初めの歌

(朗読、序文) (朗読、和歌)

初めの歌

序文

 定型詩だろうと和歌だろうと俳句だろうと、もちろん散文詩だろうと、すべて詩である以上は、もっとも大切なこと、つまり中原中也が述べたところの、
『「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい』
 感情の真実を写し出す鏡でこそまずあるべきで、遊びのさなかにも偽りの言葉をこね回してはならないというあなたの考えには、私も賛同したいと思います。短歌や俳句などが並べられた雑誌を読むときに、ページを進めることが出来ないほどの不快感を覚えるということについても、私たちは少しまえに話したことがありました。けれどもあるいはそれは、私たちだけの話ではなく、広く市井の人々が感じる違和感なのかもしれません。

 そしてそれが古語とも現代語とも片づかない、素直な情緒から乖離した書式を、こねくり回すいやらしさに求めることは、あるいは間違いでは無いのかも知れません。

 けれどもまた、中原中也の詩に古語調がふんだんに使用されていながらも、真実性がまったく破綻されず、かえって言葉のリズムを豊かに飾り抜けるような、あの驚異的なセンスを考えると、古語の採用が問題なのではなく、現代語のセンスすら持たない詩人が、古語をこね回すのが原因で、奇妙なものが生み出されているようにも思えるのです。ですから私は、当面のあいだは、古語的表現とも戯れるし、自分の情緒感に偽りのないと思われた場合には、様々な混淆(こんこう)も試みてみようと思うのです。あるいはあなたは、それにうんざりするかもしれませんが、考察は振り返った後から行うことにしたいと思うのです。自分の行為の伴ってこないことについて語るのは、必ずどこかに嘘が生まれるものですから……

 歴史的仮名遣いについては、戦後に破棄されてから久しく、それ以前の、たとえば中也の時代には、その筆記方法が情緒表出にとって違和感なきものであったとしても、現代の私たちから見れば、非日常的な、あるいは率直でない、作り物じみた作品を生みだす危険性を孕(はら)んでいるので、安易に採用することは今は見送ろうと思います。これは現代社会においては、詩はすべての人に開かれたものであるべきだという単純な信念に基づくものです。あるいは単に、「携帯」なんて単語と「言ふ」なんて言葉が一緒になっているのが、なかなかに失笑のたぐいであるという、ごく一般的な感覚に従うに過ぎません。しかし、当時の雰囲気を当時の雰囲気として表出したい場合、あるいはちょっとした遊びごころのためには、採用することだってあるかもしれません。

 実は先ほど文脈に「違和感なき」という言葉を含めたのはわざとです。「美しい」が「美しき」に、「なるのは」が「なるは」となるような、現代文にあっても差し支え無いような、広く咀嚼されている、したがって現在でも生きている古語調も、私たちのまわりには多々存在します。また、音声的な古語調というものは、例えば時代物のテレビドラマなどもありますし、実際は現実生活のなかでも、かなりの頻度で接していることも、古語調と現代調の境界線をあやふやにしているように思えるのです。それに対して、「ゐ」「ゑ」「言ふ」などの視覚に訴える歴史的仮名使いは、もっとも簡単に違和感を覚えるものであり、それはちょうど時代錯誤のファッションに、人々がもっとも敏感に呆れ果てるというような、視覚的判断とも関わってきます。

 そのあたりのことも追々考えていこうと思います。これについてはご意見があれば、ぜひお教えください。あの正岡子規でさえも、俳句の探求熱が高まって、漱石先生の下宿先で、俳句のライブを繰り広げたといいます。わたしもまた、歌って歌って歌いまくって、それから考えようと思っているのです。

 また和歌については、序詞やら枕詞やら掛詞など、やこしいことは何も知りません。それに私はすでに序文のところだけでも、大いなる矛盾を犯しているような気もするのです。とにかく今は、わたしがまだ考察の前段階にあって、闇雲に歌いまくることが重要なのだと、分かってくださったら、それで十分なのです。それでも俳句については、まもなく一年くらいの蓄積はあります。和歌よりも少しだけはっきりしたところをお見せできるかも知れません。

 それでは、まずは和歌から歌い始めることにしましょう。わたしはこれでも詩人を気取っていますから、近づき難い違和感があるからという理由だけで、これらの定型詩を避けて通るわけにはいかないのです。違和感があるとしたら、それは詩型の問題ではなく、詩型のうえに怠惰をむさぼる何者かのせいには違いないのですから。けっしてフォーム自身の問題ではないと信じているのです。

 どうかしばらくのあいだ。暇なときにでもこの落書きを読んでやってください。そうして何か感想をください。ただあなたの感想だけを、わたしは頼りにしていこうと思うのです。わたしは他人の評価を信じません。かといって自分の評価もあやふやです。けれどもあなたの意見だけは、信じていこうかと思っています。それはけっして嘘ではないのです。あとは情報を得るたびに、作品を生み出していったら、一年後くらいには、小さな答えを見いだせるかも知れません。

初めの歌

 ではさっそく始めて見ましょう。まずはもっとも身近なところで、私は酒を嗜みますから、酒の歌を幾つか詠んでみることにします。

からんころんひびき渡るは島酒の
いのちの糧となるは嬉しき

酔いどれの亡き人しのぶ姿して
震えるなみだ父の背なかよ

ねんころよ今日と明日(あす)とのカクテール
グラスに歌おう眠れよ坊やよ

酒の味なくして揺れますともし火の
ちくちくうるさい秒針なのです

 あなたも知っていると思いますが、わたしはときどき陰(かげ)に籠もる性質を持っています。すまないとは思うけれども、本質的な問題ですから、誤魔化したくはありません。けれども始めですから、もう少し明るくいきましょうか。あなたのためには、そうですね、食事の歌なんかどうでしょうか。まずはこの前の「血の月曜日事件」の顛末を率直に歌にしてみました。いえいえ、料理は美味しかったので、怒ってたりしてはいけません。それからちょっと濃かったカレーの歌など……

箸を持つ指に巻かせた包帯と
おかずの味もちょっと違うの

お醤油を、ただお醤油を入れたくて
後ろ指さされたカレーレシピよ

カレーにも入れるべきかなコンソメの
牛を殺めし咎(とが)はありけり

侘びしくて駄目なわたしの冷蔵庫
あらプチプリンこれも幸せ

魚(うお)一匹のたましい奪いて冴え渡る
包丁さばきや江戸前寿司かも

カステラの甘きかおりは鈴の音と
人けをなくしたカフェの窓辺よ

 ついでに子どもの歌を二つほど。もちろん子供なんかいませんから、自分の思い出と、あとは空想です。詩の情とはいわば役者的な情ですから、何も写実主義を掲げるには及びません。それは偽物とは違うものです。

防波堤僕の背(せい)より高いよね
あれは母の日うたう潮騒

東風(こち)吹かばゆらゆれはじけよシャボン玉
母でなくなる妻のなみだよ

 どうも実感が薄いので、あまり浮かんでこないようです。家をキーワードにして幾つか詠んでみましょう。二つめの「古きかおりの富みし館よ」なんてところを見ると、あなたはきっとまた中也に影響受けてと笑うかも知れませんね。ええ、まったくその部分は、あの「カドリール」の詩から持ちだしたものに違いありません。それにしても中也の詩(うた)は、そのまま短歌に分解可能なものが多々あるのですが、それについてもいつか考察してみたいと思います。

冬瓜(とうがん)の水ぶくれしたお多福の
幸せはこべ笑いの門(かど)へと

染めかけの忘れ形見は反物(たんもの)の
古きかおりの富みし館よ

父さんや母さんまたたく星となり
今なおさかる庭の椿よ

漆喰もくずれて侘びしきすきま風
かつてはほほえみありしわが家よ

 また、ちょっと淋しくなってしまいましたね。荒唐無稽なものや冗談的なものも、可能性としてはあるのではないでしょうか。一句目は、方言が正しいかどうかすら分かりませんが、まあお試し品ということで。突っ込みは無しでお願いします。また最後のものは、当人にも意味が分からない荒唐無稽和歌です。
「いにしえの詩人であるアンドレ・ブルトンが行ったという、オートマティスムを和歌でもしてみんとてするなり」
といったところでしょうか。ちょっと遊びすぎかもしれません。けれども、いつか三十くらいまとめて作ってみたいような気もします。実はこういう和歌は、そんな自動筆記なんか待たなくても、古くから存在していたらしいのです。その辺もいつか調べてみたいと思います。

じゃっどん、うまくいかんばい、なんもかも
そげん日もある、薩摩武士かも

和尚さんあんたのいつわりだましいを
お見通しなのさ神も僕らも

薩長の睦みしころの武士道も
戦後の御代も大和なりけり

てでつまり浮かぶは奇妙の果ての間に
瀑布それとも亀の甲羅か

 遊び終わったところで、独りぼっちの淋しい歌。実はこっちのトーンの方が、自分には落ち着いたりするのです。どうか怒らないでください。凍てついたこころを溶かすには時間が掛かるものです。

路ならぬ路ゆく僕の夕まぐれ
かどわかさないでわすれな草よ

歩き疲れて笑えなくなったその犬を
ひとりひとつの石で撲つなり

稲田とて気配誰(たれ)ぞの影もなく
鳴く鳥ばかりは哀しき夕暮れ

ちぎれ雲ちぎれちぎれの侘びしさと
引きずる足の重き靴跡

七曲がり面白おかしく駈けてきた
その道のべを暮れるこころよ

 夕べはあなたに会えました。誰かをたたえる恋の歌こそは、和歌の本領なのではないでしょうか。けれども和歌の世界では、もっぱら別れ歌を奏でるのが古くからの伝統のようです。

 まるで関係のないことですが、わたしは短歌ではなく、和歌として今は歌を詠んでいこうと思っています。そしていつの日か、和歌の伝統と、自分の作品とを、連続体のうえに並べてみることが夢なのです。ちょっと大それた考えでしょうか。ずいぶん長い道のりのような気がします。何しろようやく一年生ですから。

消しごむを尽くし束ねの下書きの
ねがい込めます文よ届けよ

また雨に移り染めます紫陽花の
気まぐれみたいな君の移り気

わたしだって彼は欲しいわそりゃそうよ
でもだからって妥協はしません

肩を手に雪のぬくもる傘ひとつ
ふたり白さの靴跡つづくよ

もつれあう最後の糸のぷっつりと
切れて戻らぬ赤のちぎりよ

手をかざすプラットフォームのなみだ色
誰を待ちますひとりまつ虫

人ごみをこらえて泣いてたあなたにも
手を差し伸べるものはあるでしょう

温もりの忘れきれない悲しみを
こらえもせずに降りしきる雪

僕ねえあなたの幸せばかりをポケットに
あたためながらも歩いてゆくのです

なみだなら雨に溶かして若草の
伸びゆく姿でほほ笑みましょうよ

鳴く鳥のなみだのゆくえは知らずとも
さえずりまさるや春はすぐそこ

 恋の祈りはやがて夜空の星へと届くのであれば、星々の歌を歌ってみるのも悪くありません。いつかまた二人で星降夜を迎えたいと思います。

アルデバラン寂しくってもひとりでも
歩む姿を知る星の名よ

焼酎の小宇宙より遙かなり
天理をのぞめば星の仕草よ

寝ずの番するはポラリスばかりなり
僕の愛した国は消えゆく

僕らとて第三惑星守りたい
ひとりひとつの祈るすがたよ

 そして星々も含めた自然の姿こそ、恋と並ぶ和歌のもっとも得意とするジャンルではないでしょうか。

春風は彩りすぎてたポケットに
花びらひとひら舞い落ちるかも

舞いしきる花の宴もたけなわの
灯し影より若葉来たりし

萩そでの揺れに寒がる灯籠を
うつし池にもなに色落ち葉よ

むかしむかし茶色い戦争ありまして
赤き実ばかりつける青木よ

るり色に砕けたかけらの鉱物を
千万年もの古び標本

 現在のところ、わたしにはこれが精一杯です。半年前に作った俳句を見ると、ずいぶん稚拙なものが含まれていることを考えると、これらの和歌もまた、半年先にはがらくたとなってしまい、廃棄しなければならないこともあるように思えます。まずはともかく、踏み出すことが大切かと思って、ここに四十五首の和歌を作ってみました。なんだか四十五では番号の縁起が悪いかもしれません。最後にもう一つだけ、四十六番目を考えてみましょうか……

砕かれて宥めの川の丸石の
小石ばかりを嘆く庭池

 小石で恋しいじゃ、あなたに怒られてしまいそうですね。内容も韜晦主義もいいところです。いつかもう少し誇れるような作品をお聞かせしたいと思います。情を蔑ろにして遊んでいると注意されたら、ちょっと返答に困ってしまいますからね。しかし、これはご愛敬ということでお許しください。寒くなりました。お体を大切に。では、失礼します。

(二〇〇九年五月三十一日)

2009/11/22

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