短歌における叙述的の意味

(朗読1) (朗読2)

短歌における叙述的の意味

 今日はメールで失礼します。気がついたことを手っ取り早く送信するには、メールの方が便利なことはいうまでもありません。

 叙述的文章ということについての質問ですが、私がその言葉を使うのは、もっぱら物事を客観的な説明によって順に並べた文章、という意味です。文章の組み立てそのものが、心的表現をサポートしない、あるいは語り口調から心情の表出が伝わってこない、中性的な文章、説明的文章といってもいいかもれません。ですから、たとえ「嬉しかった」という感情を伝える言葉であっても、
「佐々木が昨日礼を言ってきたのが嬉しかった」
(叙述的傾向)
という場合と、
「佐々木が夕べ、礼を言ってきてねえ。それが嬉しくって」
(心情的語り口調)
と言う場合と、
「いやあ嬉しかった。佐々木が夕べ礼を言ってきてねえ」
(構成による心的表現のサポート)
とでは、印象がずいぶん異なることと思います。そうして自分の情にもとずく表現であるように見せることが、重要な詩の判断基準になるのです。

 もちろん、その判断基準には、詳細を記すとなると、恐らく文庫本一冊くらいの考察が必要になってきますので、気がついた点だけをざっと説明することにします。

 もうひとつ例を挙げてみます。

「ああ、今日は楽しかった」

これは感情を表現した文章です。それを保証しているのは、必ずしも「ああ」と「楽しかった」ではありません。語り口調の自然さそのものが、最終的にはそれを決定づけているのです。だから、

「ああ、今朝の八時三十分頃は楽しかった」

といわれると、すぐに感情的な表現がちぐはぐになってきます。「今朝の八時三十分頃」という中立的に説明を加えた部分が、日常会話において不自然だからです。これは実は「話し言葉」と「書き言葉」の混在による弊害なのですが、これについては後で軽く説明しましょう。

 この感情にそぐわない中立的な説明文のことを、私はまず第一に叙述的と呼んでいたわけです。例えば前回の「さとこさん」の歌は、

「落日に額髪あかく輝かせ」

というちぐはぐな表現が、

「夕焼けに真っ赤な額を輝かせ」

くらいであれば、自然な語り口になりそうなところを、心情を無視した「落日」から開始して、「額髪をあかく輝かせて」と説明したから、くどくどしい叙述になってしまったのです。なぜなら、人の語りには必ず指向性が籠もるもので、順番に説明を連ねただけのニュースのようには、物事を説明しないからです。この場合まだ、

「あかい額髪を輝かせて」

くらいであれば、語り口調としてはずっと自然になります。その語りの自然さをこそ、和歌は一貫して求めているのであって、そうでないならば、新聞を毎日切り取っていれば、短歌なんて人間が考える必要などないのです。また小説の叙述の部分を切り貼りしさえすれば、小学生にだって同等の短歌は出来てしまうのです。事実の説明こそが詩情であるならば、辞書の説明を古文で整えるなり、韻を踏むことの方が、はるかにすぐれた詩文であるということになってしまうでしょう。そうなってくると、もはや自動短歌作成ソフトだって、いいことになってしまいます。

 つまり無意味な説明文を、箇条書きにして、ボタン一つで三十一字にかたちを整えてくれるのです。

「スーパーに買い物に出かけたら、途中に犬がいたので驚いて尻餅をついた」

などと、その日の出来事を、次々にソフトに記していって、

「変換」

と書かれたボタンを押すと、あら不思議、

スーパーの買い物途中に犬が来て
驚いたとき尻餅痛いよ

あるいは、もう少しマシなソフトであれば。

スーパーの買い物がてらの犬の影
飛び出す拍子に尻餅痛いよ

言葉のリズムや文章の持って行きかたが、わずかに詩情を増幅させますが、本質的に叙述であることには変わりません。つまりもとの説明文に還元されるからです。

さらに「古語」ボタンなんてものもあります。サークル御用達のソフトですから、

スーパーの買物さなかや犬出でし
驚かむ我尻餅痛みよ

などと、現代文とも古語とも訳の分からないものが、わざわざ散文の変換作業を経ずしても、何百でも何千でもたやすく作れてしまうことでしょう。(この変換がきわめて乏しいのは、もちろんわたしのせいではありません。)これはつまり、

「バラックが狭まる蒸し暑い道を行き」

という無駄な叙述をボタン一つで、

「バラックが狭むむしあつき道をゆき」

などと、説明文のままに古語調へ移し替えるようなものにすぎません。だからもとの文章を眺めれば、たやすくこれが散文的説明に過ぎないことが分かるのです。つまり詩文ではないのです。詩文でない以上、和歌でも短歌でもなんでもないのです。ただ字数が一致した散文なのです。



 けれどもせっかくですから、新聞からの切り抜きという視点で、和歌のあり方をちょっと眺めてみることにしましょう。これは同時に、散文すなわち詞書(ことばがき)の領分と、和歌の領分について、考えることにも繋がると思うからです。

今朝八時首都高速で玉突きの
衝突のため渋滞続きだ

 口語文とは日常的な話し言葉のことであり、現代の『話し言葉』と『書き言葉』が完全に一致しているというのは誤りです。叙述体と日常的会話体というものは、いつの場合でも常に乖離していて、例えば私たちは新聞に書いてあるような言葉遣いでは、日常会話に物事を説明したりはしていないからです。

 この五七五七七を持って短歌と称する人は、謎サークルの人間以外には存在しないことと思います。これはいわば、新聞やニュースの説明をちょっと字数を整えて、最後を「だ」にしたに過ぎないからです。唯一「だ」という部分には、語り手の感情が込められていますが、全体の叙述的傾向に完全に飲み込まれてしまっていることはいうまでもありません。それでいて、

「回想はかの日の秘話にかかはる」

「午後二時の暑き石橋日本橋」

「上野駅の夜の半ばごろ浮浪児らは」

のようなものを短歌と呼んでいる皆さんには、絶対にそのことは理解できないらしいのですが……恐らく普通の言語感覚を持った皆様がたには、歌らしくないと思われることと信じたいのです。



 例えば、この短歌もどきを話し言葉に解体してみましょう。

「今朝の八時頃らしいんだけど、首都高速で玉突き衝突があって、それで渋滞が続いているんだってさあ」

 このくらいの日常会話にしてみても、実際はこんなに要領よく話を進めること自体が、書き言葉の領域に少し踏み込んでいる気配ですが、この言葉を同じ日常会話のなかで、

「今朝八時に起こった首都高速での玉突き衝突事故のため、現在渋滞が続いているんだってさあ」

とニュース解説みたいに話す人は、まずいないと思います。ここに話し言葉と、書き言葉の乖離が存在するのです。そうして書き言葉というのは、決して「口にすることなく執筆するための言葉」ではありません。筆記によって物事を効率的に説明するために存在する、筆記に即した言葉遣いであって、じつは日頃ニュースキャスターなどが原稿を読み上げているあの言葉は、決して話し言葉ではなく、書き言葉の領域なのです。試しにバラエティーなどで同じキャスターがおしゃべりをしているときと、ニュースの時の言葉遣いを採取してみれば、どれほど二つの言葉に傾向的な差があるかを知ることが出来ると思います。

 そうして「書き言葉」というのは、本当は「叙述言葉」くらいの意味であって、効率的に物事を語って説明するような、読みあげニュースの場合には、その瞬間には「話し言葉」「聞き言葉」でもあるのです。戦時中の大本営発表やら、天皇の詔などを聞いてみるといいでしょう。漢文の読み下しや文語調も、場合によっては話し言葉、聞き言葉にもなるのです。「叙述言葉」というものは、実際は「非日常的な話し言葉」「叙述的な話し言葉」の意味合いを、常に持っているのです。そうして非常に改まった場合や、弁論などをする場合には、時には原稿が無くても、叙述言葉を会話に使用して、説明を加えることだってあるのです。また学者が専門の知識を尋ねられたような場合、無頓着に非日常的な叙述的説明で話を始めるのを、耳にすることもあると思います。その瞬間彼らは、「叙述的な言葉」を使用しているのです。ですから「話し言葉」「書き言葉」という定義のしかた自体が、誰が考えたものやら、まるで間違っているのです。

 そしてあらゆる歌は、たとえ叙述的な事柄を述べている刹那にも、常にそれが日常的な語り口調であるかのように、詐称し続けられるかどうか、それが、その歌の善し悪しの、判断基準になるように思えます。つまりは、技を技として悟らせないための、また読み手の心情を途切れさせないための、最低条件になるからです。これは小説の会話部分や、歌詞の語り口調と同じことです。小説の場合は、絶対に日常で話されないような高度の内容までも、平然と語り口調の詐称を加えて、違和感なく語りきってしまうような場面に、遭遇することもあるでしょう。そうしたトリックが、絶対的に必要なのです。きわめて初心者向けに説明すれば、和歌とは小説の会話部分に入れられるように、仕込まれた文章だと言うことが出来るかも知れません。例えば百人一首の和歌を現代文にして、

春過ぎて夏は来ました
白妙の衣干すという天の香具山に

奥山に紅葉を踏み分けて鳴く鹿の
声を聞くときこそ秋は悲しいものです

こんな語りをすることは出来ませんが、同時に語られる調子をこそ保持していると思われます。これを、

奥山で鹿が紅葉を踏み分けて鳴いたので
声を聞いたときに秋のかなしさを感じた

と言ったら、途端に語りよりも叙述的な、中立的説明の文章になるわけです。つまりはこのような歌うべき叙述を集めてくるのは、和歌においては、スケッチに相当するといえるでしょう。そうして、歌とは、そのスケッチをもとに、取捨選択と推敲を重ね、それを叙述的言語から心情を込めた語りの世界へと導く作業だといえるかもしれません。

 あるいは人は、客観的事実を聞いている場合と、主観的にその言葉に寄り添っている場合とでは、言葉に求めるものが違う、とまとめることも出来るかも知れません。



 ある愛の歌があるとします。愛するものを自殺によって失ったという悲惨な歌ですが、

「あの日、踏切のなかへ飛び込んであいつは」

くらいなら歌詞としてはあり得ますが、これを

「八時三十分の池袋行きの上り急行の踏切の中へあいつは」

なんて歌いだしたら、興ざめするに決まっています。

「午後二時の暑き石橋日本橋」

が興ざめを引き起こすのも、これとまったく同じ理由に他なりません。説明は言葉書きに記されるものだからです。小説なら会話の外に置かれるべきものだからです。

 万葉時代から和歌の黄金時代、あれほど怒濤の漢語の流入があったにも関わらず、公的な叙述言語が漢文であったにも関わらず、それらを避けた言葉遣いに和歌やら源氏物語の記述方法があったのは、なにも大和心が云々(うんぬん)以前に、叙述言語が詩情にとってマイナスに作用するという、あらゆる詩にとって本質的な問題にもよるのです。枕草子は説明的に内容が面白いのではありません。あの話し掛けるような口調があって、始めて面白いのです。

 つまり私たちは、新聞の記述のようには、小説の会話部分や歌詞を記さないのですが、新聞の説明のようなくどくどしさは、感情と結びついた日常言語からこころを引き離し、物事を類推し把握する中立的な意識を呼び起こさせて、詩を破壊することを知っているに違いありません。そして小説や歌詞でそうしたマナーが自然に保たれているということは、一般社会において、普通の人々において、詩文や語りに望まれるべき文章は、何一つとして変わっていないということにもなります。何が言いたいかというと、ある特徴的な現代詩や現代短歌などを仕立てるサークル同業者が、例えば

「現代的感覚において叙述的説明をこそ美的価値観とした社会通念の変化により」

などと説明が加えられた場合、それは社会一般の事象ではなく、社会から相手にもされなくなった、サークル同業者の末路の特殊傾向に過ぎないからです。そうして一般的傾向からずれきっているがゆえに、彼らはいびつなものばかりを懸命に追い求めているに過ぎないといった有様なのです。もちろん誰も注意なんかしてくれやしません。不要なものに、関心なんて湧くわけがありませんから。



 脱線しました。つまり、あらゆる詩というものは、例え説明的な漢語を取り入れようと、叙述部分を織り込もうと、英語を取り入れようと、ちょっとした言葉の遊びを取り入れようと、日常言語の枠へと全体の文脈をうまく返してやることさえ出来れば、詩を破壊させたりはしないのですが、逆に新聞を三十一字に切り出しても、それは歌でもなんでもないという訳なのです。

 例えば日常会話に説明を加えるときに、
「この先を右に曲がって」
と話すほうが、語り手かあるいは聞き手の主観に繋がる言葉としては、(今話している二人の関係から派生すべき行動に繋がる言葉としては)、「この道路を右折して」と説明するよりも、会話の中では正統なのです。それを「この道路を右折して」と歌いだすから、奇妙なことになってしまうのです。おおよそ、漢語が避けられたことの本質も、ここにあるのです。意固地になって大和魂ばかりを振りかざしたということが、根本にある訳ではありません。

(もっとも、言葉のリズムそのものによって、心的な表現と思わせるような効果もありますが、これについては、別の機会に説明したいと思います。)



 さて、ただの叙述を、感情に結びついた語りへと渡らせるために、さまざまな修辞が生み出されてきました。例えば次のものは、ただの説明です。これは歌ではありません。(これを歌だと言い張ったとき、現代短歌という奇妙なものが生み出されました。)

今朝八時首都高速で玉突きの
衝突のため渋滞続きだ

 ここではかろうじて「渋滞続きだ」という結句の部分が、見方によっては「やれやれ」といったため息に、見なされうるかもしれませんが、前の四句が圧倒的に叙述を連ねたために、とても自分が渋滞に難儀しているとは思えなくなってしまっています。ただの客観的説明を聞かされるのみです。歌い手の主観が、叙述に完全に飲み込まれてしまっています。

(念のために、この概念はボーダーを引いて説明できるものではありません。ある部分が全体のなかで感情と結びついた言葉にもなるし、叙述的な言葉にもなるからです。)

 例えば、言葉を換えずに、少しでも歌へと近づけたいのであれば、まずは倒置法が利用できます。

首都高の玉突き事故は今朝八時
衝突のため渋滞続きだ

 こうするだけでも上の句がただの叙述ではなく、たちまち詠い手の感情が現れてくるのが分かると思います。つまり彼はニュースを叙述しているのではなく、事故があったのが「今朝の八時」だったことを説明しようとしていたと、聞き手に感じさせることが出来るからです。意思が前面に表れてくるのです。倒置法が和歌の常套手段であるのは、まさにこの効果によります。ただの説明文が、特定の伝えたい思いを込めた、詠い手の表現したい強調点を持った文章へと、たちまちにして移り変わるからです。

 ついでに述べておきますが、実は比喩(ひゆ)の本質もそこにあります。比喩とは何も、「山笑う」なんて着眼点のユニークを褒めて貰いたくって、己惚れ顔に使用するために生み出されたわけではないのです。

(念のために、「山笑う」は漢文の引用なので、この説明はちょっと冗談がてらです)

 そうではなくって、例えば、「山風が泣いているように」と説明するときに、「山風が肌に当たってかなしさを煽った」などと説明するより、はるかに短い文章で、より主観的な表現をおこなうことが出来るので、心的効果と文章の節約のために、和歌においては相応しい技法だったのです。試しに次ぎの文章を眺めてみてください、

「東南東から吹いてきた山風が冷たくて、私は泣きたくなった」

(くどくどしいくせに、泣きたくなった理由すら定かではありません)

「山風が冷たく当たって、泣きたい私の心をあおり立てた」

(散文的小説なら結構ですが、説明がくどいので、和歌に収めきれません)

「~我が心/冷たい山風が泣いてるみたいだ」

和歌としては、字余りの下手歌ですが、それは置いておいて、思う存分叙述を節約して、かえって心象にスポットを収斂させる効果にのみ比喩が使用されているのを見ることが出来ると思います。これが比喩の本質になります。

 倒置法と比喩とそれから、名詞で止める体言止めなどを効果的に使用できると、それだけで叙述的文章を、大きく詩的な文章、つまり歌い手の情へと結びついた文章へと転換させることが出来るのです。詩的表現は、韻やリズムや、ましてや古語によってなされるものではありません。その本質は、歌い手の情をより所に組織された、文脈そのものによってなされるのです。

 ところが、学校のお勉強の教え方だと、かえって情を蔑ろにするための技法だと、生徒が錯覚することは目に見えています。現にわたしもそうでした。何しろ、詩情の欠けらもないような方々が、平気で教鞭をたれている上に、しかもこれを規則として教えますから、すっかりげんなりしてしまうのです。



 さて、今朝八時にスポットを当てては見ましたが、まだまだ一句二句の叙述的説明が、私たちを興ざめへと誘うことは間違いありません。  ここで、四句目の衝突から渋滞が推察できるので、不要な二句目を抹消します。この段階で、「玉突き」に拘りすぎる愚人(おろかびと)が、たちまち脱落して、叙述過剰の短歌を詠いきることになると思います。そのような例は、今までにも、ずいぶん見てきました。けれどもそんな叙述は、まったくもって不要なものです。

ようやくの首都高入りは今朝八時
衝突のため渋滞続きだ

「ようやく」という詠い手の気持ちが自然に「今朝八時」へと収斂し、下の句ではそれが衝突事故で渋滞続きだったという説明のままに、詠い手の嘆きであることが読み手にも悟れることと思います。さらにくどくどしい「今朝八時」という無駄な説明を消していきましょう。その時の事象をそのままに歌に込めるのは馬鹿げています。そのようなものは詞書(ことばがき)に記すべきです。どうも正岡子規の写生という言葉を、説明的叙述と取り違えて、ニュースを歌と思い込んでいる方々が、「ぼわあっ」と膨れあがってきたような気配ですから。気をつけなければなりません。彼の述べた写生とは、心的表現に現実感覚に基づかない虚偽を加えないという意味であって、スケッチ主義でも実写主義でもないことは言うまでもありません。

ようやくの首都高入りが運の尽き
衝突のため渋滞続きだ

 朝であるかどうか、それは読み手が判断すればよいことです。それに代わって、「運の尽き」と悲壮感を煽ることによって、あるいは詠い手が、よほど急いでいたところへ持って、渋滞に巻き込まれたことが自然に伝わってくることと思います。するとある人は「朝のせわしなさ」と考えるかも知れませんが、別の人は「夕暮れの帰宅ラッシュ」と思うかも知れません。どうしても自分のために「朝」を残しておきたいのであれば。素直に、

「遅れ急ぎに首都高速入りした今朝八時頃の悲劇の歌一首」

とでも、あらかじめ記しておけばいいのです。すると、さらに「首都高」を消すことも可能になってきます。



 けれどもそろそろ、段階的に和歌を直していくのも面倒ですから、飛躍がてらに最後の歌へと移してしまいましょう。必要のない叙述的要素をそぎ取って、同時に思いへと収斂させていくと、次のような和歌に辿り着きました。

(今回たまたまこうなったというだけのことですが)

ここでは、あえて思いを「今朝」に向かわせるように歌い直してみます。

早道を願って切ったハンドルの
かたなに連なる今朝の渋滞

 これは一見「今朝の」がマイナスのようにも思えますが、じつは違います。「すごい渋滞」なんてしてしまうと、今度はあまりにも日常感覚に近くなりすぎて、川柳くらいの馬鹿らしさに陥ってしまうからです。詩は日常的口調を借りて、しかもそれ以上のものを表現するところに、意義があるのですから、ただやみくもに感情をぶちまければよいというものでもありません。ただし、感情をぶちまけただけのものは、それは個性のない、取り上げるまでもない駄作ではあるものの、やはり短歌にはなっていると、私は考えています。つまり、

もう駄目か諦めたところを助けられ
あいつやっぱり大したおとこだ

 きわめて無意味な短歌ですが、それでも叙述をこね回した「バラックが狭む」の短歌などよりは、よほど短歌であるように思えます。何しろ、情だけは率直に伝わってきますから、情を蔑ろに言葉をもてあそんでいるような不快感は起こらないからです。ただ今度は誰にでも語れるがゆえの必然性のなさと、抽象性の至らなさに悩まされることになるわけです。つまりこれはこれで、新聞の切り抜きの代わりに、一分ごとに心情を切り抜きしただけの、必然性のない文章ということになってしまった訳です。どうやら、叙述そのまんまと、思いそのまんまは、二つの両極端なのかも知れませんね。けれども叙述そのまんまは和歌ではありませんが、思いそのまんまは、和歌であるといえると思います。少なくとも、そう信じなければ、和歌なんて、叙述の説明を字数で制約するだけの、きわめて無意味なものになってしまいますから。

 ちょっと脱線。よくワビ・サビなんてものを情を廃したところに美があるとして、俳句の情を殺して喜んでいる人々もいますが、これも誤りです。あれは情をワビ・サビの極地へと至らしめるのであって、無くしているのではないからです。

 閑話休題。ですからやはり、歌い手の心情と、客観的な説明のバランスを取って、この「もう駄目か」の短歌も、

あきらめをしかけた際を助けられ
見直すほどの父の背中よ

 くらいにしておいたほうが、短歌としての価値が見いだせるには違いありません。感情的な語りとその抽象化の話は、いつか別の機会にしてみようと思います。

 話を「すごい渋滞」にまで戻せば、その露骨な表現が、あえて歌うまでもない、あるいは改めて聞くまでもない日常感覚にまで、歌を貶めてしまうことになります。すると今度は「叙述的な説明」が、歌の思いをちょっと客観的な視線へと移す、直情から距離を置くために効果的な言葉として生きてくるのです。かといって、語りごととして不自然でない「今朝の」になっていることと思います。つまり全体の語り口調的な、情緒と結びついた言葉の傾向は、破棄されないことと思うのです。

今朝八時首都高速で玉突きの
衝突のため渋滞続きだ

早道を願って切ったハンドルの
かたなに連なる今朝の渋滞

 最後に、二つを比べてみますと、いかに順に説明するだけの叙述的文章の表現が、和歌の詩的表現に不要であるか、よく分かることと思います。二つ目を仮に普通の文章にしてみますと、

今朝早道をしようとしてハンドルを切ったら
かなたまで渋滞が続いていた

となります。どうでしょうか。和歌を仕立てる前の文章が、「今朝八時」のものと違って、どれほど語り口調になっているか分かると思います。ここにこそ、叙述調と会話調の違いがあるのです。

 ここからさらに、中心となるべき「今朝」と「渋滞」(別のところでももちろん作れますが)を取り出して、それをこそ目的として心情を効果的に配すべく、文章を仕立て直すことこそ、和歌の領域だと言えるかもしれません。何しろ、一番初めの「今朝八時」の方は、「渋滞続き」の説明を順番に連ねただけに過ぎませんから、それでは、

「午後二時の暑き石橋日本橋」

と同じことになってしまうわけです。

「上野駅の夜の半ばごろ浮浪児らは」

と同じことになってしまうわけです。

 このような不要な中立的、説明的な部分を持って、私は叙述的といっていると考えてくだされば、今は話が通じることと思います。そうして、ここで説明したことは、すべての詩文において通じることなのです。ただの叙述が並べられた文章は、詩ではありません。ただの説明文に他ならないのですから。では失礼します。



   (二〇〇九年八月二十一日)

2010/2/22
2010/3/2改訂

[上層へ] [Topへ]