水の夢

(朗読)

水の夢

 水にまつわる夢なら沢山ある。しかし、イメージの残照ばかり並べてみても、物語は帰ってこない。その場で記さなかったから、泡沫となってどこかに消されちまったのである。今ではがらくたみたいに、記憶の淵にスナップ一枚を残すばっかりだ。その代わり、それさえ拾ってくれば、風景だけなら幾らでも浮かんでくる。

 例えばこんな夢がある。マリモの住みそうな清水を湛えて、澄みわたる寒冷の湖が、森林のなかにぽっかり浮かんでいる。彼岸は針葉樹林に覆われていて、此岸(しがん)には赤土がせり上がったような岸辺に、わずかな平地(ひらち)が残されている。波際に近寄ると、魚が泳いでいる。魚は鯉ほどの大きさの鮒(ふな)である。なんだか馬鹿にしているが、釣り竿を持っている以上、それを釣り上げるつもりだったのだろう。踏み付けにした足場が、岩盤だったか砂だったか、それすら定かではない。魚籠(びく)もあったが、魚は入っていなかった。前に来たことがあると思ったが、それでいて、現実世界にそんな場所は見たこともなかったのである。

 それから急転直下である。なんでも川を伝って工場へ行った。なんの工場だか分からない。窓から侵入した気がする。つまりは不法侵入だった。それでいて関係者だったらしい。なんだかさっぱり分からない。今となっては、それだけの記憶である。

 例えばこんな夢もある。自分はそこがインドだと信じている。謎の遺跡への訪問である。集団旅行だったらしい。日射しの届かない樹林の奥へと、天然の歩道が続いている。なんの整備もされていない。人の歩いたところが道になった様子だった。

 そこへはたしか、『光の遺跡』から入ったんである。沢山の観光客と一緒に、石畳の上を見学したり、池に掛かる橋を渡ったりするうちに、水源を知りたくなったのに違いない。いつしか観光客とはぐれて、樹林へと乗り込んだのである。川沿いはどこまでも続いていった。

 不思議な塔が見えてきた。水面(みなも)から突き抜けて、紫の仄光(ほのびか)りを放っている。まるで紫水晶(アメシスト)の内側から滲み出たような、静かな灯しであった。近寄ってみると、湖も淡い発光をみせている。覗き込んでみたら、歩道が翠玉(エメラルド)じみたプレートで敷き詰められていた。もちろん水の中だ。橋が架けられていたが、それもまた水の中である。高い建築のところだけは、首から先を水面に付き出して、その所々には、薄い羊羹を光らせたような、オブジェが修飾を加えているのだった。

 すべての真ん中に君臨する紫の塔は、女王のプロポーションのような滑らかさで控えている。それがタージマハルみたいな、イスラーム圏を思い起こさせるのだが、そこがどうしてインドなのかは、信じ切っている私にすら理由が分からなかった。

 あるいはこんな夢もある。海で遊んでいた。どこから苦情が来ようと海である。けれども波はなかった。膝の深さを保っている。右側は町並みになっている。自分はじゃぶじゃぶしながら、巨大な橋の下をくぐり抜けた。それは海に向かって走る車道であった。無茶には違いないが、夢の話だから手の施しようがない。くぐり抜けたら水平線が広がっていた。それでいて波がない。波がないどころか、足もとはきれいに舗装されている。丸石を並べたコンクリートで、温泉場みたいに整備されているのである。自分は裸足であるから、なめらかな感触が伝わってくる。それでいて海である。どこまでも続いている。自分は沖を目指して歩いていく。ただそれだけのことであった。

 時には、凄惨を極めることもあった。自分はタクシーで、公道を走っていた。くすんだ空に、やがて雨が降り出した。寂しげな光景であった。すると突然、車道に水が流れ込んできた。タクシーの動きが止められた。洪水が起こったのである。

 前後関係なんて分かるはずがない。自分は慌てて飛び出した。早く、高いところへ逃れなければ。足許がすくわれるくらいの急流である。

 町じゅうに人が溢れ返った。誰もが懸命に屋根に登ろうとしている。自分も丈夫そうな屋根に這い上がった。水の上昇が半端ではない。間に合わなかった人々が、息継ぐ間もなく流されていく。まるで濁流の湖である。家まで流され出したので、自分は電信柱へ飛び移った。かえって心許ないような気もするが、その時は一心不乱だった。一番最後は、街路灯のてっぺんの、ライトの部分に掴まって、迫り来る水に怯えていた。

 建物が怒濤のごとく流されていく。人が溺れながらに視界から遠ざかっていく。自分もこれまでかと観念した。雨はなおさらに打ち付けて、頬が痛いくらいである。嵐はまだ、終わりそうもなかった。

 それきりどうなったか分からない。自分は地震の大津波の映像を、夢のなかで回想していたに違いない。記憶が途切れたところを見ると、溺れるか目覚めたかしたんだろう。

 あるいは、もっと定番の夢もあった。入口を閉ざされて、水が注入される夢である。もちろん、悪い奴らに封じ込められたのに違いなかった。しかし仲間がいた。知らない顔ばかりだったが、みんなで脱出を試みていた。すると、ぎりぎり天井に装甲ガラスがあって、それを叩き割ったら、逃れることに成功した。悪い奴らは、よっぽどの間抜けどもには違いなかった。

 他にも、驚くほどの急斜面の砂浜で、海水浴をするでもなく、寝そべっていたこともあった。ひとつの巨大な公園が、まるごと湖になるという夢もあった。沖縄の海にも何度か訪れた。もちろん現実の沖縄の海とはまるで違っている。これは仕事が嫌で、どこかに逃れたいときに見るらしかった。

 最後に、もうひとつだけ紹介しよう。そろそろ小説風にしておかないと、クレームが殺到するに決まっている。小説と信じて読んだ時間を返せなんて言われたら、私としても手の施しようがなくなってしまう。

 私はある夢で、汚らしくも巨大な橋の下を、ボートで突っ走っていった。コンクリートの橋脚が土台となって、鉄筋をサポートしつつ、首都高速を支えているような、恐ろしく淀んだ大河である。私は疑いなくその夢を見た。そうして、それがどこであるかまるで知らなかった。

 ある日、テレビを見ていると、同じ風景に出くわした。驚いた。ひと目見るなり、夢の風景だと悟ったからである。私は、不思議なデジャビュを面白がった。何のことはない、そこは日本橋の下だかどこだか、首都高速を見晴らす川の流れに過ぎなかったのである。

 しかしこれは、超常現象なんかでは無いだろう。幼い頃のテレビや雑誌のイメージが、再起不能の断片となって、記憶の底に横たわっているのを、夢が拾い上げたに違いなかった。もちろん当人としては思い出せない。だから知らない風景だと錯覚する。しかし実際は以前に見ている。生まれたときからメディア漬けだから、こんな錯覚はしばしば起こるのである。幻視とか、初めての土地とかは、こんな調子で生み出されるに決まっているのだ。

 むしろ不思議なのは、せっかく残されていた夢の風景が、視覚情報に上書きされて、思い返せなくなってしまったことである。どうしてもテレビの風景が先に浮かんできてしまう。せっかくの物語まで、一緒になって消えてしまった。つまりこれも小説に成りっこないんだが、それじゃあんまり済まないんで、別の夢をつなぎ合わせながら、プロパガンダ風味の小説を仕立ててみることにする。



「こんな巨大な橋を渡して、交通の大動脈を担う下にも、壮大な景観が広がっているんでさあ」

ボートの運転手の説明が、あまりにも虚しいくらい、あたりの景観はみすぼらしかった。ドブのような水、灰色の淀んだ陸橋、色彩に乏しいくすんだ空、騒がしい騒音、私には人生の掃きだめとしか思えなかった。圧倒的なスケールで穢れを集積させたら、こんな川が生まれるかもしれない。この汚れた水の一滴ずつは、どのようにして終末の姿に辿り着いたのか、これが水の望みだったのかと思うと、ちょっと情けないくらいである。私はつい、ここから逃れたい一心で、

「おい、幾ら出したら、一日私に付き合ってくれるんだ」

と尋ねてみた。

「二両でいいでさあ」

というので、懐から手渡すと、

「それでどこにお行きで」

なんて聞いてくる。

「上流に決まっているだろう」

と答えてやった。

「最近、上流に行く奴が多くてねえ。澄んだ空気とかに憧れちゃうんですかねえ。上流なんか行ったって、遣ることなんか何もありませんよ。みんなすぐ帰ってくるんでさあ。そうして、温泉の話ばっかりですよ」

「いいじゃないか。お前の賃金は変わらないんだろ」

と言ったら、

「ごもっとも」

といってエンジンを全開にした。ボートは風を切って走り出す。あたりは一面の殺風景で、気持ちよくも何ともない。排ガスを吸って走り出すと答えた方が、まだしも正確なくらいである。私はボートの床に寝転んだ。とても見ちゃ居(お)れなかったのである。

 幸い夢は見ないで済んだ。近頃は、空を飛び損ねたり、赤い雪が降ったりと、さえない夢が続いたので、私はちょっと夢恐怖症になっていたのである。ようやく体を起こしてみると、すでに両側には森林が広がっているではないか。

「なんだ、もうこんな自然の中に来ていたのか」

と思わず呟くと、

「あんまり気持ちよく寝てるんで、起こしちゃ悪いかと思いましてね」

なんて笑っていやがる。

 日は少し陰ってきた。しばらく景観を楽しんでいると、湯治場みたいな宿並びが見えてくる。操縦士が、最上流の船着き場だと説明するので、ボートから乗り出して眺めていた。川は下流とは比べものにならないほど、きれいな水を湛えている。両側はコンクリートで固められているが、冬にも負けないような、針葉樹林帯が広がっていた。

 船着き場に到着すると、私は、

「ありがとう」

といって、運転手に別れを告げた。

「戻ってきたら、話を聞かせてくださいよ」

ひとつ手を振って、舟は岸から離れていった。しばらくここに滞在してみるのも悪くない。しかし、西の空にはまだ太陽が残されている。あれが落ちる前に、もう少しだけ、川を遡ってみようか。

 この温泉場に到っても、川はコンクリートで固められていた。私は、むかし母親に聞かされた童話を思い出した。それは、景観を亡ぼして、安全と効率をのみ求める村と、景観を残しつつ最善の方策を模索する村という、二つの村の物語であった。なんだか遣りきれない気持ちが沸き起こってくる。

 ぜんぜん冴えない温泉場じゃないか。価値観の豊かさが、どこにも見られないじゃないか。宿街を歩いていたら、コンクリートの囲いから排水が流れ込んでいた。まだ残るわずかな淀みの原因は、この温泉場にあったのか。見渡せばここにも、安っぽい商品看板や汚らしい張り紙が、無頓着に宿泊施設を彩っているのだった。

 町には家電量販店もあった。しかし品物は少なかった。カラオケ屋もあった。しかし機材は最新式ではなかった。もちろん観光客のためには、土産屋が並んでいる。温泉宿が並んでいる。しかし、それだけのことである。新しい価値観に触れるでもなく、人々は大自然と温泉を楽しんで、やがて物欲が満たされなくなって、流れを下っていくらしかった。

 もうしばらく川を遡ってみよう。時計を見ると十五時を過ぎている。冬至も近いのだし、無理は禁物だが、あと少しくらいなら大丈夫かもしれない。

 宿街の外れまで来ると、コンクリートに囲った川の岸辺に、ようやく枯れ草の大地が連なり始めた。私は階段を見つけると、そこまで降りていった。土の上を歩きたかったからである。

 通りすがりの巡査が、

「水が冷たいから、間違っても川にだけは落ちないでください」

とわざわざ注意してくれた。心臓麻痺で死んだ奴でもいたのだろうか。私が、

「ありがとう」

と手を振ると、自転車は遠くへ過ぎ去っていった。長閑なものである。

 枯れ草を踏みながら進んでいくと、自然と触れたような嬉しさがこみ上げてきた。かなた舗装道路の方では、人々が川沿いを歩き回っているらしい。あるいは上流に、神社でもあるのだろうか。そんな雰囲気の行列だった。

 温泉場を抜けると、水はすっかり澄んできた。ところが足の周りを眺めると、小さなゴミが至る所に転がっているのである。私はがっかりした。あんまりにもお粗末な温泉場ではないか。観光業のくせにゴミを放置しておくなんて、下流と精神が変わらないじゃないか。この国では、全国津々浦々、価値観に変化が見られないのだろうか。あまりの醜態ぶりであった。

 もちろん聞き手なんかいないから、邪魔をする丸太を乗り越えたり、行き場がなくなってフェンスに掴まったりしながら、憤慨ながらに遡っていくのである。おかしな奴がいると、観光客に後ろ指を差されなかったのが、せめてもの救いだった。

 ほどなく、彼らの目的地が近づいた。川がついに陸路を諦めて、ポッカリくり抜いた水路の内側へと、潜り込む現場に到着したからである。道路脇には鳥居があって、観光客はそこをくぐり抜けていくらしい。大方、水源様をでもお参りするのだろう。ここで参拝して、温泉を楽しんで、お土産を買って都内へ戻っていく。それが彼らの、余暇のフルコースになっているらしかった。

 しかし、私にはまだ先があるのだ。水路の内部に向かって、ちゃんと歩行可能な領域が、整備されているのを発見したからである。もちろん参拝客にとっては、どうでもいいことには違いない。しかし私には、上流を極めるという使命が残されている。そう思って、懐中電灯すら持たないくせに、水路へと滑り込んでしまったのであった。

 不思議なことに、水路には明かりが灯されていた。それだけではない、川は凹型に整備され、ところどころに水路灯まで設けながら、どこまでも歩道が続いているのだった。こんな忘れられた観光施設が、どうして息づいているのだろう。私は迷わないように、念のために軽石で印を付けながら、直角に曲がりゆく水路を、進入したときと同じ方向へ、同じ方向へと歩いていった。分岐点が幾つにも分かれていて、いささか迷宮じみた作りになっていたからである。

 水路を覗いてみると、魚が泳いでいる。それほど速い流れではない。それにコンクリートではなく、レンガを敷き詰めてあるのがちょっとおしゃれである。あれほど景観に無頓着な温泉場には、相応しくないほどの水路である。そうして誰もいないのに、無駄に電灯が点されている。それとも普段は、人通りがあるのだろうか。私は、声を跳ね返して遊びながら、どんどん奥へと進んでいった。

 どれくらい遡っただろう。静かな川の流れに、乱数じみた響きが帰ってきた。川のせせらぎが岩に当たって、泡立ちながらに乗り越えるときの響きである。ふっと顔を見上げると、向こう側がポッカリと開(ひらい)いている。ようやく出口に辿り着いたんで、私は大急ぎでそこをくぐり抜けた。

 急にのどかな風景が開けた。川はもう、コンクリートで痛めつけられてなどいなかった。自然の景観を損なわないように、配慮が行き届いているらしかった。もちろん、ゴミなど落ちてはいないのである。遠くに集落が見える。結構な住宅が並んでいるので、私はそちらに向かって歩き始めた。

 田畑が棚段に連なっている。しかし電信柱は見られない。電線は地中をでも通るのだろうか。所々に街灯のための木柱が、暖かい光を放っている。てっきり昔の白熱電球かと錯覚したが、よく見ると違っていた。LEDライトで昔の情景を演出しているらしいのである。

 果たしてここは新しい村なのであろうか。よく見ると、住宅だって古くはないのである。ただ外装を伝統的集落と偽装して、村の景観を統一しているらしかった。私はちょっと驚いたくらいである。

 遠くの原っぱでは、子供たちがはしゃぎ回っている。夕暮れが近づいて、次第に空が移り変わる森のかなたを、烏がおのれの住処(すみか)へと帰っていく。なんだか懐かしいような気持ちがした。そうこうするうちに、集落まで足を踏み入れたのであった。



 そこには学校があった。沢山の子供たちがいた。老人の村ではなかった。いにしえからの住民でもないという。私は一軒の民宿に滞在しながら、人々の暮らしを眺め出したのである。

 そこは新しく作られた村らしかった。そこで生まれて、そこで成長し、かといって故郷を離れることなく、そこで仕事をこなし、老いていくための村だといった。老人が死ぬよりも多く、若者が子供を産むのだといった。それを保つことが、あらゆる活動の源になるのだといった。

 子供たちは、快活を旨としていた。おしゃれは若さを失った者が、代替的に獲得していくものだと説明された。だからといって、みすぼらしい服装(なり)ではなかった。そして年配になればなるほど、立派な服装で身を固めていた。安物の服装や、安物の看板は、景観にマイナスに作用し、翻って住人の心を乏しくするものだから、貧弱な服装は金がなくても着ないのだそうである。それでもその村には、機織りの伝統が復活され、それほど金銭を出さなくても、立派な服を着ることが可能だった。しかもそれは、市場に出回る既製品ではなく、その村だけのオリジナルであり、流行でもあり、ファッションでもあるから、どんなに大企業が資本を提携して、中小企業を押しつぶそうとしても、この村の服を画一化することなど出来ないという話しだった。そうして彼らは、それをインターネットで販売しながら、生計をさえ立てているのだという。そして浴衣や、着物などを見かける比率が、日常茶飯事なくらい、彼らは普段着に和服を着こなしてもいるのだった。

 ようするに彼らは、生粋の都会っ子たちの、上流に遡った探求者のうち、温泉以上のものを見いだした、一群の集いであるらしかった。彼らは常に集会を開き、生活の指標や目標を議論している。決定よりも、その討論の過程こそが、人々の生活を高めるのだそうである。川を鋪装しなかったのも、氾濫のリスクが多少あろうとも、毎年人手を掛けようとも、その景観と、子供たちの遊び場と、生き物たちの生活の場を、残すべきだと考えたからに他ならなかった。そうして、後世に伝えるべき子供たちさえ絶やさなければ、人手を掛けることは、むしろ楽しいことでさえあると説明した。

 彼らは石鹸を使用していた。それはエコロジーでは必ずしもなかった。ちょっとの工夫によって、それは十分な効率性を全うしていたからである。彼らはドレッシングを買わなかった。料理の「さしすせそ」や油を使えば、市販のものよりも美味しいドレッシングが簡単に作れたからである。ようするに彼らは、ローコストであるもの、それで必要十分であるもの、生産負荷の余計に掛からないもの、翻って無駄な金銭を払わないで済むものを指向していた。八百屋には地元のものを優先的に回して、生産と消費のバランスを保つことになっていた。大企業が大工場で野菜を作り始めても、それとは関わりを持たなかった。自分たちのコロニーで生産と消費が回っていれば、コロニー社会は豊かに継続されるからである。それでいてこの地の特産や工芸品は、ネットを通じて各地と繋がっていたから、決して閉ざされた村でも何でもないらしかった。

 彼らは快適な生活の犠牲と、シンプルで人間らしい生活との兼ね合いを、しばしば開かれる集会で、また特に主婦たちは、お決まりの道ばたや喫茶店で、話し合ったり、討論を戦わせたりしていた。だから漂白剤だって必要なときは使った。農薬だって必要なときは使った。ここでも彼らは、話し合うことによって関心を高めておきさえすれば、あとはコロニーのなかの傾向に任せてよいというスタンスを保っていた。その傾向を乗り越えてまで、禁止や条例を出さないように注意を払っていた。

 彼らはよく体を動かした。ちょっとした掃除には、雑巾がけやら箒を使うことさえ多かった。風呂を洗うのは、ちょうどいいくらいの体の運動でもあった。皿洗いはいつも、ものを考えるヒントを与えてくれた。だから自動洗浄なんて誰も使わなかった。むしろ下らないことを忙しがって、面倒を避けたがる精神こそが、遙かに有害であると考えられていたからである。その代わり、料理も片付も清掃も、家族全員の役割分担で行われた。女が料理を作るべきという考えも、親だけが料理を作って子供に与えるべきだという考えも、彼らにとっては前現代的であるように思われた。すなわち彼らは、誰もが共働きであった。

 日常生活で体を使うことが、自然のなかで体を動かすことが、健康の維持の基本だと分かっていたから、ジムのようなものは存在しなかった。日常で楽を極めて、スポーツセンターで汗を流すような、馬鹿げた発想はついぞ生まれなかったのである。しかしスポーツは盛んだった。学生はもちろんだが、主婦たちの間にはバレーもあったし、青年の野球チームは隣町と優劣を競っていた。誰もマシーンに乗って、横並びに同じところを走ったりはしなかった。そんなのは二流の発想だといって笑うのだった。

 老人も元気だった。彼らは大家族として同居する場合も、離れに暮らす場合も、施設で暮らす場合もあった。しかし村には彼らの役割が存在し、死ぬまで関わりを持つことが出来たから、生存の意味を見失わないで済んだ。延命には独自の基準が設けられ、無理に死にゆくものを引き留めないように配慮がなされていた。もちろんそれは、老人側からの願いには違いなかった。

 村には歳時記が生きていた。あるいはこれは、復活させたものかもしれなかった。頻繁に祭や催しが行われ、それらは、村人にとってもっとも楽しい、重要なことのように思われた。そうした楽しみが一年中あるおかげで、彼らは子供の頃から、テレビゲームなどに熱中する者はいなかった。もっともこれは、子供の自助努力でもなんでもない。未成年は大人が監督するものであるから、子供の教育に関しては、与えるべきものと与えるべきでないものとが、村の集会で定められていたからである。

 特に子供は、必ず労力の少ない強刺激に引かれるものだから、喜怒哀楽の痛みを伴わない、他人との関わりの乏しい強刺激に対しては、厳しい基準が設けられていた。それは必ずしも有害無害の論争とは関わらなかった。それ以前に、そのような遊びの情景しか回想できないような大人が生まれたら、どれほど憐れで乏しい生涯を送ることになるか、よく分かっているからに過ぎなかった。もちろん、限定的な世界を少しずつ拡張していく段階であるから、ネットやメールにも基準は欠かせなかった。味方の振りをして情動を弄んで、結局は金銭や視聴率を巻き上げるだけの、テレビドラマや漫画などにも、独自の基準が設けられていた。けれども、そのような環境で育った子供たちは、不満なんか持つことはなかったのである。

 学校で生徒たちは、卓上で唱えるばかりではなかった。歴史を覚えさせるためには、縄文の服を着せ、食事を取らせ、縦穴で生活をするなど、可能な限りの実践が重視された。化学の実験には村人も顔を出すことが多かった。星を見るときは、一つの祭りのようになって盛り上がった。流星群の晩には、鍋で料理が運ばれたりするのだった。

 授業では、人とは何であるか、善とは何であるか、人を殺すことはなぜいけないのか、民主主義の定義やら功罪についてなど、反対の立場を否定せずに、指向性を持たせずに、年齢なりに議論を尽くすことが、幼稚園の頃からずっと続けられていた。安易に教わったことを真と定めずに、常に改まって正邪曲直(せいじゃきょくちょく)を判断すること、それが教育の要であることを、彼らは知っていたからである。だから討論においては、点数が付けられることなど決してないのであった。

 ただ高校については、これはど小さな村であるから、設置が困難であるとぼやいていた。しかしここでは学校の先生すら、同じポリシーを持った同胞によって構成されているのだそうである。いずれは価値観を共有する村々で共同出資したら、お受験一辺倒ではない高校が出来るかもしれない。そう期待しているらしかった。

 彼らの村は、次第に同胞を募って大きくなっていくらしかった。もしこれがやがては町に、市にまで成長したならば、今の社会とは少しだけ価値観の違う、地域社会を形成することが出来るのではないか。彼らは、ひそかにそう期待してるらしかった。やがてはその新しい価値観が、国を乗っ取って入れ替わることをさえ、彼らは夢見ているように思われてくるのだった。

 もちろんそれには、この水路のかなたに広がる小さな村だけでは、領域が狭すぎるのかもしれない。けれども、それほどの心配もなかったのである。この村はかえって、反対側の集落へは開けていて、まるきり人里離れた土地という訳ではなかった。自動車ばかりには頼らないといっても、バスの往来は定期便が運行していた。いくつかの村々で共同管理しているのだそうである。まるで行政のあずかり知らないような自助努力が、こんな水路のかなたに、村落をまたいで広がっていただなんて、私は思いもよらなかった。

 もちろん、村が大きくなればなるほど、新たな問題が山積みにされ、なかに暮らす人々には、はた目には分からない苦悩も増えていくことだろう。今だって、どれほどの矛盾を抱えながら、村を維持しているのか、分かったものではないくらいである。けれども、私は決心した。もうその水源を都会へは下らずに、この村で生活をしようと決意したのだった。いつか落ち着いたら、住民票を移し替えようと思っている。ただ、それだけの夢だった。

2010/4/6

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