは容易に想像が付く。それでいて愚かしい叙述過剰には陥らず、母音のリズムの構成もずっと引き締まったものになった。それはすなわち
aaaao,aaoouoo,aaaao
aaueaouo,euuauae
前半の「a」と「o」の戯れに、後半始めて「e」が導入され、結句は「e」による取りまとめがなされる一方で、絶妙に配置された「u」の位置と、一度も使用されない「i」の母音といったこだわりと、
ねえ一緒にお風呂のなかであわあわと
戯れたいなそれじゃ駄目かな?
eeioi,ouooaae,aaaao
aaueaia,oeaaeaa
の締まりのなさと比べてみるれば十分だろう。
次の採用もまた、歌うべき焦点へ向けて、無駄な叙述、虚偽の記載を取り除いていった例である。まず、草稿は、
たとえば君が見つけてくれたらそれだけの
喜びごころと歌う笹鳥
下の句、特に「歌う笹鳥」とは「わたくし」の比喩であるが、なんとも興ざめするくらいの、取って付けたような比喩が、心から喜ばしいとささやくほどの感慨を、ずたずたに引き裂いて、こんな着想の浮かんでしまったわたくし、己惚の着想に、情けなくもスポットライトを当てまくっているような不始末だ。まずいつわりの比喩を心情へと移し替えて、
たとえばあなたに見つけられたらつかの間は
幸せ唄う僕の落書
けれどもまだ、「見つけられたら」「幸せを歌う」などの説明書がそこかしこに控えている。これに除去作業を加えて、
あなたひとり頷いてくれたらうれしくて
よろこび唄おうそんな落書
ここでもうれしいがゆえに、「よろこび歌う」のは十二分に推し量れる事実であるのに、そのまま記しているのが、何とも情けない不始末だ。抽象化されない安っぽい感慨は、誰にだって書ける落書には過ぎないのだ。ようやく、辿り着いたのは、
あなたひとりうなずいてくれたらうれしくて
歌いだしますそんな落書
この他、順にいくつかの短歌をピックアップしてみる。
愛憎に幸せ掛けて二で割って
歩いてゆきたい君とふたりで
これは、もともと、
愛情の愛情掛ける愛情を
夢み年頃わたし十六
などというたどたどしい落書を、
愛情に幸せかけて二で割って
夢に見てますわたし十六
としたのが始まりであった。曲折を経て、
愛憎に幸せ掛けて二で割って
歩いてゆきます君とふたりで
となったが、「愛憎に幸せ掛けて二で割って、歩いてゆきます」では「好きと嫌いとを込めながら歩いていく」ような様相が強い。つまりは「共に歩きゆくものは互いの善し悪しを包み愛すべし」とでも言うような格言めいて、わずかに観念的な説教くささが籠もるような気がするので、
愛憎に幸せ掛けて二で割って
歩いてゆきたい君とふたりで
へと変更した。「ゆきたい」と願望に委ねることにより、「嫌いなところがあってもずっとゆきたい」というような思いがより優位に働き、かつ「ゆきます」では始めの「愛憎」の「憎」をすでに相手に対して持っているものと考えるが、これだと「たとえ愛憎さまざまな感情を持ちながらも」そこに幸せを掛けて二で割って歩いて行きたいなあ。という仮定化された思いが歌の中心となるため、「憎」の憎しみ遠ざかり、まだしも結構なように思われたからである。
もと歌が大きく変化した例としては、
カシオペアあんたとふたりで見た星を
ひとり眺めの夜はさびしい
というルーズな散文もどきを、
カシオペアふたりで探したポラリスを
ひとり眺めの夜はさみしい
へと改変するも、下の句の「ひとりで眺める夜はさみしいなあ」というのは、誰にでも記せる日記には過ぎず、それを逃れようとして、
カシオペア探してみましたポラリスも
あなたの影も今は遠くへ
とすれば、却ってありがちの恋歌定型に陥ったような心持ちがした。ここは、マンネリズムに歌われ続ける、恋する「あなた」への思いを捨て去るべきだと思い直し、
カシオペア探し当てますポラリスの
指ししめしますきっと未来図
へと舵を切ることとしたのである。さらにカシオペアからポラリスを見出すときの指向性を具体化し、
カシオペア探し当てたいポラリスの
ベクトルみたいなきっと未来図
とするも、この場合は「当てたい」と願望にするよりも、力強く確定的にものするほうが、詩情にプラスに作用すると考え、ついに、
カシオペア探し当てますポラリスの
ベクトル示すきっと未来図
として完成した。
このような切磋琢磨は、「悲しき落書」に於いても変わらない。ただこちらでは、全体の構図も考慮に入れて作業が行われたのが最大の違いであるが、今は詳細は記さず、ここに一例を挙げるに留めよう。わたしはそろそろ、この「 etude 」に関わっているのが煩わしくなりつつある。醒めかけの酔いのような味気なさだ。
[草稿]
ありきたりの幸せくらいを望めなかった
尊大のわたくしひとでなくなる
近頃は夢でもひとりぼっちです
それくらいの言葉も軽やかに過ごすのでしょう
でも、わたくしは、亡び去って、しまっているのです
それはもう、ぐさぐさと、腕をナイフで突き刺すような
不気味さであるのに、あなた方は、その言葉づらを
虚構として、楽しむのです。だから、もう、今さら……
人という、ものの末路の、無意味さを
知らずもせずに、末路的発展
[完成された歌]
ありきたりの幸せにふっと折り合いを
付けるでもなくよろけるピエロよ
近頃は夢にもたったひとりきり
ステップ踏んだら靴紐切れてた
わたくしは、すでに壊れちまっているのです
例えばそれは、踏みつけられたビスケット
軽やかに砕けてこころこなごなに
うわつらばかりはさくさく笑うのです
それなのにあなた方は
おしゃべり集うはしゃぎして
虚構に楽しむばかりです。
そして、今さらそのことは……
人の世のいのちの果の末路さえ
貝塚くらいに思われるかも
以上で、2010年の短歌の掲載とその紹介を終わるが、その作業は中々に難儀(といっても一ヶ月くらいのものだが)であるうえに、得たものはわずかであったように思われる。にも関わらず、ここで再考したことは、歌のものし方を悟るうえで、いくつかの発見があったことだけは、喜ぶべきことである。もっとも、喜ぶほどの情熱が残されていればの話であるが……
(おわり)
2011/12/19