『 etude4 』について

(朗読)

『 etude4 』について

 子規居士の俳諧大要の朗読に始まる俳句傾倒が深まり、結果として短歌の数が著しく減少したのが2011年の傾向である。前年より見られた草稿の怠惰に於ける破棄率の高さは、おおよそこの年三月を境にして減少し、すなわち春先までの歌はかなりの破棄率を誇るものの、初夏の息吹と共に極めて少なくなり、それに応じて破棄された和歌の質も、以前のものよりはずっとマシになっている。つまりは、改編すれば採用しうるものが増加する傾向を見て取ることが出来るようだ。試みに一月からの第一次改訂の不採用を初めから順に五つあげてみよう。

見かえると気の遠くなる道野辺を
また老いたるか足引きの犬

雨垂のぽたりぽたりももどかしく
あの頃見つめた夢も希望も

白鳥の翼の風を羽ばたかせ
ただ冷たくてこころ清らか

忘られのしおれずみれを打つ雨は
呼べど戻らぬ春の祈りか

新緑を麦焼酎の割色を
もひとつください緑茶ハイかも

 去年の傾向を引きずりつつも、手の施しようのない、読むに絶えないほどの混迷の駄歌からは逃れつつあるようにも思えるが、それが五月以降の第一次改訂の不採用の歌となれば、

うらみして寄せ波ほどのひとびとの
影さえ今はおそれ鼓動よ

野に子らの遊びわらいもひばりらの
さえずる夢もはるか影歌

たとえばほら僕を指さす影ならば
伝えながらも悪む野良犬

ひとごえの恋しさつのる夜更けにも
握る携帯部屋のわびしさ

死に絶えたこころの果てをうずくのは
鼓動ばかりか君へのいのりか

君が好きだたとえばなにが起ころうとも
離したくないそのぬくもりを

さよならのことばのはしのかなしみの
みつけられないあなた影法師

なんの実を眺め暮らしてわずらいも
こころも熟れて落ちる夜嵐

花の香をかびろき胸に染めしとき
けがれ尽くせぬこころひとひら

ふたりに別れの季節が訪れて
ひとり眺めてる窓辺こすもす

以上十がそのすべてであり、しかも以前よりは体裁も整いつつあるのは頼もしい。特に、

さよならのことばのはしのかなしみの
みつけられないあなた影法師

などは、なぜ不採用となったのか、自らを訝しがるような草稿で、これを推敲すれば、なかなか面白みのある歌となったことは間違いないように思われる。二次改訂以降に於ける廃棄率は「 etude 」全体を通じてそれほど変わらない(10%以下くらいか?)ので、ここでは割愛するが、取るべきであったと思われる二次以降の破棄の歌には、

脈のあるただそれだけのことでした
道を失うわたし人影

真っ暗なけがれた世界に君だけが
やさしくてらすひかりみたいだ

といったものも含まれている。これは破棄せずに推敲を続けるべきであったと思われるが、特に二つめのものは、推敲の途中で、率直な思いを逸脱して、

まっ黒なこの世の中に君だけが
かがやくみたいな僕の観想(かんそう)

など屁理屈めいた歌に貶めたあげくに、情緒の偽りとして捨て去ったものである。つまりは着想の一番大切な部分を取らなかったが故に、形状を歪にして破棄に至らしめるという、推敲の失敗例になっているが、もちろん草稿に立ち返ることをしなかったのが原因である。

推敲について

 次に採用された和歌の推敲について見てみよう。一月の初めから採用された草稿を順に記せば、

   [草稿]
かさねしつ学びし苑もふるさとの
別れし朝をむすぶ靴紐

 これは以前に記したものを、一月に再掲載したものに過ぎないので、同列に考察し難いが、続いて、

愛しさのワイングラスは十六夜の
はらりとなみだこぼれゆくかも

降りしきる夜更けの雨を待ち人の
願いむなしく散る花の名よ

不意に手を握りしめますベルの音を
分かれ言葉もなくてさよなら

菜の花の煙みたいな原っぱの
よろこびあふれて君にくちづけ

悲しみをどんなにどんなにこらえても
こらえきれないわたしもうすぐ



   [改訂後]
かさねしつ学びの苑のふるさとを
別れ日としてむすぶ靴紐

透かしみるワインレッドの月あかり
かざして耳を澄ませればなみだ

待ち人を待ち尽くす雨の夕暮に
はかなくも散る花のゆくえよ

不意に手を握りしめますベルの音に
消されたくない想いつのらせ

菜の花のかすみ日和に掴まえて
たとえば君の頬にくちづけ

どんなにもどんなにどんなにこらえても
こらえきれないわたし砕ける

といったように、以前よりずっと草稿からの改変の程度が減少し、大まかな構図は定められたものが多くなっているのを発見する。後半に於いても、

    [草稿]
白亜紀の砂岩の砂のほたる火の
水晶くらいが四次元鉄道

カンパネルラひとのいのちのともしびを
高らかにせよ銀河鉄道

まあなんでしょう立派なお花の色とりどり
チルシスとアマントは月の夜のした

ごめんねもう答えられないぼくだけど
生きているのです今宵一夜を

ねえアリョーシャあなたいちばんの宝もの
それは生きざま? それともわたしへの……



     [改訂後]
白亜紀の砂岩にひそむほたる火の
結晶さえも銀河鉄道

カンパネルラひとのいのちのともしびを
運びゆきます銀河鉄道

まあなんでしょう立派なお花の色とりどり
チルシスとアマントは月のした影

ごめんねもう答えられないぼくだけど
生きているのです未練がましく

ねえアリョーシャ、あなたの一番の宝もの
それは指輪ではなく、魔法でもなくって……

 初めより輪郭の定まったものが多いのは、一年前、改変に継ぐ改変の果てにようやく完成を迎えたという、かの混迷時代より格段の進歩が見られるが、これはもっぱら子規居士を通じて俳諧のものしかたについてのフォームが形成されつつあることと、呼応しているように思われる。なお二つの「銀河鉄道」の言葉を持つ歌については、初め隣り合っていたものを類似しないように「四次元鉄道」「軽便鉄道」などさまざま考えて異なる言葉を使用しようと考えたが、どうあっても「銀河鉄道」が最良であるとの結論に達し、全体の構成上一方を前に移動したなどの経緯もある。

改編に難儀したもの

 もちろん改編に難儀をさ迷うものもあった。特に、

助けての響きに寄せる誘蛾灯
朽ち果てるまで舞えよ符号よ

といった社会批判を暗示したものは、説明的傾向を如何に歌へと消し去るかについて、ものしかたが定まらず、

群がれば群がるほどに誘蛾燈
踊り狂うよソドムの末裔

のような安っぽい感慨へと陥ってしまい、

群がれば群がるほどに誘蛾燈
死ぬまで踊れソドムの末裔

とまで至って、一貫して変わらない理屈めいた傾向に嫌気がさして、一端は破棄を決意したものの、却って「 etude4 」全体のバラエティーの豊かさには寄与できるかと思い直して、

塗りたくり群れ集います誘蛾燈
死ぬまで踊れソドムの末裔

と幾分理屈めいた和歌として採用するに至ったものもある。他にも、

残り火の消えまいとしたあなたへの
思いの果を沈む夕暮

あのとき君の影を失くした傷跡の
懐かしいくらいひとのぬくもり

といった草稿が、

残り火のくすぶりながらもうごめいた
しわくちゃだらけの枯葉一枚

あなた色の思いなくしてモノクロの
寂しさばかりつのるクリスマス

と、もとの着想自体を変更するに至ったものもあり、

いまでもまだ音楽だけが胸のうち
高鳴らせるのですあの日の情熱

という日記帳の散文のような草稿を、

いつまでも音楽だけがゆらゆらと
火を灯します闇のファントム

と、具現化して生かした例もあった。

採用と不採用の狭間で

 この他、最後まで採用と不採用の揺れた歌としては、

   [草稿]
さみしくて言葉足らずの落書を
記して消してまた記します

この「記して消して記す」のくり返すの着想の面白さを模索して、

なんとなく言葉足らずの落書を
記して消してまた書きしるす

など改変し、さらに上の句の散漫さを逃れようとして、

情感に冴えない唄を落書に
記して消してまた書き示す

とすれば幾分か理屈っぽい説明へと陥ってしまった。記して消して記すのに相応しい上の句を求めながらさ迷いつつ、

いつわりをこねくりまわした宵歌の
記して消してまた書き示す

としてももの足りなく、

いつわりをこね回しては恋しさの
記して消してまた書き記す

まで逢着するも、まだしもしっくり来ず、遂には捕らわれる程の着想でもないと思い直して、×して抹消することとなった。今考え直すと、もっと素直にものして、

日記にはあなたの名前のもどかしさ
記して消して消して記して

などすれば、たやすく採用へと至るほどの着想で、破棄するには及ばなかったように反省せられる。

 同じように採用と不採用の間にゆれ動いた歌としては、

    [草稿]
灯し来て灯し去りゆく灯火(ともしび)を
こころに描くなんの灯火

という草稿を元に、

灯し来て灯して帰るともし火を
見るとしもなくともす月影

と下の句にまで「ともし」のリズム遊びを及ぼし、

灯しして灯しもどりのともし火を
見るとしもなくともす月影

とまでするも、そのリズム感のたどたどしさが気にくわず、

灯しきて灯して戻るともし火を
灯すともなく灯す月影

とまで徹底的に「灯し」まくってみたものの、はたしてこれらの遊びに真心籠もるものかと疑い始め、却って「灯し」による説明過剰気味のくどくどしさが前面に現れ、詩情を削ぐように思われ、遂に破棄しようと考えるに至った。けれども後日、「灯し」の遊びがしつこいのであれば、それを僅かに繙(ひもと)いて、詩情へと還元すれば良いのだと思い直し、

暮れなずむ火ともし頃のともし火を
灯すともなく照らす月影

へと逢着した。結句を「灯す月影」としなかったのは、ここで「灯す」リズムを破棄して「oou」に対して「eau」の「e」を取りまとめの母音リズムへと用いることが、異なる言葉の登場と相俟(あいま)って、全体のプロポーションを保つのに有益であると悟ったからである。つまり母音で眺めると、

ueauu,iooiooo,ooiio
oouooau,eauuiae

となるわけだ。

 しかし、今考えると「暮れなずむ」の言葉は不要な説明書きで、この歌はまだ推敲の途上である。ここは取りあえず、

やえざくら火ともし頃のともし火を
灯すともなく照らす月影

としておくこととしよう。まったく始終至らないことこの上ない。



 以上、2011年の数少ない和歌については、全体として2010年の頃よりも着想の固定化された、すなわち推敲作業がディテールに過ぎなかったものが、明確に多くなっているのが特徴である。これは一応成長と呼べるものであると、はかなくも自己満足に浸りつつ、今は筆を置くこととしよう。

         (おわり)

2011/12/25

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