飛行の夢

(朗読)

飛行の夢

 飛行の夢は、何度か見たことがある。自由闊達には飛べなかった。ファンタジーなどどこにもない。ただただ懸命に飛んだ。辛うじて浮いていることさえあった。ある時は、高層ビルから落っこちて、思いのありったけを念じたら、奇跡的に落下が止まって、衝突を免れたこともあった。あの時は恐ろしかった。手に汗握る瞬間だった。

 私は夢のなかでは翼もなく、パイロットみたいな制服も着ていなかった。普段着のピーターパンならまだしも結構だが、あんな心地よく飛べたものではない。自分の飛行は、ようするに鈍重であった。コントロール不能であった。自由に羽ばたくどころの騒ぎではなかった。間一髪で中空に浮かんでいた。それはいつもリアルで、自らの限界をはかなくも露呈していた。

 ある時は、愚鈍の落ちこぼれとして、懸命に飛行の練習をしていたこともある。

「飛べ、飛べ」

と何度も念じてみるのだが、ちっとも浮かんでこない。ジェスチャーを交えて、

「これでどうだ、それともこうか」

などとやっていると、ようやく飛び上がった。しめたと思ったら、コントロール不能のまま、上空まで突き抜けてしまう。雲がぷかぷか浮かんでいる。鳥が馬鹿にして笑っていやがる。ちくしょう、おちょくりやがって。私は泣きたい気持ちになった。

 心を落ち着けて、今度は、「降りろ」と念じてみたが、うまく降りられない。さっきのイメージが残っていて、念じたら地面に叩きつけられそうな気がする。

「ゆっくり、降りろ」

なんて中途半端に祈るのだから、降りられないに決まっている。そんな風に、私は飛ぶという事実以外、何一つ為す術(すべ)がなかったのである。

 もう少しマシなときは、意志が飛行にまで伝わることもあった。先ほどと同様、やはり小学生の頃に見た夢である。しかし、驚くほどの低空飛行であった。今でも覚えているが、私は近くを流れる小川の、表面すれすれのところを、さぞかし速いペースで遡っていた。少なくとも体感ではそのつもりだった。それなのに、起きてから回想してみると、子供の自転車くらいの速度しか出てはいなかったのである。川沿いには道が続いていたから、足を使っても大差はなかった。ずいぶん馬鹿にしたような話ではある。それでも私は、子供なりに重大な使命を帯びて、鬼気せまる思いで飛行を続けていたらしい。もともとは上空から舞い降りたらしかったが、そのへんは、みんな忘れてしまった。

 ある時はもっと情けなかった。あんまり情けなくて、小説にもならないんで、かなりの脚色を加えて、物語の体裁を保っておくことにしよう。



 それは欧州の、ある川沿いの古城のような、恐ろしく天井の高い、石造りの館に招待されたときの話である。あるいはそれは、大勢の人々が集う、新年の祝賀パーティーか何かだったのかもしれない。私は応接間だか、回廊だか分からない、巨大なアーチ状の空間のなかで、大勢の人にもまれていた。まるで教会施設から、宗教色だけを取り除いたような空間だった。

 立席(たちせき)のテーブルには、沢山の料理が並べられ、近くのワイナリーか、地下倉庫からもたらされたようなワインが、一列にグラスを彩っていた。銀匙(ぎんさじ)やフォークをナイフと戯れて、ホワイトムースのチキンをスープで流し込むみたいな、すばらしい晩餐だった。マイセンの高級そうな受け皿が、あちこちに重ねられていた。それを取り分けながらも、私はしたたかに酔いを深めていった。

 向かいの正面には、バルコニーが設置されて、宮廷楽団がシュトラウスのワルツを奏でている。その下では、ドレスを着飾った男女が舞踏に華やいでいた。私はシャンパンを軽く掲げて、友人に新年の挨拶を送るのであった。

「Bonne annee !(ボナネ)」

髪の毛がブラウンで、瞳がちょっと青みがかった友人が、

「今年も、どうぞよろしく」

と挨拶を返す。よいお年を、どうぞよろしく。これは万国共通らしかった。もっとも、夢の中だから全員日本語である。それでいて、初めだけフランス語が紛れていたのは、博識ぶった見栄っぱりが、夢にまで顔を覗かせたためかもしれなかった。しかし、こんなひけらかしの欲求が、酔いと共に深まっていくにつれ、私はついに、愚かしい失態を演じきってしまったのである。つまりお正月には隠し芸という、あの日本人の悲しい習性が、私を無様の局地へと追いやったのであった。

 言い訳が許されるならば、ワインは糖度が高すぎである。知らぬ間に酒量をオーバーして、酔いの限度を超えてしまったに違いない。自分に飛行の能力があることを、見せびらかしたくって堪らなくなってしまったのであった。

「実は私は、飛ぶことが出来るんですよ」

ブラウンの髪毛(かみげ)に向かって、私はグラスを傾けた。

「飛べるですって。またご冗談を。飛行の技術なんて、魔女狩りと一緒に終焉を迎えたのです」

彼は昔を懐かしむ様子だった。まるで、冗談は止せといった表情である。

「いいえ、本当です。これをご覧なさい」

 私は掲げたシャンパングラスを、指先からそっとはじき飛ばしてみせた。彼があっと驚くと同時に、シャンパングラスは、宙に留まったままふわふわしている。傾いてこぼれることさえしなかったのである。

 もちろん彼は驚いた。その瞳がキラキラ輝くのが私にも分かった。彼は子供が喜ぶときの仕草みたいに、急に大きく手を叩き始めるのであった。

「ブラボー、皆さんお聞きください」

招待客が一斉に振り向いた。そのくらい心地のよい響きがしたからである。

「私の友人が、これより飛行の秘術をお見せします。長らく断絶していた飛翔の伝統が、我が国によみがえる瞬間です」

 祝賀客たちは、しばらくはきょとんとしていたが、やがて正月に相応しい余興でも行われると悟ったのだろう、さっそく拍手が沸き起こった。もちろん、私は怯まなかった。ついにこの日が来た。私の飛翔をアピールする瞬間が。そんな思いが、酔っぱらいの精神を支配していたからである。向こうではまだ、華やかなワルツが続いていた。

「それでは。お見せしましょう」

私は、右手を高らかに掲げ、人々の喝采を留めてみせた。それから意識を集中する。さすがにグラスとは重量が違うから、なかなか持ち上がらない。しばらくは「えい」とか「ほい」とか、奇妙なジェスチャーを繰り返していたのである。

「ちょっと、本当に大丈夫ですか」

ブラウンが心配になって囁いた。

「男子に二言はありません。我が国の格言です」

私を誰だと思っているのだ。宙に浮くことの出来る、この世で一人きりのヒーローではないか。

 向こうの方では、日本人のあの言語と結びつかないジェスチャーは、いったいどこから生まれてきたものだとか、あれはお笑いばかりを吸収した、なれの果ての姿だというイヤミが聞こえてきたが、私は気にしなかった。大きく深呼吸をして、浮かびゆく姿をばかりイメージした。大丈夫、シャンパンを浮かべたみたいに、自分を解放すればよいだけなんだ。私の周りには、大勢の観客が集まっている。最高の舞台じゃないか。不意にうしろの方に、黒い三角帽子が見えた気がしたが、そんなことには構ってなどいられなかった。飛翔のイメージが、今こそ全身に伝わって来るのである。

 あるいは嘘ではないかと、人々がざわつき始めた頃、不意に体が軽くなった。ふわりと踵(かかと)が床を離れた。ついに私は、浮遊を始めたのであった。

「信じられない」

「今世紀における、我々の驚異だ」

「まさか、本当に飛ぶんですもの」

「ブラビッシモ、アッサイ、メッゾ、スタッカート」

 拍手が鳴り響くなかを、私は右手を振りながらに遠ざかっていく。さぞかし格好(かこ)いい姿を想像したくなるところである。しかし残念ながら、現実は必ずしもそうではなかった。その飛行ぶりといったら、うつ伏せに横たわった姿勢で、両手と両足をだらしなく垂らして、ヘリウムの足らなくなった風船がようやく持ち上がるみたいに、ちまちまと上昇を続けていくのである。それは恥を忍んで申し上げれば、お散歩の犬の姿に似ているようにさえ思われた。しかし飛翔したことは事実である。私は満足した。

 天井はまだ遠いが、次第に人々の頭が小さくなってくる。宮廷楽団が演奏をやめて、呆れたように見守っている。そして観衆は、このみっともない飛行スタイルには言及せず、惜しみない拍手を送ってくれるのだった。それなのに私は、飛行を自在にコントロールすることも出来ず、ただ無気力に浮かんでいくばかりである。そして心の中では、

「浮かべ、浮かべ」

と懸命に祈るのが精一杯であった。どうしても前後左右に移動したり、体を起こすことが出来ないのである。ただ辛うじて、手足をばたつかせるのが関の山であった。

 楽しんでくれていた観衆も、私がそれ以上のパフォーマンスが出来ないと分かるやいなや、次第に飽き始めた。奥の方では、また楽団の演奏さえ始まって、一部の男女がダンスを再開した。

「そろそろ、降りてきてくださいよ」

下の方から、ブラウンの声が響いてくる。私はもはや天井にまで近づいていた。

「分かった、今戻るよ」

 なんて情けないんだ。もっと練習が必要だったのか。私は飛行をコントロール出来ない自分が、もどかしくってならなかった。もっと自在なところを見せたかったからである。けれども仕方がない、しょせんは付け焼き刃に過ぎないのだ。もう降りよう。そう思って、

「降りろ、降りろ」

と念じ始めた。

 ところがうまくいかなかった。なかなか効力を発揮しないのである。私は天井近くを漂いながら、両手と両足をブランと垂らして、当てもなくさ迷うばかりであった。

「どうしたんですか。紹介してくれって、皆さんがお待ちかねですよ」

ブラウンは、彼を紹介して欲しいという、沢山の群衆に取り囲まれているらしかった。私は、

「もう少し待ってください」

と平生(へいぜい)を装って、落下のイメージを膨らませたが、どうしても浮力が抜け切らない。大気のなかに封じ込められたような錯覚に囚われて、冷たい風が胸を吹き抜けた。おそらく私の顔色は、みるみる青ざめていったに違いない。観衆もざわつき始めた。

「おい、実は降りられないんじゃないのか」

「なんたる、無様な姿であるか。飛ばない方がまだマシである」

「近頃の彼らのジェスチャーときたら、挙動不審にもあまりある」

などと言っては、顔を見合わせている。私はしかし、もはやパニック状態に陥ってしまったらしい。ついには、恥も外聞もみんな忘れてしまって、

「お、降ろしてくれ」

と叫んでしまったのであった。

 なんたる醜態。お優しジャパニーズ。手足のばたつかせ方にも、まるでリズムが感じられないのである。いくら生兵法にしたって情けない。表現を曲線にすることすら出来ないのに、飛翔を試みたのが浅はかだった。ワインが甘ったるくって、ついアルコールを入れすぎたのだ。たちまち会場は大騒ぎになった。せっかく再開した演奏を中断されて、楽団員たちがやれやれといった表情を見せている。

 始めブラウンは、下女にロープを持ってこさせて、何度かそれを宙に放ってみた。もちろん届くわけがない。おもりを付けて投げるのだが、せいぜい半分の距離が限度だった。すると別の紳士が、

「天井の梁(はり)のところへお掴まりなさい」

と精一杯の声を張りあげた。しかし私は、方向を定めることさえ出来なくなっていたのである。両手を振り上げても、天井にすら触れられなかった。ほとんど泣き寝入りの形相で、ちまちま漂っているばかりであった。

 もし会場の皆さんが、この醜態に嫌気がさしてきたらどうしよう。私は死ぬまで、ここに浮かんでいるのだろうか。それとも今にテレビカメラが押し寄せてきて、格好の見せ物にされてしまうのだろうか。そうなったら、日本にだって放映されるだろう。日本人の恥さらしとして、家に抗議のハガキが殺到するかもしれない。ああ、そうなったら、家族にだって申し訳が立たない。恋人にだって逃げられてしまうに違いない。

 すると、それまで後ろに控えていた、この館のあるじが突然口を切った。もちろん私たちを招待してくれた男である。悪意のある人間ではないが、少々思い込みが激しいらしかった。

「腹にヘリウムが溜まってしまったに違いない。私はヘリウム風船が昇っていく姿を見たことがある。もうこうなったら、腹のあたりに銃をぶっ放す以外に方法はない。落ちてきたところを受け止めて、すぐに治療を試みるんだ。一か八かだ」

といって、すぐに銃を取りに行かせたのであった。私は驚いた。

「よせ、ヘリウムじゃないんだ。撃たれたって落ちるものか。止めろ」

と泣きながら懇願したのであるが、城主はすでに、妄想の正当化作業を終えてしまった後らしかった。

「待っていろ、私の名誉にかけて救ってみせるから」

なんて叫んで、うんうん頷いているのである。そうしたらブラウンまでおかしくなり始めた。

「他の誰かに撃たせるくらいなら、友人でもある私が処断しましょう」

といって覚悟を定めたのである。

 待ってくれ、そんな処断があってたまるか。友人ならあるじの愚行をこそ改めるべきだ。一緒に荷担する奴があるか。そう思ったが、とっさに声が出てこない。彼は早くも、下女から手渡された銃を握りしめている。私はほとんど半泣きであった。

「止めてくれ。早まるな。そんなもので、降りられる訳が、ないじゃないか」

宮廷楽団が、顔を見合わせて、いきなり葬送行進曲を奏で始めた。気の弱そうな婦人が、ハンカチーフで瞼のあたりを押さえている。私はぶるぶると顔を横に振るばかりだった。

 ああ、こんな形で生涯を終えるとは、思ってもみなかった。人生、いかなるところに落とし穴があるか、到底分かったものではない。ちょっとした軽率が終末を誘い込む。私は瞳を閉じた。日本の家族が、友人が、恋人の姿が浮かんでは消えた。ああ、どうかあの善良なるブラウンを、日本のマスコミが悪人に仕立てたりしませんように……

 下ではみんながマットを準備して、私の落ちるのを待ち構えている。私は指同士を組み合わせて、つかの間祈りを捧げようとした。けれども、自分はキリスト教徒でも、ましてや仏教徒でもない。駄目だ。にわか作りの宗教にすがるな。私は両手両足をぶらんと垂らしたままで、立派に撃たれてみせるんだ。ああ、それにしても、こんなジェスチャーじゃ駄目だ。まるで犬じゃないか。それでいて、祈りを捧げるべき相手さえいないのか。皆様から馬鹿にされるのももっともだ。最後の瞬間まで、演出が台無しだ。友人が銃を構えている。全員の視線が、私に釘付けにされている。そして、いま……

 ところが、観衆の後ろから、真っ黒なとんがり帽子がひるがえったかと思ったら、いきなり中空に、一人の少女が舞い上がったのである。

「ちょっと、待ちなさいよ」

甲高いひと声に驚いて、群衆が振り向くと、今こそ全員の頭上に、黒ずくめの乙女が浮かび上がった。わっとしたどよめきが起こって、ブラウンが慌てて銃を引っ込めた。

「魔女だ」

「ウイッチクラフトだ」

群衆から叫び声があがった。中には指さすものもいるほどだ。

「ウイッチクラフト? 馬鹿にすんない、あたいは信奉者じゃないよ。あたいが崇められべき存在なんだ」

そう言いながら、彼女は勢いよく天井目がけて羽ばたいた。しかも箒なんてどこにもない。両手を広げただけの姿で、跨(またが)るものなど何もなく、自由自在に飛翔するのである。スカートがふわりとひるがえる。軽やかで、ゆとりがあって、断然格好いい。ジェスチャーに嘘がない。飛翔にリズムがある。一方の私は、救世主の到来をなみだ目に見つめながら、

「た、助けて」

と情けないほどの醜態ぶりである。まるで二足歩行と四足歩行くらいに、飛行に開きがあることを目の当たりにして、私は涙が出そうなくらい悔しかった。

 彼女はついに私の手を握りしめた。なんだか、にやにや笑っている。

「怯えてんじゃないわよ、だらしないわねえ」

それから、ぷかぷかする私を引率して、彼女は床まで運んでくれたのであった。その場面は、まさに動物を引率するお姉さんの姿に、誰の目にも映ったに違いない。人々の拍手が響き渡った。

 それでも浮かび上がろうとする私を、

「いい加減になさい」

と咎めた彼女は、片手でおでこのあたりを、

「ピシャリ」

と平手打ちにした。

「ドシン」

と浮力を失って、私は無様な尻餅をついたのであった。ベタ足並みの鈍重さ。また城内から歓声が沸き起こった。そこには多少のあざけりさえも、込められているように思われたくらいである。

 やがて城主が、

「これはこれは、ようこそお越しで。我が城への魔女の訪問は、実に三世紀ぶりのことであります。どうか皆さんに紹介させていただきたい」

なんて慇懃に挨拶をし始めた。彼女は一躍スターに躍り出たのである。

 華やかな宴が再開された。誰もが彼女のために浮かれ騒いでグラスを傾けた。宮廷楽団が華やかにワルツを奏で始めると、彼女はそれに合わせて、空中でダンスを踊って見せたりするのであった。

 それにしても、なんて優雅なんだろう。すばらしいリズム感。そうなんだ、言葉とジェスチャーとが一致しているんだ。無理に言語に結びつかない抑揚をつけて、いびつな動きを作ったりはしない。言語と動作とが噛み合っている。本当の飛翔とはこれであったかと、私は情けなくも悟ったのであった。傍に控えていたブラウンが、

「大丈夫ですか」

と心配してくれるのが、恥ずかしくて仕方なかった。



 こうして私は、ようやく事なきを得たのであるが、もちろん、それだけでは済まなかった。私は隣室に呼び出されて、彼女からずいぶんなお叱りを受けることになってしまったからである。

「ちょっとあんた、出来もしないのに魔女の真似するんじゃないわよ」

「いや、私はただ、テレビで見ているうちに、ちょっと飛べるようになったものだから」

「それがサル真似っていうのよ。だいたいあんた日本人でしょ、伝統にもないことするんじゃないわよ。飛行に必要なリズム感を、まるで持ち合わせていないじゃない。そんなところまで西欧に憧れちゃうわけ」

とずいぶん酷いことを言うので、私だってちょっと腹が立ってきた。

「何も知らないのに、えらそうなこと言うなよ。日本にだって、空を飛ぶ妖怪くらい居るんだ」

「なんですって。妖怪なんかと一緒にしないでよ。魔女はね、ちゃんと人の姿を保ってんのよ。そういうのが居るなら、今すぐ教えてごらんなさいよ」

「ええと、あの、幽霊とか?」

「ちょっと、あんた、舐めてんじゃないわよ。あたいら生身の体なのよ、生身の体。分かってんの」

「いや、その、まあ、名前は知らないけど、いない訳じゃないんだ」

「ようするに、なにも知らないんじゃないのよ。あたいらだって、あんたの国のことは知らないけど、自国の文化の英知くらい、ちゃんと叩き込んでから飛んでんのよ。伝統があんのよ。歴史の重荷で羽ばたいてんのよ。分かる? 見よう見まねで、飛んでみた挙げ句、降りられなくなるなんて、まるで教養が足りないじゃないのよ。伝統を背負ってないから、そんな惨めったらしいことになるのよ。ジェスチャーとリズムが一致していないのよ。あんた、自国の伝統、なんか持ってんの。本当は空っぽなんじゃないの。ねえ、どうなのよ」

「それは、まあ、ええと、その、なんというか……ごめんなさい」

 私はその後、三時間ものあいだ、一方的にお小言を食らったのであった。ひょっとしたらあの時、銃に撃たれていた方がマシだったかと、彼女の弾丸に打ちのめされながら、私は考え込んでしまった。確かに自分には、伝統に対する教養が足りないらしい。外国へ出て糾弾されるのも、もっともな話ではある。そしてそれ以来、私はもう羽ばたくことの出来ない男になってしまったらしかった。

 すこしは勉強をしなければならない。それだけが唯一の収穫であった。

2010/3/26
2010/3/28改訂

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